MoMo太郎日記

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Dec 4, 2025
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カテゴリ: 芸能スポーツ
吉原弁財天は、吉原神社(→→→​ こちら

こちらは、新吉原花園池(弁天池)跡という史跡になっているようで、新吉原というのは、かって江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたのですが、明暦3年(1657年)の大火後、幕府の命により湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊廓が移されたことから、「新吉原」と呼ぶそうです。また移転前の遊廓を「元吉原」と呼ぶそうで、吉原から日本橋へ進出した蔦屋重三郎は、吉原発祥の地へ戻ったということでしょうか。

新吉原の建設後、その池の一部が残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、花園池・弁天池の名で呼ばれるようになり、弁天祠は遊廓楼主たちの信仰をあつめていたそうですが、大正12年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死するという悲劇が起こりました。

築山に建つ大きな観音像がありますが、

その時、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものです。

こちらが弁財天本宮社殿への参道となります。

弁天池は、この神社の裏手にある吉原電話局(現在のNTT吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため昭和34年に亡くなりましたが、その名残を残すためでしょうか、滝と錦鯉の泳ぐ池が造営されています。

弁天赤富士の滝という名称がついています。



吉原弁財天の扁額です。

境内にあった板碑です。
篆書体で書かれた漢文で、どういう意味かはよくわかりませんでしたが、これはおそらく新吉原建設の経緯を記したものかと思われます。

こちらの石碑は、「花吉原名残碑」(→→→ こちら )です。

こちらの案内板によると、この花吉原名残碑は昭和33年「売春防止法」の成立によって廃止されたので、その名を残こすために、昭和35年地域有志によって建てられたものです。
ちなみに吉原と呼ばれるようになったのは、植物の葭の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに縁起の良い文字にあらためたことによるのだそうです。
そして、この碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古によるとありました。

こちらにあるように、吉原神社は「吉原神社(九郎助稲荷)」と「吉原弁財天」の2ヵ所あるということですから、当然、吉原神社(九郎助稲荷)にもお参りしましょう。

(吉原を歩いたコース)

【つづく】


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Last updated  Dec 4, 2025 12:10:05 AM コメント(10) | コメントを書く


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