最近、天気がいまいち良くないなぁと思っていたら千葉の嫁さんから”雪が沢山積もっています。外で雪遊びしました”と孫の画像が送られてきました。うわ~っ、寒そう・・・でも上の五歳の孫はニコニコ、下の一歳3ヶ月の孫は生まれて初めての雪でビックリ顔です。佐賀はまだ雪が降っていません。暖冬なのかな?
当たり前ですが人工内耳を外すと全くの聾・・・全ての音が消えてしまいます。
娘が来ていたとき、簡単な会話は読唇でわかりますが少し込み入った話になると「お母さん、早く人工内耳をつけて・・・」と催促・・仕草で訴えます。
「人工内耳をつけていないと話が通じない・・」と言います。
人工内耳は顔を見なくても普通に話せるからです。
もう私の日常生活で、人工内耳がない事は考えられません。
私の体の一部になっています。
あと片方の耳はスケールアウトで補聴器を付けても全く聞えません。
人工内耳が壊れた時困るので、新発売フリーダムの代替を購入する予定です。
今、人工内耳を外すとこんなに不便なのに小さい頃はいったいどうしていたんだろう・・・と思い返されました。
小学校の入学式で父から手を引かれ学校の講堂の入り口で名札をつけてもらったことは覚えています。(今のように聞えはひどく無かったです)
殆どの子供達にはお母さんが付いてきているのに何故か私は父親でした。
今思えば私の難聴の原因が結核治療薬のストレプトマイシン・・・
その4年前に長男(私の兄)を結核で亡くしている父にとって私が不憫でならなかったのでしょう。
(兄も亡くなる寸前はストレプトマイシンで殆ど聞えなくなっていたそうです。私は兄から結核が移らないように予防のためにストレプトマイシンを投与されたのでした)
入学する前に父に手を引かれ電器屋さんに行ったことを覚えています。大きなラジオ型の補聴器の購入の為でした。何がなにやらわからないまま、アレコレと耳にあてがわれ、言われるまま補聴器を買わされ、使い始めました。
(何で自分だけこんなものをするのだろう・・・)今まで聞えない子の言葉の教室にも行った事が無いし、普通の友達と同じように保育園に通っていたので釈然としない気持ちだったのを覚えています。
第一に自分が聞えないことを自覚していないし、周りの友達も同じ・・と思っているので補聴器そのものが不思議で、不思議でヘンな感じでした。
耳に付ければ、やたらと声が響いて言葉もはっきり判りませんでした。でもしないよりはまし・・・だったのでしょうね。使っていました。
考えれば今から50年前の補聴器です。きっと性能もよくなかったでしょうに。
暫くしたら「せんせ~い、michiちゃんだけラジオつけてる~」と男の子がはやし立てます。
担任の先生は50代近くのベテランの男のH先生でした。先生は男の子に何か言ってくれたのでしょうね。その時はそんなにいじめられる事はありませんでした。
(先生が他の子供に注意してくれた言葉が全く記憶に無いのです。きっと聞えていなかったのでしょうね)
私はH先生が大好きで休み時間になると先生の机の側にまとわりついていました。
眼鏡の奥からとても優しい温かい眼差しで見てくれるのです。
それは私にだけではなく他の子供達にも注がれていました。
取り立てて仲の良い友達はいませんでしたが1人だけ私を気遣ってくれるA子ちゃんがいて、トイレの時もついてきてくれました。
勉強は?といえば、まだ低学年なので教科書を見ていたら判っていたのでしょうか。
補聴器をつけたから聞き取れるわけではなく、きっと自然に口を見る習慣になっていたと思います。
口の動きが主で補聴器のガー―ッとした音がそれを補っているという感覚でした。
おとなしい子供だったと思います。
本当はお喋りなのに相手の話す言葉がよく理解できなくて答えられなかったのです。
だから自然とあまり話さないおとなしい子供に見られたようです。
そして中学年3、4年になると若い女のN先生でした。
(後に息子tomoと親子二代でお世話になった先生です)
若いけれど厳しい先生で黒板の方を見ていないとビシッと注意が飛ぶのです。
この頃に補聴器を買い換えています。前の補聴器が壊れたのです。
今度はシルバーと水色のオシャレなひと回り小さい補聴器でした。少し嬉しかったです。
この頃の道徳の時間はラジオを聞いて感想を書く・・・時間が毎週のようにあり、とてもイヤでした。ラジオが聞き取れないので感想が書けないのです。
勿論先生は私に何も言いませんし、咎めもありません。
でも皆と同じことができないのが悔しくて、道徳の時間はなくなってしまえばいい・・・と思っていましたが、このことを当時誰にも言いませんでした。
というより言う勇気もなかったのです。
今のように先生に何かを言う・・・そんな時代ではなかったのです。
ひたすら我慢、我慢です。先生に無視されることはなかったので我慢できたと思います。
当時、児童の数も一クラス55人くらいで先生も大変で、ひとり一人の子供に構う余裕も無かったと思いますし、障害者に理解もないころだったので、仕方ありません。
私はこのN先生も大好きで仲良しのN子ちやんと子供の足で一時間近くかかる遠い先生の家へ放課後、遊びに行ったりしていました。今思えば凄い冒険です。当時先生はお産されて暫くでしたので赤ちゃんをあやしたりしてました。それからもずっと先生とのお付き合いは続いています。ありがたいものです。
この頃、男の子に「耳つんぼ」と言われて補聴器を隠されたり、ランドセル等隠されたりしましたが、N子チャンがいつも一緒に探してくれていました。
だから辛かったけれど救われたのでしょうね。
そして高学年、中年の女のK先生・・・この先生の声が太くて聞き取りやすく私はK先生も大好きでした。休み時間はわからない算数の問題をよく聞きに行っていました。
K先生は休み時間も、いつも教室で答案に丸をつけたりしていましたので・・・
この頃算数が好きになっていました。成績は中くらいでしたが、算数は公式さえ覚えれば答えは一つなので解答できたとき、とても嬉しくて、少しでも判らないと聞いていました。
読書も大好きで本をよく読んでいました。
雑誌も好き・・・当時”小学6年生”という雑誌に「文通しませんか?」というのが載っていて
北海道の男の子の名前でしたが試しに出してみました。
すると返事が来て「クラス全員で文通しましょう」ということになりK先生に話したら快くクラスの皆に話してくれて北海道の人たちと文通が始まりました。
これが私が唯一自分で発言できた事柄です。かなり自信もつきました。
でも私は文通相手に聞えない事は明かしませんでした。
普通の子供に見られたい・・普通に扱って欲しい・・・という気持ちが強かったのでそれから四年ばかり文通は続きましたがとうとう最後まで難聴を明かすことはありませんでした。
また仲の良いみゆきちゃんが学校帰りに私の発音の指導?をしてくれたことも大きな宝物です。きっと発音が悪い私をそのままにしておけなかったのでしょう。
「michiちゃん、”け”がおかしいよ。言ってみて・・」と何度も私に言わせるのです。みゆきちゃんの真剣な気持ちが伝わってきましたので私も言われるまま何回も発音を繰り返していました。そのお陰で”け”が言えるようになりました。
今思い返せば本当に(専門の先生ではなく)発音を友達に教えてもらった・・このこともすごいことだと思います。
K先生は異動があって卒業後、他の学校へ行かれましたが社会人になってからも自宅へ遊びに行ったりしていました。残念なことにH先生もK先生も亡くなられています。
N先生は今もお元気ですがtomoは私と行きたがりません。
「お母さんばかり喋って僕の話す時間が無くなってしまう」というのでそれぞれ別に会った方がよさそうです。
私にとって先生やたった一人の友達に恵まれた事は、とても幸せなことでした。
だから普通校で、ついていけたのでしょう。
社会人になっても、すんなり馴染んでいけたのでしょう。
小さなトラブルはあったにせよ、周りの支えてくれる人たちが心の財産となって生きていけたのでしょうね。ありがたいものです。
これからも意地を張ることなく支えてもらいながら進んでいきたいです。
人間、1人で生きて行けない・・・・支えあってこそ生きていけるのです。 では・・