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北関東の旅 岩宿を続けているところですが、なかなか記事の作成が捗らないので、昨日訪れたJR両国駅にある旧駅舎をリニューアルして造られた複合飲食施設-両国-江戸NORENの紹介でお茶を濁します。今年最後の三連休の最終日、11月4日、天気もいいので両国あたりまで散歩してきました。-両国-江戸NORENの前に飾られていた東京ドイツ村(→→→こちら)から送られてきたマリーゴールドです。東京ドイツ村って千葉県袖ケ浦市にあるのに、東京とついているのが、なんか不思議ですね。千葉県浦安市にある東京ディズニーランドは、まあ、東京都江戸川区の隣なのでなんとなく東京とつけても違和感はないんですが、袖ケ浦までとなるとね・・・。また、建物の中では、愛好家の皆さんにより相撲甚句の公演がありました。こういう民謡とか相撲甚句とか、趣味で楽しんでおられる方って結構いるんでしょうね。人気ブログランキング-両国- 江戸NOREN
2024年11月05日
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かっぱ橋道具街まで来たのですが、今さら鍋や包丁という調理用品を買うつもりもないので、田原町にある都バスの転回場まで足を延ばして、その隣にある、行列のできるこちらのお店までやって来ました。このお店、パンのペリカン(→→→こちら)といって、結構遠方からのお客さんもパンを買い求めにやって来る人気店です。創業は1942年という老舗ですが、売っているのは食パンとロールパンのみというこだわりのパン屋さんで、小麦の味がしっかりとするパンを売っています。また売り切れると早めに店を閉めるので、早く行って買わないといけません。それから、ペリカンの隣にあるこちらの磯村政次郎商店(→→→こちら)の胡麻油も気になっているんですが、我が家ではもう30年以上、家で天ぷらを揚げたことがないので、買ったことはありません。(秋葉原~秋葉神社~かっぱ橋道具街へ歩いたコース)【了】人気ブログランキング秋葉神社は秋葉原駅からは遠かった(その6)
2024年04月26日
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そして、食に関する専門店が集まるかっぱ橋道具街(→→→こちら)もこの近くです。この道がかっぱ橋道具街になります。もうよくテレビや雑誌で紹介されていますからよく知られていますね。かっぱ橋道具街といえば、菊屋橋交差点にあるこのオブジェが有名ですね。ちなみに、かっぱ橋道具街のもとになった合羽橋の名称の由来には、2つの説があるんだそうです。1つめは、金竜小学校跡地辺りにその昔伊予新谷の城主の下屋敷があり、小身の侍や足軽が内職で作った雨合羽を、天気の良い日に近くの橋にズラリと干していたという、「雨合羽」説。2つめは、昨日紹介した曹源寺通称”かっぱ寺”に墓所がある合羽屋喜八のお話しです。合羽橋喜八の掘割工事を隅田川の河童たちが手伝ったという説です。多分、東京合羽橋商店街振興組合としては、2つめの説を支持しているんでしょうか。かっぱ橋道具街の真ん中のあたりにあるポケットパークに、金色に輝くかっぱ河太郎像が建立されています。この像は、平成15年10月、「合羽橋道具街」の誕生90年を記念して、東京合羽橋商店街振興組合が建立したものだそうで、石碑には、2つめの合羽屋喜八と隅田川の河童のことが刻まれていました。(秋葉原~秋葉神社~かっぱ橋道具街へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング秋葉神社は秋葉原駅からは遠かった(その5)
2024年04月25日
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折角ここまできたので、かっぱ寺としてしられる曹源寺(そうげんじ)(→→→こちら)に行ってみることにします。こちらが曹源寺の入口になります。曹洞宗のお寺でした。かっぱ寺らしく、「かっぱのぎーちゃん」が、入り口右手で出迎えてくれました。そして、正面には立派な本堂がありました。これが「かっぱ堂」、河童大明神を祀るお堂です。商売繁盛、火水難除に御利益があるそうです。また、この中にかっぱの手のミイラがあるそうで、見たい人は是非予約をしてからとお寺のホームページに書いてありました。こちらは、字も薄くなって、さらに錆びも浮いてよく見えませんが、多分、かっぱ寺の由緒を描いているんでしょう。一説によれば、文化年間(1804年~1817年)の頃、この一帯は低地で水はけも悪く、しばしば水害に悩まされたので、商人・合羽屋喜八が私財を投じ、新堀川(現在の合羽橋道具街にあった水路。合羽橋の名の由来の一つ)の開削の工事を行ったそうです。この工事の折、近隣の隅田川に棲んでいたとされる河童が手伝ったと言われています。そして、文化11年(1814年)に喜八が没し、菩提寺である当寺院に葬られいつしか「かっぱ寺」と言われるようになったのだとか。ということでかっぱ堂の回りには河童の像がありました。そして、好物のキュウリもお供えされていますね。(秋葉原~秋葉神社~かっぱ橋道具街へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング秋葉神社は秋葉原駅からは遠かった(その4)
2024年04月24日
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かっぱ橋本通りを浅草方面に歩いて行き、ここ松が谷二丁目の交差点に着くと、交差点を左折して、この左衛門橋通りを入谷方面、北に向かうと、秋葉神社に到着します。この秋葉神社御縁起によると、明治初年東京府内に火災が頻発し市民の難渋せる状を御憂慮せられた英照皇太后(明治天王御母)の思召を以て、明治天皇より太政官に御下命になり、宮城内紅葉山より鎮火三神を奉遷し東京府火災鎮護の神社として現今の秋葉原の地の創建せられたのが当社の始めである。明治21年鉄道駅設置のため境内地を払下げ現在地に御遷宮となる。秋葉原の駅名も当社名にその因を発する。とありました。ということで秋葉原駅から浅草の松が谷まで移転してきたんですね。御遷宮百年記念の石碑も建立されていました。こちらが社殿です。なかなか立派な社殿です。こちらが扁額です。(秋葉原から秋葉神社へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング秋葉神社は秋葉原駅からは遠かった(その3)
2024年04月23日
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上野駅から昭和通りに沿ってさらに北に向かいます。日本の地下鉄唯一の踏切のある東京メトロの上野検車区(→→→こちら)にやって来ました。この銀座線の踏切。柵の隙間からのぞくと、この線路が地下につながっているんですね。そして、かっぱ橋本通りにくると、今度は東に向かって歩きます。(秋葉原から秋葉神社へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング秋葉神社は秋葉原駅からは遠かった(その2)
2024年04月22日
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秋葉原です。秋葉原の地名の由来は、つぎのようなことだそうです(→→→こちら)1869(明治2年)の相生町の大火を機会に、当時の明治政府下の東京府は9000坪(約3万平方メートル)の火除地を当地に設置し、翌1870(明治3年)年に、遠州(現在の静岡県)から火除けの秋葉大権現を勧請し、鎮火神社としてまつった。 当初は鎮火原と呼ばれたが、鎮火神社が秋葉神社と改められると、「秋葉原(あきばはら・あきばっぱら)」と呼ばれるようになった。ということで、地名の由来となった秋葉神社へ行ってみることにしました。秋葉原の電気街から、中央通りを北に向かいます。いつの間にかアメ横に来てしまいました。アメ横から入った上野中通り商店街にある「都まんじゅうのかるた家」(→→→こちら)です。都まんじゅうは上野を代表するお菓子だとMoMo太郎は思っております。そして、いつの間にか上野駅まで来てしまいました。「♪上野は俺らの心の駅だ」ですから「ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聞きにゆく」わけですね。(秋葉原から秋葉神社へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング秋葉神社は秋葉原駅からは遠かった(その1)
2024年04月21日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。今回の駅からハイキングのゴールは、京成電鉄の京成高砂駅になります。こちらが駅の南口になります。この駅には、京成電鉄の本線・金町線・成田空港線と北総鉄道の北総線が乗り入れています。そして、京成電鉄と北総鉄道の共同使用駅なのですが、駅名に「京成」を冠しています。また、元々は曲金駅(まがりかねえき)として開業したそうですが、柴又帝釈天の参詣客から「『曲金』では縁起が悪い」と言われたため、このあたりの小字名にあった「高砂」に駅名を変えたそうです。ちなみにその高砂は、明治の地租改正の際、謡曲ちなんでつけられた小字名(墨田・朝妻・出雲・須磨・明石・高砂・吾妻)の中から縁起がいい名前として選ばれたそうです(→→→こちら)駅東側の踏切を渡って北口に行ってみました。なぜか偶然、お相撲さんが写り込んでいますが、葛飾区には、元大関雅山の二子山親方が率いる二子山部屋、元大関千代大海の九重親方の率いる九重部屋、そして令和5年10月には元関脇旭天鵬の大島親方の率いる大島部屋が出来たそうですから、お相撲さんもよく見かけるのでしょう。駅の横にあるこの踏切は、京成本線と北総線(成田スカイアクセス線)の列車が同時に通過する上、車両基地への入・出庫の列車も低速で通過するため、いわゆる開かずの踏切となっています。向こうに見えるのが、京成電鉄高砂車庫です。ちなみに京成高砂駅は京成本線と北総線が発着する島式ホーム2面4線(地平)と京成金町線が利用する単式ホーム1面1線(高架)になっています。今は京成立石駅では高架化工事が進んでいて、隣の青砥駅はすでに高架駅となっているので、いずれ、このあたりも連続立体交差工事が行われるのだとは思いますが、それができるまでは開かずの踏切を我慢するしかないのでしょうね。こちらの北口から橋上駅舎に上がりました。京成高砂駅の改札口です。ここから京成電鉄に乗って帰りました。JR東日本の主催した駅からハイキングのイベントでしたが、結局行も帰りも、JRではなく京成電鉄を利用してしまいました。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【了】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その11) 京成高砂駅
2023年11月02日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。新中川の左岸側の堤防を歩いて北上しています。左手には新中川を見て、右手には小岩駅と金町駅を結ぶ貨物線の新金線を見て、歩いて行きます。ここが、埼玉県・茨城県および東京都を流れ東京湾に注ぐ一級河川の中川と新中川の分岐点になります。新中川はここで中川から分かれて、中川と江戸川の間を平行するように流下し、江戸川区江戸川で、東から流れる旧江戸川に合流しています。分岐点を過ぎると河川の名前は中川になります。中川を走るモーターボートです。塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に直接つなぎ支える構造である斜張橋の高砂橋です。高砂橋からみた新金線です。貨物列車の写真を撮影するのにいいスポットかもしれませんね。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その10) 中川分岐点と新金線
2023年11月01日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。奥戸新橋を渡って新中川の右岸側にある宝蔵院(→→→こちら)にやって来ました。こちらが宝蔵院の山門になります。江戸時代中期に尊王論者が弾圧された最初の事件である宝暦事件の首謀者竹内式部の門下生で、公家の徳大寺公城の家臣だった本堂良喜と公城の娘が、京都から落ち延びて、このお寺で仏門に入ったそうです。そして、師匠竹内式部の菩提を弔うために安置した薬師如来像が有名なようですね。これは昭和38年に完成した中川放水路の記念として建立された「和光の鐘」を吊った鐘楼です。こちらが本堂になります。なかなか立派な建物です。寺号は、青旧山和光寺というそうです。新中川の堤防を北に向かって歩きます。こちらの橋は架け替えの工事中で、この仮橋で左岸側に戻りました。新しい橋の橋脚は出来上がっているようですね。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その9) 宝蔵院
2023年10月31日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。鎌倉公園からさらに南下して、京成本線を越えて行きます。葛飾区細田と呼ばれる地域を歩いて行くと、「東用水せせらぎ通り」という緑道がありました。葛飾区には葛飾区水元の小合溜井を水源とした江戸時代に整備された用水路があり、小岩用水・東井堀・中井堀・西井堀という、いずれも農業用水や物資の輸送路として利用されてきた水路がありました。東用水というのは東井堀の別名です。用水路としての役目を終えた東井堀は、ほとんどが道路になりましたが、葛飾区高砂2丁目19から細田1丁目22までの間は東用水せせらぎ通りとして、歩道、緑、花、小さなせせらぎが整備されています。この東用水せせらぎ通りに並行するように、新金線とも呼ばれる新金貨物線(→→→こちら)が走っています。この新金線を越えて新中川の近くまでやってくると、ちょっと洒落た公園がありました。奥戸ローズガーデン(→→→こちら)という公園で、日本の皇室や海外の王室ゆかり名前が付いたバラなど、様々なバラが植えられています。このようなオリンピック・パラリンピックを記念したバラも栽培されているようです。バラの咲くタイミングを見計らっていくといいですね。9月中旬、厳しい残暑のせいか花も少なかったです。ガゼボと呼ばれる西洋風四阿などがあって、英国風の庭園デザインになっていました。こちらの新中川に架かる奥戸新橋を渡って、対岸に渡ります。この橋は、四ツ木と小岩を結ぶ幹線道路である奥戸街道の橋です。橋の南側には新金線の鉄橋が見えます。新金線はここで新中川を渡って総武線の亀戸駅方面に向かい、さらに南に向かって江東区砂町を経て江東区塩浜の汐見運河のあたりまでつながっています。新中川、かなり河幅は大きいです。さて、この新中川、中川の洪水対策として中川放水路として1949年から1963年にかけて新しく造成された水路ですが、1965年3月、一級河川に指定され河川名を「新中川」に改称されたそうです。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その8) 奥戸ローズガーデンと新中川
2023年10月30日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。北総線の高架橋を越えたところにある鎌倉公園(→→→こちら)です。入口には「野草園」という古びた看板が掲げられていました。しかし、この野草園は2022年3月5日に開園したそうです。こちらが鎌倉公園の案内図です。野草園以外にも、芝生広場なども整備されていて、子供達が楽しめそうな公園になっています。こちらは入口付近にあった花時計。丁度、お昼時にこの公園に到着したんですね。こちらの遊具は、木でできたいかだの上に乗り、ロープを引いて池を渡る「いかだ渡り」という遊具です。ちょっとした冒険気分を子供たちが味わえそうですね。こちらは、野草園らしく草花が植えられているエリアです。葛飾区にも鎌倉という地名がある由来が書かれていました。戦国末期から江戸時代のはじめにかけて鎌倉に住んでいた人たちが移住したことから、鎌倉という地名になったそうですね。大きな池がありました。そして奥にある建物は、野草園の管理所です。授乳室なんかもあってなかなか充実した施設です。この池は「じゃぶじゃぶ池」という名前で、夏の間は子供たちが水遊びできるみたいです。また冬はスケートリンクにもなるそうです。無料で楽しめるこんな公園があるって、葛飾区もなかなか住みやすそうな街ですね。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その7) 鎌倉公園(野草園)
2023年10月29日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。ところで、昨日いただいたコメントの中に、「タコ社長には子供はいなかったのでしょうか?」という質問がありましたが、タコ社長には、美保純さんが演じたあけみという娘さんがいました。さて、こちらの道、柴又街道を南に下っていきます。こちらにあるのは、東京スマイル農業協同組合の経営する葛飾元気野菜直売所(→→→こちら)です。葛飾区でとれた新鮮な野菜を購入できるお店として有名らしいです。しかし、葛飾区内でも野菜を栽培してている農家さんがいるんですね。この住宅街の道を歩きました。このあたりが今回の駅からハイキングのコースの中間地点になるそうです。ちなみに今回のコースの距離は12kmだそうです。そしてこちらは、京成電鉄高砂車庫です。門扉越しにしかわかりませんでしたが、鉄道の日なんかに一般公開してもらいたいですね。この道は、かってあった小岩用水の水路の上に蓋をかけて歩道にしています。この道の先に見えるのは北総鉄道の高架橋です。成田空港に行く京成スカイライナーはこちらの線路を走っています。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その6) 京成電鉄高砂車庫
2023年10月28日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。スーパー堤防(→→→こちら)とは、越水しても崩壊し決壊しないよう、裏法面を3%以内の緩やかな勾配としたものをいうそうですが、その土地を利用して公園にしているようです。ここには、葛飾柴又の生んだスーパースター、「フーテンの寅」こと車寅次郎(→→→こちら)をテーマとした葛飾柴又寅さん記念館(→→→こちら)です。こちらは、葛飾区山本亭(→→→こちら)です。ここは、地元ゆかりの山本工場(カメラ部品製造)の創立者である山本栄之助翁の自宅でした。関東大震災後、当地に移り住み、以後4代にわたって使われていたものを、昭和63年に葛飾区が取得し、平成3年4月から一般に公開しているそうです。柴又にこんな豪邸に住んでいた人がいたんだなと改めて思う次第です。そして、柴又帝釈天(→→→こちら)の二天門です。寅さん映画でもお馴染みの門前ですね。そして、ここが板本尊を祀る帝釈堂です。そして、帝釈天参道です。この団子屋さんが寅さんの実家のモデルとなったところだそうです(→→→こちら)。映画の設定では、団子屋さんの裏は、義弟の諏訪博が勤めるタコ社長(→→→こちら)の経営する印刷会社工場でしたが、今では団子屋さんの駐車場になっていました。タコ社長の会社、後継者がいなかったんですね。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その5) 柴又帝釈天
2023年10月27日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。江戸川にやってきました。江戸川に建っているこれは、江戸川の水を取り入れている取水塔です。堤防は、江戸川堤サイクリング道路として整備されています。自転車でもいいし、歩いてもいい道です。こちらは別の取水塔。いろんなデザインがあるんですね。水利使用標識です。東京都の水道水、ここは毎年更新なんですね。金町浄水場で都民の皆様に水道水を送っています。墨東エリアに住むMoMo太郎も、多分、江戸川の水を飲んでいるんでしょうね。江戸川の河川敷も広々として、野球のグランドも整備されていて、みなさんスポーツの秋をエンジョイされていますね。柴又公園として整備され、葛飾区民の憩いの場所なんですね。やっぱりここで有名なのは、矢切の渡し(→→→こちら)ですね。矢切の渡しは、小説「野菊の墓」や、歌謡曲「矢切の渡し」で有名な唯一現存する江戸川の農民渡船で、松戸市矢切と葛飾区柴又を結んでいます。こちらは「矢切の渡し」の歌碑です。江戸時代は、街道に続く渡し舟は厳しく管理されていましたが、一方で対岸に農地を持つ農民のための渡船は許されていました。そんなわけで、旅人の中には事情により街道の利用がはばかられ、農民に扮装して川を渡る者もあったといいます。歌謡曲の最初の一節、「♪連れて逃げてよ」はこういう背景で書かれたのでしょうかね。この渡し舟、片道200円で利用できます。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その4) 江戸川堤と矢切の渡し
2023年10月26日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。新宿交通公園にやって来ました。交通がテーマの公園。無料で楽しめるテーマパークみたいです。交通公園は児童が遊びながら交通知識や交通ルールを体得させることを目的として設置される都市公園のことで、第1次交通戦争と呼ばれる1960年代から全国的に整備がはじめられた公園です。こちらの建物が公園の管理事務所を兼ねた建物です。交通公園というだけあって、色んな交通機関が展示されています。これはミニSLです。このミニSLは土日、祝日のみ運行されています。料金は100円になります。こちらはゴーカート、といっても自分の足で漕いで進むタイプ。小さい子供にはむずすしぃかな。都バスも展示されています。新宿交通公園からひたすら東に向かって歩くと、京成電鉄の金町線の方へやって来ました。金町線、単線だったんですね。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その3) 新宿交通公園
2023年10月25日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。新金線の踏切を越えて、少し行くと石仏が沢山並んだ場所がありました。記念碑の碑文を読むと、道路の拡幅に伴い地蔵菩薩などの石仏をこちらに移設した旨が記されていました。旧水戸街道というのは、その名の通り今の国道6号、東京や千葉では水戸街道と呼んでいます。そして、旧上下之割用水(→→→こちら)というのは、江戸川から取り入れていた灌漑用水のことで、農地がなくなるとともに、下水道として地下水路になったのでしょう。ちなみに「新宿」とありますが、「しんじゅく」ではなく「にいじゅく」と読むそうです(→→→こちら)で、このあたりに小規模な宿場町があったようです。色んな石仏がまとめられているみたいですね。こちらの奇妙な形状の石碑には、「帝釋道」と刻まれていて、柴又帝釈天への道しるべということですね。こちらの道が旧水戸街道になるわけですね。新金線の踏切には「浜街道踏切」とありましたが、これは水戸以北、仙台に向かう街道は磐城街道と呼ばれていて、明治時代以降は、水戸街道と磐城街道をまとめて陸前浜街道と呼称するよう明治政府から通達されたことを受けての踏切の名称になるのでしょう。踏切の先の町並み、並木道となっていてなんとなく旧街道らしい雰囲気も・・・あるような。こちらは国道6号に面した警視庁亀有署。漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の主人公、両津勘吉巡査長はこちらの所属になるのかな?そして、この国道6号(水戸街道)を渡ります。水戸街道、交通量は多いですね。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その2) 帝釈道の道しるべ
2023年10月24日
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残暑厳しい今年の9月16日(土)にJR東日本が主催する駅からハイキング「陸路・鉄路・水路をたどり下町情緒と水辺風景を感じる」に参加した報告です。京成電鉄金町線に乗ってやってきました。京成金町駅です。この駅は、金町線の終点であり、行き止まり型の棒線駅です。JR東日本の開催するイベントに参加するのに、京成電鉄を使って参加するのは、いささか気が引けたのですが、MoMo太郎の住む東京墨東エリアからはJR常磐線を使うより、こちらの方が時間が掛からないので、利用しました。で、出発は当然のことながらJR常磐線の金町駅です。駅から線路沿いに歩いて行くと、この日は地元のお祭りの日で、沿道には、このようにお神輿が飾られていました。下町というと、東京では武蔵野台地東麓や隅田川沿いがそのエリア(→→→こちら)で、葛飾区この辺りを下町と呼ぶのには、やや抵抗がないわけでもないですが、かと言って山の手でもなく、本来は田園調布(?)のような郊外の住宅街というべきかもしれませんが、まあ、台東区、墨田区、江東区、荒川区、文京区、足立区、葛飾区、そして江戸川区は東京の下町町区域として認識されています。というわけで下町には欠かせない、銭湯です。屋号は「金町湯」とありました。江戸の昔は、今の水元公園あたりを水源とし農業用水を送っていた小岩用水の跡地のこの道路を歩いて行くと、踏切があります。総武線の小岩駅と常磐線の金町駅を結ぶ新金貨物線の踏切です。この路線、新金線とも呼ばれていて、葛飾区はこの路線の旅客化を検討しているそうです(→→→こちら)。確かに旅客線となると便利な気もしますが、しかし、用地はあるとしても、この踏切やあるいは国道6号を平面交差している踏切があるなど設備面でハードルが高そうな気もしますね。(駅からハイキング 金町から京成高砂で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング金町からたどる下町歩き(その1)京成金町駅周辺
2023年10月23日
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総武本線の高架に沿ってJR小岩駅の方へ向かいます。柴又街道と呼ばれる道を渡ります。この道、名前通り、この道を北に向かうと柴又の帝釈天の参道につながっています。そして、ちょっと怪しい雰囲気の漂う通りに入って来ました。小岩地蔵通中央通り会です。この界隈の飲んべえのみなさんにはお馴染みの飲食店街でしょうか。小岩駅南口に向かっていろんな商店街が集まってきています。こちらはサンロード商店街。サン「Sun」というだけあってアーチのてっぺんには太陽をイメージするマークがありました。こちらは昭和通り商店街。やはり昭和の歴史を刻んだ商店街なんでしょうか。出発地点のJR小岩駅南口に戻ってきました。ここから黄色い総武線の電車に乗って帰りました。(ぶらり小岩のコース)【了】人気ブログランキングぶらり小岩(その14) 歓楽街と商店街
2023年08月14日
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上小岩親水緑道は、京成本線と交差するあたりで終わり、京成本線沿いを形成小岩駅方面に向かっすこし北西の方へ歩きました。京成本線を横切るこの踏切を渡ります。少し古い形の3700形が走ってきました。踏切で漫然と待っている時にやってきたので、うまく撮影できなかったです。京成本線の線路。2010年の成田スカイアクセスの開業まではここを成田空港行きのスカイライナーが走っていたんですね。北小岩の住宅街の中を歩いて行きます。ここで広い道と交差します。この道は御徒町から延びる蔵前橋通りです。蔵前橋通りを超えるとやがて総武本線の高架が見えてきました。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その13) 京成本線と蔵前橋通りかな
2023年08月12日
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江戸川区内に18路線、17,680メートルにわたって整備されている親水緑道のひとつ上小岩親水緑道を歩いて行きます。この親水緑道は、平成3年(1991)3月に完成した延べ長さ950メートルの親水緑道です。途中にはこのような親水広場も整備されています。残念ながらこの日は右側の池に水は入っていませんでした。四季を感じさせる樹木を植え、小川のせせらぎを演出した緑道。途中にはベンチがあって休むことができます。MoMo太郎が中学生か高校生くらいなら、友達とこのベンチに座って、気になる女子の噂話をしていかも。こちらに変わった石碑がありました。上小岩遺跡についての碑文がありました。上小岩遺跡は、上小岩小学校あたりを中心に、北小岩六・七丁目付近に広がっています。昭和二十七年に、小岩第三中学校の生徒が自宅裏の用水路から土器片を発見し、同校の中村進教諭に知らせたことから、その存在が知られるようになりました。その後、多くの人びとにより発掘調査が進められ、古墳時代の前期(今から約1600年前)を中心とする遺跡であることがわかりました。出土品は、弥生中期から古墳時代前期の土器類が主で、東海地方との交流のあったことを示す土器も出土しています。また、漁労に用いた土錘も少なくないことから、半農半漁の生活をしていたこともうかがえます。この地の黎明期の様子を伝える遺跡です。平成三年春 江戸川区古くからこのあたりには大きな集落があった歴史ある住宅街だったんですね。こちらの説明板は、古墳時代にこのあたりに住んでいた人たちの暮らしの様子を説明したものですが、雑草に覆われてどのようなものかわかりませんでした。近所の上岩井小学校の良い子のために何とかしてほしいですね。所々にこのような小さな滝もあって夏は涼しげでいいですね。でも一晩中、水の音がしていると少し気になるかも。夜は止めるのかもね。明治11年に農業用水路として開削された水路の跡地を利用した上小岩緑道。みんなの憩いの散歩道なんでしょうね。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その12) 上小岩親水緑道と上小岩遺跡
2023年08月11日
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江戸川の堤防をさらに歩いてゆきます。江戸川とつながっている堤防の樋管を発見しました。占用目的が「排水樋管の存置(善兵衛樋管)」と示されていました。堤防を降りてすぐのところに、高く組み上げた岩と岩との間から、江戸川の水が勢いよく噴き出し、流れ落ちる仕組みになっている滝のような仕掛けがありました。これが善兵衛樋を今に伝えるもので、かつてこの辺りの農村は、江戸川を目の前にしながら水不足の悩みが絶えなかったそうです。明治に入って、上小岩村の石井善兵衛を中心に運動を進めた結果、明治11年(1878)に取水口が完成し、「善兵衛樋」と命名されたそうです。しかし、都市化された今では用水路の役割はなく排水路として利用されているようで、この滝は親水施設という位置づけだと思われます。この善兵衛樋の近くにあるこの祠は、「慈恩寺道の石造道標」と呼ばれるもので、正徳3年(1713)に建立された地蔵菩薩像の供養塔です。慈恩寺は、埼玉県岩槻市にある天台宗の古刹で、坂東三十三観音霊場十二番の札所です。平安初期、慈覚大師(円仁)の開基と伝えられ、千手観音菩薩を本尊としています。この地蔵菩薩は慈恩寺への道(慈恩寺道)の道標として岩槻街道の辻に建てられというそうですが、ここから岩槻までは遠いですよね。地蔵堂の横に、慈恩寺参道の石像道標と善兵衛樋に関する説明板がありました。次は、こちらの善兵衛樋を復元した上小岩親水緑道に沿って歩いて行きます。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その11) 善兵衛樋と慈恩寺参道の石像道標
2023年08月10日
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小岩を訪れたのは6月10日(土)でした。ということて小岩菖蒲園(→→→こちら)では、菖蒲園まつりが開催されていました。,江戸川河川敷に広がる「小岩菖蒲園」は、地元の方から寄贈されたハナショウブをもとに、江戸川区が回遊式の庭園風に歩整備したものです。入園料は無料です。時地面積は19,251平方メートル。栽培されている品種・花の数は100種類、50,000本だそうです。ちなみに、ハナショウブは植物分類学でいう分類とは異なり、利用する側から見た分類が用いられ、これを「園芸的分類」と学問上呼ばれているそうです。牧野富太郎先生のように既知の記載されている種と異なることを論文として発表し、標本を作成します。しかし、栽培植物では、人が育成し選抜した個体には品種名が付けられます。さらに、花き類では、種間雑種や種内交雑によって成立してきた一連の品種群や、特定の共有できる特性を持つ品種群については系統とし、英名ではGroupと表記する決まりになっているそうです。小岩菖蒲園にある系統としては、江戸系、伊勢系、肥後系の三系統が栽培されているようです。紫・白系統の花が多い印象のハナショウブですが。こちらの黄色いハナショウブは、外国の系統なんでしょうか。手入れ方法について説明板がありました。ハナショウブだけでは、見に来る人も飽きるでしょうという配慮でしょうか。スイレンも栽培されていました。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その9) 小岩菖蒲園
2023年08月08日
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江戸川を渡る総武線の鉄橋です。総武本線江戸川橋梁(→→→こちら)だそうです。下から橋を見てみるのも面白いです。江戸川グランド施設案内図です。たくさんのグランドがありますね。こちらは、国道14号線が江戸川を渡る市川橋(→→→こちら)です。こちらも下から見ると、こんな構造なんですね。こちらは京成電鉄江戸川橋梁です(→→→こちら)。丁度、京成電鉄の車両が橋を渡っています。こちらも下から見てみました。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その8) 橋の下
2023年08月07日
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善養寺のすぐ横には江戸川が流れています。その江戸川沿いの堤防の道を歩いてゆきます。堤防の道から影向の松が看板見えました。江戸川の向こうは千葉県市川市になります。また河川敷の高水敷にはサイクリングロードになっています。広い河川敷、野球場にも利用されていました。川の上には広い空が広がっています。向こうに見えるのは、総武線の鉄橋です。鉄橋の下をくぐるために河川敷に降りていきます。江戸川の広い河川敷、学校の運動場にも使われているんですね。こちらの広場は、二輪車訓練場に使われているんですね。色々と使われているんですね。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その7)江戸川河川敷を歩く
2023年08月06日
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善養寺、影向の松だけではなく、その他にも色々見るべきものがありますよ。善養寺は「小岩不動尊」の別名でも知られているそうです。ということで、こちらにあるのが不動堂です。不動明王立像が祀られています。普段は秘仏ですが、正月三が日のみご開帳なんだそうです。こちらが本堂。弘化2年(1845)に再建されたそうです。本尊の延命地蔵菩薩像は、徳川第五代将軍綱吉公の帰依を受けた筑波山知足院の隆光大僧正が請来したものと伝えられます。こちらの額にある「金剛場」の額の揮毫は仁和寺真乗院の源証僧正だそうです。わざわざ京都の高名なお寺のお坊さんに書いてもらったというのが、このお寺の格を示しているのでしょうね。この本堂入り口左側にある「びんずる尊者」像です。びんずる(賓頭盧)というのはお釈迦様のの弟子である十六羅漢の一人だそうで大変神通力が強いそうです。江戸時代から「善養寺のなでぼとけ」とか「おびんずるさま」として親しまれていて、患部を撫でると病気が良くなり、鼻を撫でると美人になる、手を撫でると器用になるというご利益があるそうです。MoMo太郎は、一応、全身を撫でておきました。一通りお参りを終えて、こちらの朱塗りの仁王門から外に出ました。また、こちらにある「星住山」の額は本堂と同じく仁和寺源証大僧正の筆だそうです。山号は「星住山」です。山号の由来となったのは、善養寺九世住職の賢融和尚が「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」という修行を何日も続け、ついに終わるというその時、天から星が降ってきて境内のひときわ高い松の上で留まり、辺り一面を照らして輝きました。これが「星住山」の名前の由来だそうです。また、この光景を見た村人たちがその松を「星降りの松」と呼ぶようになったということです。残念ながらこの松は昭和15年の台風によって枯れてしまいましたが、現在は二代目が松が仁王門に向かって右奥に育っているそうです。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その6)善養寺 おびんずるさま
2023年08月05日
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小岩を散策した報告の続きです。やがてお寺の門が見えてきました。真言宗豊山派の善養寺(→→→こちら)です。門前には3基の石碑がありました。真ん中の大きな板碑は、「傘の碑」この碑は昭和5年(1930年)に和傘業界の発展に尽力した川野竹松の功績を称えて建立されたものだそうです。下小岩村入谷(現在の東小岩2・4丁目)付近で和傘作りが盛んに行われていたそうです。江戸時代から傘作りが広まり、明治末期から大正末期が最盛期だったようです。ちなみに、小岩駅に銅像のあった横綱栃錦の実家も蛇の目傘を作っていたそうです。こちらの石碑は、「天明三年浅間山噴火横死者供養碑」天明3年(1783)7月6日から8日にかけて起きた浅間山の大爆発で犠牲になった人馬の遺体がたくさん江戸川を流れ下り漂着してきたので、下小岩村の人びとはこれを手厚く葬ったそうです、寛政7年(1795)の13回忌にこの碑が建立されたそうです。東京都指定有形文化財「天明三年浅間山噴火横死者供養碑」と国指定天然記念物「善養寺影向のマツ」(→→→こちら)を示す石碑です。こちらの門は不動門と呼ばれる門です。こちらから境内に入りました。境内の中に入ると大きく枝を広げた樹木がありました。この松の木が「影向(ようごう)の松」です。「影向」という言葉は、神仏がこの世に仮の姿をとって現れることを意味で、この松の姿が神仏のように荘厳であることから名づけられたのでしょうか。四方に枝を広げた黒松です。自然の神様が作った盆栽のようですね。樹齢は600年以上、枝は東西28m、南北32mに広がり繁茂面積は日本一といわれているそうです。平成23年(2011)に国の天然記念物の指定を受けたそうです。ちなみに正式指定名称は「善養寺影向のマツ」です。昭和54年頃から昭和55年にかけて起こった「日本一のマツ争い」があったそうです。この「影向のマツ」と香川県大川郡志度町(現在は、さぬき市)の真覚寺境内に生育していた「岡野マツ」は、双方とも「わがマツこそ日本一の名木」と譲らず、1年余りにわたって論争が続いていたそうです。その争いを見かねた大相撲立行司の木村庄之助が仲裁に入り、「どちらも日本一につき、双方引き分け」と裁き、地元小岩の出身で、当時日本相撲協会の理事長を務めていた春日野親方(横綱の栃錦)も「双方を東西の横綱に推挙する」と庄之助の裁きを後押しし、二人の計らいによって「日本一のマツ争い」は無事に引き分けで決着がついたそうです。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その5)善養寺 影向(ようごう)の松
2023年08月04日
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MoMo太郎のイメージにある小岩の街って、「スナックや風俗店が多そうな街で。なんとなく治安が悪そう……」という感じでしたが、商店街もあり親水緑道もあり、住んでみると、港区や渋谷区とは違って、なんか庶民的で親しみやすいいい街みたいな感じがしました。昭和通り商店街というネーミングからして、人が住んでいる匂いがする堅実な街なのかも。こちらはスイミングスクール。子供たちを育てるには必要な施設ですね。人が大勢、歩いていますが、これはMoMo太郎と同じ「駅からハイキング」のイベントに参加している中高年の皆さんです。閑静とは言わないですが、気取らないで歩ける住宅街。東京駅に近いというのもベッドタウンとしては魅力かも。東京郊外のベッドタウンだけに貸しふとん店がありました。まあ、商売としては、福祉施設や企業の研修施設向けに寝具を貸し出しているんでしょうね。保育園なんかの園児のお昼寝用の布団なんかも扱っているのかも。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その4) 小岩はベットタウンです
2023年08月02日
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次はこの下小岩親水緑道を歩きます。訪れたのは6月10日でしたので、アジサイの花も沢山咲いていました。緑道の中には公園も整備されていて、子供たちが遊んだりできて、生活するにも潤いがあっていい街ですね。下小岩親水緑道という石碑もありました。こちらは、石の彫刻もあって、ちょっと歩いていても楽しいかも。江戸川区にはこのような5つの親水公園と18の親水緑道があり、水と気軽に触れ合えるスポットがあちこちにあるため、買い物へ行くついでに水遊びをしたり、涼を感じたり、日常生活の中で水を間近に感じることができます。ちなみに下小岩親水緑道は区内最初の親水緑道です。江戸川区は江戸川と荒川に挟まれ、中央を新中川が流れる、水とは切っても切り離せないエリアということてせすね。このあたりは明治の初めごろまで下小岩村と呼ばれて、農業が盛んに行われ、小川には魚が泳ぎ、鳥の遊ぶのどかな田園風景が広がっていたそうです。やがて、村は町になり、都市化が進み、かつての用水路は地域の排水路として利用されてきていたそうです。その後、下水道の整備によって、不要となった水路跡地を利用して、水とのふれあいを大切にする願いをこめて、緑とせせらぎの小径を再現しているのだとか。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その3) 下小岩親水緑道
2023年08月01日
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フラワーロード商店街を歩いてゆきます。名前のとおり歩道沿いに花壇があって花が咲いていました。商店街なので、色んなお店がありますが、MoMo太郎はいつもこの名前のドラッグストアの前を通るとき、この店で売っている花粉症の薬は効き目がありそうと想像してしまいます。商店街にあったコミニュティFMの放送局(→→→こちら)です。小岩箭弓稲荷神社という神社です。商店街って稲荷神社がよく奉られていますね。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その2) フラワーロード商店街
2023年07月31日
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多分、初めてやって来ました。JR総武線の小岩駅去る6月10日(土)、JR東日本が主催する駅からハイキングの「ぶらり小岩下町情緒と花菖蒲の名所を訪ねる」に参加するためにやってきました。昔の国鉄時代の白い制服を着た駅員さんが案内に立っています。これは地元出身の第44代横綱・栃錦(→→→こちら)の像です。参加を受け付けると地図やこれから訪れる施設のパンフレットなどを頂きました。小岩駅南口からの出発です。初めて歩く小岩の街、どんなところなのか期待しながらの出発です。(ぶらり小岩のコース)【つづく】人気ブログランキングぶらり小岩(その1) 初めての小岩の街
2023年07月30日
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鳩の街通り商店街にやって来ました。東京大空襲を免れたため、戦前のままの道幅の狭い商店街。また、長命寺に植樹した木の実ナナさん(→→→こちら)の出身地であり、吉行淳之介の小説「原色の街」(→→→こちら)ともなった特殊飲食店街だったところです。この商店街のほぼ中央部にある寺島保育園です。この保育園から路地を入っていくと、吉川英治旧居跡がありました。吉川英治は大正6年(1917年)、25歳の時、花街で知り合った赤沢やすと寺島村で暮らし始めたそうです。本格的な作家活動は30歳で「親鸞記」の新聞連載です。その後は、「剣難女難」や「鳴門秘帖」で文学作家としての地位を確立しました。しかし、両国、向島といったエリア、文学者たちに縁の深い土地柄なんですね。そして、東武曳舟駅に戻って、ここから帰宅しました。(両国から向島を歩くコース)【了】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その16) 吉川英治旧居跡
2023年07月28日
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さて、長命寺から都立本所高校近くまで歩いてきました。こちらにあるのが、「森鴎外住居跡」です。以下、説明板の書き起こしです。所在地向島三丁目三十七番・三十八番 文久二年(一八六二)に現在の島根県津和野町に生まれた森鴎外 (本名林太郎)は、明治五年(一八七二)十歳の時に父静男に随い上京しました。初めに向島小梅村の旧津和野藩主亀井家下屋敷、翌月からは屋敷近くの小梅村八七番の借家で暮らすようになり、翌年上京した家族とともに三年後には小梅村二三七番にあった三百坪の隠居所を購入して移り住みました。茅葺の家の門から玄関までの間には大きな芭蕉があり、鷗外が毛筆で写生したという庭は笠松や 梅、楓などが植えられた情緒的で凝った造りでした。この向島の家のことを森家では「曳舟通りの家」と呼び、千住に転居する明治十二年まで暮らしました。父の意思で学業に専念する道をつけられた鴎外は、上京二か月後には 西周宅に下宿して進文学社でドイツ語を学ぶ日々を過ごし、東京医学校予科(現東京大学医学部)に入学しました。明治九年以後は寄宿舎生活となりましたが、曳舟通りの家には毎週帰り、時おり向島 の依田学海邸を訪れて漢学の指導を受けていました。鴎外の代表作 『渋江抽斎』には「わたくしは幼い頃向島小梅村に住んでいた」と記し、弘福寺や常泉寺などがある周辺の様子や人々についても詳しく書き残しています。また、明治十年代に原稿用紙に用いたという「牽舟居士」 の号は近くを流れていた曳舟川 (現在の曳舟川通り)にちなむものでした。鴎外にとって、向島小梅村周辺での生活は短いものでしたが、思い出深い地として記憶にとどめられてい たようです。平成二十六年二月墨田区教育委員会京成タウンバス有01系統亀有~浅草寿町のバス停の名称も「森鴎外住居跡」です。そのほか墨田区コミュニティ バスの北西部ルートにも「森鴎外住居跡」という停留所があります。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その15) 森鴎外住居跡
2023年07月27日
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長命寺(→→→こちら)の近くに来たのですから、参拝することにしました。境内に長命寺が経営する言問幼稚園(→→→こちら)が併設されています。このお地蔵様も幼稚園に通う、よい子のために建立されているのでしょうね。こちらが本堂、本尊は阿弥陀如来だそうです。境内には石碑が多くありました。こちらは、隅田区指定有形文化財の松尾芭蕉の「いざさらば」の句碑です。「いざさらば 雪見にころぶ所まで」と刻まれいるようです。こちらにも変わった石碑がありました。石碑に肖像が彫られています。成島柳北(→→→こちら)の碑というそうです。成島柳北は幕末明治の随筆家であり、実業家だったそうで、幕臣として幕政に加わったのち、幕府崩壊とともに職を退き向島の地に暮らしましたが、東本願寺(旧通称東京本願寺)の法主に従い訪欧、翌年に帰朝。そして、朝野新聞の紙勢を拡張する機会に社長として迎えられ、雑録欄を担当して時事を風刺したそうです。また、外遊の折、修得した生命保険制度の知識を生かし、日本の生命保険制度の草分けである「共済五百名社」(明治安田生命の前身)の創立に協力した人物だそうです。こちらの石碑は、「出羽三山の碑」だそうです。隅田川を挟む向島・本所北部と浅草に及ぶ広い地域の人々が出羽三山信仰をしていたことを示す石碑で、どういう目的で建立されたのかは不明のようですが、江戸の町でも出羽三山(山形県にある月山・羽黒山・湯殿山)の修験道が信仰されていたようですね。これは「木の実ナナ植樹記念碑」というそうです。 「風のように踊り 花のように恋し 水のように流れる 木の実ナナと刻まれていて、また裏面には、「隅田川のほとり 向島に生まれ長命寺さんでバレエを習った子供時代、大好きな私のふるさとに感謝をこめて 平成15年2月吉日 植樹」刻まれていました。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その14) 宝寿山遍照院 長命寺
2023年07月26日
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墨堤通りに出て、首都高速の向島ランが見えてきたところで、享保2年(1717)創業の有名な長命寺桜もち(→→→こちら)のお店があります。こちらの説明板「正岡子規仮寓の地」によると、近代日本を代表する俳人の正岡子規は、向島周辺の景色を好み、大学予備門の学生だった子規は、長命寺桜もち「山本や」の2階を3ヵ月ほど借り、自ら月香楼と名付けて滞在して歌を詠んだそうです。こちらの説明板も長命寺桜もちのお店の横にありました。「三浦乾也旧居・窯跡」です。三浦 乾也(みうら けんや)(→→→こちら)という人、江戸幕府の御用人の家に生まれ、ckb@ 陶業を始めたのですが、長崎で造船術、金属加工技術などを学び、安政3年には仙台に招聘されて総棟梁として帆船「開成丸」の建造に携わった人物です。明治に入って居を東京に移し、明治8年(1875)年54歳で向島長命寺に移り、境内の一隅に築窯し、根付、印籠、帯止めなどの創作に励み、68歳でなくなったそうです。特に簪(かんざし)の珠は「乾也玉」の名で流行したそうです。また、明治時代に言問団子で使用されていた皿は、乾也が焼いたものだそうです。墨堤通りを歩いて長命寺の方に向かいます。そうすると、こんな石碑を発見。「墨堤植桜の碑」というそうです。墨堤の桜は享保2年、八代将軍吉宗による植樹がその始まりだそうです。文字は全く読めませんが、明治20年建立のこの碑にはその桜の由来が書かれていて。てん額は榎本武揚の書だそうです。こちらにも石碑が建立されていました。文字がかすれて読みにくい説明板。苦労して読んでみました、野口雨情文学碑都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見るここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和8年1933)、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唱われたものである。東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念に刻し、永遠に保存する。 昭和63年(1988)10月9日 墨田区ということで、達筆すぎて文字が読めなかった石碑には「都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る」という歌が刻まれているんですね。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その13) 長命寺桜もちと正岡子規仮寓の地
2023年07月25日
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見番通りです。「見番」というのは芸者に口がかかった時の取次や玉代(ぎょくだい)の計算、芸者屋の取締りなどをする事務所のことです。ということで、この道を行くと、見番の「向嶋墨堤組合」(→→→こちら)があります。戦前には見番も複数あったそうですが、昭和61年(1986)にそれまでの芸妓屋組合・料亭組合・料理屋組合の三業に分かれていた組織を合体して「向嶋塁堤組合」として一本化されて現在に至っているそうです。今のご時世、芸者さん呼んで料亭で宴会というのも流行らないですが、まだ花街としてここには生き残っているんですね。水商売ということでしょうか、龍神と刻まれた石碑が建物の前に建てられていました。この提灯は、組合に所属している料亭のものですね。こういう小さな社もあって、商売繁盛などを祈願しているのでしょうね。墨堤組合の並びにあり、交差点の角にある喫茶店。よくテレビのグルメ番組でも紹介されている喫茶店「カド」(→→→こちら)生ジュースと手作りくるみパンのお店だそうです。昭和33年創業。手掛けたのは作家志賀直哉の弟で建築家の志賀直三ということで、昭和レトロ感が濃く漂っていますね。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その12) 向嶋墨堤組合
2023年07月24日
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さらに隅田川を遡って言問橋(→→→こちら)にやって来ました。3径間ゲルバー鈑桁橋の言問橋、直線的なデザインで力強さを感じます。ちなみに言問橋は水戸街道(国道6号線)が通る橋なので、国土交通省が管理しているそうです。この言問橋から、向島の町の中に入って、この建物の方へやって来ました。「すみだ郷土文化資料館」(→→→こちら)です。名前の通り、墨田区の歴史、文化、伝統を紹介する地域博物館です。毎年3月と8月には東京大空襲に関連するイベントを開催し、空襲体験者による体験画を年間を通じて展示しています。そして、ここは作家の佐多稲子旧居跡でもあります。説明板には以下のように書かれていました。小学生の頃から利発な文学少女であったが、1歳の時に、結核で亡くなった母の治療費や父の放蕩などで家計はひっ迫。叔父を頼って、父、祖母とともに長崎から上京、向島小梅町52番地(現在、隅田公園内) の家に身を寄せることになる。牛嶋尋常小学校5年に転入したものの、家計を助けるために、キャラメル工場で働かなければならず、結局、小学校は5年で中退してしまった。その後、料亭、工場、書店などで働きながら、小說や短歌を投稿。 これらの経験が、後に『キャラメル工場から』 という作品にまとめられ、出世作となった。戦後、すぐに書かれた自叙伝ともいえる『私の東京地図』には、長く暮らした向島周辺のことが書かれている。「私の地図の、江戸案内の版画的風景には、三囲神社も書かれている。いつもひっそりとしていた神社だ。淀んだどぶ池のそばに、閉めたままの障子の白さを見せていたのは其角の家だ、と子ども心にも知っていた」(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その11) すみだ郷土文化資料館
2023年07月23日
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隅田川といえば、やっぱりこういう屋形船で繰り出すのもいいですね。「あみ清」というのがこの屋形船を運航している船宿の名前ですね。こちらの舟も「あみ清」所属。でも屋形船とはちょっと違いますね。多分、釣船ですね。そして、赤い吾妻橋(→→→こちら)が見えてきました。もう浅草ですね。吾妻橋はアーチが道路の下にある上路式鋼橋ヒンジアーチになっていて、橋の上に遮る物がなくて見晴らしはいいですね。吾妻橋の名所の由来は諸説あるそうですが、東岸にある吾嬬(あづま)神社への道筋にあたることから吾妻橋となったという説が有力といわれています。謎の金色のオブジェのあるアサヒビール株式会社本社ビルです。下町でビール飲むなら、アサヒビールというのが、MoMo太郎の家の掟になっています。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その10) 吾妻橋までやってきました。
2023年07月22日
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隅田川でカヌーを楽しむ人がいました。なんか大変そうですね。この黄色い上路式のアーチ橋は蔵前橋です。稲の籾殻を連想させる黄色に塗装されているそうです。隅田川テラスに木杭が沢山打ち込まれています。この説明板によると、これは「両国の百本杭」呼ばれるものを復元したもので、昭和五5年(1930)に荒川放水路(今の荒川)が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していたころから、水量が多く、今の両国橋あたりは湾曲もして水流が大変強く当たるため、水流を弱める目的で、おびただしい数の杭が打たれていたそうです。そして、さらに浅草方面に向かって歩いていくと、3つアーチが連続する3径間下路式タイドアーチ橋の厩橋が見えてきました。西岸の浅草に幕府の馬小屋があったことから厩橋になったようです。また、タイドアーチ橋とは、アーチ橋の支点部に働く水平力に対抗するために支点部同士を引張部材(タイ)で結び、水平力を伝達させる形式にしたものです。このため支点部に水平力は発生しない構造になっています。さらに、今度見えてきた橋は駒形橋です。駒形の名称は、この橋の西詰にある、浅草寺の飛地境内にある馬頭観音を祀る駒形堂に由来します。またこの橋は、中央径間が下路式ソリッドリブタイドアーチ橋で、両岸の側径間が上路式ソリッドリブアーチ橋の゜組み合わせとなっているのが特徴です。こちらが駒形橋の中央径間を近くで撮影したものです。しかし、こうやってみると、江戸の八百八町に対して、大坂は八百八橋(→→→こちら)というそうですが、江戸にもなかなか橋が多いですね。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その9) 隅田川に架かる橋梁群
2023年07月21日
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これからは隅田川に沿って向島に向かって歩きます。隅田川です。小さな船が走っていました。国道14号線、京葉道路が通る両国橋です。1686年(貞享3年)に国境が変更されるまでは<武蔵国と下総国の国境にあったことから、両国橋と呼ばれるそうです。ということは、今の墨田区、江東区は千葉県だったんですね。両国橋は完成当時は言問橋・天満橋と共に「三大ゲルバー橋」(→→→こちら)よばれ、技術的にも当時の最先端であったそうです。ちなみにゲルバー橋というのは、大雑把に言えば、橋脚と橋脚の間がヒンジによって結合されている橋で、このヒンジは、ピンなどを用いて、上下左右には動かないが回転は自由にできるようにした接合形式です。この形式にしたのは、コンピューターの発達していない時代には、橋梁の構造計算が簡単だったということらしいです。しかし、このヒンジ部が、構造上・車両走行上の弱点になっているため、最近はあまりこの形式の橋は計画されないようです。次に見えてきた橋は、総武本線の隅田川橋梁です。この橋も3径間ゲルバー下路式ランガー桁という形式で、ゲルバー橋になっています。また中央径間は桁とアーチの双方で荷重を支えるランカー桁になっています。隅田川沿いは隅田川テラスとして、河川の高水敷にあたる部分をテラス化した親水公園のようになっています。さらに、堤防のコンクリート壁には、むかしの隅田川の様子を伝える写真や絵がシートに写されて展示されています。これは隅田川で行われていた昔のボート競走の写真です。こちらは、両国で行われていた勧進大相撲の様子を描いた浮世絵です。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その8) 両国橋と隅田川テラス
2023年07月20日
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さらに国道14号線に近づくと、また3枚の高札がありました。「片葉の葦」は、本所(東京都墨田区)を舞台とした本所七不思議と呼ばれる奇談・怪談の一つだそうです。江戸時代の頃、本所にお駒という美しい娘が住んでいたが、近所に住む留蔵という男が恋心を抱き幾度も迫ったものの、お駒は一向になびかず、遂に爆発した留蔵は、所用で外出したお駒を追った。そして隅田川からの入り堀にかかる駒止橋付近(現在の両国橋付近の脇堀にかかっていた橋)でお駒を襲い、片手片足を切り落とし殺した挙げ句に堀に投げ込んでしまった。それ以降、駒止橋付近の堀の周囲に生い茂る葦は、何故か片方だけの葉しか付けなくなったという。という話だそうです。ということで、片端の葦の惨劇の舞台となった「駒留橋跡」。両国橋北側の入り堀にあった小さな石の橋のことだそうですが、被害者の女性が「お駒」、犯人の男性が「留蔵」とはよく出来たお話ですね。多分、ここに乗ってきた馬をつないでおく場所だったから「駒留橋」なんでしょうけど。また、片方の葉しか茂らぬ葦というのも、地勢や水流など自然環境が原因なんでしょうね。というわけで、こういう怪談話ができたのかな?で昔はこの辺りは「藤代町」という町名だったそうです。町名の由来は、毛利藤左衛門という人が自費で猿江村を開墾しましたが、幕府の貯木場として残らず召し上げられ、その代わりにこの地を賜ったそうで、藤左衛門が代わりに賜ったことから、「藤代町」と呼ばれるようになったんだとか。しかし、この藤代町、回向院や向島へ向かう人でにぎわっていた繁華街だったみたいですね。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その7) 片葉の葦と駒留橋跡
2023年07月19日
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やはり両国と言えば、このマンション。いえ、ここは春日野部屋。土地価格高騰のため税金対策として、1階は稽古場、2階は大部屋、3階は11代春日野の自宅、4階以上は分譲マンションになっているそうです。春日野部屋は、大正時代に「はず押し」一本の押し相撲に徹して、幕内取組数201のうち167勝を誇る大横綱・栃木山が起こした部屋で、横綱・栃錦、さらには、横綱・栃ノ海や大関・栃光、関脇・栃東、関脇・栃赤城、関脇・栃乃和歌など、有力な力士が出ている名門ですが、やっぱりみんな「栃(とち)」がつくだけに土地には悩まされていたんですね。隅田川近くにやってくる駐車場のフェンスには三枚の高札が掲げられていました。まず「石尊垢離場跡」。石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山のことです。そこへお参りに行く「大山詣」が江戸時代に流行していたそうです。その出発前に水垢離を取り、体を清めるための場所が旧両国橋の南際にあったそうです。「赤穂義士休息の地」というのもありました。赤穂義士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした場所だと伝わっています。赤穂義士の一行は、ここで休息後、無益な衝突を避けるため、旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げたそうです。でもここから高輪の泉岳寺までは結構な距離ありそうですね。「旧両国橋・広小路跡」でもあったんですね。旧両国橋は現在の両国橋の下流約50メートルの所に架かっていたそうで、橋の東側(墨田区側)は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋や食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街だったというそうです。ということは、ここで休憩していた赤穂義士のみなさんも、お団子なんか食べていたのかな。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その6) 相撲部屋と諸々高札ありました
2023年07月18日
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両国小学校から少し西に行った所にあるのが、吉良邸跡です。ここは先日7月9日のブログで紹介しましたので、今回はスルーしました。吉良邸跡から、また一区画ほど西に行くと集合住宅の横に高札がありました。ここが吉良邸裏門跡だそうです。ということは表門は東側の両国小学校に面した通りあたりですかね。今度確認しておきます。当時約2500坪の広大な敷地だった吉良邸。赤穂浪士討ち入りの際に、大石主税以下24名が侵入した裏門の場所がここだったんですね。その吉良邸裏門跡の傍にある赤提灯のお店の横にも高札があります。江東義塾跡という高札です。説明書きには、 文豪夏目漱石が明治十九年(一八八六)から約一年間教師をしていた私立学校江東義塾はこの辺りにありました。 当時漱石は、大学予備門(一高)で学んでいましたが、ここで教師をするようになってから、さらに学業に励み、ほとんどの教科で首席でした。 漱石は「夏目漱石全集」(筑摩書房)の談話の中で、「その私学は有志が協同で設けたもので、・・・月に使えるお金は五円で、少額であるが、不足なくやって行けた。時間も、午後二時間だけで、予備門から帰ってきて教えることになっていた。だから、夜は落ち着いて自由に自分の勉強をすることができた。」といったことが書かれています。」とありました。つまり、夏目漱石先生はここでアルバイトしながら一高(東京大学の前身)に通っていたわけですか。この江東義塾、この後どうなったかわかりませんが、明治時代には「義塾」と名乗る私立学校が多かったようです。福沢諭吉の慶応義塾大学は有名ですが、そのほかにも、東京都内の中高一貫の進学校として実績のある攻玉社も攻玉義塾が始まりだったようです(→→→こちら)。また、高校野球で青森県代表で出場したこともある東奥義塾(→→→こちら)。落語家の桂文珍師匠の卒業した兵庫県丹波篠山市にある兵庫県立篠山鳳鳴高等学校も明治時代に始まる鳳鳴義塾(→→→こちら)が前身だそうです。さらにこの近くで、馬車道に面したところで、高札を発見しました。前原伊助宅跡です。ここは、赤穂四十七士の1人、前原伊助が米屋に扮して潜伏していた場所のようです。吉良邸の裏門とは眼と鼻の先にあるので、討入り当日は赤穂義士たちの集合場所になったそうです。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その5) 吉良邸跡と江東義塾跡
2023年07月17日
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その両国公園と道路を隔てて向かい側にあるのが、墨田区立両国小学校です。この両国小学校は、芥川龍之介の出身校で、龍之介が通っていた当時は江東尋常小学校と呼ばれていたそうです。この敷地の北西角にあるのが、芥川龍之介文学碑です。この文学碑は、両国小学校の創立百十五周年を記念して平成2年(1990)に建てられたそうです。碑面に刻まれているのは小学校ということから児童文学の「杜子春」の一節が刻まれていました。「杜子春」、拙も小学生の時、国語で習った記憶があります。さて、その文学碑の隣には、船の錨が展示されています。この錨は、日露戦争で活躍した駆逐艦「不知火」のもので、解体作業を行った鉄鋼業者が昭和の初年に江東(現両国)小学校に寄贈したものだそうです。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その4) 芥川龍之介文学碑と軍艦の錨
2023年07月16日
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住宅街の中にある墨田区立両国公園です。山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる勝海舟は、文政6年1月30日(1823年3月12日)、江戸本所亀沢町、旗本小普請組(41石)の父・勝小吉(かつこきち)の実家である男谷家で生誕しました。ということで、今年は生誕200年ですね。その男谷家があったのがこの公園ということです。勝海舟は7歳までここで過ごしたそうです。そんなことから、勝海舟生誕の地という石碑が建立されています。勝海舟の功績についての碑文もありました。この椅子に座って、勝海舟になった気分を味わってみて下さいということでしょうか。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その3) 勝海舟生誕の地
2023年07月15日
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京葉道路に面して「お江戸両国亭」(→→→こちら)という演芸場があります。ここは不動産会社の永谷というところが経営する演芸場で円楽一門会を中心にしている演芸場です。こういう場所で落語の芸を磨くというのが、いい噺家になるためには大切なんでしょうね。清澄通りを南に向かって竪川のあたりまでやって来ました。川の上の首都高速小松川線はリニューアル工事中でした。清澄通りが竪川と交わる二之橋のたもとに墨田区教育委員会が設置した小林一茶居住の地の説明板があります。江戸時代後期の俳人小林一茶は、信濃国水内郡柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の出身で、十五歳の時に江戸へ奉公に出て、苦労多い生活の中で俳諧に親しみ、そして、各地を巡歴しながら俳人として頭角を現します。文化元年(1804)10月にはこの地に居を構えて5年ほどこの地を拠点に活動しましたが、旅に出ている間に借家であったこの家が他人に貸し出されていたため、以降弟子や後援者の家を転々とし、文化10年に故郷に戻ったそうです。再び北へ歩いて馬車通りという道にでます。昔、乗り合い馬車が走っていたのが馬車通りで、旧千葉街道です。明治18年(1885)に、菊川に馬車会社ができて、この道を走って営業をしたのがその名の由来だそうです。この道を歩いて両国小学校の方へ行きます。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その2) 小林一茶居住の地
2023年07月13日
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6月17日(土)、JR東日本の駅からハイキング「両国~向島 文学散歩」に参加してきました。出発はJR総武線の両国駅です。駅からは、国技館通りを南に向かいます。国技館通り沿いには、土俵入りするお相撲さんの銅像がありました。これは両手を広げる不知火型(→→→こちら)ですね。こちらは右手のみを伸ばしている雲竜型の土俵入り。こちらの力士さんは人気があるのか、みんなに撫でられて、お腹の上の地金が見えていました。国技館通りが国道14号線(京葉道路)と交わるちころは丁字路になっていて、そこには回向院(→→→こちら)があります。京葉道路を東に少し歩くと、横綱横丁という飲食店などが立ち並ぶ通りがあります。その入口に「芥川龍之介成育の地」の地の説明板があります。芥川龍之介は明治25年(1892)3月1日、東京市京橋区入船町8-1(今の中央区明石町)に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれたそうです。辰年辰の日辰の刻の生まれたのでにより龍之介と命名されたと言います。しかし、生後7ヶ月で生母ふくの病のため、当時本所区小泉町15番地(今の墨田区両国三丁目)に住んでいたふくの長兄、芥川道章に引き取られ、後13歳の時、芥川家の養子となったということで、まさにこの地で芥川龍之介は育ったということです。(両国から向島を歩くコース)【つづく】人気ブログランキング両国~向島文学散歩(その1)芥川龍之介成育の地
2023年07月12日
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都心から下町へ歩いていますが、そろそろゴールの両国駅に近づいてきました。両国駅の近くにあるここ両国回向院(→→→こちら)です。両国と言えば相撲。明和5年(1768)以降、境内で勧進相撲が興行されるようになり、これが今日の大相撲の起源となっているそうです。この「力塚」は、昭和11年(1936)に大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀るために建立したものです。回向院は浄土宗の寺院で、明暦3年(1657)の「振袖火事」と呼ばれる「明暦の大火」で亡くなった無縁の人々を供養する「万人塚」がこの地に築かれたのが起源です。この建物は2013年に建てられた念仏堂で2016年のグッドデザイン賞を受賞したそうです。その起源ゆえに「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」を理念とする寺院になりました。こちらの施設は馬頭観音堂。徳川家綱の愛馬を供養したことに由来する馬頭観世音菩薩像が祀られています。こちらは、「小鳥供養塔」こちらには多くの人が集まっていますが、有名な鼠小僧次郎吉の墓でした。鼠小僧次郎吉が長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習があり、墓石がどんどん傷つけられるため、墓石の前の白いお前立ちの石を削って石を削りとるようなっています。現在も特に合格祈願に来る受験生方があとを絶たないそうです。鼠小僧治郎吉、俗名は中村治郎吉というみたいですね。また戒名は教覚速善居士となっていました。そして、ようやくゴールの両国駅に到着しました。(東京から両国へ歩いたコース)【了】人気ブログランキング都心から下町へ(その20) 両国回向院
2023年07月10日
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墨田区両国のエリアに入ってきました。このあたりにあるのが本所松坂町公園(吉良邸跡)(→→→こちら)です。ここは「忠臣蔵」で知られる吉良上野介の邸宅があったところで、赤穂浪士、47名の押し込みにあって、高家肝煎の吉良上野介が殺害された場所になります。ちなみに、「高家」というのは、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職で、肝煎ともなれば有職故実や礼儀作法に特に精通していた江戸幕府のマナー講師ということですね。往時の吉良邸を偲ぶなまこ壁に囲まれています。三河国・吉良家(4200石)、駿河国・今川家(1000石)は、徳川家康が高家旗本として幕臣に列した名門中の名門ですから、討ち入り当時の吉良邸は、東西733間(134m)、南北は34間(63m)、2550坪(8400平方)という広大なものでした。現在の公園の面積は、97.56平方なので、86分の1の規模ということになりますね。こちらが吉良上野介義央の座像です。さすがは高家なので、この服装にも礼儀が表れていますね。従四位上の上野介の位に合わせて、束帯は黒(→→→こちら)になっていますね。また、表襟は白色で、左手に太刀、右手に朱塗り平板の笏を持っています。しかし、マナーやエチケットについてちょっと厳しく指導して恨まれるとは、職場の新人教育係なんてやりたくないですね。また、吉良家が浅野家の製塩技術が欲したことが背景にあったという説もありますが、吉良の塩田の歴史は戦国時代まで遡り、江戸時代には干拓地に大規模な入浜式塩田が営まれていたそうですから、技術的にはどちらが優れていたんでしょうか。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その19) 本所松坂町公園(吉良邸跡)
2023年07月09日
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前回紹介した深川神明宮は、江戸時代のはじめに、このあたりを開拓した歴史を示すものでしたが、江戸に入府した家康は、土地の確保のため、今の深川あたりをはじめとした低湿地の埋め立てを進めていますが、その過程でただ闇雲に土地を埋め立てたのではなく、水運のため、運河を埋め残す形で開拓を進めていました。江東区を縦断する小名木川やその北側の東京都墨田区と江東区を流れる竪川もそうですが、その幹線となる運河をつなぐ支線の運河も建設されています。その痕跡がこのあたりにも残っています。この区画、道路挟まれた間隔が狭くなっていますね。これはその運河を埋め立てられた上を宅地として利用されている痕跡です。近くの公園にあった「六間堀跡」の説明板です。これによると、「六間堀」とは、現・墨田区千歳二・三丁目境と南方の現・江東区常盤一・二丁目境との間に通じ、竪川と小名木川を結んでいた運河のことで、川幅が六間あるため「六間堀」との名がついたそうです。しかしながら、第二次世界大戦に分流の五間堀とともに埋め立てられて消滅したそうです。新大橋通りに出ても、この幅の狭い区画が続いています。こちらの案内地図でも、道と道の間隔が狭い区画がつながっていることがわかりますね。(東京から両国へ歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング都心から下町へ(その18) 六間堀跡
2023年07月08日
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