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2025年09月17日
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カテゴリ: ふっと思ったこと
そういえば最近「ファン」という言葉をとんと聞かなくなった。
先日もある趣味の団体の中で若いメンバーが「自分の“推し”の俳優が出ているドラマは欠かさず観る」ということを言っていた。言い方としてはまったく間違いはないものの、以前だったら「そこは“ファン”と言っていたよなぁ」と直感的に感じた。

「私はだれそれのファンです」
「私の推しはだれそれです」

これって「ファン」が単純に「推し」に変わっただけなんだろうか?

個人的には「ファン」と「推し」には大きな隔たりがあると感じている。「推し」と言えば「推し活」という言葉と不可分な関係にあると思っているが、私が普段メディアなどで見聞きする「推し活」というのは、正直言って常軌を逸している、というか自分にはついていけない、という気持ちを抱かせるレベルだったりする。
もちろんメディアなどで紹介されている「推し活」というのが、かなりエキセントリックな部分だけを取り上げているというのは分かってはいるが、それでもその言葉の持つ先入観は私の違和感に直結する。

私も各分野(主に芸能界やスポーツ界)において、ファンになっている人物はそれなりにいる。しかし彼らのことを「推し」だと思ったことはない。別に彼らの追っかけに多くの時間やおカネを費やすわけでもないし、四六時中彼らのことを考えて生活しているわけではない。ただもし今後「ファン」という言葉が廃れていくとすると、「推し」というのもはばかれるような“ライトな好き”は市民権が無くなってしまうのではないか、という危惧はある。

まあ別に自分の「好き」を公言する必要もないから、根本的にはどうでもいいことではあるが。





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最終更新日  2025年09月17日 23時52分39秒
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