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国道289号が只見川を渡る常盤橋です。常盤橋から見た只見川です。この川は日本海に向かって流れています。国道289号は、新潟県新潟市中央区から福島県いわき市に至る、日本列島を西から東に横断する一般国道です。しかしながら、新潟県三条市から只見町に至る、両県境をまたぐ「八十里越」と呼ばれる区間のうち延長19.1 kmの区間は自動車の通行不能として残っています。一里は4kmと言われているので、三条市下田地区から魚沼市の北端部を経由して只見町に至る街道は31kmは、八里くらいしかないのに、「八十里越」と呼ばれているのは、急峻な山道なので、一里を十里にあてて「八十里越」と呼んだのだそうです(→→→こちら)。その「八十里越」も、令和9年夏には暫定開通する予定だそうです(→→→こちら)。そうなれば、一度、その「八十里越」をドライブしてみたいものです。ひっよとしたら、来年の夏はこの交差点を右折して、新潟県三条市に向かってドライブしているかもしれませんね。只見町の市街地にあった、旅館です。看板には、日本旅館協会会員と書いてありましたが、確かに日本旅館という風情の外観でした。この建物は、「ふるさと館田子倉」(→→→こちら)という施設です。入場料は、「ただみ・ブナと川のミュージアム」と共有で310円をどちらかで支払えば、両方を見学できます。この施設は、田子倉ダム建設に伴い、湖底に沈んだ田子倉集落の記憶を後世に残すことを目的とした資料館です。田子倉集落出身の皆川弥(わたる)氏が私設資料館として解説し、皆川氏の没後は町が意志を継いで取得し、現在は只見ユネスコエコパーク(→→→こちら)の活動拠点にもなっているそうです。ちなみに田子倉ダムは「たごくら」と読むのですが、地元の人は「たぐら」と呼んでいたそうです。昔はもっと綺麗だったと思われる、きれいなお姉さんが中を案内してくれましたが、写真撮影は禁止されていたので、写真はしょうかいできません。展示物は、かってあった田子倉集落の生家と文化、只見川流域における電源開発の歴史と人々の生活、只見線の歴史などが展示されていました。中でもMoMo太郎の目を惹いたのは、田子倉ダムと問題と文学作品に関する展示でした。ダム建設をめぐる移転交渉や反対運動に関する展示があり、この移転交渉は当時の大きな社会問題となり、そのことを題材とした小説もあったそうです。城山三郎の「黄金峡」(→→→こちら)や曽根綾子の「無銘碑」(→→→こちら)といった作品があるそうです。特にこの家屋の持ち主であった皆川文弥・弥親子は曽根綾子氏と懇意にしていたようで、書簡なども展示されていました。ちなみにこの家屋は、皆川親子がダムの補償金で建てたものです。今で言えば、八ッ場ダムなどの周辺に立派な家が建っていますが、それもおそらくダムの補償金で建てたものでしょう。そして、駅前にあったこの建物は、駅前旅館(→→→こちら)です。こういう旅館があるということは、田子倉ダムや只見ダムに関係する電源開発の関係者の皆さんが利用したりするんでしょうか。こちらの只見町インフォメーションセンター(→→→こちら)は、観光案内、おみやげ、軽食の提供、また登山や自然散策などのガイド紹介をしてくれる施設です。そして、只見駅前に戻って来ました。次はここからMoMo太郎がトヨタ製のBMWと思っている愛車で田子倉ダムを抜けて魚沼市に行き、東京に帰ります。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その14) 只見町の中心に戻って来ました
Sep 27, 2026
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ちょっと急峻な山がありました。おそらく蒲生岳(→→→こちら)という山でしょう。登山家の田部井淳子によって「会津のマッターホルン」と名付けられているそうです。只見ダム右岸側の道を歩き、只見ダムの放流ゲートが見えるあたりまでやって来ました。左岸側の山並みです。右岸側から見た只見発電所です。ダム下流側をさらに歩いて行くと、山へ登って行く道がありました。「奥会津ただみの森キャンプ場(→→→こちら)」へ行けるのですが、暑さで歩き疲れて、さらに熊も怖いので山の方へ入っていく気は起りませんでした。でもホームページで見るとなかなか設備の充実したキャンプ場のようでした。もう少し進んでいくと、芝生の広場がありました。公園として整備されているようですか、ここでキャンプは禁止でした。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その13) 只見ダム右岸の道を歩く
Sep 26, 2026
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只見ダムの最上流部にあるこの広場には、いくつかの石碑らしいものやお堂のようなものもありました。「石伏(いしぶし)由来の碑」という石碑があり、只見ダムの建設に伴って全戸移転となった石伏集落の歴史と、その際に石伏集落に眠る祖先の墓をここに移設し墓地公園としたということが記されていました。この自然石も墓石なんでしょうね。こちらは「家畜墓碑」という文字が刻まれていました。こちらは先人の霊を供養する供養塔のようです。こちらの建物は、お堂のようです。お堂の扁額には「子安地蔵 藥師如来 弘法大師」というありました。こちらは石伏集落にあった石仏群なんでしょうね。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その12) 石伏由来の碑
Sep 25, 2026
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万代橋を渡って只見ダムの右岸側に出たところにある広場です。この広場にあった石碑です。松尾芭蕉句碑がありました。只見俳句会という団体が建立した句碑ですが、「行く春や鳥啼魚の目は泪」という句は芭蕉が「奥の細道」の旅に旅立った日に詠んだ俳句として知られた句ですが、その下の「はせを」というのは何なんでしょうね。さらこちらにも、くずし字で読めませんが、短歌のようなものが刻まれた石碑がありました。石碑の裏には、「昭和四十九年十一月三日文化の日有志一同建立 皆川成一郎書」とも刻まれていました。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その11) 松尾芭蕉句碑
Sep 24, 2026
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国道252号を只見湖沿いにダムから田子倉ダムに向かって歩いて行きました。対岸を見ててみると、木立があってダム湖を一周する散策道になっているようです。国道252号には街路樹もなく木陰もなく暑い夏の強い日差しの下を歩いていると、道路標識がありました。新潟県の柏崎までは116km。魚沼までは55kmでした。魚沼までは昔の単位で言えば14里でした。ようやく只見湖を渡る橋のところへたどり着きました。橋の袂の広場にあったこの建物は、トイレでした。ここで用も足しておきました。トイレの横にあった只見町の観光案内図です。所々傷んでいるのがちょっと残念。こちらのトラス橋を渡ります。渋い焦げ茶色の塗装がなんとなく落ち着いた雰囲気を感じます。橋の名称は「万代橋」竣工したのは令和元年(2019年)11月。随分新しいなと思いましたが、昭和30年(1955年)12月に開通していた橋ですが、平成23年(2011年)の新潟・福島豪雨で被災したものを復旧したようです。幅員は乗用車がギリギリすれ違えるくらいです。橋の上から、下流側の只見ダムのダム湖です。満水面積は0.8km2。サッカー場は約7,000m2前後の広さがあるので、111面分の広さがあります。只見ダムの放流ゲートと発電用の取水ゲートです。左側の3つのゲートが放流用で洪水時にダムが満水位を越えないようするなどの水位調整するものです。右側はダムから発電用水を取水したり、下流側の河川が干上がらないように水を流すために使われるゲートです。上流側にあるのは田子倉ダム。こちらのダムの堤高は145mです。こちらのダムは岩石と土砂でできた只見ダムと違い、コンクリートで出来ているので、洪水は堤体の上にある放流ゲートを操作して、水位を調整します。そして、水はダムの斜面を流れ落ちてきます。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その10) 万代橋を渡りました
Sep 23, 2026
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只見ダムの近くにあったこの建物は、J-POWERの只見展示館(→→→こちら)という施設です。只見展示館は、福島県只見町にある水力発電をテーマにした学習施設です。模型や映像を通じて発電の仕組みを学べるほか、只見ダムの絶景を望む展望台やVR体験も楽しめます。しかし、福島県の山奥の奥会津にこのような水力発電所があり、我々もその電気を使っていると考えると、未だに先の見えない原子力発電所のことも含めて、我々の生活に必要な電力は福島県が生み出してくれていたのだと思うと、福島県には深く感謝しないといけないですね。こちらは展示してあった、発電用の水車の模型です。左側が田子倉発電所(→→→こちら)で使われているフランシス水車(→→→こちら)です。フランシス水車は内側に向かって流れる水を作用させる反動水車で、有効落差にして数十メートルから数百メートルの範囲で適用されるそうです。右側が只見ダム下流約13kmにある滝発電所(→→→こちら)で使われているカプラン水車(→→→こちら)です。カプラン水車はプロペラ状の羽根車(ランナ)の羽根の角度を調整できるもので、フランシス水車では不可能であった有効落差の低い発電所においても効率的な発電を可能とした水車だそうです。只見展示館の建物にある階段を登っていくと建物の屋上から只見ダムの展望台になっていました。展望台から見た只見ダムの堤体です。こちらはダム湖の方の展望です。ダム湖の最上流にある田子倉ダムです。ダムの堤高は145m、堤長は462mの重力式コンクリートダムで、総貯水容量は4億9,400万m3。ダム湖の満水位標高は510mになるそうです。ダム湖の水面にさざ波がたっていました。水鳥が飛び立つところでした。よく見ると小さな鳥の姿が見えているのですが、ズームが十分ではなかったので、わかりにくいですね。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その9) 只見展示館
Sep 22, 2026
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只見ダム(→→→こちら)へ到着しました。石碑には「只見ダム」と刻まれていましたが、陰になって上手く撮影できませんでした。只見ダムは、岩石と土砂を積み上げて造られたロックフィルダム(→→→こちら)です。Jpower(電源開発株式会社→→→こちら)が建設し管理運営している発電用のダムと水力発電所です。只見ダムの貯水池(ダム湖)です。山並みと青い空そして雲が水面に映っていて水の清らかさがわかります。ダム湖の一番上流には、巨大なコンクリートダムが見えました。このダムは同じくJ-POWERが建設し管理運営している田子倉ダム(→→→こちら)です。只見ダムはこの田子倉ダムにある田子倉発電所の逆調整池(放流した河水を平均化して下流への影響を最小限に抑制するための貯水池)として建設されたものです。田子倉ダムの直下流に橋が架かっています。MoMo太郎の目論見としては、この橋を渡ってダム湖を一周してくることにしています。こちらはダムの下流側です。ダムのある只見川は一級河川・阿賀野川水系の支流で、この水は日本海へ流れて行きます。ダムの放流ゲートから放流された水の勢いを緩めるための副ダムと呼ばれる施設です。ダムの放流ゲートの堰柱です。水利使用標識です。河川の水を利用するのには、このように国土交通省の許可を得ないといけないようです。こちらは只見発電所。この下に発電機があるそうです。発電した電気はここから電力の消費地に送られるのですね。こういう水力発電所って、他の発電施設(原子力発電所や太陽光発電所など)に比べれば安全で環境にも優しい上に出力の制御も容易なので、日本の国土には適した発電施設だと思うのはMoMo太郎だけでしょうか。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その8) 只見ダムへやって来た
Sep 21, 2026
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やがて、警報局の施設が見えてきました。この看板には、「この川の上流0.5キロメートルのところに只見発電所と只見ダムがあります。発電所で電気を起こすときや、ダムに貯まった水を流すときは、サイレンでお知らせしますので、そのときは危険ですから河原に降りないで下さい。」といったようなことが書かれていました。只見川の岸から只見ダムが見えました。望遠でダムの放流ゲートを撮影してみました。右岸側は発電した後の水が流れ出るゲートのようです。只見ダムの近くまで来ると、山小屋ロッジ風の建物がありました。歳時記会館(→→→こちら)という施設で、只見町の物産品の直売施設のようでしたが、もう営業はしていないようでした。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その7) 只見ダムの放流警報装置と歳時記会館
Sep 20, 2026
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国道252号を新潟方面に向かって歩いて行くと、次の目的地になる「ただみ・ブナと川のミュージアム(→→→こちら)」の看板が見えてきました。ここが施設への入り口です。奥に見えるちょっと変わった三角形の屋根の建物が、ただみ・ブナと川のミュージアムです。「ただみ・ブナと川のミュージアム」は、ブナを中心とした自然環境と、その自然を巧みに利用し暮らしてきた先人の知恵と技術を伝えるため、2009年に開館した施設です。入場料は、「ふるさと館田子倉(→→→こちら)」も両方入館できる共通券が高校生以上310円です。写真は撮影してもいいそうなのですが、個人での利用に限るとのことで、こういうSNSへの掲載は遠慮して、建物の外観だけにしますが、展示内容は充実してました。ブナと川に囲まれた自然豊かな土地での雪国での暮らしに関係する民具などを展示するほか、地域の地形と地質についての解説や展示。只見町のブナの森の自然を再現する植物の再現、本物の熊はいませんが、熊やシカなどの哺乳類の剥製、昆虫標本も展示されていました。さらに、水槽には本物のイワナが泳いでいました。入館料の310円以上の値打ちはある展示でした。こちらの見学の後は、只見ダム(→→→こちら)へ向かって歩いて行くと、建設機械メーカーのえいぎょ所がありましたが、只見町の他、近隣の檜枝岐村(ひのえまたむら)、昭和村などが保有する除雪ドーザーが駐車してありました。町や村が除雪をするのでしょうね。役場職員にはこういう重機を運転できる職員さんがいるんでしょうか。道路の脇にあった大きな木、道路の上まで覆いかぶさるように育っているのが面白くて撮影してみました。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その6) ただみ・ブナと川のミュージアム
Sep 19, 2026
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再び只見線の踏切を渡ります。草に覆われいますが、ちゃんと列車が走っている線路です。この後、新潟県小出行の列車が走って行きましたが、線路脇で地元のご婦人2名が通過する列車に対して、両腕を大きく振っている姿を見かけました。地元の人にからは愛されている鉄道路線なんでしょうね。山の斜面が切り開かれて、スキー場になっていました。結構、駅近のスキー場なので、雪の季節には、車で来るよりも列車出来て、滑るのが楽でいいかもしれません。そういう意味では只見線があって助かりますね。この只見スキー場(→→→こちら)、一枚バーンの小さなスキー場のように思われましたが、スキーヤーの評判はどうなんでしょう。そして国道252号に出ました。国道252号は新潟県柏崎市から魚沼市を経て福島県会津若松市に至る一般国道です。道路の中央には、消雪パイプか通っていて、地下水で雪を溶かすのでしょう。大量の水やエネルギーを使っても、車が通行できるようにすることが必要なほど、住民生活にとって大切な道路ということですね。こういう施設のあるのも雪国ならではですね。こちらは道路脇にあるゴミ収集場所のようです。雪が降ってもゴミが収集できるように、屋根付きになっているのでしょう。こちらは駅前にあった、消火栓です。一段高く設置しているのは、雪で埋もれてしまわないようにとの配慮なんでしょうね。そんな雪国の暮らしを感じる風景を見ながら、町を歩きました。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その5) 雪国の暮らしを感じる
Sep 18, 2026
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三石神社(→→→こちら)のキャラクター(「アテンドル」と呼ぶらしいです)三石縁(みついしゆかり)さんの案内に従って、この用水路脇の道を歩いて行きます。奥会津の只見町、山深い里の雰囲気を感じました。訪れたのは8月初旬でしたが、稲にはもう穂が実っていました。昨年に比べてお米の値段が下がるらしくて、消費者にはうれしいですが、生産者には厳しいことになりそうですね。このような状態が続くと、日本に稲作農家がいなくなって、こういう風景も見られなくなるかもしれませんね。三石神社の鳥居が見えてきました。 この奥、つまり山の中に社殿があるようです。三石神社は、大きな奇岩がご神体として祀られる神社だそうです。3つある岩のうち「三の岩」の岩に5円玉を通したこよりを結ぶと縁結びが成就するといわれているそうです。鳥居の向こうにスキー場のリフトの鉄柱らしいものが見えました。三石神社の由来がありますが、これも貼ってあるシートがかなり傷んでいて、文字も薄くなっていて、わかりにくいですが、要約すると、三石神社は、山中に一の岩、泪岩(なみだいわ)、縁結びの岩の三つの岩を磐座(いわくら・神の鎮座する所)としているところから三石神社と名がつけられたものと推測されます。祭神としては伊邪那美命(いざなぎみこと)、白山姫命(しらやまひめのみこと)、少那彦命(すくなひこのみこと)を祀り、縁結びの神と云われております。平安時代の末期文治年間(1185〜1190)奥州藤原秀衡征伐の大功をたてたため、源頼朝よりこの地を賜った金山谷、横田の坊主山内経俊が、夢枕に立った神霊のおげに導かれて、この地に奉願したと伝えられています。 また、三石神社を国の寺社奉行に登録したのも山内家と云われているそうです。 会津の山の中で、熊さんとは出会いたくないので、この神社への参拝は遠慮したので、詳しくは、福島県只見町の公認キャラクター「三石 縁(みついし ゆかり)」が、福島県只見町の観光スポット「縁結び・三石神社」などをした動画をご覧下さい。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その4) 三石神社
Sep 17, 2026
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中村ゆりさんが亡くなって(→→→こちら)、落ち込んでいたMoMo太郎に職場の女性職員が「大丈夫、中村ゆりか(→→→こちら)がいるから、そちらを応援すれば」と言って慰めてくれました。ということで、これからは、中村ゆりか推しで行くことにしました。ということで、今日も奥会津只見町の旅の思い出をつづります。只見駅から、こちらの神社へお参りしました。社号碑では「村社 瀧神社」とありました。こちらには、近くにある別の神社を案内するキャラクターの三石縁さん。縁結びに御利益がありそうな神社なんですね。後でお参りしてみましょう。こちらは手水舎ですが、下になに石の銘板が。内容は、もともと地元の青年団が神社の神撰田(神様にお供えするお米を育てる田)としていた田んぼが圃場整備(農地の区画整理工事)の際に、その田んぼがなくなっので、その代わりにこの手水舎を寄付したと、いうことのようです。耕地整理記念碑も建てられていました。耕地整理事業は、手水舎寄進のきっかけとなった圃場整備事業の以前に行われた農地の整備工事だったんでしょうね。こちらは只見町の簡易水道事業が竣工した記念の石碑です。瀧神社の由来もありました。記載されていた鉄板が歪んでいるのがちょっと残念です。長いので、要点だけ書くと、新編会津風土記によると、治承四年(1180年)の勧請。御神体は金幣であると伝えられている。旧只見村を流れる只見川は古来より暴れ川として有名で、氾濫によって田畑・家屋が冠水・流失し、人々を毎年のように困らせていた。享保年間(1716~1736年)、相変わらず洪水に悩まされていたため、当時只見村熊野神社の神職であった赤塚伊勢守尹直は只見川の鎮撫を祈願。しかし、熊野の御祭神は戦神であるスサノオ。荒ぶる性質をもっていたためか、暴れ川の鎮撫には一向に効き目が無い。そこで享保十八年七月六日、上ノ原の地(現在のJR只見駅前あたり)に瀧神社を建立した。瀧神社には水神である瀬織津姫命を祀り、荒れ狂う只見川を鎮め、村人の安穏を願ったのだという。その後、明治三十年に約100メートルほど山際の現在地に遷座した。さらに、また石碑がありました。なにが記されているのか、全く判読できませんでしたが、雰囲気から戦争で亡くなられた方々の慰霊碑だと思われます。こちらが社殿。なかなか本格的な雰囲気です。龍の透かし彫物がありましたが、なかなか立派なもののように思えました。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その3) 瀧神社
Sep 16, 2026
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只見駅の駅舎の壁に得かがれた周辺地域の風景画です。結構、精緻に描かれてるので、ちょっと驚きました。この壁画を見ていると、只見駅から少し新潟方面に行くと気になるものがあったので、行ってみることにします。そこには、車庫のような建物とその手前に小さな鋼製の橋のようなものがありました。この橋のようなものは、転車台でした。転車台とは、蒸気機関車のように運転台が1か所しかないような鉄道車両の向きを変える施設です。普通はモーターなどで回転させるのが、これは人力で動かすようですね。只見線は昭和40年代後半ごろまでC11形蒸気機関車による貨物列車が運行されていたので、その名残なんでしょうかね。再び駅前に戻ってくると、只見駅周辺の観光案内図が設置されていて参考になりました。今回は只見川の上流にある只見ダム周辺をウォーキングしてみる計画です。駅の脇にあった歩行者用の踏切があり、その先に鳥居が見えたので、行ってみましょう。踏切の上から駅の方向を撮影してみました。ホームは島式で駅舎からはかなり離れて設置されていました。こちらは新潟県の小出方面の線路です。線路のバラストが草で覆われ、一瞬、廃線となった線路かと思われるかもしれませんが、一日に6本の列車が運行されている現役の線路です。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その2) 只見駅の転車台
Sep 15, 2026
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夏の思い出として、奥会津の只見町に行ってきた思い出を報告します。スタートは、こちらの大きな駅舎の駅からです。只見線の只見駅からです。只見線は、福島県会津若松駅と新潟県魚沼市の小出駅を結ぶJR東日本地方交通線です。時刻表を見てみると、会津若松方面も小出方面も一日3本しか走っていませんでした。これだと、ちょっと利用するのが難しいように思いますね。とはいえ、平成23年(2011年)7月の新潟・福島豪雨により、只見線は小出駅 - 会津坂下駅間113.6 kmが不通となり、もともと赤字路線であったため、地元ではこのまま廃線になるのではないか心配されていたそうです。JR東日本も民間会社ですから、不採算部門は縮小したいと考えるのも当然といえば、当然ですね。そのような中で、福島県と沿線市町が施設と土地を保有しJR東日本が車両を運行する「上下分離方式」を採用して復旧工事をすすめ、令和4年(2022年)10月1日にようやく只見線は11年ぶりに全線で運転を再開したそうです。地元の人達の全員が復旧を望んでいたかどうかはわかりませんが、多くの人が期待していた只見線の復旧ですから、たとえ一日3本しか運行されていなくても、鉄道がつながっていることが大切なのかも知れませんね。ちなみに、福島県と沿線市町が施設と土地を保有していることから、JR東日本が線路使用料を支払うことになっていますが、そのれだけで、施設の保全ができないとすれば、施設の保全に要する費用は福島県と沿線市町の血税が只見線の施設保全に注ぎ込まれることになります。かっての民主党政権下では、「只見線の復旧」は事業仕分けで廃止されていたかもしれませんが。我々が利用している道路は施設の建設も保全も公的な資金、血税が注ぎ込まれています。それと並びで考えれば、鉄道について、その鉄道が必要なら多少の公的な援助があってもいいのではと思うMoMo太郎です。そんな、只見線の只見駅には、駅員さんはいなくて、この売店の店員さんと駅員を兼務しているお姉さんがいただけです。ちなみに、Suicaなどの交通系ICカードも使えないようです。列車を待つ時間が長いせいなのか、待合室には只見町の観光案内や装飾があって、退屈しないようになっていました。駅のトイレの入り口にあった「只見町河井継之助記念館」の紹介看板がありました。只見町が幕末の長岡藩家老の河井継之助(→→→こちら)終焉の地だったんですね。それにしても、只見町から新潟県長岡市まで八十里もの距離があったとは、一里が4キロメートルですから、320キロメートル。日本って広かったんですね。(←←←このボケ、突っ込んで下さいね)只見線についてこんな案内サイト(→→→こちら)もありました。旅行の際には参考になりそうですね。ということで、警視庁鑑識係の仕事を辞めて、呑み鉄旅で人生を楽しんでいる六角精児さんの「只見線のうた」を紹介します。(奥会津只見町の旅)【つづく】人気ブログランキング奥会津只見町の旅(その1) 只見駅からスタートです
Sep 14, 2026
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すき家の牛カレー(830円税込み)をいただきました。すき家ってカレー以外にも色々メニューがあって食べ飽きないものですが、牛肉がそれなりにあって、牛丼屋さんらしいメニューのように思いました。また、特製辛口ソースが着いているので、途中で味変できるのもよかったです。人気ブログランキングへ孤独のグルメ すき家の牛カレー
Sep 13, 2026
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馬込給水所から坂道を下って、西馬込商店街にやって来ました。馬込という地名は、諸説あるそうですが、このあたりは、平安末期から鎌倉期にかけて、農耕馬がたくさん飼われていたそうです。また、馬込の地は起伏の多い地形で足腰が強く、足が速いため、鎌倉武士用の馬として放牧され、馬込の「込」は牧場の柵を設けていたことから来ているという説があるそうです。そういえば、宇治川の先陣争いで、名馬の誉れ高い池月に乗る佐々木高綱と先陣を争った梶原景季が乗った名馬「磨墨(するすみ)」もこの馬込の地に葬られた場所がこの馬込にあるそうです(→→→こちら)、また磨墨が生まれた地もこの馬込だと伝わっています。国道1号にやって来ました。西馬込駅前にある「太田区立ライフコミュニティ」という施設の敷地の北端にあった「馬込半白節成胡瓜 馬込大太三寸人参 発祥之地」(→→→こちら)という石碑がありました。「馬込半白節成胡瓜」は, ヘタに近い部分が淡い緑で 先の方は白い「半白」のキュウリのことで、 「節成」というのは, 節ごとに雌花が咲いて実がなることを意味しています。「馬込大太三寸人参」は、昭和25年(1950年)に農林省に種苗名称登録された西洋ニンジンの改良種です。長さは10cm(3寸)程度、短い円錐の尻つまり形をしており、根の先が丸みを帯びているのが特徴です。昭和30年代頃まで ニンジンと言えば, 50cm以上もある 細長いものが一般的だったのですが、現在の短いニンジンの先駆けとなった品種です。いずれもこの馬込の地で生まれたんですね。国道1号を渡って、南馬込地区に行くと、かって、人気のあった居酒屋チェーンの「養老乃瀧」(→→→こちら)がありました。そういえば、MoMo太郎がまだ社会人1年生だったころは、昼の時間帯に牛丼を販売していたけど、今はやっていないんでしょうね。その「養老乃瀧」の近くにあったのが、このお堂。夢告観音という石像が安置されていました。観音像の後ろには夢告観音由来が書かれていました。よく見ると、文章の所々が「・・・」となっていたり、観音像で隠れていたりしていますが、なんとなく要約してみれば、馬込(馬篭)牛洗戸(西一丁目)北向稲荷から塚越(西二丁目))に至る中間に、河原栄蔵氏の所有地に昔無名塚があった。村人はそれを観音塚と呼んだ。今は跡方も認められないほど変わって道路となってしまったが、塚には元禄時代に作られたとされる観音像が奉納されていた。明治年間に、取り締まってきた河原氏のもとに収容されるが、一夜河原源蔵氏の夢枕に立ち、元の位置に戻せとのお告げに従って、現地付近に祀ったのは、堂宇の南一丁ほど先に古井戸があることや。西二丁目の合同卜ラっク前徳川時代に村民幕命を布達揭示する高礼場の跡もあったことから推察したというようなことなのでしょうか。馬込周辺については、MoMo太郎も2024年7月25日(→→→こちら)前後のブログで紹介していますが、まだまだ馬込界隈にも色々発見がありそうです。しかし、そろそろ歩き疲れたので、都営地下鉄浅草線の西馬込駅から帰りました。(洗足池探訪コース)【了】人気ブログランキング洗足池探訪(その27) 西馬込駅周辺
Sep 12, 2026
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坂道の先に見えるドーム状の屋根の建造物が見えました。その前に、こちらの「六郎坂」と記された木製の標柱。下の説明には、坂名は、江戸時代後期、この村のために尽した海老沢六郎左衛門の屋敷が坂にそってあったことに由来する。坂下の水路にかかる橋を六郎橋という。とありました。この下っていく坂道が、六郎坂です。しかし、このあたり大きな一戸建て住宅が立ち並んでいますね、ようやく、ドーム状の屋根がある建造物が2基、並んで建っていました。ちょっと見た感じ、女性の乳房を連想してしまうセクハラ体質のMoMo太郎です。これは、東京都水道局が管理する馬込給水所の給水塔でした。調べてみると、構造・形式は、鉄筋コンクリート造り、円形鉄板屋根規模は、高さ、28m 直径、32m 容量、9,000m3建築年代は、第一給水塔(南側)が、昭和26年(1951年)、 第二給水塔(北側)昭和29年(1954年)戦後復興期から高度経済成長へ向かう東京の水需要増加を受けて整備された施設なんですね。この給水塔の役割としては、時間的に変動する水の使用量の変動を調整するとともに、高い位置の水槽に水を貯め、位置エネルギーを使って配水管の圧力を保つことです。この給水塔、昭和の生まれですが、現在でも多摩川浄水場や長沢浄水場から水を引いて大田区と品川区に配水している現役施設です。そして、この間も熊本で大きな地震がありましたが、災害時の給水ステーション(→→→こちら)としても機能しているそうです。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その26) 六郎坂と馬込給水所
Sep 11, 2026
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呑川にかかる道々橋(どうどうばし)です。道々橋(どうどうばし)とは、地元の人以外には読めないような名称ですが、きっと古くからの地名なんでしょうね。大岡山にある清水窪湧水から洗足池を経て、洗足流れをたどってきたMoMo太郎ですが、そろそろ家に帰ろうと思います。この案内板を見ると、この呑川緑道に沿って歩けば、東急池上線の石川台駅まで1.7kmとありましたが、池上本門寺へ向かって、東急池上線の池上駅に行ってもいいようにも思えました。しかし、東急電鉄を利用すると五反田なり蒲田なりで乗り換えがあるので、乗り換えの少ない都営地下鉄浅草線の西馬込駅に行くことにしました。こちらの道を東に向かって歩きます。豊かな緑に覆われた丘が目の前に現れました。急な坂道を登った先の石碑には、子安八幡神社(→→→こちら)の名がありました。さらにきつい石段を上がっていくと、ここが子安八幡神社の社殿です。意外と新しい建物ですね。子安という名前から、安産に後利益がありそうですね。こちらの石碑に由緒が記されていましたが、漢字が多く判読するのが難しそうです。wikipediaから引用すると、、当社の創建は康元元年(1256年、89代後深草天皇の御代)、当地の領主である池上宗仲が武蔵国の池上山(現在の池上本門寺内)に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したことに始まるとされる。その後、天正9年(1581年)には遷座の議により現在の地に転社したと伝えられている子安神社を通り過ぎて、この緩やかな坂道を東に向かって、登って行きます。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その25) 子安八幡神社
Sep 10, 2026
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洗足流れを追いかけて、呑川(のむかわ)に架かる橋のところまでやって来ました。呑川は、世田谷区、目黒区、大田区の3区に跨る延長約14.4kmの二級河川です。流域面積は、3区全体で約1,750haといわれています。というのは、中流域にある養源寺橋から河口までの地域については、下水道のポンプ施設によって、雨水を東京湾まで直接排水する区間となっているため、この流域面積にはカウントされていません。この橋の名称は本村橋です。川のフェンスに呑川緑道(→→→こちら)という看板がありますが、本村橋の上から、下流を眺めてみましたが、川沿いの道を見ても、緑道という雰囲気の植生はみかけないです。元村橋の袂にあるこの暗渠の出口が洗足流れの末端のようです。清水窪湧水からの流れが洗足池を経て、ここで呑川に合流するのですね。呑川、ちょっと変わった名称ですが、その由来は、その昔、牛が誤って川に落ち水を飲んでしまうことがあったからだという説があるそうです。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その24) 呑川、洗足流れの終点
Sep 9, 2026
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洗足流れを辿って歩くと、東雪谷五丁目交差点に出ました。交差点に面して雪谷山長慶寺という日蓮宗のお寺があります。「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目塔です。また側面に「池上末流雪谷山長慶寺」とも刻まれていました。境内はなかなか広かったです。こちらの案内板によると大田区文化財の日蓮聖人坐像があるそうです。読んでみると、この長慶寺は、はじめ荏原郡碑文谷村(目黒区碑文谷)にあって、碑文谷法華寺の末寺であったが、法華寺が不受不施を唱えて幕府の弾圧を受けた際、池上本門寺の末寺にかわったそうです。不受不施(→→→こちら)とは、日蓮の教義である法華経を信仰しない者から布施を受けたり、法施などをしないという宗派のことだそうです。この東雪谷五丁目交差点からは、東海道新幹線と横須賀線の高架橋が見えました。新幹線が走っていくのが、結構、間近に見えるんですね。長慶寺横の細い路地が、洗足流れの暗渠のようです。こちらの新幹線のガード下の抜けて行くと、いよいよ洗足流れの終点になります。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その23) 長慶寺
Sep 8, 2026
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再び、洗足流れに戻って歩いていきます。水路の側壁に穴が開いている区間がありました。おそらく、洗足流れの水路へ雨水が流れ込んで溢れそうになった場合に、この穴からオーバーフローして下水道に流れ込むようになっているのでしょう。このあたりから車道を離れて、住宅街の細い道沿いに水路が引かれています。住宅の間を抜ける細い路地沿いを洗足流れの水路が通っています。このあたり、水路の中に草が繁茂していますが、これは昆虫などが棲みやすくするための配慮か?、それとも管理の手が回らないのか? どちらなんてしょうかね。暑さのせいか、かなりうなだれているひまわりの花壇がありました。桜のプロムナードの案内板がありました。蝉山橋という橋の名称は、このあたりの地名が蝉山と呼ばれていたからでしょうか(→→→こちら)?洗足流れ東雪児童公園という公園があり、木陰にあったベンチでひと休みしました。残念ながらトイレはありませんでした。ここに洗足流れ沿いの低地の稲作農業と洗足流れが野菜の洗い場として使われていたことを説明した案内板がありました。水が濁っていましたが、赤い鯉の姿が見えました。このあたりの水路では、鯉が泳いでいるようですね。洗足流れはこの先から暗渠になっています。暗渠の上の歩道をさらに歩いて行きました。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その22) 再び洗足流れを歩きます
Sep 7, 2026
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こちらは小池公園(→→→こちら)と呼ばれています。これは、洗足池の大池に対して、小池と呼ばれていた溜池だからです。洗足池公園と小池公園をめぐるコースを「池のみち」として設定されているようでした。古くは農業用水に使用するために、谷あいの湧水をせき止めてつくった池です。つまり、小池は湧水池で、水源になる川がないそうです。確かに、池の周囲はこのような住宅街となっていて、川があるような様子はなかったです。農業用水の溜池でしたが、昭和9年(1934年)からは釣堀として使われていましが、釣堀を経営していた業者が営業を中止し、数年この池は放置されていたそうです。そのため大田区がこの池を整備することにし、平成19年(2007年)後半から工事が始まり、平成21年(2009年)に公園としてオープンしたそうです。また、整備後の新しくなった池を洗足小池と呼ぶことになりました。釣り堀はなくなったようですが、魚などが残っているのでしょうか?網をもって歩いているおじさんが見えました。池の水はこの水門から流れ出しているようです。「小池流れ」と呼んでもいいような水路を追いかけてみました。小池からの水は住宅に挟まれたこの小さな水路を流れているのでしょうか?しかし、水門の規模から考えて、水路の断面積が小さいので暗渠となって地下を流れているようです。この道路の右側が暗渠となっているのでしょう。しかし、その暗渠の様子が小池小学校のグランドあたりで途切れています。この先も探ってみたのですが、「小池流れ」が「洗足流れ」に合流していることは確認できませんでした。Wikipediaで「洗足小池」を調べてみると、「流れ出しからは暗渠の小川になっているが、洗足流れに合流することなく、合流下水道に落とされている。」とありました。おそらく、想像するに、釣堀として利用されていた時に、底に残された釣り用のオモリの鉛が溶け出したり、整備工事をした時に使われたセメントの影響や底にたまっていたヘドロが流れだすことで、洗足流れやその先の合流している呑川(のみかわ)の生態系への影響が懸念されるからではないかと思います。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その21) 小池公園
Sep 6, 2026
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洗足流れに沿って整備された桜のプロムナードを歩いて行きます。洗足流れの水路と桜の並木が整備されて、のんびり散策するのにいい遊歩道が続いています。下流に行くにしたがって、側溝から幅の広い水路に変わっています。この小池橋という橋のところで、桜のプロムナードから外れて、東の方へ住宅街の中に入っていくと、坂道の途中にあったのは、大田区立小池小学校です。さらに、上池台の台地の坂道を登って行くと、住宅街の中に広がる池がありました。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その20) 小池へ
Sep 5, 2026
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再び中原街道に戻ってきました。ここから更に、洗足池から流れ出した川の流れを追いかけて行きます。 東急池上線洗足池駅です。この駅の下を洗足池から流れ出た水路が(多分)通っているようです。洗足池駅の改札口は中原街道に面した改札口が一か所のみで、駅の横にあるこのガードを抜けて駅の南側に向かわないといけません。ガードを抜けた先は、洗足池商店街となっています。しかし、商店街を行かず、駅の南側の坂道を下っていくと、東雪谷と上池台の境界にあるこの道を歩いていくことにします。ここで洗足池から流れ出た水がこの側溝の中を流れて行きます。この脇に「この流れは洗足池の水を利用しています」との看板がありました。この水路が「洗足流れ」(→→→こちら)と呼ばれるものです。かつては農業用水として利用されており、洗足用水、池上用水とも呼ばれています。全長1.5 km程の短流で、洗足池を始点として東雪谷と上池台の境界に沿って流下し、仲池上で呑川に合流します。また、清水窪湧水から続いている桜のプロムナードという遊歩道としても整備されています。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その19) 洗足流れ
Sep 4, 2026
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洗足池探訪の途中ですが、ちょっと中休みです。リンガーハットの皿うどん(920円)を頂きました。名称からして太麺のうどんが使われていそうですが、油で揚げたパリパリの細麺が使われているのが、昔からずっと不思議でしたが、本場では太麺を焼きそばのように炒めて出す店もあるそうですね。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 皿うどん
Sep 3, 2026
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洗足池西岸から見た池の全景です。池の周りょ歩いていると見つけた「ナツミカン」の木です。確かに、ナツミカンらしい黄色い実が見えました。そして、洗足池北西端にあった無料休憩所です。ここでようやく洗足池の全周を歩いたことになりました。ここでしばらく休んで、さらに洗足池の川の流れを追いかけて歩いていくことにします。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その18) ナツミカンの木
Sep 2, 2026
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千束八幡神社の境内の北東にあった池月像です。洗足池を見下ろすような位置に建てられています。台座には「名馬池月の由来」と題した洗足風致教会が設置した銘板が設置されていました。池月は後に源頼朝の家臣の佐々木高綱に下賜されます。高綱と池月は、源範頼、義経が源(木曽)義仲の軍勢を破った「宇治川の戦」で、頼朝が同じく大田区内の馬込で手に入れた名馬磨墨(するすみ)に乗馬する梶原景季と、先陣争いを繰り広げました。宇治川を渡り先陣争いをしている際、佐々木高綱が梶原景季の乗る馬の腹帯が緩んでいるように見えると言ったため、不安に思った梶原景季が馬の腹帯を締め直した。その隙をついて佐々木高綱が先行し、川の中に張られた大綱を馬に乗ったまま太刀を抜いて断ち切って、敵陣への一番乗りを果たしたそうです。まあ、半ば騙し討ちのようなことで、先陣争いを制した佐々木高綱と池月ですが、この時、先陣争いをした池月と磨墨は名馬として全国に知れ渡ったそうです。その後、平氏征伐の軍功により筑後国の鯵坂庄(今の福岡県小郡市のあたり)に所領700町歩を賜った佐々木高綱は愛馬の池月とともに鯵坂庄に移り住んだそうです。ということで、MoMo太郎が福岡験久留米市に住んでいる時に、その「名馬池月の塚」を訪れていたことを2018年8月15日のブログ記事で報告しています(→→→こちら)。そこで、平成29年(2017年)6月11日に福岡県小郡市で名馬池月塚を撮影した写真を紹介します。下の写真が、名馬池月塚にあった案内板です。こちらが「名馬池月塚」です。こちらが墓石のようです。辛うじて「池月塚」と刻まれた文字が判読できました。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その17) 名馬池月について
Sep 1, 2026
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池月橋を渡ったところに洗足池の西岸の入り江に向かった建つ立派な赤い鳥居が建てられています。その奥には石鳥居があります。ここは、洗足池八幡宮とも称される千束八幡神社(→→→こちら)です。なお、「千束」の地名由来は、当地は免田地であったため「千束の稲」を税(年貢)から免除されていた土地だった事から「千束」と呼ばれるようになったとされているそうです。それが「洗足」の名に変わったのは、日蓮聖人がこの池で足を洗ったという伝承によるものです。社号碑には「村社八幡神社」と刻まれていますが、第二次世界大戦後廃止された近代社格制度では、官社と諸社(民社)、無格社に分類される中で、その中の諸社(民社)のうちの府県社・郷社・村社に分けられた村社に格付けされる神社ですが、本当はかなりな由緒ある神社です。ちなみに官社は、祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける神社。府県社は府、県、北海道の庁から奉幣を受け、郷社は府県、郡、または市から、村社は市町村から奉幣を受けた神社となります。千束八幡神社の由緒(→→→こちら)を紹介した碑文がありました。要約すると、貞観2年(860年)に宇佐八幡宮が勧請され、千束郷の鎮守として創建。承平5年(935年)、平将門の乱を鎮圧するため下向した鎮守府副将軍の藤原忠方が、乱の平定後、この地に土着しこの神社を氏神とした。このの藤原忠方が、のちに日蓮信者となる池上氏の祖といわれています。永保3年(1083年)、奥羽平定に向かう途中の八幡太郎義家(源義家)は、洗足池で禊ぎをして祈願したといわれています。治承4年(1180年)、「石橋山の戦」に敗れて安房に逃れた源頼朝が、再度安房から鎌倉へ向かう途中、この地に陣を構えて諸将の参陣を待ったのだと伝えられています。そのためこの神社は別名「旗上げ八幡」とも呼ばれているそうです。また、「池月発祥伝説の由来」という案内板もありました。源頼朝がこの地で諸将の参陣を待っている時、青い毛並に白い斑点を浮かべ、まるで池に映る月のような姿のたくましい野生の馬が現れたので、頼朝は、この馬を捕らえ、現れた時の姿から「池月(いけづき)」と名付けたとされました。でこの池月は平家物語の中の「宇治川の先陣争い」(→→→こちら)の中で、佐々木高綱が乗っていた名馬といわれています。ただし、この池月、平家物語では黒栗毛の生食(いけずき)として伝わっているようです(→→→こちら)。こちらが、千束八幡人社の社殿です。そして、社殿の横には池月の巨大な絵馬が奉納されていました。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その16) 千束八幡神社
Aug 31, 2026
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池月橋は、洗足池西岸の入り江のようになった場所に架けられています。その入り江の奥まで歩いてみました。 また、ここには「新東京八名勝洗足池」の石碑がありました。新東京八名勝とは、昭和7年(1932年)に東京市が周辺5郡82町村を合併し新たに20区を設置して、15区から35区に拡大したことから、報知新聞社が新たに東京市となった20区の中から読者投票によって「新東京八名勝」を選定したものです。新東京八名勝には、この洗足池のほかに、足立区の西新井大師(總持寺)、大田区の池上本門寺、江東区の亀戸天神社、品川区の品川神社、目黒区の祐天寺、板橋区の松月院、そして荒川区の諏方神社が選ばれているそうです。入り江の最奥部にはこのような湧水があり、洗足池に流れ込んでいました。洗足池には、武蔵野台地から滲みだしたいくつもの湧水からの水が流れ込んでいるんでしょうね。この湧水のすぐ近くにあった竹垣で囲まれた日本風の邸宅がありました。この邸宅の門は松風荘門(→→→こちら)として国指定の文化財となっていました。いかにも昭和初期に建てられたような趣のある門ですね。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その15) 松風荘門
Aug 30, 2026
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東京都教育委員会が建てた「東京都指定名勝 洗足池公園」についての案内板です。東京都指定名勝とは、東京都が指定した自然や歴史的な名所のことで、この洗足池公園の他には、清澄庭園や等々力渓谷などがあります。今度は池の西側の歩道を北へ向かって歩いて行きました。、池月橋(→→→こちら)という橋がありました。このような太鼓橋ですが、初代は平成7年(1995年)に架けられた木製の橋だったそうですが、平成28年(2016年)に架け替えられたそうです。対岸の水生植物園から望遠で撮影した池月橋です。木製三連太鼓橋ですが、池の景観に彩を添えているようです。池月橋から東岸に向かって撮影してみました。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その14) 池月橋
Aug 29, 2026
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中原街道に面して建てられていた洗足池ボートハウス(→→→こちら)です。ボートに乗るつもりはなかったけど、休憩所にもなっていたので中に入って、テラスから洗足池を池の全景を撮影してみました。そして、こちらがボートの乗り場。30分間の料金は、スワンボート800円、サイクルボート600円そしてローボート400円でした。屋上展望台もあります。そこからの展望です。こちらは中原街道を挟んで正面にある東急池上線の洗足池駅です。多摩川方向へ向かう中原街道の様子です。交通量は多い道ですね。屋上展望台から見た洗足池です。桜の季節や紅葉の季節からだと、きっと綺麗な景色が見えそうですね。池の上にはスワンボートとサイクルボートが浮かんでいました。サイクルボート、親子で乗っているようですが、お父さんの方へ少し傾いているようですね。ズームしてみると、向こう岸、洗足池の上流側にある洗足池弁財天の赤い社殿が見えました。気がつくとスワンボート、かなり進んでいました。このスワンボート、一人で漕いでいるんでしょうかね。ことらはボートハウスに隣接している洗足池の流出口です。ここで池の水位を調節しているんでしょうね。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その13) 洗足池ボートハウス
Aug 28, 2026
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洗足池のすぐ脇を通る中原街道に出ました。中原街道とは、江戸幕府により東海道が整備される前には、相模国と武蔵国とを結ぶ街道だった道で、東海道が整備されると江戸虎ノ門(現在の東京都港区虎ノ門)と平塚中原(現在の神奈川県平塚市御殿で、ここに中原御殿があった)とを結ぶ脇街道とされ、将軍の駿府往還や鷹狩などにも利用されたそうです。現在は、国道1号桜田通りから茅ヶ崎市を結ぶ道となっています。こちらは東京五反田に向かう方向です。こちらは、武蔵小杉を通って横浜方面に向かう方向です。東急バスの車庫もありました。洗足池のほとりあった中原街道改修碑(→→→こちら)が建立されていました。中原街道の千束から田園調布は、急坂が多く物資の輸送や交通の難所であったので、大正6年から12年(1917年から1923年)にかけて。街道を平坦にする改修工事が行われたことを伝えるものです。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その12) 中原街道
Aug 27, 2026
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大田区立洗足池図書(→→→こちら)です。こちらの図書館の外壁に、勝海舟ゆかりの地「周辺散策」という案内板が掲示されていて、次の10カ所の散策ポイントの説明がありました。紹介してみると洗足池図書館御松庵妙福寺勝海舟記念館勝海舟夫妻墓所南洲(西郷隆盛)留魂碑洗足池弁財天池月像千束八幡神社池月橋ボートハウスです。MoMo太郎はこのうちもうお6ヵ所をクリアしているのですが、まだまだ見るべきところがありますね。図書館の近くに看板がありました。勝海舟別邸(洗足軒)跡とありました。勝海舟は、江戸城の明け渡しについて話し合うため、中原街道を経由して、新政府軍の本陣がおかれた池上本門寺へ向かう途中、洗足池付近で休息をとったといわれています。そのときに、洗足池周辺の風景を気に入り、明治24年(1891年)、「洗足軒」といわれる別荘をこの地に構えたそうです。かなり詳しく記されていたので、その内容を紹介します。 勝海舟 (1823~99)の別邸は戦後まもなく焼失しましたが、茅葺きの農家風の建物でした。鳥羽. 伏見の戦い(1868)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任じられた海舟は、官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。 その会見により江戸城は平和的に開けわたされ、江戸の町は戦禍を免れたのです。海舟は江戸庶民の大恩人と言えるでしょう。 その際、通り掛かった洗足池の深山の趣のある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者津田仙(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。 明治二十四年 (1891)自ら洗足軒と名付けた別邸を建築し次のような歌を詠んでいます。 池のもに 月影清き今宵しも うき世の塵の跡だにもなし晩年海舟は晴耕雨読の生活の中で、かえで、さくら、松、秋の草々などを移し植え次のようにも詠んでいます。 うゑをかば よしや人こそ訪はずとも 秋はにしきを織りいだすらむ 明治三十二年 (1899年) 七十七歳で没しましたが、「富士を見ながら土に入りたい」との思いから、生前より別邸背後の丘に墓所を造りました。 石塔の「海舟」の文字は徳川慶喜の筆と伝えられています。当初は海舟一人の墓所でしたが、後に妻たみも合祀され、大田区の史跡に指定されています。この紹介を書いたのは、公益社団法人洗足風致教会(→→→こちら)という団体。ちなみに洗足池は、都市計画法第8条第1項第7号により都市計画区域に指定されている風致地区になります。風致地区とは都市の風致(おもむき、あじわい、風趣)を維持するため定める地区であり、建設物の建築や樹木の伐採などに一定の制限が加えられるそうです。こちらが、洗足軒があった跡地に建つ大田区立大森第六中学校です。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その11) 勝海舟別邸(洗足軒)跡
Aug 26, 2026
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御松庵妙福寺を奥へ進んでいくと、大きな松の木がありました。こちらの真っ直ぐ伸びた松の木が石塀に囲まれていて、「御袈裟懸松」と刻まれた石碑があり、この松が日蓮聖人がこの松に袈裟を懸けて、池の水で足を洗ったという場所なんでしょうか。このことから「千束郷の大池」と呼ばれていた池が「洗足池」と呼ぶようになったと伝わっています。しかし、この松に袈裟を架けたとすれば、日蓮聖人ってウルトラマンくらい背の高い方だったんですね。日蓮聖人が、袈裟を松にかけて手足を洗ったところ、法華経を守護する七面天女が現れ、日蓮の道中を守護したらしいので、七面天女は、ひょっとしたら「ウルトラの母」?また、こちらにも松の木が。こちらには、「六代目御袈裟懸松」と刻まれた石碑がありました。、日蓮聖人がここに袈裟を懸けたのは、弘安5年(1282年)のことですから、袈裟懸けの松も744年も生き続けて子孫を残していたということでしょうか。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その10) 袈裟懸けの松
Aug 25, 2026
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洗足池のほとりにある御松庵(ごしょうあん)妙福寺(→→→こちら)です。御松庵sは、日蓮上人が池上宗仲の館(池上本門寺)へ向かう途中に洗足池で休憩、老松に法衣をかけて、池の水で手足を洗ったことから護松堂・御松庵として創始したことに始まります。また、妙福寺は、持法院日慈(寛永6年1629年寂)が日本橋馬喰町に創建、明暦の大火(1657)により浅草永住町へ移転、関東大震災で被災し昭和2年(1927)に御松庵と合併して移転したので、御松庵妙福寺という名称になったのです。「立正大師袈裟懸松之霊蹟 日慈上人徳業地 」と刻まれた自然石の石碑があり、こちらは、題目法塔ですね、側面には「御袈裟懸松之霊場」と刻まれていました。「日蓮聖人袈裟掛けの松 由来」についての説明がありました。ということで、袈裟懸けの松を見に行くためにお寺の中に入りましたが、松ではなく見事な竹林がありました。この仏像に水をかけて磨くと御利益がありそうな感じですね。こちらは、妙福寺祖師堂(旧七面大明神堂) です。天保4年(1833年)に建てられた建物で、国の登録有形文化財に指定されているそうです。こちらは、日蓮上人像。日蓮宗のお寺ですから。こちらは子育観音像。結構、色々な仏像がありました。そしてこちらは、馬頭観世音供養塔説明板によると、大田区文化財 馬頭観世音供養塔天保一一年(一八四〇)に、馬込村千束の馬医師や馬を飼っている人々によって、馬の健康と死馬の冥福を祈って建てられたものである。光背をつけた馬頭観世音像の下は、角柱型の道しるべを兼ねており、各面には「北堀之内碑文谷道」「東江戸中延」「南池上大師道」「西丸子稲毛」というように、東西南北のそれぞれの方向を示す地名が示されている。この碑文から、もとは中原街道と碑文谷ー池上を結ぶ道との交差する地点に建てられたと推定されるが、民有地に移された後、平成一三年に現在地に移設された。江戸時代後期の民間信仰、交通史を考える上で貴重なものである。昭和四十九年二月二日指定大田区教育委員会古びた石塔が文化財だったとは、ビックリでした。確かに、下には「東江戸中延」や「北堀之内碑文谷道」という文字が彫られていて、当時の道標だったことを伺わせますね。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その9) 御松庵妙福寺
Aug 24, 2026
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勝海舟夫妻墓所の前に広がる桜広場と呼ばれる公園です。ジャングルジムなどの遊具があって子供たちの遊び場にもなっているようです。最近の砂場は、こうのように金網で囲われて、小動物などが入ってこないようにしているのですね。確かに、ネコや犬が入って排泄したりしないようにしているのかも。洗足池の周りには、こちらにも水生植物園がありました。こちらはハスが植えられていました。ハスの花がきれいでした。洗足池の対岸です。池の周りが木で囲われているのがわかりました。ズームしてみると連続アーチの橋があることがわかりました。とにかく池の周りを一周して、あっちにも行かなくては。洗足池から少し離れて、こちらのネオゴシック様式の建物がありました。こちらは勝海舟記念館(→→→こちら)として、国登録有形文化財である旧清明文庫を活用し、令和元年に開館したものです。この日は月曜日で休館のため中に入ることはできなかったのが心残りです。清明文庫とは、東洋思想や仏教思想を普及させる団体として知られていた財団法人清明会(1920年設立)が、勝海舟の没後使われなくなっていた洗足軒(勝海舟の別邸)を清明会の講堂として譲り受け、講堂兼図書館である建物を清明文庫を建設したものですが、昭和10年(1935年)に活動を終えたそうです。その後は、戦後の昭和29年(1954年)、建物は学習研究社の所有になり、編集作業を行ったり教師養成センターとして利用される「鳳凰閣」という施設になりましたが、平成24年(2012年)には大田区の所有となったそうです。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その8) 桜広場と勝海舟記念館(旧清明文庫)
Aug 23, 2026
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こちらが勝海舟夫妻墓所(→→→こちら)です。勝海舟夫妻墓所付近の案内図がありました。こちらが大田区教育委員会が接した勝海舟夫妻墓所の説明板です。勝海舟は、別邸洗足軒を当地に設けるなど、風光明媚な当地を愛していたことから、遺言により明治32年(1899)当地に葬られたそうです。この水盤(手水石)は、勝伯爵家と海舟知己が明治32年5月から寄附金を募り、同年に設置したもので、裏側には寄附者56名の名前が刻まれていて、中には赤松則良や榎本武揚などの名前があるそうです。勝海舟夫妻の墓所がこれです。意外と簡素な五輪塔形状の墓石でした。向かって右が勝海舟の墓、左が妻・たみの墓ですが、名前は刻まれておらず勝海舟室と刻まれています。最初は、勝海舟の墓の実でしたが、戦後になり、妻・たみの墓が青山墓地から同地へと移されたそうです。墓所のいっかくにあったのが、こちらの「東京奠都七十周年記念碑」です。東京奠都(「とうきょうてんと」(→→→こちら)とは、江戸を改め東京とし、日本の都に定められたことで、東京奠都70周年を記念して昭和14年に建てられたこの記念碑には、東京が戦火を免れ発展したのは、海舟と西郷のおかげだと讃えているそうです。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その7) 勝海舟夫妻墓所
Aug 22, 2026
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洗足池のほとりに鳥居がある祠を発見しました。社号碑には「南洲西郷先生留魂祠手墓之碑」とむありました。南洲西郷とは西南戦争で戦死した西郷隆盛のことですね。そして、「留魂」とは?案内板の内容を要約すると、勝海舟が故・西郷隆盛のため、木下川浄光寺(木下川薬師→→→こちら)境内に建立した詩碑と祠をこちらに移設したということです。ちなみに木下川は「きねがわ」と読みます。案内板の記述では、留魂祠(りゅうこんし)一、祭神 南洲西郷隆盛先生一、例祭 毎年九月二十四日由緒明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが勝先生は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。南洲先生はその後、明治十(一八七七)年の西南戦役により、故郷鹿児島において子弟三千余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑されさらに明治十六年(一八八三年)、その魂魄を招祠して留魂祠を建立せられました。留魂祠の名は、漢詩「獄中有感」の「願留魂魄護皇城」に由来するものです。この留魂祠は、もと東京南葛飾郡大木村上木下川(現、葛飾区東四ツ木一-五-九)の薬妙寺境内にありましたが、勝先生の御遺志により、大正二(一九一三)年、石碑とともに現在の地へ移されました。右隣には勝先生御夫妻の奥津城(御墓所)があり、維新の両雄は、いまなほ相並んで我国の将来を見守っておられるのです。南洲会とありました。「留魂」とは、この説明にあるように、「願留魂魄護皇城」(魂魄を留め皇城を護らん)の意味だったんですね。こちらの西郷隆盛(南洲)留魂詩付近の案内図もありました。留魂詩碑と留魂祠以外にも石碑が建立されているようです。また、隣には勝海舟夫妻の墓所もあるようです。こちらが南洲西郷先生留魂祠の全景になります。まず、正面にあったこちらが留魂祠になります。こちらの石碑は、「徳富蘇峰詩碑」です。 昭和12年(1937年)数名の者が計画し、勝海舟門下生の1人であった徳富蘇峰(1863年-1957年)に詩を書いてもらい建てたものです。勝と西郷隆盛によって江戸庶民の命が救われた偉業を称え、両雄を偲ぶ内容が刻まれています。この碑が完成した際に、隣接する清明文庫(→→→こちら)で記念講演が開かれており、その様子が写真で残されているそうです。この石碑は、南洲先生建碑記留魂詩碑の工事を勝海舟に任された玉屋忠次郎が明治16年(1883)に建てたものです。留魂詩が明治12年7月27日に彫刻され、谷中の石工群鶴の元から浄光寺に至る経緯が記されています。なお、勝海舟追慕碑によると当地への運搬建設も群鶴が実施しています。そしてこれが、南洲(西郷隆盛)留魂詩碑(→→→こちら)勝海舟が、親交のあった西郷隆盛(南洲)の死をいたみ、詩とその筆跡を遺すため、三回忌にあたる明治12年(1829)に自費で建てたものです。もとは葛飾区の浄光寺にあったものが、大正2年(1913)の荒川開削工事に伴い当地に移設されました。内容は西郷が沖永良部島の獄中で作った七言律詩で、天皇に対する忠誠心が詠まれています。「願留魂魄護皇城」の文言から留魂詩(りゅうこんし)と称されました。背面には勝の撰文で由来が記されているそうです。こちらの石碑には、詩がきざまれています。刻まれた詩が書き下されたものが記されていました。朝に恩遇を蒙り 夕に焚阬せらる、人生の 浮沈は 晦明に 似たり。縦ひ光を回らさざるも 葵は日に向ふ、若し運を開く無きも意は誠を推さむ。洛陽の 知己 皆 鬼と為り、南嶼の 俘囚 独 生を竊む。生死 何ぞ 疑はむ 天の付与なるを、願わくは 魂魄を留めて 皇城を護らむ。獄中感有り 南洲そして、勝海舟追慕碑というのもありました。大正2年(1913)に勝海舟門下生の富田鐡之助が記したもので、留魂詩碑が建立されてから現在地へ移設されるまでの経緯や、有志による留魂祠が建てられたことが記されてい.るそうです。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その6) 南洲西郷先生留魂祠
Aug 21, 2026
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この案内板を参考に、洗足池のまわりをひと通り歩いてみます。洗足池の北側にあるこの小島は弁天島と呼ばれています。この島へはこの赤い太鼓橋を渡って行くことができます。そして、赤い鳥居があざやかな、弁財天社がありました。洗足池辨財天(厳島神社)御由緒が掲げられていました。こちらによれば、御祭神は市杵島姫命(イチキシマヒメ) その他にも宇賀神、宗像神、弁天様も祀られているのでしょうか。御神徳は、福徳財宝授けの神、音楽、舞踊、芸能上達の神、水神、水路、海上安全の神、交通安全の神、商売繁盛の神、特に水商売繁盛の神と書かれていました。由緒沿革には、創建の年代は、不詳なれど、古来より洗足池の守護神として池の北端の小島に祀られていたが、長い年月の池中に没してしまっていた。その昭和の初め頃より数多の人々の夢枕に辨財天が出現せられ、この事が契機となって御社殿建立の話が具体化し、多くの人々の尽力によって、昭和九年七月洗足風致協会の手により築島遷宮の運びとなり、以来今日に至る間、多くの参拝者に、右御神徳を授けられている。とあり、夢のお告げで昭和の時代に再建されたということなので、スピリチュアルなパワーが得られそうな神様です。洗足池を右回りに回っていくと、洗足池公園水生植物園案内図がありました。イラストを見ると、ホタルがこの池に自生しているみたいでした。水生植物園には、この木製の八つ橋と呼ばれる橋が池の中に架かっていました。橋の上から対岸を撮影しました。洗足池の水面をカルガモが泳いでいました。カルガモは単独ではなく、やっぱりファミリーでここで暮らしているみたいです。こちらは、池の岸辺にあった「睡蓮の池」と名付けられた施設です。スイレンの花です。5月~10月にかけて花が咲くんですね。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その5) 弁天島と水生植物園
Aug 20, 2026
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東急の線路を越えてからは、この道が清水窪湧水から流れ出た水が流れている道ですね。水はこの下を暗渠になって流れているようです。「桜のプロムナード」(→→→こちら)と表示されていますが、住宅街の道で、桜の木は・・・、見当たりませんでした。洗足池まで250mの標識がありました。こちらの道を行っても洗足池へ行けそうですが、一本、東にそれたこの道を歩いて行くことにします。歩道には、桜のプロムナードの案内板がありました。こちらの道を歩いて行って、この林地の中の道へ入って行きます。左側には林地があり右手には広い公園となっていました。脇には、清水窪湧水からの流路がありました。水量は少ないですが、これが洗足池の水源のひとつです。そして、洗足池に到着です。洗足池(→→→こちら)とは、武蔵野台地の湧き水をせき止めた池で、かつては「千束郷の大池」と呼ばれ、灌漑用水としても利用されていたそうです。「洗足池」と呼ばれるようになったのは、江戸時代に大岡越前が、江戸の町の「やくざ」だった者たちを、堅気にするためこの池で、足を洗わせたことに因んでというのは、真っ赤なウソです。正しくは、日蓮聖人が病気療養のため身延から常陸へ向かう途中に立ち寄った際、この池で足を洗ったことが由来です。池の広さは約4万キロ平方メートルと都内屈指の広さです。大田区の水と緑のオアシスとして市民に親しまれています。洗足池て遊べるスワンボートが向こう岸に係留されています。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その4) 桜プロムナードを抜けて洗足池へ
Aug 19, 2026
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熊本の有明高校、ついに甲子園大会ベスト8まで勝ち進んだのですね。これは熊本地震で被災した熊本県の皆さんへの対戦相手からの優しい忖度の結果でしょうか。それとも審判団の皆さんが有明のピッチャーへのストライクの判定を甘くして大会を盛り上げたい大人の忖度の結果でしょうか。いずれにしても、今日の結果が楽しみです。頑張れ有明高校。清水窪湧水から流れ出た水が洗足池に向かって流れる水路を辿りって歩きました。すこし下り坂になった道になっています。そして、この道の下を暗渠となって、清水窪湧水からの水が流れて行っているのでしょう。というのは、この道の左側も、そして右側も上り坂になっていて、この道が谷底のようになっているからです。この道沿いにあった清水窪小学校は「おおたサイエンススクール」(→→→こちら)となっていて、平成25年度から東京科学大学の教授による特別授業や大学施設での体験学習、大学の留学生との交流会などを実施しているほか、生活科や総合的な学習の時間で、積極的に科学やものづくりなどの理科に関連する内容の授業を行っているそうです。なんか、これからの日本の科学技術を支える人材が出そうな小学校ですね。さらに歩いて行くと、東急の線路に突き当たります。この線路の下を水が流れているんでしょう。線路を跨ぐ跨線橋があったので、跨線橋の上から大岡山駅の方を撮影してみました。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その3) おおたサイエンススクール
Aug 18, 2026
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東京都大田区北千束1丁目にやって来ました。住宅街の中に稲荷神社がありました。近くに住んでいると思われる若い奥さんがお参りしていた妙徳稲荷神社。地元の人たちに崇敬されているんでしょうね。そのお稲荷さんと道路を挟んだところに「桜のプロムナード」(→→→こちら)と書かれた案内板が、桜のプロムナードとは、洗足流れや旧内川など、かつて人の暮らしを支えた水の通り道を散策路として整備されたいるそうです。今回は、洗足池の水の流れを、水源から河口までたどる今回の散策のコースになります。そして、洗足池の水源のひとつになる清水窪湧水がここにあります。この鳥居の先に湧水があって、弁財天が祭られているそうです。こちらが清水窪弁財天の祠です。清水窪弁財天についての説明書きがありました。俗称 清水窪辨財天の由来この辨財天社は江戸時代初期の頃、この地の所有者(北千束一の一四の八番地在住)岸田家先祖がこの地にこもる霊気を感じて祀られたものである。当時はうっ蒼とした杉の森で昼でも天日を見ることができないくらい茂っていたそうだ。この地に湧き出す清水は今日でもどんな干天になっても絶えることがない。その昔は白蛇の姿を見たこともあるという。霊気は物すごいまでに強く邪心を捨てて一心に念願すると不思議に叶えられるので遠近各地からの参拝者が絶えない。現在は神格が昇って左の如く祀られている。清水窪辨財天昇格改称天八大龍王神旧大森区史によると、この地は大古大森海岸の入り江の奥にあたり、更に低地にあたる洗足池や小池などは当時の海の名残であると記されている。 庵主清水窪弁財天ではなく、今は「天八大龍王神」という名称なんですね。ここがこの清水窪湧水は、東京の名湧水57選(→→→こちら)に選ばれていたのですね。大田区教育委員会が設置した案内板がありました。大田区文化財清水窪湧水(しみずくぼゆうすい)池の長さ20メートル。池の小島の小さな祠(ほこら)には弁財天がまつられている。この湧水は武蔵野台地の端、千束の谷がつきるところにあり、旧村落の頃、この付近一帯を清水窪と読んだのも、この地形のためである。ここから湧き出る水は洗足池の源流となり、かって千束の谷が田畑であった頃、用水として水田を灌漑していた。本区のみならず東京都内に残された数少ない湧水地として貴重である。 昭和50年3月19日指定 大田区教育委員会こちらの小さな滝が清水窪湧水になります。武蔵野台地に降った雨がここに現れているのですね。弁財天の他にも、色々な神様が祭られていました。色んな神様や仏様が集まっているのですね。湧水が溜まって、小さな池ができていて、鯉がのんびりと泳いでいました。ミシシッピーアカミミガメが水面から首を出していましたむ。「そして、清水窪湧水から流れ出た水は、ここから地下に埋められた暗渠へ流れ出ていきます。この水の流れを追いかけて歩いて行きます。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その2) 清水窪弁財天と清水窪湧水
Aug 17, 2026
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今回は、洗足池の水源から末端の河口まで歩いてみようと思い、東急の目黒線と大井町線が乗り入れるここ大岡山駅までやって来ました。大岡山駅はこんな地下構造。MoMo太郎が子供の頃、伯父に連れられてここに来たことがあります。その時は地上駅だったと思います。調べてみると平成9年(1997年)に地下駅になったそうです。そして駅前にあるのが、この東京科学大学です。なぜ、子供の時、伯父に連れられて大岡山に来たのかというと、伯父は東京科学大学、かっては東京工業大学(→→→こちら)と呼ばれていたこの大学の大学院の学生だったので、東京に遊びに来た甥っ子のMoMo太郎を連れてきてもらったからです。当時は、MoMo太郎の一家は、大阪にあった父親の実家で、祖父母や伯父や伯母と一緒に暮らしていました。その中で、よく勉強ができた伯父は、大阪から出てきて、東京工業大学で学んでいたのです。伯父の思い出というと、まだMoMo太郎が幼稚園児だった、ある日、一家で朝ご飯を食べている時に、伯父が突然、みんなの前で「明日、東京の大学の入学試験を受けに行くから、お金を下さい」と言ったのです。「そんなお金はない」と祖父は言ったのですが、その頃は実家は商店を営んでいたので、祖母が店のレジにからお金を取ってきて、「まあ、受けるだけ受けたらいいねん」と言って、伯父にお金を渡したて、そして伯父は東京に行ったのです。今の受験生のように、親も一生懸命に受験に取り組むことから考えると、本当かなと思うような話ですが、子供の教育よりも家業の商売が大切だった、MoMo太郎家だったのです。そして、子供のMoMo太郎は、東京の大学というと、東京大学しか知らなかったので、伯父はずっと東京大学に行っていると、友達に自慢していたのですが、ここへ伯父に連れてきてもらった時、東京工業大学に伯父が通っていたということを初めて知って、ガッカリしたことを覚えています。まあ、MoMo太郎なんかは東京大学は言うまでもなく、東京工業大学も、憧れていた慶応大学さえも入学は許されない学力だったのですから、亡くなってから久ししい伯父ですが、やはり優秀な人だったんだと思います。そういう伯父のことを祖父は、「大学に行って就職するよりも、高校を出たら働いた方が、一生の間に稼げる賃金は多いのに、無駄飯ばっかり食いやがって仕方ない奴だ」と言っていました。しかし、電子工学を専攻していた伯父は、卒業後は電器メーカーに勤めていたいましたが、その後、電子機器を設計する会社を起業して、かなり裕福な暮らしを送っていたので、そういう姿を祖父はどう思っていたんでしょうかね。そんな思い出を考えながら、こちらの大岡山北口から続く商店街を歩いて行きました。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その1) 大岡山からスタートです。そして伯父との思い出も
Aug 16, 2026
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ダメージジーンズというのが、定番のファッション・アイテムとしてあるそうです。一般には、ダメージジーンズにするために、生地に意図的な破れ・擦れ・穴あきをデニムパンツに施したものなんですが、昭和生まれのMoMo太郎には、予め穴の開いたジーンズを買うなんて、ちょっとできないので、自然な色落ちや擦り切れにができるように、このジーンズを20年くらい履き続けました。まあ、普段から毎日、ジーンズをはいているわけでもないので、結局20年近くかかったんです。それでもちゃんと穴も開いたし、ようやくダメージジーンズを着ることができるようになりました。これを穿いてお出かけすると、オシャレなイケオジとギャルの皆さんから思われるかな。人気ブログランキング20年かけてダメージジーンズにしました
Aug 15, 2026
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関越道のPAで食べた「冷やしひもかわうどん」(900円税込み)です。この冷やしひもかわうどん、ちよっと値段の割に量が少ない感じ、そして、この平べったくて幅の広い麺も、口の中に入ると、小麦粉の団子みたいな食感で、「うどん」とはちょっと違う感じ、一瞬、ハズレの食事かな思ったけど、夏季限定メニューだったので、挑戦してみたかったし、食欲もあまりなかったので、分量もこれくらいでお腹一杯になったので、まあ、納得ですかね。人気ブログランキング孤独のグルメ 冷やしひもかわうどん
Aug 14, 2026
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鵜の岬国民宿舎周辺を散策してみました。美しい海岸と太平洋の景色がいいですね。海桐が晴れてよかった。碁石ヶ浦と呼ばれるこの入り江です。ここにあったのが「愛と絆の鐘」、鳴らしてみると結構大きな音が響きました。こちらで有名なのはウミウ捕獲場所です。実は、鵜は保護鳥で、1947年一般保護鳥に指定されており、捕獲はできないのですが、この鵜の岬では、鵜飼いのためのウミウの捕獲が日本で唯一許可されており、有名な岐阜県の長良川をはじめ、全国の鵜匠・鵜飼いに海鵜(ウミウ)を供給しているのだとか。しかしながら、公開されている時期と時間が決められていて、もう時間はとっくに過ぎていました。時間は過ぎていましたが、とりあえず行ってみました。このトンネルの先が捕獲場所なのですが、扉は閉じられていました。こちらにウミウ捕獲場の説明がありました。今回は海霧で高萩の高戸前浜や北茨城の二ツ島などの茨城の海岸を楽しめなかったし、ウミウ捕獲場も見学ではできず、やや心残りでした。そんなわけで、改めて茨城の海岸を楽しみにリベンジで訪れたいです。(茨城県北部の海を巡るドライブ)【了】人気ブログランキング茨城の海岸物語(その13) 鵜の岬part2
Aug 13, 2026
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こちらの日立市十王町伊師にある伊師浜海岸(→→→こちら)は、環境省による快水浴場百選のほか、日本の水浴場88選、日本の白砂青松百選に選ばれています。周辺は古くからアカウミガメの産卵場所として知られ、太平洋側での「ふ化北限地」とされているそうです。夕方近くになって海霧が晴れてきたので、美しい海と砂浜が撮影できました。この伊師浜に隣接しているのが鵜の岬(→→→こちら)です。鵜の岬ということで、ウミウ(海鵜)のモニュメントがあります。この辺りでは、古くから鵜が捕獲されていたようで、江戸時代の水戸藩郡奉行、雨宮端亭が記した紀行文 「美ち艸(みちくさ)」(寛政年間)の中に伊師浜での鵜捕りの様子が記録されています。当時は鵜を食糧としたほか捕獲した鵜を用いて「徒歩鵜漁(かちうりょう)」を行っていたことが記されています。徒歩鵜漁とは、鵜匠が川の中を歩きながら鵜を操って魚を捕る、日本独自の伝統漁法です。伊師浜を含め、この一帯は国民休養地に指定され、東京ドーム約3個分の広さを誇る敷地があります。その中にあるスイレン池です。スイレンが咲いていました。そしてこちらのゲージは、ウミウ(海鵜)が飼育されていました。金網が邪魔で上手く撮影できませんでしたが、正真正銘のウミウです。こちらは、連続して日本一宿泊利用率の高く予約の困難な国民宿舎「鵜の岬」(→→→こちら)です。昔、つくば市の職場に勤務していた時、同僚と一緒に慰安旅行で、この国民宿舎に宿泊したことがあります。全室オーシャンビューでサービスも充実していました。こちらの国民宿舎に宿泊できなくても、「鵜来来(うらら)の湯十王」(→→→こちら)という日帰り天然温泉施設で温泉は楽しめます。(茨城県北部の海を巡るドライブ)【つづく】人気ブログランキング茨城の海岸物語(その12) 鵜の岬part1
Aug 12, 2026
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さくら宇宙公園に向かう坂道の途中で見つけた石碑です。崖にある横穴もなにか意味ありげですね。手前にある三角形の石碑には「奉唱光明真言供養碑」と刻まれていました。仏教的な意味がなにかありそうですね。この石碑には、明治百年記念大東亜戦争徴用馬慰霊碑とありました。戦争で徴用された馬を供養している石碑なんでしょうね。でも、ちょっと不思議な空間でした。(茨城県北部の海を巡るドライブ)【つづく】人気ブログランキング茨城の海岸物語(その11) 大東亜戦争徴用馬慰霊碑
Aug 11, 2026
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さくら宇宙公園にあるパラボラアンテナをもう少し見学してみました。アンテナの前には石碑がありました。「日本における国際衛星通信発祥の地記念碑」というのがありました。ここはかって「KDDI茨城衛星通信センター」(→→→こちら)が昭和38年(1963年)から平成19年(2007年)まで設置されていた所なんですね。日本における国際衛星通信発祥の地記念碑昭和38年(1963年)11月23日、米国の周回衛星「リレー1号」を経由した初の日・米間TV中継が、当茨城衛星通信所(当時は茨城宇宙通信実験所:同年11月20日開所)と米国カリフォルニア州の米国航空宇宙局(NASA)地球局との間で成功裡に実施された。このとき米国から送られてきた映像が奇しくもケネディ大統領の非業の死を伝えるところとなり多くの人々に国際衛星通信の有用性を強く印象づけた。KDDI株式会社の前身である国際電信電話株式会社(KDD)と産業界、官界の英知を結集して行われた国際衛星通信の幕開けであった。爾来、当地はインテルサット静止通信衛星などを利用した国際衛星通信の重要な基地局として44年間の長きにわたり極めて大きな貢献をしてきたのであったが、多様化する技術革新の波の中で平成19年(2007年)3月にその使命をKDDIの他の施設に譲り、任務を終えることとなった。この間、当通信所施設のために開発された技術の多くは世界中の地球局の標準になった。ここに当地が日本における国際衛星通信発祥の地であったことを記憶にとどめ、その使命および当所の開発・建設・運用に関係した方々の功績を後世に伝えるため、この記念碑を建立する。平成21年3月吉日この石碑の下には、「初の太平洋横断衛星テレビジョン伝送」 (First Transpacific Reception of a Television (TV) Signal via Satellite, 1963) としてIEEEマイルストーンに認定されたといるそうです。IEEEマイルストーンとは、IEEE(Institute of Electrical and Electronics Engineers)が電気・電子・情報技術やその関連分野の歴史的偉業に対して行う顕彰活動の一つだそうです。そんな重要な歴史的な場所なので、昭和天皇・皇后陛下も行幸されて記念植樹をされていたんですね。改めてパラボラアンテナを見てみました。これら現存する32mアンテナは国立天文台に譲渡・改造され、現在でも国立天文台水沢局VLBI観測所茨城観測局の電波望遠鏡(高萩局・日立局)として、茨城大学を中心に天文観測のために運用されているそうです。このパラボラアンテナ、この下の車輪でサー水平方向に動かしているんでしょうね。残りのもう一基のパラボラアンテナを見に行きました。しかし、ここは関係者以外は立入禁止のようでした。関係者って、「せきかかりもの」という名前の人ってそういないですよね。というわけで、望遠でアンテナを撮影してみました。(茨城県北部の海を巡るドライブ)【つづく】人気ブログランキング茨城の海岸物語(その10) KDDI茨城衛星通信センター跡
Aug 10, 2026
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北茨城市から再び高萩市に戻ってきて、さくら宇宙公園(→→→こちら)を訪れました。正式名称は高萩市衛星通信記念公園で、我が国初のテレビ衛星中継受信の地を記念した公園だそうです。ということで、入り口から少し入ったところにあったモニュメント、「幻の名器アルプスホルンかな?」です。これは世界で最初のインテルサット標準地球局として昭和42年(1967年)12月に完成、平成2年(1990年)3月に撤去したKDD茨城第2アンテナの一部、ホルンリフレクター(一次放射器)と呼ばれるものです。電波を効率よく送・受する役目をし、いわば電波の出入口に当たる部分で、細い先のほうに送受信機が接続されていたそうです。重さは約3トンで材質はアルミニウム合金だそうです。また、下にある大きな歯車は、約350トンあるアンテナ可動部を水平方向に動かすものだそうです。茨城第2アンテナは、アポロ計画による人類初の月面着陸の場面をお茶の間に届けたそうです。さくら宇宙公園の中は、一見するとゴルフ場のような芝生の広場ですが、ゴルフは禁止です。その他、アルコールの持ち込み、バーベキュー禁止など色々と禁止事項がありました。こちらにある建物は、茨城大学宇宙科学教育研究センター(→→→こちら)です。どんな研究しているんでしょうかね?公園の中で見えたパラボラアンテナを利用した宇宙の研究でしょうか?こちらの「茨城県北ジオパーク構想 茨城大学宇宙科学教育研究センタージオサイト」という説明板によると、高萩・日立にある口径32mの電波望遠鏡は、太陽系から遥か彼方にある星の誕生を観測します。これらの星の中には、周辺に開店するガス円盤が観測されており、やがて、この円盤の中で惑星が誕生します。とありました。この広い宇宙の中、今この瞬間にも、どこかで星が生まれているんですね。ちなみに、茨城県北ジオパーク構想は立ち消えになっているみたいですね(→→→こちら)。(茨城県北部の海を巡るドライブ)【つづく】人気ブログランキング茨城の海岸物語(その9) さくら宇宙公園
Aug 9, 2026
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