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私の一家は南九州にいて地震に遭わなかった。
両親は阪神高速が横倒しになった近くに住んでいたので、家は全壊したものの、奇跡的に二人ともかすり傷も負わず、無事だった。
同じく関西に住んでいた義両親にはすぐ電話が通じ、無事が確認できたが、問題は両親の行方だった。
私の方に大阪にいた兄から両親の安否を尋ねる電話がかかり、さらに父の教え子からもかかってきた。
一方、テレビでは刻々と惨状が伝えられていた。
亡くなった人の数もどんどん増えていく。
大切なふるさとがまさかこんな事になろうとは........。
当時子供たちは5歳と3歳。
テレビをつけっぱなしにして、おろおろと涙にくれている母親を見てどのように感じていたのだろうか。
とにかく両親の安否が心配だった。
兄が大阪から車で様子を見に行くというのでその連絡を待つしかなかった。
普通は40分くらいの道を二十倍以上の時間をかけて行き着いたらしい。
夜に兄から両親はどうにか無事との連絡を受け、私は腰が抜け、その場に崩れ落ちた。
両親が居た地域は最も被害がひどかったところで、父はご遺体を安置したりもしたらしい。
両親は約2週間、生き残った皆さんとたき火に当たり、食料や衣類を分け合いながら過ごしたようだ。
家は全壊したのだが、幸いにも親戚の長岡京のアパートの一室で、2年ほど仮住まいさせていただくことになった。
ずっと気になりながら、私がようやく現地に足を踏み入れたのは1ヶ月半たった後のことであった。
伊丹空港が近づくにつれ、下に広がるブルーシートの行列。
異様な光景であった。
電車でふるさとが近づくにつれ、車窓の景色もどんどんブルーシートが増えていき、
恐ろしさに駅に着くまでに涙で顔はぐっしょりだった。
ようやく会えた母は少しも感傷的になっておらず、目の前のことをただ着々とこなしているようで、その姿がかえって痛々しかった。
後日尋ねたら、兄一家も、私たち一家も全く別の地で元気にしていたから、両親は自分たちの事だけ考えて前進できたとのこと。
地元にいると人数分だけドラマがあり、それぞれに思いを背負って20年を過ごされてきたのだということがよく分かる。
大切な友人たちも様々な思いを胸に生きてきただろうと思える。
両親は、仮住まいしながら仕事に通い、区画整理の話し合いにも顔を出しなんとか乗り切ってくれた。
最初は京都に転居するつもりだった。ところがご近所のなじみの方々に誘われて結局、断層の真上(元々住んでいたところ)に、新居を建てることになってしまった。
転居した後には、母に乳がんが見つかり大変なことに!
その直後起こったサリン事件から20年、福知山線脱線事故から10年、東日本大震災から4年、韓国のフェリー沈没事故から1年、ネパールの大地震も起こったばかりだ。
その他にも交通事故や犯罪に巻き込まれたりと毎日大勢の方々が思いもよらぬ出来事で亡くなっている。
生きているってことは奇跡の積み重ねでとてもすばらしいことなのだ。
今月で告知を受けて8年になる。福知山線脱線事故の時はまさか自分が四年後に寝たきりになろうとは夢にも思わなかった。
自殺なんて許せない。
「動けるやん。話せるやん。食べられるやん。」
「それだけで十分幸せよ」と声を大にして言いたい。