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この世界は「映像化できないもの」や「言葉化出来ないもの」で出来ています。映像化できたり、言葉化出来るのは、その全体から一部を切り取って、人間の認識能力に合わせて加工したものだけです。もちろんリアルな世界には正解もありません。私たちは動物園で簡単に「ライオン」を見ることが出来ますが、動物園で見ることが出来るライオンは、生態系の一部としてのライオンではありません。そこにあるのは生態系から切り離されたライオンの肉体だけです。ですから、動物園のライオンだけを見てライオンについて分かった気になるのは大きな間違いです。「サバンナで暮らしています」という説明文を読んでも、単に付加知識が増えるだけで「ライオンのリアル」が分かるわけではありません。そもそも、リアルなサバンナを知らない人に「サバンナで暮らしています」という説明文は何の意味もありません。それと同じような勘違いが教育の現場にもいっぱいあります。学校は私たちが実際に生活している場とは切り離されています。そこには生活も、文化も、技術も、祖先とのつながりも、世界とのつながりも、自然とのつながりも、命の働きもありません。あるのは「それらのものから抽出した知識や映像」だけです。それは、生き物から命を抜いた後の標本や剥製のようなものです。学校が「正解」を固定できるのも、学校で教えているものが、私たちが生きているリアルな世界とは切り離されているからです。学校では様々なことを様々な言葉や様々な映像を使って教えてくれますが、そこに「本物」はありません。「本物」は言葉や映像では伝えることが出来ないからです。世界の本質は「言葉化出来ないもの」「映像化できないもの」で出来ているのです。授業で色々な国のことを教えることは出来ます。でも、それは実際にそれらの国を回って感じ、学ぶことととは全く別物です。10人の人が同じ国に行っても、一人一人異なった体験をして、異なったことを学んでくるでしょう。それがリアルな世界の当たり前です。でも、授業で教えてくれるのはたった一つの視点に基づく知識だけです。でも子どもはそれを「全ての人にとっての正解」として覚えてしまいます。皆さんは「お風呂の気持ちよさ」や「音楽の素晴らしさ」を言葉や映像で伝えることが出来ると思いますか。確かに「お風呂に入った人の感想」や「音楽を聴いた人の感想」は伝えることが出来ます。でも、それは他人の感想であって自分自身が感じたことではありません。お料理番組でレポーターが「美味しいですね」と言っていたからといって、皆さんが同じものを食べて美味しく感じるかどうかは不明です。映像も、カメラマンが意図的に切り取ったものであって、皆さんが直接自分の目で見たものとは異なります。そして、学校で子どもたちが学んでいるものも同じです。そこにあるのは「他人によって作られた知識」と「他人によって切り取られ編集された映像」だけであって「自分が感じた本物」ではありません。タブレット授業では「映像化できないもの」は扱えません。また、言葉による授業では「言葉化出来ないこと」は扱えません。それは当然のことです。確かに、映像を見せれば分かりやすくなります。言葉で説明すれば理解しやすくなります。正解も決めやすいです。だからタブレット授業を推進しようとする人達がいっぱいいるのでしょう。でもその「分かりやすい」という所がまさに落とし穴なんです。なぜ分かりやすいかというと、分かりやすくなるように加工されているからです。それは簡単で便利な機械がやっていることと同じです。先生の言葉やタブレットの映像がすでに他の人の解釈を経ているのです。自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思と意識で判断しなくても済むように加工されているものを子どもたちは与えられているのです。だから分かりやすいのです。でもそれ故に、そのような分かりやすい授業だけを受けて育った子は、知識は増えるかも知れませんが、「自分自身の体験を通して学ぶ能力」が育たなくなってしまうのです。また、「自分の成長につながるような学び」も出来なくなります。実際、最近の子どもたちの「体験を通して学ぶ能力」はかなり低いです。見ていると、「何でこんなことも気づかないのかな・・・」と感じることも多いです。だから、工夫することも出来ません。「こうやってダメだったらああやってみよう」という発想の転換が出来ないのです。そのため、最初の方法でダメだったら、そこで止まってしまって前に進めなくなってしまうのです。子育てをしているお母さんも同じ状態です。確かに分かりやすい授業を受ければテストの点数は上がるでしょう。でも、頭で覚えるだけで、自分の感覚や体験を通して学んだことではないので、子どもの心とからだと意識の成長にはつながらないのです。子どもが子ども時代にまず学ばなければいけないことは「知識」ではないのです。自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思と意識で判断する能力なんです。この能力が育っていない子は学ぶことを楽しめなくなってしまうのです。また、「学ぶこと」と「人間としての成長」がつながらなくなってしまいます。その自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思と意識で判断する能力を育てるのに一番有効なのが「遊び」と、様々な「芸術的な活動」なんです。ただし、その世界には「正解」がありません。だから「正解がないと不安になってしまう人」は近づこうとしないのです。
2026.09.26
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「文明」は、古今東西一様に「物質的豊かさ」を求めます。というか「物質的豊かさ」を実現した社会を「文明化された社会」と呼んでいるわけです。どんなに高い精神性を持ち、素敵な歌や踊りを楽しみ、素晴らしい絵画や工芸品を創り出し、そういうものが伝承されている社会でも、自然の中で、自然と共に暮らし、物質的豊かさが実現されていない社会を「文明化された社会」と呼ぶことはありません。でも、古今東西、物質的豊かさを求めて巨大化した文明は100%滅亡しています。例外はありません。100%です。これは想像でしかありませんが、縄文時代の人たちは、高い精神性を持ち、素敵な歌や踊りを楽しみ、絵画や工芸品を創り出し、そういうものが伝承されている社会だったのではないでしょうか。ただ、「文明」が創り出した物質的な豊かさは遺跡として残りますが、精神性や歌や踊りなどは遺跡という形では残りません。人から人へと伝承し、人々の生活や心の中にしか存在できないようなものは、それを受け継ぐ人や群れが消えれば、ほぼ100%消えてしまうのです。自然から頂いたものを利用して作った工芸品や道具も、自然のサイクルに従って消えて行きます。そのため、それを科学的に検証することも、その素晴らしさを知ることも出来ません。でも、今現在生きている私たちの精神性や文化はその「消えてしまったもの」の流れの中にあります。物質としての形はなくても、目には見えない流れが連綿とつながってきたからこそ私たちの「今」があるのです。ネイティブアメリカンやチベットの人たちの高い精神性や文化も何百年、何千年と受け継がれてきた流れの中にあるのでしょう。でも今、その人々の生活の中や心の中に「何百年、何千年と受け継がれてきたもの」が、消えつつあります。文明の力を見せつけられた人々が、「心の豊かさ」よりも「物質的豊かさ」を求め始めたからです。昔は、無償で人から人へと受け継がれてきた歌や、踊りや、精神性や、生活につながる文化は、そういうものを求める人が「お金を出して買うもの」になりました。「社会全体で共有出来るもの」ではなくなってしまったのです。今の日本には、祖父母、親子の三代で「一緒に歌う歌」や、「一緒に踊る踊り」は特別な例外を除き存在していません。歌や踊りだけではありません「言葉」すら世代間で通じなくなってしまっています。でも、歌や、踊りや、精神性や、生活につながる文化の伝承が途絶えてしまった社会は、過去の文明と同じように遺跡だけを残して消えて行くしかないのです。なぜなら、どんなに高度な文明でも、その文明を支えているのは「心の働きによって支えられている人間」だからです。人々の「心」が育たなくなれば文明も消えて行くのは当然の結果なんです。私たちは「高度な文明を支えているのは機械ではなく人間だ」ということを忘れてしまっているのです。でも忘れてしまっていても、どんなに高度な機械がいっぱいあっても、人間が育たなくなってしまったら文明は消えてしまうのです。その「人間を育てるために必要なもの」は「機械」ではなく「人と人のつながり」なんです。便利な機械が登場する以前の社会では、「人と人のつながり」がなければ生きていくことが出来ませんでした。でも、生活を支えてくれる便利な機械が登場することで、人々は「人と人のつながり」がなくても生きていくことが出来るようになりました。お母さんから「お料理の作り方」を受け継がなくても、お母さんよりも美味しいお料理を簡単に手に入れることが出来るようになったのです。現代社会で生きていくために必要なのは「その便利な機械を買うためのお金」だけです。じゃあそれだけ人々が幸せになったのかというと、どうもそうではなさそうです。物質的に豊かになればなるほど精神的には貧しくなってしまったように見えます。自己肯定感が低い人も増えました。というか、いまではそういう人の方が多いくらいです。自傷する若者、自殺する若者も多いです。こういう状態だからこそ、私たちは今「アート」と呼ばれるものの価値を再発見すべきなんです。機械やお金は共有出来ません。だから競争が生まれます。競争は破壊と、戦いと、崩壊を生みます。でも、歌や、踊りや、絵画や、詩や、文学はみんなで共有出来るのです。一緒に笑い、一緒に喜び、一緒に泣くことが出来るのです。ですから、そういうものには現代社会で失われてしまった「人と人をつなぐ力」と「人を育てる力」があるのです。そして「遊び」もまたアートです。以下は宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」の一部です。「農民芸術の興隆」 宮沢賢治曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐたそこには芸術も宗教もあったいまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落したいま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものであるわれらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬいまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ芸術をもてあの灰色の労働を燃せここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ
2026.09.25
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今日も手短にさせて頂きます。昨日は、「遊びと芸術的な活動は世界共通、人類共通言語です」ということを書きましたが、もう一つ大事な言語があります。それが数学と科学です。その数学と科学は宇宙共通の言語です。で、これはどちらが正しいということではありません。どちらかのルールで相手を縛ってはいけないのです。日本語を基準にして英語を否定したり、英語を基準にして日本語を否定するのはナンセンスですよね。使う場とか状況も違うし、伝えることが出来る内容も違うのですから。それに人類の数学や科学の知識は、まだ訛りと誤解が強い「ジャパニーズイングリッシュ」レベルです。それでは宇宙人がやって来てもちゃんとした会話は出来ないでしょう。それは科学者自身もよく知っています。知らないのは、科学のことを信仰するばかりでちゃんと理解していない人だけです。でもなぜか現代人は自分たちの共通言語である遊びや芸術よりも、物や宇宙人と会話す時にだけ必要になる数学や科学の方を大切にしているのです。それが私たちに「物質的な豊かさ」をもたらしてくれたからなのでしょうか。ただし、多くの場合、数学や科学的な知識や考え方を大義名分のように振りかざして、人間らしい遊びや芸術を否定すような人は、科学のことがちゃんと理解出来ていない人です。ちゃんと理解できていたら、「数学や科学」と「遊びや芸術」を対立するものとして考えたりしないはずですから。確かに数学や科学は人類に「物質的な豊かさ」をもたらしてくれました。でも同時に「精神的な貧しさ」ももたらしました。それは、人間が「遊び」や「芸術」といった「自分たちの言葉」を大切にしなくなってしまったからです。「遊び」や「芸術」を商品化してしまったからです。確かに、今でも「遊び」や「芸術」と呼ばれるものは残っています。でも、そういうものは商品として売り出されているだけで自分たちのものではなくなってしまっています。お金がないと手に入れることが出来ないような遊びや芸術は、自分の言葉でも、人類の共通言語としての遊びや芸術でもないのです。外国語を学ぶにはお金が必要かも知れませんが、母国語を学ぶのにお金は必要がないのです。遊びや芸術を大切にするということは、人間が人間であることを大切にするということでもあります。それを「不要不急の活動」と切り捨ててしまうような人や社会は、人間を「物」扱いする社会です。そこには数学も科学もありません。「欲」があるだけです。数学や科学を黄門様の印籠のように使って人を支配したり、お金をもうけようとする欲です。私たちは自分たちの力でもう一度自分たちの言葉である「遊び」と「芸術」を自分たちの手に取り戻す必要があるのです。
2026.09.24
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今日はこれから佐渡に渡るので超短くさせて頂きます。今日私がお伝えしたいことは、タイトルに書いた通り「遊びと芸術的な活動は世界共通、人類共通言語です」ということだけです。だから色々な国籍の子、色々な言葉の子、色々な年齢の子、障害のある子もない子も一緒に活動することが出来るのです。その際必要なのは、「一人一人がみんな自分らしくいること」です。「みんなちがってみんないい」などというようなのんびりしたものではありません。ちゃんと自分の意思を持って自分らしく生きていることが大切なんです。違いが表れるのはその結果に過ぎません。そして、世界共通、人類共通言語だということは、その言語を学び身につけることは「人類としての基礎」を学ぶことになるのです。「自分らしさ」を大切にした子どもや大人が助け合って活動することで「人類の基礎」「人間としての基礎」が育つのです。「遊び」や「芸術的な活動」には、そのような効果があるのです。でも、「みんな一緒、みんな同じ」という教育はそれと逆行した教育効果を子ども達に与えてしまうのです。それは、「自分たちは特別だ」という意識を子ども達に植え付けてしまうことです。そして、そのような教育をしている国は、そのような効果も教育の目的にしているのではないでしょうか。すると「みんな一緒、みんな同じ」に付いて来れた子だけが特別な仲間意識を持つようになり、そこに入れなかった子や人、それに付いてこれなかった子や人をバカにするようになります。コロナの時も、子どもにとって、人間にとって一番大切な活動を「不要不急の活動」と言って簡単に否定できるような人間に育ってしまうのです。そして、自分もまた「みんな一緒、みんな同じ」に付いていくことが出来なくなると自己否定を始めます。ということで続きは明日書きます。
2026.09.23
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最初にお聞きします。あなたはあなたを信じていないでいつも監視し、指示、命令する人のことを信じることが出来ますか。その人のために考えたり、行動することができますか。その人の側にいたいと思いますか。たとえその人が「あなたのことが大好きだからやっていることだからね」と言っていたとしても・・・・。そう言われれば言われるほどその人の前では自分以外の自分を演じていないと不安になりませんか。もしかしたらその人は「あなたそのもの」を愛しているのではなく、「自分の思い通りに行動してくれるあなた」を愛しているのかも知れません。もしかしたら、「ちゃんと言うことを聞いてくれないあなたは嫌いよ」ということを言っているかも知れません。でも、あなたはその人以外に他の誰にも頼ることが出来ない世界に生きています。ですから、その人に嫌われてしまったら生きていくことが出来ません。あなたがそういう状況に置かれたら、自分の本音を出すことが出来ず、自分の価値観で動くことが出来ず、自分の感情を押し殺し、その人の喜ぶことを先回りして考えるようになるでしょう。そして、その人の目の届かないところでは羽根を伸ばしたくはなりませんか。ちなみにサラリーマンの世界もこれに近いですね。会社で働いた経験のおありになる方は考えてみて下さい。あなたの理想の上司とはどのような人でしたか。どのような人のためになら一生懸命頑張れると思いますか。是非、ご自分のこととして考えてみてください。でも、今の子どもたちの多くはこのような状況に置かれています。だからといって「じゃあどうしたらいいのか」ということになると、話が難しくなります。「子どもたちには子どもたちによる子どもたちのための自由な活動が必要だ」と言っても、自分で自分をコントロールする能力が育っていない状態の子どもたちにいきなり自由を与えたら大変なことになります。弱肉強食の世界が表れるだけかも知れません。実際、今の子どもたちのデフォルトの状態はなかなか悲惨な状態ですから。そんな子どもたちに自由を与え混乱した状態になると、「だから言ったじゃないか、子どもを放任しているからこうなるんだ」とか「子どもはもっともっと厳しくしつけなきゃいけないんだ」と言う人もいます。でも、子どもはいつかは大人になります。そして、監視管理する大人がいなくなります。そうなった時、どうなるか・・・。その時、大人らしい大人に成長していないと困ったことになってしまうのです。子どもが何か問題行動をしたら親の責任が問われますが、大人になってからなら本人の責任で済ますことができます。その時親は「私は厳しく育ててきた」という言い訳も出来ます。でも、大事なことは「厳しく育てたかどうか」ではなく、「実際に子どもが人間らしく育っているかどうか」なのです。そうでないと子どもは自分の人生を自分らしく幸せに生きるのが困難になってしまうからです。親の言い訳のために「しつけ」があるわけではないのです。じゃあ、どうしたらいいのかというと「強制」という形ではない方法で子どもたちに自分たちの心とからだをコントロールさせる方法を身につけさせる必要があるのです。そして、そのためには、「その活動自体の中に喜びを見いだせるような活動」、「子どもの成長を促すような活動」、「自分の成長がそのまま喜びとなるような活動」、「自分との対話が必要になるような活動」、「指示や命令によらない活動」が必要になるのです。そのような活動を通して、子どもたちに心とからだのコントロールの仕方を伝えていくのです。もちろんそのようなものは放任では学びようがありません。大人が積極的に関わっていく必要があります。そして、歌ったり、踊ったり、作ったり、描いたり、演じたりというような様々な芸術的な活動にはそのような働きがあるのです。子どもの遊びには「からだを動かして遊ぶ遊び」や「群れて遊ぶ遊び」の他に「表現して遊ぶ遊び」があるのです。これは「芸術的な活動を楽しむ遊び」でもあります。「からだを動かして遊ぶ遊び」は、子どものからだ育てに有効です。「群れて遊ぶ遊び」は社会性の育ちに有効です。でも、感覚の働きや、心や意識や魂の育ちを支えたいと思うのなら「芸術的な活動を楽しむ遊び」が必要になるのです。また、「芸術的な活動を楽しむ遊び」は、子どもたちが「自分らしさ」に気付き、他者と助け合いながら自分らしく自由に生きる能力を育てる手助けもしてくれます。そして今、子どもたちに一番足らないのがこの「芸術的な活動を楽しむ遊び」なんです。昨日、FBの方には流したのですが、来年の四月からこのような遊びを楽しむ会を茅ヶ崎で始めたいと思っています。特に今回は、日本とは異なるルーツにつながる子どもたちやお母さんお父さんにいっぱい参加して欲しいと思っています。言葉が分からなくてもOKです。色んなルーツにつながる子や大人がいた方が絶対楽しいですから。私は子どもの頃から、日本式の「みんな一緒、みんな同じ」が苦手だったのです。ただし、「自分はやりたくないけど子どものために」という人には向いていません。私はいつも「子どもはやらなくてもいいけど大人はやって」ということを言っていますから。ですから「子どものために」だけではなく、お母さんやお父さん自身が遊びたい人に参加して欲しいと思っています。もちろん大人だけでもOKです。大人が楽しんでいれば子どもは勝手に参加するようになるのです。来年に入ったら詳しい情報を流しますが、月一で土日の休日にやります。
2026.09.22
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現代人は人間のために作られた町の中で暮らしています。それは人間が楽に、安全に、歩いたり生活できるような環境です。近年では、老人や障害を持った人でも楽に安全に生活したり移動できるようなバリアフリー的な考え方も大切にされています。そして、幼い時からそのような空間の中で生活している子どもたちは、自分が生まれ育っている環境に合わせてからだの使い方や、歩き方を身につけていきます。それは「楽に、安全に、歩いたり生活できるような環境に合わせたからだの使い方」や「歩き方」です。それは当然の結果ですよね。そして、その「自分が育っている環境」は、子どもたちの心肺機能や、筋肉や、骨格や、感覚や、意識などの成長にも影響を与えています。それはつまり、からだの基礎が育っている時期に「老人に合わせた環境」で生活していれば、子どもでありながらも、老人のような感覚や、感性や、意識や、からだの使い方が身についてしまうということでもあります。身体能力も老人に近い状態になります。それは「都会に特化したからだ」です。段差がない環境で暮らしていれば、段差に対応できないからだになります。遠くを見る必要がない環境で暮らしていれば、遠くのものに意識を向けることが出来ないからだになります。以前、手で開くタイプの昔の傘を与えたらどうやっても傘を開けない子どもがいました。輪ゴムをつなげることが出来ない、紐を結ぶことが出来な子どもはもう普通です。風船を膨らませることは出来ても、口を縛れません。そして当然のことながらそのような子どもたちは観察力が非常に低いです。観察を必要としない生活をしているからです。ボタンを押すばかりで回したり、つまんだりという動作が必要ない生活をしていれば、回したり、つまんだりという動作が出来ないからだになります。大人は「こんな簡単なこと教えなくても出来るだろう」と思ってしまうのですが、観察力が育っていない最近の子どもたちは「体験がないこと」は出来ないのです。造形の場で子どもたちと接していても、からだの使い方が下手な子ばかりです。体力もないのですぐに疲れます。能動的に行動しなくてもなんとかなる生活をしているので、何に対しても受け身的です。そして、ノコギリやトンカチなどを使って普段とは違うからだの使い方をすると、すぐに「腰が痛い」「疲れた」などと言います。まるでご老人を相手にしているようです。でも、「人間が人間のために作った環境」というのは、当然、「自然界においては非常に不自然な環境」でもあります。それはつまり、「子どもの成長においても不自然な環境である」ということでもあるのです。人生が始まったばかりの幼い時に、人生が終わりに近づいた老人のからだの使い方や、感覚や意識の使い方を身につけてしまうのですから。現代人の考える「美しい歩き方」というのは、足を伸ばしてかかとから着地する歩き方です。もちろん背筋も伸ばします。でも、野原や山の中ではこんな歩き方出来ません。そんな歩き方したら転びます。これは石も、デコボコも、木の根っこも、ぬかるみもない、平らに舗装された道を歩く時の歩き方です。からだ全体や意識がつながって機能しないような歩き方です。まただからスマホを見ながらでも歩くことが出来るのです。現代人は、日常的に「スマホを見ながらでも歩くことが出来るような歩き方」で歩いているのです。でも、森の中ではスマホを見ながら歩くことは出来ません。そんなことをしたら危険です。車は来ませんが石や根っこや穴に躓いて転んでしまうか、最悪骨折してしまいます。でも、日常的に森の中で遊んでいる子どもたちは、そのような環境の中で走り回っているのです。そのような子どもはかかとではなく足裏全体で着地します。そうでないと転びますから。そしてそのような歩き方はからだ全体が連動していないと出来ません。以前(多分20年くらい前)、夜は閉鎖されている公園に夜集まって、地元の人の手引きで忍び込んで山の上にある広場で遊んだことがあるのですが(よい子は真似しないように・・・)、夜は閉鎖されているので街灯は付いていません。遠くの町の灯でかすかに明るいだけです。ほぼ真っ暗です。そんな状態なのに、ある子どもが「鬼ごっこしようぜ」と言い出して、鬼ごっこを始めたのです。そして、普通に鬼ごっこが始まったのです。山の上ですから平地ではありません。これには驚愕しました。でも、誰もケガをしませんでした。みんな生き生きとした子どもらしい子どもたちでした。今みんな親になっている世代です。子どもの身体能力の可能性は計り知れないのです。でも、子どもを「人間が楽に、安全に、歩いたり生活できるような環境」の中に閉じ込めたら、そういう子どもらしい能力が育たないまま、老人のような心とからだの状態になってしまうのです。
2026.09.21
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人の「姿勢」には、その人の「意識の状態」「感情の状態」「からだの状態」「生命力の状態」「生活の状態」「気質の違い」などが如実に表れています。元気がない時、悲しい時、疲れている時、生命力が萎えている時には胸が沈み、首がうなだれ、腰は抜け、重力に負けたような姿勢になります。その結果、目線が下がります。遠くを見なくなります。腹の力も抜けてしまうので大きな声も力も出なくなります。足が前に出なくなり、歩幅が狭くなり、早く歩くことも走ることも困難になります。また、無意識的に「自分」を守ることに意識が向いてしまうので音や、匂いや、味に対して敏感になります。新しいことにはチャレンジしなくなります。また、意識が内向きになるので「心やからだの中の違和感」に敏感になり「ムカつく」という気分を感じやすくなります。新しいことには挑戦しなくなります。積極的に行動することもなくなります。好き嫌いも強くなります。小さな事が気になるようになり、ちょっとした違和感や痛みにも敏感になり、学校に行く時になると「お腹が痛い」と言出したりする子もいます。そしてそういうことも「姿勢」に表れます。そして今、そのような状態のからだの子が非常に多いような気がします。怒っている時にはその逆になります。怒っている場合には「腹」に力が入るので「腹」が立ちます。腹が立てば自然とからだが起き、前を向きます。声も大きくなります。また、腹だけでなく胸や背中や肩や腰や股関節にも力が入り固くなります。からだ全体が固くなってしまうのです。すると考え方も固くなります。また、強い感情に支配されている時には感覚の働きが鈍くなるので、音や匂いや周囲の変化には鈍感になります。他の人の気持ちを考えることも出来なくなります。痛みも感じにくくなります。これは「戦闘モード」でもあるからです。そして、そのような状態のお母さんを時々見かけます。そのようなお母さんは子どもにたいして攻撃的です。子どもの表情や姿勢や声に接していても、子どもの心に気づきません。「ムカつく」と「怒る」は一見意味が似ているように感じますが、からだの状態としては逆なんです。むかついている時は腹が萎えて固まっています。そのため、動けません。でも、怒っている時には腹に力が入っているので動けるのです。「生命力に満ちていながら緩んでいる」というのが一番いい状態なんですが、なかなかそういう状態にはならないのです。でも、森や自然の中で仲間と群れて遊んでいる子どもたちはそういう状態なんです。うつむいて遊んでいる子などいません。怒鳴っている子どももいません。怯えて固まっている子もいません。背骨はしっかりと立っていますが腹は立っていません。からだは緩んでいます。からだが緩んでいないと森や自然の中では自由に動き回れないからです。感覚の働きは鋭くなっていますが、自分を守るためではなく、自然の中で遊びを発見し、遊びを楽しむためにです。そして、行動的ではあっても攻撃的ではありません。大きな声は出しますが、怒鳴ったりはしません。臆病でもなく森の中の子どもたちはチャレンジャーです。自分を守ろうとしたり他の子を攻撃したりするのではなく、みんなで助け合おうとします。日常的にそういう遊びをしている子どもたちのからだは素敵です。そのようなからだは、悲しみや苦しみにも耐えることが出来ます。目標が見つかったらその努力を支えてくれます。森や自然の中で遊んだからといって成績が良くなるわけではありません。だから多くのお母さんがその大切さに気づかないのですが、でも、子どもたちは森や自然の中で遊びながら、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で学び、相手に共感して助け合う能力を育てているのです。そういうものの「器」としての「からだ」が育っていくからです。私が「からだ」とひらがなで書いて、「肉体」とか「体」と書かないのは、私が伝えたいのは「命の器としてのからだ」のことだからです。「肉体」とか「体」と書いてしまうと、命の働きから切り離されてしまうような気がするのです。自然の中での仲間との遊びが、子どもが一人の人間として、自分の足で、自分らしく、幸せに生きていくために必要な「からだ」という土台(器)を育ててくれるのです。でも、器だけが育ってもダメなんですけどね・・・。中味も必要です。けっこう高いんですよ。
2026.09.19
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最近の子ども達を見ていると、からだの使い方が非常に下手くそです。なんかすごくおかしな使い方を平気でするのです。「え!冗談でやっている?」というようなからだの使い方を本気でやっているのです。まず、鉛筆の使い方、箸の使い方がおかしい子はもう普通です。背骨を真っ直ぐに保てない子も普通です。立っていてもイスに座っていても背骨がぐちゃっとしてしまっています。もちろん、正座など出来ません。普通に自分の足で歩けるような年齢なのに、介護されているご老人のようにグチャッとした姿勢でベビーカーに乗っている子もよく見かけます。それらは、姿勢を保つために必要な筋肉と意思と意識と感覚の働きが育っていないからなのでしょう。「鉛筆や箸の使い方なんかどうだっていいでしょ」と考えている人も多いかも知れませんが、実はそういうことも「姿勢」と関係しているのです。鉛筆も箸も、本来は指を伸ばして使うものです。そして、指を伸ばすと姿勢が起きるのです。それを握ってしまったら姿勢が起きなくなってしまうのです。これはご自身でも確認することが出来ます。からだをグニャっとさせた状態で指先を真っ直ぐに伸ばしてみて下さい。姿勢が起きてきませんか。そして姿勢は知性や感情の状態とも関係しています。「遊び」においても、最近は「からだ全体を使うような遊び」「指先やからだを丁寧に使うような遊び」「他者と触れ合うような遊び」「五感を使うような遊び」「考えることを楽しむような遊び」「仲間と助け合って遊ぶような遊び」「ハラハラ・ドキドキ・ワクワクするような遊び」で遊んでいる子は少ないです。また、そういう遊びをさせたいと思っても、そういう遊びをさせる場も、そういう遊びを一緒に遊んでくれる仲間も、お手本になるような子ども達もいません。そういう場があって仲間がいても、もうすでに簡単便利なオモチャやゲーム機などで一人で遊ぶことに慣れてしまっている子どもは、そのような遊びを望みません。一人で遊んでいる方が気が楽だからです。実際、色々な面で「自分の感覚やからだを使って仲間とリアルな世界の中で遊ぶ遊び」は、室内での一人遊びよりもハードルが高いのです。ハードルが高いからこそ意味があるのですが、ハードルが低い世界に慣れてしまった子はわざわざ高いハードルには挑まないのです。そして今では、昔の子どもたちが「からだ」を使って遊んだり、群れて遊んでいたりした時間を習い事や、お勉強や、ゲームでの遊びに回しています。でもそのいずれも、「子どもの心とからだの育ち」には役に立ちません。むしろ心とからだの育ちを阻害してしまいます。「からだグニャ」はその結果です今「シール交換」や「カード集め」が子どもたちには人気の遊びのようですが、これは「子どもの仲間作り」には役に立ちますが、「子どもの心とからだの成長」を支える役には立ちません。それでも、「女の子のからだ」はまだしっかりしています。問題は「男の子のからだ」の方です。それは、女の子よりも男の子の方がその成長に「からだを使ったり、仲間と群れて遊ぶような活動」が必要だからなのだと思います。まただから、男の子はそういうものが与えられないと、女の子よりも強くゲームの世界にのめり込んでしまうのです。そして抜け出せなくなってしまうのです。最近のお母さん達は、あまり積極的に「からだを使った遊び」や、「仲間と群れて遊ぶ遊び」を子どもに与えようとしませんが、勉強を学ばせることには熱心です。でも、「からだ」という「器」が整っていない状態で「中味」を入れても無駄なんです。いくらいっぱい学ばせても、心とからだと意識の中に吸収されずにダダ漏れしてしまうだけなんです。まただから、子どもも学ぶことを楽しめないのです。また、背骨を真っ直ぐに保てないと言うことは、「自分」という意識を保てないのと同じことです。それはまた自己肯定感とも関係してきます。トンカチや、ノコギリや、ハサミと言った道具が使えないのも背骨がしっかりとしていないからです。みんな「からだ」でつながっているのです。
2026.09.18
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先日テレビを見ていたら、ゲームばかりしている我が子のことを「うちの子は指の運動ばかりしている」と言っている人がいました。でも、「指を使う」ということと「指を動かす」ということは同じではありません。からだのワークで「腕を動かして下さい」と言うと、みんな「腕」ではなく「肩」だけを動かします。確かに肩の筋肉を動かせば、結果として腕も動きます。でもそれは腕を移動させているだけで動いていることにはならないのです。言っていることが伝わっているでしょうか。電車に乗ればからだは移動します。電車に乗っていない人から見たら「からだが動いている」と言えないこともありません。でも実際には、「からだ」そのものが動いているわけではありませんよね。それと同じことをしているということです。トンカチで釘を打つとき、当然、トンカチを動かしますよね。でも、トンカチを動かしているのは人間の手であって、トンカチ自体が動いているわけではありませんよね。「腕を動かして下さい」と言われたときも、多くの人が、腕に対してトンカチと同じことをしているだけなんです。確かに「トンカチ」は自分の意思では動けないので人間が外側から力を加えて動かしてあげるしかないのですが、腕は自分の感覚や意思を通すことで内側から動かすことが出来るのです。それなのに多くの人が腕を動かさずに肩だけを動かして作業をしようとしているのです。だから、40肩、50肩になってしまうのではないでしょうか。そのような人の腕を押さえ込むのは簡単です。でも、腕そのものを動かせる人の腕を押さえ込むのは難しいです。それは、タコを押さえ込むのが難しいのと同じ原理です。暴れる子どもを押さえ込むのも非常に難しいですよね。それは子どもが内側から動いているからです。でも、頭の指示でからだを動かしている人を押さえ込むのは簡単です。寝てもらって数人がかりでその人の体を押さえ込みます。その時、頭の指示でからだを動かしてその状態から抜け出そうとする人は抜け出せないのです。でも、からだのセンサーを働かせて、からだ自体が動くようにすれば抜け出せるのです。からだをいっぱい使って遊んでいる子ども達にはこういう動きが出来るのです。だから多少無茶なことをしてもケガをしないのです。でも、普段は「からだを使った遊び」をしていないのに、「からだを使った遊び」をしている子を見て真似をしようとする子は簡単にケガをします。私は子どもと相撲を取るのが好きですが、からだを使って遊んでいない子はからだの使い方が下手なので簡単に転がせます。問題は、2,30年前の子は多少転がしても大丈夫だったのですが、最近の子は、からだを使って遊んでいないので、顔から倒れたり、自分のからだを守るような倒れ方が出来ないので非常に危険なんです。それでひやっとしたことが何回かあったので、最近は崩すだけにして投げないようにしています。でも、日常的にからだを使って遊んでいる子を崩すのは、タコを押さえ込むのと同じくらい難しいです。「緩んだからだ」というのはそういうからだのことです。ぎっくり腰で悩んでいる人も多いですが、そういう人もからだと対話することなく、からだを道具のように使っている人です。頭の指示でからだを動かすばかりで、からだ自体が内側から動いていないのです。だから、からだのセンサーが働かずに過負荷になって壊れてしまうのです。子ども達に泥んこ粘土で「まあるい玉」(泥団子)を作らせようとすると、手や指のセンサーが動かない子は粘土を丸くできません。一生懸命に丸くしようとするのですが、あれ! あれ! という感じでおかしな形になってしまうのです。それでイライラしてきます。確かに、ゲームなどで遊んでいるときには指を使っています。でも、指を「物」として「道具」として使っているだけに過ぎません。指のセンサーを使って指自体が動いているわけではありません。あと、ゲームでは「指を向かい合わせて使う」ということもありませんよね。「指を向かい合わせて使う」とは、例えば小さな物をつまむような使い方です。「こより」を作るときにも指を向かい合わせて使います。コマのヒモを巻くときも、羊毛ボールを作るときも同じです。でも、最近の子はそういう指の使い方が苦手なんです。ちなみにチンパンジーもこのような指の使い方が苦手です。現代の子ども達の指がチンパンジー化しているのです。チンパンジー化しているのが指だけならいいのですけど・・・。あと、「からだの使い方」が下手なので「道具の使い方」も下手です。道具を上手に使うためには、道具を腕の延長として使う必要があるのですが、その腕自体が使えないので道具も使えないのです。それで道具を使わせるとイライラします。
2026.09.17
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昨日は「全ての学問の種は生活の中にあります」というタイトルで書きましたが、これは「からだの使い方」でも同じです。ちなみに、ここで言う「生活」の中には「遊び」も含まれています。でも、「簡単で便利な機械」の登場、「簡単で便利な遊び」の登場、生活形態の欧米化と共に、現代人は先祖から受け継いできた「からだの使い方」を忘れてしまいました。生活の場で「からだを使う機会」も減ってしまいました。そして、からだを使わなくなり、「からだの使い方」を学ぶことが出来なくなることで、それに伴って学んでいた「意識の使い方」も学ぶことが出来なくなりました。特に幼い子どもでは「からだの使い方」と「意識の使い方」はセットになっているのでその影響は大きいです。その結果「意識のコントロール」が苦手な子どもたちが増えてきました。そういう子どもたちはじっとしていることが苦手です。ちょっとした感覚刺激にも振り回されてしまいます。それは、人生の中で一番「からだの使い方」や「意識の使い方」が育つ子ども時代に、「簡単で便利な機械に依存した生活」や「簡単で便利な機械に依存した遊び」ばかりしていることの当然の結果です。そのような状態の子どもたちは、「肉体」は大きくなっているのに、心や意識の育ちがそれに伴っていないのです。そのため肉体からわき上がる本能的な衝動を抑えることが出来ないのです。「スポーツをやらせているから大丈夫」と考えている人もいますが、スポーツはからだの使い方や意識の使い方が偏っているので、9才、10才前の子どもにはあまりやらせない方がいいです。実際、スポーツのやり過ぎで体を壊してしまった人の話はよく聞きます。うちの長男のお嫁さんも、バスケのやり過ぎで膝を壊してしまい、今でも苦しんでいます。でも、「遊び過ぎて体を壊した」という子どもの話は聞いたことがありません。それにスポーツでは勝ち負けを競っていますが、子ども達には「競争」よりも「助け合うこと」を伝えて下さい。ちなみにスポーツを指導している人でもそのことが分かっている人もいるみたいで、幼い子どもたちには「勝ち負けを競う競技としてのスポーツ」ではなく、「遊び」の要素を取り入れて楽しく指導している人もいるようです。ちなみに、「遊び」は助け合いで成り立っています。確かに、男の子達は勝ち負けを競うことが好きです。でもそれは、遊びを通して切磋琢磨しているから楽しいのです。遊びとしての切磋琢磨が楽しいのです。だから勝つことだけが目的ではないのです。運動会で競って走っていた二人の一方が転んだとき、転ばなかった子は転んだ子が立ち上がるまで待ってまた競争を始めた、という話を読んだことがあります。一人で走ったって楽しくないですからね。一見似たようなことをやっていても、「大人が指導するスポーツ」と「子どもたちが自分の意思で行う遊び」は同じではないのです。また、大人の指導でからだを動かしても心とからだは統合されません。自分の意思でからだを動かすから心とからだが統合されるのです。このように「からだが育たない子ども」「からだが育たない大人」が増えたのは高度経済成長の頃からです。子どもの群れが消え、生活や遊びの場に簡単で便利な機械が大量に入り込むようになってからです。そして、その頃の子どもたちが今「老人」と呼ばれる年齢になっています。町中でもいっぱい見かけます。でも、矍鑠として歩いている人は少ないです。「矍鑠」読めますか? 「かくしゃく」と読みます。AIは「年を取っても元気な様子」と説明していますが、私は「背筋が伸びて立ち居振る舞いがしっかりとしている人」という風に理解しています年を取れば体力が落ちるのは当然です。でも、だからといってそれに伴って精神力も低下するわけではありません。私の父親は89才で亡くなりましたが、亡くなる前日まで一人で家事全般をこなしてしっかりと生きていました。昔はそういう老人も多かったのです。そしてその精神力は「意識の使い方」とつながっています。その「意識の使い方」は「からだの使い方」とつながっています。今、町を歩いていると高齢の人をいっぱい見かけますが、その多くの人がヨロヨロ歩いています。まず、町を歩くのが危険なほど筋力が低下している人が非常に多いです。からだが歪んでいる人、からだが固まっている人も多いです。そういう状態のからだで自転車に乗っているので、ちょっとバランスを崩しただけで、自分の身を守る対応が出来ないまま倒れてしまいます。目の前で、ご老人が乗った自転車がスローモーションのように横に倒れる現場を見たことがありますが、乗っていた人は身を守る動作が何も出来ずにそのまま倒れてしまいました。近くにいた人が助け起こして対応していましたけど、幸い、大きなケガはしていなかったようです。路面に座り込んで動けなくなったご老人を二人ほど助けたこともあります。聞けば、からだを支えてくれるカートから手を離してしまったので倒れてしまったそうです。特にケガはないのですが、筋力がないので一度倒れてしまうと、自分の力で立ち上がれないのです。それで、起き上がらせてカートを持たせてあげたら、歩けるようになりました。簡単で便利な機械に依存した生活ばかりをしていて、その他にスポーツや登山のような「からだを使う活動」をしていなければ、当然、そうなってしまうのです。「ぽつんと一軒家」という番組を見ていると、70、80、90でも、畑を耕して山道を歩いているご老人がよく出てきますが、元気だからからだを動かすことが出来るのではなく、からだを動かしているから元気なんです。子どもたちの生命力が低下し、メンタルが弱く、元気がないのもからだを動かして遊んでいないからです。子ども時代には勉強よりももっともっと大切なことがあるのです。
2026.09.16
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人類の全ての学問の「種」は日々の生活の中にあります。算数の種も、国語の種も、理科の種も、社会の種も全部日々の生活の中にあります。ただし、「種」があるのは昔ながらの素朴な生活の中であって、簡単で便利な生活、デジタル機器に依存した生活の中にはありません。簡単便利な生活やデジタル機器に依存した生活は、様々な「種」が成長した結果うまれたものですが、そこにはもう「種」はないのです。例えば、リアルな火を使ってお鍋でご飯を炊くだけでも、様々な出会いと学びがあります。美味しいご飯を炊くためには、火の扱い方、お米について、薪について、釜戸について、鍋についての知識が必要になります。それらの知識は、科学や、物理や、化学や、人間社会の文化や歴史とつながっています。その知識と、その知識を使いこなす技術がない状態ではご飯は美味しく炊けません。でも、そういうことを学ぶにつれて次第に美味しいご飯が炊けるようになります。そして、そのような体験や出会いが様々な学問の「種」や「学ぶ動機」や「学ぶ楽しさ」につながって行くのです。そうやって科学や様々な学問は進歩してきたのですから。でも、人と人のつながりが消えると共に、そういうことを教えてくれる人が子どもの周囲にいなくなりました。また、簡単で便利な生活に慣れてしまうことで、そういう活動を面倒くさいと感じる人も増えてきました。その結果、炊飯器なるものが生まれました。炊飯器があれば、そういうものを一切知らない子でも、マニュアル通りに作業するだけで美味しいご飯を炊くことが出来ます。お母さんがお米をといで鍋に入れておけばあとはスイッチを入れるだけですから、三歳児でも美味しいご飯を炊くことが出来ます。洗濯もスイッチを入れるだけです。便利な世の中になったものです。で、みんな喜んでいますが、でもその「便利」と引き替えに、子ども達は「様々な学問の種」と出会うことが出来なくなりました。でも、その問題点に気づいている人は少ないです。気づいている人は、「子どもたちに原体験を与えるような活動」をしていますが、そういう人は少ないです。子ども達が学校で学ぶことが出来るのは、その「種が成長した結果」をまとめた図鑑のようなものです。学校では「種」とも「実物」とも出会うことが出来ないのです。でも、最近の子は生活の場で「種」と出会ってないので、「学校で学んでいること」が自分の生活や、自分が生きている世界とどのようにつながっているのかが分からないのです。先生もそれをつなげて説明することが出来ません。説明しても、そもそもの体験がない子はその説明を理解することが出来ません。「ロウソクの周囲の火は黄色いけど真ん中は青い」ということを体験的に知っている子は、火の温度と色の関係を聞いてさらに興味を持ちますが、その体験がない子はそれを知識としてただ覚えるだけです。学校で子どもたちは「覚えろ」と言われるから覚えているだけです。でも、学んでいることが自分の体験とつながっていないので、学んでいることの意味が分かりません。学ばなければならない理由も分かりません。学ぶことが「謎解き」にならないのです。ですから当然、学ぶことが楽しくなりません。山や海の体験がない子に山や海の話をしても体験を通して理解することが出来ません。知識として覚えることは出来るかも知れませんが、学ぶことが楽しくなりません。でも、「学ぶこと」が、体験を通して感じた不思議や驚きの「謎解き」になった子は勉強が好きになります。学んだことを理解することも出来ます。その一方で、「勉強すること=暗記すること」になった子は勉強が嫌いになります。学んだことを理解することも、何で勉強するのかも分かりません。だから「どうして勉強しなければいけないの」「どうして学校に行かなければいけないの」という疑問が生まれるのです。そして、「タブレットや様々な電子機器を通しての学び」は、さらに子ども達を「種」から遠ざけてしまいます。子ども達にタブレットを与えたら、授業そのものが必要なくなります。先生も学校も同級生も必要なくなります。タブレットを使えば先生が授業するよりも、効率よく様々な学問についての情報を得ることが出来るからです。でも、タブレットで学ぶことが出来るのは、子ども自身の生活とも、命とも、心やからだともつながっていない「デジタル化した情報」だけです。人間の先生が直接授業する場合は、その授業の中に、先生自身の感じ方、考え方、生き方が含まれてきます。先生と生徒の人間関係も生まれます。それが良い場合も、悪い場合もありますが、授業を通して「生きた人間」と出会うことが出来るわけです。また、生身の先生による授業は大勢の生徒が並んでいる場で行われます。だから必然的に「仲間との関わり合い」も生まれます。でも、タブレットを使った授業では「先生との出会い」も「仲間との出会い」も生まれません。そこで学べるのは頭の中にストックする「情報」だけです。でも、「情報」をいくらいっぱい頭の中に詰め込んでも、子どもの心やからだは成長しないのです。意識や感覚や思考力の成長にもつながりません。その結果「色々なことを知っているけど何も出来ない」という状態になります。それでは生きることが苦しくなるばかりなのではないでしょうか。昔は、生活の中で動物と出会っていた子が、学校で「動物について」学びました。命と出会っていた子が、学校で「命について」学びました。だから、学ぶことが「謎解き」につながっていたのです。学ぶことが楽しかったのです。でも、今ではその出会いがないまま「動物について」「命について」学んでいます。情報化された世界では、機械も動物も命も死も物も同じです。
2026.09.15
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欧米とかでは、子ども達の学力低下を防ぐためにデジタル教材離れが始まっているのに、日本はドンドン推進しようとしていますよね。日本の教育で大切にしているのは基本的に「先生が教えたことをちゃんと覚えているのかどうかを調べる試験の点数」だけなので、それが可能なのかも知れません。また、何らかの企業とのつながりがあるのかも知れませんが、それを言うと陰謀論とか言われてしまう可能性があります。日本の普通の学校教育では、学んだことが身についていなくても、子どもの成長につながっていなくても、「試験の点数」さえ良ければ問題にはならないのではないでしょうか。実際、「スマホさえ持っていれば答えることが出来るような試験」では、「学んだことがちゃんと身についているのか、そのことで子どもが成長しているのか」などということは調べることが出来ません。また、多くの人が「成績が良い=頭がいい」と勘違いしています。教室でも、「オレの方が成績がいいからオレの方が頭がいいんだ」などと言い合っている子がいました。でも実際には、「勉強が得意」「試験の点数が良い」ということと、「学んだことが身についている」とか「学んだことが子どもの成長につながっている」などということは全くの別物です。道徳教育で学んだことをちゃんと覚えていることと、それを自分の価値観として、生活態度として身につけていることは全く別物ですよね。そしてこれは、道徳教育だけでなく他の全ての学びにおいても同じなんです。算数(数学)を学ぶということは、ただ単に計算の仕方や公式などを覚えることではありません。試験問題を解くためだけに算数を学ぶのではないのです。「算数が分からないと生活で困るから」などと思う人もいるかも知れませんが、生活の場で必要な算数は小学校低学年レベルで十分です。それより難しい問題はスマホやAIに聞けば答えてくれます。皆さんは、子どもから「なんで算数なんか勉強するの」と聞かれたら、子どもが納得出来るように答えることが出来ますか。「試験でいい点数を取るためよ」「いい学校に入るためよ」「いい会社に入るためよ」としか答えることが出来ない人も多いのではありませんか。でも、そんな答えでは子どもは納得出来ません。これは、国語や、理科や、歴史や、地理を学ぶ時でも同じです。なんでそういうものを学ばなければならないのかというと、試験でいい点数を取ったり、いい学校や会社に入るためではないのです。ちなみに、宇宙人がやって来た時に唯一共通言語として使えるのは数学だけだと言います。数学は、宇宙共通の学問なんです。数学を学ぶことは、宇宙のことを学ぶことと同じなんです。スゴいでしょ。「学ぶ」ということは、自分の目で見て、自分の感覚で感じて、自分の意思で判断して行動できるようになるために、人に支配されないために、人生で迷子にならないために、みんなが平和に幸せに暮らすことが出来るようになるために必要なことなんです。試験でいい点数を取るための方法として、人に勝つための方法として教育があるのではないのです。そして、少なくとも小学校で学ぶような基礎の学びにおいては、リアルな世界の中でのリアルな体験を通しての学びが絶対的に必要なんです。リアルな体験がないと「抽象的な世界」と「具象的な世界」とのつながりが分からなくなってしまうからです。中学、高校と進むにつれて、抽象的な見方、考え方が必要になってきます。その時、具象世界の体験が少ないと抽象的な世界が理解できなくなってしまうのです。抽象は具象から絞り出されたものだからです。だから、具象体験の少ない子は暗記だけで何とかしようとしてしまいます。でもやがて、暗記だけでは乗り越えることが出来ない壁がやってくるのです。また、具象的な世界の体験が少ない子は、抽象的な学びを具象世界の中で展開できなくなります。「学校で学んだこと」と「自分が生きている世界や自分の人生」とのつながりが分からないからです。タブレットの中の世界は、ゲームの中の世界と同じです。その中には何でもあります。でもその全てが、子どもが生きている現実の世界とはつながっていません。「1+1=2」と画面に表示されるのと、先生が「1+1=2」と黒板に書くのとは同じではないのです。「1+1=2」と画面に表示される場合には時間も空間もありません。音や動きのような五感に働きかけるような要素も含まれていません。チョークの粉が飛び散ることもありません。タブレットから先生の声は聞こえてくるかも知れませんが、その「声」は流れてくるだけで、その子に向けられた声ではありません。眠っていても注意されません。でも、人間の記憶というものはそれらの雑音と共に心とからだの中に定着して行くように出来ているのです。デジタルだけでは記憶に残りにくいのです。タブレットで調べれば雑音抜きで結果だけを得ることが出来ます。だからすぐ忘れてしまうのだし、身につかないのです。でもその雑音を「無駄なもの」として排除しようとする人達がいるのです。
2026.09.14
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昨日は、子どもは意外と保守的なので、「行ったことがないところ」や「知らないところ」に行ってみたいとは思いません。食べたことがないものには手を出しません。「規則」や「指示命令」や「大人の監視」によって束縛し「自由」を与えない場合も同じ結果になります。と書きましたが、でも、最初からこのような状態ではありません。産まれた最初の頃は「怖い物知らず」「何にでも興味を持ち、何にでも挑戦するチャレンジャー」です。だからお母さんは困ってしまうのですが、でも、現実世界との関わりを通して、叱られたり、失敗したり、痛い思いをしたりして次第に「現実世界との関わり方」を学んでいきます。こういうことをすると叱られる。こういうことをすると痛い。これは自分でも出来る。これは自分には出来ない。お母さんはこういう人だ。お父さんはこういう人だ。自分はお母さん、お父さん、周囲の人から好かれている、嫌われているなどということも学びます。これは楽しい、これは嫌だ、これは美味しい、これはマズイいということも体験を通して学んでいきます。それが日常的な子どもの生活の場、遊びの場で起きていることです。その時、自分の体験を通して「この世界は面白い」「この世界は不思議だ」「この世界は楽しい」という発見が出来た子は、年齢が上がっても継続的に、その世界を求めようとします。それが知的な欲求を満たそうとしたり、技術の習得の原動力になる子もいます。「仲間とかかわることが楽しい」ということを発見した子は、成長しても仲間との関わり合いを求めます。だからこそ、幼い子ども達には「自分が生まれてきた世界との肯定的出会い」が絶対的に必要なんです。出会いはあっても、その結果、痛い思い、悲しい思い、嫌な思いしか残っていない子は探索活動を止めてしまいます。自分が興味を持ってやったことにいつもダメと言われたり、叱られたり、打たれたりしていたら、「こういう行動をしないように」と学習してしまうのです。皆さんは「ノミの調教」って知っていますか。ノミはピョンピョン跳ねる虫です。ですから、犬や猫の毛に絡んでいるときは捕まえることが出来ますが、床に落ちてしまうと小さくて跳ねるので捕まえることが困難になります。でも、そんなノミでも天井が低い箱の中で育てると、高く飛ばなくなるそうです。高く飛んで天井にぶつかって痛い思いを繰り返しているうちに(痛みを感じているかどうかは知りませんが)、次第に天井の高さ以上には飛ばなくなってしまうそうなのです。昔は、そんな「飛ばなくなったノミ」を使って芸をさせる人もいたそうです。そして、人間の子どもにも同じ現象が起きてしまうのです。狭い部屋の中だけで育った子は、広い空間に違和感を感じるようになってしまうかも知れません。いつも騒がしい所で育った子は、静かな環境では落ち着かなくなってしまうかも知れません。自由を束縛された状態で育った子に自由を与えても、逆に困ってしまいます。だからといって、遊びの場や家庭の中で好き勝手にさせているだけでは、幼稚園や保育園のような集団で活動する場で困ったことになります。痛い思いをすることもあります。先生や仲間から否定されることあります。でも、「好き勝手」が許されて育った子は、どうしてみんなが文句を言ってくるのかが分かりません。それで「ぼく(わたし)は何にも悪くないのに・・・」と言います。自尊心(プライド)は強いのに自己肯定感は低いという状態になることもあるかも知れません。じゃあ、どうしたらいいのかということですが、だから「仲間」が必要になるのです。仲間がいると一人では出来ないことが出来ます。楽しいことがさらに楽しくなります。色々なことにチャレンジしたり、色々なことに興味を持つきっかけを与えてくれます。異なった興味、異なった遊び、異なった知識、異なった体験を持った子ども達が目的を共有して遊ぶことで、それまで自分が育ってきた狭い世界から、より広い世界に出て行くことが出来るようになるのです。ケンカも起きますが、それも人と人との関わり方を学ぶ上では大切な学習です。それに、子どもと子どもは対等です。〇〇ちゃんだけの好き勝手は許しません。大人はジャンケンで負けても子どもが泣けば「〇〇ちゃんの勝ちでいいよ」などと言いますが、子どもと子どもの関係ではそんなこと言いません。「負けるのやだー」と駄々をこねることを繰り返していたら、仲間に入れてもらえなくなってしまいます。仲間は「自由を広げてくれる存在」であると同時に、「束縛を与える存在」でもあるのです。そして、自分の意思で束縛を引き受け合うことで「他者と関わるときのルール」を学ぶことが出来るのです。お母さんも「ダメなことはダメ」ときっぱりとした態度が取れればいいのですが、「今、子どもを言いくるめないと自分が困ったことになってしまう」という状況では、子どもの要求を通してしまうことが多いのです。すると、それを学習した子どもは常に、自分勝手なワガママを言うようになってしまいます。お母さんに自分の相手をしてもらうために「ワガママ」を言っている子もいます。
2026.09.13
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子どもを狭い世界に閉じ込めないで下さい。これは本当に、本当に、強く望むことです。子どもを狭い世界に閉じ込めようとする社会に「幸せな未来」はありません。子どもを狭い世界に閉じ込めようとする国に「幸せな未来」はありません。狭い世界に閉じ込められて育った子どもに「幸せな未来」はありません。なぜなら「希望」や「成長」は常に「外の世界」や「広い世界」との出会いによって生まれるものだからです。狭い世界に閉じ込められて育った子どもは「外の世界」に興味を示しません。「広い世界」に不安と恐れを感じます。教室の子どもに聞いても「外国になんか行きたくない」と言います。「外国は怖い」とも言います。実際、最近の若い人の多くは、行き先や目的が決まった「旅行」には行きますが、そういうものがほぼ白紙の「新しい出会いを楽しむような旅」に行きません。「知らないことと出会えること」に魅力を感じないようです。そういう旅行をしている友人のお子さんもいますが、その子のお母さんである友人は「広い世界との出会い」を楽しめる人です。お母さんの生き方が子どもに影響したのでしょう。でもそういう人は少ないです。多くの人は「自分の世界」を守ることに必死です。これは「味の世界」でも、「視覚の世界」でも、「音の世界」でも、「知識の世界」でも、「行動範囲」でも、「からだの動き」でも、「表現方法」でも同じです。子どもは意外と保守的なので、「行ったことがないところ」や「知らないところ」に行ってみたいとは思いません。食べたことがないものには手を出しません。「規則」や「指示命令」や「大人の監視」によって束縛し「自由」を与えない場合も同じ結果になります。「狭い世界」に閉じ込めたまま、その中で自由を与えても無意味です。ゲームの中での自由は子どもの成長につながらないのです。狭い部屋の中に閉じ込めていくらいっぱいオモチャを与えて自由に遊ばせても、子どもは成長しません。そして、「成長」がなければ「希望」も「自信」も生まれません。いつも同じものを見て、同じことをやってばかりいて、「ハラハラ・ドキドキ・ワクワクするような新しいものとの出会い」がないと「意識」が閉ざされてしまうのです。そして「意識」が閉ざされてしまうと「成長欲求」も目覚めないのです。子どもの意識をひらき、子どもの心を好奇心で満たし、外の世界、広い世界へと向かわせるためには「自然の中での遊び」や「絵本や物語の世界との出会い」が必要なんです。ただし、動画で見せてもその効果はありません。動画の世界の中には入っていくことが出来ないからです。
2026.09.12
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オモチャで遊んでいる子どもを見ていると、オモチャという「物」で遊んでいるように見えますが、実は子どもは「物」で遊んでいるのではなく、その「物」によって引き出される「物語の世界」に入って遊んでいるのです。そんな子どもたちでも、比較評価され、競争に追い立てられ、競争社会の中で生きるようになると、「物」は見えても「物語の世界」に入ることが出来なくなってしまいます。そして、それが「大人が生きている世界」でもあります。その世界には「観念としての命」はありますが、自分の心やからだや他者とつながった「生きた命」はありません。「観念としての自然」はありますが、「仲間としての自然」「命の土台としての自然」はありません。それは「物語」が消えることで、それらのものとの「つながり」も消えてしまうからです。また、「つながり」が消えると「自分を支えてくれるもの」も消えてしまうので「不安」が生まれます。だから、お金をいっぱい貯めたり、競争に勝つことで安心を得ようとし始めるのでしょう。そのような状態の大人達には、子どもたちが遊んでいる世界が見えません。子どもたちが「物」ではなく「物語」で遊んでいることが理解できません。石ころやドングリや木の枝で遊んでいる子が理解できません。水たまりでビチョビチョになったり、汚い泥んこで遊んでいる子が理解できません。それでも、「楽しそうなのなのでもっとやらせてあげたい」と思う人もいますが、そのような遊びをさせるためには子どもを自然の中に連れて行かなければなりません。遊んだ後で、汚れた服を洗わなければなりません。周囲の人の白い目にも耐えなければなりません。だから、子どもが石ころや、ドングリや、水たまりや、泥んこや、木の枝で楽しく遊んでいてもそれをやめさせようとします。そして、「そんなくだらない物」ではなく「ちゃんとしたオモチャ」で子どもを遊ばせようとしています。確かに、おもちゃを買うのにはお金がかかりますがその方が楽でもあります。わざわざ自然の中に連れて行く必要も、洗濯する必要も、周囲の目を気にする必要もありませんから。そして、キラキラしたオモチャを買ってもらえば子どもも喜びます。でも、すぐに飽きます。するとまた新しいおもちゃを買ってもらいたがります。石ころや、ドングリや、水たまりや、泥んこや、木の枝で遊んでいる時には飽きなかったのに、買ってもらったオモチャだと飽きるのです。なぜ飽きるのかというと、そのような「キラキラしたオモチャ」は、「子どもの心や、からだや、命の働きとつながるような物語」を含んでいないからです。それでも、買ってもらった時は喜びます。ですから、子どもがオモチャに飽きると、また新しい「キラキラしたオモチャ」を買ってあげます。すると最初は喜びますが、しばらくするとまた飽きます。その繰り返しです。そして、その繰り返しで子どもは次第に、石ころや、ドングリや、水たまりや、泥んこや、木の枝とつながれなくなります。そして、そういうものを避けるようになります。それまでは、水溜まりがあると喜んで入って行ったのに、次第に避けて通るようになるのです。そして「物」ばかりを欲しがるようになり、「物語の世界」で遊ぶことが出来なくなります。すると、「見えない世界」とつながれなくなり、不安が生まれます。ゲームは一時的にその不安を忘れさせてくれます。でも、不安を忘れることが出来るのはゲームをしている時だけです。それに対して、「物語の世界」で遊ぶことが出来る子は退屈しません。周囲の色々なものを見て、色々なことを発見することも出来ます。感じたり、考えたり、工夫したりすることも楽しむことが出来ます。そしてそれが「物語の世界で遊ぶ」ということでもあるのです。そして、物語の世界で遊ぶことで「見えないものを見る能力」や「つながる能力」「つなげる能力」が育っていくのです。「命の意味」や「命の大切さ」は、「見えないものを見る能力」や「つながる能力」がない人には分からないのです。「命」が大切なのは「他の命」とつながっているからなんです。「他の命」と切り離した状態で「命の大切さ」を言っても意味がないのです。「見えない世界への興味」が強くなることでオカルトの方に行く人もいますが、科学の方に行く人もいます。というか、実は「科学」と「オカルト」は紙一重なんです。ニュートンが物理の研究と共に錬金術の研究もしていたのは有名な話です。また実際、オーム真理教の活動には科学を学んでいる学生が多く参加していました。オカルト自体は無害なんです。それを他の人に押しつける時に有害になるのです。それは科学でも同じです。「物」でしか遊ぶことが出来なくなってしまった子は、「つながる能力」が萎えてしまっているので、やることがないとすぐに「退屈だー」と言い出します。オカルト的なことや科学にも興味を示しませんが、感じたり、考えたり、工夫したりすることが苦手なので、他者によって簡単にコントロールされてしまいます。そして、そういう人がオカルトに染まると危険です。
2026.09.11
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古来から、「オモチャ」は「子どもが発見するもの」「子どもが作るもの」であって「大人が与えるもの」ではありませんでした。「大人が作って与えたオモチャ」もあったでしょうが、基本的には、子ども達は自分たちで遊ぶオモチャは自分たちで発見したり、作ったりしていたのです。私が子どもの頃(昭和20,30年代)でもそうでした。凧は竹ヒゴを作るところから、器用な子は鳥かごも作りました。ヒゴを曲げ紙を貼って飛行機を作ったり、釘を叩いてナイフや手裏剣も作りました。弓矢や、竹とんぼや、鉄砲(キビ鉄砲)も自分で作りました。そういうものを作るのが遊びでもあったのです。「オモチャを作る」ことがもうすでに遊びだったのです。ですから、男の子達はみんなナイフを持っていました。肥後守というナイフです。ベーゴマやメンコは買ってもらいましたが、みんなそれに独自の細工をして自分仕様のベーゴマやメンコにしていました。買ったまま使ったりはしませんでした。2月にネパールに行ったのですが、ネパールの子ども達は自分たちで作った木のコマで遊んでいました。「打ちごま」と呼ばれる形のコマです。私も日本に帰ってきてからそれと同じものを作りました。ちゃんと回ります。「コマとはどういうものなのか」ということが分かっていて、ナイフが使えるなら、コマを作るのはそれほど難しくありません。でも今、オモチャを自分で作ろうとする子は滅多にいません。「オモチャは買ってもらうものだ」という風に思い込んでいるからです。それに最近の子は、ナイフどころかハサミも満足に使えません。ノコギリもトンカチもうまく使えません。そして、疲れることはやりたがりません。考えるのも面倒くさいと言います。そして実際、最近の子はすぐに疲れます。これらは大人の責任です。そもそも、最近の子は「オモチャが自分でも作れる」とか、「自分でも作れるようなオモチャ」のことを知りません。それに、「自分でも作れるよ」と言っても、「手作りのかっこ悪いオモチャ」ではなく「お店で売っているかっこいいオモチャ」の方を欲しがります。お母さんから端切れや古くなった布団の綿をもらって、布を縫い、綿を入れて「自分のお人形」を作ることは出来ますが、「リカちゃん人形」は絶対に作れません。「リカちゃん人形」は買ってもらうしかないのです。自分で作るのですから、当然「作りたいもの」しか作りません。そして、その「作りたいもの」は、その子の成長の段階に合ったものです。成長の段階に合ったものだから作りたくなるのだし、また自分で作れるのです。あと子ども達は、身近にある不要品を「オモチャ」として使って遊んでいました。一枚の布があれば様々な遊びが出来ます。いらなくなった段ボールなど大好きです。新聞紙でも遊べます。「水」や「泥んこ」や「火」などは大好物です。でも、大人はそういう物を使った遊びを好みません。大人は子ども達に「部屋の中で、大人が与えたオモチャでおとなしく遊んでいて欲しい」と願っているからです。また、その様な「素朴なオモチャ」でいつまでも遊ぶためには「仲間」が必要になります。昔の子ども達にとっての「オモチャ」は「子どもと子どもをつなぐもの」としての役割も持っていたからです。布一枚でも色々遊べますが、布が色々なものに変化するためには仲間が必要なんです。ゲームは仲間がいなくても一人でいつまでも遊べるように作られています。でも、「自分で作るオモチャ」や「発見するオモチャ」は仲間がいないと遊びが発展しないため楽しさも持続しません。子どもが「自分で作るオモチャ」や「発見するオモチャ」で夢中になって遊ぶためには仲間が必要なんです。でもその仲間がいない今、やっぱり一番楽しいのはゲームなんです。でも、ゲームでの遊びには「子どもの成長」を支える力がありません。
2026.09.10
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「絵本」のことについて書いたので、今度は「オモチャ」のことについて書いてみます。大分以前のことですが、テレビの番組で、色々な芸能人が「リカちゃん人形の素晴らしさ」について語っていました。時代によって色々なリカちゃんが生まれている。色々な状況に合わせて色々なリカちゃんが作られている。キャンプブームに合わせて「キャンプリカちゃん」も作られた。洋服を買えたり、髪型を変えたり、小物を揃えたりしてして色々な遊び方が出来る。「なんてリカちゃん人形の世界は素晴らしいんだ!」という話でした。現代人は、(大人も子どもも)このような「流行の変化や子どもの要求に合わせて作られ、子どもが自分の頭で考えたり、工夫したりしなくても、目的に合ったオモチャを選ぶだけで自由に、そして簡単に、楽しく遊べる便利なオモチャ」が大好きです。また、持っていることにステータスも感じるし、物欲も満たすことが出来ます。お母さんやお父さんに「買ってー」とダダをこねるだけで、「遊び方」付きで、楽しい遊びや素敵な世界を手に入れることが出来ます。確かに、色々な種類を揃えれば色々な遊び方が可能になり、そこで自分だけの物語を作って遊ぶことも可能になります。でもそれはディズニーランドの中での回り方や、遊び方や、楽しみ方を工夫するのと同じです。どんなに回り方や遊び方を工夫しても、ディズニーランドの外の世界と出会う事は出来ませんよね。それと同じように、「リカちゃんシリーズ」を集めれば集めるほど、どんどんその世界に閉じ込められてしまうのではないでしょうか。そして、次第に「リカちゃんワールド」の外の世界で遊ぶことが出来なくなって行きます。ゲームにも同じような仕組みが隠されています。ゲームの中では色々な工夫が出来ます。でも、どんなに工夫してもゲームの世界の外に出ることは出来ません。そういうものは一度はまったら外に出ることが出来ないような仕組みになっているからです。ゲームは「子どもの成長を支えるために作られたもの」ではなく、「お金を儲ける商品として作られているもの」なのですから、それは当然のことです。でも、その世界に取り込まれ、閉じ込まれてしまっている子はそのことに気付きません。外の世界には「自分が知らない楽しくて素晴らしい世界」があることに気付くことが出来ないまま成長していくことになるのです。大人も、そういうものを与えてさえおけば楽しそうに遊んでいる我が子を見て安心します。でも、どんなに楽しそうでも、子どもは「リカちゃんワールド」や「ゲームの世界の中」では生きていくことが出来ないのです。子どもが、自分の命とからだが存在している「現実の世界」の中で生きて行くために必要なのは、「お金で買えるもの」や「与えて貰ったもの」ではなく、「必要なものは自分で創り出す能力」の方なんです。そして、そのために必要なのは、「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で判断し行動する能力」です。そんな、何でも揃っていて、色々とグッズを集めれば誰でも簡単に遊べる「リカちゃん人形」の対極にあるのが、シュタイナー教育などで使われている「ヴァルドルフ人形」と呼ばれるものです。「ヴァルドルフ人形」には目も鼻も口もありません。そういうものを感じさせるものはありますが、「リカちゃん人形」のようなリアルな目や鼻や口はついていません。そのため、「リカちゃん人形」のようなお人形に慣れている子は「ヴァルドルフ人形」を見た時、「変だ」と言います。「気持ち悪い」と言う子もいます。また、どうやって遊んだらいいのか分かりません。でも、幼い時からこういう人形で遊んでいる子はそんなこと全く感じません。そして、逆に「リカちゃん人形」を見ると「怖い」と言います。私も「リカちゃん人形」は怖いです。「リカちゃん人形」は自己主張が強いですが、「ヴァルドルフ人形」はその逆に自己主張をしません。「リカちゃん人形」の表情は固定されていますが、「ヴァルドルフ人形」の表情は子どもの心を映すのでいつも変わります。(大人には同じに見えますが)また、「リカちゃん人形」はどうやって遊んでも「リカちゃん」のままですが、「ヴァルドルフ人形」は子どもの心の状態や遊びに合わせて自由に赤ちゃんにも大人にもなることが出来ます。「リカちゃん人形」は子どもの所有物ですが、「ヴァルドルフ人形」は子どもの友達であると同時に自分自身でもあります。ですから、名前も「リカちゃん」という固定した名前ではなく、自分で自由につけることが出来ます。うちの子は「メルちゃん」という名前をつけて遊んでいました。この「名前を自分でつけることが出来る」というのは非常に重要なことです。そして、「リカちゃん人形」で遊ぶ子は「リカちゃん人形で」遊びますが、「ヴァルドルフ人形」で遊ぶ子は「その子と」遊びます。また、「リカちゃん人形」で遊ぶ時には、子どもが「リカちゃんワールド」に合わせる必要がありますが、「その子」と遊ぶ時には「その子」が子どもの心の世界に合わせてくれます。そのため、子どもは自由に自分の心の世界を広げることが出来ます。子どもが自由に感じ、考え、工夫しても、「その子」はちゃんと子どもに合わせてくれるのです。というか、感じ考え工夫すればするほど、「その子」と一緒に遊ぶのが楽しくなります。まるで、「見えないお友達が見える化したもの」のようです。
2026.09.09
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「絵本」には当然「絵」があります。その「絵」が「お話しの世界」を広げてくれることもありますが、「絵」があることで、世界が閉ざされてしまうこともあります。浦島太郎のお話に出てくる竜宮城は「絵にも描けない美しさ」のはずなのにみんな絵に描いてあります。「絵にも描けない美しさ」と言われたら「どんななんだろう?」とあれこれ想像しますが、絵に描かれてしまったら「見る」だけで「想像」することを止めてしまいます。「その時、太郎君の目の前には、見上げてもてっぺんが見えないような大きな木があらわれました。幹も、太さが分からないくらい横に広がり、まるで太郎君が前に進むことを邪魔する壁のように立っています。これが世界の果てに立って、この世界を支えていると言われている樹なのだろうか・・・。これは、私が今勝手に作ったお話しですが、こんな木、お話しでは語れても、絵では描けませんよね。(描かないという描き方で表すことは可能ですけど・・・)言葉の世界には限界がありません。遠い過去のことも、遠い未来のことも、地球の裏側のことも、宇宙の果てのことも語ることが出来ます。でも、それを「絵」にしてしまうと、全て、絵本を見ている子どもの「今」「ここ」の話になってしまうのです。言葉は時間と空間を語ることが出来ますが、絵は時間も空間も語ることが出来ないからです。「昔々、あるところに・・・」の「昔々」の部分は絵に描けないのです。また、言葉なら人の「頭の中」や「心の中」や「体の中」のことを語ることが出来ますが、それを読み手に伝わるように絵に描くことは出来ません。宮沢賢治が書いたのは「絵では描けない世界」のお話です。でも実際にはいっぱい絵本になっています。素敵な絵本もいっぱいあります。でも、絵本に描かれた賢治のお話は、「賢治が書いたお話そのもの」ではありません。原文のまま書かれていても、その文章を読む人は、無意識的にその文章に添えられた絵を手がかりにその文章を解釈しようとしてしまうからです。だから分かりやすくなるのですが、だからオリジナルの体験が出来なくなってしまうのです。とはいっても、現代人には賢治が体験した原体験を体験することは不可能ですけど。お話の作者と絵を描く人が分かれている場合、絵本に描かれた世界は「お話を書いた人と」と「絵を描いた人」の合作です。絵の中に「絵を描く人の解釈」が入ってしまっているからです。そして、絵本を読む人は、無意識的にその絵を手がかりにして賢治の世界を理解しようとしてしまいます。それはそれでいいのですが、でもそれは「賢治が描こうとしていたオリジナルの賢治の世界とは異なるものである」ということは理解しておいた方がいいと思います。と、色々と「絵本」の問題点を書いてきましたが、それでも今の時代において「絵本」は、子どもの成長にとって、親子の関係作りにとって非常に大切なものであることは間違いありません。色々な「つながり」が失われてしまった時代だからこそ、「絵本」がそのつながりを取り戻す手助けをしてくれる場合もあります。また、「言葉だけで語られた昔話」と「絵本に描かれた昔話」は同じではありませんが、その入り口になることはあります。また、夜、寝る前などに、子どもとぬくもりを共有しながら子どものために絵本を読んであげることは非常に大きな意味があります。このような状況なら、絵本を読んで「絵本には書いてないこと」を子どもと語り合うことも出来るし、子どもの疑問に答えることも出来ます。絵には描いていないことをお母さんの言葉で補うことも出来ます。それに、意味は分からなくても、子どもは絵本を読んでいるお母さんの声を聞いているだけで安心するのです。声の力でお話の世界に引き込まれるのです。うちでは、絵を本を読むのは家内ではなく私の担当でした。うちは上と下が11才離れていて、上が3才頃から、下が中学生になる頃まで読み聞かせをしていましたから、20年以上、ほぼ毎日読み続けました。最初の頃は、子どもが「読んで」と言うので読んでいたのですが、途中から私自身が読むのが楽しくなってしまって、私が読みたい本も読んでいました。四番目が中学生の頃は部活で疲れていたので、1ページも読まないうちに寝てしまっていましたが、それでも、「読んで」というので読んでいました。(その頃は絵のない本です。私は、ファージョンを読んでいると幸せな気分になりました。)また絵本には、「お話に絵が付いた絵本」だけではく、「絵とお話が一体化した絵本」もいっぱいあります。いわむらかずおさんの「14匹のシリーズ」もそのようなものです。うちの子どもたちはこの「14匹シリーズ」が大好きで、しょっちゅう読んでいました。また、このシリーズでは「言葉を読む」だけでなく「絵を読む」楽しさもありました。「ばばばーちゃん」のシリーズもよく読みました。でも、動画で見せてしまったら全てが消えてしまいます。伝わるのは「情報」だけです。
2026.09.08
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絵本を買うと、一応「〇〇才から」と書いてありますよね。でも私は、そういうものは気にしないでいいと思っています。確かに、幼い子には難しい内容の絵本もいっぱいあります。そういう絵本は、お母さんが読んでいても子どもは寄ってこないでしょう。でも、それでも、お母さんが、お母さんが読みたい絵本を、自分のために読むのはOKだと思っています。それに、子どもは聞いていないようで聞いているものです。嘘だと思ったら、子どもが寄ってこない時に「冷蔵庫にケーキがあるよ」などと呟いて見てください。すぐに反応しますから。また、お母さんが声に出して繰り返し読んでいると、意味は分からなくても言葉やストーリーを覚えてしまうこともあります。いわゆる「門前の小僧、習わぬ経を読む」の例え通りです。それに、「意味が分かるようになってから」では遅いのです。皆さんはお子さんに言葉が分からないうちから話しかけていますでしょう。意味が分からないうちから話しかけているから身につくのです。「意味が分かるようになってから話しかけよう」などと待っていたら、いつまで経ってもその時は来ないのです。「しつけ」も同じです。「言葉が分かるようになってからしつけよう」などと思っていると、手遅れになってしまうのです。言葉が分かる頃には「自分流のやり方」が身についてしまうからです。「やっていいこと」と「やってはいけないこと」は理屈ではなく「からだに染み込ませるもの」なんです。だから「躾」なんです。それと、「幼い子どもに対する読み聞かせ」においては、絵本そのものの内容よりも「お話を読んでいる時のお母さんの声」の方が「子どもの心とからだの育ち」に与える影響が大きいのです。幼い子どもが聞いているのは「内容」よりも「お母さんの声」なんです。内容は、繰り返し読んでいるうちに、その「声」を通して、知らないうちに子どものからだに染み込んでいくものです。だから、最初は子どものことなんか考えずに、図書館に行って「自分が読みたい本」を借りて来て読めばいいのです。ただし、その時子どもを連れて行ってください。そうすればお母さんが絵本を探している間、子どもも絵本を探すようになるでしょう。そして、そのうち自分に合った絵本を見つけることが出来るようになるでしょう。そうしたら、「お母さんが読みたい本」と「子どもが読んで欲しい本」の両方を借りてきて読めばいいのです。声を出して自分のために読む絵本は気持ちがいいですよ。
2026.09.07
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絵本の読み聞かせが、現実の世界での体験不足を補う助けをしてくれます。でも、その読み方にも工夫が必要です。まず、感想や評価を求めるのは止めた方がいいです。そんなことしたら「素直な体験」が出来なくなってしまうからです。また、声色を使ったり、大げさに演技するような過剰な表現も止めた方がいいです。絵本を読む時にあまり大げさに表現してしまうと、「お話し」そのものよりも、「読んでいる人」の方に子どもの気持ちが向いてしまうからです。絵本などの読み聞かせでは、主人公はあくまでも「お話し」であり「絵本」です。読み手は「声」を通してその世界を聞き手に届ける導き人であって、そこに余分なものを付け加えてしまうと子どもは絵本が創り出している世界の中に入ることが出来なくなってしまうのです。読み聞かせで必要になるのは「子どもを面白がらせるための演出」ではなく、「読み手の心やからだとつながった声」なんです。でも、私も読み聞かせを始めた頃はそのことを知らずただ大げさに演技しながら読んでいました。その方が子どもが喜ぶと思っていたからです。そして実際、多血質や胆汁質が強い子の場合は、大げさに読んだ方が喜びます。でもそれをすると、「お話し」や「絵本」が本来持っている力は失われてしまうのです。でも、「親子遊び」としてだけの「読み聞かせ」ならば大げさに演技しながら読むのもOKだと思います。楽しく読むことで絵本がお母さんと子どもをつなげる働きもしてくれるでしょう。また、劇遊びににもつなげることも出来るでしょう。ただ、そういう読み方では子どもが絵本を通して擬似的に体験することが出来なくなってしまうということです。その時大切なことは、「読み手自身もお話しの世界の中に入る」ということです。「読み手」はただ「文字を読む人」ではなく、「導き手」でもあるからです。大げさに演技している人は、自分の解釈によって「お話しの世界」を演じているだけで、「お話しの世界」の中には入っていないものです。だから不自然に大げさになるのです。読み手自身が物語の中に入って物語りを感じながら読んでいる時に、声の中に自然に現れる表現は演技ではありません。だからそれはそれでいいのです。よく、「絵本は淡々と読んで下さい」と言われますが、「淡々と」を演じてはいけないのです。「淡々と」を意識し過ぎろと、それもまた不自然な演技になってしまうからです。以前、知り合いの絵本作家の人が、自分が描いた絵本を、自分の気持ちに素直に読んだら、絵本の読み聞かせ活動をしている人から「そんな風に感情を入れて読んではいけないのではないでしょうか」と言われたそうです。それでその作家は「そうじゃないのに、分からないのでしょうか」とおっしゃっていました。「淡々と」にこだわることなく、お話を自分の中に取り込んで、自分の感覚と感情とからだに感じたままに素直に読めばいいのです。素直な声だから子どもは素直に受け取るのです。「目の前に大きな木がありました」と書いてあったら、読みながら、登場人物と同じ視点に立って、その「大きな木」を見るのです。それだけで「声」が変わるのです。すると、その「声」によって、子どもにも「大きな木」が見えるのです。人の感覚は、声を通して共鳴するように出来ているからです。「読み方」ではなく「声」が、子どもの心の中に「大きな木」のイメージを創り出すのです。「音が聞こえてきました」と言う時には、読み手もその音を聞くのです、すると子どもにもその音が聞こえてくるのです。その時、自然に現れる読み手の声の表現は「意図的な演技」ではないのです。素話のプロの友人がいます。彼女は「怖い話」が(も?)得意です。彼女の話を聞いていると、聞いているだけでゾクゾクしてきます。それは彼女自身がその物語の中に入って直接目撃しながら語っているからなのでしょう。
2026.09.06
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自覚しているかどうかはともかくとして、子育てをしている多くの親は、我が子に対して何らかの期待を持っています。例えば、「優しい子に育ってほしい」、「良い子に育ってほしい」、「自立した人間に育ってほしい」、「スポーツが得意な子に育ってほしい」、「勉強が出来る子に育ってほしい」、「強い子に育ってほしい」、「かっこいい子に育ってほしい」、「賢い子に育ってほしい」などなどです。子どもに対して何にも期待しないで子育てをしている人の方が少ないのではないでしょうか。そして、実際の子育てにおいても、その期待に沿って子どもに言葉かけをしたり、子どもを励ましたり、子どもを追い立てたり、子どもの遊びや生活の環境を整えようとしています。ですから、そのお母さんが子どもにどのような言葉かけをして、どのようなことに追い立てているのかを見れば、そのお母さんが子どもに何を期待しているのかを知ることが出来ます。本人が自覚していなくても、周囲の人には分かるのです。私の場合は、今思えば「賢い子に育ってほしい」だったのではないかと思います。ただし、子育てをしている最中にはそんな自覚はありませんでした。「今、振り返って思えば」ということです。だから勉強にも追い立てませんでした。「学校の成績」と「賢さ」は関係がないからです。「優しさ」も強制しませんでした。「優しさ」は「賢さ」の表れに過ぎないからです。「優しくしなさい」と言わないと優しくできないのは「優しい子」ではないのです。「良い子」も求めませんでした。大人や親の言うことに従うだけの子は「賢い子」ではないからです。「自立」も強制しませんでした。「精神的自立」もまた「賢さ」の結果に過ぎないものだからです。子どもに「自分らしく生きる」ことを望むのなら、「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思と判断で行動することが出来る賢さ」を育てることが必要になります。じゃあ、私は何をしたのかというと、山のように絵本の読み聞かせをしました。仲間や自然と出会わせました。色々なところに連れていき、色々な大人と出会わせました。モノや道具に依存しない色々な遊びや活動に子どもたちを誘いました。「そのような関わり合いで育つ何か」を期待していたからです。今思えばそれが「賢さ」ということだったのではないかということです。じゃあ、その「賢さ」ってなんなのか、ということです。私はそれを「相手の立場に立って考える能力」なのではないかと考えています。「ナゾロジー」というサイトの記事の中にも同じようなものを見つけました。「賢い」と思われる人の条件は相手を思いやれること!11カ国で共通以下はこの記事からの抜粋です。「賢い」と思われる人には多くの国で共通する特徴があったようです。カナダ・ウォータールー大学(University of Waterloo)の研究チームは最近、11カ国における約2700名の参加者を対象に「どういう人を賢いと思うか」を調査。その結果、どの国でも「内省的で論理的に思考し、他人の感情を思いやって気遣うことができる人」が最も賢い人と捉えられていました。研究の詳細は2024年8月14日付で科学雑誌『Nature Communications』に掲載されています。どうやら、私が「賢さとは何なのか」と考えていたことは、私一人の思い込みではなかったようです。ここではっきりしているのは、どの国でも、「成績が良いこと」を「賢いこと」とは認識してないということです。世界中で多くの人が、「賢さ」とは「相手の立場に立って感じ、考え、判断する能力」と考えているということです。それは、そこが「人間らしさの根幹」だということなのでしょう。ただし、「賢さってなにか」ということが分かっても、実際にそれを育てるのは至難の業です。なぜなら、「賢い子ども」を育てるためには、親もまた賢くなる必要があるからです。ただし誰にでも出来る簡単な事があります。それが絵本の読み聞かせや物語を語ってあげることです。自分の体験や、子どもだった頃のことを語るだけでもいいです。雲のこと、海のこと、命のこと、世界のこと、そういうことを語るのも「物語」です。それらの「絵本」や「語られた物語」には他者の視点が含まれています。子どもの賢さを育てるためには、その「他者の視点」との出会いが必要なんです。「賢さ」が育った子は「自分の運命は自分で切り開くものだ」ということを知っているので、「親ガチャ」などということは言わないでしょう。ただし、「賢さの育ち」を潰すのは簡単です。子どもから「つながり」を遠ざけ、狭い部屋の中に閉じ込め、テレビやゲーム機などの機械やオモチャで遊ばせ、言葉との出会い、物語との出会い、体験との出会いを奪い、子どもが感じていること、子どもが考えていること、子どもがやりたいこと、子どもの成長に必要なことを無視して一方的に親の期待と指示と命令を押し付けていれば「賢さの育ち」は簡単につぶれます。すると、自己中心的に感じ、考え、行動するようになります。うまく行かないことがあると人のせいにします。でも、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断する能力が育っていないので、簡単にだまされます。
2026.09.05
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5月に孫No.7が生まれ、7月に孫No.8が生まれました。両方ともかわいい女の子です。で、双方のお母さん(一人は娘、もう一人はお嫁さん)に「お祝いで絵本をプレゼントするから10冊選んで」と伝えました。娘の方は「10冊」と言ったのに11冊リストアップしてきました。お嫁さんの方は今選択中です。私がどうしてオモチャや衣服などではなく「絵本」をプレゼントの対象に選んだのかというと、オモチャや衣服は「その時だけのもの」なのに対して、「絵本」は「一生もの」だからです。「絵本」は絵と、言葉と、物語で出来ています。ただし、本来、子どもの成長に「絵」は必要ありません。「絵」が、子どもが物語を聞いて自由に想像したり空想することを阻害してしまうからです。また、絵によってお話の印象も大きく変わってしまいます。そのため、シュタイナー幼稚園などでは「絵本」を読まずに、絵のない「素話」を聞かせるようです。実際、人類は何十万年と物語を語り継いできましたが、その「語り継がれてきた物語」の多くに「絵」はついていません。寺院の壁画やタピストリーや洞窟の壁などに「物語の絵」が描かれたこともあったでしょうが、それは「特別なもの」だったでしょう。その伝承されてきた物語にあるのは「言葉」と「物語」だけです。昔、囲炉裏端で老人によって語られていた「むかしむかし あるところに」というお話しには絵はついていませんでしたよね。それに、物語を語るのは物語を聞いて育った人なら難しくないでしょうが、絵を描くのは誰にでも出来ることではありません。また、絵は「見るもの」ですが、言葉と物語は「聞くもの」です。そして、「見るもの」は脳によって解釈されます。それに対して「聞くもの」は直接心の中に届きます。「森の絵」を見ても「森の体験」は出来ませんが、「森の物語」を聞くと「森の体験」が出来るのです。それが「言葉の力」です。また、「絵」があるとどうしても「絵」に合わせて言葉や物語を理解しようとしてしまいます。その結果、「物語の主体」が「子ども」ではなく「絵」になってしまうのです。と、絵本の悪口のようなことを書いてきましたが、でも、生活体験や、自然体験や、人間体験が圧倒的に少ない現代の子ども達にとっては、「その言葉や物語を理解する手助けとしての絵」が必要なんです。「森」の体験がない子は「言葉だけで語られた森を舞台にした物語」が理解できないし、仲間と遊んだ体験のない子は「言葉だけで語られた仲間と一緒に活動する物語」を理解することが出来ないからです。また、「絵」があることで、また見たことも体験したこともない「森」や「仲間と遊ぶ活動」に興味を持つことも出来ます。それが「絵の力」でもあります。豊富な生活体験や、自然体験や、人間体験に満たされて育っている子には「絵」は必要ありませんが、そういう体験が不足している環境で育っている子には「絵」が必要なんです。絵があることで、絵本の中で主人公と一緒に擬似的な自然体験をすることも出来るからです。また、幼い頃に聞いた「言葉」や「物語」は魂の深いところに刻み込まれるので、大人になっても消えません。それは絵本でも同じです。子どもの頃に見たことは忘れても、聞いた言葉とか物語はそう簡単に消えないのです。子どもは「お話」や「物語」を聞きながら、世界観や、自然観や、人間観の土台を育てているからです。子どもの頃に聞いた「物語」自体は忘れてしまっても、その物語を通して育った世界観や、自然観や、人間観は大人になっても消えないのです。親が我が子のために絵本を選ぶ。その行為自体が、子どもに「お母さんが望む世界観や、自然観や、人間観」を伝えるための「祈り」であり「願い」なんです。そしてその「祈り」と「願い」が絵本を通して子どもに伝わっていくのです。「しつけ絵本」のようなものばかり選ぶ人は、「心やからだの育ちよりもしつけの方が大切だ」というような世界観や、自然観や、人間観を持っているのでしょう。また、自分自身がしっかりとした世界観や、自然観や、人間観を持っていない人は、そういう視点で絵本を選ぶことが出来ません。だから、子どもに選ばせます。すると、キャラクター的な絵本ばかり選ぶでしょう。幼稚園選びでも同じです。子どもに選ばせたら遊具がいっぱいあって遊園地のような園を選ぶでしょう。
2026.09.04
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9月13日(日)に、千葉県成田市の坂田ヶ池総合公園という場所で、「2nd school もりのこびとたち」の主催者である奥村奈美余氏と、同タイトルで対談を行います。前日の12日(土)は森で遊びます。対談の方はアーカイブも作るようです。まだまだ参加者募集中です。ご興味のある方は<こちら>を覗いて見て下さい。それに先だって、ブログの方にこのタイトルに関しての私の考えを書いてみます。ただし、当日、これと同じ話をするわけではありません。当日は対談的な形で行うので、どういう話の展開になるのかは不明です。で、タイトルは「からだの土台 こころの根っこ」です。今、この「からだの土台 こころの根っこ」を育てることが出来ないまま幼児期を過ごし、小学校に入り、中高(大)と経て、そのまま社会に出て行かざる終えない子ども達がものすごく増えてきています。確かに年齢が上がれば自動的に性的、肉体的には「大人」になります。でも、幼児期に「からだの土台 こころの根っこ」が育っていない子は、からだは大人になっても、「一人の人間」として、「一人の社会人」として自立して生きて行くことが困難になってしまうのです。会社の部品、社会の部品としての生き方は出来るのですが、自分の人生を、自分のものとして、自分らしく生きることが出来なくなってしまうのです。また、自分の周囲で起きていることが理解できません。周囲の人とつながることが出来ません。体験や他者との関わり合いを通して学ぶことが出来ません。「体験を通して学ぶ」という学び方を学ぶことが出来ていないからです。そのため、人間として成長することが困難になってしまうのです。というか、そもそも、最近はそんなことには興味を感じない人が増えてきています。「からだの土台 こころの根っこ」が育っていないと、「今を楽しく生きること」にしか興味を感じなくなってしまうからです。本来、幼児期の子ども達はそのような状態です。でも、「からだの土台 こころの根っこ」が育つ過程で少しずつその状態から抜け出すことが出来るのです。そのために必要なのは「つながる」ということです。お母さんやお父さんや自分の周囲にいる大人達とつながる。仲間とつながる。自然とつながる。見える世界、見えない世界とつながる。色の世界、音の世界、触覚の世界、味の世界、匂いの世界とつながる。過去の人たちとつながる。遠くの人たちとつながる。美の世界とつながる。などなどです。その過程で「心」と「からだ」もつながっていきます。人間は「つながり」を通してしか「自分の成長に必要なもの」を吸収することが出来ないのです。衣食住は与えられていても、その「つながり」から隔離された環境で育っている子は、「人間としての成長」が困難になってしまうのです。でも、つながるためには「つながりを支えるもの」が必要です。周囲の大人とつながるためには「言葉」や「生活のルール」を学ぶ必要があります。そういうものを学ぶことが出来ない子は大人とつながることが出来ません。だからといって子どもはそういうものを「義務」として学ぶわけではありません。子どもが「この人とつながりたい」と思えば、自分の意思で「つながるために必要なこと」を学ぼうとするのです。それは「つながりたい人」とつながるのが喜びだからです。子どもと子どもがつながるためには「遊び」が必要です。一昔前までは、その遊びは世代を超えて伝承されてきましたが、今ではそのほとんどが消えてしまいました。そのため、他の子とつながりたいと思っても、つながる術がありません。結果、「ネット」を介してつながろうとするのですが、ネット経由では感情や、感覚や、体験や、行動を共有することが出来ません。ネットで共有出来るのは「情報」だけです。その結果「遊び」を共有することで育っていた、「対話する能力」「助け合う能力」「みんなで一緒に考える能力」「遊びを工夫する能力」が育たなくなりました。最近の子は先生の指示があればみんなと一緒に行動することが出来ますが、指示がないとバラバラになってしまいます。自分たちの意思で他の子とつながって活動することが出来ないのです。でも、この能力が育っていないと夫婦生活を営むことも、一緒に子育てをすることも出来ません。会社に入っても、指示や命令を受けるだけの仕事は出来ても、部下を任せられたときにどうしようも出来なくなってしまいます。部下と心を通わせることが出来ないので、指示と命令だけで部下を動かそうとします。でも、それでは部下が苦しくなるばかりです。仕事にやりがいも感じません。結果、仕事がうまく回らなくなります。そして、そのような子育てをしている人もいっぱいいます。「つながり」から切り離されて育っている子は「自分が生きている世界」に対する興味も目覚めません。だから、意識が外の世界に向かいません。その結果、快楽や欲望を満たすことのみに一生懸命になります。「親ガチャ」という言葉は、「自分の可能性」を知ることが出来ないまま育った人の言葉です。国や、偉い人や、テレビや、AIが「〇〇は△△だ」と言えばそのまま信じてしまいます。「自分の考え」や「自分の視点」を持っていないからです。結果、そういう存在が「渡れ」と言ったら、赤信号でも平気で渡ってしまいます。それで事故に遭うと事故の相手を恨みますが、自分の判断を反省することはありません。じゃあどうしたらいいのか。この続きを聞きたい人は、12日、13日の活動に是非ご参加下さい。
2026.09.03
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デジタル機器を使っての学習はデジタル化した情報しか学べません。これはちょっと考えれば分かる当然のことです。それは、デジタル機器を使って学習し、どんなに多くのことを覚えても、自分の命やからだが存在しているリアルな世界のことは学べないということを意味しています。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の肌で感じ、自分の舌で味わい、自分の鼻で感じ、自分のからだを動かして感じるようなことについては一切学ぶことが出来ないのです。確かに、デジタル機器を使って「命について」、「からだについて」学ぶことは可能です。でもそれは「命についての情報」「からだのついての情報」に過ぎません。「自分にとっての自分の命」や「自分にとっての自分のからだ」のことが学べるわけではありません。デジタル機器は分かった気にさせてくれるだけなんです。だからこそ、それが非常にやっかいだし、危険なんです。分かった気にさせてくれるから、子どもが成長していなくても、子どもの成長を阻害していても問題を感じないのです。また、子ども自身も「自分が成長していないこと」に気づかないのです。実際、動画でノコギリを使っているところを見た子は「ノコギリの使い方」が分かった気になってしまいます。でも、実際には使えません。でも、使う場がないので「実際には使えない」ということに気付くことが出来ないのです。これは非常に危険なことです。「自分は何でも知っている」、「何でも出来る」と思い込んでそのまま社会に出たら悲惨なことになってしまうからです。それに、デジタル化できる情報しか学んでいないのなら人間である必要がありません。AIも同じ情報を持っているし、AIの方が遙かに処理能力に優れているからです。AIには処理できない能力を持っていないと、これからの時代は「人間としての存在価値」が消えてしまうのです。また、新しい文化や文明を創り出すことも出来なくなります。AIが暴走したとき、止めることも出来なくなります。また、人間は他の人と言葉や、感覚や、思考や、価値観や、様々な文化を共有することでつながっています。この、「共有する能力」もデジタル機器を使った学習では学ぶことが出来ません。これはどんなに優秀なAIを使っても学ぶことが出来ません。AIの方にその能力がないからです。AIの中にあるのは情報と処理能力だけです。こちらの話に共感したように見せることは出来ますが、「共感したように見せているだけ」です。なぜなら、AIはAIを使う人の期待に応えるように作られているからです。AI自身は「主体性」も、「自分としての思想や価値観」も持っていないのです。そもそも、「私」は「個」ですが、「AI」は「個」ではありません。「AI」は竹やキノコと同じように、目に見える部分は個別に分かれていますが、その本体は人間には見えないところにある「集合体」なんです。でも、「共感したように見せているだけ」に騙されてしまう人がいっぱいいるのです。だからAIを恋人にしてしまう人まで現れてきました。平面化された画面ばかり見ていると、空間を感じ、空間を認識する能力が育ちません。空間を感じるためには、自分自身がからだ丸ごとでその空間の中に入る必要があるからです。また、見る人を飽きさせないように作られた映像やプログラムばかり見ていると、自分の意思で見て、感じて、考える能力が育ちません。でも、そのようなものに慣れてしまうと、自分の状態を客観的に見る能力も育たないので、自分で自分の事が分からなくなってしまいます。そして、自分で自分のことが分からない人は、他の人のことも分かりません。自分のことは分からないのに、他の人のことは簡単に批評批判するようになります。
2026.09.02
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最近の子ども達は、命や、からだや、それらのつながりによって支えられている「リアルな世界」から切り離されて育っています。現代の子ども達の多くは、命やからだだけでなく、過去とも、現実世界ともつながらない「時間も空間も因果関係も存在しない仮想空間」の中で日々遊んでいます。その世界を支配しているのは物理学でも、命の論理でも、自然の論理でもありません。そのゲームを作った人が決めたルールだけです。自然界には「自然界の論理」があります。それは人間を超えた論理です。そして人間は、その「自然界の論理」に従って生きています。昔から子ども達も、その論理に従い、その論理を利用して遊んできました。その論理を研究するのが物理学や生物学や化学といった様々な学問です。だから私も中学に入って物理学を学んだとき「ああ、あれのことか」と、「それまでの自分の体験」と「学問として学んだこと」がつながり、物理学に興味を感じたのです。子ども達が「学問」として学校で学ぶことの全ては「この世界に存在していること」や「存在していたこと」についてです。「この世界に存在していること」や「存在していたこと」だからこそ、学ぶ意味も価値もあるのです。また、自分自身についてや、自分の周囲に存在しているものの意味や価値を知ることが出来るから学ぶことが面白くなるのです。それに人は、「この世界に存在していること」や「存在していたこと」とのつながりの中にしか、自分の人生を築くことが出来ません。この世には存在しない「ポケモン」についていくら詳しくなっても、ゲームがいくら上手になっても、実際に「自分が生きている世界」と関わり、「自分が生きている世界」のことを学ぶことが出来なければ、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動することが出来なくなってしまうのです。その結果、誰かの指示や命令に依存するようになります。また、自分と同じ趣味や興味の人以外の人とつながることも出来なくなってしまいます。さらに、「自分が生きている世界」のことを学ぶことが出来ないと、「過去から受け継がれてきたもの」を受け継ぐことが出来なくなります。その中には「自分の人生を自分のものとして生きるために必要なこと」の全てが入っています。そのため、「自分が生きている世界」のことを学ぶことが出来ない子は、必然的に不安も強くなり、自己肯定感も低くなります。さらに、ゲームに夢中になって遊んでいる子どもは、自分が「自分が生きている世界のことを何も知らない」ということを知りません。その現実にぶち当たるのは社会に出てからです。でも困ったことに、その頃までには感覚回路も、思考回路も、行動様式も、からだの使い方も大方固定されてしまっているので、学び直すことは非常に困難です。子どもは日々の体験を通して学んでいます。それは大人でも同じですが、大人と子どもが違うのは、大人は「自分の学び方」で学んでいるのに対して、子どもは、その「学び方」そのものを学んでいるということです。子ども達が遊びを通して学んでいるのは「学び方」なんです。だから、いくらいっぱい遊んでも成績はよくなりませんが、「学び方」を知っている子は、勉強に興味を持ったとたんに急激に伸びるのです。その一方で、幼いときから遊ぶ時間も、遊ぶ場も、遊ぶ仲間も与えられず、ゲームでばかり遊んで育った子は、「学び方」を学ぶことが出来ません。せいぜい「ゲームの攻略法」を学ぶくらいです。でもそれは現実の世界では役に立ちません。リアルな世界での友達とのつながり方も分かりません。そのため、結婚しても助け合い、支え合うことが出来ません。子どもが産まれても、衣食住を与え、子どもの世話をすることは出来ても、子どもの成長を支えることが出来ません。そもそも、子どもとの関わり方が分かりません。だからゲーム機に子どもを預けてしまいます。塾に通わせていれば知識を覚えることは出来ます。ですから、「遊びはゲームで、勉強は塾で」という生活でも、小学校時代はなんとかなります。でも、塾では知識は教えてくれても、「学び方」は教えてくれません。それは部屋の中で、椅子に座って学べるようなものではないからです。
2026.09.01
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(今、娘婿と孫とでキャンプ中なので短くさせて頂きます)昨日は、子どもは、教えてもらったから学ぶのではなく、お母さんや、お父さんや、仲間や、周囲の人がやっていることを見たり、それらの人と関わったり、それらの人と一緒に活動したりすることで学んでいるのです。と書きました。そうやって、人類は何十万年と言葉や、文化や、感覚や、感覚を引き継いできたのです。でも今、その何十万年と続いてきた流れに異変が起きています。子ども達の周囲から「模倣する対象」「一緒に活動する仲間」が消えてしまったからです。代わりに与えられたのが「子ども部屋」という名の「隔離室」と、ネットやゲーム機などの「一人で遊ぶ道具」です。今では「機械」が子どもの「遊び相手」です。保育園、幼稚園、学校には子どもがいっぱいいますが、多くの園や学校では「先生の指導」に従うことが求められているので、子ども同士のつながりを作ることが出来ません。みんな一緒に、みんな同じことをしていますが、それは先生の指示に従っているだけで、みんなで話し合って、自分たちの意思で、みんなが気持ちを合わせてやっているわけではありません。先生達もまた「上からの指示」に従っているだけで、みんなで話し合って、自分たちの意思で、みんなが気持ちを合わせてやっているわけではありません。先生達がそれをやってくれているのなら、子どもも「みんなで話し合うこと」「自分の意思で行動すること」「気持ちを合わせて活動すること」を真似ることも出来るのでしょうが、先生達がやっていることは「指示に従うこと」だけです。そしてそれは、子どもが一番嫌いなことです。でも、他の子もみんな同じように動くから、自分も仲間になりたくて一緒に動くだけです。だからといって、遊び相手をしてくれている「ゲーム機」を真似することは出来ません。youtubeなどの動画の中で見た行為などを真似する子はいますが、それは非常に危険です。youtubeなどの動画の中にあることは、基本的に「大人の世界」のことばかりだからです。また、子どもの生活とも関係がありません。動画で見たからと言って、それを試すことも出来ないし、試すことが許されない内容も流れています。(続きます)
2026.08.31
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多くのお母さんが〝良いお母さん〟という呪縛に苦しんでいます。ただし、この場合の〝良いお母さん〟とは、頭の中で創り出した虚像です。また、他者の目による評価を気にした「お母さん像」です。私は子育てや教育の最終的な目的は、「子どもが自立して、自分らしさを大切にしながら生き生きと、そして幸せに生きることが出来るような手助けすること」だと思っています。ですから、私が考える〝良いお母さん〟とは、そのような手助けが出来ているお母さんのことです。ただしそれは「結果として」ということであって、〝良いお母さん〟を目指しているお母さんがそのような子育てが出来ているということではありません。世の中には「子どものために」と自分を犠牲にして、一生懸命に子育てに励んでいるお母さんがいっぱいいます。そして、一般的には、そのようなお母さんが〝良いお母さん〟と評されています。でももし、その「子どものために」という意識が、かえって子どもを束縛し、子どもの自立を妨げているとしたら悲しいことです。子どもにとってお母さんやお父さんは、一番身近な「人生のお手本」です。子どもはお母さんやお父さんの「後ろ姿」を見ながら「人間について」「社会について」「命について」「生きるとはどういうことなのか」ということに関する基礎を学んでいるのです。子どもは、教えてもらったから学ぶのではなく、お母さんや、お父さんや、仲間や、周囲の人がやっていることを見たり、それらの人と関わったり、それらの人と一緒に活動したりすることで学んでいるのです。だから日本人に育てられれば、日本語を話すようになり、日本人らしい感性や感情が育ち、日本人らしく行動するようになるのです。ただし、親と同じになるわけではありません。子ども一人一人の個性もあるし、周囲の環境や社会の変化からの影響もあるからです。でも、「子どもは模倣によって学ぶ」という原則は変わりません。ですから、子どもは「大人が見せる後ろ姿」にはついて行きますが、「あんたのために」と色々なことをやってあげてもそれだけでは「自分が進むべき方向」が分からなくなってしまうのです。目の前に親が立ちふさがっているのですから。そのため、「あんたのために」と頑張れば頑張るほど、子どもは苦しくなって逃げようとします。「子どものために」と自分を犠牲にしているような人を見ていると、自分自身のことは大切にしていないような気がします。精神的な自立が出来ていない人も多いです。子どものために頑張ることで自分の存在価値を作り出そうとしている人もいます、まただから、不安になって「子育て書」や「良いお母さん」という評価に頼りたくなるのでしょう。また、「〝良いお母さん〟を目標にすれば、子どももちゃんと育つ」と思い込んでいるのかも知れません。でも、お母さんが「自分の生き方」を大切にしていなければ、子どもも「自分の生き方」を見つけることが出来なくなってしまうのです。「あんたのために私は頑張っているんだ」と押しつけているお母さんは、子どもの自由を束縛する檻になってしまっている可能性が高いのです。だからといって、お母さんが「自分のことばかり考える子育て」をしてしまったら、もっと困ったことになります。そして今、そのようなお母さんも増えています。支配するか、無視するかの両極端です。そのいずれのお母さん達も、子どもとの間に「ちょうど良い関係」「ちょうど良い距離」を作ることが出来ないのです。そのようなお母さん達もまた、自身のお母さんや周囲の大人達と「ちょうど良い関係」「ちょうど良い距離」を体験することが出来ないまま大人になってしまったからなのでしょうね。
2026.08.30
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昨日は、昔の子どもたちが多様な遊びで遊ぶことが出来たのは、その多様な遊びで遊んでいる年上の子どもたちが身近にいたからです。子どもたちが様々な「ごっこ遊び」で遊ぶことが出来たのは、子どもの目に見えるところに大人の生活があったからです。いつも、部屋の中で自分の好きな遊びばかりして過ごしている子が、他の遊びに興味を持たないのは当たり前なんです。そして、そういう子を無理矢理自然の中に連れ出しても、自然が嫌いになるばかりです。と言うことを書きましたが、大人が「お手本」を見せることが出来ない社会は荒れます。これは実際に世界中で起きている現象です。親から子へと知識や、技術や、価値観や、感性や、生活など様々な文化を継承しながら、自然と共に素朴な生活をしていた人たちの社会は安定していました。子どもは大人を尊敬し、大人を模倣しながら成長していました。そのような社会では、一人一人がつながりの中に支えられていました。それは同時に一人一人に役割と居場所があったということです。でも、そのような「伝承に支えられ、自然と共に素朴な生活をしていた社会」に、「伝承」よりも「お金」や「物」の方を「大切なもの」と考える西洋的な価値観、近代的な価値観、経済優先の価値観が入ってくると、あっという間に、何百年と受け継がれてきた「伝承」が消えました。「伝承」が消えるということは「縦のつながり」が消えるということです。そして「縦のつながり」が消えると、その縦糸に支えられていた「横のつながり」も消えます。人々は「伝承されたもの」を共有する形で横につながっていたからです。そして、「伝承されたもの」よりも「お金」を大切にするようになることで、それまで「伝承されたもの」を共有していた「仲間」が、お金を奪い合う「競争相手」になってしまいました。「遊び」を共有していた仲間たちが、「成績」や「居場所」を競い合いライバルになってしまいました。教育の場でも「みんな一緒」「みんな同じ」を求められるようになりました。このような指導は、先生の指示に従うだけなので「横のつながり」を必要としません。また、「みんな一緒」「みんな同じ」という指導を受けている子は、相互に監視するようになります。その結果、「つながり」がなくても、まとまります。先生は楽になります。でも、先生との間に信頼関係が築けていないし、友達同士のつながりも希薄なので、ちょっとしたきっかけがあると簡単にクラスが崩壊してしまいます。また、発達障害などがあって、その指示に従うことが出来ない子が自由に行動していると「〇〇ちゃんだけずるーい」などと言います。最近の子は、この「ズルイ」という言葉をよく使います。「〇〇ガチャ」という言葉も、この「ズルイ」という感覚で使われています。学校に行けなくなった子が学校に行かないと「学校に行かなくてズルイ」などといいます。「学校に行けなくて可愛そう」などとは言いません。みんな学校が嫌いだからです。子どもたちは支え合ったり、話し合ったり、目的を共有して助け合ったりしなくなりました。また、大人や老人を尊敬しなくなりました。むしろ馬鹿にするようになりました。老人の知識や知恵や技術は「古臭いもの」として否定されるようになりました。老人自身もまた、「新しい価値観、新しいインフラ、新しい機械、新しい言葉」についていくことが出来ず途方に暮れ、「自分は価値がない存在だ」と感じるようになりました。でも、その「老人」は「将来の自分の姿」でもあるのです。今の若者達の「当たり前」は、若者達が老人になる頃には消えてしまうのですから。「スマホ」が時代遅れになる時代もやってくるのです。「老人をバカにする社会」は「若者が希望を持てない社会」でもあるのです。実際、そうなっていますよね。ネイティブアメリカンの社会においても、若者達が、欧米の文化、価値観、生活様式と出会う事で伝承が途絶え、老人が馬鹿にされ、コミュニティが崩壊し、若者達は、生きる意味や目標を失い荒れてしまったそうです。私が2018年に行った、インド最北部にある「ラダック」という所でも同じようなことが起きました。「懐かしい未来」という映画でその状況が語られています。ネットで調べればその概要が分かります。アフリカでも同じようなことがそこいら中で起きました。そして荒れました。ただし、私は社会の変化自体を否定しているわけではありません。ただ、「変えてもいいところ」は変えても、「変えてはいけないところ」は守り通すような意識が必要なのではないかと言うことです。でもそれが出来るようになるためには、「本当の幸せって何だろう」ということをみんなで話し合い、みんなで考え直す必要があるのではないかということです。子育てや教育において「欲望や不安に支配されることなく考える能力」を育てる必要もあります。
2026.08.29
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世の中には、「ちゃんと勉強さえしていれば、子どもはちゃんと育つ」と考えている人たちがいます。その一方で、「勉強なんかしなくても、自然の中で自由に群れて遊んでいれば子どもはちゃんと育つ」と考えている人もいます。そのような人は「遊びの中には学びの全てがある」と主張しています。でも、私から見たら、このいずれの考えも、子どものバランスが取れた成長を支えることが出来ません。どんなにいっぱい勉強しても、自分の意思で、自分のリズムで、自分のやり方で勉強しなければ身につきません。それは「やらされる勉強」は身につかないと言うことを意味しています。それに対して遊びの方は、自分の意思で、自分のリズムで、自分のやり方で遊ぶことが出来ます。それが出来ないと楽しくならないのですからそれは当然のことです。ですから、遊びを通して学んだこと、身につけたことはちゃんと子どもの中に吸収されていきます。問題は、その「自由な遊びを通しての学び」には偏りがあると言うことです。自分の意思で行うと言うことは「知らない遊び」「興味がない遊び」には手を出さないと言うことでもあるからです。子どもをレストランに連れて行って「何でも頼んでいいよ」と言っても、メニューがない、メニューがあっても知らない料理名ばかり並んでいる状態だったら子どもは何も頼めません。近くにいる人がたまたま自分がよく知っていて大好きなラーメンを食べていたらラーメンを頼むでしょう。そして、そのラーメンが美味しかったら、ラーメンしか頼まなくなるでしょう。そういう状態で「栄養バランスが取れた食事」など出来ませんよね。子どもに自由を与えても、それだけでは自由に感じ、考え、行動することが出来るようにならないのです。ですから、プレイパークのようなところで自由に遊んでいる子どもたちを見ていても、その遊びの種類は悲しいくらい少ないです。だから、遊びの幅を広げるためにプレイリーダーなる役割の人が必要になるのですが、それでも、子どもが興味を示さない遊びは、子どもに伝えることが出来ません。そして最近の子どもたちの「興味の幅」はものすごく狭いのです。古来から伝承されてきた遊びは無数にあります。「むかしあそび図鑑」というものを持っていますが、厚さは3cmぐらいあります。そこに「昔の子どもたちの遊び」がいっぱい書かれています。でも、「遊び」を伝承してきた「群れ」が消えると同時に、そのほとんどが消えてしまいました。その本の中には今でも子どもたちが遊んでいる「鬼ごっこ」も紹介されていますが、その種類、なんと56種類です。「鬼ごっこ」には56種類もあったのです。他にも「草花遊び」などもいっぱいありますが、最近の子は草花なんかでは遊びませんよね。「どろんこ遊び」もやりませんよね。「崖登り」なんか大人がやらせませんよね。「水辺の遊び」という項目もありますが、今の子は網で何かを捕まえる遊びくらいしか思いつきませんよね。夏の親子キャンプで「影絵遊び」をしましたが、「影絵」を知らない子もいっぱいいました。昔の子は障子などを使って日常的に遊んでいた遊びですが、その障子が消えると同時に「影絵遊び」も消えてしまいました。影絵のセットを用意してあげれば、それだけでも子どもたちは自分の影を映したりして遊び始めますが、でも、放っておくだけではそれだけで終わってしまいます。「遊び」にまで広がらないのです。「影絵」について知らないのですからそれは当然のことですけど。毎年、お正月になると子どもたちに「羽子板でも作らない?」と聞くと「羽子板ってなあに?」と聞き返されます。当然、「知らない遊び」を遊ぼうとする子はいません。昔の子どもたちが多様な遊びで遊ぶことが出来たのは、その多様な遊びで遊んでいる年上の子どもたちが身近にいたからです。子どもたちが様々な「ごっこ遊び」で遊ぶことが出来たのは、子どもの目に見えるところに大人の生活があったからです。いつも、部屋の中で自分の好きな遊びばかりして過ごしている子が、他の遊びに興味を持たないのは当たり前なんです。そして、そういう子を無理矢理自然の中に連れ出しても、自然が嫌いになるばかりです。だから、ただ自由に遊ばせるだけでは学びも、世界も広がらないのです。あと問題は、子どもが成長して、9才10才を過ぎて、「自分の状態」を客観的に見るようになった時に、「何も出来ない自分」、「何も知らない自分」に気づいてしまうことです。
2026.08.28
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私たちが、「なんで? どうして?」と不思議を感じた時に取る態度には二種類あります。一つはその「不思議」を説明できるような物語を作り出すことです。月夜に歩いていると、どこまでもお月様がついてくるように見えます。それで子どもは「なんでお月様はわたしについてくるの?」と聞きます。そんな時、「お月様がうんと遠くにあるので、ついてくるように見えているだけなんだよ」と科学的な説明をしても、幼い子どもには理解できません。それで「〇〇ちゃんが好きだからなんじゃない」と言うと納得します。「時間」と「空間」と「因果律」のことが理解できるようにならないと、科学的な説明は理解できないからです。そして、「それ」が理解できるようになるのは9才~10才以降です。それまでの子どもは、生活体験を通して知っている時間と空間と因果律のことしか理解できません。「今日」とか「明日」ということは知っていても、永遠の過去から永遠の未来まで扱うことが出来る「時間」という概念は分からないのです。空間もいつも歩いているところは分かりますが、行ったことがない空間のことまでは分かりません。地球の裏側とか宇宙などと言うことは全く分かりません。言葉としては知っていても「空間」として認識することが出来ないのです。まただから「サンタクロース」のような科学的にはあり得ない存在に対しても何の疑いも感じないのです。頭の中や体の中にも空間があります。その空間の中に内臓が収まっています。ですから、「体の中の空間」を感じ取ることが出来る人は、自分の肺とか胃とか腸とかを認識することが出来ます。でも、子どもにはそれが出来ません。子どもに分かるのは「体の外」と「体の中」の違いだけです。だから、頭やお腹が痛いときでも、その場所や状態を正しく説明することが出来ないのです。因果関係に関しても同じです。子どもが知っている因果律は「こういうことをしたらお母さんが怒る」というような体験によって学んだことだけです。論理としての因果律は理解できません。そのような状態の子ども達は、自分が感じた「なんで?」「どうして?」を科学的にではなく、物語的に理解しようとします。物語は生活体験を組み合わせることで考え出すことが出来ますから。そして、古代の人たちも同じようなことをしました。そこで生まれたのが様々な神話や昔話です。その内容は、科学が説明する内容とは全く異なっています。でも、自分の体験をもとに創り出されているのでリアリティーも説得力もあるのです。科学は「答え」を与えてくれません。でも、「物語」は「答え」を与えてくれるのです。でも、実際には科学に答えを求めてしまう人がいっぱいいるのです。そのような人は「科学が言っていることは絶対に正しい」という「物語」を作り出します。「事実」が固定されている方が安心出来るからです。でも、繰り返しますが、科学は答えを与えてはくれないのです。科学が提示知るのは「答えの見つけ方」であって、「答え」そのものではないからです。科学は「答えを教えてくれる教科書」ではなく、「答えに近づくための方法論」に過ぎないのです。実際、科学が提示するのは「暫定的な事実」だけです。「今のところはこれが正しいように思える」ということだけです。ですから100年前の科学者と現代の科学者が言っていることは大きく違います。10年前の科学者だって今の科学者とは違ったことを言っていたでしょう。ライト兄弟の少し前に「鉄で出来た物は空を飛ぶことが出来ない」ということを証明した科学者もいたそうです。でも実際には、今、いっぱい飛んでいます。科学的な発見は常に更新されているのです。それを固定してしまって「科学が言っていることは絶対だ」とやってしまうと、科学が神話になってしまうのです。実際、科学の世界では同じ「科学者」と呼ばれる人たちでもみんながみんな同じ意見ではありませんよね。ワクチンを否定すると「非科学的だ」と言う人がいますが、ワクチンを否定している科学者だっていっぱいいるのです。だから、ワクチンを否定する人を、上から目線で「陰謀論者」などと言って非難、否定、排除するのではなく、ちゃんと客観的に「本当のことを検証する努力」を怠ってはいけないのです。それが、本当の科学のあり方です。それを受け入れることが出来ない人が言う「科学」は「神話」に過ぎません。科学を「人を選別するための道具」として使ってはいけないのです。
2026.08.27
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ネットでは「こんなバカなことを信じている陰謀論者がいっぱいいる」というような記事がいっぱいあります。でも、ある思想の人たちを「陰謀論者だ」と否定し、「自分たちが正しいと信じていることを強要する人」もまた「陰謀論者」です。人がどのような考え方をするのかは本来自由なはずです。「陰謀論者は根拠のないことを信じている」と言いますが、皆さんだってみんな根拠のないことを信じて生きていますよね。「学校に行かなければ・・・」「勉強しなければ・・・」「早くから勉強を始めなければ・・・」という考え方に根拠はありませんよね。でも、その根拠のないことを理由に子どもを追い詰めていますよね。これは立派な「陰謀論者」なのではないですか。それなのに、「学校に行かなくても大丈夫だよ」というようなことを言うと陰謀論者扱いされてしまう可能性があります。政治家も根拠のないことばかり言っています。それが間違ったことが分かっても「自分が間違っていたこと」を認めません。ですから、「根拠のないことを言いふらす」のが陰謀論者なら、政治家はみんな陰謀論者です。今その典型のような人が総理大臣をやっていますけど・・・。学校の先生も、テストの成績で人生が決まるようなことを言っています。これも陰謀論です。今は「陰謀論者」という言葉を使いますが、戦争中は「非国民」という言葉を使いました。戦争中は「戦争は悪いことだ」「敵国兵であっても人を殺すのはよくない」と言っただけで非国民だと言われました。「非国民」という言葉を流行らせることで言論統制や思想統制をしていたのでしょう。などというようなことを書くと「おまえも陰謀論者だ」などと言う人もいるでしょうね。なんか、この「陰謀論者」や「陰謀論」に関する記事を読んでいると非常に違和感を感じるのです。それは陰謀論者を否定する人たちも、彼らが否定している陰謀論者と同じことをやっているからです。それは「相手の言葉に耳を傾けない」ということと、「自分の考え」を他の人に強要することです。また、陰謀論を否定する人たちは「陰謀論者は根拠のないことを信じている」と言いますが、じゃあ、陰謀論を否定する人たちは「自分が主張する意見の根拠」を知っているのですか? 自分でその根拠を確認したのですか? 自分の言葉でちゃんと説明できるのですか? ほとんど人はそんなことはしていないし、出来ませんよね。だから対話も拒否します。多くの人は、「国が言っているから」、「偉い科学者が言っているから」というような理由だけで「こっちの方が正しい」と信じているのではないですか。国や偉い人が言えば陰謀論ではなく、それに反することを個人が言うと陰謀論として扱うように洗脳されているのではありませんか。これは戦争中と同じ構図です。国は「国」を守るためなら平気で国民に嘘をつくのです。国が守りたいのは「国」であって「国民」ではないからです。ですから「国が言っていることは国民のためのものだ」というのも陰謀論なんです。実際、テレビに出てくる偉い人たちは、不安や疑問に答えるような根拠を示していません。「その意見が正しい」とする根拠はその人の社会的な権威だけです。客観的なデータではありません。データを出しても、そのデータの根拠は出しません。でもそんなこと科学の世界ではあり得ないです。データの根拠が出されていなければデータの検証が出来ないからです。検証が出来ないものは科学ではないのです。「科学者が言ったから科学なんだ」というのは科学について知らない人です。「今まで存在しなかった薬」、「安全だという根拠も示されていない薬」、「臨床実験もしていない薬」、「中味が公表されていない薬」を「これは絶対に安全だ」と断定し、国民に押しつけるのは完全な陰謀論者の行動です。「食料品消費減税は二年後には戻します。私を信じて下さい」というのは陰謀論とどう違うのですか?実際、政治家や医者達は当初に言っていたことが全く正しくなかったことが分かってからも、そのことに対する反省の言葉を言っていません。しらーっと無視しています。「反省をしない人を信じろ」というのは無理な話です。「こういう意見や考えは陰謀論だ」という考え方自体がおかしいのです。その人がどのような意見や考え方を持つのかはその人の生き方の問題だからです。科学的に証明されていない神様を信じていても陰謀論者とは言われませんよね。不確実な未来に対する夢や希望を語っても陰謀論者とは言われませんよね。問題になるのは、自分の考えや価値観を他の人に押しつけて思想や行動を支配しようとすることなんです。それが陰謀論者のやり方です。そう考えると、「陰謀論者と非難される人」と、「そのような人の意見を否定し意見を変えさせさせようとする人」のどっちの方が陰謀論者なのか分からなくなります。
2026.08.26
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昨日は、「自然の中に出て自然のものをいっぱい集めるだけで遊びが始まりますよ」ということを書きましたが、でもそれは「物としての自然」の遊び方です。確かに、「自然」には「物」としての側面もありますが、同時に「物語」としての側面もいっぱいあります。というか、「自然」は「物語」によって出来上がっています。お店で売っているものには「人間の社会の物語」が含まれています。ですから、それらを使って「ごっこ遊び」をすることが出来ます。そして、森や野原や海などの自然の中には「命の物語」、「地球の物語」、「光の物語」、「色の物語」、「形の物語」が含まれています。そのことに気付けば「発見遊び」や「空想遊び」をすることが出来ます。皆さんが毎日踏んで歩いている道ばたの石にも「命の物語」や「地球の物語」が含まれているのです。それは「石はどうやって生まれるか」ということを学べば分かることです。「雨の水」にも「物語」があります。それらの物語を知れば「考えて遊ぶ」ということも出来ます。でも、それらの物語は子ども自身では発見することが出来ません。森に落ちているドングリの実は「ドングリの物語」を含んでいますが、子どもに見えるのは「物としてのドングリ」だけです。だから「物語」は大人が伝えてあげるしかないのです。子どもに分かるのは「今」「ここ」のことだけです。「物語」は「音楽」と同じように「時間」と「空間」の中に広がっているので、その「時間」と「空間」を扱うことが出来る「言葉」で伝えるしかないのです。そしてそれは家の中でも出来ることです。本当はお母さんやお父さんが自分の言葉で語ればいいのですが、現代人は大人達でもその物語を忘れてしまっています。知識としては知っているのですが、その知識がつながっていないので「物語」として認識できないからです。でも幸いなことに、その物語を扱った絵本がいっぱいあります。「言葉体験」をするなら「絵」がない方がいいのですが、自然を見たことがない子に自然の物語を伝えるためには絵がないとチンプンカンプンになってしまいます。「海」を見たことがない子に、言葉だけで「海の物語」を語るのは無理だと思います。そのような物語を語り、絵本を読んであげることで部屋の中でも「自然体験」は出来るのです。ただし、動画で見せてしまったら「物語」は伝わりません。なぜなら、「言葉」と違って「動画」は「今、ここ」を固定してしまうため、自分の心の中で時間と空間を広げることが出来なくなってしまうのです。いわむらかずお「14匹のシリーズ」こうやすすむ文・片山健絵バージニア・リー・バートンこういう本を読んであげることも「自然体験」になるのです。自然は「物」ではなく「物語」で出来ているからです。
2026.08.25
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さあ、夏休みも終盤になってきました。夏休みはどうでしたか。室内でばかり遊んで白いままですか。それとも、真っ黒に日焼けしていますか。最近は「日焼けは悪だ」という考え方が主流になってしまって、親はもちろんのもと、それに合わせて子どもも屋内で遊ぶか、外に出るときは日焼け止めクリームを塗ったりしています。もちろん、最近の暑さは異常です。私が子どもの頃は30度を超えただけで話題になっていたような気がします。だから、あまり直射日光に当たりすぎないようにするのは正しい判断なのでしょうが、同時に「外で遊ぶ楽しさ」まで放棄してしまうのはもったいないです。また、適度に日光に当たることでビタミンDも無料で摂取できてしまいます。だからといって、意味もなくただ外に出るだけでは退屈です。クーラーの効いた部屋の中で遊んでいた方が楽だし、また、一人でも楽しく遊ぶことが出来るゲーム機などの便利なオモチャがいっぱいあります。動画を見ていれば釣りをしたことがなくても「釣りをした気分」、虫取りをしたことがなくても「虫取りをした気分」を味わうことも出来ます。工作の動画を見ていると、工作などしたことがなくても「工作をした気分」を味わうことも出来ます。でも、それは「やった気」になっただけで実際にはやっていないので、「実際にやらなければ学べないこと」は一切学ぶことが出来ません。「知っているつもり」になるだけです。そして実は、その「知っているつもり」が危険なんです。「知っているつもり」になってしまっている子は、「実際には何も知らない、何も出来ない」ということを知らないまま、「知っているつもり」が全く通用しないリアルな社会に出て行かなければならないからです。部下: ぼくノコギリの使い方知っています。上司: じゃあ、これ切って。部下: ノコギリ使ったことがないので切れません。こんな状態の人を重要なポストで使ってくれる会社は少ないと思います。ということで、お子さんと一緒にリアルな世界に遊びに行きましょう。と言っても、何をして遊んだらいいのか分かりませんよね。で、簡単な遊びの提案です。「遊びを発見する遊び」です。レジ袋のような袋を用意して、家の近くの公園でも、野原でも、林でも、森でも、海でも、とにかく自然が多いところに行って下さい。そして、テーマを決めてそれを子どもと一緒に集めて下さい。テーマは何でもOKです。葉っぱ、木の枝、木の実、小石、貝、砂、土、虫、抜け殻、何でもOKです。ただテーマだけを決めて集めただけなのに、それをいっぱい集めてくると何となく「遊び方」が見えてくるのです。「遊び方」を決めてから遊ぼうとしても、そもそも「遊び」を知らないのですから遊べるわけがないのです。でも、「素材」がいっぱいあるとその「素材」が遊び方を教えてくれるのです。牛乳パックが一つだけあっても「遊び」は始まりません。でも、100個あったら「遊び」が始まるのです。一つだけでも「遊び」を色々と工夫できるのは、いつもその様なもので遊んでいる子だけです。トイレットペーパーの芯が一つだけあっても「遊び」は始まりません。でも、100個あったら「遊び」が始まるのです。でも、牛乳パック100個、トイレットペーパーの芯100個集めるのは大変ですよね。保管にも場所を取りますし。でも、葉っぱや木の実などの自然物ならそんな心配をする必要はありません。「葉っぱ」を色々と集めていると、葉っぱにも色々な形や、色や、大きさがあることに気付きます。匂いも違います。全く同じ葉っぱなど一つもありません。これは石でも、木の枝でも、貝でも、木の実でも何でも同じです。自然物に「規格品」などないのですからそれは当然のことです。そこが人工物である牛乳パックやトイレットペーパーの芯とは異なるところです。(ちなみに、子どもも自然物ですから一人一人違います。規格に合わせた子どもなど存在しません。)その違いに気付くことで遊びが生まれます。「色」で分けてみる。「形」で分けてみる。「違い」に気付くから「似ているところ」にも気付くのです。葉っぱや、虫や、貝などだったら図鑑で調べてみるのも楽しいです。違いに気付くから調べてみたくなるのです。「土」なんか集めてどうするんだ、と思うかも知れませんが。土にも色々な色や触感があります。ですから、土を集めて絵を描くことも出来るのです。また、粘土質の土ならちょっと水をくわえて粘土遊びをしたり、グチャグチャ遊びをすることも出来ます。実は、個々の大切さを知るためには、個々の違いをちゃんと知ることから始める必要があるのです。世界中には様々な肌の色、背の高さ、言葉、文化を持った人たちがいます。その違いを無視して(知らずに)「みんな一緒、みんな平等」とやってしまうからおかしなことになってしまうのです。「人間、皆平等」などと、口ではきれい事を言っていながら、実際に異なった文化の人と出会うと文化摩擦が起きてしまうのです。特に日本人は、日本人とは異なる文化圏の人たちのことをほとんど知りません。そのため、「日本人の常識=世界の非常識」ということも知りません。一人一人を大切にするということは、「みんな一緒」「みんな平等」「みんな同じ」扱いにすることではなく、一人一人の違いを肯定し、一人一人を「唯一無二のもの」として大切にするということなんです。そのためには、まず最初に「違い」をちゃんと知る必要があるのです。「みんな一緒」「みんな平等」「みんな同じ」は牛乳パックやトイレットペーパーの芯のような工場で作られた人工物にしか通じないのです。
2026.08.24
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今日は、篠家一同でキャンプに来ているので短くさせて頂きます。これは日本人の特性なのかも知れませんが、なぜか多くの人が自分や子どもの長所を伸ばすのではなく、短所を消そうとばかりしています。また、目立つことを嫌い、みんなと同じことを言い、みんなと同じことをやって「仲間アピール」ばかりやっています。不思議なのは、そういうことを自分から進んでやっているのになぜか満たされないのです。そして承認欲求が強いです。みんなと同じことを言い、みんなと同じことをやっているのに「あなたは素晴らしい」「あなたは特別だ」という言葉を求めているのです。当然、自己肯定感も低いです。「目立つことを嫌い、みんなと同じことを言い、みんなと同じことばかりやっている」ということは、自分で「自分の本音」や「本当の自分」を否定している」ということでもあるので、自己肯定感が低くなるのは当たり前です。そして困ったことに、同じような価値観や生き方を子どもや他の人にも押しつけようとしています。学校の先生が子ども達に「みんなと一緒、みんなと同じ」を求めるのは分かるとしても、親までもが我が子に「みんなと一緒、みんなと同じ」を押しつけているのです。「みんなと一緒、みんなと同じ」を生きている人には、「自分らしく生きようとしている子ども」を羨ましいとは思うかも知れませんが、でも、子どもの「自分らしさ」を肯定し、受け入れてしまったら、必然的に、自分の子育てが「みんなと一緒、みんなと同じ」ではなくなってしまいます。すると目立ちます、批評や批判をしてくる人もいっぱいいるでしょう。でも、「みんなと一緒、みんなと同じ」を生きてきた人は「自分の考え」「自分の意見」「自分の意思」を持っていません。だから批評や批判をしてくる人に「自分がやっていることの意味」を説明することも、反論することも出来ません。それで結局、子どもを犠牲にすることになります。でも実は、短所を消そうとすると成長が歪んでしまうため、逆に短所は拡大してしまうのです。そもそも、それは「短所ではない」可能性が高いのです。ただ単に「みんなと一緒、みんなと同じを生きてきた人には短所に見えてしまう」と言うことなんです。というか、子どもに短所などないのです。
2026.08.23
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これは私の印象ですが、科学者でも、芸能人でも、多分ビジネスマンでも、色々なことに興味を持っていて、色々な引き出しを持っている人の方が生き残ったり、素敵な仕事が出来るような気がします。子育てでも同じです。色々な趣味や興味を持っている人の方が、「趣味なんか持っていません」という人よりも楽しい子育てをしているように感じるのです。実際、子育ての勉強会などでお母さん達に趣味や興味を聞くと、子育てに悩んでいる人ほど、「趣味を持っていない」という人や、「子育てが忙しくなったのでやめてしまいました」という人が多いのです。一方、子育てを楽しめている人は、子どもに合わせて自分の趣味や興味を諦めるのではなく、子どもを自分の趣味や興味に巻き込んでしまっています。山歩きが好きな人は、子どもと一緒に色々な山に行ってしまいます。歩けなけい年齢なら、オンブしてでも行ってしまいます。お料理作りが好きな人は、子どもと一緒にお料理作りを楽しんでいます。FBを見ていると、そうやって育てられ、大人顔負けのお料理を作る小学生も結構います。私は茅ヶ崎に住んでいるのですが、お母さんがサーフィンが好きなので、子どもも一緒にサーフィンに連れて行って、一緒にサーフィンを楽しんでいる母さんも何人か知っています。本やお話しが好きな人も、音楽や踊りが好きな人も、旅行が好きな人も同じです。お母さんが子育てだけに縛られることなく、子どもと一緒に色々な体験をしているのです。そして子どももお母さんと一緒に色々な体験をすることで、色々なことを学び、視野や世界を広げ、自分の可能性や、生き方の選択肢を広げています。というようなことをいうと、「子どもに自分の趣味を押しつけてしまっていいのでしょうか」と言ってくる人が結構います。でももうすでに、お母さんは子どもに自分の言葉を押しつけていますよね。生活を押しつけていますよね。時間やルールを押しつけていますよね。知識や常識を押しつけていますよね。感覚や考え方や感情を押しつけていますよね。それが「親と子」という関係なんですから、それを避けることは出来ないし、避ける必要もないのです。またそれがあるから、子どもはお母さんを模倣する形で「人間として必要なこと」を学ぶことが出来るのです。お母さんが自分が話している言葉を子どもに押しつけなければ、子どもは言葉を学ぶ機会を失ってしまいます。「自分が話したい言葉は子ども自身に選ばせよう」などと、赤ちゃんの頃から子どもに話しかけない生活をしていたら、子どもは「自分の言葉」を育てることが出来なくなってしまうのです。そして「自分の言葉」を育てることが出来ないまま育ってしまった子は、大きくなってから色々な言葉と出会っても、何一つ学ぶことが出来なくなります。母国語がしっかりと育っているから外国語もしっかりと学べるのです。だから、お母さんが話している言葉を子どもに押しつけてしまっていいのです。趣味や興味でも同じです。お母さんが、自分の趣味や興味を子どもに押しつけてしまってもいいのです。ただし、子どもと共有出来るような形にしてあげる必要はあります。子どもの能力や興味を理解し、それに合わせるように工夫する必要もあります。また子どもの興味を誘導するような働きかけも必要になります。でも、本当にそれが好きならば、そういう工夫自体も楽めるのではないかと思うのです。そして、子どもが成長して色々なことを知り、色々なことを体験し、その結果、「ボクはこれはヤダ、あっちの方がやりたい」と言いだし始めたならその時点でどうしたらいいのかを話し合ったり、考えたりすればいいのです。でも、「基本となる趣味」はお母さんが伝えるしかないのです。でも、その「基本となる趣味や興味」自体を持っている人が少ないのです。特に、ゲームや、オモチャや、遊園地といった「他者に依存した遊び」ばかりして育った人は、「子どもを捲き込みたい」と思うほどの趣味や興味を持てないようなのです。「何かに依存した遊び」は、子どもが生きる世界を狭くしてしまうからなのでしょう。ちなみに、ゲームが好きなお母さんやお父さんも、子どもにゲームを与えます。でも、ゲームは上に書いたような趣味と違って「一緒に」が出来ません。体験や、感情や、感覚の共有が出来ないのです。共感も生まれません。自分が生きている世界とも出会えません。お母さんが工夫する必要がないので楽でもあります。でもそれは、子どもを理解する必要もないと言うことでもあります。最近はWiiのように、家族が一緒に遊べるゲームもありますが、一緒には遊べても、子どもの体験の幅が広がるわけではありません。それに、Wiiの機械がないと遊べないので、結局家の中に閉じ込められるだけになります。機械に依存するのではなく、リアルな体験と繋がった趣味の世界を持って下さい。そして、子どもをその世界に巻き込んで下さい。趣味がなければ、子どもと一緒に色々な体験をして、自分に合った趣味を探して下さい。それが見つかると、子どもとの関わり方も楽になります。視野も広がります。
2026.08.22
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いつも書いていることですが、人間の能力は必要に応じて成長するように出来ています。素質もありますが、どんなに素質があっても、その能力を必要としない生活をしていたらその能力が発現することはありません。そして、その能力が目覚め始める時期もあります。その時期を過ぎてしまってからでも、その能力を必要とする生活をするようになればある程度は目覚めますが、でも、最適な時期に目覚めた子には敵いません。また、その能力が目覚める最適な時に目覚めた子は、その能力が育っていくのが自分でも分かるし、それが嬉しくてたまりまりません。「その能力が目覚める時期」というのは、「その能力の成長を自分でも実感出来て、それが嬉しくてたまらない時期」でもあるのです。走る能力が目覚めるときに、自由に走ることが出来た子は走ることが好きになります。歌う能力が目覚めるときに、様々な歌に触れたり、自由に歌うことが出来た子は歌を歌うことが好きになります。そして同じように「考える能力」が育つ時期に、自由に考えることを必要とするような生活や遊びをしていると、「考える能力」が目覚めます。その際、生活や遊びの自由度が高い方がいいです。「考える能力」が育つためには「自由」が必要だからです。そして、考えることでさらに自由や可能性が広がることを知り、考えることが好きになります。そして、考えることが好きになった子は、その時期を過ぎても考えることを楽しむようになります。問題は「自由」は「不便」とほぼ同じ意味を持っているということです。「自分の頭で色々と考えれば色々なことが出来る」という状況は、言い換えれば「自分の頭で考えなければ何も出来ない」ということでもあるからです。だから、考えることが苦手な子にとっては、「自由」は「不便」そのものになってしまうのです。だから簡単便利を求めます。でも、考えないでも手に入れることが出来る簡単便利は、自由と引き替えにしか手に入れることが出来ないのです。そうやって泥沼にはまっていきます。今時の子どもの多くは簡単で便利な機械や道具に依存して、「考えなくてもすむ生活」や「考えなくてもすむ遊び」ばかりしています。積み木遊びや、工作遊びや、ごっこ遊びなどでは考える能力が必要ですが、ゲームは基本的に反射でプレーするので考える能力を必要としていません。まただから、幼い子どもでも、時にはチンパンジーやゴリラでも遊ぶことが出来るのです。そんな風に「考えなくてもすむ生活」をして、「考えなくてもすむ遊び」ばかりしている最近の子ども達を見ていると、「考える能力が低い」という以上に、「考えるってなあに?」という状態なんです。「考えてごらん」と言うと、何を求められているのか分からずに途方に暮れてしまう子が多いのです。考えることが出来ないので観察することも出来ません。ただ単に見るだけなら考える力は必要ありませんが、観察するためには考える力が必要だからです。造形の場でも見本を見せて「ちゃんと観察して」と言っても、考える力が育っていない子は、見ているだけで観察することが出来ないのです。だから、目の前に見本があるのにどうしていいのか分からないのです。だからその子がどれくらい考える力が育っているのかは、草でも、花でも、虫でもそのものの絵を描かせてみれば分かります。一方で、考える力がある子は、教えなくても勝手に見本を見て、それと同じかそれ以上のものを作ってしまいます。そういう子は「こういうものが作りたいんだ」と絵を描くことも出来ます。また、考える力がある子は「勝手ないたずら」を始めます。でも、大人達は子どもの自由を奪うことでそのいたずらをやめさせようとします。その「いたずら」を「遊び」に変換することが出来れば「考える力」を育てる手助けになるのですけどね。
2026.08.21
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最近の子ども達を見ていて強く感じるのが、「考えることが苦手な子」や「考えることを楽しめない子」がすごく増えてきたということです。これは大人でも同じです。まただから子どももそうなってしまっているのでしょう。一国の首相や大統領ですらあのような状態なのですから。でも、本人達はそのことに気付きません。本人達は「ちゃんと考えている」と思い込んでいます。なので、考えたとおりの結果が出ないと「誰かが邪魔したからだ」と言います。これが「考えない人たち」の思考回路です。まただから、いくら色々な体験をしても成長することがありません。「考えない人たち」は反省しないのです。反省するためには客観的に自分と向き合わなければならないのですが、「考えない人たち」にはそれが出来ないからです。人には「反省」を求めるのですが、自分は反省しないのです。また「考えない人たち」は一方的な自己主張はしても説明はしません。そもそも説明する必要を感じません。「私が正しいんだから私の言うとおりにやればいいのよ」と思い込んでいるからです。また、相手の視点に立てないので相手に分かるように、相手が納得するように説明することも出来ません。「考えない人たち」は「他者の視点に立つ」ということが出来ないのです。そのような「他者の視点」に立てないお母さんや、お父さんや、先生は、平気で子どもを追い詰めます。そして、子どもが学校に行けなくなったり、心を病んだり、自殺などをしてしまっても「心が弱いからだ」などと責任を子どもに押しつけます。イジメなどで死んでしまっても「心が弱いからだ」などと言います。そのようなお母さんやお父さんや先生に、「子どもの心」を分かってもらおうと色々と話しても、「攻撃された」と感じて反撃してきます。そのため、話し合いが成り立ちません。こういうことは「心の問題」として考えられてしまいますが、実は「考える能力」が低いからなんです。「考える能力」が低い人は「他者の視点」に立つことが出来ないのです。だからそのような人にいくら説明しても話が空回りしてしまうのです。カラスもイヌもサルも、高い知能を持っているので「考える」こと自体は出来ます。でも、「自分中心の視点」でしか考えることが出来ません。「他者の視点」に立って考えることが出来るのは人間だけなんです。そしてそれが人間にとって「考える」ということが大切な理由でもあるのです。人間らしい思考が出来ない人でも利害を共有することで群れを作ることは出来ます。でも、「他者の視点に立って考える能力」が育っていない人には「助け合いによって成り立っている人間らしい社会」を作ることが出来ないのです。科学もまた、その「他者の視点に立って考える能力」によって支えられています。「客観的に考える」ということは「色々な視点に立って考える」ということでもあるからです。色々な視点から見ても同じ結果を得ることが出来るから、それを科学的な事実として認定することが出来るのです。「偉い科学者が言ったから」とか「国が言っているから」という理由だけで信じてしまうのは宗教であって科学ではありません。「エビデンスがある」などという言われて簡単に信じてしまうのも宗教です。科学に疎い人には分からないでしょうが、エビデンスなんか簡単にねつ造できてしまうのですから。そのエビデンスが正しいかどうかは、色々な視点で検証してから初めて確定するのです。科学においては常に他者の目での検証が必要なんです。それが科学の態度です。コロナワクチンのようなものは検証するために必要なデータすら発表されていません。それで信じろというのは宗教を強要しているのと同じです。非国民だとか陰謀論者などと人をカテゴライズする人たちもまた「考える力」が弱い人です。そのような人は「思想の中味」の話をしません。でも今、その「人間だけしか持っていない考える能力」が低下してしまっている人がドンドン増えてきているのです。その背景には大きく二つの要因があるような気がします。その一つは、幼いうちから子ども達を比較し、評価し、競争に追い立てている現代社会のシステムです。これは学校だけの話ではありません。家庭内でも兄弟を比較し競争させている人もいっぱいいます。勝ち負けを競う競争社会では「自分らしさ」は意味も価値も持ちません。他者の視点に立つ必要もありません。多くの人が勘違いしているのですが、「勉強が出来るから考える力がある」ということでもありません。「東大を出ても考える能力が低い人」はいます。そのような人は「自分のこと」しか考えません。というか「自分のことしか」考えることが出来ないのです。だから「見つからなければOK」というような犯罪に手を出したりします。AIに試験を受けさせたら高い点数を取ることが出来るでしょう。でも、AIは演算(技術的な処理)をしているだけで考えているわけではありません。もう一つの原因は「自然の中での自由な群れ遊び」の不足です。人は「自分と対等な他者」と目的を共有しながら、そして助け合いながら一つの活動をするような時に「相手の視点に立って考える」という行為をするのです。<続きます>
2026.08.20
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私たちが生きている世界を支配しているのは「人間」ではなく「自然」です。「人間」は「自然」の一部に過ぎません。それは当たり前のことです。そして、自然界には、その恒常性と調和を維持するために、「やじろべい」のようにその時々の変化に応じてバランスを取ろうとする働きがあります。「-」が強くなりすぎれば「+」とつながってバランスを取ろうとするのです。この原理で雷が生まれています。水が上から下へと流れるのも、海で生まれた水蒸気が下から上へと上がっていくのもバランスを取るためです。私たちの命はその働きによって支えられています。その変化が復元可能範囲を超えたら壊れますが、限度の範囲内なら人間が関与しなくても、自然は勝手にバランスを取って元に戻ろうとするのです。病気が治るのも、様々な自然現象もすべて、バランスを取ろうとする自然界の働きの結果です。春・夏・秋・冬の四季は太陽と、地球の動きのバランスによって生まれています。潮の満ち引きは、月と地球のバランスによって生まれています。地震も、地球が地殻内部のバランスを保とうとする働きの結果です。地球温暖化と呼ばれる現象も、人間の活動に合わせて自然界がバランスを取ろうとしている働きの結果です。(実際には色々な説があるようですが・・・)ですから、マスコミが言っているように地球が暑く(熱く)なっている原因が人間の活動によるものなら、人間が何もしなくても、人類が滅亡するだけで数十年、数百年で元に戻ります。youtubeでそういう動画を見ることが出来ます。人間が自然に対して不自然なことをしようとすると、自然はバランスを取ろうとして「人間がやろうとしていること」とは反対の行動を起こすのです。それが「災害」という形で表れるのです。私たちが生きている世界を支配しているのは「人間」ではなく「自然」なんです。そして、「人間」もまた自然の一部です。だから、病気になっても、ケガをしても、治癒作用が起きるのです。まただから、人間は自然と対話しながら、自然の原理に即して考え、活動しなければいけないのです。そうでないと「こんなはずでは」ということになってしまうのです。そのバランスを維持するために必要なのが「多様性」です。人間が飛んだり跳ねたり走ったりしても倒れないのは、その骨や筋肉や神経系の複雑さとそれらの連携のおかげです。そしてそれが「多様性」の意味でもあるのです。私たちが生きている世界には、様々な動物や植物や菌類やウィルスがいますが、それらがうまく連携し合って自然界のバランスが崩れないように支えているのです。でも人間は、人間の都合に合わせてその多様性を破壊し続けています。そしてその影響が様々な所に出ています。自然の一部である人間にまで影響が及んでいます。そしてこれは子育てでも同じです。大人達が、自分たちの都合に合わせて自然な子どもの成長を支配、コントロールしようとすると、子どもはその育ちに歪みを生じさせることでバランスを取ろうとするのです。物や、お金や、ゲームや、親に依存するようになってしまうのも、子どもの自然な成長が歪んでしまった結果です。そんな時、依存症を解消するために、「一方的にゲームを取り上げる」などというように、「大人にとって都合の悪いところ」だけを直そうとすると、さらに他の部分に歪みが出てしまいます。「子どもたちをみんな良い子にしよう」というのも不自然な発想です。良い子もいれば悪い子もいるのが自然な状態なんです。そもそも、自然界には「よい子」「悪い子」の基準などありません。害獣とか、固有種とか外来種などという基準も人間の勝手な決めつけです。「問題児」と言われる子がそのグループを活性化させる働きをしていることもあります。以前、中国で「スズメはお米を食べる害鳥だから殺してしまえ」という運動があったそうです。そして、大量のスズメを駆除しました。でも、豊作にはならずむしろ凶作になってしまったそうです。なぜなら、スズメが食べてくれていた虫たちが大量発生してしまったからです。「ケンカを無くそう」というのも不自然な発想です。子どもにゲームを与えて一人で部屋の中で遊ばせようとするのも不自然な行為です。学ぶ楽しさを伝えることなく、勉強に追い立てるのも不自然な行為です。そして、子ども達を不自然な環境に置き、不自然なことを求めているから、子どもの成長も歪み自分で自分を否定するようになってしまうのです。不自然な生活環境、不自然な食事、不自然な人間関係、不自然な遊び環境の中で育っている子は、自分の成長を歪ませることでその不自然に合わせようとします。そして、これもまた自然現象です。でもその自然現象は子どもの心と、からだと、意識の自立を妨げる方向に働きます。そういう能力を必要としない生活をしているのですからそれは当然の結果です。善も悪も元々同じものです。視点をどこに置くかで同じものが善になったり、悪になったりするのです。実際、戦争では双方が善を主張しています。だからどちらかを否定、排除しようとするのではなく、お互いにバランスを取って共存できる道を探る必要があるのです。子育てでは「子どもの大人化」を目指すのではなく、「子どもと大人の共存」を目指せばいいのです。そうすれば子どもは自分の力で、自然な形で大人化していくのです。温暖化問題も、人間と自然の共存を目指せば「Co2削減」を叫ばなくても消えるのです。
2026.08.19
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私たちは「人間が決めたルールが支配している世界」と「自然が決めたルールが支配している世界」の二つの世界に生きています。一万円札は、「人間が決めたルールが支配している世界」では「高い価値を持つもの」です。でも、「自然が決めたルールが支配している世界」では「木のパルプが薄くのばされたもの」、もしくは「紙」に過ぎません。ですから、「自然が決めたルール」よりも「人間が決めたルール」の方を大切にしている大人達はその「紙」を大切にしますが、その「人間が決めたルール」を知らない幼い子ども達は、その紙にお絵かきをしたり、ハサミで切り刻んだりします。ヤギさんは食べてしまったりします。実際、先日動物たちが放し飼いになっているところに行ったとき「動物の前でお札を出さないで下さい」と言われました。お札にお絵かきをしたり、ハサミで切り刻んでしまう子がいると、大人達は「まだ無知だからそういうことをするんだ」と判断し、「だからちゃんと教えなければ」と考えます。でも、大人達が見ているのは「人間が勝手に決めたこと」「実際には存在しない約束事」であって、「人間の命が存在している世界のリアル」ではありません。王様が裸でも「素敵なお洋服ですね」と言うのが「大人のルール」なんです。ですから、「本当のこと」が見えているのは「大人」ではなく「子ども」の方なんです。だから「王様は裸だ」と言ったのは子どもなんです。そして、物語の中で大人達は、その子どもの言葉で目を覚ますのです。それを「子どもは無知だから」と言って子どもの口をふさいでしまったら、世界は滅亡に進んでしまうのです。戦争で「敵」を殺すのは「良いこと」です。「敵」ではない人を殺すのは「悪いこと」ですが、「敵」を殺すのは許されるのです。それが人間が決めたルールです。でも、子ども達に見えているのは「敵」ではなく「自分と同じ人間」です。国籍の違いや政治的駆け引きなど子どもには分かりません。そもそも、普段は「仲良くしなさい」「命を大切にしなさい」と言っている大人達が、お互いに殺し合っている「戦争」という状態が理解できません。「命が存在している世界」が見ている子どもには、「戦争なら人(敵)を殺してもいい」という大人の論理が理解できないのです。そういう子ども達を大人達はバカにしますが、「本当のこと」が見えているのはどっちなんでしょうか?「大人が見ている世界」は「本当の世界」なんでしょうか。戦争中、一人の女の子が「兵隊さんかわいそう」とつぶやいただけで非国民と罵られたそうです。出征する我が子に「生きて帰ってきて」と言っただけでも非国民と言われたそうです。人間が勝手に外国から連れてきた生き物が日本で繁殖してしまうと、「外来植物」「外来生物」として「駆除」の対象になります。外来だからといって目印があるわけではありません。図鑑やネットで調べなければその違いは分かりません。そもそも、ほとんどの生物は外来です。人間ですら外来です。世界中の様々な地域からやって来た移民の混合によって日本人が生まれたのですから。それなのに、普段は虫取りやお花を摘んでいる子ども達に「命を大切にしよう」とか「かわいそうだから止めなさい」と言っている大人達が、「外来生物」と判断されたものは大量に採って、大量に駆除(殺)しているのです。命に国籍などないのに。これも、子ども達には理解できない大人達の行動です。大人達は子どもたちに勉強を強要します。でもその「勉強」は競争に勝つためのものです。ですから、「競争」が理解できない子どもたちや、「競争」に価値を感じない子どもたちは勉強にも価値を感じません。そもそも、その「競争」の「目的」や「ゴール」が分かりません。与えられているのはコースだけです。子どもに勉強を強要している大人も、そのコースの行き先を知りません。そんな競争に喜んで参加する子どもなんかいないのです。でも、そんな子どもたちでも、自分の成長につながるような勉強なら喜んでやります。なぜなら、学ぶことで世界が広がり、意識や、思考や、感覚や、行動がより自由になるからです。そして、このような勉強では競争は意味を持ちません。点数で評価することも出来ません。
2026.08.18
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現代社会は「競争社会」です。実際、経済も政治も競争で成り立っています。だから、国も、テレビなどのメディアも、「競争に勝てばお金持ちになれる、幸せになれる」というような幻想を振りまいています。そして、学校が「その競争で勝つための能力を育てる場」になっています。でも、子どもや国民を競争に追い立てるためには、価値観を一元化させる必要があります。そうでないと優劣を比較することが出来ないからです。優劣を比較できなければ子どもたちを競争に追い立てることも出来ません。「競争するコース」と「勝ち負けを判定する基準」が決められているから競争が成り立つのです。だから学校は「知識の有無」を問うような単純な試験で子どもを評価し比較できるようにしているのです。そして親もまた、その成績で一喜一憂しています。そのような価値観に基づく教育では、「学ぶこと」や「子どもの成長」は大切にされません。なぜなら、「学びの形」や「成長の形」は人それぞれだからです。人それぞれなので、「学ぶこと」や「子どもの成長」を大切にしていたら、「単一の基準で子どもを評価したり、比較して競争させる」ということが出来なくなってしまうのです。でも実際には、「学び方」にも色々とあり、「人生の意味や目的」にも色々とあります。そしてどのようなことをどのように学び、人生にどのように意味を見いだし、どのように生きるのかは人それぞれのはずです。それは「十人十色」の世界です。そして、「遊びの世界」はこの「十人十色」によって支えられています。でも「みんな違ってみんないい」という「十人十色」を肯定してしまったら、競争が成り立たなくなってしまうのです。今の日本の学校は「競争社会を支えるための人材を育てる場」ですから、それでは困るのです。ですから、「競争に参加しない」という選択肢は肯定されません。競争に参加しようとしないと学校や親から圧力がかかります。そして、大人達は「成績が悪い子はダメな子」で「成績がよい子はよい子だ」という価値観を子ども達に植え付けます。それは、大人達が生きている「白と黒の世界」の価値観です。そして子どもたちは「白」と「黒」の間の「グレー度」で評価されるようになります。「白に近いグレー」なら「よい子」で、「黒に近いグレー」なら「悪い子」というようにです。そして、子どもたちもそのような教育を受けているうちに、「十人十色」「みんな違ってみんないい」という世界を忘れて、考え方も価値観も「白」と「黒」という基準しか存在しないグレーの世界に入ってしまうのです。そして子ども同士でも、比較し、競争を始めます。「イジメ」も起きるようになります。そして、この「白と黒」「グレーの世界」に洗脳されてしまうと、まだ「カラーの世界」で生きている子どもたちを否定し始めます。ホームレスの人のように競争から外れた人を馬鹿にするようになります。その結果、人々の意識や生活の状態がますます偏り、社会の豊かさと生命力は萎え、人々の心はすさみ、心とからだを病む人が増えて来ます。大人達は「子どもたちはこの社会の厳しさを何も知らない」と言います。確かに、大人達は子どもたちよりも「社会の現実」をよく知っています。遊んでばかりいる子どもたちはその「社会の現実」を知りません。でも子どもたちは、「自然の豊かさ」や「この世界には白と黒だけでなく無数の色がある」といった「自分が生まれてきた世界の現実」は知っています。「一緒に遊び、一緒に笑い、一緒に感じる喜び」という「人間が幸せを感じるために必要なもの」も知っています。大人達は「社会の現実」は知っていますが、「自然の豊かさ」や「この世界には白と黒だけでなく無数の色がある」といった「自分が生まれてきた世界の現実」は忘れてしまっています。「一緒に遊び、一緒に笑い、一緒に感じる喜び」という「人間が幸せを感じるために必要なもの」も忘れてしまっています。でも、それを想い出さないと、社会はドンドン「黒」の方に進んで行ってしまうでしょう。人類の未来を、精神的に豊かなものにするためには、大人は子ども達から「カラフルな世界」のことを学ぶ必要があるのです。
2026.08.17
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多くの人が「思い通りにならないこと」があると、「戦い」によって問題を解決しようとします。子どもが思い通りに動かないと、大きな声を出したり、怖い顔をしたり、時には打ったりして、子どもを力で屈服させ思い通りに動かそうとします。力が均衡している相手なら戦いによって優劣を決め、相手を屈服させようとします。まただから、相手を脅かすために相手よりも強力な武器を求めたりもします。夫婦の間でも「どっちが正しい論争」になると戦いが生まれます。でも、親子の間でも、夫婦の間でも、国と国の間でも、双方が「自分の方が正しい」と思い込んでいます。よく、「戦争は正義と正義の戦いだ」と言われますが、その通りです。多くの人が「自分こそは正義だ」「自分の方が正しい」と思い込んでいるのです。そのような人は人の言葉に耳を傾けません。自分の考えとは異なることを言う人を「敵」だと見なし攻撃します。その戦いに負けた人は自己肯定感を失います。親に負けた子ども、大人に負けた子ども、教師に負けた子どもは自己肯定感を失います。そして、負けた人は自信を失い、自分で考えなくなります。自分の意思で行動しなくなります。「ダメな自分」が何を考えても、何をやっても意味がないからです。そのような「戦いによって問題を解決しようとする人」の頭の中には「白」と「黒」しかないのでしょう。だから、「白黒付けるために」戦うのです。トランプさんや高市さんの頭の中にも「白」と「黒」しか存在していないのでしょう。でも実際には、「白」と「黒」の間には無数の「グレー」があります。「白」と「黒」の世界しか分からない人には理解できないかも知れませんが、無数の色すらあります。でも、「白こそ正義だ」「黒こそ正義だ」と思っている人にとっては「グレーの人」はみんな敵です。「白」にとっても「黒」にとっても「グレー」は敵なんです。ですから「グレー」の言葉なんかに耳を傾けません。「様々な色の人」なんか敵だとも思わず無視します。存在が理解できないからです。でも、実際に私たちが生きている現実の世界、自然の世界には「真っ白」も「真っ黒」も存在しません。「真っ白」とか「真っ黒」というのは観念の世界の中にしか存在していないからです。「白」や「黒」に囚われている人は「観念の世界に囚われている人」なんです。そのような人は「目の前の現実」、「目の前の自然」、「ありのままの世界」を見ようとしません。でも困ったことに、そのような「極端なこと」、「過激なこと」を言う人に惹かれてしまう人がいっぱいいるのです。それは「グレーの世界で迷子になってしまっている人」、「グレーの世界を楽しめていない人」です。そしてそのような人も「豊かな色の世界」を知りません。「豊かな色の世界」を知れば「白か黒かという考え方には意味がない」と言うことが分かり、「グレー」も色の一つとして楽しめるようになるのですが、「白」と「黒」しか知らない人が支配する社会で生きていると「この世界には色があるんだ」ということに気付かなくなってしまうのです。ちなみに、「白黒の世界」に生きている大人から見たら子どもは「グレー」です。だから「白」の人からも「黒」の人からも否定されるのです。でも実際には、子ども達は「多様な色の世界」に生きています。だから、「白黒の世界に生きている大人」にとっては「意味不明な存在」なんです。そして、子どもにとっても「白黒の世界に生きている大人」が意味不明なんです。子どもの目には、この世界はこんなにも豊かな色に溢れているのに、大人達がなんで「白」と「黒」にばかり拘っているのかが理解できないのです。そもそも、子ども達には「白」も「黒」も見えません。それらは観念の世界が作りだした産物だからです。大人達は子どもには見えないものに束縛され、振り回されているのです。でも、子どもの方が「この世界の現実」「ありのままの世界」を見ているのです。だから「大人の世界」を子どもに押しつけるのではなく、大人達が「子どもの世界」を学ぶ必要があるのです。そうでないと、人類は「実際には存在しない道」を探して突き進んで滅亡してしまいますから。
2026.08.16
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昨日は、芸術的な体験にはハラハラ、ドキドキ、ワクワクがあります。芸術的な活動の中には、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で行動する自由があります。未知の世界との出会いや冒険もあります。仲間との出会いや、仲間と一緒の活動もあります。様々な学びもあります。からだを使った活動もあります。問題は、そのようなことを引き出すことが出来るような芸術的な活動を指導するためには、専門的な知識や技術が必要だと言うことです。普通のお母さん達がちょっと勉強しただけで出来るようなことではないと言うことです。ということを書きましたが、問題は、近くに自然もない、自然があっても仲間がいないような環境で暮らしている人、芸術的な活動が苦手な人はどうしたらいいのかということです。でも、子育てや教育では方法が重要なのではなく、子ども達に多様な感覚体験や、ハラハラドキドキワクワクするような豊かな感情体験や、不思議感覚を刺激するような知的な体験を与えてあげるのが目的なのですから、工夫すれば他にも方法はあるはずです。そこで重要になるのが「生活体験」と「物語体験」なんです。今は、この二つとも消えかかっていますが、これだけが唯一、お母さんが一人でも子どものために出来ることなんです。お母さんが家事などをやっていると「ママ遊んで」と子どもが寄ってきます。すると多くのお母さんが「ママは今忙しいからテレビでも見ていて」とか「オモチャで遊んでいて」とか、「ゲームをやってもいいよ」などと言って子どもを遠ざけようとしてしまいます。テレビや、オモチャや、ゲームが「子どもを一人で遊ばせる道具」として機能しているのです。だから、必要以上に刺激的に作られているのです。そしてだから問題なんです。子どもは「人と人のつながり」を通してしか、「人間として生きていくために必要なこと」や「心と、からだと、意識の育ちに必要なこと」を学べません。そのため、テレビや、オモチャや、ゲームに子育てを任せてしまうと、子どもは「人間として生きていくために必要なこと」を学べないまま「それらを学ぶために用意されていた時期」が終わってしまうのです。その時期を過ぎてから、子どもが「人間として生きていくために必要なこと」を学ぶのは非常に困難なんです。成長期を過ぎてから成長させようとしても無理ですよね。それと同じように子どもの成長には、子どもの成長プログラムに従った「時期」があるのです。言葉を学ぶ時期、他の人と安心出来る関係を築ける時期、感覚が育つ時期、知的な能力が育つ時期、身体機能が育つ時期などは、個人差もありますが大まかには決まっているのです。そしてその「時期」が、ベルトコンベア式に流れているのです。だから、自然がないからどうしよう、仲間がいないからどうしよう、芸術的な活動をサポートする能力がないからどうしよう、などと迷っている時間はないのです。「今できること」を探し出して、今やるしかないのです。そこで一番大切なのは「人との関わり」です。「子どもが人間として生きていくために必要なこと」はテレビや、ゲームや、オモチャからは学ぶことが出来ないからです。「人間として生きていくために必要なこと」は人間からしか学べないのです。そして、今時の多くの子ども達の周囲には「お母さん」しか人間はいません。昔は、兄弟も多かったし、祖父母もいたし、ご近所の子ども達もいっぱいいたので、お母さんが相手をしなくても、誰かが相手をしてくれました。でも今では、子どもの周囲にいる人間は「お母さん」だけなんです。だから荷が重くなって、テレビや、ゲームや、オモチャに任せてしまうのでしょう。でも、お母さんが関わってあげないことには、子どもは「人間として生きていくために必要なこと」を学ぶことが出来ないまま、次の段階に進んでしまうのです。次の段階に進んでしまうと、子どもはお母さんにまとわりつかなくなります。お母さんに相手をしてもらうよりも、テレビや、ゲームや、オモチャで遊んでいる方が楽しくなってしまうからです。それでお母さんは「楽になった」と喜ぶのでしょうが、でも、テレビや、ゲームや、オモチャに子育てをしてもらった子どもは、「人間として生きていくために必要なこと」を学ぶことが出来ていないため、人間関係において苦しむことになります。社会に出てからも苦しむことになります。会社に入っても同僚や上司とうまくやっていけません。結婚してもパートナーとうまくやっていけません。子どもが産まれても、子どもとうまくやっていけません。そしていま、そのような人が増えてきています。「子どもがお母さんにまとわりついてくる時期」が、「子どもがお母さんから学ぼうとしている時期」でもあるのです。でも、特別なことをする必要はありません。ただ「一緒に」を心がけていればいいのです。一緒に食べて、一緒に同じものを見て、一緒に同じことをして、一緒に喜び、一緒に悲しむだけでいいのです。その際、必ずしも子どもに合わせる必要はありません。お母さんに合わせるように求めてもいいのです。あと、いっぱい色々なことを語ってあげることです。箸の持ち方なども教えてあげて下さい。「箸の持ち方」自体が重要なのではありません。そのような機会を通して「何かについて語り、子どもと対話すること」が大切なんです。「箸の持ち方」を教えるのはそのためのきっかけに過ぎません。虫がいたら「虫について」語り、風が強かったら「風について」語ってあげて下さい。それが「ものがたり」です。
2026.08.15
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今は夏休みです。「夏休み」は「休み」ですから、子ども達は自由にいっぱい遊べるはずです。でも、公園に行っても、森や野原に行っても子ども達が遊んでいる姿を見かけません。子どもが遊んでいる声が聞こえません。セミがいっぱい鳴いていても、虫がいっぱいいても虫取りをしている子がいません。大人と一緒に公園や海に来ている子はいますが、古来からの「子どもの遊びの場」には大人などいませんでした。大人が一緒ですから、「ボール遊び」のような清潔で、安全で、安心な遊びは出来ますが、泥んこ遊び、虫取り遊び、木登り、探検遊び、崖登りのような危険で汚れるような遊びをしている子はいません。棒を振り回せば叱られます。花を摘んで遊んでも注意されます。昔の男の子達はみんな「肥後守」というナイフを持っていましたが、最近の子はそんな「危ないもの」を持って遊びに出たりしません。そもそも買ってもらえません。火薬で遊んだりもしません。(火薬で遊ぶのは楽しかったですよ。もちろん、けが人も出ましたけど・・・。)大人が側にいたら「清潔で安全な遊び」しか出来ないのです。それはつまり、子どもがハラハラ、ドキドキ、ワクワクするような「新しいものと出会い、命との出会い、仲間との出会い、自分の限界を試し自分の可能性を確かめるような遊び」が出来ないということでもあります。大人が傍にいたら裸足になって遊ぶということすら出来ません。「清潔で安全な遊び」であっても、大きな声を出すような遊びをしてると周囲の大人から文句を言われます。でもそれは、その子ども達が大人になった時に、「生き生きと、懐かしく想い出すことが出来るような子ども時代」を育てることが出来ないということを意味しています。そして、「懐かしい子ども時代」を育てることが出来ないまま大人になった人は、子どもの「子どもらしい感性、考え方、行動、遊び」に共感することが出来ません。子どもの目線に立つことも出来ません。そのため、大人には理解できないことを言い、理解できないことをやろうとする子ども達を監視して、大人の価値観に合った遊びをさせようとしています。でもそれは「子どもの成長に必要な遊び」ではありません。また多くの場合、「大人の価値観に合った安全で清潔な遊び」にはお金が必要です。昔の子ども達にとって「遊び」は、「自分たちで発見し創り出すもの」だったのですが、今では「大人が用意した遊びをお金で買うもの」になってしまったのです。ゲームもまた同じです。というようなことを言っても、最近の子どもたちと似たような環境で育った若いお母さんやお父さんにはその問題点が理解出来ません。でも私には、そのことが子どもたちの自己肯定感の低さや、自殺率の高さと関係しているような気がしているのです。また、大人になっても「子育て」を楽しめなかったり、「子育て」が苦しくなってしまう原因にもなっているのではないでしょうか。だからといって「じゃあどうしたらいいんだ」と言われても、子どもたちに昔のような遊びの場、遊びの時間、遊びの仲間を与えることが出来るような良い解決策があるわけではありません。もう、町の中にも、大人達の心の中にも、そんなゆとりが消えてしまっているのですから。でも、子どもたちに遊びの場、遊びの時間、遊びの仲間を返すことは出来なくても、様々な芸術的な体験を通して、「遊びの場で体験したようなこと」や「学んだようなこと」と似たようなことを体験し、学ぶことが出来るような体験を与えることは可能なんです。芸術的な体験にはハラハラ、ドキドキ、ワクワクがあります。芸術的な活動の中には、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で行動する自由があります。未知の世界との出会いや冒険もあります。仲間との出会いや、仲間と一緒の活動もあります。様々な学びもあります。からだを使った活動もあります。問題は、そのようなことを引き出すことが出来るような芸術的な活動を指導するためには、専門的な知識や技術が必要だと言うことです。普通のお母さん達がちょっと勉強しただけで出来るようなことではないと言うことです。以前、茅ヶ崎のある園の先生達の指導をしていた時、「劇の指導が一番難しい」と言っていた先生がいました。でも、個人の力で「人工的に作り替えられてしまった町」を自然に戻すことは不可能ですが、芸術的な活動を支えるような学びは、本人の意識と努力があれば不可能ではありません。ちなみに、茅ヶ崎に「CCCシアター」という子どもたちの演劇活動を支えているグループがあります。なぜか、その会には私の幼児教室を出た子がいっぱいいるのです。宣伝したわけではありません。というか、その会のことは私もよく知りませんでした。でも、うちの教室を出た子どもたちはなぜかそのような活動に惹かれるようなのです。そのことを知った時は嬉しかったです。
2026.08.14
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遺跡を発掘している考古学者と呼ばれる人達は、地面を掘ったり、洞窟の中を調べたりして「人間が存在した痕跡」や「人間が生活した痕跡」を探しています。それは石器や、土器や、壁画や、生活廃棄物などですが、それらを入念に調べることで、それらを作ったり描いたりした人たちの精神性や知性の状態をある程度うかがい知ることが出来るからです。古代の人が残した石器や土器や壁画を調べれば、彼らがどういう意識と心を持ち、どういう生活をしていたのかということを推察するヒントを得ることが出来るのです。同じ石器でも、その作り方の違いで意識の違い、精神性の違い、生活の違いを推測するヒントになります。石の種類を調べると、人の流れも分かります。それらの遺跡や石器や土器の変化を見ていくと、面白いことに、最初のうちは自然物を少し加工しただけの「素朴な道具」だったものが、次第に形が整えられて、そして、なぜか美しくなっていくのです。時には実際に使うには不便なんじゃないかと思えるほどに美しくなっていくこともあります。どうやら、人の心は、便利なだけでは満たされないように出来ているみたいです。カラスやサルも道具を使いますが、それ自体を芸術作品のように作りあげることはしません。カラスやサルが道具に求めているのは機能性だけです。でも人間は、単なる道具に美しさまで求めるのです。それもまた、「カラスやサルの心」と「人間の心」の大きな違いでもあります。「人間にとって美とは何なのか」、これは私がいつも考えているテーマでもあります。もちろん正解がある話ではないのですが、「美とは何か」ということを考えることは、「人間が人間らしく生きるためには必要なことは何なのか」ということを考えることでもあるのではないかと思うのです。では、人は一体なぜ「美」を求め「美」を喜ぶのでしょうか。ちなみに幼い子ども達は「かわいい」とか「きれい」ということは分かりますが、「美しい」は分かりません。「かわいい」も「きれい」も「生理的な感覚」で「美しい」は「精神的な感覚」だからです。「美」を感じるためには精神の成熟が必要になるのです。だから、遺跡などを発掘して「美の成熟度」を見ると「精神の成熟度」が分かるのです。でも問題は、最近は子どもだけでなく大人でも「かわいい」「きれい」は分かるけど「美しい」が分からない人が増えてきたように感じるのです。(「きれい」と「美しい」の違いを論じるのは難しいですが、簡単に言うと「キラキラしたもの」を見た時、人はそれを「きれい」と感じるようです。)それに対して「美しさ」を支えているのは、調和やバランスや統合性といったものなのではないかと思います。交響曲のような美しさです。そしてそれはまた「自然」の持つ美しさでもあります。でも今、道ばたに咲いている花の美しさ、蜘蛛の巣の美しさ、足下に落ちている小石の美しさ、など「自然の美しさ」に気づく人は減ってきました。これは何を意味しているのでしょうか。精神の幼児化なのでしょうか。古来から人々は自然の中に「美」のお手本を探してきました。でも、社会の近代化と共に、「自然とのつながり」が失われてきたので「美」を感じる力が萎えてきてしまったのでしょうか。「美」は私たちの周りの至る所にあります。ただ気づくだけでそれに触れることが出来るのです。お金なんか必要がありません。でも「美」を感じる力のない人に「美」は存在しません。
2026.08.13
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現代社会では「顔が見えるつながり」が消えました。それと同時に「顔を見る」とか「顔を見せる」ということも大切にしなくなりました。そういう傾向は、大分以前から便利な機械や、道具や、インフラの普及と共に進行していましたが、未だに白黒ついていない「コロナ騒動」の時に急激に進みました。今でも、マスクで顔を隠したままの人がいっぱいいます。顔を見せようとしない人が周囲の人からはどのように見えているのか想像できないのでしょうか。顔を隠したままでは心とからだが病んでしまうということを知らないのでしょうか。また、周囲の人との人間関係も築けなくなります。今の子ども達が大人になったとき、マスクで顔を隠したクラスメイトのことなど思い出せないでしょう。一般的に、「〇〇さんの記憶」は「〇〇さんの顔」とセットになっているものだからです。東洋医学では顔を見て、肌に触れることを大切にしますが、西洋医学に基づく現代の病院ではそのどちらもやりません。病院に行っても、医者は患者の顔を見ることも、肌に触れることもなく診察するのが当たり前になっています。医者が見るのは検査によって得られた数値だけです。だったらAIロボットを置いとけば人間の医者など必要がないはずです。コロナ騒動でみんなが日常的にマスクをしているとき、ある保育園の子どもが食事の時にみんながマスクを外して食べている姿を見て怖くなったそうです。「口さけ女」を見たのと似たような怖さがあったのでしょう。その「顔を見ない」「顔を見せない」という傾向は子どもの遊びや、子育てや、教育の中にも浸透してきています。子どもたちは外で群れて遊ぶことをしなくなりました。家の中でおもちゃで遊んだり、勉強をしたり、ゲームなどをして一人で遊ぶことが多くなりました。ゲームで遊ぶ場合はネットの向こうに他の人がいますが、その相手の本当の顔を見ることは出来ません。ゲームの中ではみんなアバターを使っているからです。アバターは一種の「仮面」です。プリクラは当たり前のように写真を加工しています。コロナ騒動の時、一気にZoomが浸透しましたが、画面に表示される「自分の顔」が気に入らなくてプチ整形をする人が増えたという記事も読んだことがあります。整形もまた、本当の自分の顔を隠す「仮面」です。大人の仕事も在宅などが増え、顔を合わせなくても仕事が出来るようになりました。だからといって家族と顔を合わせる時間が増えたわけではありません。また、お母さん達もそれを望んではいないようです。大分昔に「亭主、元気で留守がいい」という言葉が流行りましたが、その感覚は今でも同じみたいです。子育てでも、早い時期から子どもを保育園に預けてしまえば「子どもの顔を見る時間」も「子どもがお母さんの顔を見る時間」も減ります。保育園の先生は業務として必要な程度にしか子どもの顔を見ないでしょう。そのため、お母さんも子どもも「相手の表情から相手の心やからだの状態を読み取る」という能力が育ちにくくなってしまっています。「相手の表情から相手の心やからだの状態を読み取る能力」が低い子は、「相手に共感する能力」も低いのではないかと思います。そのため、他の子や他の人に対して思いやりの気持ちを持てないのは当然のことです。そういう状態の子が、イジメをしても罪悪感を感じないのは当たり前です。一昔前は、そういう状態の子は「空気が読めないやつ」と言われましたが、最近ではみんなが空気を読めないので、そういう状態を気にすることもなくなりました。以前に一度、学級崩壊をしているクラスを見せてもらったことがありますが、みんなバラバラに好き勝手なことをやっていました。子どもが自殺などすると「言ってくれなかったから分からなかった」と言う人が多いですが、言葉では言わなくても、表情やからだの状態では表現していたはずです。でも、子どものことを自分の目で見ていないから分からないのです。今では、スマホから目を離さずに子どもと会話しているお母さんは普通にいっぱいいます。子どもは寂しいでしょうね。でも、それが普通になってしまったら、子どもも相手の顔を見なくなるでしょうね。戦争で平気で相手を殺せるのは「相手の顔」をちゃんと見ていないからです。学校の先生も、成績は見ても、子どもの顔は見ていません。「See」はしているのですが「Look」をしていないのです。お母さん達も同じです。「See」はしています。でも、「Look」をしているお母さんは少ないです。子どもを勉強に追い立てることが出来るのも、無茶な校則を押しつけることが出来るのも「子どもの顔」をちゃんと見ていないからです。
2026.08.12
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人類誕生以来何十万年と人々は「顔の見えるつながり」の中で生きてきました。でも、今ではみんな「顔の見えないつながり」の中で生きています。現代人をつないでいるのは「お金」、「情報」、「法律」、「社会ルール」、「経済活動」などといったような「顔のないもの」ばかりです。ネット経由では顔を見ることが出来ますが、その「顔」は、直接つながることが出来ない「情報としての顔」に過ぎません。そして、コロナ騒動以降、その流れは加速してしまっています。現代社会では、「お金」、「情報」、「法律」、「社会ルール」、「経済活動」などとつながっていれば、「顔が見えるつながり」がなくても生活できるし、生きていくことも出来ます。そしてそういう生活が一般的になることで、「顔の見えるつながり」を、「うざい」、「面倒くさい」と感じる人も増えてきました。でも、昔の人は「人と人のつながり」(顔が見えるつながり)の中にいないと生活できませんでした。だからみんな「村八分」を恐れたのです。でも、現代社会では多くの人が自ら望んで村八分状態になっています。今では、「隣の人の名前も、顔も、家族構成も知らない」などということは普通です。引っ越ししても近所に挨拶にも行きません。実際、今、ご近所に家を五軒建てていますが、引っ越しの挨拶に来たのは一軒だけです。自治会に入らない人も増えてきたようです。家族の間でさえ「顔が見えるつながり」が消えてきています。お父さんもお母さんも仕事、子どもは学校、塾、ゲームに忙しくて、顔を見合わせて一緒に食べたり、笑ったりすることも出来ません。問題は、「顔の見えるつながり」の中にいなくても生活は出来ますが、「子育て」は出来ないということです。子どもの成長を支えることも出来ません。とういうかそもそも結婚相手を見つけることすら困難です。今では「マッチングアプリ」でお相手を見つけるのが一般的なようですが、そこにあるのは「情報」だけです。リアルなものは何もありません。写真も情報も加工できますから。「顔が見えないつながり」の中で結婚相手を探すなんて恐ろしいことを今時の若者は普通にやっているのです。ただ、上にも書いたように子どもの精神、心とからだが生き生きと成長するためには「顔が見えるつながり」が絶対的に必要なんです。だから、子どもたちは群れて遊びたがるのです。「群れ遊び」は「顔が見えるつながり」によって支えられているからです。そして、古来から子どもたちは「群れ遊び」の場で人と人の関わり合いの基本を学んでいたのです。大人の社会は「顔」が見えなくなってきましたが、それでもつい最近まで子どもたちは町の中の隙間を見つけて、顔を見合わせながら群れて遊んでいたのです。でも、その隙間すら大人達に奪われてしまいました。でも、「顔の見えるつながり」を作りたいという本能は人間の根本的な本能なので消えません。だから、「隙間」を探して反社会的な人たちが多くいるような場所に「顔が見えるつながり」を求めてさまよってしまう子もいっぱいいます。そういう場所に集まってくるのは寂しい子どもたちです。そして寂しい子どもたちは必要以上にお互いを束縛し合います。
2026.08.11
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一昨日は、あと問題はゲームです。ゲームやVRなどデジタルの世界の中には、命の世界、人間の感覚、心とからだの世界、子どもの成長のルールなど存在していません。なぜなら、ゲームなどのデジタル世界を支配しているのは、「命が存在していない世界のルール」だからです。という所で終わりました。今日はその続きです。ゲームなどのデジタル世界を支配しているのは、「命が存在していない世界のルール」です。そこでは、物理法則は無視され、死んだ人が生き返り、時間、空間、因果の律は無視され、願えば何でもかなえることが出来ます。「死んだ人が生き返り」と書きましたが、実際にはデジタルの世界の中には生も死もないので、生き返っているわけではありません。そう見えるだけです。まただから、「シネー」とバンバン殺しても罪悪感も感じないし、罪にも問われないのです。問題は「命が存在している世界のルール」を学ぶべき時期の子ども達が、「命が存在している世界」と触れ合う前に、それよりももっと刺激的で面白くて楽しい「命が存在していない世界」と出会ってしまう危険性です。最初に「命が存在している世界」と出会うことが出来た子は、その世界を「自分が生まれてきた世界」として認識し、様々な体験を通して、その世界のルールを学ぼうとします。その世界には、五感を刺激する「音」「触れてくるもの」「味」「匂い」「様々な視覚的な刺激」があります。そして、子どもは「他者」と出会うことによって「自分」を認識できるようになります。五感の働きを通して「他者」に触れることで「自分」を感じることが出来るようになるのです。「自分」という存在を知るためには「他者」という存在が必要なんです。また、それら五感の働きは「外の世界」を感じるためのものですが、そのような「外の世界の刺激」は心やからだといった「自分の内側からの反応」を引き起こすので「体内からの感覚」を感じる能力も育ちます。「美しいもの」を見れば気持ちが良くなり、「醜いもの」を見れば気持ちが悪くなったりしますよね、五感からの全て刺激に対してそういう反応が起きるのです。ただし、それらの「内側からの感覚」を感じ取る能力が育つためには、感じたことを何らかの形で表現する必要があります。「味覚」が育つためには、「他者と味覚を共有する体験」や「自分が感じた味」を言葉などで表現する必要がある言うことです。「美味しいね」「甘いね」「いい匂いだね」と顔を見合わせながら味わうことで「味覚」が育つのです。だから、味覚には文化差があるのです。肉体の機能としての感覚能力は生まれつき備わったものですが、文化としての感覚能力、たとえば雲を見て「モクモク」と感じたり、風に触れて「ソヨソヨ」と感じたりするのは文化としての感覚能力です。モンゴルの人たちは馬を見分ける能力に非常に優れているそうです。日本人は動物の死体を見ると不快感を感じますが、それを感じない文化圏の人たちもいっぱいいます。殺し合いに嫌悪感を感じる人は多いですが、逆にワクワクする人もいます。というようなことを見ていくと、幼い子ども達が「命が存在している世界」と出会う前に「命が存在していない世界」と出会うことの問題点と危険性が山のように見えてくるのです。ゲームをやったり、ユーチューブなどの動画を見たりしても「音」と出会うことは出来ます。でも、その「音」は「自然界の音」つまり「命が存在する世界の音」とは全く異なります。タブレットが自然の風景を写しだし、自然の音を流してもそれらは全く「自然」ではありません。タブレットの中の風景の中には「空間」がありません。そのため、映像に映し出されている空や木と自分が、空間を共有することが出来ません。ただ、「情報」として見ることが出来るだけです。「音」も目の前にある小さなスピーカーから出てくる、デジタル化された音しか聞くことが出来ません。その音もまた空間を含んでいません。でも実際に森の中に入れば、「からだ全体を包むような音」を体験することが出来ます。自然の中で自然な音を聴いて育った人は、その違いが分かります。また、スピーカーからの音を聴いても、自然の中で聴いた音を想い出しながら聞くことが出来ます。スピーカーから流れてくる風の音を聞きながら、風に揺れる木々をイメージすることも出来ます。でも、最初からスピーカーを通してしか「自然の音」を聞いたことがない子にはそういうことが出来ないのです。スピーカーから流れてくる音だけが情報の全てだからです。でも、子どもたちが何を見て、何を聞いて、何を感じているのかということは子どもたちを見ているだけでは分かりません。それを、絵を描いたり、詩を書いたり、歌や踊りで表現させてみた時に、初めて子どもが何をどのように聞き、何をどのように感じ、何をどのように見ているのかが分かるのです。「命が存在していない世界」からやってくるのは全て「情報」に過ぎません。そこにリアルはありません。そしてリアルがない世界に囲まれて生活していると、子どもは自分の心や、からだや、命にもリアルを感じなくなります。自殺してしまう子どもたちは「命のリアル」「死」のリアルを知らないのでしょう。ちなみに阿蘇山は自殺の名所として知られているそうですが、飛び込んでも火口の下の段に引っかかって助かってしまう人も多いそうです。でも、そこから再度飛び込む人は滅多にいないそうです。実際に飛び込むという表現行為を通して、「命のリアル」や「死のリアル」を知ってしまうからなのでしょう。
2026.08.10
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無事、昨日から行っていた冒険クラブの親子キャンプから帰ってきました。冒険クラブの親子キャンプは、多分、他の一般的なキャンプとは大きく違うと思います。「テーマ」はありますが、細かいスケジュールも担当もありません。お料理のメニューもありません。みんなその「テーマ」を共有することだけを大切にしています。定番の川遊び、火遊び、流しそうめん、スイカ割りはもちろんやりましたが、夜はみんなで「一芸」の発表会をしまいした。どんなことをやったのかはちょっと説明できません。「桃太郎かも・・」という、劇遊び的なことも影絵遊びもやりました。ここでお見せできる写真を探したのですが、みんな子どもやお母さん達の顔ばかりの写真なので、以下のような当たり障りのないものしかお見せできません。
2026.08.09
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今日は、これから毎年やっている親子キャンプに行くので、手短にさせて頂きます。ちなみに、今年のキャンプのテーマは「一芸持ちより」です。歌でも、踊りでも、絵本の読み聞かせでも、劇でも何でもOK。自分がやらなくてみんなにやらせてもOK。あと、竹工作もやります。楽器類は私が担当しますが、他のあれこれは友人が担当してくれます。ということで本題に入ります。昨日は、命のルール、自然のルール、心とからだのルールに従って表現されたものが「芸術」と呼ばれるのなら、同じように命のルール、自然のルール、心とからだのルールに従った子育てや教育も「芸術」になり得るのではないでしょうか。それは、「子どもの成長に寄り添う子育てや教育」のことです。絵を描いたり、踊ったりしなくても芸術なんです。ということを書きましたが、自然界には「自然のルール」があります。命の世界、人間の感覚、心とからだの世界、子どもの成長にもルールがあります。そして、それらは全てそのルールに従って動き働いています。そのルールが壊れたらこの世界は崩壊します。芸術はそのルールに従い、そこに人間の意識の働きを加えて、さらに高次の世界を実現しようとするものです。それは自然界には存在しないものですが、でも、自然界にあるものから抽出され、抽象化されたものです。ですから、芸術家は自然界から学ぼうとします。自然のルールを無視したら芸術は成り立たなくなってしまうのですから。でも、科学はそのルールに従うのではなくルール自体を変えようとしています。新しいルールを作って新しい世界を作ろうとしているのです。人は老いて死ぬのが自然のルールなのですが、科学は老いない、死なない方法を見つけようとしています。人は人から産まれるのが自然のルールなのですが、それすらも変えようとしています。子どもの成長には、決まった順序と、時期と、期間が必要なのですが、それも無視して、社会の価値感に合わせて子どもの自然な成長を歪めようとしています。だから、自然のルール、心とからだのルール、子どもの成長のルールが混乱し精神や心やからだの状態が不安定な子どもや大人が増えてしまったのです。でもそれは科学自体の責任ではなく、科学を「欲望を実現する道具」として使おうとしている人たちの責任です。あと問題はゲームです。ゲームやVRなどデジタルの世界の中には、命の世界、人間の感覚、心とからだの世界、子どもの成長のルールなど存在していません。なぜなら、ゲームなどのデジタル世界を支配しているのは、「命が存在していない世界のルール」だからです。<続きます>
2026.08.08
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音楽的表現は無限にあり自由ですが、でも、「芸術としての音楽」に限って言えば、それらの音楽は「音のルール」「心のルール」に従っています。自由ではあるのですが、あくまでも「ルールの中での自由」なんです。そしてそこが大切なところです。そしてそのルールは「社会のルール」の影響も受けてはいますが、基本的なところは、時代や、地域や、文化が変わっても変化していません。なぜならそのルールを生み出しているのは「命のルール」「からだのルール」自然のルール」「心のルール」といった、社会のルールよりももっと深いところに存在するものだからです。まただから、明治維新の時、遠く離れた欧米の人でも、日本の美術に感動することが出来たのです。日本人もまた欧米の音楽を聴いて感動したのです。現代人でも、古代の人が洞窟の中に描いた絵を見て感動できるということは、「古代の人も現代人と共通したルールを持っていた」という証でもあるのです。絵を描く場合、絵描きは「色のルール」「明暗のルール」「形のルール」「人の心のルール」「物語のルール」「空間のルール」などに従っています。私たちが知っているような「何が描いてあるか分かる絵」は、風景や人物や静物がそれらのルールに従って描かれています。ミロやクレーのような、何が描いてあるのか意味不明な抽象画の場合は、その「ルールそのもの」で絵を描いています。だから、一見「子どもの絵」と似ていても、それらのルール無視して描く「子どもの絵」とは異なるのです。そもそも、具象画と抽象画とでは「ルールの使い方」が違います。だからその「新しいルール」に不慣れな人には何が描いてあるのか分かりません。それは同じ「ボール」を使っていてもバスケットとテニスが全く違うゲームのように見えるのと同じです。でも、見かけは異なっていても、ルールの根本的なところは同じです。それが「スポーツがスポーツとして成り立つためのルール」だからです。柔道もボクシングも、それがなければ「スポーツ」ではなく「殺し合い」になってしまいます。何をどのように描くのかは全く自由ですが、観る人の心に働きかけるように描くためには「絵画のルール」に従う必要があるのです。まただから、そのルールに従った歌や絵画や踊りなどは、時代、文化を超えて人の心に響くのです。そして、この理屈に従うのなら「子育て」や「教育」も「芸術」たり得るのではないでしょうか。実際、シュタイナー教育は「教育芸術」を自称しています。これは、芸術のことを教える「芸術教育」という意味ではありません。「芸術としての教育」という意味です。それは「ただ美しく」ということでもありません。シュタイナー幼稚園が美しいものを大切にするのは「結果」であって「目的」ではありません。ただし、私はただの「シュタイナー教育愛好家」であって、シュタイナー教育の専門家ではではないので、私の言うことは「私の理解では・・・」ということに過ぎません。そこの所はご理解下さい。命のルール、自然のルール、心とからだのルールに従って表現されたものが「芸術」と呼ばれるのなら、同じように命のルール、自然のルール、心とからだのルールに従った子育てや教育も「芸術」になり得るのではないでしょうか。それは、「子どもの成長に寄り添う子育てや教育」のことです。絵を描いたり、踊ったりしなくても芸術なんです。
2026.08.07
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