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7月に本を出しました。タイトルは『難関私大・文系をめざせ!」です。【送料無料選択可!】難関私大・文系をめざせ! 偏差値どん底からの「早慶・GMARCH・関関同立」突破大作戦[本/雑誌] / 笠見未央/著 以下、目次です。 まえがき第1章 偏差値なんか気にしないー一発逆転がきく難関私大蒸気機関車が新幹線を追い抜く数学が苦手な人は、難関私立に転進!現代文が得意なら、迷わず私立文系体育会系は難関私大に向いている部活生の勉強ダッシュのかけ方歴史オタクor超努力家は私立文系親が私立大学に反対した時の説得法第2章 英単語は短期集中&リピート暗記英語苦手は生活習慣病英単語は1冊1ヶ月でこなせ英単語暗記は「文明の利器」をフル活用単語暗記、復習で復讐だ勉強はマラソンではない。短距離走老舗・駿台文庫の新鋭単語集未知の単語は、3種類に仕分けする接頭辞が同じ英単語は、まぎらわしい第3章 英文法は英文をさばくナイフ英文法嫌いは基礎に戻れ英文法は、中学の塾用教材が初心者に最適英文法のベストセラー『ネクステ』の正しい使い方英文法で勝負をかける秘伝の書最高の効果・整序問題をカードで解く第4章 英文読解は短文から長文へ英文解釈・最初の一冊はコレ!英文解釈は「硬派」か「遊び心」か英語長文・誰もが使う鉄板の一冊「速単」は5つのレベルに応じて使いこなす「速単」はドラえもんの「アンキパン」英語音読とカラオケ速読はボーリング「ぼっち」の味方。採点官気分で、和訳を採点できる本『DUO』は中国・韓国でも人気『DUO』の丸暗記で人生が決まる英作文は「ぬり絵」である島の塾生列伝1 英語偏差値40から65に上げ、同志社に入った「マスオさん」ソウタ君第5章 日本史・世界史でスコアを伸ばす13の秘訣教科書で歴史の流れをつかむのは難しい最強の方法、オーディオブックで歴史の流れを学ぶ高校の定期試験は満点が目標「歴史クイズ王決定戦」予想問題集歴史一問一答とヱヴァンゲリヲン一問一答は山川・Z会・東進、どれがいい?高校では近現代史をやらない世界史現代史は池上彰で学べ日本史は大河ドラマ総集編文化史・30年後の歴史教科書に村上春樹は載るか?歴史は8割の壁がある。やりすぎは要注意社会嫌い「根性一直線」の一冊コラム 戦国大名・明治の元勲の学歴は?島の塾生列伝2 ビリから立命館に猛暗記で滑り込んだ「平成の火野正平」スバル君
2014/10/16
6月に我が家に来た子猫ピッピも、身体がずいぶん大きくなった。ピッピが来た当初、じゃれる時は小さな猫がつぶれないように遠慮しながら遊んでいたが、最近は猫の身体が大きく頑丈になってきたので、猫と抱き合うと「プロレスごっこ」の様相を呈してきた。とにかくなつく猫で、最近は私の首に身体を巻きつけて眠る。猫の毛皮の襟巻のようだ。猫の平熱は38度あるので、結構暑苦しいし重い。ピッピは安全のため室内飼いにしているが、窓の外をじ~と眺めている時がある。外に出たいのだろうか?時々目を離した隙に、外に駆け出すこともある。ただそんな時も、遊び疲れると家に帰ってくる。家が嫌いなわけではないらしい。猫の気持ちを想像すると、たまには外に旅行をしたい、ということなのだろう。決して家出がしたいわけではなさそうだ。でも、外に出て交通事故に遭ったり、野良猫に病気をうつされてもいけないので、室内飼いの原則は守るつもりだ。
2006/10/06
文章ばかりの鬱陶しいブログなので、たまには写真もいいでしょう。うちの塾の中3の授業風景写真。みんな真面目に取り組んでいる。私は滅多に生徒を写真に撮らないのだが、彼らもあと半年で卒業だし、試しに撮ってみた。ところで左隅の男の子が2人、死角で写っていないのだが、2人のうち1人は池乃めだかに、もう1人は「パチパチパンチ」「カンカンヘッド」の島木譲二に似ている。
2006/10/05
今日はkamiesu先生の真似して、「24-twenty four-」のお話。ネタバレありなので、まだ見ていない人は絶対に読まないように。また「24」に興味がない人は何のことかわからないので(私も生徒達に「エヴァ」や「ドラゴンボール」の話をされた時は、ついていけなくて往生した)読まない方がいいと思う。「24」の第5シリーズのレンタルが開始された。DVDは全部で12本あるが、3本ずつ小分けしてレンタルされる。チョコチョコ出すなよ。もどかしいぜ。だからレンタルで見るのはやめて、11月にDVD-BOXが発売されるので、買って一気に見ようかと思ったが、でもやっぱり気になって借りない訳にはいかず、3本まとめて一気に見てしまった。いやあ、最初から飛ばしてますね。第1話のテンションの高いこと高いこと。主要人物のうち2人が殺され、1人が重傷。のっけからとんでもないショックを受けた。たとえるなら、「サザエさん」を見ていたら波平さんが射殺され、ワカメちゃんが爆死し、マスオさんが重傷になり治療室に運ばれたら、視聴者は驚くでしょ?「ドラえもん」でジャイアンが射殺、静香ちゃんが・・・(しつこいので以下同文)もちろん「サザエさん」「ドラえもん」は予定調和の平和な世界だけど、「24」は波乱万丈のスパイアクションなので、死がつき物なのは重々承知なのだが、だからといっていくら「24」といえども殺しちゃいけない、死んだら視聴者が悲しむ登場人物はいるでしょうに。「24」は登場人物にたっぷり感情移入させといて突然殺す。趣味悪いよ。あと役者が上手い。役者の層が厚い。NYやロスのレストランのウェイターやウェイトレスの感じは非常に良いらしい。なぜならNYではブロードウェイの、ロスではハリウッドの役者の卵達が生活費を目当てにアルバイトしているというのだ。俳優の卵達は感じのいい人間を演じる訓練のために精一杯笑顔を振りまくという。そんな厚い層の中から選ばれた俳優達が「24」には登場する。日本のドラマでミスキャストが多いのは俳優の層が薄いためで(どうして来年の大河ではGacktが上杉謙信なの?)、「24」にはミスキャストがほとんどない。キャラも演技力もきわめて高い。パウエル大統領は理想の大統領像だ。アメリカ初の黒人大統領が現実になるとしたら、おそらくこんな感じの人だろう。またブッシュを髣髴させるアホ大統領ローガンを演じる役者さんは上手い。ピンチになると必ずアホみたいに口を半開きにする。どんなにローガンが平和主義的な理想を述べても、口を開けるというたった1つの行為で彼が信頼性に欠ける人物であることを表現している。パウエルは民主党、ローガンは共和党だろう。アメリカの映画界やマスコミには民主党支持者が多いというが、「24」の製作者も民主党支持者だろう。あと「24」には「変な女」が次から次へと出てくる。変な女の代表と言えばもちろんパウエル大統領夫人シェリーだろう。シェリーはとっても変。顔も変だし性格はもっと変。身体が絶えず前屈みでクネクネしていて、指の使い方がとっても怪しい。彼女が登場すると必ず波乱が起きる。ところが、どうしようもない女なのに何故か憎めない。シェリーが身体をクネクネさせ唇を突き出し怪しい熱弁を振るっている時の、夫パウエル大統領の苦虫を噛み潰したような怖い仏頂面がいい。「8時だょ!全員集合!」で志村けんが「東村山音頭」を歌っている時のいかりや長介の気難しい顔に似ている。あとCTU ロス支局の部屋が素晴らしい。支局長の部屋が2階でガラス張りになっていて、1階の部下の仕事が俯瞰できる。東京証券取引所みたいな感じの部屋だ。私が塾を建てるとしたら、CTUみたいなレイアウトにしようと思う。塾長室が2階で、ガラス張りで1階の各教室の授業風景が丸見え。格好いい。ただ塾の校舎を建てるのは金がかかるので、せめてCTUの電話の音だけでも真似したい。CTUの「ププッ・ピ・ドゥー(マリリンモンローではない)」という電話の呼び出し音が鳴る電話機、どこかに売ってないだろうか?携帯の着信音なら探せばどこかにありそうだ。また電話なら、トニー・アルメイダの「アルメイダ?」という無表情な電話の取り方が格好いい。(気が向いたら続く)
2006/09/09
私にはサッカー選手の凄さが、よくわからない。もちろん「サッカー選手なんて、ぜんぜん大したことねえよ」という意味ではない。私はサッカー音痴なので、サッカーの試合中継を眺めていても、誰が上手で誰が下手なのか全然区別できずに、どの選手も同じ力量に見えるという意味で言ってるのだ。サッカーで私のような素人でも見分けられるのは、飛びぬけて超人的な凄い選手と、ド下手な選手の両極端な2種類だけだ。たとえばGK川口の神がかり的なセーブや、マラドーナの5人抜きの凄みはどんな素人にもわかる。極論だが、たとえば中田・宮本といった日本代表の中に、ホンジャマカの石塚や、松村邦洋が日本代表の一人として登場していたら、「あの選手デブで足が遅くてスタミナがないわねえ」と私にも一発で下手糞であることがわかる。ところで、中田英寿は凄い選手だと巷で言われる。しかし私はサッカーに疎いので、悲しいことに中田が他の選手に比べてどこが優れているのか、「肉眼」ではわからない。テレビ中継でサッカーゲームみたいに緑の芝生の上で駆け回る選手の姿が俯瞰で映っているのを見て、「あの7番の動きはいいね」と格好つけて言い切る自信など全くない。私は人が中田のプレイを凄いと言っているから凄いと思っているのであって、自分の目で中田が凄いと判別したわけではないのだ。さて、皆さんは私と違って、サッカーの試合だけを判断材料にして、中田の技量の高さが理解できるのだろうか? おそらくサッカーを観戦している人の8割ぐらいは、中田の技量レベルについて、何もわかっていないんじゃないかと思う。中田は個性的な選手だと言うけれど、プレーではなくファッションや言動という枝葉的な部分で中田の個性を感じている人の方が遙かに多いと確信する。マスコミが中田のプレイは抜きん出ていると報じているから、「ああ、中田は凄いんだなあ」と我々が思っているに過ぎないんじゃないか。サッカーに関しては、マスコミの報道を鵜呑みにしてしまう。「自分の目」を持たないから、マスコミの言辞に1から10まで振り回されるのだ。マスコミの記者ですら、全員が中田のサッカーの技量における凄味を理解しているのかどうか疑わしい。マスコミがプレーを正当に理解してくれず、頓珍漢で的外れの質問ばかり繰り返し、プレーではなく私生活や人間関係という枝葉の部分だけ膨らませた無責任な報道ばかりするから、中田も頭に来てマスコミと冷戦状態になるのではないか。とにかく日本では、テレビの視聴者もマスコミも、サッカーの技量の良し悪しについては、よくわかっていない。中田だけでなくジダンに関してもそうだ。ジダンのどこが凄いのか、なぜ世界的ヒーローなのか、本当に理解している人は少ないだろう。Wikipediaではジダンを、次のように礼賛している。「パス、ドリブル、トラップといったボールを扱うテクニックは超一級品で、ボールコントロールに関しては歴代の名選手の中でも別格。 185cmの恵まれた体格の上体を生かして懐深くボールをキープ、両足を巧みに使いながら複数の相手DFをかわし、抜群の視野の広さを持って前線へ正確なパスを送るプレーが彼の真骨頂。 まるで踊っているかのような優雅なボールキープで試合を支配する様は「マエストロ」(攻撃のタクトを振るう意味で)と評される。 ジダンの周りだけ 違う時間が流れている様に見える独特のボールタッチや、殆ど倒れそうな状態からでも正確なパスを送る事のできるバランス感覚など、同じ人間とは思えないほどのプレーをすることから、宇宙人とのニックネームもつけられた。 世界的スターが集まった2000年代前半のレアル・マドリーでも、彼の存在感は際立っており、多くの評論家・解説者が『ジダンのプレーは次元が違う』『彼は別の惑星から来た選手なのか』とため息を漏らしていた。」しかし目が節穴な私には、ジダンのプレーからジダンの技量の素晴らしさを鑑賞する眼力がない。ジダンの蹴る走るというプレイ中の一連行動から、彼がマエストロであり宇宙人であるという評価を下すことなどできない。サッカーのプレイは門外漢にはわかりにくい。私に唯一理解できたジダンの行動は、あの頭突きだけである。さて、サッカーに比べて、野球の方が選手の技量については判断しやすい。野球は打率や防御率などの成績が数字で表れるからだ。選手の能力がシビアに数値化される。松井やイチローのバッティングセンスも、松坂大輔の豪腕ぶりも、新聞に掲載される打率や防御率を足がかりにしてわかる。逆にサッカーは、FWの能力こそゴール数で推し量ることができるが、ディフェンダーの能力は数値化できない。数値という客観的な判断材料がサッカーにはない。その分野球に比べてサッカーは観戦する側には「難しい」スポーツと言える。サッカーにも選手の力量を数値化する「偏差値」が欲しい、と思う。サッカーのプレーは、わけのわからない名画に似ている。歴史的に名画という評価が下されているから、権威に追従して私は「この絵は素晴らしい」とわかった振りをしているに過ぎない。10000枚の絵画があって、予備知識なしで「モナリザが最高」と言い切れる自信は私には全然ない。サッカーに関しても絵画にしても私は門外漢だ。門外漢だから目は節穴だ。節穴の目にマスコミの論調や批評家の講釈といった先入観を詰め込まれたら、「自分の目」など持てない。視界は霞むし視点は揺れるし視座はぐらつく。
2006/08/07
亀田興毅戦、TBSに「番組開始から試合までが長い」「判定に納得がいかない」といった抗議や問い合わせが、3万7225件にも上ったという。平均視聴率は42.4%だそうだ。亀田三兄弟の第一印象、正直言わせていただけるなら、言動は宇多田ヒカルが最初にテレビ出演した時のような、生意気な若僧的な不快感を覚えるし、まず何と言っても彼らの猿顔に違和感を覚える。あのハチャメチャな言動を格好いいと思って、若者が安易に真似することを教育者の端くれとして恐れている。話は変わるが、スポーツは「死臭のしない戦い」である。たとえば球技はどんなに激しい戦いでも、負けた方が死ぬわけではない。格闘技ですら時代が経つにつれ、死の匂いが徐々に消されていった。大袈裟に言うならば、競技から死の匂いが消えたことが「近代」というものなのだろう。かつてローマ帝国では、コロッセオでキリスト教徒が猛獣に殺戮されるのを、大観衆が楽しんだ。またタイのムエタイは、初期の頃はどちらかが死ぬまで戦ったという。格闘技の敗者は、土やマットの上に自らの屍が横たわるのを、大観衆の前にさらすのが常だった。観衆もそんな残酷さを望んだ。ボクシングは格闘技の中でも、最も死の匂いがする競技だ。亀田興毅はボクサーである。19歳で「死地」に送り込まれる気分は果たしてどんなものだろうか。死と隣り合わせだからこそ、彼は常軌を逸した、一部の人間に不快を感じさせる言動をするのだろうか。ボクシングは人間の理性ではなく、獣性をフルにアピールしないと勝利にたどり着かない。顔と言動を見る限り、亀田兄弟は獣性を強く持つボクサーである。そんな獣性の強い亀田兄弟の試合は、古代の格闘技に見られた野蛮なテイストと、それに付随する死臭を少し感じるし、また3年前の曙VSボブサップ的な、見世物小屋的な匂いもする。彼らが原初的な野性味を発揮するからこそ、観客は亀田兄弟に興味を持つ。我々はキリスト教徒がライオンに食われる流血の惨禍を眺めエキサイティングするコロッセオの大観衆と同じ心理なのか。こういう過酷な環境で戦う、堅気とは程遠い亀田兄弟に、常人と同じ言動を求めるのは筋違いな気が私には少ししてきた。しかも亀田興毅は、まだ19歳だ!そんなことを私はふと思ったのである。
2006/08/03
前回のブログで紹介した「危険物体」とは、高松塚古墳のことである。こういう思わせぶりな書き方をすると、「猫ギターはやっぱり怪しい。北朝鮮のスパイかも。」と思う読者の方が10%ぐらいはいるかも知れぬ。だから野暮と知りつつ、答えを示してみた。全国の社会科の先生の皆さん、下に掲載した白いテントの建造物を生徒に見せて、ここがどこか当てさせて見て下さい。
2006/08/02
ブログ休止中、私はkamiesu先生と一緒に、国家が威信を賭けて隔離保存する危険物体の見学に出かけた。その危険物体は、のどかな田園風景に、忽然と姿を現す。危険物体は極度にデリケートで、少々の振動や環境変化で破壊されてしまう。地震なんかが起きたらひとたまりもない。もちろん破損されたら、新聞の一面トップに掲載されることは間違いない。だからこそ、国家が膨大な予算をかけて守っている。ある時、研究員が危険物体に接触して、物体の一部が2cm崩落した。たったそれだけの事態が新聞の一面で報じられ、物体を破損した研究員は精神的ショックで、精神科医に心のケアを施されたという。さて、問題の危険物体があるのは、ここだ。危険物は風雨からの保護するため、仰々しい鉄骨と白いテントで覆われている。まるでサティアンだ。内部は体育館が一つ入るぐらいの大きさで、物体は分厚い黒いシートで覆われている。また湿度・温度が一定に保たれるよう、危険物体にはダクトで空気が送られている。この危険物は湿度を99%に保っておかないと、破壊する危険性があるのだ。もちろん危険物体は、一般には公開されていない。ただ模造品が現物から近い場所に展示されている。恐るべきことに、この危険物体は北朝鮮に類似品が存在する。北朝鮮の影響を強く受けた物体で、調査すればするほど日本と韓国・北朝鮮間の国際問題になり兼ねない代物だ。危険物体を解体移動する計画もある。しかしそうなると、物体が原型をとどめぬくらい破壊されてしまう可能性が高い。学者の間でも、現地点で保存するか、解体保存するか意見が分かれている。とにかく、この危険物体はデリケートで、しかも極めて希少性が高い。私の予想以上に、危険物体は国家によって厳重に守られていた。
2006/08/02
私は車を持っていないが、助手席に乗りながらカーナビを眺めるのは面白い。1年前岐阜県のG先生の塾を訪問した際、恵那・中津川から木曽川沿いに山深い奥地までドライブしたが、木曽川上流付近は両端を高い山に囲まれていて、どこにも抜け道がない。当然カーナビが示す画面には、1本の川と、川に沿った1本の道、それに両端の山しか映っていない。カーナビの長方形の画面の中央に、水色の川と灰色の道路の線が横に1本、スーッと通っている。こんな単純極まりない道に、カーナビは必要ないだろう。また先日奈良県のkamiesu先生の塾を見学した時のこと。ドライブ中、平地なのに左手に鬱蒼とした森があった。平野なのに森とは珍しい。奈良県は人口の増加が激しい県だから、森を潰して住宅地にすればいいのにと不届きなことを考えていた。とにかく左手にコウモリが出そうな森が延々と続いていた。そこでカーナビを見て驚いた。左手の森は古墳だったのだ。しかも綺麗な形の典型的な前方後円墳だ。カーナビには緑色でくっきりと前方後円墳の形が映し出されている。ハイテクのカーナビに映る1500年前の古墳の映像を見て、ロマンチックな感興を覚え、また奈良県=大和の国の歴史の奥深さに触れた思いがした。
2006/07/31
うちの塾には小3の男の子が2人いる。小3は募集していなかったのだが、小3クラス開設のご要望があり、土曜日の朝たまたま時間が空いていたので、小3クラスを作ることにした。それにしても小3は小さくて可愛い。小3の後に中3が来ると、オッサンオバサン臭くて、同じ人類とは思えない。小3は9歳、中3は15歳、たった6歳しか違わないのにこの差は何だ。とにかく子供の成長は早い。逆に老人になると年齢がわからない。同じ6歳差でも、68歳と74歳の区別はできない。68歳と74歳の老人が2人いても、どっちが68歳でどっちが74歳なのか見分けがつかないよ。そういえば首相候補の安倍晋三は51歳、福田康夫は70歳。安倍官房長官が小3のとき、福田氏は28歳だったのである。福田氏がもし総裁選に出馬していたら、19歳も違う人間同士が争っていたことになる。小3と28歳が戦うなんて変だ。ところで小3の子が教室を歩くと、歩く時にタラちゃんイクラちゃんのような、ピコピコした擬音が鳴りそうな気がする。それくらい小さくて可愛らしい。小3の子に聞いてみた。「ねえ、洋平君、お前歩く時ピコピコ音を立てるの?」洋平君は質問の意味がわからず、不思議そうな顔をして「立てません」と答えた。そりゃあ立てないだろう。可愛い。
2006/07/31
英語のテストで、こんな問題があった。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆日本文の意味を表す英文になるように、( )内の語を正しく並びかえて書きなさい。 「私はあなたに料理のしかたを習ってほしい」(how/I/to/to/you/cook/want/learn/.)解答はI want you to learn how to cook.多かった誤答はI want to learn how to cook you.これでは佐川君みたいな文章になってしまわないか?
2006/07/31
夏講でブログを休止したが、ようやく身体も慣れてきたので、1週間に2~3度はブログを更新しようかなと思う。とにかく自然体が第一。書きたい時に書く、書きたくない時には書かない、嫌になったらやめる。そんなスタンスが大事だと思う。これからは、1日5本の怒涛の更新があったり、2~3週間何も書かなかったり、気まぐれなブログになると思いますが、よろしく。さて、ただいま中学校では部活の大会たけなわ。部活をやっている子は疲労の極地だが、それにしてもみな、顔の色が黒い。特にテニス部がひどい。炎天下で長時間ラケットを振り回すため、テニス部の中には顔面が焦げ茶色でコーヒー豆みたいに黒く、目と唇が識別できない子もいる。サッカー部も負けずに黒い。野球部は帽子をかぶっているので常識的な黒さだ。卓球部や柔道部はさすがに普段と変わりはしない。ところで「何気やる気なローテンション」の、若き名文章家である管理人たけさんは、浅黒い肌と東南アジア的風貌から、カンボジアをもじって「カンボディー」というニックネームをお持ちらしい。それなら今の我が塾は、中学生の3分の1は「カンボディー」だ。カンボディー塾。教室はカンボディーだらけで、私はなんだかカンボジアの日本語学校の講師になったみたいだ。男の子の顔は黒くなって精悍になるが、かわいそうなのは色が白くて繊細な肌を持つ女の子だ。炎天下で太陽の色が乗り移ったみたいに顔が真っ赤になっている。まるで生まれたての赤ん坊みたいに赤い。顔中に赤痣が広がっているようにも見える。中3はあと1週間で部活は引退。うちの夏講は部活引退まで中3は1日2時間しか授業はないが、引退後は1日3時間半プラス補習というハードなスケジュールになる。中3は受験生、今後は勉強で忙しくなって、黒いカンボディー的な顔色は、どんどん青白く変化してゆくのだろう。
2006/07/31
今日のyahoo見てたら、こんなニュースがあった。巨人の渡辺恒雄会長は、原辰徳監督に「来年絶対に優勝できるように、今からいろいろと考えて手を打て。長期計画で」と来季Vを厳命した。えっ? 巨人は優勝あきらめたの?確かに途中までは巨人は強かった。しかしその後の転落ぶりは凄い。最初の32試合は○●○○○○●○○○○○○○○●○○●○●○●○●○●●○○○○と23勝9敗その後西武3連戦で3タテ食ったのが痛く●●●○○●●○●○●●●●●○○○○○この時点でトータル32勝20敗ところが地獄の8連敗以降は、なんと4勝27敗●●●●●●●●○●○●●●●●●●●●●○○●●●●●●●●現在はトータル36勝47敗である。でも巨人が優勝を現時点であきらめるなら、巨人より順位が低いカープはどうなるのか?そう思った瞬間順位表を見たら、何とカープは巨人より上にいるではないか!意外にもカープは4位、巨人は5位だったのである。いつの間にか順位が逆転していた。しかも巨人はダントツの最下位だった横浜と1.5差しかない!巨人はカープのエース黒田を狙っているらしいが、今の巨人には黒田を引き付ける魅力はないぜよ。
2006/07/14
芝居は楽しい。良い芝居は演者と客が一体化する。良い芝居は、舞台上の演者の輪の中に、客を完全に食い込ませる。客は芝居の世界に自分の居場所を見つける。芝居小屋は家になり、役者と客は家族になる。だからこそ良い芝居は、芝居が終わったあとの反動が大きい。芝居の親密な小宇宙からひとり取り残されたような猛烈な孤独を客は感じる。芝居終了後客に猛烈な孤独を感じさせる芝居こそが良い芝居である。ところで最近、学校で芝居をする機会が減ったような気がする。私はもっと学校で芝居に力を入れてもらいたいと思う。小学校・中学校では、1年に2~3回は芝居をする機会を与えてほしい。芝居は子供を成長させる踏み台になる。子供に芝居を演じさせる利点は、まず第1に国語力がつくことだ。暗記暗唱は学力向上のための最大の方法であろう。英文を暗唱し古典を暗記することは、学力向上への近道だ。芝居を演じるには台本を完璧に「暗記」しなければならない。上質の台本を記憶し演じることで、必然的に国語力が上がるのは道理だ。芝居とは、良いテキストを暗記暗唱させるための最高の手段である。第2の利点は、芝居を演じると人前で物怖じしない度胸が身につくことである。大勢の観衆の前で正面を向き、台詞を口にすると最初は緊張する。しかし自分の発した台詞で、或いは自分の体の動きで観客を感動させ、笑いを取る快楽は何者にも変えがたい。ふだん子供は学校で知識のinputばかりで、outputの機会があまりない。芝居は子供が自分を表現する手頃な手段だ。第3は芝居は子供の団結力を高め、達成感を与える。芝居には人手がかかる。役者・脚本・演出・舞台装置・照明・大道具・小道具・衣装・メイク・宣伝・・・・多くの人間の努力と才能とアイディアが渾然一体となり、優れたリーダーの下に団結しなければ良い芝居は生まれない。また芝居のために汗水流し、観客から熱い拍手を浴びた時の達成感は何者にも変えがたい。第4、これが一番重要だが、芝居は子供の「人格力」を高める。芝居の役柄になりきり、舞台上で別人に憑依すれば、演者は役柄の人物のエッセンスを吸収し、強い影響を受ける。良い人を演じれば、子供は良い人になる。また役柄の人物の所作や立ち振る舞い、言葉使いを子供は芝居を通して身体で覚える。若者の言葉使いや態度が乱れていると言う大人は多いが、どんな言葉使いが人に好かれ、どんな振る舞いが賢明か、大人は若者に模範的な「形」や「手本」を示せずにいる。形や手本を示さずにただ「最近の若者の言葉使いはなっとらん!」と否定するだけで難癖つけるのは、まるで吉良上野介みたいな陰湿な態度である。芝居を通して子供の頃に、自分以外の人物になりきる訓練をしておけば、成長した時「引き出し」が増えるような気がする。ところで、学校が最近芝居に熱心でないことは、おそらく学校内で左翼教師の力が低下したことにも原因があるだろう。左翼運動の啓蒙は芝居を通して行われた。かつて左翼演劇の説得力は、民衆を熱狂させた。それと同じく、左翼の平和教育や平等教育の血肉化に芝居は大きく手を貸した。これは戦前の皇民化教育の手法をそのまま踏襲したものである。戦前も戦後も、学校ではイデオロギーを子供に染みさせるために芝居を利用した。芝居は子供の頭も心も体も呪縛する。芝居は子供を洗脳する手段としては最高の装置である。芝居にはわれわれの想像以上に危険性を持つ。でも逆に言えば、子供を正しく「洗脳」するには芝居ほど効果的な装置はない。芝居は子供を洗脳する毒薬だ。しかし同時に子供に「形」や「規範」を叩き込む良薬にも成り得る。
2006/07/14
高校生から、高校の授業が眠いという話をよく聞く。生徒が授業中寝ているのは、絶対おかしい。教える側は、子どもの貴重な時間を奪っているのだという、「罪」の意識を持ってほしい。ところで私は「勉強濃度」という数値にこだわってみたい。「勉強濃度」とは、一定の時間に、どれだけ濃い勉強ができるかを示す数値である。1時間の授業で、生徒が最初から最後まで爆睡していたら「勉強濃度0%」きちんと授業を聞いて、ある程度満足感を覚えたら「勉強濃度80%」ということになる。授業を充実させるのが勉強濃度を高める最適の策であることは言うまでもない。ただし、授業だけで勉強濃度を高めようとしても限界がある。特に数学に関しては、どんなに立派な授業をしても、すべての生徒に同じ満足度を与えることは不可能である。数学という科目には歴然とした学力差がある。同じ数学の授業を受けるにしても、理解できる子には勉強濃度80%、しかし分数の計算も覚束ない子にとっては、勉強濃度は1%ということになる。逆に勉強ができる子が、簡単すぎる授業を聞く時の勉強濃度は下がる。内容が薄すぎて無駄な時間を過ごす事になってしまう。そう考えてみると、個別や家庭教師が、勉強濃度を高めるためのベストな方法なのだろうか?とにかく授業中、生徒に濃い時間を過ごしてもらう工夫をしたい。勉強濃度を高めるシステムの構築し、実践したい。アルコール度数の酒は少量でも酔えるように、勉強濃度の高い授業やシステムがあれば凝縮した短い時間で子供に満足感を与えることができる。幸い、某書でフィンランドの学校の授業のルポが掲載されていた。面白そうだ。少し真似をしてみようと思う。
2006/07/14
私は道後温泉が好きで3ヶ月に1回は訪ね、温泉街を闊歩する。1人では旅館に泊まりづらいので、ホテルに泊まって外湯回りというのが私の温泉回りの1パターン。道後温泉本館は1894年に完成。なんと日清戦争の年である。ここの風呂に入ると明治時代にタイムスリップした気になる。漱石の「坊っちゃん」にも道後温泉本館は登場し、松山の街と人間をあれだけ嫌った気難しい漱石も、道後の湯だけは認めている。道後温泉本館は結構大きな恰幅のいい建物で、建設当時は見る人の度肝を抜いたであろう。巨大温泉レジャーランドみたいな感じだったのだろうか。今では国の重要文化財に指定されている。また温泉自体の歴史も古く、若き日の聖徳太子が摂政になる前道後にノイローゼ治癒に訪れたそうである。また万葉集にも登場し山部赤人が残した歌が残っている。しかも道後は雰囲気ばかりか湯質もいい。道後の湯はほんのわずか鉱泉臭さがあり、無色透明で弱アルカリ性。湯には石鹸を溶かし込んだようなツルツル感がある。肌がきれいになりそうで、俗に言う「美人湯」というやつである。しかし36歳の親父のお肌がツヤツヤになってもどうでもいいことだ。ところで最近、地下数千メートルの深さから無理矢理掘り出したような温泉が、温泉ブームに乗って続々全国で登場しているが、ああいう温泉はどこか重油っぽく汚いにごり方をしていて、どうも感心しない。その点道後の湯は透明感と清潔感があって素晴らしい。道後温泉の効能は(うさぎちゃんみたい)神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進などだそうだ。さて温泉といえば、あの白骨温泉はどうなったのだろうか。例の草津の入浴剤を使って、透明な湯をむりやり白くした「入浴剤事件」の温泉だ。「白骨」というネーミングであるからには、湯を白く保つ必要性があったのだろう。私は自営業者だから入浴剤を入れた旅館の経営者の心理もわかるし、逆に温泉好きの1人として入浴剤で騙された人の気持ちも理解できる。ところで、あの騒動で一番肝を冷やしたのは温泉評論家の人たちじゃなかろうか。温泉評論家とは「日経おとなのOFF」や「自遊人」あたりの私みたいなオッサン向けの雑誌とか、航空会社の機内誌などに、あの温泉の湯は源泉かけ流しで湯質はピカ一だとか、ここは水で薄めて循環させたまがい物だとか、そういう類の温泉評論を執筆している人たちである。入浴剤騒動では、旅館の経営者の言うことを鵜呑みにしていたらロクな評論ができないことが明らかになった。今回みたいに騙されることもある。これまで以上に湯質を鑑定するシビアな眼力が温泉評論家には必要になるだろう。たとえば温泉評論家の中には、白骨温泉に草津の入浴剤が混入されていることも知らずに取材し、白骨温泉を礼賛しすぎて、こんな文章を書いて大恥をかいた人も中にはいるかもしれない。「白骨温泉の湯はいい。「白骨」という名に相応しい白く濁った湯。湯質は硫黄泉では日本一といわれる草津温泉に匹敵するか、あるいは凌駕しているかも知れない。白骨温泉の白さには感激する。地下の奥底から噴き出した、自然が醸し出す天然の白さを何にたとえようか。夏の青空を彩る積乱雲の白、ミネラルを含んだ海の塩の白、山嶺に降り積もる処女雪の白、そんな自然界の「純白な美しきもの」と、十分肩を並べる清らかな白さである。筆者も白い湯が好きで、家で白色の入浴剤を使っているが、白骨の湯は入浴剤とは比較の対象にならない。白さの「格」が違う。まだ地球が今よりずっと熱かった昔、恐竜をはじめとする巨大動物の巨大な骨が地熱で溶かされて白濁した温泉になり、何億年もたってからそれが噴出し、人間の身体を癒してくれるのだろうか。白骨温泉の純白の露天風呂に身を浸していると、そんな古代のロマンをも感じさせてくれる。」いかさま入浴剤温泉を、こんな大袈裟な仰々しい文章で表現した温泉評論家は、この先どうやって業界で生きていけばいいのだろう。ほんとに罪な入浴剤である。それにしても、白骨温泉に草津温泉の湯の花が使われていたことで、草津の株はさらに上昇したに違いない。最近は鬼怒川温泉みたいに源泉が涸れかかって死活問題になっている所もあるというのに、草津とか別府は熱い良質の湯がほとばしるように湧いてくる。草津の湯の効能は抜群である。草津は古くから温泉療養で有名な温泉で、信玄は草津で刀傷を治癒し、吉宗は持病の梅毒を治すために江戸城に草津の湯を運ばせた。草津は硫黄臭い酸性の湯で、皮膚の中に電磁波みたいなものがチリチリ、チリチリ入り込んでくるような湯質で、疲労や肩こりが破壊されるような感じである。そういえば草津温泉は水虫に効くらしい、電磁波のチリチリが皮膚の裏の痒い場所に入り込み、菌を殺すのだろうか。
2006/07/12
私は会議が嫌いだ。会議に出席するのも嫌だし、自分が主催するのも嫌だ。やむなく塾のスタッフに連絡事項を伝えなければならないケースもあるが、それでも5分以内でサッサと伝達を終わらせる。私が大手塾にいたとき、会議が長いのには閉口した。2ヶ月に1回くらい県本部で会議があり、各教室の教室長と主だった時間講師に動員がかけられたが、時には会議が3時間4時間と長引くことがあり、嫌で嫌でしょうがなかった。私はその頃20台前半の時間講師だったが、発言するのは30代40代のベテラン講師の方々で、彼らの話は最初のうちは刺激的で面白いのだが、時間が経つにつれて同じ話の蒸し返しや堂々巡りで、声も次第に大きくなり、まるでラヴェルの「ボレロ」みたいな会議で非常に困った。会議を自分の演説の場意見開陳の場だと勘違いし、会議になると目を輝かせて語り始める人はイタい。人前で話をする以上、聴き手を話で酔わせるサービス精神が必要だと私は考えるが、会議で積極的に発言する人の多くは自分の話に酔い、酔っ払いの戯言に堕ちていることに気づかない。彼らはまるで、客を酔わせることを忘れ、逆に自分だけベロベロに酔ってしまう場末のバーのホステスみたいだ。会議の他の参加者は酔っ払いの戯言に付き合わされて大いに迷惑である。また会議が長引くと、発言する人は発言するけど、しない人は黙りこくっている。ある日、いつもの如く一部の人達が侃々諤々と不毛な議論を戦わせていた。会議は始まってから数時間経っていた。私は「早く終われ」とイライラしていた。司会者は他の参加者達にも発言を促そうと「他にもご意見のある方いらっしゃいませんか?」と、今まで黙っていたふだん無口な時間講師を指名した。私はその人も同じように会議にウンザリしていると思い「いえ、別にありません」と会議を終わらせる方向の発言をしてくれると期待したが、ところがその人は何と、指名されたのを幸い堰を切ったかのように話し始めた。しかも悪いことにその内容が今まで述べられていた意見の反論だった。もちろん反論された側は黙っていない。会議はさらに熱くなり長引くことになった。やれやれ。もし私がその時司会者に「猫ギターさん、何か言いたいことはありませんか?」と尋ねられたら、「早くこの会議終わらしてください、うんざりです」と答えていたかもしれない。でもそんな勇気、俺にはないわ。
2006/07/12
私が1日3回はブログを拝見させて戴いていて、短い文章の中に高いプロ意識が仄見え、常々私が感銘を受けている大合格先生のブログに、札幌のラーメンの話題があったので、便乗させていただきます。大合格先生、よろしくお願いいたします。僕は札幌には、ANAの超割を利用して1年に2回ぐらい行く。広島から往復2万円強で行ける。で、札幌に着いたらラーメン屋回り。時間が限られているので、ネットで調べ上げて、店を探索する。しかし、地元民ではないので、有名な店しか回れない。「隠れた名店」に疎い。大合格先生のお奨めのお店「鴇(とき)の家」は美味そうだ。塩ラーメンがいいらしい。でも、札幌の塩ラーメンって、「山頭火」のような薄めの豚骨ラーメンが多い。ススキノの外れにある「五丈原」という店で食べて、札幌の塩ラーメンはこういう味なんだ! と思ったことがある。僕がこの前札幌に行った時は、琴似の「山桜桃」「ななし」に行った。こってりミルクのような獣臭いラーメンは、心の底から美味いと思った。特に「ななし」の醤油ラーメンは絶品だった。ところで昔札幌には、狸小路のアーケード街に「富公」という野菜が焦げた香ばしいラーメン屋があり、親父さんが怖そうで、まるでうちの塾で私が怒った時の様な緊張感が漂っていたのだが、独特の味で美味かった。また東映の映画館に「糸末」というこってりした味噌ラーメンの店もあった。両店とも有名な店だったのに、どうして消えて無くなってしまったのか?
2006/07/11
フィレンツェのトラットリア「アルマンド」で食べた、カレッティエラという、トマト味のペペロンチーノ。ニンニクとトマトの味が凝縮された、目の覚めるような一品。こんなパスタを日常的に食いたい。「アルマンド」にはパバロッティ、ドミンゴ、メータ、シノーポリなど、有名音楽家のサインがズラリ。イタリアのパスタは「アルデンテ」に茹でなければならぬとよく言われる。「アルデンテ」とは、茹で上げたパスタの真ん中に、ちょっとだけ芯が残る状態のことを言う。アルデンテに茹でると、麺が適度な歯ごたえでもっともおいしく感じられるという。 しかし日本の「アルデンテ」は、ちょっと麺が固いような気がする。本格的なイタリア料理店ほど、「シコシコ」ではなく「ゴリゴリ」した麺が多い。私はイタリアに行く前は、博多ラーメンの「バリカタ」「ハリガネ」のように、「アルデンテ」=「ゴリゴリの固麺」だと思い込んでいた。本場イタリアの麺もゴリゴリしているのだろう。固いゴリゴリ麺を耐えながら食うのが本格派だと思って、無理して食べていた。しかし、イタリアのパスタの麺の固さは素晴らしかった。どこで食べても固からず柔らかすぎず、ちょうどいい麺の固さだった。一度も麺が固いとか柔らかいとか意識することはなく、スルスル胃に麺が収まった。よく考えてみれば、日本ではどこの店で食べても、米の硬さは一定である。芯が残っていたり粥みたいになった炊き方を誤った米は、どんないい加減な食堂でも出さない。イタリアのどんな安食堂でも、パスタの茹で方は完璧だった。アルデンテとは、毎日食べても飽きの来ない、ちょうどいい固さの麺という意味だったのである。イタリアのパスタの話はこちらも参照くださいイタリアのパスタ(1) スカンピのトマトソースイタリアのパスタ(2) ボンゴレビアンコイタリアのパスタ(3) イカスミパスタ
2006/07/11
3歳の子供に対して、父親が大声で怒鳴りながら泣かせて勉強を教えたら、それはかなり異様な光景だろう。しかし、狂言の野村萬斎は、3歳で舞台デビューする自分の息子を、怒鳴り上げ泣かせながら稽古していた。3歳の男の子は初舞台で子猿を演じる。子供が一生懸命「キャッ・キャッ」と叫んでも、野村萬斎は狂気を含んだ厳しい目で子供を見据えながら、「駄目だ」とよく通る声で叱りあげていた。お父さん野村萬斎は「キャッ・キャッ」と子猿というより狼みたいな怖い声で見本を示す。子供が「キャッ・キャッ」と可愛い涙声で叫ぶ。そんな親子の格闘が、テレビで映し出されていた。ところで、子供に厳しく勉強を教える父親に対して、私は病的なものを感じる。父親が会社や組織で不遇感や疎外感を味わっている。その復讐を子供の教育にぶつけるケースが多い。子供から「父さんはオレを利用して社会に復讐しようとしてるんだろ!」と言われても仕方ない教育熱心ぶりだ。自分を冷たくあしらった巨人軍に対する複雑な感情を、息子を鍛え巨人軍に入団させることで晴らそうとした星一徹みたいな父親には、男同士の近親相姦みたいな、歪んで淀んでひねくれた不潔な匂いがして、私は強い嫌悪感を抱く。しかし野村萬斎親子の厳しい稽古には、逆に心地よい清涼感を覚えたのはなぜか?
2006/07/10
カープは巨人に3連勝。東出のサヨナラヒットで勝った。でも巨人はどうなってるんだ?怪我人が多いとはいえ、内部で何かあったのか?原監督に代わり、4月5月の巨人はスタートダッシュに成功した。快調なスタートダッシュは巨人の最近の低迷は堀内監督のせいだったと証明したようなもので、巨人ファンは一息つくことができたが、6月に悲劇が起きた。巨人の弱さはもっと深い構造的な問題らしい。野村・星野が阪神の監督に就任以来、巨人と阪神の立場は逆転した。阪神は弱くても絵になるが、巨人が弱かったらシャレにならない。今日の試合も、何だか病院のベットで寝ている瀕死の病人の顔にヒールキックを決めたようで、巨人に同情してしまう。
2006/07/09
今日はワールドカップ、フランス対イタリアの決勝戦だ。よく南米やヨーロッパの国は、日本と違って広大な空き地がたくさんあり、子供がサッカーをしやすい環境だから強いんだと言われる。確かにブラジルの少年は、素足にサッカーボールが吸い付いているようなイメージがある。日本のような地価の高い国で、広大なサッカー場を確保するのは難しい。ヨーロッパにせよ日本よりはるかに平地が多く、人口密度が低いわけだから、子供がサッカーをする環境には恵まれているのだろう。しかし例外はイタリアのベニス。日本より遥かに子供のサッカー環境は悪そうだ。 こんな街では、子供がサッカーをするのは難しい。ベニスの旧市街には車道がない。密集した住宅の中、狭い運河と狭い歩道が街を迷路のように駆け巡っている。狭い路地ではサッカーはできないし、蹴ったボールが運河に落ちてしまう。交通手段は水上バスにボート。救急車も消防車もパトカーも船だ。ベニスは観光客には魅力のある街だ。行き交う車も自転車もいない。世界で一番散歩が楽しい街かもしれない。しかしその反面、住民には不便な街だ。ベニスでは街の魅力と住環境は反比例している。特にお年寄りには住みにくい。しかしそんなベニスの街にも、ところどころ狭い広場がある。広場には観光客向けのテラスがオープンになったカフェがあり、散策に疲れた観光客が休憩を取っている。そして広場では、必ず子供が3~4人集まってサッカーボールを蹴っている。みんな上手いし、格好いい。 子供達は観光客に向かって、イタリアサッカーの底力を見せつけている。
2006/07/09
ワールドカップ決勝戦は、フランス対イタリアに決定した。ベスト4もすべてEUの国。今回のワールドカップはさながら欧州戦争の感がある。第二次世界大戦まで欧州は戦争を繰り広げた。18世紀から20世紀前半まで、地球上で一番戦火で熱かった欧州が、現在ではサッカーで「擬似戦争」をやっている。いまの欧州には戦争の匂いがしない平和な地域に落ち着いている。ヨーロッパは小国の集まりだが、多くの国境線には川や山脈が横たわっている。たとえばチェコは小さな国だが、周囲は山地に囲まれ、広い盆地が丸々チェコという国になっている。フランスとスペインはピレネー山脈、スイスとイタリアはアルプス山脈という具合に、山脈が国境を分けている。しかしドイツとフランスの国境線は平原である。川とか山脈とか国境を分ける「壁」がない。ドイツとフランスという、言語も宗教も民族も文化も食生活も何もかも対照的な2つの国家が、障害物の無い平原を境に対峙している。地勢上学的にはお互いを常に意識していなければならない位置関係だ。だから二国間で国境線の策定を巡って大戦争が起き、国境付近が激戦になるのは大いに納得できる。フランスとドイツは、ドイツが統一国家になった近代以降、普仏戦争・第一次世界大戦・第二次世界大戦と3回も直接対決を繰り広げた。3回目の悲惨な大戦争のあと、フランスとドイツはEU内で盟友になった。両国に平和が訪れるまで、3度の戦争を経験しなければならなかったのだ。さて、東アジアはどうか? 東アジアの国々でEUのような連合体を作ることなど、夢のまた夢だ。東アジアは未だ緊張状態にある。かつて日本はアジアを統一しようと「大東亜共栄圏」なるものを作ろうとしたが、他のアジア諸国から総スカンを食った。日本と中国は近代以後、日清戦争と日中戦争の2度戦争をしている。フランスとドイツより1回少ない。また日中間の2度目の戦争の戦後処理は未だに終わっていない。戦後処理の最高の解決法は戦争なのだが、日本と中国はあと1回「最終戦争」しないと仲良くならないのだろうか?日本と中国は、戦争をやり足りないのだろうか?
2006/07/08
子供に日本史を血肉化させるのに、大河ドラマの総集編を見せるのは効果的だが、それでも時間が長過ぎる。他の科目の勉強に差し障りがある。しかもドラマだけでは歴史的背景がわかりにくいし、また歴史嫌いの子にとって長時間の時代劇は苦痛である。私は植物とか昆虫の世界には全く疎い男だが、昆虫のドキュメンタリーを何時間も見せられたら飽きる。それと同じことだ。大河ドラマの総集編を見せると、歴史好きの子はますます歴史好きに、嫌いな子はますます嫌いになる危険性がある。そこで、NHKにお願い。総力を挙げて、原始から現代までの日本通史ドラマを作って欲しい。「まんが 日本の歴史」の映像版である。総時間は24時間ぐらい。1日2時間で全12話。「第11話 昭和天皇と太平洋戦争」みたいな感じで。永久保存版になるような力作にして欲しい。ドラマだけでは子供はわかりにくいので、時々CGや図表を使って歴史の状況説明をふんだんに入れてくれれば助かる。ナレーションは当然「その時歴史が動いた」の松平定知アナが適任だろう。みのもんたでもいいが、彼には生理的嫌悪感を抱く人が多いのが難であり、また軽妙すぎて「プロ野球珍プレー・好プレー」になってしまう。ドラマの演出は「さり気ない大人の演出」よりも「ドラマチックな劇画調のケレンのある演出」の方が子供向けだ。ただ子供向けといっても、十二分に大人の鑑賞に堪えるものでなければならない。脚本はわかりやすく、音楽は勇壮に、とにかくステーキの上にウナギを乗せた黒澤映画のような、コッテリしたドラマにしたい。黒澤さんが生きていて演出してくれればいいのに。さて、重要なのがキャスティングである。信長とか秀吉とか家康とか坂本龍馬みたいな人物は映像化されまくってきたので、視聴者にはある一定のイメージがある。イメージとかけ離れたキャスティングは、あまりやらないほうがいい。西郷隆盛役をナインティナインの岡村とか、坂本龍馬を田中邦衛とか、絶対にそんな冒険をしないほうがいい。キャスティングはオーソドックスにいきたいものだ。鍵になるのは原始古代の人物のキャスティングである。原始古代の人物に対するイメージは乏しい。たとえば藤原道長役を誰がやるか、キャスティング係の人は大いに悩むだろう。私のイメージは50代の頃の仲代達矢だが。藤原道長はまだまだイメージはわきやすいが、金印もらった「漢委奴国王」役になるとお手上げである。どんな人なのか見当がつかない。赤ん坊でも95歳の爺さんでもいい。どんな俳優が「漢委奴国王」役を演じるのやら。卑弥呼も困る。魏志倭人伝からの情報があまりにも少ないため、年齢も性格も外見も服装もわからない。わかっているのは女性の呪術師ということだけである。卑弥呼役は石原さとみでも深津絵里でも浜崎あゆみでも荒川静香でも黒木瞳でも岸田今日子でも赤木春恵でもいい。私がプロデューサーなら、卑弥呼役には細木数子を推すけど。聖武天皇は誰がいいか。井沢元彦の影響もあってか、私は聖武天皇には「気が弱いオタク」のイメージを持つ。藤原氏出身の光明皇后の尻に敷かれ、アクの強い親戚藤原四子に気を使い、強度のノイローゼで誰かから襲われる恐怖から都を転々と替え、死の恐怖から逃げたいあまり仏教に過剰に帰依し巨大大仏を建立し、外国の宝物に目が無くコレクションを集め保存した正倉院というオタクの宝物館を造り、とにかく聖武天皇には権力志向の強い反面、臆病なアキバ系の兄ちゃんの匂いがする。だから聖武天皇役には、「電車男」の伊藤淳史か山田孝之あたりが適任ではないか。あと、後醍醐天皇は絶対に田村正和だ。これは譲れない。後醍醐天皇はせっかく建武時代に天皇親政の政体を作っておきながら、わがまま放題を尽くし、武士への恩賞をケチり不満憤懣を爆発させ、もっとも人望のある部下だった足利尊氏を敵に回し、最後は吉野へ逃げたが激しく幕府に抵抗する。後醍醐天皇は「貴人に情なし」の典型だった。後醍醐天皇は自己中でプライドが高く、駄々っ子のような幼児性にあふれ、エキセントリックで衝動的で、貴人らしく浮世離れした人だったのだろう。またその反面高貴で威厳があり、格調の高さとスター性を兼ね備え、わがままでも憎めない部分もあった。そんな複雑な性格で、味方がどんどん離れてゆく孤独な焦燥感に満ちた後醍醐天皇を演じられるのは田村正和しかいない。田村正和に束帯を着せ、あの口調で「尊氏め、けしからん」と言わせてみたら、後醍醐天皇にぴったりでしょ?
2006/07/07
パンチ力と、抜き身の刀のような鋭さを合わせ持つ授業がしたい。3時間の長丁場の授業なのに、知的な話術と爽快なスピード感がみなぎるおかげで、体感時間がたった30分、そのくせ10時間分の濃厚な充実感を得ることができる授業。そんな授業ができたら、子供の学力は驚異的に伸びるに違いない。勉強ができる子に対しては知的刺激をふんだんに与えると同時に、勉強にそれほど自信がない子にも上昇志向と向学心をもたせる授業。そんな授業をしたいな。
2006/07/07
中1のやる気が凄い。lekuchan先生の塾もそうらしいが、日本全国の塾の中1はどこも凄いのか?自習室は中1で埋め尽くされているし、仲間同士でお互い高め合おうという危機感が充満している。でも中1なのに「危機感」という言葉が似合うなんて凄いではないか。学校のテストの結果も当然素晴らしい。私は何もやっていないのに。私がやる事といえば、自習室に時々顔を出して「たまには休憩しろよ」と言ったり、質問に答えたり、教科書ガイドを貸したり、軽いアメリカンジョークを飛ばしたり、「お茶でも飲めや」と生茶のペットボトルと紙コップを運んだりするだけ。そういえば中1の半分ぐらいは、自分で教科書ガイドと参考書を買っているのだ。私は「買え」なんて一言も言ってないのに。中1に限って、どうやらうちの塾には「できる子」が集まっているようだ。中3も結構いい成績を残してはいるが、中3は長期間私が叩き上げたので、ある程度成績が上がるのは当然といえば当然だが、中1は怪奇現象である。授業中の反応もいい。授業始まりの挨拶の時「こんにチワワ」と言ったら大爆笑してくれた。こんなの中3で言ったらドン引きだが、中1の授業中の反応はとてもいい。笑いがある。心地よい反応がある。で、ひとしきり下らない雑談をした後、「では数学78ページ」と私が低音に声色を変えて「これから勉強モードに入るぞ。真面目モードにチェンジするぞ」というシグナルを発したら、急に静粛になる。凄いクラスだ。授業中の感触の良さは、ハワイの大波でサーフィンに乗っているような感じだ。生徒が大波をこしらえてくれて、私はただ波に乗っているだけ。気持ちいいことこの上ない。やる気がある子の前で授業するのは快楽だ。逆に反応の悪いクラスは違う。穏やかな瀬戸内海でサーフィンしているようだ。「風を吹け、波よ立て、やる気よ出ろ!」と叫んでも一向に波は起こらない。私はボード片手に突っ立って、孤立しているだけだ。今年の中1、もしかしたら「ゆとり教育」の徒花か。周囲がノンビリしていると、「自分だけはシッカリしなくちゃ」という気にでもなるのだろうか。「家貧しくして孝子顕る」というところか。
2006/07/07
サウナへ行って来た。私は週3回ぐらいは必ず仕事前にサウナに行く。福山駅前の映画館の5階にあるサウナだ。運動不足の私にとって、サウナは汗を流す唯一の機会だ。中年男は体内に疲労と脂肪が溜まりやすい。疲労と脂肪は白っぽい透明のゼラチン質の形をして、皮膚の内側にネトネトくっ付く。そんな疲労と脂肪の塊のゼラチンが、サウナの灼熱で溶け、塩分と一緒に毛穴から汗になって大量に流れ出る。気持ちいいよお。そしてサウナで皮膚が熱くなったあと、すぐに水風呂に入る。毛穴が縮んで、水風呂の冷気がカッカと燃えた身体を冷ます。気持ちいいわあ。サウナに1時間もいると、体重は2kgくらい減る。でもサウナで汗を流すと、身体に溜まっていた毒素入りの水分が、20リットルぐらいドバドバ流れ落ちた気分だ。身体が飛ぶように軽くなる。血液が清冽になった感触だ。だからサウナはやめられない。暑いサウナの部屋に滞在できるのは長くて10分ぐらい。その間私はTVを見ているか、ブログの文章を考えている。1回分のブログ日記が頭の中で完結し書き上がるまで、サウナから出られないという縛りを自分に課す。今日のブログはこのネタで行こう。うまく原稿用紙2枚分ぐらいに収まるだろうか? 10分しか時間はないぞ。話の筋道を考える。論理に破綻が無いか考え抜く。読み流されないように表現を練る。比喩や形容詞を効果的に使う。無駄な部分を削る。筋道に関係ない別のアイディアが浮かんできた。でもこのアイディアは別の日記のネタに取っておこう。さてさて、結論を考える。早く思いつかないとサウナから出れない。熱い。もう耐えれん。でも結論がまだだ。おう!結論を思いついた。でも頭の中で推敲しなければ。いちおう人様に見せる文章だから、面白いかタメになるか刺激を与えるか有意義な文章にしたい。人と違ったユニークな題材か? ワンパターンになっていないか? いつもと違うか? 自分は進化しているか? 飽きられたら嫌だ。うん、よし、これならいける。やっとサウナから脱出できた。水風呂に駆け込む。タイムリミット10分、ブログのネタはこんな風に、サウナで考えることが多い。あとは家か塾で文章にするだけ。関係ない話だが、以前私はサウナに入って汗を流している時、いきなりサウナの外にバキュームカーがやってきて、サウナのドアに生コンクリートを撒き散らされた夢を見たことがある。コンクリートは瞬時に固まり、ドアは開かずびくともしない。私はサウナに閉じ込められてしまった。熱くて死ぬ・・・サウナで監禁され熱死した死体って、どんな感じになるのかしらん?
2006/07/06
北朝鮮が日本海にテポドンを打ち込んだそうな。ヒドイ話だ。テポドンもイヤだが、竹島周辺に「海流調査船」を送り込む韓国も鬱陶しい。北朝鮮のテポドンが、竹島でチョロチョロしている韓国調査船に命中すれば、万事うまく解決するのに・・・
2006/07/06
うちの猫は名前が今までなかった。仮称として「おちびりん」「ちびたん」「にゃんにゃん」「ねこ」とか呼ばれていたが、このたび名前が決まった。その名はピッピ女の子らしいかどうかは異論はあるが(うちの猫はメス)、元気がいい名前だ。皇太子一家が飼っている犬の名も「ピッピ」らしい。そういえばうちのピッピの身体の模様は白ベースの黒ぶちで、日光東照宮の眠り猫に似ている。寝姿も寝顔もそっくり。左甚五郎的国宝級の猫だ。
2006/07/05
歴史好きになるにはNHK大河ドラマを見ればいいとよく言われる。しかし実際の大河ドラマは、たとえば今年だったら山内一豊と周辺人物のことしかやらない。一年通して見ても、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の時代には詳しくなるだろうが、あとの時代が抜けてしまう。だから「功名が辻」を1年間たっぷり見ても、藤原道長や足利義満や明治天皇のことはわからないままだ。だったら歴代大河ドラマの総集編ばかり集中的に、子供に見せるのも手だ。たとえば歴史上のメイン人物なら・・・平将門「風と雲と虹と」加藤剛藤原清衡「炎立つ」村上弘明源義経「義経」滝沢秀明源頼朝「草燃える」石坂浩二北条時宗「北条時宗」和泉元彌( ̄w ̄)ぷっ足利尊氏「太平記」真田広之日野富子「花の乱」三田佳子(足利義政は市川団十郎)武田信玄「武田信玄」中井貴一織田信長「信長」緒形直人豊臣秀吉「秀吉」竹中直人徳川家康「徳川家康」滝田栄徳川秀忠「葵・徳川三代」西田敏行春日局「春日局」大原麗子(徳川家光は江口洋介)徳川吉宗「八代将軍吉宗」西田敏行徳川慶喜「徳川慶喜」本木雅弘西郷隆盛「翔ぶが如く」西田敏行(何でもできちゃう局長西田敏行。今年は徳川家康)原始古代及び明治以降が弱いのが難点だが、これだけ見れば歴史好きになるかも。明治以降は「獅子の時代」や「春の波濤」があるが、「獅子の時代」の主人公は架空の人物だし、「春の波濤」は川上貞奴という女優の生涯なので、受験勉強にはあまり使えない。日露戦争を大河ドラマ化して欲しい。「明治天皇と日露大戦争」でも見せようか。「坂の上の雲」が大河ドラマになれば一番いいのだけど。あと大村益次郎の「花神」、呂宋助左衛門の「黄金の日々」、伊達政宗の「独眼竜政宗」、前田利家の「利家とまつ」、忠臣蔵の「峠の群像」「元禄繚乱」あたりを適宜見せてもいい。
2006/07/05
私が小学校高学年の頃の「3大バンド」といえば、ゴダイゴとツイストとサザンオールスターズだった。「ザ・ベストテン」でもこの3バンドは常連だった。誰がどう見ても一発屋だったサザンが四半世紀以上も現役バリバリなのには恐れ入るしかないが、ツイストやゴダイゴも私は日常的にiPodで聴いているので、懐メロの感じはしない。ツイストの「鋭爪」は私のカラオケのレパートリーだし。ところでゴダイゴだが、「モンキー・マジック」は私が最初に覚えた英語の曲だ。小学校の時に意味もわからず「ボーンフロンエッガーラマンテントッ」と暗記し、中2ぐらいで英文と比較対照し、「なるほど、この歌そういう意味だったのね」と納得した記憶がある。ゴダイゴのサウンド、今聞いても音がクリアで素晴らしい。シンセの音は短期間で年代物で古臭くなるが、ゴダイゴのサウンドは古めかしさをあまり感じることなく聴ける。サウンドを作っていたミッキー吉野は、なかなかやり手だ。ただのデブではない。タケカワユキヒデも、東京外語大の学生で、英語の歌が歌える頭がいいハンサムなお兄さんという感じで見ていた。タケカワユキヒデは日本語の曲、たとえば「ガンダーラ」や「ビューティフルネーム」を歌う時は、「そこへゆけばはぁ~、どほんなゆふめもほ~」という感じで、アメリカ人が日本語を話す時のような歌い方をする。日本人も英語が上達すれば、日本語の発音まで英語風になるのかと、子供心に納得した。そういえば最近ゴダイゴがテレビに出演していたのを見たが、ミッキー吉野はスリムになっていて、逆に痩せていたタケカワユキヒデが太っている。タケカワユキヒデはみのもんたの「おもいっきりテレビ」によく登場しているが、顔がボッテリしている。スリムなミッキー吉野と、ぽっちゃり体型のタケカワユキヒデ。時代は変わるものである。(こういう、どうでもいい話題の日記をMIXIに書けばいいのかな。まだ使い分けができない)
2006/07/05
テポドンが発射された。北朝鮮は本気なのか。ミサイルの射程距離は短く、どのミサイルも朝鮮半島沿岸近くに落ち、今回は本気で日本を狙ってはいないことは確かだろう。ただ北朝鮮という国は独裁者の妄想で満ちているから、不測の事態は避けられない。金正日の機嫌の振幅が危機を巻き起こす。金正日の足の裏を蚊が刺して、彼がちょっと機嫌を損ねただけで、戦争の危機に陥るのだ。北朝鮮がいつ「パール・ハーバー」をやるか予断を許さない。旧日本軍がハワイを狙ったように、北朝鮮の第一目標は日本だろう。旧日本軍はハル・ノートを突きつけられ、窮鼠猫を噛むような形で開戦し、真珠湾を奇襲したといわれる。日本は経済制裁で追い詰められ、戦争に突入するしか道がなかったと言われる。北朝鮮も、アメリカや日本から追い詰められたという、強烈な被害者意識があるのだろう。北朝鮮にとって命綱であり、栄養吸収チューブのような万景峰の入港を禁止し経済制裁を強化したら、なおさら北朝鮮は窮地に立つ。かつてABCD包囲網で石油輸入を閉ざされた日本と同じような立場になる。でも傍から見ていると、北朝鮮には選択する道がいくらでもありそうに見える。対話の道は限りなくある。被害者意識が過剰に強く、自分を勝手に「窮鼠」と規定してしまっている。いまの金正日政権は、「窮鼠」を演じることを楽しんでいるように見える。また「窮鼠」を演じていないと、金正日政権は維持できないのが現状だ。しかし日本の経済制裁は、北朝鮮を仮の「窮鼠」から、本当の「窮鼠」に追い込んでしまいそうな気がする。PS 安倍晋三の声はいい。信頼感抜群。今回のミサイル発射で安倍政権の可能性はますます高くなるだろう。
2006/07/05
私が求めてきたライフスタイルについて話そう。私は中学校・高等学校を通して、登校拒否の気があった。小林秀雄は「世捨て人は世を捨てた人ではない、世に捨てられた人だ」と言っていたが、今考えると私も「登校を拒否した人ではなく、登校を拒否された人」だったのだろう。アクの強い人間は毒をまわりに放つ。まわりの人間は毒を恐れて近づかない。やがてアクの強い人間は孤独になる、学校を避ける。自分の意思で登校を拒否したのではない。アクの強い性格のせいで居場所がなくなったのだ。とにかく極度な学校嫌いになり、進級会議に引っかからないギリギリの限度だけ出席して、あとは野球場と映画館に入りびたっていた。塾へも小6の時1年間広島の進学塾へ、高1のとき半年間代ゼミの本校へ行ったきりだ。友人も深くつき合える3~4人を除いては表面的にしか会話をしなかった。私は人の好き嫌いが異常に激しく、自分と向き合えない軽薄な人間が大嫌いだ。相手方はもっと私が嫌いだろう。とにかく社交的とは程遠い性格だった。私は人嫌いだ。小林秀雄風に言えば「人が嫌いな人間」ではなく「人に嫌われる人間」なのだろうか。そんなわけで、私は集団生活ができない。また教師という人種に、学校生活を通じて生理的嫌悪感を強く抱いていた。こんな性癖を持つ私が目指したライフスタイルは、「人といかに接触を少なくして食っていくか」ということだ。企業への就職は、私にとって奴隷になるのと何ら変わりない苦痛だった。ただフリーターのように、企業に安い賃金で酷使されるだけの存在になることは潔しとはしなかった。だからこそ「個人塾の塾長」は、まさに私にうってつけの職業だ。天職だ。相手にする人間は純粋無垢な田舎の子供だけ、サラリーマンのように嫌な上司に我慢することもない。何のしがらみもなく、自分が正しいと思ったことを素直に口にできる。今の私は、自分の理想の生活を送っている。青春時代に自分が望んだ以上の、信じられないような生活だ。自閉症的な性格を持つ私のような人間がやっている塾に、何故子供が来るのだろうか、親が子供を預けるのだろうか、そんな不思議な感触にとらわれつつ、日々を過ごしている。そして最近、私の個人主義的な性癖が、現在の「自己中心的」な子供達の感性と、不思議に合うことに気がついた。もしかしたら私が自分の短所だと思っていたことが、特定の子供に受ける原因かもしれない。私は自分の個人主義的ライフスタイルを絶対に守りたい。私がもし塾を拡大する場合があるなら、私の現在の幸福を脅かす異物の排除が目的だ。でも、そんな偏屈な私にも最近、「社会的貢献」を成さねばならないという、どこからともなく湧き上がった衝動に突き動かされた。自己を核とする小宇宙的を形成し、そこには誰も立ち入らせない、また自分からも出て行かないライフスタイルに疑問を感じた。正直言うと飽きがきた。何か、教育界に爪痕を残す何かができないだろうか。無名の人間が世の中を動かす最善の方法は、1に暴力、2に言論だというのが私の持論だ。ただ暴力というのはあまりに突飛で非現実的、かつ共感を得づらい手段なので、ブログでものを書くことが、自分にできる等身大の実践だ。
2006/07/04
私はiPodを愛用しているが、音楽配信サイトのiTunesに面白い曲があれば、どんどんダウンロードしている。今さっき堀江淳「メモリーグラス」のレゲエバージョンをダウンロードした。ところで、松任谷由実・小田和正・財津和夫というニューミュージック界の巨頭がコラボした「今だから」という曲をご存知だろうか?1985年の曲で、ニューミュージックのお手本のような、アップテンポの名曲。でもどういうわけか、CD化されていない幻の名曲と化している。レコード会社の問題があるのか?オフコースの「君が、嘘を、ついた」と、ユーミンの「青春のリグレット」を足して溶かしてドロドロにして2で割ったような曲。原曲を無性に聞きたい。iTunesで配信されていれば真っ先に飛びつくのに。ドーナツ盤を中古屋で探してみようか。プレミアが付いていそうだ。なおこの曲、編曲は坂本龍一。もちろんキーボードも。ギターは高中正義、ドラムは高橋幸宏、ベースは後藤次利という凄いメンツ。YMOとサディスティック・ミカ・バンドのコラボみたいだ。
2006/07/03
プロ野球オールスター、ファン投票の結果が発表された。カープの選手が1人も選出されていない。淋しいことだ。 私は10年ぐらい前、ファン投票のハガキを書くことに凝った時期がある。500枚ぐらいハガキを買ってきて、せっせと自分一人で1枚ずつ選手の名前をボールペンで書くのだ。金もかかるし、手間もかかる。でもそんな執念のような難作業を私は3年間続けた。私は組織票は嫌いだ。ファンだからといって自分の贔屓球団の選手だけで埋めるのは好きじゃない。たとえば巨人ファンなら先発投手・上原、リリーフ投手・豊田、捕手・阿部、一塁・李、二塁・小坂、三塁・小久保、遊撃・ニ岡といった具合に。活躍中の李スンヨプやニ岡ならわかるが、怪我をしている小久保や、WBCで頑張りすぎて燃え尽き症候群にかかった上原の名前を書かないで欲しいと思う。私はカープファンだが、カープの選手だからといって身贔屓はしない。客観的にセリーグ全選手の成績を検討しながら、公平に投票する。今年だったら私は誰を選ぶだろうか?先発投手は間違いなくカープの黒田である。中日・川上の方が勝ち星、防御率共に成績は上だが、黒田にはエースとしてのオーラがある。川上は確かに凄い投手だ。しかし黒田は凄すぎる投手だ。面構えが素晴らしい。中継ぎは阪神の藤川とカープの横山が競っているが、僅差で横山か。横山はルーズショルダーを克服し、ここ数年の一軍二軍を往復する生活から復活した。その意気に応えたい。藤川ではなく横山が選出されることには、誰もが納得するだろう。 リリーフ投手は難しい。阪神JFKの久保田は残念ながら怪我に泣いたから圏外。球の速い横浜・クルーンか、中日の守護神岩瀬で迷う。でもここは赤ヘルの抑えの切り札・永川の名前を書きたい。ベイルも凄いが病み上がりなので、永川に軍配を上げたい。自慢のフォークでパリーグ打線を沈黙させるだろう。捕手は難しい。カープの2枚看板の倉か石原かで迷う。試合には出ていないがヤクルト・古田の老練さ、阪神・矢野のベテランの男っぷり、巨人・阿部の面白い顔もいいが決め手にかける。やはり倉か石原のどちらかが、セリーグの代表捕手としては妥当な線か。でもここは年の功と、昨年セ・リーグの盗塁阻止率1位の実績から倉だろう。 一塁手は巨人・李、阪神・シーツ、中日・ウッズ、ヤクルト・リグスという強打者が揃い迷うが、カープの栗原が妥当だ。茶色い長髪がヘルメットからはみ出た、カープの選手には珍しい野生的な風貌で人気も高い。オールスターで伝説になりそうなのは栗原健太だ。将来の「ミスター赤ヘル」の力を、オールスターで存分に発揮して欲しい。 二塁手はカープの梵。最初は誰もが梵のことを「ぼん」と読んでいた。失礼な。しかし今では知名度を獲得し、「そよぎ」と正しく読まれるようになった。梵の名守備のおかげで、広島内野陣からスリルが減った。今年の新人王は梵で決定だ。ヤクルト・ラロッカも打撃成績は素晴らしいが、総合力で梵に及ばない。 三塁手は横浜・村田、ヤクルト・岩村もいいが、ここは確実性のあるシュアーなバッティングで定評のあるカープの大砲・新井が順当に選ばれるだろう。常連の巨人・小久保、阪神・今岡は怪我で出場できず。新井はホームラン競争で勇姿を見せて欲しい。 遊撃手は巨人の二岡と、カープの東出の激しい争い。しかし守備の確実性を増し、一番バッターとして赤ヘルの核弾頭役をこなす東出の優位は揺るがないだろう。去年に比べて著しく東出は成長している。去年までは東出のところに打球が飛ぶと市民球場の観客は悲鳴を上げたが、今年の東出は違う。東出の成長で名遊撃手野村謙二郎の穴は完全に埋まった。ブラウン監督と出合って東出は幸せだ。外野は混戦だ。前田は文句なし。球界を代表する大打者なので自動登録。あとは阪神の赤星と金本、横浜の多村、ヤクルトの青木、中日の福留あたりが候補になる。しかし不振ながら赤ゴジラ嶋の名前は外せない。潜在能力ではピカイチだ。オールスターで活躍して、嶋は後半戦のキーパーソンになるだろう。3人目の外野手は誰か? ここは金本や福留を抑えて、復活第一戦でタイムリーを放ったカープのベテラン緒方がいい。金本と福留は一歩及ばず。結局私が客観的に選んだ結果、カープの選手ばかりになったが、これは単なる偶然である。
2006/07/03
kamiesu先生の日記を拝見して、私も開塾当時の懐かしい気分に浸らせていただいた。そう、私も大手塾に勤めていた頃は、塾と自分は「一体化」していなかった(当たり前だけど)。自分が勤める大手塾が非難されても「上層部がアカン」「講師の誰々が良くない」と組織や他人に自然と責任をなすりつけた。責任をなすりつけたという言い方は少し語弊があるが、講師時代は大手塾が批判されても自分はあまり傷つかなかった。でも今は、私とUS塾を切り離しては考えられない。明らかに誰の目から見ても「猫ギター=US塾」だ。サザンオールスターズと桑田佳祐、ZARDと坂井泉水がが切り離せないのと同じことだ。たとえばサザンが「オッサンバンド」と悪口を言われたら、それは同時に桑田氏への悪口であり、「最近のUS塾はダメだね」と言われたら、私への非難以外の何者でもない。責任転嫁したくてもできない。逃げも隠れもできない。もし私が落ちぶれたら、社会のせい、神様のせい、少子化のせい、太陽の光のせいにでもしようか。とにかく自営業をやっていると、誰かのせいにすることを忘却してしまう。
2006/07/03
「天才」という言葉がある。「天才」とは「今まで誰も考え付かなかったモノを生み出せる」才能のことである。文学や音楽や絵画の世界では「天才」以外は食っていけない。文学や音楽や絵画を愛好する人は「天才」にしか興味を持てないし、「天才」の作品にしか金を払わないから当然のことだ。「天才」に必ずしも師匠は必要ない。「天才」の才能とは、師匠から弟子へ伝わるものではない。「天才」の才は伝承しない。個人から突然生まれてくるものだ。だから、毎日のルーティンな授業や、厳しい訓練から「天才」は生まれてこない。「天才」は教育機関には似合わない。文学部へ行っても誰もが小説家になれないし、美術学校へ行っても絵描きになれるとは限らない。小説家や音楽家や画家を確実に育てることを保障する教育機関はない。「天才」は教育機関の外部から、しばしば登場する。繰り返す。文学や音楽や絵画で成功するには「天才」でなければならない。では「天才」になるためにどういう努力をしなければならないか? そもそも努力してなれる才能を「天才」とは呼ばない。しかし努力はしなければならない。努力をすれば眠っていた「天才」を発掘できる可能性がある。しかし勉強の世界とは違って、自らの「天才」を開拓するためには、努力の方法も独自のものでなければならない。ミュージシャン志望の人間が一流になるためには、音楽理論を学び、楽器の腕を上げるよりも、クスリに手を染めた方がベターであるケースもある。単身NYで放浪し精気を吸った方が成功への近道になる。文学や音楽や絵画で成功するには、努力の方法もオリジナルで「ぶっ飛んで」いなければならない。努力の方法で模索し悩む。しかし勉強の世界は違う。勉強とは師匠から弟子へ、先生から生徒へ、参考書から脳味噌へ、知識や思考回路をそのまま伝承することに他ならない。勉強には「今まで誰も考え付かなかったモノを生み出せる」才能は要らない。勉強とは「今まで誰かが考え付いたモノを素直に受け取る」作業だ。音楽や芸術や小説の世界で成功するには「人の真似はしてはならない」か「人の真似はある程度するが、それに独創性を加える」必要があるが、勉強の世界で高い学力を上げるには「人の真似をしなければならない」のである。文学部へ行って「真面目に」努力しても実際に小説家になれる人間は少ない。しかし法学部や理学部や工学部や医学部で「真面目に」教授や先生の言いなりになっていれば、希望の職業に就ける。真似をする努力が自分を高める。勉強の努力は物理的な積み重ねの努力である。しかし小説や音楽や絵画で飯を食うには自分の中で化学的な「変異」を待たなければならない。時には爆発しなければならない。芸術家の大爆発は岡本太郎氏のように面白い作品を生み出し見る者を喜ばせる。しかし外科医が手術中に大爆発を起こしたら患者が困る。手術中の医者は自分が勉強した内容の忠実なしもべでなければならず、オリジナリティの発揮は学んだ内容の延長線上でなければならない。もちろん医学や理学や工学や社会学にも「天才」は必要だ。しかし医学や理学や工学や社会学では「天才」の真似でも食っていける。天才は1%存在すればいい。「天才」以外の人は模倣に徹すればいい。模倣こそが人の役に立つ。そして「天才」の模倣の過程を努力と呼ぶ。
2006/07/03
私は「最近の中高生は韓国北朝鮮が日本の植民地だった事実を知らない。教育機関はもっと歴史をちゃんと教えろ!」とココで偉そうなことを書いたが、私だって韓国で、日本の中高生に負けないくらい、恥ずかしいミスをやっちまったことがある。ある年の暮れ、航空機のチケットが取れたので大晦日から正月にかけて韓国を旅行した。そして正月を韓国で過ごした。大晦日はソウルにいた。夜は東大門市場をブラブラして、10時半ぐらいにホテルに帰った。私が泊まったホテルは、明洞という日本の渋谷のような繁華街のど真ん中にある「サボイホテル」。朝鮮戦争の頃から建っているらしい古めかしいホテルだ。明洞から歩いて10分もすれば、ソウルの市庁(市役所)があり、市庁の前は広大な広場になっている。この広場はよく政治集会やデモに使われ、日本のテレビでも映像が流されるお馴染みの場所だ。4年前のワールドカップで韓国が勝ち上がった時、赤い大観衆がオーロラビジョンを前に騒いでいたのもここ市庁前広場だ。さて私が10時半にホテルに帰ったのは、紅白歌合戦を見るためだ。11時から中島みゆきが「地上の星」を歌う。ソウルや釜山のたいていのホテルでは、日本のNHK衛星放送を見ることができる。ソウルで黒部ダムのトンネルで歌う中島みゆきを見るのも乙なものだ。中島みゆきが盛大に歌詞を間違えたのを見届けると、ソウルの街に夜食を求めて再び繰り出したソウルの冬は寒い。ソウルは大陸型気候だから、シベリアからの寒風が直接吹き上げてくる。シベリアの寒風が日本にやってくる頃には、日本海を流れる暖流の対馬海流で気温が幾分温まり、また湿気を含んで雪を降らせるのだが、ソウルに吹く寒風は水分も含まず強烈に冷たい。ビルの電光掲示にはマイナス15度との表示がある。5分も立ち止まっていたら血が凍りそうな寒さだ。しかし街は大晦日、もう深夜11時40分なのに、家族連れやカップルで賑わっている。お祭りのようだ。そして街を歩く人はみな、砂糖を求めて群がる蟻のように、同じ方向に向かってゾロゾロ歩いている。私はそんな同じ方向に向かって歩く韓国人の群集を見て、一瞬こう考えた「みんなどこへ行くんだろう? ああ、大晦日か。神社に初詣に行くんだなあ。神社はどこにあるんだろうか? 俺もお賽銭あげに行こうか」そして10秒後、俺はハッとした。韓国に神社? 初詣?韓国が植民地であった事実を知識として持っていながら、私はどうしようもないミスをした。中高生のことを馬鹿にできやしない・・・ところでソウルの群集たちはどこへ向かっていたかというと、市庁前の広場での、新年のカウントダウンでした。
2006/07/02
橋本龍太郎元首相が死んだ。まだ68歳の若さだった。失礼ながら中曽根康弘・宮沢喜一・村山富市という老齢の元首相が未だ健在なのに、若い橋本氏が先に逝くとは想像もしていなかった。今となっては意外だが、若き日の橋本氏は自民党のホープだった。ドロドロした永田町の政治から一線を引いたスタンスを取っていた橋本氏は、かつて国民的人気が非常に高く、早くから首相候補とされた。性格もルックスも丸っきり違うが、ポジション的には今の安倍晋三官房長官と同じ様な位置にいたのかもしれない。橋龍は清新なイメージで特に女性からの支持が高く、コレコテのポマードで固めた髪形と、歌舞伎役者のようなルックスと、餓鬼のように拗ねた物言いが、「龍サマ」という愛称がつくほど女性の心をくすぐった。その反面、橋本氏は個人主義者で永田町内での付き合いが悪く、金丸信ら長老政治家から疎まれた。先輩議員から見れば「インテリくさい生意気な若僧」に見えたのだろう。政治家同士の人づき合いより趣味の写真に没頭し、子分を作ることにも無関心で、なかなか首相にはなれなかった。料亭の杯より、レストランのワイングラスが似合う政治家だった。国民はそれを是と取り、永田町は否と見なした。しかし結局96年1月、村山首相の突然の退陣を受け、自民党総裁で副総理の座にあった橋本氏は、宮沢内閣以来、自民党から2年半ぶりに首相の座に就いた。 国民人気と能吏の如き有能な仕事ぶりが、橋本氏を首相に押し上げたのである。また橋本氏は、慶応大学出身初の首相でもあった。首相時代は自民党総裁として、初めて小選挙区制を導入して実施された総選挙で、小沢一郎率いる新進党を破り、政権の地歩を固めた。しかし消費税を5%に上げるなど、誤った経済政策で不況をもたらし、参議院選で自民党は大敗し、首相の座を同じ派閥の小渕恵三氏に譲った。そして橋本氏は森首相退陣の後、01年の総裁選に再挑戦した。橋本派の数と組織力から、橋本氏の首相再登板は堅いと思われたが、全国の自民党員が投票する総裁予備選で、田中真紀子とタッグを組み「自民党をぶっ潰す」というフレーズでブームを巻き起こした小泉純一郎氏に、よもやの敗北を喫した。その後、日歯連からの1億円献金隠し事件で、橋本氏の評判は地に堕ちた。橋本氏は結局逮捕されなかったが、村岡兼造氏だけが逮捕され生贄になり橋本氏が生き残ったことで、どうして橋本龍太郎が逮捕されないのかという論調が橋本氏をボディブローのように痛めつけ、橋本氏にはトカゲの尻尾切りで自分の身を守るズルイ政治家のイメージが付き、結局病気もあって昨年の総選挙に立候補せず、政界を引退した。それにしても、橋本氏ほど首相就任前と就任後のイメージが変化した政治家は珍しい。就任前は長老政治家に楯突く若い新鮮な政治家だったが、首相就任後、特に橋本派の会長になってからは「抵抗勢力」のボス的なイメージが定着した。まるで若き日は正義の男で、突然悪の道に進んだダースベイダーみたいな政治家である。やはり「橋本派」という名前がいけなかったのだろう。橋本氏はもともと、派閥を仕切る面倒見のいいボス的政治家ではない。そういう面では森派の領袖、森喜朗氏あたりとは対極にある政治家だ。橋本氏は個人主義で一匹狼、群れるのを嫌い私生活を大事にする。その面では小泉首相と非常によく似たタイプの政治家である。それが派閥の会長になり、抵抗勢力のボスの座に祭り上げられてしまった。抵抗勢力の最大の派閥の名に自分の苗字が被せられ、小泉首相の攻撃の矢面に立ってしまった。橋本氏は派閥の会長であっても、実際に派閥を仕切っていたのは野中氏や青木氏といった老練な政治家である。橋本氏は神輿に過ぎない。「橋本派」は旧弊な勢力と見なされ、首相からも国民からも忌み嫌われ、田中派竹下派の頃の権勢がウソのように衰え、没落していった。橋本派の没落と共に、橋本氏の政界での力も無くなっていった。かつての一匹狼的な誰とも群れない政治家としては、組織のボスに祭り上げられ、祭り上げられた途端悪のレッテルを貼られ、やり切れない思いがしただろう。そして、橋本氏の人を小馬鹿にしたような拗ねた態度は、若い時分には何やら可愛らしく映ったものだが、首相を辞任してからは単なる威張った高慢な老政治家にしか見えなかった。橋本氏の「偉そうな」態度は終始一貫していたが、マスコミや国民の橋本氏を見つめる目は180度変換したのである。ところで、5年前の総裁選で橋本氏が小泉氏に勝っていたらどうなったか?勝った小泉氏はアメリカでブッシュ大統領からアメリカ外交かつて無いほどの大歓待を受けている。負けた橋本氏は髪のポマードを落として乱れた髪のまま死の床につく。
2006/07/01
本来、政治信条なんていい加減なもので、コロコロ状況に応じて変わっていいものだろうし、政治信条が家族バラバラなのが日本では健全とされている。全員が右翼の家庭なんて絶対におかしい。たとえば選挙前には、一般的な日本の家庭では、こんな家族の会話が繰り広げられているだろう。母「小泉さんは裏表のない人よ。誠実によくやっているわ。応援してあげたくなる人なのね。だから私は自民党に入れます」大学生の娘「でも自民党の候補者って「怪しくて腹黒いおじさん」って感じじゃない。小泉さんは嫌いじゃないけど。だから私は民主党に入れようと思ってるの。お兄ちゃんはどうするの?」社会人の息子「俺日曜日大学時代の仲間と遊びに行くから、選挙はパス。不在者投票行くのも面倒くさいし」母「お父さんはどうするの」父「そういうことは、人にペラペラしゃべるんじゃない!」まあ、これが日本の一般家庭の政治感覚だろう。誰がどの政党に投票しようと、家庭内が不和になることは考えられない。ドイツだったら父はリベラル派で社民政党、母は半ば慣習で保守政党、娘は同性愛者で環境団体系の政党に投票、息子はスキンヘッドのネオナチで極右政党のシンパというケースもあり得る。多くの資本主義国家、特に都市部では、家族で政治信条がバラバラというのが健全とされている。投票行動はあくまで個人の意志で決定され、両親や学校による子供時代からの刷り込みで決定されるのは良くないことだろう。だから家族全員が同じ政治信条を持っているというケースは、異常かつ不健全で、「あっ、こいつらには何を言っても話が通じないな」という危険な匂いがする。さて、政治信条なんて家族バラバラで全く差し支えないのだが、宗教はそんなわけにはいかない。宗教は、赤ん坊としてこの世に生を受けた瞬間、生まれた環境で自動的に決定される。西洋社会の赤ちゃんはオリーブ油を額につけられキリスト教徒としての洗礼を受けるし、その他の宗教でも支配圏内で赤ん坊が生まれた途端、信者として「自動登録」される。宗教の決定権は子供にはない。政治信条と違って、宗教が家族バラバラだと、いろいろな不具合が生じる。やはり最終的には家族が同じ墓に入る、ということが前提になるから、子供が宗旨替えし、親の宗教から離脱すると様々な軋轢が生じる。生まれた時から崇拝していた宗教から脱却することは、相当な覚悟が必要になるわけで、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」なんて、次男が無神論者であることが「父殺し」という犯罪の遠因になっている。日本でも家族の一員が別の宗教を選ぶ時には、家庭内でトラブルが発生するケースが多いわけで、例えば娘が新興宗教に入信したり、おばあちゃんが300万円の壷を買ったりしたら、家族は強烈な不安を感じる。だから宗教に関しては、政治と違って『一家族一宗教』が健全なのだろう。家族の一員が別の宗教だと、少々違和感を覚えることは否定できない。日本のような「緩い宗教」の国家でもそうなのだから、例えばパレスチナのイスラム教徒の家族で、息子が突然「俺はユダヤ教に宗旨替えする」と宣言したらとんでもないことになるわけで、息子はイスラエルの手下と家族から見なされ、家庭内自爆テロが起こってしまう。
2006/06/30
kamiesu先生の自習室のお話に便乗して、私も自習室の話を・・・今日は中1の女の子が自習室に勉強に来た。学校帰りの午後3時から6時までずっと勉強していた。私は6時ごろから「お腹減ったら帰っていいぞ」と何度も言ったのだが、彼女達は無視して勉強を続けている。私はまるで、夜中勉強している子に「もう寝なさい」と声をかけるお母さんみたいだ。いいぞいいぞ。自習室の集中力は凄い。友人同士しゃべるなんて想像もつかない、緊迫したガラス細工のような雰囲気になっている。まるで鼻息一つで壁画が剥落してしまいそうな、高松塚古墳みたいにデリケートな自習室だ。
2006/06/30
個人塾やってる私が言うのもなんだが、個人塾の門を最初にたたく時、お母さんや子供は怖いんだなあと思う。大手塾なら1階がガラス張りになっていて、中ではネクタイ姿の先生や、制服を着た事務の女性がテキパキと仕事をしている姿が見える。ドアを開けても洗練された反応が返ってきそうだ。また、講師がズラリ玄関前に並んで送り迎えしている大手塾もあり、それならどんな人が子供を教えているのか一目瞭然で、尚更入りやすい。しかし個人塾は違う。個人塾の先生は怪しい。私が以前個人塾の長渕剛で書いたように、個性的といえば聞こえはいいが、とんでもない人物が先生だったりする。だから雑居ビルの3階4階にある個人塾にお母さんや子供が最初に訪れる時は、塾長がどんな人かわからないので、興味と恐怖で心が一杯になり、コンクリートの階段を上がりながら肉体の疲れだけでなく、緊張で息切れしてしまうだろう。お母さんが個人塾のドアを開ける。「ごめんください」と言う。中から反応は無い。もう一度今度は少し大きな声で「ごめんください」と叫ぶ。奥から「は~い」という声が。塾長だろうか。足音が近寄ってくる。スタスタ。どんな人なんだろう・・・こんな具合だから大手塾のほうが親しみやすく、個人塾は取っ付きにくいと考えるのも道理だ。商店でもそうである。スーパーやコンビニは自由に入れて、何も買わなくても遠慮なく出られる。「来るものは拒まず、去るものは追わず」といった感じだ。逆に個人商店は入りづらい。入った途端に商品をしつこく勧められるとか、あるいは古本屋みたいに偉そうなオッサンが店の奥で腕組みしているとか、買わないと嫌味を言われそうだとかで足が遠のく。またコンビニやスーパーのいいところは、1万円札を出しても何も言わずお釣りをくれることだ。1万円出してガム1個買っても嫌がられない。だから買い物する時、ついついコンビニやスーパーに足が向いてしまう。しかし個人商店では1万円札を出そうものなら、「細かいのはありませんか」「928円のお買い上げですが、8円お持ちじゃないですか」と批難されそうで困る。個人商店にはお釣りの出し方1つにしてもローカルルールがあり、客は店独自のルールに合わせなければならない。大手のチェーン店なら、どこでもルールが同じだから気をつかうことが無い。個人塾にも塾長の個性の匂いがプンプンする独特のルールがあって、保護者や子供がそれに合わせなければならない。それが嫌だから入塾を躊躇してしまうケースが、結構多いような気がする。だから個人塾のルールはkamiesu先生の塾のように、普遍的で理に適ったものでなければならない。また、ある程度個人塾は、HPやブログで自塾の雰囲気を公開するのが望ましい。私の塾のように、得体の知れない伏魔殿のような塾はそれはそれで面白いが、普通の方には怖いだろう、と思う。
2006/06/30
齋藤孝が言うところの「教育欲」は、一定の年齢に達した人なら、ある程度は持ち合わせていることだろう。ビジネスマンは後輩社員に、高校野球の監督は選手に、学校教師は生徒に、相撲の親方は力士に、落語家は弟子に、教育欲のはけ口を求める。ところで、明治以降武士は俸禄を停止され、武士階級の特権もなくなり不満が嵩じた。不満のはけ口をある者は西南戦争をなどの不平士族反乱に求め、またある者は自由民権運動に携わることで解消しようとした。しかし多くの士族は、自分自身の現世での出世栄達を諦め、夢を子供に託した。没落士族は現状の不満を子供の教育でぶつけたのである。おりしも当時のベストセラー福沢諭吉の「学問ノススメ」は、学問を修めることが立身出世の王道である事を説き、多くの士族の共感を得た。福沢諭吉のアジテーションに感化された武士階級は、子供の教育に力を入れた。没落武士の「教育欲」は、自分の現世での不遇に対する怨念とあいまって強い欲望になった。親の強い「教育欲」の結果、学問に励んだ子弟達は、官吏や軍人、或いは実業界で活躍するようになり、富国強兵・殖産興業の原動力となり、明治の日本の隆盛を築き上げる力になった。自分に代わって息子を出世させたい親の執念が、産業の未曽有の発展を成し遂げた。結局、没落武士の「教育欲」は、自分達を武士という特権階級から引きずり下ろした明治新政府に、息子を人材として送り込むことに結びついた。なんとも皮肉なことである。
2006/06/30
高校生のとき、学校サボって図書館で読書に励んでいたら、ある本の中に「民族別知能指数」という恐ろしげなランキング表があるのを見つけたことがあった。民族のIQを、まるで大学の偏差値表のように上から順番に並べたものだ。それによると、1位 ユダヤ人(ダントツ)2位 日本人3位 中国人で、その続きは忘れてしまった。どうせこんなのは、ユダヤ人が調査した結果なのだろうから、1位がユダヤ人という結果はユダヤの陰謀で、実質日本人が1位なんだろうと勝手に解釈する。そして、表の一番下には黒人プエルトルコ人と書いてあったと記憶する。刺激的な本だった。ところで、最近の小学校では子供にIQ調査をしているのだろうか?私は小学校でIQを調査された記憶がある。小学校の時は体育館で迷路のクイズをやった。今思うとあれはIQ調査なのだろう。結果は知らされなかったけど。偏差値や学年順位は、子供の努力で上下する数値だからテストをバンバンやって公表してもいいのだろうけど、知能指数は先天的絶対的能力だから困る。いま、子供のIQを調査することはタブー視されているのだろうか?たとえば「男女の間に、IQの差はあるのか?」という調査1つをするにしても、見えない圧力で厳しく戒められているような気がする。あと、私は島で塾を開いているが、ある人が「うちらは島じゃけえ、血が濃ゆうて、知的障害持った人間が多いわ」という恐ろしい説を唱えていた。確かにうちの島では、「金」や「李」や「朴」という苗字が圧倒的に多い韓国・北朝鮮みたいに、特定の苗字が異常に多い。4つの苗字だけで、島の人口の70%ぐらいを占める。韓国だと、同じ「金」姓の中に「本貫」という細かい区別があって、同じ「本貫」同士では結婚できないと聞く。韓国ではそんな工夫をしながら、「血が濃くなる」ことを防いでいるのだろうか?ところでもしかしたら、雑多な人間が集まる都会と、閉鎖された空間で「近親婚」が続く島と、どちらのIQが高いのか比較実験している研究機関もあるかもしれないが、公表したら大騒ぎになるだろう。たとえ調査していたとしても、興味本位で語られやすい内容だから、調査結果は象牙の塔の塀の中に隠しておいた方が、賢明だと思うけど。それはそうと、私は自分の知能指数が知りたい。小学校の倉庫の奥のファイルに調査結果が残されているのだろうか?
2006/06/29
デブは他のデブと一緒にされることを最も嫌う。デブはデブ同士仲が良いと思ったら大間違いである。デブというものは近親憎悪で仲は良くない。デブじゃない人が「デブは嫌だ」と言ってデブを恋愛対象から外すように、デブも他のデブを異性とは見なさない。デブじゃない人から見れば、同じデブ体型同士くっつけばいいじゃないかと思うかもしれないが、そんなに物事は簡単にはいかないもし仮にデブを恋愛対象として見る奇特な人がいたら「デブ専」と呼ばれ変態扱いされてしまう。デブじゃない人間がデブを嫌う理由は、遺伝子の中にデブを拒絶する要素がきっとinputされているからだ。デブと結婚しても強い子孫は残せない。デブと結婚してデブが蔓延すれば、人間は自然淘汰に負け種族滅亡してしまうのだろう。しかし悲しいことに、デブの遺伝子の中にもデブを嫌う要素が入り込んでいるのだ。異性のデブに性愛を抱けず同性のデブを毛嫌いし、ダイエットと称してデブから「転向」を図る。俺もダイエット進行中である。夜中にお好み焼き屋に行くのやめよっと。もっと痩せねば・・・
2006/06/29
東大寺学園高1の放火殺人事件について、いましばらく、牛歩のようにじっくりと考察を進めてみたい。まずは当たり前のことから整理しよう。いまでは、塾や学校が親から子供を預かり、親以外の大人が学力の成長を全面的に担当するようになった。親が直接子供に勉強を教えることは稀で、学力向上は塾や学校に任せるのが当然だ。でも子供の教育に関する「分業」が成立したのは、よく考えてみれば時代的に新しいことなのかもしれない。昔は、仕事のノウハウは親が家で教えた。親が子に職業技術を教えるのは当然の事だった。原始人は狩猟のやり方を、百姓は田植えを、漁師は魚の取り方を、鍛冶屋は鉄を打つ技術を、親は子の手を取り直接教えた。身分が固定していて、親の職業を子が継ぐのが当たり前だった時代、父親は親と教師を兼ねていたのである。現在では、子供は大きくなると親離れするのが当然のように思われているが、昔の子供は親離れすることは稀だった。親と子は死ぬまで一緒に暮らしていた。確かに戦国時代になると一旗揚げるために鍬を刀に変え戦いに出る若者は増えたし、また江戸時代には江戸や大坂といった都市に移住する百姓の次男三男が後を絶たず、居住の流動化が進んだが、多くの人は一生同じ土地や家に定住したわけで、生まれた家はイコール死ぬ家だった。ところが明治以降、身分や職業が流動的になると、子が親の職業を継ぐ割合が少なくなった。全国に学校ができて、公務員とか軍人とか江戸時代に無かった職業も増えた。社会構造は大幅に変化し、子は親よりも上のステージの職業を目指すようになり、そうなると親が持つ職業知識は子には不要なものとなった。農民の父には、軍人の子は教育できない。社会の「進化」及び近代の到来が、親と子を引き離した。子供は一定の年齢になったら親と別居し、親は子供に職業技術を教えるケースは少なくなった。近代以降、子供には将来の職業の可能性ができた。子供は親の跡を継がなくてもよくなった。そんな環境の転回が、直接子供を手取り足取り教育するステージから、親は退場を余儀なくされた。子供に職業技術や勉強を教える役目は、教育機関に一任されたのである。
2006/06/29
試験対策真っ盛りだ。うちの塾は試験前「自由に勉強に来ていいよ」という形式ではなく、強制的に何時から何時までいらっしゃいという形式を取っている。試験前は週6回通塾しなければならない。どうせ塾に勉強に来ない子は、試験前家で遊んでいるに決まっている。私生活がとっても怪しい。家で勉強しているか疑わしいので、試験前塾に絶対に来てもらう。自学自習という理想はちょっと脇に置いといて、成績が伸びない子は、私が機関車みたいに引っ張らなければならない。特に中1はまだ試験勉強の方法を把握していない。まるで赤ん坊だ。ビャービャー泣いている中1の赤ん坊どもに「自分でえさを探して来い! 自学自習だ!」と叫んでも、何もできやしない。そんな冷たい仕打ちをしたら、中1は食にありつけなくて干からびてしまう。勉強のやり方がわからない子に対しては、教師は距離を取ってはならない。乳離れするまでしつこく面倒を見るのが教師の役割だ。過保護・過干渉・構いすぎ・教えすぎ、そう批判されてもいいから、懐に飛び込ませて思いっきり抱きしめながら教えよう。気色悪い比喩で恐縮だが、私が巨乳を丸出しにして、中1に母乳をたっぷりと与えてあげなければならない。小学校時代勉強をろくにしていない貧相な頭脳を豊満にするには、母乳が一番さ。
2006/06/29
誰かがTVで、これからはどんどん生徒の学力低下が進んで、先生方も学力が低い子相手に授業がやりにくくなるでしょうねえと発言していたのを耳にはさんだが、私はそんな危惧はしていない。だって、これからますます学力低下が進めば、子供の学力が徐々に下がってゆくのに比例して、教える側の学力も一緒につられて下がってゆく。学力低下した子供が大人になれば、学力の低い教師や大学教授になるのは道理だ。教師のレベルが高過ぎて、「こんなアホなガキ相手にやってらんねえや!」という事態は起こらない。教師もつられて学力低下しているからだ。学力の低い教師が、学力が低い生徒を教える学力低下スパイラル。授業がやりにくくなるなんて、危惧することなんかないのだ。
2006/06/29
保健体育という科目の、通知表の評価がよくわからない。私が高校1年生の時、体育のカリキュラムは、1学期はバスケッットボール、2学期は陸上(走り幅跳び)、3学期は柔道と、くっきり分かれていた。私は高1の時、非常に太っていた。1学期のバスケは、コートをぶよぶよした体躯を持て余してうようよしているだけ。時々相手に体当たりして、反則取られ周囲の顰蹙かっていた。2学期の走り幅跳びは最悪。ドタドタ走って砂場にドテンと尻餅をついた。3学期の柔道は、技の切れ味は全くないけど、巨体なので投げられることは絶対になかった。最強だった。しかし通知表の評価は10段階で全学期とも6。自己評価ではバスケが4、走り幅跳びが5、柔道が8なんだけど・・・なんだか、凄くいい加減な評価だったような気がする。もしマイケル・ジョーダンやカール・ルイスや小川直也が生徒でも、全学期同じ評価をするのだろうか?塾生の通知表でも、怪しい評価はある。バレー部レギュラーなのに、体育がバレーで5点満点で3とか、結構ひどい評価だと思うヨ。一度「こいつは体育は3」とイメージが付いちゃったら、先生が変わるまで3のままなのかしらね。
2006/06/28
うちの子猫は、鶏のささみとチーズと鰹節が好物で、1日5食もするので身体が結構大きくなった。子猫と成猫の中間ぐらいの大きさになり、とにかくよく食べよく動きよく太る。子供がいない私にとって、小さい生命体が食料を得ることで、日に日に身体が大きくなる体験は新鮮だ。猫の身体が大きくなると、猫は私が稼いだ金で買った食べ物で大きくなり、私がいなければ猫は餓死していたかもしれないという、妙な実感が生まれてくる。「こいつの身体は俺が大きくしてやったんだ」と偉そうなことを思ってしまう。心の成長は目ではあまり確かめられないが、体の成長は一目でわかる。子猫の身体の成長は子猫の可愛らしさが失われることでもあり微妙に残念だが、やはり嬉しい。ところで、私のような塾講師や学校教師は、子供の心や学力の成長には関わっているかもしれないが、身体の成長には全く関係がない。塾講師と一緒にいても、子どもの身体はデカくなったりしない。自習室の休憩時間におごったラーメンぐらいしか、塾の講師は子供の身体の成長には寄与していない。だからこそ、子が無い塾講師の私は、猫の身体の成長を新鮮に感じたのだろう。とにかく、塾講師は専ら子供のBODYではなく、SOULを成長させる役割を与えられているのだなと、大きくなった子猫を見てつくづく思った。ところで、親は自分の子供に対して、私が子猫に感じたような「この子の身体は私が大きくした」という気持ちを持っているのだろうか? 身体が大きくなった子供と喧嘩した時に親が、「誰のおかげで大きくなったんだ!」と怒鳴る気持ちが、子猫を育てていて非常によくわかった。
2006/06/28
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