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「お腹空いた!」
塾の部屋に入ってくるなり、5年生の剛(つよし)が叫ぶように言う。
「お腹空いたなんて言ってもここは塾だからどうすることも出来ないよ!辛抱して早く勉強始めないと!今はもう4時15分だから15分も遅刻して来たのよ!判っているの?」
壁に掛かった時計を見ながら個別講師の私は決して怒ったりしないで思いっ切りやさしい声で言う。
「そう言うても俺、お腹空いて堪らんわ!もう我慢出来んわ!」
「そんなに空いてるの?」
「うん」
見れば、剛は目に涙まで溜めている。
まるで五月人形のようにふっくらと凛々しい顔立ちをしていて、きっと今に水も滴る美しい青年になるであろうと予想されるが、本人はまだ自分の顔立ちの良いことなんか全く意識していないので、今日も多分、今まで外で思いっ切り遊んでいたのだろう。
頬っぺたが泥で汚れて、おまけに今は涙なんか出てしまったついでに、鼻水まで出て来る始末で、それを全て手で拭うものだから、汚いの、なんのって、どうしょうもない。
戦後だったら兎も角、今時こんなタイプの少年は滅多にいないだろう。
「はい!これを使って!」
バッグからティッシュを取り出して渡す。
「一体どうしたって言うの?泣くほどお腹空くなんて!」
「母さんにお腹空いたから何か買うてくれと何回言うても、何にも買うてくれへんかった!俺の母さんっていうたらな!ずっと、仕事ばっかりしていて俺のことなんか、ちっとも構ってくれへんねん!弟とか姉ちゃんのことやったら色々構ってやってるのになぁ!俺、母さんのことなんか、もう大嫌いや!」
剛の母親は確か美容師である。
「そうなの!それは仕方ないわよ!お仕事は大切だから、お腹空いたことくらい我慢しないといけないよ!」
「うん、判ってるけど・・お腹空いてるねん!」
塾で剛の国語の勉強を受け持つようになってから、早いものでもう1年余りになるがこんなことは初めてである。
最初はスクールで複数の生徒の中に混じって算数と国語の勉強をしていたらしいが、国語のテストで0点を取って、それから付いて行けなくなったということで個別専門の私が担当することになったという次第で、結局今では算数も国語と同様に個別で他の講師と続けているのだった。
勉強が出来ないという生徒に共通していることは集中力が無いということであるが、剛の場合もそうである。
多分、親の愛情が充分足りていない場合にそうなるのではないかという気がするが・・10分も勉強を続けると、我慢出来なくなって、決まったように問題集に鉛筆で落書きを始める。
あちこちに縦や横の線を引き、グルグルと渦を描き、答えを書いているのかと思えば、そうでは無くて、限りなくどこまでも続いて行く意味のない文字の羅列であったりして、まるで幼児のような行動をとる。
たまに正解が出たりすると、自分で赤色のボールペンを出して思いっ切り大きな花マルを描き、その下に100点!と書いて喜んでいる。
算数を受け持っている講師は男性だから多分、剛には厳しく接している筈だと思うが、私はそういう場合もどういう場合も決して叱らないという態度で接している。
意識的にそのように接しているのではなく、そういう態度で接してしまうと言った方がより適切であるが・・
愛情には厳しい愛情と優しい愛情があって、子供にはそのどちらも必要であるから、算数の講師と私とで丁度バランスがとれていて良いはずだとも思っていたし。
落書きをせざるを得ないような情況があるからこそ、そのようにしているのだから、この際、したいことはしたいだけさせて上げようという気持ちである。
「本当にお腹空いているのね!」
「うん!空いてるよ!今にも目が廻りそうや!」
「そう・・駐車場に私の車置いてあってね。車の中にパンが一つだけあるのだけど、それを食べる?」
実はそのパンはこの勉強の後、他の塾に行く時にお腹が空いては困るので、私が自分の為に先程スーパーに立ち寄って買ったものであるが、この際仕方ないので、剛に提供することにしたのだった。
「うん、食べるよ!」
「じゃぁ、ちょっと、この儘待っててね!取りに行って来るから!でも、このことは誰にも言っては駄目!内緒だよ!塾の他の先生に見付かったら、とんでもない事になるからね!」
「とんでもない事って、どんなこと!」
「私が首になるってことよ!」
「首になるってどういうこと?」
「仕事を辞めさせられるっていうことよ!判った?」
「判ったよ!」
剛のその時の嬉しそうな顔といったら、今でも忘れられない。
急いでパンをムシャムシャと食べ終わると、漸く落ち着いたのか少しだけ勉強すると、間もなく定刻の時間になってしまって、あっけ無くその日の勉強が終了したのだった。
あれから1年経ったが、剛との国語の勉強は今も続いている。
相変わらず、勉強は出来る方ではないが、集中力だけはかなり付いてきた。
だから、きっと今に実力が付いて勉強が良く出来るようになるという希望がある。
「俺なぁ!国語が一番好きやで!担当の先生のことも物凄く気に入っているし!」
「そう、ありがとう!わたしも剛君のこと大好きよ!」
時々、まるで恋人同士みたいな会話をする二人である。