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私は中学高校大学時代、野球に異様にのめり込んでいた。野球部に入部して甲子園を目指していたわけではない。野球を球場で観戦したり、テレビを見たりラジオを聴くのが好きだった。新聞のプロ野球のスコアを丁寧にスクラップしたり、神保町の古本屋で古い公式記録を買ってウットリ眺めたり、野球をオタク的に楽しんでいた。私は広島の親元を離れて中高は東京で一人暮らしをしていたが、夜になると後楽園や神宮や横浜スタジアムの外野席でカープを応援した。帰省すると広島市民球場へ行くのが、何にもまして楽しかった。親からは「野球に熱心にならずに、もっと勉強しなさい」とよく叱られたが、聞く耳を持たなかった。20歳を過ぎてからは、仕事とナイターの時間が重なるので以前ほどの野球熱は自然消滅したが、それでもカープへの愛だけは持ち続けている。さて、私が中高時代に野球を通じて最も関心を持ったテーマは「どんな監督がチームを強くするか?」ということである。監督の人柄・能力と、チームの強さの連関性を探った。強いチームの監督が書いた著作は、何度も何度も繰り返し読んだ。選手のモチベーションを高め、強いチームに仕立て上げるために、監督やコーチはどう振舞えばいいのか、徹底的に探り尽くした。もちろん私は中高時代教師になるなんて、一瞬たりとも考えていなかった。ただ研究対象として、良い監督とはどんな人間かというテーマに興味があっただけなのである。まさか中高生時代の野球に対するのめり込みが、大人になってからメシの種になるとは予想すらしなかった。良い監督像を研究することが、自動的に良い教師像を捜し求めることにつながった。若い時に、一見無駄に思えることでも、深くのめり込む経験があれば将来役に立つとよく言われるが、私に関しては正しい。さて、どんな監督がチームを弱くするのか?私の答えは、ただ一つ。チームを弱くする監督、子供の学力を下げる教師は、総じて選手や生徒に対して「無関心」な人でである。「無関心」こそが、ダメ教師ダメ監督に共通する最大の欠点だと僕は思う。たとえば、近鉄に鈴木啓示という監督がいた。現役時代は300勝を上げた稀代のサウスポーで、左腕一本で西宮の高台に豪邸を構え、大阪湾を見下ろす大浴場を作った。鈴木啓示は投手独特の自己中心的人間だった。異様なほどのエゴイストである。現役時代、ヤクルトから鈴木康二朗投手が移籍してきた時、新聞に「鈴木啓」と書かれるのを嫌がり、「近鉄の鈴木といえば私のことだ。あっちを鈴木康と書けばええでしょ」とマスコミに言い放ったというエピソードがある。彼は自分以外の人間には興味がなかったのではないか。愛情の総量の100%が、自分自身に向けられた。そんな男が監督として成功するわけがない。案の定、監督時代に選手と揉め事を起こし、せっかく仰木彬監督の元で常勝西武ライオンズに対抗するチームになった近鉄を、元の弱小チームに貶めてしまった。当時近鉄の主力投手だった野茂がメジャーに挑戦したのも、鈴木監督の下では野球をやりたくないというのが遠因だったと噂される。野茂が先発して完投勝利を挙げたあとマッサージ室に向かったら、鈴木監督が疲労の極地にある野茂を差し置いてマッサージを受けていたエピソードがある。野茂の他にも、吉井や阿波野といった主力選手が鈴木監督に嫌気がさして、どんどん近鉄を離れていった。鈴木監督の強い自己愛が原因の、選手に対する「無関心」が近鉄を凋落させたのだ。鈴木監督は自己愛を抑えきれず、監督として失敗した。ただ、自己愛の強いエゴイスト・ナルシストが、名監督・名教師になれないかといえば、そうではない。自己愛が強ければ、その強い愛情を他者に対する愛に転化する装置があれば、端から見ていて病的で気色悪いほどのエゴイスト・ナルシストでも、一気に名監督・名教師になり得る。愛情という川の流れを、治水工事で自己から他者に変えれば、爆発的な名監督・名教師が誕生する。ただ愛情の総量を自己の中に留めたままで、他人に対して無関心な態度を取る人間には、教師や監督になる資格はないのである。
2006/05/10
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やっぱり腹が減った時には、揚げ物に限る。天麩羅にせよ、トンカツにせよ、エビフライにせよ、串揚げにせよ、揚げ物は心ときめく。この映像は、高知の朝市の露店で売っていた「いも天」アメリカンドッグのような、少々厚く甘みのある衣で、サツマイモが揚げてある。この露店は、「いも天」目当ての客で行列が絶えない。サツマイモは上手に調理すると、砂糖なんか加えなくても甘さで頬がとろけそうになる。特に石焼きいもは、石の高熱でサツマイモをしっかり焼き上げイモの甘さを閉じ込める、サツマイモ最高の調理法の一つだ。この高知の朝市の「いも天」も、厚い衣がサツマイモの甘さを封じ込め活性化し、自然で上品だけども、なおかつ強烈な甘さが口に広がる。サツマイモの英訳が"sweet potato"であることを再認識する味だ。「いも天」の中身のサツマイモは、ゴージャスな金色。厚いアメリカンドッグのような衣の砂糖の甘みと、中のサツマイモの典雅で自然な甘みが、口の中でmixtureする。衣のサクサク感と、イモのフワフワ感の対比も楽しい。甘そうでしょ? うまそうでしょ?ああ、熱い! 舌が焼けそうだ。イモの甘さが白い湯気になって、口に漂う。うまい!高知朝市の「いも天」5個で250円。
2006/05/17
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最近中高生の読書時間が増えているという。どうやら片山恭一「世界の中心で、愛をさけぶ」の影響らしい。若者が活字に接する時間が長くなるのはいいことである。高校生にリアルタイムで読んでもらいたい本といえば、「ライ麦畑でつかまえて」(村上春樹訳は原題の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」)が思い浮かぶ。この本は、青春時代を過ごす男の子の「みっともなさ、滑稽さ」が凝縮されていて、読んでてやりきれない部分がある。そんなみっともない部分を盛大に露出したサリンジャーが、長期間の隠遁生活をして表に出ない気持ちは、よくわかるような気がする。この作品は、どれだけ多くのフォロワーを生み出したことか。尾崎豊だってこの小説がなければ、あんな痛々しい歌を唄って早死にしていないだろう。私は自分の塾の生徒に「この本読めよ」「あの映画凄いよ」と、自分の気に入った本や映画を薦めるのが好きだ。ただ自塾の高校生に、「ライ麦畑でつかまえて」を「俺の青春のバイブルだぜ」と、これ見よがしに薦めようとは思わない。というのも、「ライ麦畑でつかまえて」は私にとって「個人的な小説」なので、他の誰かに読まれると自分の内面を覗かれるみたいで恥ずかしい。「ライ麦畑でつかまえて」に感動したと告白することは、部屋にこもって1人寂しくマスかいている姿を見られたような気分になる。しかし、矛盾しているようだが、青春真っ盛りで主人公と同じ年齢の高校生たちに、リアルタイムで「ライ麦畑でつかまえて」を読んでもらい、大いに熱狂してもらいたい気もする。言葉にできない暴虐的な感情が、才気に満ちた書き手によって文字でくっきり代弁された時の、涙が出るような高揚感を味わってもらいたい。「ライ麦畑でつかまえて」は、優れた小説がどれほど人間を熱くさせるか、狂わせるかを知ってもらうための、格好の材料だ。だから私は、塾の蔵書の中で生徒たちに一番人気があり、みんなが奪い合うようにして読んでいる「空想科学読本」シリーズの隣に、さりげなく野崎孝訳の新書版と、村上春樹訳のハードカバーを両方置いてあるのだが、誰も見向きもしない。見つけて読んでもらい、「この本凄い」という言葉を聞くのを待っているのだが・・・「ライ麦畑でつかまえて」という題名が良くないのだろうか。「ライ麦畑でつかまえて」という日本語訳の題名は、ミュージカルの題名みたいだ。ウクライナの広大なライ麦畑の中で、農家の可憐な金髪の女の子が踊り歌う。そんなイメージがある。私も高校時代に友人に薦められて、買って手にとって読み始めるまでに1年ぐらいかかった。軟弱っぽい題名のせいで、食指が動かされなかった。それから英訳そのままの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」では、「フィールド・オブ・ドリームス」みたいな野球の話だと勘違いしそうだ。題名だけ大いに意訳して「十七歳の地図」とでもすればいいかもしれない。
2005/06/03
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