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まさかビートルズのことを調べてY子のことを思い出すなんて夢にも思わなかった。1969年のこの時期、ジョンとヨーコはモントリオールで2回目の「ベッド・イン」をしていた。もちろん平和運動です。当時はベトナム戦争などのため、世界は反戦歌が流行っていました。ジョンがベッドルームで歌った「平和を我等に」は一つ年下のジョーン・バエズの讃美歌第2編164番が元の歌という「WE SHALL OVERCOME~勝利を我らに~」がなければ生まれなかったかもしれません。ニューヨ-ク生まれで父親がメキシコ人、母親はイギリス人で政治的活動に積極的に参加したため何度も投獄されたそうです。学校でも聞いた覚えがある「花はどこへ行った」は彼女の歌ではなかったでしょうか。「ドナ・ドナ」も歌ってました。この歌は昔、Y子がピアノを弾いて僕が歌ったという思い出があります。だから忘れようにも忘れられない。ついでだから書いてしまいますが、不思議なことにこのY子と他数名で行ったことのあるすし屋に、10年以上たって今度はT子と行くことになろうとは誰が予想したでしょうか。これがその曲です。WE SHALL OVERCOME そして1970年代になり「ビートルズが教えてくれた」を歌った吉田拓郎が登場するのです。ジョーン・バエズジョーン・バエズ/ジョーン・バエズJoan Baez ジョーン・バエズ / Gracias A La Vida 輸入盤 【CD】
2010年05月31日
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きょう5月13日はビートルズの映画「レット・イット・ビー」が彼らが解散した1970年にニューヨークでプレミア公開されたそうですが、メンバーは一人も出席しなかったそうです。どうしてアメリカでの公開が早かったのか?この映画のハイライトは屋上ライブだと思うのですが、彼らより先にアメリカで屋上ライブをやったバンドがいたようなのです。その模様はフィルムに収められたようです。「勝手にしやがれ」のゴダール監督がペネベイガーという人との共同制作映画のため1968年の11月、ニューヨークのビルの屋上でのジェファーソン・エアプレインのライブを撮ったそうです。ビートルズ同様に、最後に警官が登場するそうです。この「ワン・アメリカン・ムービー」のメインはブラックパンサー党、当時ベトナム反戦活動家などのインタビューだったらしい。しかしゴダールは撮影後、映画の完成を放棄してパリに戻ったのでベネベイガーが1971年に完成させたそうです。後にジョン・レノンが自分たちの映画「レット・イット・ビー」をアメリカの映画館で見て涙を流したという話を知りました。ビートルズのリーダーだと最後まで信じていたであろうジョンが、自分より先にグループを「脱退宣言」したポールに対する悔し涙や他のメンバーに対するもしかしたら、自身の不誠実だったかもしれない対応への後悔の涙でもあったのでしょうか。解散後、特にジョンとポールは苦しんだようです。
2010年05月13日
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何回も名前を変えて国民的な演歌歌手になった人もいましたが、ビートルズもいくつか名前を変えながら有名になっていきました。最初は、ただ単に学校の名前からつけた「クオリーメン」、「ジョニーとムーンドッグス」。一時的のものもあげると他にもありますが、1960年にビートルズという名前は決定的になったようです。その年1月にジョン・レノンの美術学校の親友、スチュアートがグループに加入。そして彼らはプロの道が開かれる重要なオーディションに臨むことになり、真剣にグループ名を考えていたようです。ビートルズという名前はジョンとスチュアートがつけたようですが、別のビート・グループの友人のケイシー・ジョーンズがジョンたちに名前を訊ねて「のっぽのジョンとシルバー・ビートルズ」という名前を提案しました。ビートルズはその名を1回でも使う事はあったのでしょうか?5月10日、彼らはその当時イギリスのロックンロールの王者といわれたラリー・パーンズ主催のオーディションにシルバービートルズとして出場したそうです。このオーディションはジャカランダ・クラブを経営していたアラン・ウィリアムズのブルー・エンジェルというクラブで行われたそうです。その時のクラブ名はワイバーン・ソーシャル・クラブだったようです。このときはビートルズにドラマーがいなかったので、別のグループのジョニー・ハッチという当時リバプールの3大ドラマーといわれた人が写真に納まっています。
2010年05月10日
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