福田村事件 (ふくだむらじけん)は、 1923 年 ( 大正 12 年) 9 月 6 日、 関東大震災 後の混乱および 流言蜚語 が生み出した 社会不安 [ 注 1 ] の中で、 香川県 からの薬の 行商 団( 配置薬販売業者 ) 15 名が 千葉県 東葛飾郡 福田村 (現在の 野田市 )三ツ堀で地元の福田村および 田中村 (現 柏市 )それぞれの 自警団 に 暴行 され、 9 名が 殺害 された事件である [ 2 ] [ 注 2 ] 。
1923 年(大正 12 年) 3 月に香川県を出発していた売薬(当時の「 征露丸 」や頭痛薬、風邪薬など)行商団 15 人は、 関西 から各地を巡って 群馬 を経て 8 月に千葉に入っていた [ 3 ] 。
9 月 1 日の関東大震災直後、 4 日には千葉県にも緊急 勅令 によって 戒厳令 の一部規定が適用され、同時に官民一体となって 朝鮮人 などを取り締まるために 自警団 が組織・強化 [ 4 ] され、村中を警戒していた。『柏市史』によれば「自警団を組織して警戒していた福田村を、男女 15 人の集団が通過しようとした。自警団の人々は彼らを止めて種々尋ねるがはっきりせず、 警察署 に連絡する。「ことあらばと待ち構えていたとしか考えられない」という状況だった [ 5 ] 。
生き残った被害者の証言
[
3
]
によると、関東大震災発生から 5
日後の 1923
年(大正 12
年)
9
月6
日
の昼ごろ
[
3
]
、千葉県
東葛飾郡
福田村
(現在の野田市)三ツ堀の
利根川
沿いで
[
3
]
、「 15
円 50
銭」などと言わせ、休憩していた行商団のまわりを興奮状態の自警団 200
人ぐらいが囲んで「言葉がおかしい」「朝鮮人ではないか」などと次々と言葉を浴びせていた
[
6
]
。
福田村村長らが「
日本人
ではないか」と言っても群衆は聞かず、なかなか収まらないので
駐在所
の
巡査
が本署に問い合わせに行った。
この直後に惨劇が起こり、現場にいた旧福田村住人の証言によれば「もう大混乱で誰が犯行に及んだかは分からない。メチャメチャな状態であった」
[
3
]
。生き残った行商団員の手記によれば「棒やとび口を頭へぶち込んだ」「銃声が 2
発聞こえ」「
バンザイ
の声が上がりました」
[
7
]
。
駐在の巡査が本署の部長と共に戻って事態を止めた時には、すでに 15
人中、子ども 3
人を含めて 9
名の命が絶たれており、その遺体は利根川に流されてしまい
遺骨
も残っていない
[
7
]
。かけつけた本署(
松戸警察署野田分署
[
1
]
)の警察部長が、
鉄
の
針金
[
8
]
や太縄で縛られていた行商団員や川に投げ込まれていた行商団員を「殺すことはならん」「わしが保証するからまかせてくれ」と説得したことで、かろうじて 6
人の行商団員が生き残った
[
7
]
。
香川県 三豊郡 (現 三豊市 )の薬売り行商人 15 名。うち犠牲者は、 妊婦 や 2 歳、 4 歳、 6 歳の 幼児 をふくむ 9 名(妊婦の 胎児 を含め、 10 名とする場合 [ 7 ] もある) [ 9 ] 。被害者一行は 被差別部落 出身であった [ 10 ] [ 11 ] 。事件が生存者や遺族から多くは語られなかったのは差別による二次被害を恐れてとの指摘も存在する [ 12 ] 。
検挙 されたのは、現場の 福田村 の 自警団 員 4 名および隣接する 田中村 の自警団員 4 名 [ 7 ] 。
この 8
名が
騒擾
(そうじょう)
殺人罪
に問われたが、
被告人
らは「郷土を朝鮮人から守った俺は
憂国の志士
であり、国が自警団を作れと命令し、その結果誤って殺したのだ」と主張しており、また、当時の
予審判事
は、
裁判
の前から「
量刑
は考慮する」と
新聞
に語っていた
[
7
]
。
他方、彼らが検挙された頃、田中村の会議で 4
名の被告人に「見舞金」の名目で弁護費用を出すことを決め、村の各戸から均等に徴収している
[
7
]
。
判決は、田中村の 1
名のみ「懲役 2
年、執行猶予 3
年」の第二審判決を受け入れたが
[
7
]
、あとの 7
名には
大審院
で
懲役
3
年から 10
年の
実刑
判決が出された。
しかし、受刑者全員が、確定判決から 2
年 5
か月後、
昭和天皇
即位による
恩赦
で釈放された
[
13
]
。
事件について調査を行った石井雍大によれば、出所した中心人物の一人は後に、選挙を経て
村長
となり、村の合併後は市議会議員を務めたという
[
14
]
[
15
]
。
殺害を主導した自警団員 8
人はその後の裁判で、懲役2年から 10
年に処せられたが、その後、昭和天皇の即位による恩赦で釈放された。
事件は当時、新聞で報じられたものの、その後、長く忘れられ、 1986
年、朝日新聞の報道
で再び知られることになる。
市川さんは事件は、日本社会にある 2 つの差別意識が引き起こしたと指摘する。
ひとつは 民族的な差別意識 です
もうひとつは、 職業差別 です。
市川さんによると、 2003
年に慰霊碑を建立する際、市に協力を要請したが、断られたという。
また、完成時の除幕式への出席を求めたが、これも断られたという。
追悼式は 2003
年以降、毎年開催しているが、市の出席はないという。
NHK
が野田市役所に取材したところ、いずれも事実だと認めた上で、その理由について、「事件はあくまで民間どうしのもので、加害者側がすでに罰せられているほか、協力の要請などが地元の地区からないため、関わらないと判断している」としている。
99 年前の悲劇 知られざる福田村事件 差別を乗り越えるには | NHK
福田村事件というので福田村だけかと思ったら、田中村の自警団も殺害に加わったと知ってショックでした。
加害者の子孫もまだ生きているので、そっとしておきたいという野田市長だが、やはりそれでは済まないと思います。
無かったことにはできないのですから、史実を伝承してのちの世の教訓とするのが、本来のあり方でしょう。
現在でも民族差別も職業差別も残っているのですから、その必要性はなくなっていないでしょう。
参考:
「福田村事件」史実と異なる映画に憤慨 誤解を解くために語り続ける「この現場で起きたこと」 #
ニュースその後(千葉日報オンライン) - Yahoo!
ニュース
2 市長が弔意
100
年の節目の昨年、地元自治体との距離も縮まった。
野田市の鈴木有市長は 6
月の市議会一般質問で「被害に遭った人たちに謹んで哀悼の誠をささげたい」と答弁。
柏市の太田和美市長も 9
月の市議会一般質問で「亡くなった方々の命の尊さを思うと誠に心が痛む」と述べた。
30
年近く事件の真相究明などに取り組んでいる市川さんは「公の責任者が(公式の場で)弔意を示したのは初めて。市民運動などの活動が社会的な関心を高め、それが後押しした」と感慨深く語る。
シャーロック・ホームズ 2024.11.28