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ストーリー:読書が大好きで元気いっぱいな中学生の女の子・月島雫。彼女は図書貸出カードでよく見かける、ある名前が頭から離れなかった。天沢聖司――全部私よりも先に読んでる――どんなひとなんだろう。あるきっかけで“最悪の出会い”を果たした二人だが、聖司に大きな夢があることを知り、次第に惹かれていく雫。聖司に背中を押され、雫も自分の夢を胸に抱くようになったが、ある日聖司から夢を叶えるためイタリアに渡ると打ち明けられる。離れ離れになってもそれぞれの夢を追いかけ、また必ず会おうと誓い合う二人。それから10年の時が流れた、1998年。雫は、児童書の編集者として出版社で働きながら夢を追い続けていたが、思うようにいかずもがいていた。もう駄目なのかも知れない――そんな気持ちが大きくなる度に、遠く離れたイタリアで奮闘する聖司を想い、自分を奮い立たせていた。一方の聖司も順風満帆ではなかった。戸惑い、もどかしい日々を送っていたが、聖司にとっての支えも同じく雫であった。ある日、雫は仕事で大きなミスをしてしまい、仕事か夢のどちらを取るか選択を迫られる。答えを見つけに向かった先は……。(KINENOTE)『耳をすませば』(Whisper of the Heart)は、柊あおいの漫画作品。『りぼん』(集英社)の1989年8月号 - 11月号にて連載された。略称は「耳すま」[1]。1995年にアニメーション映画化(#アニメ映画参照)、2022年に実写映画化された[2](#実写映画参照)。 2022年10月14日に公開[32][2]。監督は平川雄一朗、主演は清野菜名と松坂桃李[33]。アニメ映画を再現した「あの頃」とオリジナルストーリーの「10年後」の二重構成で描かれる[33]。当初は2020年9月18日に公開予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大によって海外への渡航および撮影が困難となったため、公開延期が同年4月21日に発表された[34]。撮影は神戸市で行われたほか[35]、作中で描かれるイタリアのシーンは和歌山県のポルトヨーロッパで撮影された[36]。(ウィキ) 柊あおいが『りぼん』(集英社)で連載し、スタジオジブリがアニメ映画化した青春恋愛漫画『耳をすませば』を実写映画化。読書が大好きな女の子・月島雫が、夢に向かって生きる男の子・天沢聖司に想いを寄せる中学生時代の物語に、完全オリジナルの10年後の物語を加えて描く。大人になって児童書の編集者となった月島雫を清野菜名が、チェロ奏者として活動する天沢聖司を松坂桃李がW主演で演じる。中学生時代の二人には安原琉那、中川翼。監督は平川雄一朗、主題歌は杏がカバーする名曲「翼をください」。雫が働く出版社の部長に音尾琢真、先輩役に松本まりか、後輩役に中田圭祐、雫が担当する作家・園村役に田中圭。また、雫の両親を小林隆、森口瑤子、さらに聖司の祖父であり地球屋の店主でもあるおじいさんを近藤正臣が演じている。(KINENOTE)ジブリのアニメと異なるオリジナルストーリーで、ジブリ派と本作派で好き嫌い、評価がわかれるみたいです。今では考えられない遠距離純愛物語は一種のファンタジーと理解すれば、十分受け入れられ昭和の老人の胸に響きました。今ならテレビ電話、LINEなどで、遠距離恋愛は死語でしょう。和歌山で撮影とありますが、イタリアの風景はどうしたのでしょう。
2024.05.20
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ストーリー:自分の人生をお伽話のように人々に語り続ける有名な男、エドワード・ブルーム(アルバート・フィニー)。未来を予見する魔女(ヘレナ・ボナム=カーター)のこと、若き日の自分(ユアン・マクレガー)が一緒に旅した巨人カール(マシュー・マグローリー)のこと、人を襲う森とその先にある美しい町のこと。そんな彼の話には誰もが楽しい気分になった。しかしジャーナリストとして活躍する息子のウィル(ビリー・クラダップ)は、自分の結婚式の祝宴でエドワードが巨大魚の話をして注目をさらってから、父親に憤りを抱いている。しかしある日、母親のサンドラ(ジェシカ・ラング)から、患っていた父の容態が悪化したとの報告。ウィルは出産間近の妻、ジョセフィーン(マリオン・コティヤール)と共に実家へと向かった。エドワードは一日のほとんどをベッドで過ごしつつも、相変わらず思い出話を語っている。ジョセフィーンはサンドラとの恋愛話を聞かされ、そのロマンティックな内容に心を打たれた。だがウィルはそれが事実ではなく作り話であることに苛立つ。しかしそんな時、ウィルは、エドワードの話の中に出てきた彼の戦死を告げる電報をサンドラが見つけたことで、お伽話の中に真実が隠されていたことに気づき衝撃を受ける。間もなくエドワードの様態は急変。人生の最期を迎えようとする父に、枕元でウィルは父の物語を豊かに創作して語って聞かせる。そしてエドワードの葬式には、彼の物語に出てきた人々がたくさん集まってくるのだった。(KINENOTE)『ビッグ・フィッシュ』(原題: Big Fish)はティム・バートン監督による2003年作のファンタジー映画。ダニエル・ウォレス(Daniel Wallace)のベストセラー『ビッグフィッシュ - 父と息子のものがたり』を原作にジョン・オーガストが脚色した。劇場公開翌年の2004年に第76回アカデミー賞作曲賞にノミネートされた。2013年にミュージカル作品が初演(後述)。 前年に父を亡くし、子供を授かったティム・バートンの自身の物語とも取れる作品。次作の『チャーリーとチョコレート工場』と同様に、父と子の和解というテーマが根底にあり、この作品で新境地を開いた。125分(ウィキ)前半のホラ話は少ししつこいですが、ファンタジックな映像で楽しめる映画です。自分が当事者なら、やはりこうしたほら吹き親父は耐えられないです。戦争は朝鮮戦争でしょうか。古き良き時代の物語でもあります。お酒を飲むと昔話をしていた父を思い出しました。自慢話は少なく、失敗談の方が多かったように思います。高校入試の口頭試問で、1ドル360円が答えられなかった話は、彼の「十八番」でした。
2024.05.18
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荒木飛呂彦・原作×高橋一生・主演の人気ドラマシリーズの劇場版第1弾!漫画家の岸辺露伴が、編集者の泉京香とともに美の殿堂ルーヴル美術館を舞台に「黒い絵」の謎に迫る! 特殊な能力を持つ漫画家の岸辺露伴は、青年時代に淡い思いを抱いた女性からこの世で「最も黒い絵」の 話を聞く。それは、最も黒く、そしてこの世で最も邪悪な絵だった。時は経ち、新作執筆の過程で、その絵がルーヴル美術館に所蔵されていることを知った露伴は、取材とかつての慕情のためにフランスを訪れる。しかし、不思議なことに美術館の職員すら「黒い絵」の存在を知らなかったが、データベースでヒットした保管場所は、今はもう使われていないはずの地下にある「Z-13 倉庫」だった。 そこで露伴は「黒い絵」が引き起こす恐ろしい出来事に対峙することとなる...<キャスト&スタッフ> 出演 高橋一生 飯豊まりえ / 長尾謙杜 安藤政信 美波 / 木村文乃原作 荒木飛呂彦「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」 監督 渡辺一貴 脚本 小林靖子 音楽 菊地成孔/新音楽制作工房 人物デザイン監修・衣裳デザイン 柘植伊佐夫 製作:『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』 製作委員会 制作プロダクション:アスミック・エース、NHKエンタープライズ、P.I.C.S.映画「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」 - NHK『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』(きしべろはん ルーヴルへいく)は2023年5月26日公開の日本の映画。荒木飛呂彦による漫画シリーズ『ジョジョの奇妙な冒険』のスピンオフ作品『岸辺露伴は動かない』の一編であり、ルーヴル美術館が主催するバンド・デシネプロジェクトのために書き下ろされた同名の漫画作品が原作となっている。監督の渡辺一貴、脚本の小林靖子を始め、NHK総合で放送されたテレビドラマ『岸辺露伴は動かない』のキャスト・スタッフが続投する形で制作された。本作の主人公である漫画家・岸辺露伴が、ルーヴル美術館に存在するといわれる「この世で最も黒い絵」が引き起こす怪異に巻き込まれる物語が描かれる。企画は2020年、ドラマシリーズの放送前に始動し、2022年9月から2023年3月にかけて撮影が行われた。パリ市街やルーヴル美術館でのロケも行われ、日本映画がルーヴル美術館で撮影されるのは『万能鑑定士Q モナ・リザの瞳』以来2作目となった。興行収入は12.5億円を記録し、NHKが製作したドラマの映画化作品としては初めて10億円を突破した。(ウィキ)このテレビドラマはなじめそうもないので敬遠していましたが、劇場版ということで観てみました。相手を本にして生い立ちや秘密を読み、指示を書き込むこともできる特殊能力「ヘブンズ・ドアー」というのが出てきましたが?です。どこか前時代的なにおいがすると思ったら、元ネタとされる本があるのですね。【岸辺露伴 ルーヴルへ行く】元ネタと噂される小説は?「昭和の文豪」が残した短編と3つの共通点 (msn.com)テレビと違って映画はお金を払って観るメディアですよね。〔中略〕ドラマとは違う面白さを感じるものでなければならない。そう考えた時に、『ルーヴルへ行く』は、露伴が海外に赴く話なのでスケールも大きく、なおかつ露伴の過去や、露伴のルーツに迫っていくという、ドラマの中では描かれていない切り口があったので— アスミック・エースのプロデューサー井出陽子ルーブル美術館でのロケ作品ですが、それだけでスケールが大きいというのはどうでしょう。民放が自社ドラマを劇場版にして金もうけというのはわかりますが、放送文化向上が目的のNHKが劇場版だなんておかしくありませんか。公共放送って何?と思った作品でもあります。それにしても、ロケ地の横浜グランドホテルは絵になりますね。ずっと残しておいてほしいクラッシックホテルです。
2024.05.10
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ストーリー:ロシアの過激な国粋主義者が軍の反乱派勢力と結託し、シベリアの核ミサイル基地を占拠した。アメリカと日本が核攻撃の危機にさらされ、米海軍の原潜アラバマに出撃命令が下った。歴戦の叩き上げのフランク・ラムジー艦長(ジーン・ハックマン)と、ハーバード大卒のエリートであるロン・ハンター副官(デンゼル・ワシントン)は、核に対する思想で真っ向から対立する。目的海域に達し、敵潜水艦の影を捉えたアラバマは臨戦体制に突入。ペンタゴン(米国防総省)からの通信が入ったその時、敵の魚雷攻撃が艦をかすめて爆発した。通信は途中で途切れ、ミサイルの発射か中止か、はっきりしない。即時攻撃を主張するラムジーに対し、ハンターは命令の再確認を強く求める。艦内に異常な緊張が漲り、艦長への忠誠心か副官のモラルに与するか、乗組員たちも激しく揺れる。ハンターはラムジーの命令を服務違反として指揮権を剥奪、彼とその一派の将校たちを監禁した。再度、敵艦と交戦したアラバマは損傷し、甚大な被害が出る。ハンターは通信の回復を急がせるが、その隙にラムジー艦長は連絡将校ジマー(マット・クレイヴン)、ハンターの長年の親友で武器将校のウェップス(ヴィゴ・モーテンセン)らと実力で指揮権を奪回すると、ハンターや艇長のコッブ(ジェームズ・ギャンドルフィーニ)らを逆に監禁した。だが、ハンターも脱出し、発射を寸前で回避しようとする。ラムジーの銃口がハンターに向けられた時、通信が回復。ラムジーは再確認のため、3分間の猶予を与えたが、命令はミサイル発射の中止だった。かくして核戦争の危機は回避された。(Kinenote)ケイン号の叛乱を見た後なので、両作品の比較も楽しめました。艦長vs士官に対して、こちらは士官の一部に艦長に従うものも登場です。裁判劇はなく、海軍の裁定委員会で内密で穏便な措置でひねりもなしです。艦長が精神障がいというわけではなくて、判断の違いということも起因しているのでしょう。裁く方も裁かれる方も顔見知りというのは、甘くなりがちです。作品の最後に現在は核の発射権限は艦長にはなく大統領にあるというテロップが流れます。当時はこれでひと安心だったのでしょうが、トランプが登場して?です。この作品を見て、米国は改めて先制核攻撃を行う国だと思い知らされました。国を救うという大義が突出すると、一気に核戦争でしょう。さいわいこの作品では、副官の自制=確認が先制核攻撃を中止させました。キューバ危機の経験(ソ連軍人の自制が救ったという見方もあります。)が、すでに忘れ去られていないことを願います。
2024.05.06
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ストーリー:1943年、プリンストン大学を卒業したウィリー・キース(ロバート・フランシス)は、ナイトクラブの歌手をしている恋人メイ・ウィン(メイ・ウィン)に別れを告げ、海軍少尉候補生として駆逐艦ケイン号に乗りこんだ。ケイン号では艦を切り回しているのは艦長デヴリースではなく、むしろ副官のマリク大尉(ヴァン・ジョンソン)であったが、間もなく艦長更迭が行われ、新艦長のクィーグ中佐(ハンフリー・ボガート)が着任した。ウィリーはクィーグのデヴリースとは正反対なキビキビした態度に感心した。魚雷の曳航演習中、クィーグが1人の水兵を叱責することに夢中になって指揮を忘れたため魚雷の曳航綱が切れてしまうという事件が起きた。この事故の説明のため、ケイン号はサンフランシスコに入港し、ウィリーはメイとともに休暇を過ごした。休暇が終わって艦に帰った乗組員たちは艦長が事件の責任を部下一同になすりつけたことを知った。クィーグへの信頼は一挙に失われた。ケイン号は直ちに機動部隊に加ってクェゼリン群島に向かったが、この上陸作戦でクィーグは満足に任務が遂行できず、大変な臆病者であることを暴露してしまった。インテリのキーファー大尉(フレッド・マクマレイ)は彼を偏執狂だといった。事実、クィーグは冷蔵庫の苺が紛失したといって乗り組員の身体検査をする有様だった。そんな矢先、艦は猛烈な颱風に遭遇し、艦長に指揮を委せていたら沈没も免れぬと思ったマリクは決然クィーグに反抗して艦の指揮をとり、皆の応援を得て艦を救った。艦はサンフランシスコに帰港し、マリクとウィリーは反逆罪で軍法会議に附されることになった。体勢は明らかにマリクたちに不利だったが、弁護人バーニー・グリーンウォルド中尉(ホセ・フェラー)は巧妙な質問でクィーグが偏執狂であることを証明し、2人は無罪の判決を受けた。ウィリーはメイと結婚し、颯爽と新しい艦に乗りこんだ。その艦長はケイン号の前艦長デヴリースであった。(KINENOTE)『ケイン号の叛乱』(The Caine Mutiny)は、1954年制作のアメリカ映画。ピューリッツァー賞を受賞したハーマン・ウォークの同名の世界的ベストセラー小説(1951年発表[4][8])を「ハリウッド・テン」の一人だった監督エドワード・ドミトリク、製作スタンリー・クレイマー、出演ハンフリー・ボガート、ホセ・フェラーなど当時のハリウッドの超一流スタッフ・キャストが総結集、映画史上に残る名作ドラマに作り上げた。主演のロバート・フランシスはその後を嘱望されるも公開翌年に自ら操縦する飛行機の墜落事故にて25歳の若さで亡くなった。何度観ても面白い作品です。最後のひねりのシーンは、忘れていました。会社でもハンフリー・ボガードのようなおかしな上司はいましたが、軍隊と違って生死にかかわるということはありませんでした。部下がちゃんと支えればこんな反乱騒ぎにはならなかったとの指摘はごもっともですが、当事者としてはやってられないということでしょう。組織ではわりとある話です。無罪に喜ぶケイン号の士官たちに対し、自分を含めてエリートが大学に通っている間、過酷な対日戦でアメリカを守った職業軍人のクイーグの名誉を貶める結果になったと語る弁護士のグリーンウォルドの反省が、この作品を深みのあるものにしています。クイーグのパラノイア=偏執症は軍務によって肥大化したように見えました。ある意味で軍隊批判の作品とも言えるわけですが、米国海軍が協力しているところがすごいと思いました。台風のシーンの特撮もなかなかの出来でした。Caine Mutiny - Greenwald confronts Keefer - YouTube - YouTube
2024.04.28
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ストーリー:九州の静かな町で暮らす 17 歳の少女・鈴芽(すずめ)は、「扉を探してるんだ」という旅の青年・草太に出会う。彼の後を追って迷い込んだ山中の廃墟で見つけたのは、ぽつんとたたずむ古ぼけた扉。なにかに引き寄せられるように、すずめは扉に手を伸ばすが……。扉の向こう側からは災いが訪れてしまうため、草太は扉を閉めて鍵をかける“閉じ師”として旅を続けているという。すると、二人の前に突如、謎の猫・ダイジンが現れる。「すずめ すき」「おまえは じゃま」。ダイジンがしゃべり出した次の瞬間、草太はなんと、椅子に姿を変えられてしまう! それはすずめが幼い頃に使っていた、脚が 1 本欠けた小さな椅子。逃げるダイジンを捕まえようと 3 本脚の椅子の姿で走り出した草太を、すずめは慌てて追いかける。やがて、日本各地で次々に開き始める扉。不思議な扉と小さな猫に導かれ、九州、四国、関西、そして東京と、日本列島を巻き込んでいくすずめの”戸締まりの旅”。旅先での出会いに助けられながら辿りついたその場所ですずめを待っていたのは、忘れられてしまったある真実だった。(KINENOTE)『すずめの戸締まり』は2022年(令和4年)に公開された日本のアニメーション映画。脚本・監督は新海誠。日本各地の廃墟に点在する災いの出口・“扉”を閉じていく少女の解放と成長を描くロードムービー。(ウィキ)なまずならぬ廃墟の扉から巨大なミミズがはい出て地震を引き起こすという地震をテーマにしたファンタジー。震災孤児のすずめの自分勝手な行動にまわりが振り回される様子に、私はイライラです。要石の猫=ダイジンの意図がつかめない行動にもイライラ。年寄りにはなかなか理解しがたいストーリーです。孤児となった昔の自分に会いに行き励ますというタイムスリップものでもあります。廃墟の扉はドラえもんのどこでもドア?と突っ込みたくなるような作品でした。見終わった後、消化不良のストーリーでう~んとなる作品でした。要石やすずめの苗字が岩戸、扉を閉める時に祝詞or呪文を唱えるなど、神話の世界を関連付けたのかもしれませんが意味不明でした。閉じ師も「とじし」と聞いて、?と思いました。廃墟さえも美しいきれいな風景の描写は、いつも通りの素晴らしさですが、日本の現実を見ると「こころの風景」ですね。
2024.04.27
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ストーリー:橘孝平(中村雅俊)とちひろ(原田美枝子)は、孝平の定年退職を期に、離婚を決めた。大手建設会社の重役にまで上り詰めた孝平。これからは恋人の夏美(原沙知絵)が経営する建設事務所で、今まで培った経験を存分に生かすつもりだ。ちひろは、父親に言われた相手と結婚し30年、家族に尽くしてきた専業主婦。孝平の退職日、手料理を食卓に並べ、帰りを待っていた。まもなく、身ごもった娘のマキ(星野真里)が同棲中の八木沼(内田朝陽)を連れ、父親の退職祝いにかけつけた。しかし、孝平は今日も家に帰ってこない。口げんかの絶えない魚屋夫婦、正彦(イッセー尾形)と光江(綾戸智恵)。正彦に糖尿が見つかってからは、定期的に病院に通っている。担当医の静夫(井上順)の指示に従い、光江は夫の食事に気を遣い、毎晩のウォーキングを欠かさない。そんなある日、正彦は楽器店のショーウィンドウにギターの名器マーチンが飾られているのを発見。かつて光江は集団就職で上京、職場の先輩と追っかけをしていたコピーバンドのヴォーカル・正彦に口説かれ、一緒になったのだ。憧れの名器に見惚れる正彦。医者の静夫は、5年前愛妻を亡くし、今は高校受験を控える娘・理花(金澤美穂)と2人暮らし。かつて大腸菌の研究に没頭するも、アメリカの研究チームに先を越され出世コースからは脱落。冴えない人生を送っている。しかし近頃は、海外医療小説の監修依頼をしてきた翻訳家・麗子(戸田恵子)と会えるのを楽しみにしている。一方の麗子も、細菌の話になると、人がかわったように熱弁を振るう静夫の姿に年甲斐もなくトキメくのだった。夫が出て行った家で、時間を持て余しているちひろは一念発起、家政婦の仕事に挑戦することに。勤め先は、翻訳家・麗子の家。高級マンションに一人暮らし、誰に頼ることなく自立している麗子。ある日、麗子はちひろを誘い、パーティーへ繰り出す。華やかなドレスを纏いすっかり変身したちひろ。パーティーの主催はミステリー作家の麻生圭一郎(石黒賢)。麻生は美しく磨かれたちひろに惹かれ、食事に誘う。異性から誘われた経験のないちひろはただ戸惑うばかり。「あなたは今まで恋をしてこなかった」という麻生の言葉にちひろは少なからず動揺を覚えるのだった。孝平は、転職の挨拶も兼ね、なじみの施工業者に受注の依頼をするが、あっさりと断られてしまう。「うちが付き合ってきたのは、あなたじゃなくて京亜建設だ」。自分の力で築きあげてきたと思っていた人脈、キャリア。それがすべて会社の名の下にあったというのか?自らの愚かさに落胆する孝平。そんな時、娘・マキの子供が生まれ、久しぶりに前妻・ちひろと再会する。そこには、孝平が今まで見たことのないよく喋り、よく笑い、美しく輝くちひろがいた。病院からの帰り道、空腹の孝平を見かねたちひろは、孝平のために夕食を作る。どことなく気落ちしているようにみえる孝平にちひろは励ましの言葉をかけるのだった。孝平に上着を着せ、鞄を持ち、玄関先から見送る自分。ちひろは30年間繰り返してきたこの習慣にどこか懐かしさを感じていた。麗子は、監修のお礼にと思い切って静夫と娘の理花を自宅に招待。しかし、タバコを吸い、酒を飲み、華やかに生きる麗子と亡くなった母親との違いに戸惑い、父親には不釣合いな相手だと感じた理花は、悪態をつき、部屋から飛び出してしまう。静夫は理花を追いかけ叱りながらも、為すすべもない。当直のため、病院へ戻らなければならないと力なく詫びる静夫に、麗子は笑顔でさよならを告げる。「やっぱり恋なんてしなければよかった…」。自己嫌悪に陥る麗子。翌朝、静夫が1通の手紙を持って、麗子の部屋にやってくる。それは、英語がわからないから麗子に訳してもらいたいという理花が書いた英文のラブレターだった。毎日の運動と食事メニュー改善の甲斐があり、正彦の糖尿は少しずつ回復。静夫からの診断結果を聞き喜ぶ2人。しかし、思いがけず光江が診察室のドアに頭をぶつけたことを不審に思った静夫は光江を診察、脳腫瘍が発覚する。突如、癌の摘出手術を宣告され、憤る正彦。「俺より先に逝ったりしたら許さない」という正彦を残し手術室に入る光江。家に戻った正彦は、ふと「押入れの戸の調子が悪いから直しておいてほしい」という光江の言葉を思い出す。見慣れない何かが押入れの中に入っている事に気づく。それはあの名器マーチン。光江が正彦の誕生日プレゼントに準備しておいたのだ。光江への想いが溢れ、ギターをかかえ泣きじゃくる正彦。その頃、同じ病院の産婦人科にマキをたずねていた孝平のもとに、かつて新婚旅行で訪れた四国の写真館でちひろが30年後の孝平に宛てて書いたという手紙をもった若者・北島(石田卓也)が現れる。そこには、ちひろの孝平への語りつくせない想いが語られていた。自分にとってかけがえのない、大切な存在にようやく気づいた孝平は、ある決意を胸に夜の街を疾走するのだった。(KINENOTE)『60歳のラブレター』は、住友信託銀行(現・三井住友信託銀行)主催で2000年より毎年行われている、長年連れ添った夫婦が口に出しては言えない互いへの感謝の言葉を1枚のハガキにつづる応募企画。2010年より、夫婦間に限定せず家族へ宛てた作品も可となった。応募作品は書籍化され、映画・舞台での脚色作品も誕生した。 2009年公開の日本映画。キャッチコピーは「語り尽くせないほどの「ありがとう」」。129分(ウィキ)脚本が、売れっ子の古沢良太なので観てみました。3つの話はいずれもハッピーエンドで頼が戻るという展開です。オムニバス形式ではなくて、3つのカップルの話が病院を接点にして同時並行するという展開です。婚期を逃した翻訳家の戸田恵子のシーンが一番よかったです。私は、上手くいっても行かなくても、一回は結婚してみたらと思っています。中村雅俊は60歳になっても走っていましたが、別れた妻の原田美枝子は頼を戻さなくてもと思ったものです。最後のショットは、ひいてしまいました。60歳で枯れるのか、また浮気の虫が騒ぎ出すのか、判断がわかれるところです。ラストに流れる澄んだ歌声に癒されます。先日部屋の整理をしていたら、愛方の手紙やプレゼントに添えられたひと言などが出てきました。まだ、彼女が若くて純情だった?頃のものです。今度は60歳の手紙と思ったら、すでに数年前に過ぎていました。まあ、女性の年齢は男性のそれの10歳マイナスですから、期待しましょう。
2024.04.20
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映画『居眠り磐音』5月17日(金)公開(主題歌入り予告) (youtube.com)ストーリー:人情に厚く、春風のように穏やかで、礼節を重んじる好青年の坂崎磐音(松坂桃李)は剣の達人ではあるが、日向ぼっこで居眠りする老猫のような剣術で、眠っているのか起きているのかわからないことから“居眠り剣法”と呼ばれていた。磐音と幼馴染の小林琴平(柄本佑)、河井慎之輔(杉野遥亮)は江戸勤番を終え、三年振りに故郷である九州・豊後関前藩に戻る。琴平の妹・舞は慎之輔に嫁ぎ、磐音も琴平と舞の妹・奈緒(芳根京子)と祝言を控えていた。ところが、磐音と奈緒の祝言の運びになったとき、舞が不貞を犯したという噂を聞いた慎之輔が、舞を斬ってしまう。それに激昂した琴平は噂を慎之輔に吹き込んだ人物と慎之輔を斬る。琴平は罰せられることとなり、磐音が琴平を討ち取るよう命じられる。琴平を討ち取った磐音は、実の兄を殺した以上、奈緒とは一緒になれないと、彼女を残して脱藩する。すべてを失い、浪人の身となった磐音は江戸の長屋で暮らすようになるが、収入源がなく家賃の支払いも滞ってしまう。見かねた大家・金兵衛(中村梅雀)の紹介で、昼は鰻屋の鰻割き、夜は両替商・今津屋の用心棒として働き始める。穏やかで優しいが剣の腕は立つ磐音は、次第に周囲の人々から頼られる存在になり、今津屋の女中で金兵衛の娘・おこん(木村文乃)からも好意を持たれるようになる。そんな折、今津屋は幕府が流通させた新貨幣をめぐる陰謀に巻き込まれ、磐音は用心棒として悪に立ち向かう……。(KINENOTE)『居眠り磐音』(いねむりいわね)は、佐伯泰英による日本の時代小説シリーズ。全51巻およびサイドストーリーの「新 居眠り磐音」シリーズ既刊5巻。 『居眠り磐音』のタイトルで映画化され[5]、2019年5月17日公開。主演は松坂桃李。監督は本木克英、脚本は藤本有紀[6]。佐伯泰英作品の初めての映画化。松坂は時代劇初主演。121分(ウィキ)前半の脱藩するまでの過程が、よく描かれていて興味深かったです。早とちり、ボタンの掛け違え、若さゆえの悲劇ですね。殺陣のシーンもよかったですが、ラストの奈緒(芳根京子)花魁道中のシーンは余計でしたし、ストーリー的にもちょっと無理がありました。MISAの主題歌は、TBSのドラマJINを思い出します。
2024.04.17
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映画『エアフォース・ワン』(1997)予告編 (youtube.com)ストーリー:ロシア政局の混乱の隙を突きカザフスタンに非合法なテロリスト政権を誕生させた超国家主義者ラデク(ユルケン・プロホノフ)は残忍な独裁者と化し、恐怖政治を断行。新生ロシアのイワン・ペトロフ大統領の協力要請の下、正義感に溢れる合衆国大統領ジェームズ・マーシャル(ハリソン・フォード)は特殊部隊を派遣し、ラテク逮捕を成功に導いていた。ロシアで開かれた祝賀レセプションで力強いスピーチを行った彼は、大統領専用機<エアフォース・ワン>に乗り込んで帰国の途に就く。今回のロシア訪問には、ファースト・レディのグレース(ウェンディ・クルーソン)と12歳の娘アリス(リーセル・マシューズ)が同行しており、カルドウェル軍事顧問(ウィリアム・H・メイシー)ら馴染みのスタッフに加えて、6人のロシアのテレビ・クルーも搭乗した。機か離陸すると、クルーたちは逮捕されたラテクの救出を企む狂信的なテロリストの正体を現した。ヴァレリー・コルシュノフ(ゲイリー・オールドマン)をリーダーとするテロリストたちは、機内に装備された武器を手に<エアフォース・ワン>を占拠。シークレット・サービスたちは大統領をパラシュート付きカプセルで脱出させようとするが、大切な家族とスタッフを危険にさらすことはできず、彼は脱出したと見せかけて密かに機内に潜伏した。大統領本人を除く全員を人質にしたコルシュノフは、ホワイトハウスにラテクの釈放を要求。実現するまで、30分ごとに1人ずつ処刑すると通達してきた。機の進路をカザフスタンに変更させたコルシュノフは、脅迫どおりドハーティ国家安全保障会会議顧問(トム・エヴェレット)を、続いてミッチェル副報道官を射殺した。主が不在のホワイトハウス司令室では、副大統領キャサリン・ベネット(グレン・クローズ)の指揮の下、ディーン国防長官(ディーン・ストックウェル)ら政府首脳による緊急会議が開かれた。ラデクがカザフスタンに戻ればペトロフ政権は崩壊し、そして恐るべき核テロリスト国家の照準は米国に向けられることは明らかだった。ベネットは、首脳陣の政治的思惑か渦巻く中、必死に解決策を模索する。その頃、ヴェトナム戦争で優れた兵士だったマーシャル大統領は反撃を開始し、2人のテロリストを倒し、燃料の一部を投棄した。燃料補給のために機体が高度を下げれば、人質をパラシュートで脱出させる作戦たった。マーシャルは何とかホワイトハウスとの電話連絡に成功、彼の生命を確認したホワイトハウスはにわかに活気つく。たが、コルシュノフはマーシャルの存在に気づいてしまい、アリスの頭に銃口を突きつけ、マーシャルを燻り出した。しかし、国家の正義と家族への愛をバネに、彼は不屈の闘志でテロリストに立ち向かう。機は一度はカザフタンに着陸するかに見えたが、マーシャルとベネットが派遣した特殊部隊の連携で緊急離陸。「俺の飛行機から出ていけ!」とコルシュコフを粉砕したマーシャルは、失速寸前の機から救出機に飛び移り、脱出に成功した。(KINENOTE)『エアフォース・ワン』(Air Force One)は、1997年に公開されたアメリカの映画である。ハリソン・フォードが大統領を演ずる。アカデミー賞の編集賞、音響賞にノミネートされた。テロリストにハイジャックされたアメリカ合衆国大統領専用機「エアフォースワン」(VC-25)を取り戻すため、大統領が脱出ポッドで脱出したようにみせかけて機内に潜伏し、テロリストたちと攻防を繰り広げるアクション映画。(ウィキ)何ともご都合主義な展開で、米国、いやスーパーマンの大統領本位の筋書きで、それを我慢できれば楽しめる映画です。物語の展開も早く、124分という長さも気になりません。1997年の作品ですが、ソ連崩壊によって冷戦が終わり、まだ9・11の前という、比較的穏やかな時代なので、こんな作品も生まれたのでしょう。この頃は、ロシアも「同盟国」、というより米国のいうことを聞く国でした。「経済制裁や外交という言葉の裏で虐殺が続いてきた」という米国大統領の演説に、ウクライナ戦争中の現在、ドキッとします。この映画は不正義には断固武力で対処するとの姿勢ですが、そううまく行かないところが現実です。ストーリーで引っ掛かるのは、テロリストの手引きをするシークレットサービスのリーダーの動機です。最後はテロリストと連携するわけでもなくて、墜落する機内に取り残されてしまうのですが、物語が破綻しています。まあ、それを気づかせない展開で、事実いっしょに見ていた愛方はまったく気にしていないようでした。25年間堅持してきた「テロリストとは交渉しない」という原則を、家族のために反故にする大統領もどうかと思います。ホワイトハウスの対応も、閣僚の多数決で大統領を罷免してことにあたるというのが、この場合の正解でしょう。それにしても、独裁者を拉致して収監する冒頭のシーンを見て、もし可能ならまずやってほしいのは誰?と考えてしまいした。北朝鮮やミャンマーの独裁者?やっぱりガザで大量虐殺を行っているイスラエルのネタニヤフあたりでしょうか。半年で3万人も殺害です。その前に正義を振りかざすなら、米国は国際司法裁判所に参加してほしいです。
2024.04.13
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ストーリー:2054年のワシントンD.C.。殺人予知システムのおかげで、殺人事件の存在しない社会。ところが犯罪予防局の犯罪取締チームの主任、ジョン・アンダートン(トム・クルーズ)が、システムにより殺人事件の第一容疑者に挙げられてしまう。彼は自分が事件を起こすことになる36時間後までに、真実を暴かねばならなくなった。ライバルのダニー・ウィットワー(コリン・ファレル)率いる元部下たちの執拗な追跡をかわしながら、都市の探知網をかいくぐって逃げるアンダートン。そして彼は、殺人予知システムを考案したアイリス・ハイネマン博士(ロイス・スミス)から、冤罪のケースがあり得ることを知る。プリコグと呼ばれる予知能力者3人のビジョンが一致しない時、少数報告(マイノリティ・リポート)の方は棄却されてしまうのだ。アンダートンはプリコグの女性アガサ(サマンサ・モートン)を連れ出し、彼女のオリジナル・リポートをダウンロードしようとする。やがて真の犯人が、アンダートンの父親的存在である局長ラマー・バージェス(マックス・フォン・シドー)だと判明。彼は自殺し、犯罪予防システムは廃止。アンダートンは、別居していた妻ララ(キャサリン・モリス)とヨリを戻し、妊娠した彼女と新しい生活を始めるのだった。(KINENOTE)『マイノリティ・リポート』(Minority Report)は、2002年に公開されたアメリカのSF映画。ドリームワークスによって製作され、20世紀フォックス映画によって配給された。フィリップ・K・ディックの短編小説『マイノリティ・リポート』(旧題:『少数報告』)を原作としてスティーヴン・スピルバーグが監督を務め、トム・クルーズが主演した。145分本作は銀残しという手法を用いて現像処理され、コントラストが強く、彩度の低い映像となっている。監督のスピルバーグは「汚い映像にすることでリアリティを出したい」と意図してこれを用いている。場面によってはモノクロの映像のように見える特殊な表現であるため、当初トム・クルーズは反対の異を唱えていた。 本作は「ジョン・アシュクロフト司法長官により、9.11以降アメリカ政府が国民の情報を管理しようとしていること」に対しての政治的問いかけを含んでおり、政府が未来を予測できるようになればどうなるかを描いている[5]。2度目の鑑賞ですが、前回より楽しめました。近未来社会でも、支配力や権力欲は変らないものですね。殺傷兵器である銃が廃絶されたらと思います。参考:
2024.04.10
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ストーリー:1957年、ネバダ州。ソ連軍の女諜報部員スパルコ(ケイト・ブランシェット)に拉致されて、米軍基地の襲撃にひと役かわされたインディ・ジョーンズ(ハリソン・フォード)と相棒マック(レイ・ウィンストン)は、なんとか逃走することに成功する。スパルコが狙っているのは、宇宙の神秘の力を解き明かす秘宝として言い伝えられているクリスタル・スカルだった。考古学者として大学に戻るインディだが、FBIからソ連のスパイの容疑をかけられて職を解かれてしまう。やむなくイギリスへ向かおうとした彼が知り合ったのは、反抗的な若者のマット(シャイア・ラブーフ)だった。彼は、母とインディの友人であるオクスリー教授(ジョン・ハート)を救うため、インディを探していたのだ。インディとマットは南米でクリスタル・スカルを発見するが、スパルコ側に寝返ったマックによって捕えられ、アマゾンの奥地へと移送される。そこでインディが対面したのは、結婚式を迎える寸前で破局した元・恋人のマリオン(カレン・アレン)であり、マットが自分の息子であることを知り衝撃を受ける。錯乱したオクスリー教授とインディたちは、クリスタル・スカルを守るためにスパルコと攻防戦を繰り広げながら、伝説の黄金都市を探し続ける。ようやくそれを発見したとき、またしてもマックの裏切りによってスパルコも追いかけてきた。王国には、失われた歴史上の遺跡の数々が眠っていた。そして、13体のクリスタルたち。彼らは次元を超越した生命体だった。その最後のひとつにクリスタル・スカルが接続されたとき、宇宙と宇宙の裂け目が開き、そこにスパルコは吸収されていった。やがて、遺跡は跡形もなく消えた。インディとマリオンは、正式な結婚式を挙げる。それを見守るマット。こうして、インディJr3世はマットへと継承された。(KINENOTE)『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』(Indiana Jones and the Kingdom of the Crystal Skull)は、2008年のアメリカ合衆国の映画。製作総指揮のジョージ・ルーカスによる原案を基に、スティーヴン・スピルバーグが監督を務めた。出演はハリソン・フォードなど。冷戦時代である1957年[注釈 1]を舞台に、考古学者のインディアナ・ジョーンズがクリスタル・スカルを巡りソビエト連邦と争奪戦を繰り広げるアクション・アドベンチャー作品で「インディ・ジョーンズ」シリーズの第4作である。前作『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』から19年ぶりに公開された作品で、それまでのシリーズから主要なスタッフが続投し製作。評価は否定的な声も挙がるなどまちまちであったが、最終興行収入は全世界で7億8千万ドルとシリーズ最高の興行収入を記録した[2]。 2000年、フォード、ルーカス、スピルバーグ、製作のフランク・マーシャル、その妻のキャスリーン・ケネディは、アメリカン・フィルム・インスティテュートのイベントで再会。「再びインディ・ジョーンズの映画を作る経験を楽しみたい」と新作を作ることを決めた。また、スピルバーグはこの頃『A.I.』や『マイノリティ・リポート』、『ミュンヘン』など比較的暗い作風の映画を監督することが決まっており、息抜きの意味もこめて明るい作風であるこのシリーズの再開に賛成したという[20]。(ウィキ)前作から19年ぶりの制作で、時代設定も戦後で悪役はナチスからソ連です。赤狩りの影響も少しだけ描かれています。いろいろな作品のオーマージュが描かれていて、あそび心を感じさせます。ただ4作目ともなると、もうこの手の冒険活劇はこれでいいかなと思ってしまいました。生き生きと活力にあふれた主人公も、初老の老人です。それにしても、なぜケイト・ブランシェットがこんな映画に出ているのでしょう。
2024.04.07
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ストーリー:1912年、アメリカのユタ州。中世史教授を父に持つ13歳の少年インディ・ジョーンズ(リヴァー・フェニックス)は、砂漠の岩山の下の洞窟で、3人の悪党が宝の十字架を盗もうとしているのを目撃し、それを奪い逃亡するが、結局悪党一味に丸め込まれてしまい、彼の知恵と勇気をほめる悪党の1人からカウボーイ・ハットを受け取るのだった……。それから26年後の38年、ニューヨーク大学の考古学教授で冒険好きのインディ(ハリソン・フォード)はある日、富豪ウォルター・ドノヴァン(ジュリアン・グローヴァー)のペントハウスに連れてゆかれ、責任者の失踪によって頓挫している、磔にされたキリストの血を受けた聖杯の発見を依頼される。はじめ渋るインディは、行方不明になったのが父ヘンリー(ショーン・コネリー)であることを知り、それを引き受けた。ところが友人で父の旧友の考古学博物館長マーカス・ブロディ(デンホルム・エリオット)と共に父の家に向かったインディは、家が何者かによって荒らされている事に、その理由は父から送られてきた聖杯探索の調査記録であることを直感する。インディとマーカスは、ヴェニスで父の同僚シュナイダー博士(アリソン・ドゥーディ)と合流し、古い教会を改装した図書館を訪問、父の聖杯日誌のおかげで地下墓地を発見し、聖杯のありかの手がかりをつかんだ。そしてインディは、悪者の手から聖杯を守るべく活動してきた<十字剣兄弟団>のカジムから、父がオーストリアとドイツの国境にあるブルンワルト城に閉じこめられていることを聞いた。シュナイダーと共に城に向かったインディは、ナチも聖杯を探していることを知り、幽閉されていた父との再会もつかの間、シュナイダーの裏切りによってインディ親子は残忍なフォーゲル大佐(マイケル・バーン)の捕虜にされ、聖杯日誌も奪われてしまう。何とか城から脱出したインディとヘンリーは、さまざまなトラブルの末、最後にはフォーゲル大佐との一騎打ちとなり、命からがら勝利を収めるが、聖杯が隠されている<太陽の神殿>に向かい、ウォルターやシュナイダーを始めとするナチの探検隊に捕まってしまう。インディは、ウォルターによって腹部を撃たれたヘンリーを助けるために、3つの難関を乗り越え、聖杯を手にするが、その瞬間神殿が崩れ始め、聖杯獲得に色気をみせたシュナイダーは、聖杯と共に神殿の底に沈んでいった。結局聖杯を手にすることはできなかったが、インディとヘンリーは改めて親子の愛情を確認しあうのだった。(KINENOTE)『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(Indiana Jones and the Last Crusade)は、1989年に公開されたアメリカ合衆国の映画。製作総指揮のジョージ・ルーカスによる原案を基に、スティーヴン・スピルバーグが監督を務めた。出演はハリソン・フォード、ショーン・コネリー、アリソン・ドゥーディ、ジュリアン・グローヴァー、リヴァー・フェニックスなど。考古学者のインディアナ・ジョーンズが父親と共に、ナチス・ドイツ軍との争奪戦を繰り広げながら聖杯を探すアクション・アドベンチャー作品であると共に、少年時代のインディアナも登場しそのルーツが明かされる。「インディ・ジョーンズ」シリーズの第3作である。127分映画のオープニングをどうするか悩んだ際、ルーカスはインディの少年時代をプロローグとして描くというアイデアを思いつく。ボアムも、インディのキャラクターを深く掘り、観客に現在のインディ・ジョーンズ像がどのように誕生したかを見せたいと考えていたことからこれに賛成した。スピルバーグは当初「子供が登場する映画を作りたくない」とこれに反対したが、最後はルーカスの説得により同意した[16]。本作は、比較的ロケ撮影が多い。 主要撮影は、1988年5月16日にスペインのタベルナス砂漠(英語版)で始まった[13]。ベニスでの撮影は1日で済ましており、午前中に観光客を制限し行われた。撮影監督のダグラス・スローカムによると、撮影する建物に設置されたテレビ放送を受信するアンテナが見えないようカメラを配置することに苦労したという[13]。図書館の外観には、サン=バルナバ教会(英語版)が使われた。ブルンヴァルト城の外観は、西ドイツ(当時)のビュレスハイム城(ドイツ語版)で撮影された。なお、映画では城の一部をマットペイントで拡張している。城の内部は、イギリスのエルストリー・スタジオ(英語版)で行われた。聖杯のある神殿は、ヨルダンのペトラ遺跡にあるエル・カズネを使用し撮影された。3日をかけて行った撮影はヨルダン政府が全面協力しており、フセイン国王とヌール王妃が子どもを連れて毎日見学に訪れたという。スピルバーグは後に「ヨルダンでの協力は素晴らしかった」「彼らは私たちに国を開放し、私たちをとても歓迎してくれました」と振り返っている[25]。ロケ撮影が行われたペトラは、公開後に世界的に著名な観光名所となり、公開前は年間数千人だった観光客が、公開後は年間約100万人にのぼるにまで成長した[35]。少年時代のインディの場面は、メサ・ヴェルデ国立公園で撮影する予定だったが、居住する先住民が宗教的な理由から反対を受け、最終的にユタ州のアーチーズ国立公園で撮影された。また、撮影には登場しないフォードも立ち会いフェニックスの役作りを助けており、フェニックスは「映画の冒頭、ほんの10分の場面だが、撮影はとても楽しかった」と語っている[25]。プロローグでの蒸気船の戦いは、エルストリー・スタジオに構築された(18x12メートル)のセットで3日をかけて撮影され、それぞれ300インペリアルガロン(1363リットル)の水を使用した[25]。インディ親子によるバイクのチェイスシーンは、スピルバーグが撮影フィルムを編集中に「思ったほどアクションが少ない」と感じたことから、急遽追加撮影されたものである。撮影は、タマルパイス山とルーカスフィルム本社の敷地内にあるスカイウォーカーランチで行われた[26]。(ウィキ)前作に比べると暗さがなくて、生き生きとした冒険活劇でした。冒頭の少年時代の鉄道でのチェイスシーンが一番よかったです。ショーン・コネリーは期待したほどではなくて、それなりにでした。ペトラに100万人というのはすごいですが、映画に影響されて訪問というのはありますね。私の場合は、「旅情」を見てベネチア、「チップス先生さようなら」でポンペイ、・・・です。
2024.04.06
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ストーリー:春三月。残雪の越後を旅する車寅次郎は、集団就職のために別れを惜しむ少年とその家族を見て故郷を想い出してしまった。一方、柴又には、寅の生みの親菊が三十年振りで「とら屋」を訪れた。しばらくして菊は帰ったが、そこに寅が帰って来た。そして、さくらと一緒に菊を訪ね、再会した嬉びも束の間、寅の結婚話が元で喧嘩になってしまった。菊は、そんな寅に終始気を使うさくらに感謝しつつ京都へ帰った。寅もこのことが原因でまた柴又を去った。その旅で、寅は、津軽から紡績工場へ出かせぎに来ている、頭は弱いが純真で可愛い少女花子と知りあった。彼女は工場になじめず、故郷に帰りたいと寅に相談した。寅はなけなしの金をはたき、柴又を訪ねるよう住所を教えた。数日後、柴又に戻った寅は、津軽に帰らずおいちゃんの店で働いている花子を見てびっくりした。ある日、突然花子が寅さんのお嫁になりたいと言う。その気になった寅は、早速さくらに相談した。さくらは、おにいちゃんが幸せになれるならと賛成したが、おいちゃん、おばちゃんは、生れてくる子供のことを考えて猛反対である。そんな時、花子の身許引受人と名乗る福田先生が、突然紡績工場から行方不明になった花子を引き取りに来た。寅の不在中、花子は福田先生と共に津軽へ帰っていった。それから数日後、失意の寅は置手紙を残して柴又から消えた。さくらは、直感で津軽にとんだ。さくらの勘は当り、バスの中で偶然に寅と出会った。二人の目には涙が浮んでいた。窓の外には、まだうっすらと雪を残す津軽山脈の向こうに真赤な夕陽が沈もうとしていた。(KINENOTE)『男はつらいよ 奮闘篇』は、1971年4月28日に公開された日本映画。『男はつらいよ』シリーズの7作目。同時上映は『花も実もある為五郎』。本作で初めて脚本に参加した朝間義隆は、以降第48作までの全作品の脚本を共同執筆することになる。92分(ウィキ)おいちゃん役は森川信で、なつかしかったです。実母役のミヤコ蝶々も芸達者でした。今回のマドンナは知的障害のある少女役の榊原るみでした。少し足りないところと津軽弁で熱演していました。久しぶりに津軽弁を聞きましたが、お手上げです。学生の頃、京都から実家に帰る途中の急行「日本海」で秋田弁なら何とかわかりまでしたが、津軽弁のほうは理解不能でした。冒頭の集団就職シーンは、新潟の越後広瀬駅(只見線)でのロケでした。1971年の大阪万博後の作品ですがまだ貧しい所もありました。その頃私のクラスで、中卒で就職したのはひとりだったと思います。高校以外では、職業訓練校(今は短大ですが)という進路選択もありました。就職先は市内の企業?もちろん集団就職とは無縁でした。参考:寅さん語録 「灯台の根元は暗いよ」「緑(みどり)は異なるもの、味なもの」。榊原 るみ(さかきばら るみ、1951年3月5日 - )は、日本の女優。東京都渋谷区広尾出身。東映マネージメント所属(業務提携)。幼児のころから雑誌モデル・女優業を行っており、舞台、テレビなどで幅広く活躍した。1970年代前半の映画『男はつらいよ 奮闘篇』、テレビドラマ『帰ってきたウルトラマン』のヒロイン役や『気になる嫁さん』などへの出演で人気を博す。父は芝浦工業大学名誉教授の榊原秋策。娘の松下恵も女優として活動している。生まれてから1999年に19年間連れ添った前夫と離婚するまで、広尾の実家住まいだった。映画監督のすずきじゅんいちと1年半にわたる同棲生活を送った末、2001年1月16日に入籍再婚する。すずきが監督した映画『ひとりね』では、過去の清純派のイメージを覆す、過激なシーンにも挑戦した。夫のすずきと共にロサンゼルスに移住し、夫の仕事である映画プロデュースを手伝っていた。2010年9月29日、ラスベガス近くで夫妻の乗った自動車が自損事故を起こし、助手席に乗っていた彼女も指の複雑骨折など重傷を負った。運転していたすずきは、脊髄の一部などを骨折。意識不明のままヘリコプターで病院に搬送されたが、命に別条はなく、榊原も1日で退院した。上記の事故がきっかけで[1]11年間のアメリカ生活に終止符を打ち、帰国。現在は仕事に復帰している。(ウィキ)
2024.04.05
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ストーリー:天才物理学者・湯川学(福山雅治)の元に、警視庁捜査一課の刑事・内海薫(柴咲コウ)が相談をしに訪れてくる。行方不明になっていた女子学生が数年後に遺体となって発見され、容疑者として浮上したのは、湯川の親友でもある先輩刑事・草薙俊平(北村一輝)が以前担当した少女殺害事件で完全黙秘を貫き、証拠不十分で無罪となった蓮沼寛一(村上淳)だった。今回も蓮沼は完全黙秘をして証拠不十分で釈放され、女子学生の住んでいた町に堂々と戻ってきた。町全体が憎悪の空気に覆われる中、夏祭りのパレード当日、蓮沼は殺害された。女子学生の家族、仲間、恋人ら全員に動機があるものの、全員にアリバイがあり、そして全員が沈黙した……。(KINENOTE)『沈黙のパレード』(ちんもくのパレード)は、東野圭吾の推理小説である。2018年10月10日に文藝春秋から単行本が刊行された。ガリレオシリーズ第9弾にして、6年ぶりの単行本となる長編小説である[1]。 この作品の最大の読みどころを「被害者の女性を大切に想っていたはずの人々がどのように犯罪に関わっていくのか」という展開だと指摘した。東野はインタビューで「被害者を愛した善良の人々が力を合わせたら、湯川でさえも手こずるような謎が生まれるのではと考えた」と語っている[2]。2022年9月16日に映画版が公開された。130分ガリレオシリーズでしたが、今回は物理学者としての面が希薄でした。それなりに面白かったですが、二転三転という展開ではなくてやや冗長でした。北村一輝が椎名桔平に、殺された村上淳の犯行を立証することを約束するからという言動にも違和感です。でもやっぱり気になるのは、壇れいが女子高生の並木佐織を殺すシーンです。冒頭の遺体の頭蓋骨陥没の割には出血がなく、なんでこれで殺害と思ったものです。彼女の勘違いが周囲の人々を不幸にした物語で、後味が悪かったです。愛方は、オリエント殺人事件のように全員が犯人と思ったそうですが、今回程度の展開では、商店街の人たちにそこまでの憎しみは起きないでしょう。PS:翌日テレビ東京の小泉孝太郎主演の「黙秘犯」をBSテレ東で見ました。犯人?役の市原隼人が素晴らしく、こちらの方が楽しめました。2回目ですが、かなり忘れていました。今回は湯川の相手役=真犯人の描かれ方が、希薄なように感じました。
2024.04.02
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ストーリー:南米ペルーのジャングルからやって来たパディントン。今ではウィンザーガーデンでブラウン一家と幸せに暮らしている。彼はどこへ行っても“元気”と“マーマレード”を振りまき、周囲から愛される人気者だった。そんななか、大好きなルーシーおばさんの100歳の誕生日プレゼントを探していたパディントンは、グル―バーさんの骨董品屋でユニークな飛び出す絵本を見つける。絵本代を稼ごうと様々な雑用仕事を始めるパディントンだったが、ある日、その絵本が何者かに盗まれてしまう。不思議な出来事が街で起こり始めるなか、パディントンはブラウン一家とともに事件を追いかける……。(KINENOTE)『パディントン2』(Paddington 2)は、2017年制作のイギリス・フランスのファンタジー映画。マイケル・ボンド原作の児童文学『くまのパディントン』を基にした映画『パディントン』の続編。以前観たパディントン1がそれほどでもなかったので、あまり見る気がしませんでしたが、とても良い出来でした。飛び出す絵本のシーンが、不思議な感じでとてもよかったです。最後のアクションシーンも迫力がありました。今回の悪役は、ヒュー・グラント、第三作目は?ファミリー向けの安心して観れる作品です。
2024.03.31
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ストーリー:11世紀の宗。科挙の試験に落ちた趙行徳は、街で西夏の女を助けた礼として、西夏への通行証をもらった。西夏の文字に興味をもった趙は西域へと旅立つ。灼熱の砂漠を尉遅光の隊商と共に歩いていたが、途中で西夏軍漢人部隊の兵士狩りに会い、無理矢理入れられてしまう。隊長の朱王礼は文字の読める趙を重用した。漢人部隊がウイグルを攻略した際、趙は美しい王女ツルピアと知り合い恋におちた。二人は脱走を試みるが失敗、趙は西夏王・李の命令で都へ文字の研究に行くことになった。二年後、趙が戻ると、李はツルピアと政略結婚しようとしていた。趙も朱にもどうすることもできなかったが、婚礼の当日ツルピアは自殺した。ツルピアに思いを寄せていた朱の怒りは爆発し、敦煌府太守・曹を味方につけて李に謀反を起こした。敦煌城内で死闘を繰りひろげる漢人部隊と西夏軍本部隊。初めは漢人部隊が優勢だったが敦煌城に火矢が放たれ、朱側は火に包まれた。戦うことより文化遺産を戦火から守ることに使命を見出していた趙は、教典や書物、美術品などを城内から莫高窟へ運び込んだ。それから900年が経ち、莫高窟からこれら文化遺産が発掘され、敦煌は再び世界の注目を集めたのだった。(KINENOTE)『敦煌』(とんこう、中: Dun-Huang;英: The Silk Road)は、1988年の日本・中国合作映画。1989年の第12回日本アカデミー賞で複数受賞をした(⇒ #受賞)。原作は井上靖の小説「敦煌」。143分(ウィキ)製作費45億円という壮大なスケールの日中合作映画ですが、ドラマの部分が弱いので感情移入ができず大味な感じです。文化遺産の保護が主眼とすれば、主演は佐藤浩市かと思いますが、西田敏行でした。ウィキには製作過程が載っていました。「企画当初は20億円と見られていた予算は、10年間の時を経て、物価の上昇などで35億円にまでハネ上がっていた[6]。なお中国当局によって、製作費は中間搾取され、撮影機材は日中友好の名の下に、全て接収されたという[10]。」というのは、ひどいですね。数日前テレビで現代の敦煌の様子を見ましたが、往時の面影はなく近代的な都市に生まれ変わっていました。香港に勤務していた時に夏休みを利用して日系企業有志の敦煌ツアーが毎年開催されていました。当時は、遠くて訪問しにくいところでもありました。『敦煌』劇場予告編 - YouTube67分のビデオです。敦煌 Tonko 1988 Extra Director and actors interview 佐藤純彌 佐藤浩市 西田敏行 渡瀬恆彥 中川安奈 柄本明 田村高廣 (youtube.com)
2024.03.27
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ストーリー:“フーテンの寅”こと車寅次郎が、初夏を迎えた東京は葛飾柴又に久しぶりに帰って来た。ところが、団子屋「とらや」を経営しているおじ夫婦は寅が急に帰って来たのでびっくり仰天。と言うのも寅の部屋を貸間にしようと「貸間あり」の札を出していたからである。案の定、札を見た寅は捨てゼリフを残して出て行ってしまった。さて、寅の下宿探しが始まった。ところが、手前勝手な条件ばかり言う寅を不動産屋は相手にしない。やっと三軒目の不動産屋に案内されたのがなんと「とらや」だった。その上、不動産屋は手数料を要求する。払う気のない寅と居直る不動産屋との間が険悪になりそうになったが、結局、博が仲に入り手数料を払った。今度はそのことで、寅はおじ夫婦とも喧嘩になり、果ては建築中のさくら夫婦の家にケチをつけさくらを泣かせてしまった。居づらくなった寅は、また旅に出ることにした。最初に行った金沢で寅は、久し振りに弟分登と再会した。その夜、飲めや唄えのドンチャン騒ぎで、数年振りの再会を喜び合うのだった。翌日、登と別れた寅は、三人の娘たちと知り合った。歌子、マリ、みどりというこの娘たちを寅は何故か気に入り、商売そっちのけで御馳走したり、土産を買ってやったり、小遣いをやったりする始末。やがて、三人と別れた後、急に寂しくなった寅は柴又に帰ることにした。すっかり夏らしくなった柴又・帝釈天。寅は境内でみどりとマリに再会した。二人は金沢へ旅したときの楽しさが忘れられず、もう一度寅に会いに来たのだった。翌日には、みどりに聞いた歌子がひとりで寅を訪ねて来て想い出話に花を咲かせる。それ以来、たびたび歌子は遊びに来るようになった。そして寅は歌子に熱を上げ始めた。ところが歌子は、小説家の父と二人暮しで、好きな青年との結婚と、父との板挟みで悩んでいたのである。歌子はこの悩みをさくらに打ち明けた。「すべて貴方の気持次第ね」というさくらに力ずけられた歌子はその青年と一緒に田舎で暮すことを決心した。このことを歌子からじかに聞かされた寅は、翌日、引き止めるさくらに「ほら見なよ、あの雲が誘うのよ」と言い残し、また旅立ってしまった。ひと月後、結婚して幸福な生活を送っている歌子から「とらや」に届いていた手紙には、留守中、寅が訪ねて来たらしいがもう一度寅に会いたいと記してあった。(KINENOTE) 『男はつらいよ 柴又慕情』は、1972年8月5日に公開された日本映画。マドンナ役に吉永小百合を迎えた『男はつらいよ』シリーズ第9作。テレビシリーズ版からおいちゃん役を演じた森川信が死去したことに伴い、松村達雄が2代目おいちゃん役に抜擢された。(ウィキ)何で柴又慕情?と思ったら、前半は寅さんが金沢や福井を旅する話です。北陸新幹線福井延伸に合わせた選定ですね。永平寺や東尋坊などが映されていました。吉永小百合(45年生まれ)27歳、渥美清(28年生まれ)44歳の時の作品です。吉永は、74年の寅次郎恋やつれにも出演しています。父ひとり娘一人の暮らしで、娘が結婚に悩むと言えば小津安二郎映画のパターンです。父親役は、宮口精二。小説家でちょっと気難しそうな役柄でした。娘が嫁ぐのはさびしい、昭和ですね。
2024.03.23
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本作はルーカスの強い意向で、前作に比べ暗い作風にをとることとなった。ルーカスは後に「スター・ウォーズ三部作で『帝国の逆襲』が暗い第二幕だったように、それは暗い映画でなければならなかった」という考えがあったこと[17]や、離婚などで「気分が良くなかった」ことが原因であったことを明かしている[18]。 ルーカスは、この映画を本当に恐ろしいものにしようと児童奴隷制や黒魔術、人身御供などに専念するカルト宗教やタギーのアイデアを思いついた。スピルバーグは後に「ルーカスがアイデアを持ってきた。私の仕事と課題は、この物語の暗さとコメディのバランスを取ることだと思った」と語っている[21]。スピルバーグ自身は、後に「シリーズの中で最悪の出来」と評している[35]。スピルバーグは、キャリアの中でシリーズの続編を監督するのが初挑戦であったことから、すべての観客を喜ばせようと強く意識するあまり自分にとって魅力的な映画を作ることを忘れていたといい、1989年に「ダークすぎます。地下のシーンが多すぎる上、怖すぎるのです」「超常現象のない『ポルターガイスト』のようだと思いました。『魔宮の伝説』に対する思い入れなど、これっぽちもありません」と述べている。ただし、監督として製作に参加したこと自体は、妻となるケイト・キャプショーと出会えたことから一切後悔していないという[16]。ルーカスは本作について「トーンが少し暗いだけで、私はこの映画が大好きです」と述べている[29]。 ウィキからですが、スピルバーグが「シリーズの中で最悪の出来」と言っているのが少し救われます。そのほかにもこんな記述が載っています。論争・影響作品中での暴力シーンや残虐な場面が多く、モーション・ピクチャー・アソシエーションからR指定にするよう求められたが、スピルバーグは「これは子供向けに作ったんだ」とその要求を拒否。その結果、今作がアメリカにおけるPG-13制定のきっかけになった[注釈 2][37]。本作でのインド文化に関しての描写は論争を引き起こし、インドでは否定的なステレオタイプが描かれているという理由で上映禁止となった[37]。特にインド料理のシーンに登場した冷えたサルの脳みそなどの料理は「実際のインド料理ではない」と激しく批判された[38]。また、作家のシャシ・タルールは、この映画がインドに対する偏見を助長しており、「ある村の貧困が、偉大な白人の英雄の救いで解決した」というストーリーになっていることも批判している[39]。なお、チャター・ラルを演じたロシャン・セスは、料理に関する批判に関して「スティーブンはその場面を一種のジョークとして撮影した」「だが、そのジョークは微妙であまり通じなかった」と語った[40]。アムリッシュ・プリは、これらの論争自体が「ばかげている」とし、「丘を滑り降りてインドに到達することが現実にありますか?ファンタジーはファンタジーです」と自伝の中で述べている[41]。参考:淀川長治に関してウィキから 「どの映画にも見所はある」が持論で、どんなB級映画でも決して悪口を言わず、「このセリフ回しが素晴らしい」「女性の脚の組み方がいい」など、一般人は見過ごしそうな箇所を見つけては褒めていた[注釈 10]。小田和正は自著『Time Can't Wait』で淀川のこのような姿勢を高く評価している。俳優の児玉清は『土曜洋画劇場』の解説を務めた際、ある放送で取り上げた四流映画を正直に酷評したところ、監修の淀川から「解説者がひどい映画と言ってしまってはいけない。それは見る人に対しても失礼だし、作った人に対しても失礼だ。必ず褒めなさい。よいところが必ずどこかあるはずだから、必ず褒めて視聴者に勧めなさい。だから撮り直しなさい」といわれ撮り直すことになった。児玉は、淀川は「映画を必ず褒める」ことで「心の中でけじめをつけていらした」と著書に書いている[14]。注釈10: ただし、実際には良質な作品の場合には映画のあらすじや制作秘話についてを中心に言及する一方で、つまらない映画の解説の時は映画そのものとは無関係な部分に言及するなど、その映画が駄目なものか良質のものであるかを暗に示していた。また、日曜洋画劇場では当初世界各国の名作映画をジャンル問わず積極的に取り上げていたが、淀川の晩年は権利や放送費高騰の影響で超大作の放送が困難になった事や、「視聴率が容易に取れるから」という理由などによりアクション映画が多くなっており、淀川が繰り返し語っていた「良い映画」を同番組で解説する機会は減少していた。 『日曜洋画劇場』での物腰が柔らかい姿とは対照的に、こと評論においては非常に舌鋒鋭く映画に踏み込んでいた。何度か対談したことがあるビートたけしによると、「こうすれば売れるだろう」といういい加減な計算の作品をすぐに見抜き、酷評していたと言う。
2024.03.20
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ストーリー:1935年、上海。ナイトクラブ「オビ・ワン」では歌姫ウィリースコット(ケイト・キャプショー)が「エニシング・ゴーズ」を歌っていた。あるテーブルでは、考古学者で冒険家のインディ(ハリソン・フォード)が上海の犯罪王ラオ・チェー(ロイ・チャオ)と取引をしていた。インディがラオの先祖であるヌルハチ皇帝の位牌を入手し、ダイヤと交換したのだ。だがラオは彼に毒を飲ませ、ダイヤを取り返そうとする。解毒剤とダイヤをめぐっての乱闘、銃撃騒動の末、インディはウィリーと一緒に逃げ出し、中国人少年ショート・ラウンドことショーティ(キー・ホイ・クァン)を連れて上海空港へ急いだ。3人を乗せた飛行機は、実はラオのもので、操縦士2人は、インディらが眠ってるうちにバラシュートで脱出してしまう。危ういところで気がついたインディらは救命ボートに乗り込み、飛行機から脱出。ボートは雪の斜面をくだって川へ。3人はインドに不時着したのだ。それを1人の老人が見ていて、メイアブール村に案内する。3人が神からつかわされた伝説の救い主だと信じる村人。村の畑は荒れ果てている。長老の話ではパンコット宮殿から来た者たちに、村の聖なる石を奪われ、子供たちを連れ去られたという。インディはその石サンカラ・ストーンを取り戻してくれと頼まれた。翌朝、三人は象に乗り、パンコット宮殿へ向かう。森を抜け、壮大な宮殿に入った3人は、宰相チャター・ラル(ロシャン・セス)の出迎えを受ける。インディは幼いマハラジャの支配するこの宮殿に、邪悪な空気が満ちているのを感じる。宮殿で会ったイギリス軍のブランバート大佐は、「一世紀前、この地方を恐怖に陥れたカーリ教集団は絶滅したはずだ」と言う。その夜、寝室にもどったインディを殺し屋が襲うが、逆にやっつけてしまう。壁の裏に秘密の通路を発見して、インディらは中へ入る。通路には無数の虫が蠢き、あやうく串刺しにされそうになったりした。やがて、3人はカーリ神の宮殿を見つけた。司祭モラ・ラム(アムリッシュ・プリ)は、生け贄をカーリ神に捧げ、多くの信者たちが盲目的に祈っていた。儀式が終わって皆がいなくなると、インディは祭壇に近づきそこから黄金色に輝く3つのサンカラ・ストーンを取り出し、袋に入れる。祭壇の裏では子供たちが採掘作業をやらされていた。衛兵に見つかってインディは捕われの身に。モラ・ラムは「サンカラ・ストーンは全部で5つあり、100年前にイギリス軍によって鎮圧された時、2つは埋められた。今、残る2つを子供たちに発掘させているのだ」と言う。インディはカーリの血を飲まされ、ウィリーが生け贄にされようとしても、空ろな表情をしている。ショーティは松明でインディを刺激する。正気を取りもどしたインディは反撃に出る。子供たちは逃げ出し、インディ、ウィリー、ショーティはトロッコで脱出をはかった。モラ・ラムが貯水タンクを破壊したので、奔流に襲われ、あやうく難を逃れる3人。吊り橋で、インディとモラ・ラムは対決した。モラ・ラムは川に落ち、ワニの餌食になった。インディら3人が無事にメイアプールの村に戻ると、村人は歓声をあげて出迎えてくれるのだった。(KINENOTE)『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(Indiana Jones and the Temple of Doom)は、1984年に公開されたアメリカ合衆国の映画。ジョージ・ルーカスの原案を基に、スティーヴン・スピルバーグが監督を務めた。「インディ・ジョーンズ」シリーズの2作目であり、前作『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』の前日譚でもある。暗い作風でグロテスクな描写が多い反面、アドベンチャーの要素やコメディ色が強い作品でもあり、シリーズを通して最も異質でインパクトのある作品だと評されることもある[3]。初公開後、批評は賛否両論だったが興行的には成功を収めた。(ウィキ)淀川長治も次にアップする水野晴夫も、連続活劇、アドベンチャー映画としてべた褒めです。でも、上海のシーンはともかく、その後のインドのシーンはひどいですね。ロケ撮影に関して、作中で描かれる奇妙な食文化や邪教信仰などインドやヒンドゥー教に対する偏見や人種差別に関わる内容が多かったため、当初の予定地だった北インドやアンベール城での撮影をインド政府に拒否された。このため、スリランカのキャンディでの撮影を余儀なくされ、村人役のエキストラたちもシンハラ語を話している。(ウィキ)というのも、理解できます。アジアは未開というステレオタイプに満ちた物語ですね。淀川や水野の見識を問いたくなるような「解説」でした。所詮映画なんだからと目くじらを立てるのは野暮という声もありますが、1984年の作品としては問題でしょう。インディアンの描写は、1970年代には変化しつつありました。 続きます。
2024.03.20
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ストーリー:アメリカ中西部。ブキャナン・ハイスクールを25年前に卒業したペギー・スー(キャスリン・ターナー)は、チャーリー・ボデル(ニコラス・ケイジ)と結婚して2児に恵まれたものの、夫は家業の電気屋に忙しく外に女を作って別居中である。そんなころ、同窓会が開かれることになった。会場には、キャロル(キャサリン・ヒックス)を始め懐かしい顔がいっぱいだ。ペギーにとっては一気に青春の日々に引きこまれる思いだった。その夜のハイライトとしてクイーンとキングが選ばれることになり、キングには科学者のリチャード(バリー・ミラー)、クイーンにはペギーが選ばれた。が、興奮した彼女は、その場で卒倒してしまった。気がつくと、ペギーの視野には、25年前の学校内の有様が広がった。彼女は25年も前にタイム・スリップしてしまったのだ。家に帰るとママ(バーバラ・ハリス)とパパ(ドン・マレー)、妹(ソフィア・コッポラ)がいる。TVでは“ディック・クラーク・ショー”をやっている。彼女は自分が過去に戻ってしまったことを知った。そして、失われた青春をやり直そうと考えた。学校で、彼女はまだステディのチャーリーと会う。このまま行けば、2人の破局は目に見えている。同じ轍を踏むまいと、彼女はチャーリーをさけた。一方、子供たちのことが気になり、未来へ戻らなければと焦るペギーは、リチャードにタイム・トラヴェルの可能性を打診したりした。孤独な文学青年マイケル(ケヴィン・J・オコナー)と一夜を過ごし、将来の夢について語り合ったこともある。祖父母に会いに行き、祖父たちの時間旅行の儀式で未来へもどろうとした。雷鳴がとどろくなか、彼女はチャーリーに連れ出されて納屋で抱き合う。気がつくと病院のベッドの中でチャーリーが見守っていた。心を入れ変えるよという夫、それを見て喜ぶ娘。同窓生からの励ましの花にまじって、マイケルから贈られた処女作があった。(KINENOTE)『ペギー・スーの結婚』(Peggy Sue Got Married)は、1986年のアメリカ合衆国の映画。夫との離婚を決意した中年女性が卒倒を切っ掛けに高校時代に帰り、己が人生を見つめ直してゆくさまを描くドラマ。主演を務めたキャスリーン・ターナーは、本作での演技が認められアカデミー主演女優賞にノミネートされた。(ウィキ)タイムスリップものですが、彼女が気を失っている間の出来事なので、夢ように思えてくるような作りです。コッポラ監督低迷期の作品との声もありますが、それなりのおもしろさでした。キャスリーン・ターナーは、この時30歳、ニコラス・ケイジは22歳でした。
2024.03.17
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【コロンビア・ピクチャーズ100周年!】映画『博士の異常な愛情』1963年公開 鬼才キューブリックが織りなす傑作ブラック・コメディ。〈デジタル好評配信中!ブルーレイ&DVD発売中!〉#TBT (youtube.com)ストーリー:合衆国の戦略空軍基地。リッパー将軍の副官として赴任したマンドレイク英空軍大佐(ピーター・セラーズ)は、突然「R作戦」開始の命令をうけて愕然とした。ソ連攻撃に備えた緊急かつ最高の報復作戦「R」を下令するのだ。基地は完全に封鎖され、厳戒態勢がとられた。また哨戒飛行機の全機も通信回路が遮断され、基地からの指令だけしか受けられない状態になり、50メガトンの水爆を搭載、直ちにソ連内の第1目標に機首を向けた。その直後、大佐は司令官が精神に異常をきし、敵の攻撃もないのに独断でこの処置をとったことを知ったが、手遅れだった。その頃国防省の最高作戦室では、大統領(ピーター・セラーズ)を中心に軍部首脳と政府高官が事態の処理をめぐって激論を交わしていた。議長のタージッドソン将軍(ジョージ・C・スコット)は時間の緊迫を訴え、編隊の呼戻しが不可能な以上、全力をあげソ連に先制攻撃をかける以外道のないことを説いた。しかし、大統領はソ連大使に事態を説明、撃墜を要請した。だが、1発でも水爆が落ちれば全世界は死滅する。解体は不可能なのだ。米国兵器開発局長官ストレンジラブ博士(ピーター・セラーズ)はこの存在を証明した。同じ頃、大統領の命令をうけたガーノ陸軍大佐指揮下の部隊は基地接収のため交戦中だった。やがて基地警備隊は降伏、司令官は自殺、マンドレークは呼返しの暗号を発見した。ミサイル攻撃を受け、通信機に損傷を受けた、キング・コング少佐(スリム・ピケンズ)の機だけは目標に直進していた……地球上のあらゆる場所を核爆発の閃光が彩っていった…。(KINENOTE)『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』( Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb)は、1964年の イギリスとアメリカ合衆国の合作による[2]のブラックコメディ映画。冷戦時代のソビエト連邦とアメリカ合衆国の核戦争を風刺している。ピーター・ジョージの『破滅への二時間(英語版)』(1958年)を原作に、スタンリー・キューブリックが監督を務め、ピーター・セラーズ、ジョージ・C・スコット、スターリング・ヘイドン、スリム・ピケンズらが出演する。 1998年にはアメリカン・フィルム・インスティチュートが発表したアメリカ映画のベストランキングで26位(2007年版では39位)、2000年には最も面白いアメリカ映画のリストで3位にランクインしている。1989年、アメリカ議会図書館は、「文化的、歴史的、美学的に重要」であるとして、アメリカ国立フィルム登録簿に保存する最初の25作品の一つに選ばれた[3]。 キューバ危機によって極限状態に達した冷戦の情勢を背景に、偶発的に核戦争が勃発し、人類滅亡に至るさまを描くブラックコメディ。政府や軍の上層部はほぼ全員が俗物ないし異常者として描かれる風刺劇でもある。93分(ウィキ)本当は、4役だったピーター・セラーズ何度観ても面白い作品ですが、この作品での救いは米国の大統領がまともなところでしょうか。それに引きかえ現代は、ウクライナやガザの状況を見るまでもなくおかしな人物がなったりします。ブラックコメディーが、悲劇にないかねないのが現代です。特に印象的だったのは、人類絶滅兵器と抑止力のくだりです。マフリー大統領はサデスキー大使同席の元、ソ連首相にホットラインで爆撃機の件を告げ、もしアメリカ側がB-52の呼び戻しに失敗した際は、それらを撃墜するよう依頼する。しかし、直後にホットラインを代わったサデツキー大使は、ソ連首相から、核攻撃を受けた場合、数十発のコバルト爆弾を自動で爆発させることで半減期が極めて長い放射性降下物を発生させ、地球上の全生物を絶滅させる「皆殺し装置[6](終末兵器の一種)」を実戦配備したことを告げられる。サデツキー大使から皆殺し装置のことを告げられたマフリー大統領は解体できないのかと聞くが、サデツキー大使はもし解体しようとすれば作動してしまうことを告げる。マフリー大統領になぜそれを作ったのかを聞かれ、「反対もあったが、軍拡競争や宇宙開発競争に比べれば一番安く済む」「アメリカも同種のシステムを作っていると聞いた。こちらも持たなければ困る」と言うサデツキー大使の言葉を聞いたマフリー大統領は、ストレンジラヴ博士に本当に皆殺し装置を作っているかどうかを聞く。ストレンジラヴ博士は自分も皆殺し装置の製作を検討したがこれは戦争回避には役立たないと判断したと言いつつ、皆殺し装置の構造を淡々と解説する。しかし、ストレンジラヴ博士にも解けない疑問があり、そこに至ると博士は興奮して「皆殺し兵器はその存在を公表しなければ意味をなさない。それなのにソ連はなぜ公開しなかったのか!」とサデツキー大使に迫る。サデツキー大使は「近日公表する予定だった。首相は人を驚かすのが趣味だ」と説明した。この協議が続いている間にもリッパー准将麾下のB-52は進撃を続けていた。(ウィキ)抑止力論は自民党のお家芸ですが、なぜか核兵器の存在についてはだんまりです。皆殺し兵器については、映画の冒頭で触れられますが、大量の放射性物質を振りまく施設と言えば原発でありさらにひどいのが再処理施設と言われています。100万年に1度の発生確率の事故が3度も起こった日本は、すでに映画を超えているのかもしれません。エドワード・テラー(原爆の父)、フォン・ブラウン(ミサイル開発)、レオ・シラード(コバルト爆弾)、カーチス・ルメイ(戦略爆撃)、ハーマン・カーン(ハドソン研究所)など、この映画で想起される人たちを調べてみるのも一興です。ほかにも切り裂きジャック事件のジャック・ザ・リッパー ⇒ ジャック・D・リッパー准将マルキ・ド・サド ⇒ アレクセイ・デ・サデスキーソ連大使ナチスの優生思想 ⇒ 地下壕での避難民の選別など幻のパイ投げのラストシーンも観てみたいです。本来、映画のエンディングは「最高作戦会議室で出席者がパイ投げする」というシーンになるはずだったが、諸事情でカットされた。ウォーカーによると、このシーンは「あまりにも多くのパイが投げられ、観客は誰が誰なのか判別できないほどだった」という[23]。カットされた理由として、キューブリックは1969年のインタビューで「あまりにも極端で、映画の風刺的内容に合わないため」と語っている[19]。サザーンの息子ナイルは、「パイ投げのシーンではキャスト全員が笑っていたため、映画では使用できませんでした。まるで吹雪のようにパイが投げられ、ある意味では迫り来るミサイルの比喩であり、彼らから古き良き時代を感じるでしょう。これは、キューブリックが言ったように『ホメーロスの厄災』なのです」と語っている[23]。(ウィキ)
2024.03.11
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ストーリー:フィラデルフィアの一流法律会社に務めるアンドリュー・ベケット(トム・ハンクス)は、ある日突然エイズと宣告され、ウィラー社長(ジェイソン・ロバーズ)に解雇される。不当な差別に怒ったベケットは、損害賠償と地位の保全を求めて訴訟を決意。だが、次々と弁護を断わられた彼は、以前敵同士として渡り合ったやり手の弁護士ジョー・ミラー(デンゼル・ワシントン)を訪ねる。ミラーはエイズに対して、抜きがたい恐怖を感じていた。しかし、世間の冷たい視線に対しても毅然と対処し、熱心に資料を漁るべケットの姿に、ミラーの心は動かされる。ミラーは弁護を引き受け、母のサラ(ジョアン・ウッドワード)をはじめ、ベケットの肉親たちは彼に熱い支援を約束する。解雇から7カ月後、〈自由と兄弟愛の街〉フィラデルフィアで注目の裁判が開廷した。ミラーは解雇が明らかな法律違反だと主張したが、対する会社側の主任弁護士ベリンダ(メアリー・スティーンバージェン)は、彼の弁護士としての不適格性を激しく突く。予断を許さぬ裁判の行方と並行して、ベケットの症状は次第に悪化していく。裁判を優先させて本格的治療を先に延ばそうとする彼に、恋人でライフパートナーのミゲール(アントニオ・バンデラス)は苛立つ。ベケットは恋人のため、自分のためにパーティを開く。遂にベケットは裁判中に倒れ、病院に運ばれた。ミラーは原告側の勝訴の報を、ベッドの上のベケットに告げる。数日後、大勢の人々に見守られながらベケットは静かに息を引き取り、ミラーはかけがいのない友の死を実感した。(KINENOTE)『フィラデルフィア』(Philadelphia)は、1993年のアメリカ映画。エイズとゲイにまつわる偏見を法廷で覆してゆく物語である。第66回アカデミー賞では主演男優賞をトム・ハンクスが、ブルース・スプリングスティーンの楽曲「ストリーツ・オブ・フィラデルフィア」が歌曲賞を受賞した。第44回ベルリン国際映画祭銀熊賞(男優賞)受賞。第51回ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門)および歌曲賞受賞。「ストリーツ・オブ・フィラデルフィア」は、アメリカ映画主題歌ベスト100において、68位にランクイン[2]。 作品の舞台がフィラデルフィアなのは、その名がギリシア語で「兄弟愛」を意味することと、アメリカ合衆国の最初の首都だったことに由来する。 フィラデルフィアの風景が何回か流れる中で、シティ・ホールの頭頂にフィラデルフィア市の父、ウィリアム・ペンの像を撮影したシーンがある。ペンはイングランド生まれだがキリスト友会徒(クエーカー)になり、裁判にかけられるという逆境に立たされたが、陪審員は「無罪」の評決を下した。その後ペンは北アメリカに新天地を求め、アメリカ合衆国憲法に大きな影響を与えた。 この映画の出来事は、弁護士のGeoffrey BowersとClarence Cainに起きた実話と類似している。弁護士Bowersは、初期のエイズ差別のケースとして、1987年に最大手のBaker & McKenzie法律事務所を訴えた。また、弁護士Cainは、Hyatt法律事務所で働いていたが、雇用者が彼のエイズ発症に気が付いて解雇され、1990年に同法律事務所を訴え、死亡する直前に勝訴した[3]。 公開後の1994年、Bowersの遺族が同氏の生涯とストーリーが54のシーンで酷似しているとして、トライスター・ピクチャーズをニューヨーク州にて提訴した[4]。訴訟においては、Bowersの遺族や友人は、本映画のプロデューサーのルーディン氏が遺族に聞き込みを行い、口頭でBowers氏の差別訴訟に関する映画を制作する対価を支払う契約を結んでいたと主張していた。ルーディン氏は、本映画を売り込んだことで制作会社から10万ドルを受け取っていた。遺族は、1993年にニューヨーク州人権局から50万ドルを受け取ったとされる。訴訟は和解により終結し、その和解条件は公表されていない[5]。*エンドロールでは最後の方に実際の訴訟にインスパイア―された旨の記述がありました。125分(ウィキ)BSで放送していたので、久しぶりに観ました。やっぱり弁護士役のディンゼル・ワシントンがいいですね。内心ゲイを嫌悪しながら、職業倫理から弁護する姿がいいです。はじめてのゲイパーティーにも笑ってしまいました。マリア・カラスのオペラのシーンは、オペラに疎い私には理解できませんでした。人種が違う、まいったよという感じですね。こんなエピソードもあります。ハリウッドのメジャーとしては、初めて「エイズ」と「ホモセクシャリティー」を全面に出した作品というわけで、一般公開するにあたり、映画会社は大変に気を使ったそうです。この映画の最初に作った宣伝用ポスターには、「エイズ」や「ホモ」にはいっさい触れていません。次に予告編を作るにあたっても、3通り(ホモやエイズに触れていないもの、裁判シーンが全面に出ているもの、主人公がエイズであるということが明らかになるもの)を作り、一部の観衆にテストしたと言われています。その結果3つ目が好評だったため、「エイズ」を全面に出した予告編を作ったそうです。(KINENOTE)今は、エイズもホモもそれほど抵抗がないでしょう。日本でも7人にひとりが、LGBTだそうです。1993年はまだ日本が成長していた時代で、映画でも「東京からの電話です。」なんて言うセリフがあったり、テレビがシャープ製でした。裁判の終わりで、逸失報酬や慰謝料に加えて、懲罰的賠償金が5億円です。日本の裁判にはない制度ですが、政治家や経営者など課してみたい人は沢山います。映画『フィラデルフィア』(1993)予告編 - YouTube
2024.03.08
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映画『運び屋』特報【HD】2019年3月8日(金)公開 (youtube.com)ストーリー:アール・ストーン(クリント・イーストウッド)は金もなく、孤独に暮らす90歳の男。商売に失敗し、自宅も差し押さえられかけた時、車の運転さえすればいいという仕事を持ちかけられる。それなら簡単と引き受けたものの、それが実はメキシコの麻薬カルテルの“運び屋”だということを、彼は知らなかった……。(KINENOTE)『運び屋』(The Mule)は、2018年のアメリカ合衆国の犯罪映画。監督と主演はクリント・イーストウッドが務めている[7]。 原案は『ニューヨーク・タイムズ』のサム・ドルニックの記事「The Sinaloa Cartel's 90-Year-Old Drug Mule」であり[8]、脚本はニック・シェンクが執筆した[9]。80歳代でシナロア・カルテルの麻薬の運び屋となった第二次世界大戦の退役軍人であるレオ・シャープの実話に基づいている[10]。116分(ウィキ)BSテレ東の2時間枠、伊武雅刀吹替え版で観ました。The Muleは、麻薬の運び屋という意味の俗語。老人の役を老境のイーストウッドが演じた作品で、とてもいい感じでした。どう見ても運び屋に見えないので、カルテルにすれば適任なのでしょう。家族はいるものの愛想をつかされているので、「無敵の人」です。動機はカネなのでしょうが、ドライブ好きもありますね。最後は、GPSで位置を特定されて広大なハイウェイ上で御用です。題名がどうかなと思いましたが、予想外に見ごたえのある作品でした。
2024.03.07
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映画『男はつらいよ』(第17作)予告編映像 - YouTubeストーリー:春、4月。東京は葛飾柴叉の帝釈天は、入学祝いの親子連れで賑わっている。“とらや”を営むおいちゃん夫婦は、寅の妹さくらの一人息子・満男の新入学祝いで、大忙し。そんな所へ、久し振りに寅が、旅から帰って来た。ところが、さくらが元気がないので寅が問いただしてみると、満男の入学式の時に、先生が満男が寅の甥であると言ったところ、父兄が大笑いしたというのだ。寅はそれを聞いて怒ったが、おいちゃんたちに、笑った父兄より、笑われる寅が悪い、と決めつけられて大喧嘩の末、家を飛び出した。その夜、寅は場末の酒場でウサンくさい老人と知り合い、意気投合して、とらやに連れて来た。ところが翌朝、この老人はぜいたく三昧で、食事にも色々注文をつけて、おばちゃんを困らせる。そこで寅は老人に注意すると、老人はすっかり旅館だと思っていた、お世話になったお礼に、と一枚の紙にサラサラと絵を描き、これを神田の大雅堂に持っていけば金になる、といって寅に渡した。半信半疑の寅だったが、店の主人に恐る恐るその絵を渡すと、驚いた主人は7万円もの大金を寅に払ったのだ。この老人こそ、日本画壇の第一人者・池ノ内青観だったのだ……。それから数日後、兵庫県・竜野。青観が生まれ故郷の竜野へ市の招待で来た時、偶然、寅と会った。市の役人は、青観と親しく話す寅をすっかり青観の弟子と勘違いして、二人を料亭で大歓迎。美人芸者のぼたんの心ゆく接待にすっかりご機嫌の寅。翌日、用事があると言って出かけた青観の代理で、寅は市の観光課長の案内で、昼は市内見物、夜はぼたんを連れてキャバレーやバーの豪遊に、観光課長も大弱り。その頃、青観は初恋の人を訪ねて帰らぬ遠い青春時代の感傷にひたっていた。やがて、寅はぼたんに別れを告げ、竜野を発った。夏が来て、とらやにぼたんが寅を訪ねて来た。ぼたんは、苦労して貯めた200万円をある男に貸したまま逃げられ、その男が東京にいるのをつきとめたので会いに来たのだった。おいちゃんたちは、いきりたつ寅を押さえて、社長をぼたんに付けて男に会いに行かせた。男は大きな中華料理屋を経営しているのだが、店は女房名儀で一銭もないと払おうとしない。巧みに法律の網をくぐりぬけているのだった。烈火の如く怒った寅だったが、おいちゃんたちに慰められ、ぼたんは「その気持だけでうれしい」と涙を流すのだった。そこで寅は、青観に事情を話して、絵を描いて貰って金にしようとしたのだが「金のために絵を描くことはできない」とはねつけられたため、大憤慨して青観の家を飛び出してしまった。一方、ぼたんは寅の温い思いやりを背に、竜野へ帰って行った。夏も盛りの頃。旅に出ていた寅はぼたんに会いに、ふたたび竜野を訪れた。ところが、ぼたんのところに青観の絵が届けられていたのだ。寅は青観を口汚くののしったことを詫びるために、東京の方角へ向かって手を合わし、感謝の言葉をくり返すのだった。(KINENOTE) 『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』(おとこはつらいよ とらじろうゆうやけこやけ)は、1976年7月24日に公開された日本映画。『男はつらいよ』シリーズの17作目。同時上映は『忍術猿飛佐助』。キネマ旬報BEST10第2位(シリーズ全作品中、最高順位)(ウィキ)あまり寅さんを放送しないNHKBSシネマで観ました。画家池ノ内青観のくだりはよく覚えていましたが、龍野市のシーンは全く忘れていました。撮影から48年、あの昭和の街並みはどうなっているのか気になりました。街のにおいを感じるようななつかしい映像でした。役者さんの方も、太地喜和子、宇野重吉、岡田嘉子、桜井センリ、大滝秀治、佐野浅夫などなつかしい顔を見せてくれました。参考:青観と志乃(岡田嘉子)の会話は、本作のみならず、シリーズの名場面の一つ。若い頃志乃と結ばれる道を選ばなかったことへの後悔を語る青観に対し、志乃は人生に後悔はつきもの、「ああすりゃよかったなあという後悔とどうしてあんなことをしてしまったんだろうという後悔」があると言って、慰める。劇団民藝の重鎮・宇野重吉が、マドンナ以外では極めて異例の「トメ」(出演者最後の1枚クレジット)で迎えられている。宇野と下条正巳は1971年の大量脱退騒動で決裂した仲だが、今回は共演場面もある。和解があったのかどうかは不明だが、今回、同劇団の残留派からは大滝秀治が、脱退派からは佐野浅夫が出演している。その宇野重吉は長男寺尾聡と本作で共演をしている。岡田嘉子がソ連から帰国後、初めて映画、テレビドラマで役を演じたのが本作である。(ウィキ)
2024.03.05
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ストーリー:1880年代のインド・ラホール。英字新聞ノーザン・スターの特派員ルドヤード・キプリング(クリストファー・プラマー) は、深夜のオフィスで独り原稿を書いていた。ふと背後に人の気配を感じ、ふりむくとボロ布をまとった乞食のような男が立っていた。その男はピーチ・カーネハン(マイケル・ケイン)と名のったが、何者なのかしばらくの間、想い出せなかった。そうだ、ピーチだ! しかし、何という変わりようだ。あのハツラツとしたハンサムな青年の面影はどこにもなかった。キプリングのすすめで、ピーチは椅子にかけウィスキーを一杯呑むと、信じられないような物語を語り始めた。--キプリングとピーチが出逢ったのは、ラホール駅でピールがキプリングの懐中時計を失敬したことからだった。その時計にはフリー・メイソンのグランドマスターの紋章が刻まれていた。ピーチは、8日後にマーワー連絡駅を通りかかると、友人の軍曹仲間のダニエル・ドレイボット(ショーン・コネリー)にメッセージを届けてほしいといい残すと、姿を消した。数日後、ドレイボットとピーチはキプリングの前に姿を現わした。2人は驚くべき計画を打ち明けた。カフリスタンにいってそこの王様になろうというのだ。こいつらは気狂いかと、キプリングはあきれかえった。ヒマラヤの奥にあるカフリスタンにはアレキサンダー大王の遠征以来白人が足をふみ入れたことはないのだ。しかし、2人の決心は固く、気狂い行者と召使いに扮して出発した。灼熱の太陽、大雪崩、山賊などと戦いながら奇跡的にカフリスタンのカフィリ族の集落に辿り着いた。集落の中に英語の出来る男ビリー・フィッシュ(サイード・ジャフリー)がいた。彼のおかげで2人は村の賓客として迎えられ、村の男たちに英国式の軍事教練をほどこした。その成果は著しく、村はカフリスタン1の最強の部族となり、次々と他の村を支配下に収めていった。この国には、アレキサンダー大王がいつの日か息子をつかわすと約束したという伝説があり、ドレイボットこそその息子ではないかという噂がまたたく間にひろがった。やがて村人たちを彼を神としてあがめるようになった。そんなある日、シカンダガルの聖なる都から5人の聖者たちが村を訪れ、大司祭が会いたいむねを告げた。大司祭は、ドレイボットが神である証しを示すことを要求し、刃をつきつけた。そのとき、彼の胸にはキプリングのくれたフリー・メイソンの紋章が光っていた。それは、奇しくも寺院の石の祭壇に刻まれた紋章とまったく同じだった。ドレイボットは神となりシカンダガルの王となった。ピーチは総理、ビリーは侍従だ。そして、アレキサンダー大王の遺産である莫大な財宝が与えられた。平穏な日々が続いた。しかしそのうち、ドレイボットはいつか見かけた美しい娘ロクザンヌ(シャキーラ・ケイン)を妻にしたいといい始めた。ピーチは財宝を持って早くこの国を出るべきだと主張したが彼は耳をかそうとしなかった。神が結婚する、しかも平民のむすめをめとる。このニュースは民衆に大きな衝撃を与えた。やがて結婚式の日がきた。盛大な式もすみ、ドレイボットは花嫁にキスをした。おそれおののくロクザンヌは反射的に彼の頬を噛んだ。頬から流れ出る血。それを目撃した聖職者と民衆は、口々に叫んだ。「神じゃない」「インチキだ」。ドレイボット、ピーチ、ビリーは持てるだけの宝物をかかえ、ライフルを射ちながら逃げ出したが、石つぶ、棒が襲い、まずビリーが倒れた。吊橋の上に追われたドレイボットは覚悟した。英国の歌を高らかに歌い、橋とともに深い峡谷に落下していった。英国人として立派に死んでいったのだ。--かろうじて脱出したピーチは、その長い物語を語り終えるとボロ布の中からドレイボットの白骨化した首を取り出した。その頭には純金で出来たカフリスタンの王冠が、かつて王になろうとした男、そして束の間、王であり神であった男の頭上に輝いていた。(KINENOTE)『王になろうとした男』(The Man Who Would Be King)は、1975年公開のアメリカ・イギリス映画。ラドヤード・キップリングの同名小説の映画化作品。ショーン・コネリーとマイケル・ケインが演じる、王になることを夢見た2人の英印軍退役軍人が、アフガニスタン辺境部の国カフィリスタン(英語版)を冒険する物語である。 ジョン・ヒューストンは1950年代から、クラーク・ゲーブルとハンフリー・ボガートを主演に本作の映画化を計画していた[4]。しかし、映画化の権利を取得する前の1957年にボガートが死去し、ゲーブルも1960年に死去してしまう。その後、主演はバート・ランカスターとカーク・ダグラス、リチャード・バートンとピーター・オトゥールにそれぞれ変更された。1970年代に入ると、主演はロバート・レッドフォードとポール・ニューマンが検討されたが、ニューマンは「主演は英国人俳優が演じなければならない」とヒューストンに助言し、ショーン・コネリーとマイケル・ケインを推薦した[5]。 『バラエティ』誌はケインの演技について、「それがジョン・ヒューストンの意図であろうとなかろうと、この冒険とアクションの映画はマイケル・ケインの低い演技力のために大雑把なコメディになっている」と批評している[13]。130分(ウィキ)前半が冗長で少し退屈でした。未開人は野蛮という白人史観の描写にも辟易します。それでも、ショーン・コネリーが祭り上げられて本物の王になろうとするシーンは見ごたえがありました。未開の地に行ってそこの支配者になり富と権力と女を手に入れるというのは、(英国)白人男性の夢なのでしょうか。支配される側の東洋人としては、見るに堪えない物語でもあります。雪山のシーンは実写なのでしょう。アフガニスタンの先の奥地カフリスタンのロケ地は、モロッコとクレジットされていました。
2024.02.28
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ストーリー:1941年、第二次世界大戦下、ドイツ軍はベラルーシを占拠。ナチス親衛隊と地元警察はユダヤ人狩りを始める。8月。両親を殺されたユダヤ人兄弟、トゥヴィア(ダニエル・クレイグ)、ズス(リーヴ・シュレイバー)、アザエル(ジェイミー・ベル)は子供の頃から遊んでいたリピクザンスカの森に逃げ込んでいた。そこへ、3人と同じように逃げ惑うユダヤ人が次々と合流する。トゥヴィアは食料と武器を入手するため、父の親友だったコシュチュクを訪ねると、そこにも数人のユダヤ人が身を隠していた。トゥヴィアは、コシュチュクに頼まれ、他のユダヤ人たちも森の中へと案内する。10月。数十人となったユダヤ人の共同体は森の中に家を建て、やがて彼らは“ビエルスキ・パルチザン(武装組織)”と名乗り、銃で武装し始める。だがドイツ軍への攻撃を行なっていたある日、銃撃戦で2人の犠牲者を出し、アザエルも行方不明に。森の中で、仲間の喪失や空腹、不安を抱え、同胞の間でもいざこざが起き始めていたとき、トゥヴィアは皆でこの森で暮らすことを提案。生き残ることが復讐だという彼の意見に仲間たちも賛同するのだった。そんな中、トゥヴィアがコスチュクの家に食料をもらいに行くと、2人のユダヤ人女性と共にアザエルがかくまわれており、コスチュクが納屋の先に吊るされ殺されていた。1942年。ソ連軍キャンプは敵の攻撃から逃れるため、撤退を始める。それを拒むズスだったが、ソ連軍は受け入れず、森を後にする。まもなくして森の中に爆弾が打ち込まれた。逃げ惑う人々。アザエルら数人が残り、銃を手に時間を稼ぐ。その間、トゥヴィアが仲間たちを誘導、森の奥へと進んでいった。ロープやベルトで全員をひとつ繋ぎにして、大きな沼をようやく渡りきると、そこにはドイツ軍が待ち受けていた。激しい銃撃戦が繰り広げられ、トゥヴィアたちは劣勢を強いられていく……。(KINENOTE)『ディファイアンス』(Defiance「果敢な抵抗」の意味)は、2008年のアメリカ合衆国の伝記映画。監督はエドワード・ズウィック、出演はダニエル・クレイグとリーヴ・シュレイバーなど。 第二次世界大戦時のナチス・ドイツ占領下でのポーランド(現在のベラルーシ西部)におけるビエルスキ兄弟のユダヤ人救出を描いたネハマ・テク(英語版)の小説『ディファイアンス ヒトラーと闘った3兄弟』(武田ランダムハウスジャパン、2009年)を、エドワード・ズウィックが映画化。 基本的には実話に基づいているが、一部に映画的結末を描くための脚色があり、特にエンディングの戦車との戦闘シーンについては原作者も当初は戸惑いを覚えたことを告白している。また、ビエルスキ兄弟が率いたユダヤ人組織に対する歴史的評価もポーランド内では分かれており、同じポーランド人から略奪することで生き延びた山賊集団ととらえる向きもある。キャッチ・コピーは『人間として、生きるための[抵抗]だった』。第81回アカデミー賞作曲賞ノミネート。 · 映画ではトゥヴィアのすぐ下の弟はズシュになっているが実際はアザエルの方がズシュより年上である。映画ではアザエルの年齢がかなり若く設定されている。o トゥヴィア・ビエルスキ(英語版) (1906 - 1987)o アザエル・ビエルスキ(英語版) (1908 - 1945)o ズシュ・ビエルスキ(英語版) (1912 - 1995)o アーロン・ビエルスキ(英語版) (1927 - ) · ジャレッド・クシュナー - 祖父母がビエルスキ・パルチザンのグループに属していた。 ジャレッド・コーリー・クシュナー(Jared Corey Kushner、1981年1月10日 - )は、アメリカ合衆国の実業家。ドナルド・トランプの娘イヴァンカの夫でトランプの娘婿。トランプ大統領の下で、大統領上級顧問を務めた。不動産開発企業クシュナー・カンパニーズ、『ニューヨーク・オブザーバー』紙の元オーナー。(ウィキ)ユダヤ人パルチザンの実話です。007のダニエル・クレイブ主演ということで観てみました。ヒーローものというよりは、困難な状況を逃げ回る様子が淡々と描かれています。ポーランドやベラルーシの森を逃げ惑う姿が、現代のガザ地区の様子とダブりました。ドイツ軍の空爆もあります。主人公は農村部に住むユダヤ人で下層の荒くれ者、都市に住んでいた裕福でインテリのユダヤ人とのギャップを感じさせます。ソ連軍からも十分な保護を得られず、差別される事件も起きます。とにかく生き延びることが目的で、3年間を森で過ごします。病院や学校を作り、コミュニティは終戦時には1200人に膨れ上がります。映画では、そのうちの1年間の様子で、人数は1~200人くらいでしょうか。「アザエル(3弟)はソ連軍に入隊し6か月後に戦死。ハイアとの間の子に会えなかった。ズシュ(次弟)NYへ移住し運送業を。トゥヴィア(長兄)後に米国へ。30年間ズシュと共に働いた。リルカと仲睦まじく暮らした。彼らに救われた人々の子孫は数万人に及んでいる」と最後に、クレジットされます。シンドラーのリストと違って、ユダヤ人自らが戦って命をつないだ、これまで語られることがなかった物語でした。
2024.02.21
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ハフポストにオリバー・ストーン監督のインタビューが載っていました。制作の動機や日本への警告が興味深かったです。日本は「同盟国」ではなく「人質を取られた国」:映画『スノーデン』オリバー・ストーン監督インタビュー | ハフポスト NEWS (huffingtonpost.jp) ――なぜいまスノーデンを映画にしたのか。僕は自分が生きている時代に関心がある。その意味で、1930年代から2013年までのアメリカ現代史について『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』(2012年)というドキュメンタリー番組を制作したが、この2013年という時期はまさにオバマ政権が社会の監視体制を強めていた頃で、その番組の第10章は「監視社会」というテーマだった。そしてその年の6月に突如、スノーデンがあの告発を行った。私自身もショックを受け、勇気ある行為に喝采も送ったが、まだその時点で映画化するつもりはなかった。それが翌年1月、ロシアに亡命しているスノーデンのロシア人弁護士から連絡を受け、本人に会ってくれと言われた。その後2年間にわたって都合9回本人とモスクワで話をするうち、彼の視点から映画にすべきだと考えるようになった。 彼と話していて感じたのは、とにかく非常に正直に誠実に、何があったのか、何が起きているのかを伝えたいということを大切にしていること。僕はその態度に接して、彼の話にとても説得力を感じた。言ってみれば、彼の言葉、態度こそが、僕らにこの映画を作らせたのだと思っている。その意味では、この作品は僕のものではなく、スノーデンの映画だ。まあ、キャラクターとしても、従来のいわゆるオリバー・ストーン映画の主役のキャラではないからね。彼自身も、自分は1日中部屋の中に籠っている猫のようなタイプだからと言っていたけどね。――スノーデンはNSA在職中の2009年、在日米軍の横田基地で勤務していた。映画では、日本の通信網を支配し、送電網やダム、交通機関などインフラ施設をコントロールする『スリーパー・プログラム』を仕掛けていたという本人の告白場面がある。日本列島の南から順に街全体の灯が消えていき、すべて真っ暗になる映像に、『日本が同盟国でなくなる日が来たら、"消灯"』というスノーデンの台詞......。これはどこまで真実なのか。僕は、彼が語ったことはすべて真実だと考えている。NSAは当初、すべてを監視したいと日本政府に申し入れたが、日本政府は拒絶したという。しかしそれでもかまわず盗聴・監視し、民間の様々なネットワークにプログラムを仕込んでいた、と彼は語っていた。 ただ、原子力発電施設に関しては彼の口からは何も聞いていないが、僕自身は、恐らく別のやり方で何かをしているのだと思っている。また彼は、メキシコ、ブラジル、ベルギー、オーストリア、ドイツ、そしてイギリスも含んでいたと思うが、同じようなプログラムをすでに仕掛けているとも言っていた。これはもはやサイバー戦争だ。2007、8年ごろ、アメリカがイランの核施設を破壊するためにシステムに侵入し、コンピューター・ウイルスを仕込んだものの、途中で制御不能になり、施設の機能は一部停止させたが、ウイルスが世界中に拡散されてしまった事実が2010年に発覚した。現実にそうしたサイバー戦争は始まっており、そのすべてをアメリカがリードしている。その事実に僕らはもっと目を向けるべきで、スノーデンはそこに気づかせてくれた。日本を含めアメリカの同盟国と言われる国々は、僕は現実には同盟国ではなく「アメリカに人質を取られた国」だと思っている。日本ももし同盟関係から離れることになると、スノーデンが語ったような「脅し」を受ける事態になるのだという、極めてセンシティブな状況、問題であるということを日本の皆さんにもよく考えてほしい。――監督自身は、スノーデンの告発以前、NSAという組織についてどの程度の認識があったのか。詳しい知識はなかったが、2005年、あるジャーナリストが『ニューヨーク・タイムズ』にNSAによる監視体制についての記事を書いていた。当時のブッシュ大統領は、言葉も口汚い感じだったが悪い奴だったから(笑)、国民を監視することだってやるだろうな、という印象を受けた程度だった。それから8年後にスノーデンの告発が出たわけだが、その時初めて、具体的な証拠が大量に提示された。だから、2005年当時からうすうす知っていたことが初めて事実として突き付けられた感じで、驚きというよりもショックを受けた。むしろ驚いたのは、2013年当時のオバマ大統領が、スノーデンの告発に対して「大したことではない」と言ったこと。結局、オバマは単なる飾り物で弱い男でしかなかった。ブッシュ時代のそうした悪しき状況を何も変えなかった。透明性もまったくなく改革も何も行われなかった。――映画を作るうえで参考にした資料はあるか。1960年代から実際にNSAに勤務していたジェイムズ・バムフォードが書いた『パズル・パレス―超スパイ機関NSAの全貌』(1986年)や『すべては傍受されている―米国国家安全保障局の正体』(2003年)などの本は、NSAの活動実態を知るうえで非常に参考になった。また、内部告発サイト『ウィキリークス』創設者ジュリアン・アサンジの功績も忘れてはならない。2010年、イラクで情報分析官として米陸軍に勤務していたチェルシー・マニングという軍人(後に不名誉除隊)が大量の機密情報をウィキリークスに流出させた内部告発事件があった。告発には2007年に米軍ヘリがイラク・バグダッドで複数の民間人を射殺する映像や、グアンタナモ収容所の収監者らに対する虐待の報告書なども含まれ、国際的に衝撃を与えた。こうした勇気ある行為を支えたのがアサンジで、スノーデンの告発も大きく助けられている。日本は第2次世界大戦以後、とにもかくにもアメリカに従順で、アメリカのメディアのことを信用しがちである。これはアジア全体にも言えることだが、ヨーロッパはそうではない。そういう意味で、僕は日本にはまだ主権がないのだという印象を持っている。実は今回の映画は、単にスノーデンの物語ではなく、世界の現状はこうなっているのだということを切り取って皆さんにお見せしている作品だと思っている。 だから、日本にももっとアメリカに対して疑問を感じてほしい。僕が『プラトーン』や『7月4日に生まれて』を撮っていた1980年代末くらいまでは、ああいう作品で米政府側はアメリカの強さを肯定的に描いてくれたと勝手に思っていたようだ。僕自身は、むしろそうではない面を描いていたのだがね。ところが、1991年の『JFK』から完全に反応が変わった。実際、たとえばそれまで閉鎖されていたハリウッドのCIA支部が突如、活動を再開させた。恐らく、映画の持つ力に彼らも気づいたのだと思う。僕の周りのプロデューサーたちにも、簡単に言ってしまえばもっとアメリカ万歳というような映画を作るべきだと政府筋が言ってくるようになった。 確かにその後、いわゆるアメリカを肯定するような映画、たとえば『ブラックホーク・ダウン』『プライベート・ライアン』『パール・ハーバー』『アルゴ』といったような作品が推奨され、金銭面も含めて軍や政府の大きな協力のもとに作られていった。つまり、CIAやNSAのような諜報機関などによる右傾化がどんどん進められていった。そして、愚かな若い映画製作者らがその罠にはまり、自分たちの国の歴史も知らないままそういう作品を作り続けていった。だからこそ、僕は『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』という作品を作ったのだ。日本は「同盟国」ではなく「人質を取られた国」、日本にはまだ主権がないもし、今もスリーパー・プログラムが有効なら、まさに人質に取られた国ですね。米軍基地は、特に首都圏のそれは諜報機関の最前線でありサイバー攻撃の拠点でもあるのですね。映画のハワイの地下基地の様子も驚きでした。スノーデンは正直で誠実、出世に興味がないゆえに、これはおかしいと感じたのでしょう。自分のプログラムがほかの目的に転用され、NSAの監視行為が安全保障のためだけでないことも気づいてやむにやまれず行動に出たというのがよく描かれていました。米国が中国のファーウェイを締め出そうとしているのも、支配できないIT企業の存在を認めないということからなのでしょう。
2024.02.17
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オリバー・ストーン監督最新作/映画『スノーデン』予告編 - YouTubeSnowden | Official Trailer [HD] | Open Road Films - YouTubeストーリー:香港の高級ホテル。ドキュメンタリー作家のローラ・ポイトラス、ガーディアン紙の記者グレン・グリーンウォルドのいる一室に、一人の青年がやってくる。彼の名はエドワード・スノーデン。アメリカ国家安全保障局(NSA)職員であるスノーデンは機密資料を提供し、アメリカ政府が秘密裏に構築した国際的な監視プログラムの存在を告発した。国を愛するごく平凡な若者だった彼は、CIAやNSAで勤務するうちに、その恐るべき実態に直面。テロリスト、民間企業、さらには個人までも対象にアメリカ国内のみならず全世界のメールや携帯電話での通話を監視する体制に危機感を募らせ、キャリアも幸せな生活も捨ててまでリークを決意する。(KINENOTE)『スノーデン』(Snowden)は、オリバー・ストーン監督、キーラン・フィッツジェラルド及びストーン脚本による2016年のアメリカ合衆国の伝記・ポリティカル・スリラー映画(英語版)。ルーク・ハーディング(英語版)のノンフィクション本『スノーデンファイル 地球上で最も追われている男の真実(英語版)』及びアナトリー・クチェレナ(英語版)の本『Time of the Octopus』が原作となっている。撮影は2015年2月16日よりドイツのミュンヘンなどで行われた。(ウィキ)134分映画製作プロジェクトに参加する米国企業が現れず、またスタジオの協力も得られずに資金調達が困難となった[6]。その後、イギリスとドイツからの資金調達が決まり、撮影はドイツで行われることとなった[6][7]。 「アメリカ人に関する話なのにアメリカでこの映画に出資できないというのは実に奇妙だ。あからさまに国家主義的でない題材に対し、このことがどのような影響を与えるかを考えれば、これは非常に憂慮すべき事態だ。彼らは我々に表現の自由があると言う。しかし、思想は金によって操られ、コントロールされているし、メディアも同様だ。この国はその点で非常に縛りが厳しく、あるレベルにおいては批判が許されない。既に亡くなった市民活動家についての映画は作れるが、現在の人物についてはそれが容易ではない」—オリバー・ストーン監督[6]。 主要撮影は2015年2月16日にドイツのミュンヘンで始まった[26]。4月半ばにはワシントンD.C.での撮影が行われた[27]。4月15日から18日にかけてはハワイ州で撮影が行われた。映画に使われた家はスノーデンが実際に住んでいたのと同じ通りのものである。4月末にはザ・ミラ ・ホンコン(英語版)での撮影が始まり、さらに続いて土瓜湾の古いビルでも行われた[28]。撮影は5月末まで続いた[22]。NSAの干渉を恐れたストーンは米国外での撮影を決めていた[6]。ストーンは「我々はここで危険に晒されているような気がした。我々にはNSAが何をするのかわからなかったので、ミュンヘンで終わらせた。そしてそれは美しい経験だった」と語った[6]。ウィキからですが、映画製作に関しては米国企業は二の足を踏んだようですね。撮影も監視されていたことでしょう。NSAの監視プログラムを暴露する香港のホテルでの様子が現在(2013年)で、それにカットバックされる形で2004年の軍隊やCIA入所、NSAでの活動の様子が映されるという形式で映画は進行します。定期的なポリグラフ検査や、スノーデンの私生活、妻のSNS、メールの監視などが描かれています。上司に、「安心しろ妻の不倫はない」なんて言われては、背筋が凍ります。NSAは海外の活動監視が主目的なのに、米国内の情報収集量が3億とずば抜けて多いことが暴露されます。もちろん、違法です。監視目的は、米国の安全保障というよりは、政治権力とそれに結び付いた一部の資本家の利益のためだと疑い始めます。監視ブログラム以外にもハッカー対策やサイバー攻撃プログラムの開発もやっていました。同盟国首脳の盗聴やメール監視は暴露されて問題になりましたが、日本に関しても日本駐在中に電力網をシャットダウンするサイバー攻撃プログラムを構築したというくだりが刺激的です。米国は日本のインフラを人質を取っており、歯向かえば容赦しないということですね。Introduction - 映画『スノーデン』公式サイト|7月5日 Blu-ray&DVD発売決定! (snowden-movie.jp)からです。 「日本が同盟国でなくなった瞬間、仕込んであるマルウェアを発動させて、すべてのインフラを麻痺させることができる」。映画館で最初からずっと想像を絶する監視体制・スパイ体制の秘密に寒気がしていた中で、横田基地の回想シーンに移り、DELLコンピューターがスパイの下請けをしている事実や、見慣れた日本列島があっというまに真っ暗闇になっていくシーンを見て、どれだけ日本が米国に支配されているのかを体で感じることができた。恐ろしい。それがこの映画をみた感想だ。決して抵抗できない体の大きないじめっ子にいじめられる恐怖や、暴力組織の面前に立たされた時の絶望感はだれでも味わったことはあるだろう。アメリカはその暴力組織が大きくなったものだ。中国がマフィア国家だの言われているが、どの国も成り立ちはほぼ変わらないということだ。 参考:エドワード・ジョセフ・スノーデン(英語: Edward Joseph Snowden、ロシア語: Эдвард Джозеф Сноуден、1983年6月21日 - )は、アメリカ国家安全保障局(NSA)および中央情報局(CIA)の元局員である。NSAで請負仕事をしていたアメリカ合衆国のコンサルタント会社「ブーズ・アレン・ハミルトン」のシステム分析官として、アメリカ合衆国連邦政府による情報収集活動に関わった[6]。2013年6月に、中華人民共和国香港特別行政区で複数の新聞社(ガーディアン、ワシントン・ポストおよびサウスチャイナ・モーニング・ポスト)の取材やインタビューを受け、それまで陰謀論やフィクションで語られてきたNSAによる国際的監視網(PRISM)の実在を告発したことで知られる[7][注釈 1]。2013年6月22日、米司法当局により香港政府に臨時逮捕と引き渡しの要請が出され[9]、エクアドルなど第三国への亡命を検討しているとされていたが、同年8月1日にロシア移民局から期限付きの(=更新が必要な)滞在許可証が発給されてロシアに滞在するようになった[10]。その後、2022年9月26日に、ロシアのプーチン大統領が、スノーデンにロシア国籍を付与する大統領令に署名した。2014年1月、ノルウェーのボード・ソールエル(英語版)元環境大臣からノーベル平和賞候補に推薦された[11]。(米国)アメリカ連邦捜査局(FBI)のモラー長官は、NSAの情報収集について、何ら違法性はないとの認識を示し、スノーデンの逮捕に向けて全力で捜査していると表明した[117]。2013年6月22日、アメリカ合衆国司法省は香港政府に逮捕を要請した[9][118]。2013年7月に発表されたアメリカのキニピアック大学(英語版)の世論調査ではスノーデンを内部告発者だと考える有権者が55%に上り、裏切り者だと考える有権者は34%に留まった[119]。また、ワシントンポストとABCニュースが実施した世論調査によると、アメリカの30歳以上の大人の57%は「スノーデン氏の罪を問うべきだ」としているが、これは30代以下の若者では35%であり、56%の若者は、スノーデンがNSAの文書を公開したことについて「正しいことをした」と答えている[120]。オバマは各国駐米大使館への盗聴に対して、一般論として「諜報機関を持つ国ならどの国でもやっていることだ」として、同盟国の大使館に対する諜報活動を否定しなかったが[71]、情報収集活動の見直しを指示したという[121][注釈 6]。2013年10月にはクラッパー国家情報長官らがNSAによるドイツのメルケル首相ら35人の外国首脳に対する長年に亘る盗聴を認めた[121][122]。一部はすでに中止されたが、一部は有益な情報をもたらしているとして継続されているという。また、盗聴の対象はNSAが独自に決定しており、オバマの承認は得ていなかったとしている。NSAは数多くの盗聴を行っているため、全ての活動について大統領に報告することは現実的ではないという[121]。 (日本) 菅義偉内閣官房長官は「米国内の問題なので、米国内で処理されることだ」「日米間の外交においては、しっかりと秘密は守られるべきだ」とのみ述べた[131]。2015年(平成27年)7月31日には、内部告発サイト「ウィキリークス」がNSA(アメリカ国家安全保障局)が少なくとも2006年ごろから日本の内閣・日本銀行・財務省などの幹部の盗聴を試みていたとして、アメリカ合衆国連邦政府の関連文書を公開されているが[132]、菅義偉内閣官房長官[133] と安倍晋三内閣総理大臣[134] は「事実であれば極めて遺憾」と述べるのみで、抗議には至らなかった[135]。(ドイツ)ドイツ政府報道官は大使館の盗聴に対して「全く容認できない」とする苦言を呈し、アンゲラ・メルケル首相は、バラク・オバマ大統領に抗議した[69]。2014年6月27日、ドイツ内務省(ドイツ語版)はベライゾン・コミュニケーションズとの契約破棄を発表するとともに、高度な防諜対策を施した通信インフラストラクチャーが必要であるとの認識を表明した[124]。 また同年7月には、本件に関するドイツ連邦議会の対応状況をアメリカ合衆国に売っていた連邦情報局とドイツ連邦軍の職員がスパイ容疑で逮捕され、駐ドイツ連邦アメリカ合衆国大使館の情報部門責任者が、ドイツ連邦からペルソナ・ノン・グラータを受けている[125]。 (ウィキ)
2024.02.16
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映画では、トランボがカーク・ダグラスからスパルタカスの脚本を依頼されている際に、黒塗りの車でやってくる押し出しのよい紳士が登場します。強面で威圧的な態度、反共派の人間かと思ったら、これが映画監督のオットー・プレミンジャーでした。名前は聞いていましたが、本人として映像化されたのを見るのは初めてです。英語もくせがありました。用件は、栄光への脱出の脚本手直し依頼です。今スパルタカスをやっていると答えると、連中はクリスマス休暇、その間にやればよいと強引です。もし、気に入らない脚本なら本名をクレジットすると脅す下りには笑ってしまいました。アメリカにおけるイスラエル支持の世論形成にも多くの影響を与えた。(ウィキ)とありますから映画の力は小さくないですね。『栄光への脱出』(Exodus)は、1960年のアメリカ映画である。ユナイテッド・アーティスツ配給。監督はウィーン出身のユダヤ人、オットー・プレミンジャー、音楽はやはりウィーン出身のユダヤ系作曲家アーネスト・ゴールド、脚本はダルトン・トランボ、撮影はサム・リーヴィット。 オットー・プレミンジャー(Otto Preminger, 1905年12月5日 - 1986年4月23日)は、オーストリア=ハンガリー帝国生まれの映画監督、映画プロデューサーである。1950年代 - 1960年代のハリウッドで活躍した。彼はユダヤ人であったが、オーストリア訛りがあり、しかも悪役に向いた人相の持ち主であったため、皮肉なことに自分があれほど嫌ったナチの人物役を何度も舞台で演じることになった(後に同郷のビリー・ワイルダー監督の『第十七捕虜収容所』でも捕虜収容所所長の冷酷なドイツ軍人に扮し、はまり役というべき敵役ぶりを見せた。ワイルダーはこれを面白がり、プレミンジャー本人は閉口しながら演じたという)。しかし、この舞台での活躍が認められて、1940年代に映画界に戻り、映画製作に携わるようになった。(ウィキ)トランボは取材する記者たちに、ハリウッドの「ブラックリスト」に名前が上がっている脚本家たちが偽名で仕事をしているという事実を提示するなど、「ブラックリスト」を無効化するための活動を続けた。1959年にはテレビのインタビューで、自分が「ロバート・リッチ」であると認め、同年には「ロバート・リッチ・プロダクション」の設立を発表した。また、同年には『スパルタカス』の脚本をリライトする契約をサム・ジャクソン名義で行ったが、降板させられたアンソニー・マン監督がトランボの脚本であることを広めてしまった。トランボが同時期に手がけた『栄光への脱出』の監督のオットー・プレミンジャーはトランボが脚本を書いたと公表し、『スパルタカス』もトランボの名前がクレジットされることになった。『栄光への脱出』『スパルタカス』は興行的に大成功を収め、その後、他のハリウッド・テンのメンバーも実名で仕事できる機会が増えていった。 1976年9月10日、ハリウッドの自宅で心臓発作により死去。70歳[4](ウィキ)晴れて実名がクレジットされたトランボの作品です。劇場で観たパピヨンが思い出深いです。· ガン・ファイター The Last Sunset(1961年)· 脱獄 Lonely Are the Brave(1962年)· いそしぎ The Sandpiper(1965年)· ハワイ Hawaii(1965年)· フィクサー The Fixer(1968年)· ホースメン The Horsemen(1971年)· パピヨン Papillon(1973年)カメオ出演も· ダラスの熱い日 Executive Action(1973年)ジョニーは戦場へ行った Johnny Got His Gun(1971年)監督 兼原作・脚本、カメオ出演も本稿は、これでおしまいです。
2024.02.15
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モンゴメリー・バス・ボイコット運動が幕を開けた1955年。完成した『黒い牡牛』の脚本をドルトン・トランボがキングブラザーズに提出すると社長のモーリスは自社での製作を決定する。「ロバート・リッチ」名義でクレジットされたこの映画は第29回アカデミー賞で原案賞を受賞してしまい、やがてトランボが執筆したという噂が立つ。さらに第30回で『戦場にかける橋』が脚色賞、第31回で『手錠のまゝの脱獄』が脚本賞を獲得し、3年連続でブラックリスト入りした脚本家がオスカー受賞者となるとトランボはこれを好機とみてテレビに出演し、自分がロバート・リッチであることを認める。トランボの発表を赤狩りへの挑戦であると受け取ったアーノルド・ギビーは彼への攻撃を開始し、またアメリカの理想を守るための映画同盟のジョン・ウェインやヘッダ・ホッパーは会員たちに共産主義者の徹底した排除を呼びかける。先鋭化した赤狩りとの闘いを決意したトランボのもとへプロデューサーのエドワード・ルイスから新たな仕事が舞い込む。紀元前1世紀にローマ帝国を相手に反乱を起こした奴隷を描く小説を原作とするカーク・ダグラス主演・製作総指揮の映画『スパルタカス』の脚本執筆をトランボは「サム・ジャクソン」名義で引き受ける。ウィキ 『赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD』から赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD - Wikipediaいくら偽名と言っても、徐々に正体判明です。なんせアカデミー賞を2度も取ってしまうのですから、注目の的です。マッカーシーは1954年に失脚し、57年に亡くなったものの、下院非米活動委員会(House Committee on Un-American Activities、HUAC)は、名前を変えながら1975年まで存続しました。映画の後半は、名誉回復の戦いが描かれます。ジョン・ウェインやヘッダー・ホッパーの嫌がらせは執拗ですね。B級映画会社社長が、圧力をかけに来た男に対してアカでも何でも、面白ければよいと怒鳴り散らして追い返すシーンは痛快でした。まさに米国の活動屋の心意気といったところでしょう。『スパルタカス』(Spartacus)は、1960年のアメリカ映画。ハワード・ファストが執筆したスパルタクスの反乱をテーマにした小説を、カーク・ダグラスが自らの製作総指揮・主演で映画化した歴史スペクタクル映画。2017年、アメリカ議会図書館によって「文化的、歴史的、美学的に重要」とみなされ、アメリカ国立フィルム登録簿に保存された。かつて赤狩りで追放歴のあるダルトン・トランボ(ハリウッド・テンの一人)が13年ぶりに実名で脚本を担当したことから、公開当時は右派や軍人を中心に非難や上映反対運動が起こった[要出典]。これに対し、ジョン・F・ケネディ大統領(当時)が事前通知なしで劇場を訪れて同作品を観賞し、好意的な感想を述べたことで、大ヒットにつながった[4]。キューブリックはあくまで監督として「雇われた」だけだと言い張り、死ぬまでこの映画を自分の作品とは認めず、「あの映画には失望した」とまで言っていた。[要出典]これは製作者カーク・ダグラスが大物俳優であったことにより、キューブリックの思惑どおりになかなかことが進まなかったことが理由とされている。ただし近年までの本作品の評価は一般的、批評家的にも高評価であり、キューブリック本人の自作否定と反して監督本人のキャリアを汚すものではない。もっとも、史実のスパルタカスを考えると、彼がローマ軍の捕虜となる筋書きには批判もある。[要出典](ウィキ)
2024.02.14
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「黒い牡牛」とともに、トランボが追放中に書いてアカデミー賞をもらった作品は、「ローマの休日」(53年)です。映画では、脚本を書き上げた後に題名を直されるエピソードが映されていました。監督のウィリアム・ワイラーは、トランボらハリウッド・テンを助けるべく、ハンフリー・ボガードなどと「第一修正条項委員会」を結成し抗議活動を行ったが、実らなかったことに落胆していた。「ローマの休日」をオール・ロケし、セット撮影も、編集もイタリアのチネチッタ・スタジオで行ったのは、赤狩りの魔の手から逃れるためだった。それは自分の右腕として長年働いてくれたレスター・ゴーニッグが、密告によりブラックリストに入り、ハリウッドを追放されたことで、彼を守る目的もあった。このいつまでも眺めていたいほど愛おしい、オードリー・ヘプバーンの名作の裏に、硬派なワイラーがいたのだ。アン王女もグレゴリー・ペックの新聞記者も、お互い嘘をついている。だが、二人ともお互いを裏切らなかった。真実を誰にも明かさなかった。この映画が内包している本当の意味は、作り手たちがこの時、内に秘めていた思いだったのである。赤狩り/マッカーシズム・イン・ハリウッド 〜アメリカ暗黒史の映画ファン的考察〜|nobu.hk / 踊る大香港 (note.com)ワイラーが即興でシナリオに付け加えた一発撮影のシーンと言われています。グレゴリー・ペックの手首を隠すシーンは、彼のアドリブとも。名作も作り手の背景を知ると、味わい深いです。参考:ウィリアム・ワイラー(William Wyler, 1902年7月1日 - 1981年7月27日)は、アメリカ合衆国を代表する映画監督の一人。ハリウッド黄金期に活躍し、アカデミー監督賞を3回受賞し、数多くの名優を見出した。ドイツ帝国のミュールハウゼン(現・フランス東部オー=ラン県ミュルーズ)出身。両親ともにユダヤ人です。1950年前後にハリウッドを吹き荒れた赤狩り(マッカーシズム)に最後まで抵抗している。裁判官に「あなたは共産主義を支持しているか、もしくは関係があるか」と問われた際に、「その言葉をそのままあなたに返そう。『あなたは共産主義を支持しているか、もしくは関係があるか』あなたが答える義務がないのなら、私が答えるのを拒否してもいいはずだ」と抗議したと言われている[要出典]。(ウィキ) 修正第1条委員会(Committee for the First Amendment)は、1947年9月に下院非米活動委員会(HUAC)の公聴会でハリウッド・テンを支持する俳優らによって結成された活動団体である。脚本家のフィリップ・ダン、女優のマーナ・ロイ、映画監督のジョン・ヒューストンとウィリアム・ワイラーによって設立された。その他の会員にはルシル・ボール、ハンフリー・ボガート、ローレン・バコール[1]、ジュールス・バック(英語版)、ジョゼフ・コットン、ドロシー・ダンドリッジ、ベティ・デイヴィス、オリヴィア・デ・ハヴィランド、メルヴィン・ダグラス、ヘンリー・フォンダ、ジョン・ガーフィールド[1]、ジュディ・ガーランド、アイラ・ガーシュウィン[1]、ジューン・ハヴォック(英語版)、スターリング・ヘイドン、ポール・ヘンリード、キャサリン・ヘプバーン、レナ・ホーン、マーシャ・ハント[1]、ダニー・ケイ[1]、ジーン・ケリー[1]、イヴリン・キース、バート・ランカスター、グルーチョ・マルクス、バージェス・メレディス、ヴィンセント・ミネリ、エドワード・G・ロビンソン、ロバート・ライアン、フランク・シナトラ、ケイ・トンプソン(英語版)、ビリー・ワイルダー、ジェーン・ワイアットが含まれた[1]。ボガート、ガーフィールド、ロビンソンは後に自分たちは「騙されて」ハリウッド・テンを支持したとする記事を発表した(ガーフィールドとロビンソンは後にブラックリストに載った)。『フォトプレイ(英語版)』誌の1948年3月号にはボガートの「私は共産主義者ではない」("I'm No Communist")という記事が掲載された[6]。この記事の中でボガートは自身と他の委員会員はハリウッド・テンの中に実際に共産主義者がいたことに気付いていなかったと主張している。当時最高のハリウッドスターの1人だったボガートは自分のキャリアを守るために売ったものとみなされ、多くのリベラル派や仲間たちから攻撃された[5]。(ウィキ)
2024.02.13
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私が、ドルトン・トランボの名前を初めて聞いたのは、彼が監督した「ジョニーは戦場に行った」(1971年)です。リバイバル上映された「西部戦線異状なし」とともに、反戦映画として大きな反響でした。ストーリー:第1次大戦にアメリカが参戦し、中西部コロラド州の青年ジョー・ボナム(ティモシー・ボトムズ)は、ヨーロッパの戦場へと出征していった。鼓膜を引き裂くような不快音をたてて落下してくる砲弾が炸裂し、大地がわれる。--ジョーはいま、<姓名不詳重傷兵第407号>として、前線の手術室に横たわっている。延髄と性器だけが助かり、心臓は動いていた。軍医長テイラリー(エドワード・フランツ)は「もう死者と同じように何も感じない、意識もない男を生かしておくのは、彼から我々が学ぶためだ」と説明した。こうして<407号>と呼ばれるようになったジョーは陸軍病院に運ばれた。出征する前夜のことを、ジョーの意識はかけめぐる--カリーン(キャシー・フィールズ)は小さくて可愛らしい娘だった。彼女の父親の許しがあって、ジョーとカリーンは残り少ない時間を寝室で過ごす。そして出征の朝。駅には愛国歌が流れ、ごったがえしていた。涙を流すカリーンを抱きしめ、ジョーは軍用列車に乗った。--ジョーはあの時、泥水のたまった穴の底で、砲弾にやられたのだ。軍医長の命令で<407号>は人目につかない場所に移されることになり、倉庫に運び込まれた。かゆかった。腕のつけ根あたりがかゆい。ところが何もないのだ。両手も、両足もないらしい。切らないでくれと頼んだのに。こんな姿で生かしておく医者なんて人間じゃない。--ジョーは少年時代を思い出していた。父(ジェイソン・ロバーズ)は貧しかったが特別な釣竿を作るのが好きで、いつも手を動かしていた。そんな平和な家庭にも不幸な出来事が起こった。ジョーが働くようになって間もなく父が死んだのだ。母(マーシャ・ハント)は気丈に耐えていたが、幼い妹たちは床にうずくまっていた。--顔をおおっているマスクを変える時、あらゆる神経を総動員してジョーはさぐってみた。舌がなかった。アゴがなかった。眼も、口も、鼻もなかった。額の下までえぐられているのだ。ある日、ジョーは何かが額にさわるのを感じた。そうだ、これは太陽だ。あのなつかしい暖かさ、そのにおい。ジョーは、野原で真っ裸で陽の光を浴びていたあの日のことを思いだした。--ジョーは悪夢のような戦場での体験を思いおこしていた。その夜、塹壕の中で悪臭を放つドイツ兵の死体を埋めていた。その最中に、あの長い砲弾のうなりがのしかかり、強烈な白熱が眼前にとび散り、それきり暗黒の世界にしずみこんでしまった。--<407号>は新しいベッドに移し変えられた。看護婦(ダイアン・ヴァーシ)も変わった。その看護婦はジョーのために涙を流し、小瓶に赤いバラを1輪、いけてくれた。やがて雪が降り、看護婦は<407号>の胸に指で文字を書き始めた。M・E・R・Y。メリー、…そうか、今日はクリスマスなのか…ぼくもいうよ看護婦さん。メリー・クリスマス!--クリスマスの夜ジョーの勤め先のパン工場は熱気にあふれていた。皆はダンスを楽しんだ。父はジョーにいった。何もいえないなら電報をうて、モールスだ。頭を使うんだ。--その日、<407号>が頭を枕にたたきつけているのを見た看護婦は軍医を呼んだ。数日して、テイラリーと神父が倉庫を訪れた。頭を枕にうちつける<407号>を見た将校は「SOSのモールス信号です。」といった。将校は<407号>の額にモールス信号を送った。「君は何を望むのか…」「外にでたい。人々にぼくを見せてくれ、できないなら殺してくれ」上官は愕然とした。そして一切の他言を禁じた。それに対し神父がなじった。「こんな蛮行を信仰でかばいたくない。諸君の職業が彼を生んだのだ!」一同が去ったあと、1人残った看護婦は、殺してくれと訴えつづける<407号>の肺に空気を送り込む管を閉じた。しかし、戻ってきた上官がこれを止め、看護婦を追いだしてしまった。倉庫の窓は閉ざされ、黒いカーテンが全てをかくした。暗闇にジョーだけが残された。…ぼくはこれ以上このままでいたくない。SOS、助けてくれ、SOS…その声なき叫びはいつまでもひびいている。(KINENOTE)『ジョニーは戦場へ行った』(Johnny Got His Gun) は、ダルトン・トランボが1939年に発表した反戦小説である。本作は第二次世界大戦勃発の1939年に発表されたが、反戦的な内容が「反政府文学」と判断され、戦争の激化した1945年、ついに絶版(事実上の発禁処分)となる。戦後になって復刊されたものの、朝鮮戦争時には再び絶版とされ、休戦後に復刊されるなど、戦争のたびに絶版と復刊を繰り返す。ベトナム戦争最中の1971年、トランボ自身の脚本・監督により映画化された。カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ、国際映画評論家連盟賞、国際エヴァンジェリ映画委員会賞を受賞。112分(ウィキ)「独裁者」や「殺人狂時代」を作ったチャップリンは共産主義者ではなかったですが、戦争を批判したり平和を主張したことで、右翼のやり玉に挙げられ最後は米国から追放されました。チャップリンは共産主義者であることを否定し、代わりに自分を「平和主義者」と呼んだが[267][268][269]、イデオロギーを抑圧する政府のやり方は自由権を侵害していて容認できないと主張した[270]。チャップリンはこの問題について沈黙を拒否し、共産党員の裁判と下院非米活動委員会の活動に公然と抗議した[271]。チャップリンの活動はマスコミで広く報道され、冷戦の恐れが高まるにつれて、チャップリンがアメリカ市民権を取らなかったことにも疑問が投げかけられ、国外追放を求める声も上がった[236][270][272][273]。例えば、1947年6月に非米活動委員会の委員であるジョーン・E・ランキン(英語版)議員は、「チャップリンがハリウッドにいること自体が、アメリカの体制には有害なのです…今すぐ彼を国外追放処分にして追放すべきであります」と発言した[270]。同年9月、チャップリンは非米活動委員会から召喚状を受け取ったが、証言するために出頭されることはなかった[244][274][275](チャップリンが放浪紳士の扮装で出廷する、と声明を出すと出頭は沙汰止みとなった[276])。(ウィキ)とにかくアカのレッテルをはって、進歩的な人や自由主義者を片っ端から弾圧した時代ですから、「ジョニーは戦場に行った」なんていう反戦小説を書いたトランボはかっこうの標的だったのでしょう。この映画を劇場で観たころ、テレビの月曜ロードショーで「黒い牡牛」(1956年)が放送されて、解説の荻昌弘がトランプがハリウッド追放中に偽名(ロバート・リッチ)で書いた脚本と述べていたのをよく覚えています。
2024.02.12
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ストーリー:卓越したドライビングテクニックを武器に輸送車強奪事件を繰り返したドミニク(ヴィン・ディーゼル)は指名手配を受け、LAを離れていた。南米ドミニカでも恋人レティ(ミシェル・ロドリゲス)や仲間とともに、タンクローリー襲撃を成功させる。しかし、当局の捜査の手がすぐ近くに迫っていた。レティを巻き込むことを心配したドミニクは、彼女の前から姿を消す。次に彼が現れたのはLA。妹ミア(ジョーダナ・ブリュースター)から衝撃的な事実を耳にしたドミニクは身の危険を知りつつ、ある人物への復讐を誓い、この街に戻ってきたのだ。その頃、ドミニクのライバルで元警察官、今やFBIの捜査官となったブライアン(ポール・ウォーカー)は、凶悪な麻薬組織を追っていた。捜査の過程でニトロ搭載の改造車に行き当たった彼は、その所有者を追って偶然ドミニクと再会。ドミニクの復讐の相手も、同じ改造車に乗っていたのだ。8年ぶりの再会。狙う相手が同じと知った2人だが、FBIに任せろというブライアンに、ドミニクはこの手で復讐する、と言い放つ。手に入れた情報をもとに、麻薬王ブラガが仕切るストリートレースに、愛車ダッジ・チャージャーで出場するドミニク。その目の前に、スカイラインGT-Rで現れるブライアン。このレースは、メキシコからの麻薬の“運び屋”を選ぶレースでもあったのだ。壮絶なデッドヒートを演じるドミニクとブライアン。ブラガの腹心カンポス(ジョン・オーティス)は、それを見て2人を雇う。彼らに与えられた仕事は、メキシコ国境を越える隠しトンネルを走り抜け、国境警備隊に見つからずにヘロインを運び込むこと。冷酷なフェニックス(ラズ・アロンソ)の先導で任務は成功するが、そこに予期せぬ罠が。生き残るために手を組むことになったドミニクとブライアン。姿を見せないブラガの行方は?そして、真の敵の正体は?事件は意外な真実へと突き進んでいく……。(KINENOTE)『ワイルド・スピード MAX』(ワイルド・スピード マックス、原題: Fast & Furious)は、2009年公開のアメリカ合衆国の映画。ワイルド・スピードシリーズ第4作で、ストリートレースを題材にしたカーアクション映画。今作のおもな舞台はロサンゼルス、メキシコ、ドミニカ共和国。1作目の主演コンビであるポール・ウォーカーとヴィン・ディーゼルが復帰。前作までと比較するとレースや車を中心とした演出はやや抑えられており、カーチェイスアクションとしての演出が色濃くなっている。· スカイラインGT-R BNR34が登場するアクションシーンの撮影には、RB25DET型を搭載する「25GT-t」をベースとして製作したレプリカ車両が使われた。これは実際のGT-Rがアメリカ国内において8万ドルもするためである[4]。· 上記の通りアクションシーンの撮影にはレプリカを使用したが、グリーンスクリーン等の固定撮影用には撮影車両と同一の外装を装着した本物のGT-Rを用意し、撮影していた[4]。· シリーズ共通だが、俳優のドライブシーンの多くがグリーンスクリーンでの合成撮影である。ハリウッドでは、俳優に各種制約があるため、アクションシーンの撮影は全てスタントマンが行う[4]。 本シリーズ作品にそれぞれ与えられている「ワイルド・スピード(通称・ワイスピ)」およびそれに続くサブタイトルは、いずれも原題の直訳に基づいていない日本オリジナルの邦題である(原題「Fast & Furious」は、「熱気に満ちた、勢いよく、熱狂的な」[3]といった意味の慣用句)。これに関しては、米メディアのThe Hollywood Reporterが「爽やかで、わかりやすく、アーケードのレースゲームのようなタイトル」と評し絶賛する内容の記事を掲載しており[4]、他にも様々なメディアにおいて好意的に評価されている[5][6]。『ファイヤーブースト』で監督を務めたルイ・レテリエはインタビューにて「僕が好きなタイトルは日本版です。(中略)他にも『Sky Mission』とかがあって、“うんうん、言いたいことわかる”って感じ」と語っている[7](ウィキ)シリーズ4作目で、このシリーズの作品は初めてです。カーチェイスやレースがウリの映画なのでしょう。ドラマとしては、黒幕をぼかしたもののわかりやすい展開で、物足りなかったです。この回では亡くなったことになっているドミニクの恋人レティも実は死んでいないそうですので、ストーリーは付けたしご都合主義のようです。国境越えのトンネルというのは、面白いアイディアと思いました。ワイルド・スピードは、邦題だったのでね。
2024.02.12
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ジョン・ウェイン(John Wayne, 1907年5月26日 - 1979年6月11日)自他ともに認める愛国主義者である彼は、リベラル思考の観客からは典型的タカ派俳優として非難の対象ともなり、特にベトナム戦争が泥沼化した一時期には人気を落としたが、それに対抗するように製作・監督・主演兼任で映画『グリーン・ベレー』を完成させ、ベトナムで特殊作戦に従事するアメリカ兵を描いた。ジョン・ウェインは多くの戦争映画に出演し「アメリカの英雄」として賞賛されたが、現実には兵役には就かなかった。1940年に徴兵が復活し、1945年に第二次世界大戦が終了するまでウェインはハリウッドに残って21作の映画に出演した。1941年の真珠湾攻撃当時、彼は34歳で徴兵の該当年齢であったが、家族依存の理由で3-Aに分類され[要校閲]徴兵猶予を申請し受理された。これには国中の興味が集まり、後に2-Aに変更された[要校閲]。映画でも赤狩りの対象となった人たちが、沖縄戦や各地の戦争経験を語り、ジョン・ウェインに君は戦争中何をしていたのかと問うシーンがあります。「アメリカの英雄」の真の姿が、描かれていました。日本で「愛国」を説く人たちは、どうでしょう。昭和の時代には国士と言われた人が、CIAの手先だったという事件もありました。「人生は、愛と友情と裏切りだ」というのはフィルムノワールの某監督の言葉ですが、この作品でも赤狩りで仲間を裏切る人物が描かれます。その一人が、ゴッホの絵を売って裁判を支援したエドワード・G・ロビンソンです。エドワード・G・ロビンソン(Edward G. Robinson, 1893年12月12日 - 1973年1月26日)は、アメリカ合衆国の俳優。ハリウッドで性格俳優として活躍、50年の俳優生活で101本の映画に出演した。ルーマニア・ブカレストで、ユダヤ系の両親の間に生まれた[1]。1903年に家族と共にニューヨークへ移住。ニューヨーク市立大学シティカレッジで学んだ後、American Academy of Dramatic Artsで演技を学ぶ。1915年にブロードウェイ・デビューを果たし、舞台俳優として精力的に活動する。また並行して映画にも出ていたが、ほとんどが小さな役であった。 1940年代後期以降の赤狩りの時期に、共産主義者と疑われてブラックリストに載せられてしまい[2]、映画から離れざるを得なくなってしまう。私生活では絵画コレクターでもあったが、この時期には、当時の妻との離婚による慰謝料捻出のため、長年収集してきたコレクションを300万ドル余り(当時)で手放している。その間はブロードウェイに出演し、1950年代後半から再び映画に出始めるようになった。(ウィキ)秘密の聴聞会で集会参加者を明かしたことが、明らかにされていました。脚本家は偽名で仕事ができるが、役者の自分は顔が出るのでそれができない。ブラックリストに載れば、仕事がなくなるというのが、彼の言い訳でした。反共派からは、彼に仕事を回すようにとの指示です。監督も偽名というわけにはいかないでしょう。この作品では出てきませんが、寝返った監督で思い起こすのは、波止場(1954年)やエデンの東(1955年)の監督のエリア・カザンです。エリア・カザン(Elia Kazan [ˈiːljə kəˈzæn]、本名: Elias Kazanjoglou、1909年9月7日 - 2003年9月28日)は、トルコ生まれのギリシャ系アメリカ人(英語版)の俳優、演出家、映画監督。 1952年、アメリカ下院非米活動委員会によって、元共産党員であるカザンも共産主義者の嫌疑がかけられた。カザンはこれを否定するために司法取引し、共産主義思想の疑いのある者として友人の劇作家・演出家・映画監督・俳優ら11人の名前を同委員会に表した。その中には劇作家・脚本家のリリアン・ヘルマン、小説家のダシール・ハメットなどの名もあった。以降もカザンは、演劇界・映画界において精力的に活動を続けることができ、名作と呼ばれる作品の誕生に数多く関わっていくが、この告発行為は、後のカザンの経歴およびその作風に暗い影を落とすこととなった。同年には監督した『革命児サパタ』が公開。主演はマーロン・ブランド。カザンはこの映画のなかに、共産主義に対する批判のメッセージを込めたと言われている。 1998年、長年の映画界に対する功労に対してアカデミー賞「名誉賞」を与えられたが[1]、赤狩り時代の行動を批判する一部の映画人からはブーイングを浴びた(賞のプレゼンターはマーティン・スコセッシとロバート・デ・ニーロ)。リチャード・ドレイファスは事前に授与反対の声明を出し、ニック・ノルティ、エド・ハリス、イアン・マッケランらは受賞の瞬間も硬い表情で腕組みして座ったまま、無言の抗議を行なった。スティーヴン・スピルバーグ、ジム・キャリーらは拍手はしたが、起立しなかった。起立して拍手したのはウォーレン・ビーティやヘレン・ハント、メリル・ストリープらだった。通常は名誉賞が授けられる人物には、全員でのスタンディングオベーションが慣例のため、会場内は異様な空気に包まれた。また、会場の外では授与支持派と反対派の双方がデモを行なった。反対派のデモ隊の中には、かつて赤狩りで追放歴のある脚本家のエイブラハム・ポロンスキーもいた。
2024.02.11
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ストーリー:ダルトン・トランボは、その才能によりハリウッドの俊英の1人に数えられるようになっている脚本家である。しかし、彼はアメリカ共産党員として積極的に活動していることから、コラムニストのヘッダ・ホッパーや俳優のジョン・ウェインなどのエンターテイメント業界における強硬な反ソ連の人物から軽蔑されている。トランボは、ハリウッド映画における共産主義のプロパガンダに関して下院非米活動委員会(HUAC)で証言するよう召喚された10人の脚本家のうちの1人となった。彼らは質問に直接答えることを拒否し、下級審で議会侮辱罪で有罪判決を受けたとしても、最高裁で多数派を占めるリベラルな判事たちがそれを覆すことを確信している。トランボたちの行動を支持するトランボの友人で俳優のエドワード・G・ロビンソンは、彼らの弁護士費用調達のために、ヴィンセント・ファン・ゴッホの1887年の絵画『ペール・タンギーの肖像』を売却する。しかし、リベラル派とされるワイリー・ラトリッジ判事とフランク・マーフィー判事の予期せぬ死去により、トランボの上訴する計画は叶わぬこととなった。1950年、トランボはケンタッキー州アシュランドの連邦矯正施設で11か月間服役する。「ハリウッド・ブラックリスト」の対象が拡大し、より多くの共産主義者や共産主義シンパが業界から排除される中、トランボとその仲間たちは、自分の仕事を守るために彼らとの繋がりを否認するロビンソンとプロデューサーのバディ・ロスによって見捨てられる。トランボは刑務所から釈放されたが、依然としてブラックリストに載っており、彼の経済状況と家庭生活はますます逼迫していく。彼は友人のイアン・マクレラン・ハンターに『ローマの休日』の脚本を渡し、ハンターが脚本の名義と報酬の一部を得るという手段をとる(最終的にはハンターがアカデミー原案賞を受賞する)。のどかな湖畔の家を売り、都会の家に引っ越した彼は、低予算のキング・ブラザーズ・プロダクションでペンネームを使った上で脚本家として働き、ブラックリストに載っている仲間の作家たちにB級映画の脚本執筆の仕事を回してやる。彼は妻のクレオと10代の子供たちに仕事を手伝わせ、家庭内不和が大きくなる。トランボがペンネームで原作を書いたキング・ブラザーズの映画『黒い牡牛』がアカデミー賞を受賞したが、トランボはそれが自分によるものだとは言えない。ブラックリストに載っている友人のアーレン・ハードは貧窮の中、癌で亡くなる。一方、キング・ブラザーズを脅してトランボを解雇させようとするヘッダ・ホッパーの同調者らの試みは完全な失敗に終わる。業界ではトランボがゴーストライターとして脚本を沢山書いてきているという疑惑が浮上するが、彼はそれを肯定しないように注意を払う。1960 年、俳優のカーク・ダグラスが彼の大作映画『スパルタカス』の脚本を書くよう彼に依頼し、オットー・プレミンジャー監督は彼に『栄光への脱出』の脚本を依頼する。ホッパーはダグラスを脅してトランボを降板させようとしたが、ダグラスとプレミンジャーの2人はトランボが脚本を書いたと公表する。1961年の初めまでにブラックリストの効力は、米国新大統領ジョン・F・ケネディが『スパルタカス』を称賛するほどまでに下落し、トランボたちは自分たちの名前で仕事を再開出来るようになった。10年後、ハリウッドからの正当な賞賛を漸く勝ち得たトランボは、ブラックリストが如何に彼らを、即ち、自分たちの主張を守って仕事を失った人たち、また、仕事を守るために自分たちの主張を曲げた人たちを犠牲にしたかについて語った。(ウィキ)本作は批評家から好意的な評価を受けている。映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには178件のレビューがあり、批評家支持率は73%、平均点は10点満点で6.7点となっている。サイト側による批評家の見解の要約は「『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』はトランボの作品には劣るかも知れない。しかし、そうであったとしても、素晴らしい出来映えであり、俳優陣の演技も見事である。それはダルトン・トランボという傑出した脚本家への賛辞としては十分以上のものである。」となっている[19]。第90回キネマ旬報ベスト・テンの外国映画ベスト・テンでは、第4位となる[21]。(ウィキ)家族のきずなを描いたとてもよい映画ですが、ハリウッドの赤狩りの歴史がわかるとても興味深い作品です。それらしい似た俳優が実在のスターを演じていますが、知らないことも描かれていて面白かったです。エディと呼ばれていたのは、エドワード・G・ロビンソンで、印象派などの高価な絵をコレクションしていたのですね。ゴッホ以外にもルノアールやモネの絵などもありました。その部屋でたばこを吸うなというセリフのが、おかしかったです。民主党支持者の彼の寝返りは、痛かったです。ヘレン・ミレン演じるコラムニストのヘッダ・ホッパーは憎々し気な人物ですが、知りませんでした。ヘッダ・ホッパー(Hedda Hopper、1885年5月2日 - 1966年2月1日)ブロードウェイのコーラスガールや舞台女優を経て、31歳で映画デビューし100本以上の映画に出演したが、どれも端役ばかりだった。50歳でゴシップ・コラムニストに転身すると脚光を浴び、先に活躍していたルエラ・パーソンズとともにハリウッドに大きな影響力を持った。特にアメリカの理想を守るための映画同盟には創設時から関係し、赤狩りが映画界に及んだ際にはリベラル派をはじめ同性愛者や自由奔放な者まで含めて左翼と糾弾、ブラック・リストの作成に深く関わった。後年赤狩りで追われた映画人が復帰した際もその攻撃を続け、カーク・ダグラスが脚本にダルトン・トランポを(偽名を用いて)起用した『スパルタカス』を制作した際には、共産主義者が書いた共産主義賛美の映画と強く非難している。彼女がMGMの支配者メイヤーをユダヤ人だとばらすと脅すシーンは、こわかったですね。他にも敵役の反共側では、ジョン・ウェイン、監督のサム・ウッド、MGMのメイヤーなどが登場します。サム・ウッド(Sam Wood , 1883年7月10日 - 1949年9月22日)保守思想から右翼政治団体「アメリカの理想を守るための映画同盟」(MPA)を結成し、その会長を務めた。このMPAは結成時に、自由なアメリカ的な暮らしを破壊的な手段で侵害して変えようとする共産主義やファシズム、同志的信念の高まりに対する断固たる戦いを表明した[5]。ウォルト・ディズニー、クラーク・ゲーブル、ゲイリー・クーパー、ロナルド・レーガン、バーバラ・スタンウィック、ジョン・ウェインも創設メンバーに含まれていた[6]。1947年に下院非米活動委員会で証言し、ハリウッド内の「左」寄り勢力を激しく批判している[2]。かつてウッドに協力して『オペラは踊る』と『マルクス一番乗り』に出演したグルーチョ・マルクス(マルクス兄弟の三男)はウッドを「ファシスト」と呼び[2]、彼のアフリカ系アメリカ人に対する人種差別的な発言に激怒した[7]。 ルイス・バート・メイヤー(Louis Burt Mayer、1884年7月12日 - 1957年10月29日) メトロ・ゴールドウィン・メイヤーを退社したメイヤーは、映画ビジネスから手を引き隠退生活に入ることになった。晩年のメイヤーは石油産業や不動産に投資することで、自らの資産を更に増加させた[4]。投資業の傍ら、メイヤーは以前にも増して精力的に政治活動に関わるようになった[注 6]。メイヤーは上院議員ジョセフ・マッカーシーの赤狩りに積極的に協力、1952年の共和党全国大会では中道路線を主張する大統領候補のドワイト・D・アイゼンハワーを「穏当すぎる」として非難した[2]。続きます。
2024.02.10
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ストーリー:豊かな自然に恵まれた海の町で、両親と兄と暮らす高校生ルビー(エミリア・ジョーンズ)は、家族の中で一人だけ耳が聞こえる。ルビーは幼いころから、陽気で優しい家族のために通訳となり、家業の漁業も毎日欠かさず手伝っていた。新学期、ルビーは秘かに憧れるクラスメイトのマイルズ(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)と同じ合唱クラブに入部する。顧問の先生から歌の才能を見出されたルビーは、都会の名門音楽大学の受験を強く勧められる。しかし、ルビーの歌声を聴くことができず、娘の才能を信じられない両親は、家業の方が大事だと大反対する。ルビーは悩んだ末、夢よりも家族の助けを続けることを選ぶが、父は思いがけない方法で娘の才能に気づき、意外な決断をする……。(KINENOTE)『Coda コーダ あいのうた』は、2021年のアメリカ合衆国・フランス・カナダのカミング・オブ・エイジ(英語版)・コメディドラマ映画。主人公は家族の中で自分だけが聴覚のある女子高生で、漁業の仕事を手伝いながら歌手になるという夢を持つ。監督・脚本はシアン・ヘダー。聴覚障害者の両親をもつ子供(コーダ)である10代の少女を描いており、主人公である彼女をエミリア・ジョーンズ、聴覚障害者の両親をマーリー・マトリンとトロイ・コッツァー、聴覚障害者の兄をダニエル・デュラント(英語版)が演じた。他にエウヘニオ・デルベス(英語版)とフェルディア・ウォルシュ=ピーロが出演している。2014年のフランス語映画『エール!(フランス語版)』の英語リメイクであるこの映画はアメリカ、フランス、カナダの共同製作であり、アメリカ合衆国マサチューセッツ州グロスターでロケーション撮影が行われた。ワールド・プレミアは2021年1月にサンダンス映画祭で行われた。(ウィキ)アカデミー作品、脚色、助演男優の3賞受賞作品です。英会話サークルでCODA(Children of Deaf Adultsの略で、親がろう者であるひとのこと)のことが話題となったので、観たかった作品です。フランス映画の英語リメイクとは知りませんでした。米国東部の漁業の町が舞台というのが、いいです。石切り場跡の池に飛び込むシーンは、雄大なアメリカを感じさせます。合唱発表会で無音となるシーンでは、はっとなります。一瞬自分も耳が聞こえない人になったような感覚です。上手いと思いました。ラストのオーディションで手話を交えて歌うシーンは、予想通りと思っていても感動します。ありますが全体を通して障がい者が生き生きと描かれているのが、ちょっと下品ではありますがいいです。青春の光と影は、中学生の頃映画を観て初めて買ったレコードです。50年以上も前ですね。この映画で聴けるとは思いませんでした。ジュディ・コリンズ Judy Collins/青春の光と影 Both Sides Now (1969年) (youtube.com)青春の光と影 Both Sides Now ジョニ・ミッチェル 詞曲 天使の髪が幾重にも流れ アイスクリームのお城が浮かんでる 羽毛でできた峡谷があちこちに 雲はそんな風に見えていた だけど今にしてみると 雲は 太陽を遮り 雨や雪を降らせてくる たくさんあった やるべき事も 雲に 行く手を阻まれたりした “雲の上と雲の下” 私はその両側を見てきた それは雲の幻影を 思い浮かべたに過ぎない 私は雲が何かなんて 解っちゃいない 全く何も 涙と おそれと 誇りを感じながら 「愛してる」と叫ぶこと 夢と構想 そしてサーカスに酔いしれる聴衆 人生は そうあるもの思っていた だけど古い友だちは 妙な態度をとって 首をかしげて「お前は変わった」と私に言う 何かを失い 何かを得る 私はただ毎日をそう生きているだけ “人生の勝者と敗者” 私はその両者を見てきた それは人生の幻影を 思い浮かべたに過ぎない 私は人生が何かなんて 解っちゃいない 全く何も “人生の浮き沈み” 私はその両面を見てきた それは人生の幻影を 思い浮かべたに過ぎない 私は人生が何かなんて 解っちゃいない 全く何も...
2024.02.09
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ストーリー:史上最悪の黒い魔法使いグリンデルバルド(マッツ・ミケルセン)が魔法界の支配権を握ろうとしていることを知ったダンブルドア(ジュード・ロウ)は、シャイでおっちょこちょいな魔法動物学者ニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)をはじめとした魔法使いの仲間たちやマグル(非魔法族)とチームを結成し、グリンデルバルドに立ち向かう。(KINENOTE)『ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密』は、2022年のイギリス・アメリカ合衆国のファンタジー映画。J・K・ローリングの原作から、デヴィッド・イェーツが監督、ローリングとスティーヴ・クローヴスが脚本を務める。『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』(2018年)の続編であり、「ファンタスティック・ビースト」シリーズの3作目で、「魔法ワールド」フランチャイズでは11作目となる。(ウィキ)第1作目を見たことがありますが、魔法動物のキャラを使った子供向けの作品でした。今回は、権力争いで動物は抑え気味、それなりに楽しめました。ただ、あれがキリンと言われると、違和感を覚えました。いっしょに見ていた愛方は、途中で離脱です。ハリーポッターも苦手です。中華人民共和国(中国)でも2022年4月に公開されたが、同性愛に関する6秒の台詞を削除した上で上映されていることが同月報じられた。ワーナー・ブラザーズは「たとえマイナーな編集はあっても、中国の観客にもこれを体験する機会を持ってもらうことが大切だ」とのコメントを発表している[25][26]。(ウィキ)かの国では、ゲイは御法度なのでしょうか?ちょっと意外でした。タイトルも変更?
2024.02.07
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ストーリー:アメリカからイギリスへ空輸中のスペース・シャトル“ムーンレイカー”が、アラスカ上空で突如何者かにハイジャックされた。捜査を委任された英国情報部は、007ジェームズ・ボンド(ロジャー・ムーア)を任務に当てた。早速、上司M(バーナード・リー)から事件の背後に浮かぶ謎の大物について聞かされ、彼は現地に飛んだ。その人物とは、独自の力で米国西部に宇宙センターを築き、NASA(米航空宇宙局)に協力して“ムーンレイカー”を開発、製造してきた謎の科学者ドラックス(ミシェル・ロンダール)だ。出迎えの女秘書コリンヌ(コリンヌ・クレリー)の操縦するヘリで降り立ったボンドの前に、不気味なカリスマ的ムードのドラックスが姿を現わした。センター内を案内されたボンドは、そこでNASAの協力員として研究に従事する女性科学者ホリー(ロイス・チャイルズ)と会った。その夜、ボンドは色仕掛けでコリンヌに迫り、ドラックスの書斎に侵入し、事件のカギとみられるマイクロ・フィルム撮影に成功した。しかし、手をかしたコリンヌは翌日猛犬のエジキにされた。フィルムに写っていたガラス店をたよりにベニスに飛んだボンドは、そこでドラックスの指命を受けた殺し屋たちに襲われ、猛烈なカー・チェイスを展開する。敵を倒すと、昼間目をつけておいたガラス店奥の秘密ラボに潜り、そこで貴重と思われる薬品のサンプルを手にした彼は、ドラックスの部下チャン(トシロー・スガ)の攻撃をかわし、同じくベニスに来ていたホリーの宿泊先へと押しかけた。ボンドは、そこで彼女がCIAのスパイであることを見破った。翌日、ロンドンから急行したMらの立ち合いのもとで、秘密ラボの現場検証が行なわれるが、それはドラックスらの陰謀により、跡形もなくなっていた。残る手がかりは、ガラス店にあったリオからの貨物便だ。現地に向かったボンドは、ドラックス産業系列の輸出入会社C&Wの慌しい動きを監視するが、その頃彼と同じ行動をホリーもとっていた。互いに牽制しながらも行動を共にしていた2人は、シュガーロー山をケーブルで下山している途中、チャンの亡き後に雇われたジョーズ(リチャード・キール)に襲われ、ホリーが敵に捕えられてしまう。リオの情報部出先に出頭したボンドは、Mから謎の毒ガスが、アマゾン上流で採れる黒蘭から抽出した特殊神経ガスであることを知らされた。秘境に向かったボンドを、またもやジョーズが襲った。危機を脱したボンドの前に、一人の美女が現われ、彼を巨大な古代遺跡群に案内した。その地下にあるとてつもなく広がる宇宙基地こそ、敵の牙城だった。彼らは動植物を除いて地球人類を抹殺し、選ばれた新人類による帝国を築こうとしていた。ボンドとホリーを閉じこめ毒ガスカプセルを積んだムーンレイカーがドラックスと新人類を乗せて飛び立った。そして辛くも脱出に成功したボンドとホリーも6号機を奪い、宇宙へ飛び立った。巨大な宇宙ステーションにドッキングした2人は、スキを見てステーションの位置をNASAに知らせた。しかし、それに気がついたドラックスはすかさず地球へ向けて毒ガス・カプセルを投下した。再び捕われの身になった2人は、ドラックスの新人類計画の盲点を衝いてドラックスとジョーズの引き離しに成功。その時、ボンドら救出のために駆けつけたコマンド部隊がドラックスの配下たちと戦闘を展開した。ボンドはドラックスを追いつめ、彼を宇宙の永遠の塵に変えてしまう。そして爆発寸前のステーションから無傷のムーンレイカーにホリーともども乗り移り、投下された毒ガスの追跡を開始した。そして、すべてを壊滅させ、人類絶滅の危機から救うのだった。(KINENOTE)『007/ムーンレイカー』(原題: Moonraker)は、ルイス・ギルバート監督の1979年のスパイ/アクション映画。「ジェームズ・ボンド」シリーズの第11作目。イアン・フレミングの同名の小説を原作とする。『スター・ウォーズ』(1977年)の成功がもたらした世界的なSF映画ブームの中で製作され、「遂にボンドが宇宙へ進出した作品」として注目された。そのため、ボンドの数多い冒険の中でも最も荒唐無稽なものとなった。また、物語の舞台もカリフォルニア、ベニス、リオ、アマゾン、宇宙とめまぐるしく変わり、全編通して非常にスピーディーな展開となっている。本作は1979年の映画の世界興行成績において、2億1030万ドルとシリーズ最高額を更新し[9]、『ダイヤモンドは永遠に』以来4作、8年ぶりに第1位[10][11]に返り咲いた。日本では1980年度の外国映画の配給収入で、『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』に次ぐ第2位[12][13]全体配給収入は4位。(ウィキ)宇宙に飛び出した007、ぶっ飛んだストーリーでどうかと思いましたが、結構楽しめました。カリフォルニアと言っても、舞台はベルサイユ宮殿のような豪邸、アマゾンのシーンではイグアスの滝や中米の遺跡が登場です。この映画ですごいと思ったのは、冒頭のこのシーンです。どうやって撮ったの?と思ってしまいます。オープニングクレジット前のボンドがパラシュート無しで飛行機から突き落とされ、敵のパラシュートを奪い、ジョーズから逃げるシーンはCGはおろかVFXすら使用しておらず、全て実写で撮影。パラシュート降下にかけては世界一とされる名人を収集した製作チームは、どうやってパラシュートを隠すか、35ミリカメラをヘルメットの上に取り付けてパラシュートが開いたときにカメラマンが怪我をしないためにどうするかという二つの問題を解決した。ウィルソンとジョン・グレンはカリフォルニアに飛び、超軽量チタニウムカメラの本体と実験段階のプラスチック製パナビジョン・レンズで撮影。完成したシーンはシリーズ屈指の完成度を誇る名シーンの一つとして高く評価された。(ウィキ)ベネチアのゴンドラが、ホバークラフトに変身というのは、笑ってしまいました。こういうお遊びはいいですね。観ていて残念だったのは、ひとり目の殺し屋チャンです。黄色い帯の着物姿、日本人なのに名前はチャン、防具をつけて真剣ではなくて竹刀で襲うといった具合で何ともへんてこなキャラクターです。菅敏郎という役者だそうです。参考:ムーンレイカー (moonrakers) とは、イギリスのウィルトシャー州の人、または馬鹿者・阿呆者を表す英語の古典的隠語である。ムーン (moon) は「月」、レイク (rake) は「熊手」を意味し、直訳すると「ムーンレイカー」とは「熊手を使って月を集める人」となる。元になった伝承:ある満月が煌々と照る晩、ある村の外れを密輸品業者たちが夜道を急いでいた。彼らは高価な品物を樽の中に隠し、これをロバに積んで運んでいた。しかし、ある池のほとりでロバが急停止し、その拍子に樽が外れて池に落ちてしまった。男達は辺りにあった熊手で何とかこの樽を岸まで引き寄せようと悪戦苦闘するが、運悪くその最中、村の税務署の役人がそこを通りかかった。男たちは池の中から何かをすくい上げようとしているようだが、暗がりの中で池の中に見えるのは水面に映った満月だけ。役人が不審に思って事情を尋ねると、男の1人が「そこにでっけえチーズが浮いてますでしょう、あれをなんとか取れないもんかと思いやしてねえ」と機転を利かせた。すると、役人は大笑いしてその場を立ち去った。役人は馬鹿なムーンレイカー達の笑い話をことあるごとに友人達に話して回った。しかし、本当に最後に笑ったのは密輸業者達だった。(ウィキ)荒唐無稽なストーリーでお金を稼いで最後に笑ったのは、制作者のアルバート・R・ブロッコリということになるでしょうか。*アルバート・R・ブロッコリの伯父であるパスクァーレ・デ・チッコは、食用野菜として世界的に広く食されているブロッコリをリトアニアからアメリカへ持ち込み広めた人物である。
2024.02.03
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6/27(土)公開 映画『レフト・ビハインド』予告篇 (youtube.com)ストーリー:突如数百万もの人々が忽然と消え、都市機能が停止、暴動が起こるなど世界中がパニック状態に陥ってしまう。航行中の飛行機内からも衣服や荷物を残したまま乗客が消えてしまい、機内は混乱する。さらに管制塔とも連絡が取れなくなり、パイロットのレイ(ニコラス・ケイジ)は地上に残った娘を心配しつつ、懸命に乗客を守ろうとする。(KINENOTE)『レフト・ビハインド』(原題: Left Behind)は、2014年にアメリカ合衆国で製作されたスリラー映画である。監督・編集をヴィク・アームストロングが、主演をニコラス・ケイジが務めた。また、原作はティム・ラヘイ、ジェリー・ジェンキンズの小説『レフトビハインド』(1995年出版)である。聖書における携挙を描いた作品。表題は英語で「後に残される、取り残される、置いていかれる、おいてきぼりにされる」といった意味。110分携挙(けいきょ、英語: rapture)とは、プロテスタントにおけるキリスト教終末論で、未来の主イエス・キリストの再臨において起こると信じられていることである。まず神のすべての聖徒の霊が、復活の体を与えられ、霊と体が結び合わされ、最初のよみがえりを経験し、主と会う。次に地上にあるすべての真のクリスチャンが空中で主と会い、不死の体を与えられ、体のよみがえりを経験する。(ウィキ)腰を痛めて寝たきりの愛方が、何かパニック映画を見たいというのでYouTubeで検索して航空パニック映画と思って観ました。プロテスタント福音派が信じる携挙をモチーフにした映画です。突然赤ちゃんや子どもそして信仰心のある大人が消えて=天国に召されて、衣服だけが残されるという有様で、まさしく大パニックです。信者は消えたのに、心から信じていなかった神父は取り残されたというエピソードもありました。ハリウッド的な一大スペクタクル映画ですが、評価はとても低いようです。本作は第35回ゴールデンラズベリー賞で最低作品賞、最低脚本賞、最低主演男優賞(ニコラス・ケイジ)の3部門にノミネートされたが、受賞はしなかった[22]。当時の映画評は、本作は批評家から酷評されている。映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには61件のレビューがあり、批評家支持率は2%、平均点は10点満点で2.1点となっている。サイト側による批評家の意見の要約は「イナゴの襲来を思わせる。『レフト・ビハインド』はニコラス・ケイジの過去の栄光にさらに深い傷をつけてしまった。」となっている[12]。また、Metacriticには25件のレビューがあり、加重平均値は12/100となっている[13]。「エンターテインメント・ウィークリー」のリンゼイ・バハールは「控えめに言っても、『レフト・ビハインド』は実に程度の低い演技による粗末でセンセーショナルなプロパガンダだ。娯楽作品とは思えない。最悪な表現を使えば、馬鹿の極みだ。キリスト教徒であろうとなかろうと、観客はこの映画よりもいい映画を見たほうがいい。また、こんなくだらない映画の中で起こる啓示に高尚な意味があるとは想像しがたい。」と評している[14]。リチャード・ローパーは本作にD-の評価を下し、「脚本は目も当てられないほどひどい。演出は様になっていない。特殊効果は特殊と言えるものではない。演技はバスケットボールのコートの板のように動きがない。『レフト・ビハインド』の全てが不自然で表層なものに思える。心から『おお、神よ』と言いたい。」と述べている[15]。「トロント・スター」のリンダ・バーナードは本作に4つ星評価で1つ星半を与え、「『スネーク・フライト』や『シャークネード』と同じような映画かなと観客に期待させておきながら、1970年代の飛行機映画のような展開が繰り広げられている。」と批判している[16]。と、さんざんですが、キリスト教サイドからも低評価です。本作に対してはキリスト教系の批評家からすら批判の声が上がっている。ポール・チャンバースは「並みの知性、あるいはそれ以上の知性を持つキリスト教徒は何百万人といる。自分もそのうちの一人だと考えたい。『レフト・ビハインド』の製作者にこんなに馬鹿らしい作品、2014年の最悪の映画の一本(もしかすると、映画史上に残る駄作)を作らせてしまったものはいったい何だったのだろうか。」と述べている[17]。「クリスチャニティ・トゥディ」は本作を、「『レフト・ビハインド』はキリスト教的映画ではない。キリスト教的映画がどんな意味であろうともそう言える。実際、映画内のキリスト教徒のほとんどは、空港にいる女性伝道者であろうと、レイフォード・スティールの妻であろうと、しつこいほど目立っていて、狂っていて、妄想を抱いているかのようだ。少なくとも、観客をイラつかせる存在だ。我々は『レフト・ビハインド』に星をつけるつもりはないが、システムがそれを許さないのだ。」と厳しく批判している[18]。興味深かったのは、原作者の高評価でした。批評家から酷評されている本作ではあるが、原作者からは高く評価されている。ティム・ラヘイは2000年製作の映画が気に入らず、契約違反だとして訴訟を起こした[19]。しかし、本作を鑑賞した後、ラヘイは「今まで私が観賞した携挙に関する映画の中で最高の映画だ。」と述べた[20]。また、ジェリー・ジェンキンズも「小説の魅力を十分に映画化できていると思う。この作品は、シリーズ全体への人々の関心を呼び覚ますだろう。」「良作以上の評価を下したい。」と述べている[20][21]。原作は3部作のようですが、映画は不評で資金不足となりこれっきりのようです。前半の街のパニックシーンが長くて少しイライラしましたが、ラストにつながる伏線でした。不時着と機外脱出のシーンは、この前の羽田の事故を思い起こさせて、とても興味深かったです。多民族で自己主張の国、米国ならではの様相でした。最後に、突然の子ども達の消滅の真相が明かされるのかと期待していた愛方ですが、それはなく肩透かしを食らいました。時節柄も考慮すると、それほどひどくはなくて中程度でしょうか。この手の映画で、悪人が出てこないというのもめずらしいです。
2024.01.31
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ストーリー:日本の西の端にぽつんと存在する美しい島・志木那島は、本土からフェリーで6時間かかる。そんな絶海の孤島に19年前、東京からやってきた五島健助ことコトー(吉岡秀隆)は、島のたったひとりの医師として島民の命を背負ってきた。長い年月をかけ、島民とコトーは信頼を寄せ合い、今は島にとってかけがえのない存在となった。数年前、長年コトーを支えてきた看護師の星野彩佳(柴咲コウ)と結婚した。彩佳は現在妊娠7ヶ月で、もうすぐコトーは父親になる。二人と共に暮らす彩佳の両親・正一(小林薫)と昌代(朝加真由美)、漁師の原剛利(時任三郎)、元漁労長の重雄(泉谷しげる)や漁師仲間、スナックを営む茉莉子(大塚寧々)、診療所を手伝う和田(筧利夫)らが今も変わらず暮らしている。2022年現在、日本の多くの地方同様に過疎高齢化が進む志木那島だったが、コトーがいるから大丈夫だと皆心のどこかで思っていた。しかし、島は少しずつ変化している。52歳になったコトーの穏やかな日常にも、ある変化が忍び寄っていた……。ドラマが終了してから久しくたって、劇場版の制作公開です。それだけ魅力的なコンテンツなのか、確実に受けるコンテンツなのかと思って見ました。コト―役の吉岡秀隆の当たり役だそうですが、その通りですね。ドラマを見ていませんが、柴咲コウはずいぶん丸くなっているように見受けられました。前半はダラダラとステレオタイプなのんびりした島の日常が語られます。後半の台風襲来のてんてこ舞いは、いささかリアリティーにかけていてしらけました。頑固ばあさんの藤田弓子の命と引き換えに、コト―が亡くなってこのシリーズドラマが終焉かと思ったら、1年後には、白血病を克服して元の姿で復帰です。抗ガン治療がうまくいって髪もふさふさなんて、いちおう医療を扱ったドラマなのに現実離れでしょう。骨髄移植でしょうか。脚本家が無知なのでしょう。成績不良で奨学金ストップ、医学部を中退した青年役に一度引退した子役まで引っ張り出したのは、話題作りだったのかもしれません。久しぶりの演技でしたが、不安や戸惑いの表情が良かったです。芝居はいまいちでしたが、コト―の献身的な自己犠牲で成り立っているこのへき地医療は根本的におかしいという研修医(ジャニタレ)の指摘にとても共感しました。余談ながら、誕生日を過ぎてもなかなか歩かなかった孫が2週間前に突然歩きはじめたと愛方の便りにあり、ふたりの子どものよちよち歩きの最後のシーンはとても興味深かったです。その見返りが、今度の腰痛?考えすぎですね。
2024.01.24
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ストーリー:絶対音感を持つ11歳のエヴァン・テイラー(フレディ・ハイモア)はニューヨーク州ウォルデンの施設育ち。職員のリチャード(テレンス・ハワード)は養子になることを勧めるが、彼は音楽でつながっていると信じる両親を待ち続けた。11年前、チェリストのライラ(ケリー・ラッセル)とロック・ミュージシャンのルイス(ジョナサン・リース・マイヤーズ)はニューヨークで出会う。しかしライラの父トマス(ウィリアム・サドラー)は2人の仲を引き裂く。ライラは妊娠していたが、臨月で交通事故に遭う。お腹の子は助からなかったと聞くと、演奏をやめ故郷シカゴに戻る。彼女を失い音楽への情熱をなくしたルイスはバンドを抜け、故郷サンフランシスコで金融ビジネスを始める。ある晩、電線を伝う音に導かれ施設を抜け出したエヴァンは、トラックに拾われマンハッタンへやってくる。街角でギターを奏でる少年アーサーに誘われ、ストリート・パフォーマーの子供たちが暮らす廃墟の劇場へ行く。エヴァンは元締めのウィザード(ロビン・ウィリアムズ)にギターの才能を認められ、オーガスト・ラッシュという芸名で街角に立つようになる。しかし劇場に児童福祉局の手入れが入る。逃げ出したエヴァンはゴスペルの歌声に誘われ教会へ行き、聖歌隊の少女ホープに楽譜の読み方を教わる。彼の才能に気づいた牧師がジュリアード音楽院に推薦し、入学を許可される。そのころ、死の床の父から子供が生きていることを聞いたライラはニューヨークを訪れ、リチャードの助けでそれがエヴァンであることを知る。そして自分の音楽を彼の耳に届けるため演奏依頼を引き受ける。ルイスもまたライラへの思いを曲にし音楽界に復帰するため、かつてのバンド仲間とニューヨークへやってくる。エヴァンは『オーガストのラプソディー』を作曲する。その曲はライラが出演する野外コンサートで演奏されることになるが、ウィザードが彼をストリートに連れ戻してしまう。しかしエヴァンの曲が演奏されると、思いがけない奇跡が起こる。(KINENOTE)『奇跡のシンフォニー』は、2007年公開のアメリカのミュージカル映画。カーステン・シェリダン監督、リチャード・バートン・ルイス製作、脚本はニック・キャッスルとジェームズ・V・ハート、主演は『チャーリーとチョコレート工場』で知られるフレディ・ハイモア。114分(ウィキ)おとぎ話のハッピーエンドに違和感を持つかどうかは趣味の問題ですが、私は楽しめました。主人公の演奏やワシントンスクェアでの黒人少年の歌声、教会でのゴスペル、ロックバンドでのラブバラードなど要所で音楽が物語を後押しして盛り上げていたように思います。最後は、ニューヨークフィルまで登場です。いつもは善人役のロビン・ウイリアムズが悪人役です。と言ってもそれほど憎めませんが。オペラやバレエを見たNYの劇場が映っていて、なつかしかったです。
2024.01.24
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ストーリー:時の御門の寵愛を一身にあつめた桐壷更衣は、弘徽殿の女御をはじめ、御門を取巻く女性たちの嫉視のなかに、御子を身ごもり、里に帰って玉のような男児を生み「光君」と呼んだ。が、桐壷はそのまま病床にふし、光君五歳のときにみまかった。光君は美しく成年し、源氏の姓を賜わり、御門の寵愛めでたく立身出世も早かった。そのまれに見る美貌は、街でも御所内でも、女たちの讃美の的となった。そして成年の日左大臣の娘葵の上を妻に迎えたが、葵は生来冷たい女であった。源氏の胸にひめられた女性は、五歳で死に別れた母桐壷のおもかげによく似た藤壷の君であった。しかし、藤壷は御門が愛される女性であって、源氏も思うままに近づくことは出来なかった。その上何かにつけて例の意地の悪い弘徽殿の女御が眼を光らせて邪魔だてすると知ると、彼女の姪で、源氏にはぞっこんの朧月夜の君を、ちょっとからかって見る気にもなるのだった。唯一度の逢う瀬のあと、藤壷は罪を重ねることの恐ろしさに源氏を避けて逢おうとはしない。そのうち源氏は瘧病にかかり山篭りをするが、全快しての帰路、ふと山に隠棲する尼君と共に住む美しい幼女紫の上を見て、わが家へ連れ帰る。葵の上は源氏の子供夕霧の君を生むが、死んでしまう。藤壷の懐妊にからんで弘徽殿の悪質の策謀がはげしくなり、頭中将のすすめで源氏は暫く須磨へ隠栖することになったが、明石に住む播磨入道の家に招かれ厄介になる。入道の娘淡路には、良成という恋人があるが、父は淡路を源氏の君に思っている。折しも京から便りがあり、藤壷が無事男の御子を生んだあと、直ちに尼になったときく。その悲しみに庭へ出ている源氏を刺客がひそかに襲うが、目的を果さず、かえって源氏と淡路とを結びつけてしまう。御門がおかくれになり、弘徽殿も亡くなったとの知らせに、源氏は久々に京都へもどった。淡路も良成も同道した。二條院の源氏の館には美しく成育した紫の上が待っていた。藤壷も病い篤く、源氏が駆けつける間もなく息をひきとった。淡路は懐妊していたが、その子は源氏の子ではないと自白した。源氏はかつとなって良成を斬ろうとしたが紫の上のやさしい取なしで、淡路と共に故郷へ帰してやるのであった。(KINENOTE)『源氏物語』(げんじものがたり)は、1951年(昭和26年)11月2日公開の日本映画である。大映製作・配給。監督は吉村公三郎、脚本は新藤兼人。モノクロ、スタンダード、123分、映倫番号:483。大映の創立10周年記念映画として、豪華出演者・スタッフで製作した大作映画。紫式部の『源氏物語』の初の映像化作品であり、本作では、桐壺の死と光源氏の幼少期をプロローグとし、26歳頃の源氏を中心とした1年半の物語を描いている[2]。配収は1億4105万円で、1951年度の邦画配収ランキング第1位となった。第25回キネマ旬報ベスト・テン第7位、第5回カンヌ国際映画祭撮影賞受賞。本作は、当時の源氏物語ブームにあやかって製作され[4]、当時の日本映画においては空前の規模で製作を敢行した[5]。新藤兼人は、原作に最も忠実といわれる与謝野晶子の現代語訳をもとに、長大な原作を約1年半の物語に脚色し、さらに明石の上と女三宮を合体させた「淡路の上」という人物を新たに創出している[4][6]。脚色には、谷崎潤一郎が監修、池田亀鑑が校閲、紫式部学会が後援にあたった。主演級の俳優の衣裳60組は、髙島屋の全面協力によって調達し、花の宴のシーンでは30人の女官の衣裳代だけで総予算をオーバーしたという[5]。1951年(昭和26年)11月1日に帝国劇場で行われた大映創立10周年記念式典で先行上映され、翌日の11月2日に封切られた[7]。本作は当初カラー作品として構想されたが、技術的な問題でモノクロとなった[7]。(ウィキ)新源氏物語についてネットで調べていたら、1951年の作品が評価されていました。カラー化されたものが、YouTubeにアップされていたので観てみました。スタッフには谷崎潤一郎まで名を連ねてそうそうたるものです。カラー化とは言え、新源氏物語には及ぶべくもなくかろうじて色がついている、白黒でないという程度でした。上映時間も124分なので、女遍歴以外の部分も少し描かれています。ストーリーは、因果はめぐると少し教訓めいたものになっています。和歌も流れますが、公開時は理解できた人が多かったのでしょうか。須磨の部分は、広島の鞆の浦だそうです。· 光源氏:長谷川一夫· 播磨入道:大河内傳次郎· 藤壺:木暮実千代(松竹)· 葵の上:水戸光子· 淡路の上:京マチ子· 紫の上:乙羽信子· 良成:堀雄二· 頭中将:本間謙太郎· 左大臣:菅井一郎(第一協團)· 右大臣:進藤英太郎· 御門:小沢栄(俳優座)· 朧月夜の君:長谷川裕見子· 桐壷:相馬千恵子· 桐壷の母:英百合子· 尼君:瀧花久子· 弘徴殿女御:東山千栄子(俳優座)· 惟光:加東大介· 左馬頭:近衛敏明· 藤式部丞:小柴幹治· 僧侶:殿山泰司(近代映画協會) ( 略 )· 弘徴殿の命婦:大美輝子、正木隆子· 典侍:大伴千春· 藤壺の命婦:橘公子、小松みどり、三星富美子、戸村昌子· 朧月夜の君の女房:相馬幸子· 淡路の上の女房:小林叶江、中目順子· 葵の上の女房:仲上小夜子、高森和子· 花売りの女:堀さわ子· 市女笠の女:高原朝子、前田和子· 紫の上の女房:松岡信江· 命婦:橘恵美子、瀧のぼる、小柳圭子、大井由貴子、南春恵、富田暁美、富士原比那子、種井信子、児島昌子· 桐壷の女房:小櫻瑠美 やはり知らない役者さんが、多いです。たまたまですが、後年母が京都に来た時長谷川一夫の踊りを見たことがあります。とても喜んでいました。この源氏物語の舞を思い出していたのかもしれません。
2024.01.15
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ストーリー:帝の寵を一身に集めた桐壷は光源氏を生み落して間もなく亡くなった。宮の女性の憧れの的となった光源氏は、時の権力者左大臣の娘葵の上を正妻に迎え前途洋々たるものがあった。その源氏の前に、母と瓜二つという藤壷が現れた。父帝のおもい者と知りながら源氏の心は燃えた。それを知って従者惟光は藤壷付きの王命婦をそそのかして源氏を藤壷の几帖の中に忍びこませた。源氏の甘い抱擁にわれを忘れた藤壷であったが、罪の苛責に戦いた。帝の寵を藤壷に奪われて面白くない弘徽殿の女御は、兄の右大臣と藤壷の失脚をはかった。この叔母と父の企みを近く東宮の妃にあがる朧月夜が耳にしていた。朧月夜は、藤壷の館に忍ぶ源氏を追って強引にも几帖の中に引き入れ、惜し気もなくやわ肌を与えその耳に藤壷に近づくなと忠告した。やがて藤壷は玉のような皇子を誕生した。何も知らず歓ぶ帝を見るにつけ源氏の心は暗かった。その懊悩を野遊びに晴らそうとした源氏は、常陸官の姫末摘花と逢いその女らしいもてなしにうさを晴らしていた。その頃、葵の上は姙り産み月を待っていた。葵祭りの日、葵の上の牛車は六条の御息所の網代車に追突、相手の車のナガエを折ってしまった。口惜しさと憤りに六条の御息所は、生霊となって葵の上を襲った。葵の上は男子誕生と共に死んだ。悲しみにひたる源氏に、またまた父の帝が崩御し、朱雀帝が即位した。源氏は娘の紫の成長を慰めとして日々を送るようになった。今では新帝の妃となった。朧月夜は、一夜の源氏との交情を忘れることができなかった。大胆にも藤壷の館に忍ぶ源氏を目敏く見つけるや、几帳の中に引入れ藤壷に近づくのは身の破滅だと囁いた。この二人の交歓を弘徽殿の女御が発見した。女御の知らせでこれを知った朱雀帝は憤然とした。源氏は新帝からの通達によって須磨明石へ移されることになった。この作品は、原作と異なるストーリーです。 直木賞作家である川口松太郎による「週刊文春」に連載され、1962年(昭和37年)7月に単行本として文藝春秋より出版された『源氏物語』を元にした小説。及びこれを原作として監督森一生、脚本八尋不二、主演市川雷蔵、寿美花代で大映より1961年(昭和36年)10月に公開された映画。「川口源氏」と呼ばれる。(ウィキ)映画「釈迦」に続く大映大作路線第二弾で、共演は若尾文子、中村珠緒、水谷良重、中田康子。102分。今年の大河ドラマを盛り立てようということなのでしょう。年初から英雄たちの選択やプロファイラーなどで紫式部を取り上げたり、源氏物語絵巻の美術番組も放送です。本作のBSでの放送もその一環でしょう。2023年にデジタル4Kで修復されたもので、きれいな映像です。でも、前作の源氏物語(1951年)と比較されて、おかしなキャスティングで愚作との評価が多いようです。配役:光源氏 市川雷蔵桐壺/藤壷 寿美花代葵上 若尾文子朧月夜 中村玉緒末摘花 水谷良重(二代目水谷八重子)若紫 高野通子秋好姫(伊勢斎宮) 長谷川彰子(稀世)弘徽殿女御(中宮) 水戸光子六条御息所 中田康子頭ノ中将 川崎敬三朱雀帝 成田純一郎兵部郷ノ宮 三田村元惟光 大辻伺郎右大臣(後の太政大臣) 千田是也按察の北ノ方 阿井美千子弁 藤原礼子王 倉田マユミ北ノ方 三宅邦子竜田 橘公子承香殿の女御 毛利郁子左大臣 丸山修東宮(子役) 島一男弘徽殿女房 谷口和子葵上女房 藤村志保帝 市川寿海ストーリーは、短い時間に関係するたくさんの女性を登場させたので、相手かまわず女漁りをする天皇の血を引いた高貴なお公家さんの女体遍歴物語との印象です。食うに困らないとはいえ、他にすることがないのかと思ってしまいました。
2024.01.14
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【予告②】映画『イチケイのカラス』【大ヒット上映中!】 - YouTubeストーリー:『映画 イチケイのカラス』(えいが イチケイのカラス)と題して東宝配給で2023年1月13日に公開された[32]。テレビドラマの2年後が描かれる[32]。自由で型破りな裁判官・入間みちお(竹野内豊)が、東京地方裁判所第3支部第1刑事部、通称イチケイを去って2年。岡山県に異動した彼は、史上最年少防衛大臣・鵜城英二(向井理)に主婦が包丁を突きつけたという傷害事件を担当する。その事件の背景には、不審な点の多いイージス艦と貨物船の衝突事故があった。しかし、イージス艦の航海内容は全て国家機密であり、みちおの伝家の宝刀“職権発動”が通用しない難敵であった。一方、みちおと共に数々の事件を裁いてきた東大法学部出身のエリート裁判官・坂間千鶴(黒木華)は、裁判官の他職経験制度で弁護士に。配属先は奇しくもみちおの隣町であった。人権派弁護士・月本信吾(斎藤工)とバディを組み、人々の悩みに寄り添う月本に次第に心惹かれていく坂間。そんななか、町を支える地元大企業のある疑惑が浮かび上がる。ふたつの事件に隠された衝撃の真実。それは決して開けてはならないパンドラの箱だった……。(KINENOTE)型破りな裁判官物で、シリーズのテレビドラマは毎週見ていました。今回はイージス艦がらみで防衛大臣役の向井理をやっつける話かと思いましたが、そうでなくて肩透かしを食らった感じです。シキハマなる大企業(クラレ?)を懲らしめる話でもなくて、郷土愛からの犯行というちょっと切ない結末でした。検事まで一味というのはサプライズですが、リアリティーはありません。カタルシスがないので、スカッとした感じはありません。最後の竹野内豊の法律の欠陥やその運用に対する能書き話は余計かなと思いました。やっぱり、職権発動がないとつまらないですね。
2024.01.08
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ストーリー:パリのルーヴル美術館で館長のジャック・ソニエールが、レオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」を模した他殺体で発見された。しかしその形は、瀕死の傷を負った身でソニエール自らが作り上げたものだった。さらに死体の周りには、不可解な暗号が残されていた。講演会のためパリを訪れていたハーヴァード大学の教授ロバート・ラングドン(トム・ハンクス)は、深夜にもかかわらず現場に呼ばれる。フランス司法警察のベズ・ファーシュ警部(ジャン・レノ)は、表向きはラングドンの専門知識を駆使して捜査に協力してほしいと求めてきたが、実は彼は第一容疑者なのだった。ラングドンはその夜、ソニエールと面会の約束をしていた上に、暗号の中に彼の名前が記されていたのだ。ファーシュ警部が巧みな誘導尋問で、ラングドンから証拠となる発言を引き出そうとしていた時、暗号解読官のソフィー・ヌヴー(オドレイ・トトゥ)が現れる。ソニエールの孫娘であるソフィーは、現場の写真を見て祖父が自分だけにわかる暗号を残したことに気付く。ソフィーはファーシュ警部を巧みに欺き、ラングドンを連れてルーヴルから逃走する。ソニエールが暗号で隠し場所を示した、秘密結社の紋章が刻まれた鍵を持って……。(KINENOTE)『ダ・ヴィンチ・コード』(The Da Vinci Code)は、2006年のアメリカ合衆国のミステリサスペンス映画。ダン・ブラウンの2003年の同名小説を原作とし、監督はロン・ハワード、脚本はブラウンとアキヴァ・ゴールズマンが務めた。トム・ハンクス、オドレイ・トトゥ、イアン・マッケラン、アルフレッド・モリーナ、ユルゲン・プロホノフ、ジャン・レノらが出演する。全世界での公開週末の興行収入が2億2400万ドル、全世界での累計興行収入が7億6000万ドルとなり、2006年の映画の中で2番目に高い興行収入を記録するとともに、ハワード監督のこれまでの作品の中で最も高い興行収入を記録した。しかし、批評家からは概ね否定的な評価を受けた。その後、『天使と悪魔』(2009年)と『インフェルノ』(2016年)の2つの続編が製作された。(ウィキ)BS12でロバート・ラングトンの3部作を放送するというので観ました。劇場版の149分ではなく、エクステンデッド版174分で放送時間も3時間半近くでした。長い原作を読んで映画を観た人にとっては不評だったので、バックグラウンドがわかるようにしたのが拡大版のようです。違いを意識してみましたが、劇場版の方を忘れています。物語の筋や背景がわかるようにていねいなのでしょうが、少し長かったですね。トリビア的な絵画の説明やキリストの末裔の行く末など、聞かされてもあまりピンときません。キリスト教の根幹にかかわることなので、キリスト教が広く信仰されている国々では物議を醸し出したようです。記録的な興行収入を達成した一方で宗教的な理由から物議を醸しており、国によっては上映禁止措置や上映反対運動が行なわれている。例えばサモアでは、若者のキリスト教の信仰に悪影響を与えるという理由から、キリスト教の指導者を試写会に招いた上で上映禁止となった。インドや中国、エジプト、イエスをキリストとして認めないイスラム教国パキスタンでも上映禁止となった。また、教会(特にカトリック)指導者も強く反発している。指導者の中には信者に対して鑑賞しないように訴える者がいる一方で、神学的見地からの冷静な論争の必要性を呼びかける者もいる。フィリピンではR-18指定(18歳未満は鑑賞禁止)で公開されている。(ウィキ)本作も含めてこのシリーズで興味深いのは、ロケ地です。ルーブル美術館自体は本物だったようですが、ウエストミュンスターは、・・・。ルーヴル美術館で撮影が行われたが、同美術館で映画の撮影が許可されたのは本作が初である[4]。同美術館に所蔵されているモナ・リザも登場しているが、直接照明を当てることは許可されなかったので、撮影には複製を使っている[4]。ウェストミンスター寺院での撮影は拒否されたため[5]、そのシーンはウィンチェスター大聖堂とリンカーン大聖堂で撮影された。リー・ティービングの邸宅として登場するヴィレット城は、パリ北西約40kmの所に実在する。2006年時点ではカリフォルニアで不動産業を営む女性オリビア・ベッカーが個人所有しており、普段は一般客の宿泊や料理教室、ウェディングパーティなどで利用されている。ベッカーは原作者ダン・ブラウンの妻ブライズと知り合いで、夫婦は城に遊びに来たこともある。城内でも撮影が行われたが、書斎の調度品は撮影用にほぼ入れ替えられた[6]。(ウィキ)余談ながら、上野の西洋美術館にもダ・ビンチでない画家が描いた鮮やかな最後の晩餐の絵画が展示されていました。最後の晩餐|マールテン・デ・フォス |所蔵作品検索|国立西洋美術館 (nmwa.go.jp)
2024.01.06
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ストーリー:飲んだくれの自由人である“オトン”(小林薫)の家を出て、“オカン”(樹木希林)と幼い“ボク”は筑豊の実家で暮し始める。炭坑町でオカンとその姉妹たちと暮す日々が続くが、高校進学を間近にひかえたボクはオカンのもとを離れて大分の美術高校に行くことを決めた。オカンが小料理屋で働きつつ送ってくれる仕送りでボクは、自堕落な高校生活を送る。やがて憧れていた東京に出て美大生になるに至っても、ボク(オダギリジョー)は自堕落な生活を送り続けていた。故郷のオカンの励ましと学費の援助によってなんとか大学を卒業したものの、就職はせず、町金融で借金をかさねながら暮らす日々も次第に窮まっていった。今の暮しぶりを知ったらオカンはどんなに落胆するだろうかと思い立ち、故郷との連絡を絶ち、心を入れ替えて生活を立て直す決心をするボク。何でもかんでも仕事を引き受けてがむしゃらに働く内に、イラストレーター兼コラムニストとしていつの間にか食えるようになる。借金も完済し、これでオカンに心配をかけることも無いと思っていた矢先、久々に連絡をとった故郷の叔母からオカンがガンの手術で入院していた事を知らされる。ボクがオカンを心配させまいと連絡を絶っていた間、オカンもボクを心配させまいと連絡を絶っていたのだった。ボクはオカンを東京に呼び寄せ、再び二人で暮らすことにする。上京したオカンを東京見物につれていき、今の仕事が一段落ついたら一緒に東京タワーの展望室に登ろうと約束するボク。料理が上手で世話好きなオカンを慕い、家に入り浸るボクの友人たち。毎晩のように訪ねてくる彼らにオカンは料理を振る舞い、オトンとののろけ話で彼らを笑わせた。賑わいの絶えない幸福な生活がやって来たかに思われたが、間もなくオカンのガンが再発してしまう。入退院を繰り返す闘病の日々。衰弱していくオカンの身体はやがて抗ガン剤の副作用に悲鳴をあげる。あまりの苦しみ様に見兼ねたボクは、オカンの死期が早まる事を受け入れ、治療を断念する。東京タワーを間近に見上げる病室で、副作用の苦しみから解放されて穏やかな日々を取り戻したオカン。オカンを慕うボクの友人たちやオカンの故郷の姉妹たち、離れて暮しつつもオカンが慕い続けたオトンが訪ねて来てオカンの残り少ない時間を共に過ごす。やがて、オトンとボクが見守るなか、オカンは静かに息を引きとった。生前に約束を果たせなかった事を悔いつつも、ボクはオカンの位牌を持って東京タワーに登り、眼下に広がる東京の景色を一緒に眺めるのだった。(KINENOTE)『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』は、リリー・フランキーの同名小説を原作とした日本映画である。2007年4月14日に松竹配給で公開された。オダギリジョー主演。第31回日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞作品。ゲストとして小泉今日子、六角精児、宮崎あおい、仲村トオル、柄本明、塩見三省などがカメオ出演していることでも話題となった。142分(ウィキ)リリー・フランキーの親孝行物語ですね。親孝行と言っても母親が癌になって東京に引き取った数年のことで、それまでは迷惑のかけ通しでした。大学(武蔵野美術大学)を留年し、卒業しても定職につかずです。今日も彼が司会をつとめる音楽番組カヴァーズを見ました。リリー・フランキー(Lily Franky、本名:中川 雅也(なかがわ まさや)、1963年11月4日 - )は、日本のマルチタレント。俳優、文筆家(脚本、小説、エッセイ)、画家(イラスト、絵本)など、多種多才な顔を持つ。所属事務所は、ガンパウダー有限会社。身長174cm、体重62kg、血液型はB型。独身。 福岡県北九州市小倉生まれ。武蔵野美術大学卒業。映画は141分と無駄に長く、最後はお涙頂戴でした。樹木希林が親子で出ているのが、面白かったです。以前英会話のサークルで、日本人には当たり前の親孝行の概念は英語にはないと知らされて、なるほどと思いました。先生の故国フィリピンにもありません。戦前は忠孝と一体だったようでしたが、さすがに戦後は天皇も人間になり今のひとは初老のとっちゃん坊やという親しみのある風貌ゆえか忠義の方は消えてしまったように思います。孝行の方も、それを自分の子どもに求めない私たちの世代で終わりかなと思っています。その年、多くの賞レースで賞を総なめにしていた『それでもボクはやってない』に全く票が入らず、日本アカデミー賞主催の日本テレビが出資した本作が賞をほぼ独占するという不自然な結果だった。この結果に、国内映画関係者・映画ファンから、審査員による不正な票操作が行われたのではないかという意見が挙がった。最優秀主演女優賞を受賞した樹木希林も受賞時のインタビューで「これは組織票だ、この結果はおかしい」と審査結果を痛烈に批判し、作品賞や監督賞をはじめほとんどの受賞は不当だと話して、会場は騒然となる。後日、樹木希林は雑誌インタビューでも「あの結果は私も納得していない」と語った。[2](ウィキ)映画よりも、このエピソードの方が興味深かったです。ロケ地は九州の炭鉱かと思ったら、エンドロールに特別協力細倉金属鉱業株式会社とあり、宮城県でした。炭住ではなく、鉱山社宅のようですね。
2024.01.04
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気になるのは、秋刀魚の味という映画の題名です。食事の場面はいくつかありますが、ローアングルの撮影なので器は見えても中身はわかりません。元教師が舌鼓を打つ鱧が話題になるだけです。ネットでこんな記事を見つけました。小津安二郎の映画のタイトルには、季節を感じさせるものが多い。例えば『晩春』(1949)に『早春』(1956)。特に秋に関してのタイトルは多く、『彼岸花』(1958)、『秋日和』(1960)、『小早川家の秋』(1961)、結果として遺作となった『秋刀魚の味』(1962)と並ぶ。彼は12月12日生まれで、ちょうど60歳となる1962年の誕生日に人生の幕を閉じた。くしくも人生の晩年期に、秋の季節を立て続けに描いたのだ。きっと特別な理由があるのだと、多くの人は思う。いろんな評論家が彼の日記を読み解き、作品を分析して、仮説も立てている。だが、本人は例えば『秋刀魚の味』のとき、秋に公開する映画だからそうしたと素っ気なく答え、そのうえ、本編には秋刀魚など影も形も一度も出てこない。『彼岸花』から『秋刀魚の味』まですべての作品は、小津と公私にわたって密接に交際した脚本家、野田高梧との共同執筆だが、当時は映画の内容が全く決まっていないのに、宣伝の都合により、「とにかくタイトルだけでも決めてくれ」と先にタイトルを発表して、その後、タイトルに合わせた内容を二人で練り上げていったという。 じゃあ、タイトルにはあまり重い意味がないんだ、と言いきれれば簡単だが、記録魔だった小津の日記を読むと、そうではない記述も出てくるから油断できない。広く知られるが、彼は第二次世界大戦中、兵士として中国戦線に従軍している。その戦地で書いた文章の中には「麦」「秋日和」「浮草」「秋刀魚」と後にタイトルとなった言葉が何度も出てくる。死がすぐそばにある中で、目に映る美しいものを忘れてしまわないようにと書くかのように。中でも秋刀魚はよほど恋しかったようで、秋刀魚を食べたいという素直な文章もあれば、俳句にも詠んでいる。戦後、日本に戻り、映画監督として充実する中、愛する母、あさゑが1962年(昭和37年)2月に亡くなったときには、葬儀の後、日記にこうも書いている。「もう下界はらんまんの春、りょうらんのさくら、此処にいてさんまんの僕は『さんまの味』に思いわずらう。」愛する人の不在を感じたときにふと思う、うまさと苦さ、それが小津にとっての秋刀魚の味だったのだろうか。小津安二郎監督の『秋刀魚の味』は、なぜ秋刀魚も食べずに酒ばかり飲んでいるのか? | ライフスタイル | LEON レオン オフィシャルWebサイト英題は、An Autumn Afternoon サンマを食べない欧米人向きの題名です。そういえば、今年はとうとうサンマを食べませんでした。細いものが1尾100円ほどで売っていましたが、貧相で手に取る気にもならなかったです。一昨日はブリのお刺身をいただき、昨日はイナダが安いお値段で並んでいましたが、鮭は見当たりません。新巻鮭を1本買って囲炉裏で焼いたものが、子どもの頃の大晦日のごちそうでした。結婚後も家から半身の新巻鮭が送られてきました。今年は半身の冷凍品をひとつ確保してあるので、お正月に息子が来たら食べようと思っています。
2023.12.29
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ストーリー:長男の幸一夫婦は共稼ぎながら団地に住んで無事に暮しているし、家には娘の路子と次男の和夫がいて、今のところ平山にはこれという不平も不満もない。細君と死別して以来、今が一番幸せな時だといえるかもしれない。わけても中学時代から仲のよかった河合や堀江と時折呑む酒の味は文字どおりに天の美禄だった。その席でも二十四になる路子を嫁にやれと急がされるが、平山としてはまだ手放す気になれなかった。中学時代のヒョータンこと佐久間老先生を迎えてのクラス会の席上、話は老先生の娘伴子のことに移っていったが、昔は可愛かったその人が早く母親を亡くしたために今以って独身で、先生の面倒を見ながら場末の中華ソバ屋をやっているという。平山はその店に行ってみたがまさか路子が伴子のようになろうとは思えなかったし、それよりも偶然連れていかれた酒場“かおる”のマダムが亡妻に似ていたことの方が心をひかれるのだった。馴染の小料理屋へ老先生を誘って呑んだ夜、先生の述懐を聞かされて帰った平山は路子に結婚の話を切り出した。路子は父が真剣だとわかると、妙に腹が立ってきた。今日まで放っといて急に言いだすなんて勝手すぎる--。しかし和夫の話だと路子は幸一の後輩の三浦を好きらしい。平山の相談を受けた幸一がそれとなく探ってみると、三浦はつい先頃婚約したばかりだという。口では強がりを言っていても、路子の心がどんなにみじめなものかは平山にも幸一にもよくわかった。秋も深まった日、路子は河合の細君がすすめる相手のところへ静かに嫁いでいった。やっとの思いで重荷をおろしはしたものの平山の心は何か寂しかった。酒も口に苦く路子のいない家はどこかにポッカリ穴があいたように虚しかった。『秋刀魚の味』は、1962年(昭和37年)の日本映画。カラー、スタンダードサイズ(1.37:1)、113分。製作・配給:松竹。監督:小津安二郎。芸術祭参加作品。公開翌年の1963年に死去した小津の遺作である。英題は An Autumn Afternoon[1] 。小津が一貫して取り上げてきた、妻に先立たれた初老の父親と婚期を迎えた娘との関わりが、本作では娘を嫁がせた父親の「老い」と「孤独」というテーマとともに描かれている[2]。 岩下志麻が演じた路子の衣装は、浦野理一が和服を、森英恵が洋服を担当した。衣装選びには小津が立ち会い、生地からブラウスの襟の形にいたるまで、丁寧に時間をかけて検討された[4]。 作中で岩下が失恋するシーンは、小津が100回以上撮り直すほどこだわったとされる[5]。(ウィキ)小津の遺作で、この年の12月に亡くなっています。作品の構想中に母を亡くしているので、老いを意識したものとなっているのでしょう。主人公の笠智衆の実年齢は58歳。ひょうしょうとした語り口がいいです。中学からの幼馴染の中村伸郎、北竜二との交流場面もいいです。出色は、本物の老人を演じた漢文の教師役の東野英治郎です。漢詩を吟じたり、鱧に舌鼓をうったり、酔いつぶれるシーンもうまかったです。婚期を逃した娘の杉村春子の涙が印象的でした。愛方は教え子が出世し自分は場末のしなそば屋という境遇の父親に対する失望との見方です。私は、同世代の出世した教え子と自分のみじめな境遇を比較して、失った「青春」人生への悔悟の涙と見ました。高度成長以前の都会のサラリーマン(と言っても主人公は役員クラスでしょうが)の生活が新鮮です。便所の臭突が回り、家には冷蔵庫もテレビもなく、アパートの住民同士で貸し借り(映画ではトマトふたつ)などなど。ゴルフも出てきます。クラブが4本で2万円、月給はもそのくらいだったのでは。
2023.12.28
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ストーリー:ある昼下り、英国秘密情報部支局長が何者かに射殺された。彼の任務は、ケープカナベラル基地から発射されるロケットの弾道を狂わす電波発信地を突きとめることだった。ロンドン本部は事件を重視、直ちに背後関係追及のため007ことジェームズ・ボンド機密員(ショーン・コネリー)を現地へ派遣した。任務は支局長の足取りを洗うことだ。支局長は最近魚に興味を抱き連日島っ子のクオレルと沖へ出ていたそうだ。が、支局長の魚釣りは見せかけで、実はボーキサイド開発中の中国人ノー博士(ジョゼフ・ワイズマン)所有のラブ島を探索していた事実が判明、事態は悪化した。二十四時間後に月ロケット発射の急報にクオレルを道案内に立てたボンドは、闇を縫ってラブ島上陸を敢行した。その後、二人はエキゾチックなアメリカ娘ハニー(ウルスラ・アンドレス)に出会った。万事休す、火を噴くマシン・ガンに舟はやられた。クオレルは殺され、ボンドとハニーは捕えられた。研究所に連れ込まれた二人は、ノー博士から事件の全貌を知らされるが死の宣告を受けたボンドには手も足も出なかった。絶体絶命のピンチ。が、ボンドは換気口から電波管制室にもぐり込み、やにわに管制区へ登り電子炉操作桿を回した。ボンドの一撃にノー博士はプール型原子炉の泡と消え去っていった。危険をつげる警報に逃げまどう手下たちを尻目に、ハニーの手を取ってボートに乗り込んだボンドは沖へ向った。危機一発、島は一瞬の大音響と共に一面の火の海と化した。(KINENOTE)『007は殺しの番号』(原題: Dr. No)は、テレンス・ヤング監督による1962年のアクションスパイ映画。出演はショーン・コネリー、ウルスラ・アンドレス、ジョセフ・ワイズマン、ジャック・ロードらで、イーオン・プロダクションズ製作の「ジェームズ・ボンド」シリーズの第1作目である。原作はイアン・フレミングの小説『ドクター・ノオ』。製作はハリー・サルツマンとアルバート・R・ブロッコリが担当した。邦題は1972年の再上映時に『007/ドクター・ノオ』に変更された。 シリーズ第1作である本作は、100万ドルというシリーズ中最も低予算で製作されたが、5,900万ドルもの興行収入を上げ、1962年の映画の世界興行成績では『アラビアのロレンス』の7,000万ドルに次ぐ第2位となった[10][11]。(ウィキ)110分『007 ドクター・ノオ(007は殺しの番号)』 Dr No予告編 Trailer 1962年 - YouTube低予算で作られただけあって、今見るとセットはちゃちですが、物語の骨格はその後のベースとなっていて興味深いです。土曜の夜と日曜の朝 (1960年)といったニューシネマを作っていたプロデューサーのお遊びだったのでしょうか。ショーン・コネリーは若くて、体が引き締まっていて、いかにもスパイという感じでいいです。放射能汚染の除染のシーンが、興味深かったです。
2023.12.27
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ストーリー:東京の郊外--小住宅の並んでいる一角。組長の原田家は、辰造、きく江の夫婦に中学一年の子・幸造、それにお婆ちゃんのみつ江の四人暮し。原田家の左隣がガス会社に勤務の大久保善之助の家。妻のしげ、中学一年の善一の三人。大久保家の向い林啓太郎の家は妻の民子と、これも中学一年の実、次男の勇、それに民子の妹有田節子の五人暮し。林家の左隣・老サラリーマンの富沢汎は妻とよ子と二人暮し。右隣は界隈で唯一軒テレビをもっている丸山家で、明・みどりの若い夫婦は万事派手好みで近所のヒンシュクを買っている。そして、この小住宅地から少し離れた所に、子供たちが英語を習いに行っている福井平一郎が、その姉で自動車のセールスをしている加代子と住んでいる。林家の民子と加代子は女学校時代の同窓で、自然、平一郎と節子も好意を感じ合っている。このごろ、ここの子どもたちの間では、オデコを指で押すとオナラをするという妙な遊びがはやっているが、大人たちの間も、向う三軒両隣、ざっとこんな調子で、日頃ちいさな紛争はあるが和かにやっている。ところで、ここに奥さん連中が頭を痛める問題が起った。相撲が始まると子供たちが近所のヒンシュクの的・丸山家のテレビにかじりついて勉強をしないのである。民子が子どもの実と勇を叱ると、子供たちは、そんならテレビを買ってくれと云う。啓太郎が、子供の癖に余計なことを言うな、と怒鳴ると子供たちは黙るどころか、「大人だってコンチワ、オハヨウ、イイオテンキデスネ、余計なこと言ってるじゃないか」と反撃に出て正面衝突。ここに子供たちの沈黙戦術が始まった。子供たちは学校で先生に質問されても口を結んで答えないという徹底ぶり。この子供たちのことを邪推して近所の大人たちもまた揉める。オヤツをくれと言えなくて腹を空かした実と勇は原っぱにおヒツを持出して御飯を食べようとしたが巡査に見つかって逃げ出し行方不明となった。間もなく子供たちは駅前でテレビを見ているところを、節子の報せで探しに出た平一郎に見つかった。家へ戻った子供たちは、そこにテレビがおいてあるのを見て躍り上った。停年退職した富沢が電機器具の外交員になった仕事始めに月賦でいいからと持込んだものだった--。(KINENOTE)『お早よう』(おはよう)は、小津安二郎監督による1959年(昭和34年)の日本映画で監督第50作。 1958年10月、『東京物語』がロンドン映画祭でサザーランド賞を受賞。11月には小津安二郎が映画人として初めて紫綬褒章を受章。1959年1月には日本芸術院賞を受賞した。名実ともに映画界の重鎮としてみられるようになった直後に、小津が選んだのは、郊外の新興住宅地を舞台に元気な子供たちにふりまわされる大人たちをコメディタッチで描いたこの『お早よう』であった。本作品では子どもたちがオナラ遊びに興じる場面が出てくるが、「オナラ」を使ったギャグは小津監督がサイレント時代から温めていたアイデアだという[1]。1959年(昭和34年)1月にロケハンをし、2月27日から4月19日まで撮影をし、5月12日に公開された。小津作品としては『彼岸花』に続いて2本目のカラー作品であり、画面における色彩の使い方に小津の遊び心が随所に感じられる[2]。息子の中井貴一は、当作品中の佐田について「小賢しくない、余計な芝居のない演技をしていて、父の出演する小津映画の中では一番好きです」と評している[3]。(ウィキ)多摩川堤沿いの新興住宅地、持ち家かと思ったら借家のようで、高度成長期以前の東京の様子が興味深かったです。ビールまで貸し借りする近所付き合い、うわさ話と陰口、テレビ普及以前で夕食後は読書やおしゃべり、電化製品も多くの家では洗濯機も冷蔵庫もなかった時代です。押し売りも登場しますが、その撃退の様子が面白かったです。他にも、酔っぱらって、勘違いしてとなりの家に上がり込むシーンは、社宅のSさんの武勇伝を思い出します。間違われたよその奥さんも慣れたもので、更にいっぱい差し上げて帰したことが幾度もあったそうです。BSシネマで観たデジタル修復版は、とても色鮮やかでした。好演の子役ふたりは存命していましたが、ともに役者は卒業して別の人生を歩んだようです。今月は、12日に東京物語を放送し、26日は秋刀魚の味です。Eテレでは、小津監督の特集を放送していました。
2023.12.26
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