全249件 (249件中 1-50件目)
大変長いことご無沙汰していましたが、当分の間休ませて頂きます。いろんな雑用で忙しいこともありますが・・・私事で言えば人工内耳フリーダムを購入して、以前よりも聞えの幅が広くなりました。また人工内耳で単語、言葉の聞き取りが9割でした。私は聞えがとても良い方みたいなのですが、まだまだ人工内耳で聞えが良くない方も沢山おられるようです。だから私が人工内耳の効用を記している事が正しいとは言えません。そのことで「人工内耳はとても聞き取りがいい」という人ばかりではないことを解って欲しいと思います。個人差がある・・・ということです。今まで長いこと拙文を読んでいただき感謝しております。又何かのきっかけで書くことがあるかもしれませんが、ひとまずこれで終わりにしたいと思います。ありがとうございました。
2008年09月18日
コメント(2)
暫くご無沙汰していました。夏バテ・・・というかいろいろと忙しくゆっくり出来なかったので疲れがたまっています。盆前の暑さにもまいっていました。歳だなぁ・・・最近28年ぶりにある方・・・にバッタリ会いました。助産師さんです。私の店にたまたま来られたのですが・・・私の次女は28年前予定日より二ヶ月早く生まれました。破水したので入院し絶対安静でしたが陣痛が起きて止まらず出産・・・となりました。そのときの助産師さんです。難聴で困ることに出産もあります。初産ではただでさえ不安なのに聞えない不安がプラスされます。(もし助産師さんの言われる事が聞えなかったらどうしよう・・・)出産の時のいきみのタイミング、息を吐く時のタイミング・・・など不安だらけでした。赤ちゃんが産道を通っている時の呼吸の仕方が赤ちゃんにも影響を与えるからです。それで出産前の検診時から「聞えないので宜しくお願いします」と、とにかく(聞えないmichiさん)を知ってもらわなければならない・・と思っていました。tomoの時も三日かかった超難産でした。私は体重が38キロ前後なので自分の体重の10分の1のtomoの出産は死ぬか・・・と思うほどの辛さでした。(あの頃3800gの赤ちゃんは大きい方でした)それで3人目の出産は慣れているつもりでしたが聞えない不安があります。(補聴器が途中で外れたらどうしよう・・・補聴器が無かったら全くの無音の世界です)時には枕にあたって補聴器がハウリングします。私だけ気付くのであればいいけれど周りの方にうるさく聞えていると思います。うるさい音を出すと迷惑がかかる・・・お産の時に補聴器が枕に当たらないか・・・それも気にしなくてはならない。その不安を誰一人言ったこともありません。あの頃は難聴を出来るだけ隠したかった・・・言わなくていいのならいいたくなかった・・障害二級の高度難聴なのに、それでも普通の人に見られたかった・・・今のように福祉に理解もなかった頃だったから・・・そんな中での三人目の出産の時の助産師さんは「あのぅ、ずっと前に私が関わった方でしょう?」と言われ、こちらがビックリしました。「まぁ、よく覚えておられましたね」「確か、お耳が不自由だったですよね?赤ちゃんも小さかった・・・私は助産師になったばかりの頃で、とても印象に残っています」ということでした。「はい1900gの未熟児だった子が今では二児の母親です」と話に花が咲きました。難聴だったから覚えていてくれたんだ・・・と難聴でも悪いことばかりじゃないんだな・・・とヘンに納得していました。ずっと以前の知り合いとバッタリ会って、まず思い出すのは”聞えない私のあの頃の姿”です。あの時、聞えないで、どんな事で困っていた・・・悩んでいた・・・がパァツと蘇るのです。それほど不自由なことが沢山あったのです。今では人工内耳ではるかによく聞こえているけれど、それでも普通の人のようにはなれない。それでも難聴を受け入れているから気分的にだいぶ楽になりました。あの頃、子育ても泣き声が聞えなくて、こちらが泣きたいほどだったけれど、亡き主人が毎晩一緒に起きて二人で子育てをしてきました。きっといつか「あの頃聞えなくてこんな失敗もあったのよ」と笑って話せる日がきます。他にも聞えなくて出産、子育てに頑張っている難聴の女性にエールを送ります。 じゃ また・・・
2008年08月31日
コメント(0)
早やお盆も過ぎ、オリンピックも金メダルが数個取れまだまだ増えるかもしれませんね。今日は昼から土砂降りの雨…雷も鳴り空も暗くなって雨が涼しさをもたらしてくれました。私は「要約筆記を広めたい」と思っているので声がかかればどこにでも行きます。二ヶ月ほど前も知人からちょっと声がかかり県民ホールで話しました。その時、視覚障害の方も話しておられましたが時間の都合で挨拶もしていませんでした。その方、Mさんは視覚障害の立場で、私は聴覚障害の立場でそれぞれ話しました。それから二ヶ月経った最近そのMさんが知人に連れられて店に来られました。Mさんは私が活動を始めた4年程前から私のことを知っていたそうです。「前からmichiさんのこと、知っていました。会いたいと思っていましたがなかなか機会が無く今日やっと出て来れました」と初対面の挨拶をされました。そうなのです。目が全く見えないMさんは自分一人で初めての所には行けないのです。知人に「頼んでここまで連れて来てもらった」とのこと。私の店は二階なので階段を上がるのも不自由したと思いますが「次回からは1人で大丈夫です」とニコニコ顔で話されました。「階段がありますよ。あと一段で二階にあがります。入り口で又段があります」というふうに同伴の方の言葉で周りの状況を把握して杖を持ち歩かれます。お互いに障害があることで不自由さが沢山ありますがMさんは「聴覚障害者は外見でわからないので理解され難いでしょうね。私みたいに目が見えないとすぐわかるけれどね」と聴覚障害の不自由さを察してくれます。「michiさん、聞こえるようになってよかったですね」と人工内耳のことまで知っておられました。「Mさんこそ、一人暮らしで大変でしょう?」と話を聞きましたら「いえいえ家族がいると却って大変なんですよ。テーブルのこの辺に物を置いたつもりなのに、家族がいると置き場所が変わっていたりして困ります」目が見えるものにとっては何でもないことが目の不自由な方にとっては不便なのです。「買い物もどうされてるんですか?」「近所だったら1人で行きますよ。〇〇はどこに置いてありますか?と店員さんに尋ねるから困らない」そうです。「レジもレジ機の音で場所がわかるので並びます」「お札が解らないでしょう?」と私が聞いたら「お札には印がつけてあるのでわかります」とのこと。へエー―ッ知らなかった。千円札など隅の方に少し膨らんでいる箇所があります。「料理もされますか?」「近頃はあまりしないけれど基本的にはしますよ。ガスも水道の水の出具合も音で判断するし調味料もそれぞれビンの形が違うので間違いませんよ」ウワーッ凄い!!私より料理が上手かもしれない。お互いにどんな事が不自由か、世間に理解してもらっているのか・・・で話が弾みました。次からは連絡しやすいように携帯アドレス交換もしました。「それにしてもmichiさんは聴覚障害者と思えないほど発音がハッキリしていますね」と褒めてもらいました。確かに私は人工内耳手術後発音がハッキリなったようです。「発音は全く普通の人と同じですね」とのこと。「世の中にこんなに音が氾濫していると知りませんでした。最初の頃は何の音だろう?と周りの人に確認していましたよ。それにしても近頃の蝉の音って喧しいですね。あまりうるさいとスイッチを切れるので人工内耳も便利ですよ」と私が話しましたら「その蝉の音がうるさくて周りの音が消されてしまうので困るんですよ。炊事のガスの音も消されるし誰かが近づく足音も聞き取り難いですものね。」と困っておられました。足音だけで誰が来たのかわかるそうです。又知り合いの体臭でも判断できるとのこと。人間の身体ってすごいです。足りないものをちゃんと補うように出来ているのですね。私が読唇で話がわかるのにも驚かれていたけれど、今はその特技も落ちています。帰りに電話でタクシーを呼ばれました。階下まで見送りに行きましたが「次回からは1人で来れます。店の入り口ももう覚えました」・・・と話している時何台かタクシーが通ったけれど「私がいつも頼んでいるタクシーではない。エンジンの音で私が呼んだタクシーがわかります」には驚きました。「アッ来たようです」と私が言うのと同時に「タクシー来ましたね」とMさんが言ったのには又驚いてしまった。人間どんな障害があっても心の持ち方で不自由さを補えるのですね。お互いに「障害があっても悪いことばかりではないですね。痛みがわかって人の情け?が身に沁みる」との結論に至りました。素敵な出会いに感謝します。こうして知り合いが少しずつ増えていって心が豊かになっていくようです。
2008年08月16日
コメント(0)
久しぶりに一雨で少し涼しくなりました。毎日ジリジリ焼けるような熱気から開放されてちょっと一息つきましたネ。先日のテレビは地震があって延期になり7月27日に全国放映されました。全国でも反応があり、難聴者自身ではなく友人・・・という方からもFAXが届きました。難聴の友達を心配しておられることが文面から伝わってきます。人工内耳のことで本当に情報が広まっていない・・・ということを痛感しています。「人工内耳を耳鼻科から進められたけれど果たして良いのかどうか?」「補聴器を使っているけれど言葉が聞き取れない、人工内耳は聞き取れるのか?」「人工内耳をしたらどれくらい聞えるのか?聞えるようになるのか?」「人工内耳している方の話を聞きたい」「シャンプーできるのか?」もう既に数通FAXがきていますが、いずれもNHK放送局に私のFAX番号を聞いて問い合わせがきます。勿論、当事者にとって藁にも縋る気持ちがひしひしと伝わってきますので必ず返信します。疑問に思うのは受診した耳鼻科で、何故他の人工内耳装用者から話を聞けるように段取りをしてくれないのか?ということです。私の場合人工内耳装用者に初めて会ったのが難聴会でした。三人くらい話を聞いて、その後受診した長崎の耳鼻科でも手術を決めないうちから、頼んだわけでもないけれど「人工内耳装用者にお会いして疑問に思うことを何でも聞いてみたらどうですか?」とセッティングしてくれました。勿論私も術後、他の人工内耳手術希望者にお会いしていろんな質問に答えました。医師は当事者ではないので本当の人工内耳のメリット、デメリットは解らないと思います。*手術して暫くは頭皮が引っ張られるように痛いこと*人工内耳を装用したすぐは音に慣れず、かなり疲れて早くスピーチプロセッサーを外してしまいたいこと*一日の内長く着けて音に慣れたほうが良いけれど、最初のうちはとても一日着けておれないほど疲れてしまうこと*私の場合は幼少の頃から聞こえ難くなったのではじめて聞いた音が沢山あって、その度に何の音か?を回りに確認していたこと本当に慣れるまでは、いつも音に慣れずに神経を使い果して気疲れが多かったことなどを、今しみじみと思い返しています。私の知人の二十代の人工内耳装用者は本人がなかなか人工内耳を装用しないので三年経った未だに言葉の聞き取りが上手くできません。このようにとても個人差があるのです。人工内耳を装用したらすぐ聞き取れる方もいますが普通は慣れるまで三ヶ月くらいかかるようです。耳鼻科から人工内耳を進められたが装用者が回りに一人もいないので不安・・・という方が多いです。それをどうして耳鼻科の医師にいわないのでしょうか?自分のことなのに何で遠慮するのでしょうか?本人も疑問点を医師に聞く勇気を持たないといけないと思う。テレビに出たことで改めて人工内耳の情報の少なさを感じました。私は今まで聞えなくて不自由なことが沢山あったので悩んでいる人をほって置けません。どんな小さなことでも伝えたいと思う。私に出来ることは何でもしたいと思う。そして自分で納得して人工内耳装用を決めて欲しいと思います。聞き取り難い方にとって、聞き取れる事は最大の願いなのです。こんなに医学が進歩した現在でも人工内耳に関してまだまだ情報が広まっていない事を残念に思います。地道に一つずつ・・・広める役割りを担っていきたいと思います。
2008年08月04日
コメント(0)
猛暑、猛暑で身体がばててしまいそうです。水分ばかり欲しくなり却って疲れます。この頃は卓球の練習もハードになり球が一秒毎に飛んでくるのを打ち返さなくてはなりません。練習時に頭から汗ビッショリになり人工内耳のスピーチプロセッサーに汗が付着して少々不安になります。汗を拭き拭き卓球を頑張っています。ところでテレビ放映の後いろんな方から(他県からも)人工内耳に関してのFAXを今でも頂きます。テレビの影響ってすごいなぁと思います。一番多い質問は聞えの事です。初めて聞いた音が沢山あるのですが誤解されやすいのが「聞こえるようになった」という私の言葉をそのまま受け止められることです。私が聞える・・・というのは以前補聴器で生活していた頃に比べて聞える・・ということを言いたかったわけですが、殆どの方が健聴者と同じように聞える・・・と勘違いされているようです。決して健聴者と同じに聞えるようにはならないと思います。私は2歳の頃から少しずつ聞えないようになっていき小学校4年生のとき障害手帳の4級社会人になった20歳の頃は既に重度難聴2級でした。それで本当の聞こえ・・・というのを覚えていません。健聴者がどれほど聞えているのか実感として知りません。物に音がある・・というのは人工内耳を装用して初めて知ったのです。きいたことが無い音が沢山ありました。自分の足音、虫の声、水道の水の流れる音、ガスのバーナーの音、お湯が沸いた音、時計の秒針、小鳥の声、枝葉の風で揺れる音・・数え上げればキリがないほどです。人の話し声は補聴器で入るけれど言葉が判別できないので全て読唇で50年以上を過ごしてきました。目を閉じればどんな言葉の判別も出来ませんでした。だから私が聞えているのは自分が以前補聴器で生活していた音より聞えている・・・ということなのです。このテレビをご覧になった方が私を訪ねてきて「あなたの発音は普通の方と全く変わらないですね。どうやって言葉を覚えたのですか?」と驚かれていました。私のほうこそ(自分では当たり前に話しているつもりだが、どうして驚くの?)と却ってビックリしています。どうして聞えないと発音が悪いのが当然・・・と思っているの?と疑問に感じるほどです。私の場合は周りに助けられたからでしょうね。友達が発音を注意してくれていたから・・・でも人工内耳装用後「発音がより良くなった」と言われます。その尋ねてこられた方は「聞えないでどうやって言葉を覚えたのか不思議でたまりません」とのことでした。私としては「自然にこんな発音になりました」としか言いようが無いです。その方は「知らない事が沢山あった。要約筆記派遣制度、中途難聴者協会など」といわれ進んで難聴会員になってくれました。「情報が欲しい」そうです。そんなテレビ放映が好評だったためかNHKTV、7月24日(木)14時10分~15時まで全国放映されることになりました。「元気列島」です。良かったらどうぞ・・先日は若い難聴者の集まり「こうひいらびっと」で初めての飲み会を行い、おおいに盛り上がりました。たった一人の方の「若い難聴者と知り合いたい・・・」との希望から始まりもう10回目を数えました。相変わらず耳の話が多いですが皆さんお喋り大好きで本当に仲間という言葉がしっくり来るようになりました。こうして1人でも聞えで悩んでいる人の気持ちを軽くしたい,ほっておけない・・・この気持ちで進んでいきたいと思っています。
2008年07月22日
コメント(0)
このところ猛暑が続いています。ちょっと前までは夜も涼しかったので(今年は冷夏かな?)と思っていたのですが、梅雨が明けたらやはり猛暑・・・これから1ヶ月以上も続くのでしょうね。先日主人が亡くなってから12年目の祥月命日を迎えました。毎年和尚さんにお経をあげてもらっていますが、今年は子供達、三夫婦、孫4人の家族が増えました。和尚さんも「オー―ッ賑やかですね」とビックリされていました。主人が亡くなってから二年近くなってから始めた卓球・・・淋しさを埋めよう・・・身体を動かした方がいい・・と思って卓球クラブの門をたたきました。運動神経が鈍い私はなかなか上達しません。最初は球が天井へいったり、隣のコートの人に当たったり失敗の連続でした。サーブ、スマッシュ、試合のルール・・・知らない事ばかり・・・あまりの下手さに注意されてばかり・・上達しないので教えてくれる方に気の毒で「すみません」と、つい口に出る・・・球もコートからオーバーばかり・・・ヒョロヒョロ転がり落ちる。それでも最初の一年間は一回も休みませんでした。練習は店が終わってから7時から9時まで、週二回です。店のお客様が遅くまでおられると練習へ行く時間も遅くなります。雨の日も合羽を着てチャリンコで20分ほど・・・「とにかく休まずに真面目だから」と卓球クラブ会長よりラケットのラバー張替えをご褒美に頂いた事もあります。下手でも続けていくと少しずつ、少しずつものになっているみたいです。相変わらずヒョロヒョロした球を投げてスピードもありませんがバックも何とかできるようになりました。一番困るのは試合時の≪蚤の心臓≫です。練習の時は、少しはバシッと打てるのですが試合になると途端に球に切れ味がなくフワーッとした球しか打てません。手が動かなくなるのです。「私、蚤の心臓で試合は全くダメなのよ」と言うと、皆さん「嘘~嘘ばっかり」と言われます。却って沢山の人の前で話す講和は全く平気なのです。ドキドキもしないし、(難聴関連の講和の依頼を受けますが)誰かが乗り移って喋っているのではないか・・・と思うほどあがらずに話すので、それを知っている人は≪蚤の心臓・・≫が信じられないようです。卓球の試合は平均して大体、月に一回ほどあります。難聴会の用事がない限り卓球の試合も殆ど出ています。ところが蚤の心臓なので勝ったことがない。せいぜい一回戦を突破するくらいです。こんなに勝てないのに何故試合に行くのかというと、帰りの温泉が目的で行っているようなものです。第一に温泉、第二が県外の試合会場まで車で行くのでドライブ気分を味わえる、第三に試合が目的・・・というように不謹慎なのです。ところで佐賀では聴覚障害者の卓球人口が極めて少ないそうです。それで数年前から「障害者国体に出場してみたら?」と言われていました。聴覚障害者・・というだけで卓球の種目に出場できるらしい(嘘みたいな本当の話)今年の国体は大分大会で九州という近場だから店をあまり休まなくて良いので承諾しました。すると俄然、火が点いた??半月ほど前の障害者卓球九州大会では初心者の部、敗者復活戦トーナメントで、あれよあれよ・・・というまに準決勝まで行ったのです。6回試合しました。いつも一回戦を漸くクリアするくらいだから私自身、ビックリでした。そして先週、長崎での試合は(勿論初心者の部)のトーナメントで決勝戦まで行って負けました。仲間がビックリする事・・(あの下手なmichiさんがねぇ)とても喜んでくれました。いつも指導してもらっている監督も私の試合を見ていたけれど「蚤の心臓だから見ないで下さい、あっちの方に行っててください」と頼み込んでコートから離れてもらいました。誰かが応援してくれると緊張してダメなのです。表彰式でも現金なことにマイクを通した私の名前が聞えました。「二位、佐賀のmichiさん」勿論すぐ賞品を頂きに行きました。ラッキーな事にコーヒースプーンでした。こんなふうで何でも努力すれば報われる日がくるんだなぁと実感しています。これからも下手な卓球を続けていきたいと思っているこの頃です。
2008年07月18日
コメント(1)
梅雨明け宣言の後いきなり真夏日がやってきました。今までは例年より気温が低く涼しく感じていたので、暑いのは堪えますね。先日人工内耳のことでNHKTVに出ましたが知人、友人から「見たよ」「良かったよ」と多数のメールが入りました。見ていただいてありがとうございます。当日NHK放送局の方にも数件の問い合わせがあったそうです。地元のNHK放映後、翌朝は九州全域でも放映されたので他県からの問い合わせもきたそうです。それでNHK担当者から「michiさんの住所やFAX番号を教えていいですか?」とのことだったので勿論すぐに承諾しました。実を言えばNHK放送局からは去年も取材依頼がきていました。その時は私の子供達も一緒に出演してくれないか・・・とのことだったのでお断りしました。末娘は「私のお母さんは耳が聞えないって考えたこともない。私にとっては普通の一般のお母さんと同じなので、聞えないお母さんから育てられたと一度も思ったことはないから取材を受ける必要性がない」と言うのです。私は家庭では(聞えないから子供達にすまない)と口にしたことは一度もありません。むしろ普通の親より厳しく育てていましたので、子供達が「普通のお母さんと全く変わらない」と言うのは当然のことです。このような経緯があり、今回は家族は出なくていい・・・とのことだったので取材を引き受けることにしました。本当のことを言えば顔も出さずに難聴のことを世の中に訴える方法がないのか?と思う。でも自分が発言した事には責任を持たなくてはなりません。4分程の放送時間の取材は本当に大変です。今度で5回目のテレビ出演ですが毎回取材者の大変さに同情しています。こんなに沢山のフィルムを回すのか?こんなに時間がかかるのか?私生活まで入り込まないと内容がいいものができません。テレビの内容は人工内耳に関することです。佐賀では人工内耳の手術が出来る病院がないので難聴者自身が人工内耳のことを知りません。これでは選択の幅が狭められてしまいます。人工内耳は賛否両論ありますが、医学が進歩した現代では副作用も少ないし補聴器で効果がない方の最後の手段と言われるほど難聴者にとっては希望の光なのです。これを私だけの胸に秘めておくのは勿体ない。「こんなにいいのがあるのよ」と知って欲しい・・・ただその気持ちで取材を受けました。子供達も「お母さんが難聴の活動をしたいならしたほうがいいよ。知らない人に広めたいならお母さん自身が取材を受けることを決めたら?」と理解してくれたので・・・思ったとおり人工内耳のことを初めて知った・・・という人たちが家族を通じてFAXや、尋ねてこられた人もいます。私に会われた方は「こんなに聞えるのですか?」とビックリされています。何でかというと付いてこられた家族の方の普通の低い声でも聞えて会話ができるからです。「希望が見えてきました。自分は一生耳と関わりのない生活になるのかと思っていたが貴女を見て勇気が湧いてきました」と60代の方も話されていました。「要約筆記がありますよ」と言ったら、とても喜ばれて「知らなかった。本当にいいものがあるのですね」と言われ、情報を伝えていく必要性を感じました。人間は可能性があるならあきらめないで欲しい・・・同じ人生なら少しでも良い方法を見つけて楽しく生きて欲しい・・・いつもそれを原点に情報を伝えていきたいと思う。店に来られた時に暗い表情だった方がパァーッと明るくなって帰られていく・・・・本当に私まで嬉しいです。今までのテレビ放映は耳マーク、要約筆記だったけれど佐賀で馴染みのない人工内耳が 一番の反響だったようです。私に出来ることを気負わずに続けていって情報発信をしたいと思っています。 では また・・・
2008年07月07日
コメント(4)
先日佐賀では大雨で冠水しているところが沢山ありました。サラリーマンがズボンの裾をたくし上げ靴を持って冠水した道路を歩いていました。一日でバケツをひっくり返したようなどしゃぶりに有明海の満潮が重なって水が引かなかったそうです。自然の怖さを思い知らされました。私が人工内耳を装用してからあと二ヶ月弱で三年になります。その間、我が愛すべきスピーチプロセッサーは一回の故障もなく私の体の一部となっていますが、この頃は少し聞えが落ちてきたような感じがします。以前は感度(ボリューム)2でも充分に聞えていたのが最近はもの足りなさを感じます。それに万一このスピーチプロセッサーが壊れたら即聞えない世界になってしまう・・・もう二度と音のない世界に戻りたくありません。それで人工内耳メーカーから新しくフリーダムという人工内耳が発売されたのを切っ掛けに人工内耳の購入を考えています。その購入・・・というのが去年の九月からキャンペーンとして普通100万円以上する人工内耳が今年の八月まで申し込めば65万円程で買えるのです。65万円という金額は今の私には大金です。でも壊れた事を考えると手許にあと一台ないと不安です。それで申し込む事にしました。でもある人から「michiさん、100万円だったら買うの?」と聞かれました。「100万円だったら買いませんよ。買うのに躊躇します(65万円でも考えるけれど)」と答えました。「じゃあ、ずっと65万円だったら今買うの?」と又聞かれました。「イヤずっと65万円だったら今すぐ買わないでしょうね」と私。「そうだよね。メーカーは煽っているようだ。65万円で売れるならずっと65万円で売ればいいのにね。おかしいよね」と。本当だ!ホント!!人工内耳って贅沢品じゃないのに・・・身体の一部なのに・・・と気付かされました。私のような聞こえない者にとって人工内耳は無くてはならない大切なもの・・・・これをキャンペーンだなんておかしい!!他にも補聴器が片耳25万円だとすると両耳買えば40万円・・・なんてことはザラにある。これもおかしい!!両耳40万円なら、どうして片耳だけ買っても20万円にしないのか??難聴者にとって身体の一部なのに・・・・皆さんどう思われますか??安く出来るのならメーカーはどうして安くしないのか・・・聞えないというだけで存外なお金がかかる・・・電池代だってかかる・・・それに補聴器を一個買えばいいということではない。長い一生の内に何個も買い換えるものだ・・・補聴器代だけで150万円使った・・・という方もいらっしゃった。贅沢品は高くてもいいと思うが補聴器や人工内耳は身体の一部、必需品だから少しでも安くして欲しいと思う。障害者は所得が低い人が多いので考えてもらいたいものだ。これをどこに言えばいいのか??どこに訴えればいいのか??世の中おかしいことだらけ・・そう思いながら弱者である私達は節約してでも買わなければならないのです。とても疑問に思ったことでした。何とかならないのか??耳のことばかり考えていたらNHK放送から人工内耳に関しての取材がありました。僭越ながら地元の佐賀NHKTVで7月1日午後6時10分過ぎから私に関する番組が放映されます。よかったら見て下さい。
2008年06月26日
コメント(4)
九州は梅雨に入りましたが、昨日などは梅雨と思えないほどの日本晴れでした。まだこれからが梅雨本番なのですが、今のうちに大きな洗濯物を片付けてしまわないと・・私はいろんな所に出向いて活動しているのですが、時には『こんにちは』と挨拶されて「こんにちは」と答えはするものの(ハテ誰だったかな?)ということもあります。先日もそんな方に声を掛けられました。市民活動関係の方ですが「michiさんと何度か、お会いしています」と言われたけれど私は、顔をみたことあるような?と記憶を手繰り寄せSさんと話しました。話してみたら気が合うし会話も弾みます。彼女は専業主婦で合間に市民活動ボランティアをされていたのですが御主人、大学生の息子さんと暮らしているそうです。「息子がいるから食事も洗濯物も増えるし・・・」とSさん。「アラッいいじゃない、息子さんも結婚すれば世話をしたくてもできないわよ。何よりご主人がいらっしゃるから幸せよ」と言いました。私は10年以上前に主人を病気で亡くしているので、ご主人がいらっしゃる方は、それだけで幸せだなぁと思っています。離婚する人などのことを聞くと(勿体ない。命があるだけでも幸せなのに、其の命を貰いたい)と真剣に思ったものです。私は一日でも長く主人が生きていて・・・と切実に思っていたし(主人は何もしなくてもいい。側にいてくれたらいい)が最大の願いでしたので正直、命があるだけでもいいなぁと羨ましくってたまりませんでした。ところがSさんはご主人が「いて当たり前・・・何も面白い事もない・・・」というのです。「Sさんは幸せよ。毎日ご主人が仕事に行ってくれるから生活できるし、当たり前に起きて当たり前にご飯を食べれる平凡な日々が一番幸せなのよ。貴女は幸せの中にどっぷり浸かっちゃって自分の置かれている立場が見えていないのよ」と答えました。「あ~ぁそうなんだねぇ。私は感謝の気持ちが足りないかもしれない。主人に感謝してなかったもんね~」としみじみ言われました。私も、もしかしたら主人が健康でいつもそばにいてくれたら当たり前のように思って感謝してなかったかもしれない。だから私も大きなことは言えないけれど無くしてみてその大切さがわかるのです。それから暫くして会ったとき「気付かせてもらってよかった。同じ日々なのに今は少し感謝の気持ちが出てきたのよ。そしたら生きていることもありがたいことなのね」と笑顔が出ていました。人生、先のことはわからない。いいことがあるか悪いことがあるか・・・でも今置かれている状況にも感謝できるようになりたいと思っています。私も主人を亡くして先のことは考えられない、とにかく今日、明日のことだけ考えて生きていこう・・・・それが積み重なってもう10年過ぎてしまいました。その間に高校生だった末っ子は結婚して二児の母親に・・・社会人だった長男は勿論、結婚して二児の父親で今は一緒に住んでいるし大学生だった長女も結婚して・・・この10年の流れは以前考えもできなかったものです。毎日平凡だけど日々の生活が一番大切なのではないでしょうか。時には(主人がいてくれたらなぁ)とたまらなくなるときもありますが、これが自分の運命だと思わないと生きていけません。活動のお陰で沢山の方との出会いがありました。又これからもいろんな方と出会うことでしょう。後悔する事もあるかもしれません。でも自分の置かれている現在が最良だと思って暮らしていきたいです。何より人工内耳で聞えの幅が広がったことは神様からの贈り物かもしれません。そしていろんな方の言葉に耳を傾けて謙虚にならなくっちゃ・・・気付かせてくれたSさんに感謝!!
2008年06月14日
コメント(0)
最近肌寒い日が続いています。あまり暑くなくて助かりますが本当に温暖化??今年は涼しいのかしら・・・先日の日曜日大分へ行きました。2年半前、人工内耳の手術後、カンボジア教育支援理事長Mさんから誘われてカンボアへ行った事がきっかけでその会に入会したのです。カンボジア教育支援・・・と字のごとくカンボジアの辺鄙な村に中学校、高校を支援金で建てて奨学金などを佐賀の地から送って地元の子供たちに教育を受けさせているのです。其の高校を卒業した生徒が大学へ進学し去年10月からは2人の学生が佐賀大学の留学生として学んでいます。勿論生活費などは私達会員の会費、バザーでの売上、里親制度、アルミ缶収集など、ありとあらゆる方法で捻出されています。其の留学生と交流しよう・・・と言うことで企画されました。貸切バス一台で53人の参加でした。私は2年半前のカンボジア行きの時ずっと同じグループだったHさんと又今回もバスの中で同じ席でした。しかも其の隣に座った人が留学生であるS君。S君とは当時カンボジアの旅行の時も同じグループで偶然にも今回もHさん、S君と同じ席になったことに奇縁を感じました。二年半前はたどたどしい日本語で話していたS君が、今では日本語がスラスラです。「早くカンボジアへ帰りたいでしょう?」とHさんが聞いていましたが「イヤそうでもないです」と、すっかり大学生活を楽しんでいるようです。バスの中でまず自己紹介がありました。配られた名簿に氏名が載っていて例えば「35番のKです」などと1人ずつ自己紹介が始まりました。2年半前はバスの中のマイクの声がよく聞き取れなくてHさんが手話を交えながら教えてくれてました。ところが今回は「22番の〇〇です」というマイクの声がよく聞き取れてHさんもビックリしていました。「結構聞こえているねぇ。よかったね」と喜んでくれてました。「2年半前はあまり聞き取れず貴女に教えてもらっていたのに、今は、こんなに聞き取れて我ながらすごいよね」と嬉しさを隠せない私でした。(聞える・・・ってここに自分がいる・・・ふ~ん、今こんな話なんだ・・)と気持ちが動きます。100%聞える事は無理だけど「今からトイレ休憩です。〇時◎分まで車に戻ってください」が全部わかる嬉しさ・・・周りの人に確認しなくても行動できる有難さ・・・健聴者にとって当たり前の事だけど、其の当たり前がわかる嬉しさ・・・感謝です。普通の生活ではマイクと無縁の日常だからマイクがここまで聞き取れているとはわからなかったのです。本当に人工内耳の手術を受けてよかった!!途中で大分の「九重夢の大吊橋」も渡りました。標高777m長さ390m高さ173mの日本一の橋です。360度の大パノラマで眺めは最高!6月1日は九重の山開きで沢山の人出でしたが少し横揺れの吊橋を渡るのはスリル満点。初めて会う方も何人かいて知人が「michiさんは人工内耳というのをされてて、佐賀で手術できる病院がないので長崎で手術して、いろんな活動をされてるのよ」と私のことを話してくれました。すると「私も片方、全く聞えないのよ」と言う人もいました。知人が私のことを話さなかったら「実は私も聞えない」なんて言われなかったでしょう。結構聞えない人はいるんだなぁ・・・と思いました。できれば知られたくない・・・聞えないことを言いたくない・・・のでしょう。私みたいに難聴会の会長をしているなら、もう開き直って?(私は人工内耳してるのよ。これが人工内耳なの)と外して見せたりしています。私が聞えないことを恥ずかしい・・と思っていたら活動もできない。ちょっとした旅に出かけたけれど人工内耳の話が出た際にこれ幸いと「聞えない人の中で手話を使っている人は二割もいないんですよ。要約筆記・・という書いてくれる筆記通訳があるんですよ」と話しました。理解してくれそうだなぁと思ったら話すようにしています。困ったのは温泉です。人工内耳を外さないといけない。簡単な会話だったら読唇で何とかなるけれど、この読唇力がとても落ちている現在「ゴメンナサイ。今は人工内耳を外しているからわからないの」ということにしています。Hさんは「髪も洗えるの?」と驚いていました。人工内耳していても健聴者にはなれないけれど補聴器よりもかなり幅が広がり少しざわついている所でも隣の人の会話が聞える時もあります。(聞こう・・と思ったわけじゃないけれど)という感じで・・・以前の私だったら考えられないことです。かくして帰りのバスの中でも皆さんと一緒に唄を楽しめました。唱歌など小中学校で習った懐かしい唄・・「里の秋」「故郷」「上を向いて歩こう」etc楽しいひとときでした。皆さんのさりげない親切に感謝、会話がわかる楽しさに感謝でした。生きているって悪くないなぁ・・・また食事でもしましょう・・とHさんに誘われこれがまた次に繋がっていくのだなぁ・・・と又の再会を約束しました。では また・・
2008年06月03日
コメント(2)
五月も後五日ほどで終わりに近づくと、さすがに暑くなってきました。中国では大地震で六万五千人もの死者が・・・まだ増えそうです。生き埋めになった方が多いそうで、なんと苦しかったことか・・・本当に胸が痛みます。毎年世界のどこかで大災害が起きて多くの犠牲者が増えています。自然にはどうしても立ち向かう事のできないこの現実・・・亡くなられた方の冥福を祈りたいと思います。毎月一度集まっている若い難聴者の『こうひいらびっと』も今回で八回目を迎えました。初回から必ず参加しているメンバーは私を含めて四人・・・先日は計六人集まりました。仕事で二人参加できなかったことは残念!!実を言えば風邪をずっと引いていた私は前日39度を越す高熱でした。風邪の最後にドカン!!ときたのです。仰向けに寝ても横向きに寝ても、身の置き所の無い、きつさ・・・息子からは「休んだ方が良い」と言われたけれど、楽しみにしている仲間の顔が浮かんで(絶対熱を下げるぞ!)との気力で夜中も高熱と格闘していました。勿論食欲も無く、何も食べずに、ひたすら眠る、眠る。翌朝37度台に下がったので(言う事を聞かない私の性格を知っている)息子が店まで送ってくれました。何回も「大丈夫?」と念を押されながら・・定刻にまずやってきたMさんとKさん・・・ことの顛末を話したら「michiさん、無理しなくて良かったのに・・・休んでよかったのに・・・」と心配してくれましたが3人、4人・・・と来てくれるにつれ(休まないでよかった!)と思いました。皆の笑顔が何よりの癒し薬です。私は、食欲は無いものの喋る方は殆どいつもと同じくらい口が動きます。機種を買い換えたtotoさんの新しい携帯に皆が目を奪われ「凄い!!画面がキレイ!」の連発・・・そういえば、福岡からいつもは颯爽とバイクにまたがって来るtotoさんも雲行きの怪しさに高速バスで来たとのこと。PCの使い方がいまいちわからない・・・と言えばPCの講師の経験もあるEさんが説明してくれる。このEさんがモデルみたいにスラッとした美女で、今まではあまり話さないおとなしい人・・・と思っていましたが今回はいろんな話に加わってくれてとても嬉しかったです。ここでは皆が中途難聴なので気負い無く話せるのが魅力です。当たり前だけど何回聞き返しても笑う人がいない・・・なんと心地いい空間かと思う。いつも難聴に役に立つ記事などを見つけて人数分コピーして皆に配ってくれるNさん。難聴の情報をさりげなく、教えてくれるのです。この人も美人。三回目の参加であるKさん。障害手帳は持っていないけれど不自由なこともある・・・というサラリーマンのKさんはいつもニコニコみんなの話を聞いていて、大事な話にはちゃんと答えてくれる。いつも元気な綺麗な二児のママMさん・・・「補聴器はどうなった?」との問いかけに「それがねぇ、少人数ではわかるんだけど大勢いるところでは聞き取れなくて不満なの」と。今まであまり聞えなくて悩んでいた人が自分に合う補聴器が見つかって静かな所で聞えると、とても感動します。すると今度は”少し人が多いところでも聞えるかも?”と期待するのです。ところが現実はそんなに甘くなくて4,5人集まっている所では聞き取り難くなってしまう・・・・それで落ち込む。悩む・・・人間って欲が出るのです。ハッキリ言って補聴器では大人数での聞き取りはかなり難しいと思う。人間の本来持っている耳の機能は大勢の中でも、聞きたい人の声だけを聞き取れるらしい・・・でも難聴になると言葉そのものの聞き取りが困難になってくる人が多いのです。そのためにFM送受信機があります。ちょっと高価だけれど、話している人の胸にマイクをつけてもらえば多少離れていても話している方の声が聞き取れるそうです。周りの音が遮断されるのです。私の学校時代から比べれば夢のような進歩です。別の人から聞いた話だけど・・・現実には小学校高学年の難聴児など(自分のために先生にマイクを付けてもらうなんて恥ずかしくって嫌だ)とFM送受信機を持っているにもかかわらず使ってない児童もいるそうです。その児童の気持ちってわかるなぁ・・・私だって自分が小学生だったら嫌だと言うかもしれない。沢山の人が使っているなら抵抗無く使えるけれど自分一人だけ使うとなれば勇気がいるもんなぁ・・・などと児童の気持ちに同調してしまいます。Mさんも聞える事に飽くなき望みを持っている・・・いいことだと思う。でも現実問題として無理なものは無理・・・なのです。最後の手段として人工内耳も視野に入れたほうがいいかもしれない。私は人工内耳を装用して聞き取り難い幼児の声が聞える事に感謝の日々です。幼稚園の孫が「ばあちゃん、遊ぼぅ、恐竜ゴッコしよう」とよく言う。当たり前だけどそれにスムーズに答えることができる有難さ・・・感謝です。ただ読唇力はかなり落ちています。目を閉じても言葉がわかるから・・・・自分の子育て時代は、ひたすら子供の口の動きを読み取っていたなぁ・・・それで会話がわかっていた・・・自分の子供の話すことは母親という自信でわかっていたかもしれない。聞えないと何が一番したいか??というとやはりコミュニケーションを取れることではないかと思う。人間、1人では生きられないもの・・・こうして『こうひいらびっと』の仲間と話す時、人は人によって生きているんだなぁ・・と思う。そして縁とは、なんと不思議なものかと思う。もしMさんが難聴会主催の講演会に来てくれていなかったら??もしEさんのお母さんが講演会に来てくれていなかったら?もし私がこのブログを書いていなかったらtotoさんやNさんと知り合うこともなかった・・・・「今度はボーリングに行こう」「先々飲み会しよう」と話題もだんだん膨らみます。この巡り合わせはなるべくしてなったのではないかと見えない神様に感謝しています。この素晴らしい『こうひいらびっと』の仲間に乾杯!!
2008年05月26日
コメント(2)
五月も半ばなのですが肌寒い日が続いています。温度差が激しくって風邪を引いてしまいました。障子の桟は孫が毎日少しずつ破いて店から帰宅するたびに広がっていっています。孫の背が届くところは、ほとんど桟だけの所が多くなり上半分はまだ破られていません。知恵がついてきて、子供用の椅子を持ち出して破られたら貼替え時ですかね?最近店に来られた70歳くらいのお客様の話に、ちょっと?というような話題がありました。「先日郵便局に振込みに行った時に・・・」と話を進められたのですが・・・俺が郵便局に行った時混んでて少し待ってたんだけど、なかなか呼ばれんのよ。自宅近くの小さな郵便局だけど、窓口が保険、郵便、貯金・・・など三つあるんだよ。俺は貯金や支払いの窓口に振り込み表を出したわけよ。他に5,6人のお客さんが後ろの席で待ってあったんだ。其のお客さんが全て貯金の窓口のお客さんばかりでサ・・暫く待つとったわけよ。ところが30分経っても誰も呼び出しがなかったわけ・・貯金の担当の局員さんはPCで目が疲れているのか、何回も目をこすったり、裏に引っ込んで(目薬差しよっとやろうか)窓口が全く進まんわけよ。隣に座っている、保険と郵便の窓口の局員は(何してると?)とばかりに貯金担当の局員を無言で非難の眼差しで見てるわけよ。俺は30分経っても1人として窓口に呼ばれないから、腹に据えかねて、つい席を立って「ちょっと、あんた達(保険と郵便担当の人)こんなにお客さんが待っとるのに何で手伝わないの??俺は年を取ってるから尚更ずっとここ(自宅近くの)にお世話になるとよ。だから敢えて苦情を言ってるわけよ」と言い出したら、後の席に座っているお客さんも立ち上がってきて「そうだ。そうだ(良く言ってくれた)」と溜飲を下げたそうです。それからやっと事務処理が進み振り込んできたとのこと。「民営化されても局員の体質は変わってないよ。相変わらず親方日の丸・・・民間の銀行だったらすっ飛んできて『なんでございましょうか?』とお伺いをたてるよ。郵便局が民間だったら、とっくの昔に潰れとるわい」と話されていました。其の郵便局は街から少し離れた所にあって4,5人の局員がいる小さな所だそうです。でも年寄りにとっては近くに銀行も無いからとても重宝しているとのこと。(ここでは、うちだけしか金融機関がないから・・・)と怠慢になっているのでしょう。競争相手もいない。少し前までは郵便局員も公務員だったから、其の気質が抜けないのでしょうね。人間として当たり前のことがどうしてわからないのでしょう。商売だったらお客様に来てもらわないと生活できないのです。お客様から生活費を貰っている感覚で商売しているのですが公務員などはどこから生活費を貰っているのかといえば税金・・・目に見えてこない。もっと局員の教育の必要があるようです。私も自分の商売のことを省みる良い話を聞きました。何でも話・・・というのは勉強になります。ちょっとした出来事ですが大切なことは何か・・・を教えてもらいました。日々の暮らしの中で(こんな事があったよ。面白い事があったよ)とお客様の話で人生勉強をしています。 では また・・・
2008年05月16日
コメント(0)
連休も終盤になりました。皆さん、どこか行かれましたか?ガソリンが高くって遠出できないですね。私は免許ももっていないので誰かに乗せてもらうときしか、遠くへは行きませんが・・結局どこへも行かず、子供たち家族が集まって孫と遊び、食べる、喋る、・・・が連休の過ごし方になりました。ところでここ半年ほどかかって家の不用品の整理をしています。私はハッキリ言って片付けられない症候群です。いつも「勿体ない。これは何かに使えないかなぁ?」と思って仕舞い込む。洋服など(年を取ったら作業着にして庭の草むしり時に着よう)とTシャツ等を取っておく。流行遅れの服も何かにリフォームできないかな?と仕舞い込む。シーツなども(子供たちが泊まりに来た時必要だから)と仕舞う。ちなみに、このシーツが意外なところで役に立ちました。今我が家はtomo一家と(暫くの間)住んでいるのですが一歳半の孫(男の子)がとてもマメでジッとしていない。なんと障子に指を突っ込んで穴を開け、それが何ヶ所もあり、しまいにはピリッと破り、目も当てられないほどの大きさに日々拡大しています。「ア~ァすごいっ。貼り直すしかないかね?でも又破られるかもね」と嫁さんと話していましたが、そのままにしておけなくてシーツを障子にカーテン代わりに吊るしています。(外から見たらおかしいけれど、なんと良いアイデァ・・・シーツを取っておいて良かった)と思いました。障子の桟だけになったら、貼りなおすしかないけれど・・・子供たちが学校時代に使っていたノートも半端のものは使ったところだけ破って捨てて孫の落書き用に取っておく。鉛筆も同様・・・世界で充分な教育も受けられない子供たちが沢山いるというのに、とても捨てられない。鉛筆なども何とか送る方法がないのか・・・とさえ思う。以前要らなくなった服を海外の人たちに送る為ダンボール一個分の送料二千円を添えてお願いしたこともある。こんなふうで物を捨てられないので悩んでしまう。私が育った頃は戦後の物があまりない時代だったから鉛筆一本だって小さくなるまで使っていた。ノートもビッシリ書いて一冊を長く持たせた。洋服だって滅多に買ってもらえなかった。それでも全く嫌だと思ったことはなかった。(年に数回、服を一着買ってもらうと飛び上がるほど嬉しかったものだ)周りも似たり寄ったり・・物を大切に使っていたから・・いつの間にか「消費様は王様」という言葉が流行りだし、その頃から物を大切にしなくなったようだ。ちょっと使うとすぐ捨ててしまう。靴下だって穴が少しでも開いたら捨ててしまう。靴下の穴が開くと母が他の布を当てて繕ってくれ、又穿いていた。足の裏がちょっとデコボコになるけれど、それくらいは当たり前だった。私の子供たちが学校に行っていた頃(次女の頃だから20年位前)新学期に雑巾を用意するように言われ、私はお風呂で使っていたタオルを洗って縫って持たせていた。すると「お母さん、友達は新しいタオルの雑巾だったよ」と言うので驚いたことがある。なんと店で買った雑巾を持ってきていたらしい。雑巾を店に売っていたのもビックリだが、母親が雑巾を縫わないことにも唖然とした。少しずつ少しずつ贅沢に慣らされて勿体ない・・・と思わなくなったこの現状はどう考えてもおかしい。きっと天罰が下るかもしれない・・・とずっと思っていたら案の定、食料品は殆ど輸入品になってしまった。輸入が入らないと即食料が無くなる。不安である。私が小学生だった50年前は夕食のおかずは1~2品。魚の煮付けと一緒に炊いた白菜などの煮物・・それくらいと漬物。それで充分だった。だから正月などは沢山のおかずでワクワク・・・とても嬉しかった。今では毎日が正月のようなご馳走だ・・・3~4品のおかずが当たり前になっている。毎日が沢山のおかずで脂肪が増え生活習慣病が増えている。これっておかしい。おかずが残れば捨ててしまう。其のおかずも殆どが輸入品・・・農薬を沢山使った輸入品・・・この世の中おかしくないか??電気製品だって流行遅れ・・・とばかりに使えるものを買い換えてしまう。テレビも洗濯機も冷蔵庫も掃除機も・・・ちなみに我が家の洗濯機は10年過ぎて壊れ、最近買い換えたけど店の冷蔵庫に至っては23年使っている。テレビも勿論ブラウン管の昔のテレビのまま・・・13年以上前のテレビである。買い換えないのは使えるから・・・壊れていないから・・・最後まで使ってこそ物に感謝の気持ちが持てると思う。物には命があると思う。壊れるまで使うのが資源のない日本のやり方ではないのか??電気製品は壊れるまで使うとしても、物が溢れて部屋が狭くなるのはちよっと・・・なので整理している。亡き主人の思い出の品はなかなか捨てられないけど10年過ぎたので少し処分した。一年使わないものは捨てた方が良い・・・と言うけれど(これは使う?捨てる?)と日々格闘の毎日である。 孫達が大人になったとき資源の無い日本はどうなっているだろう。せめて私だけでも物を大切に使っていきたいと思います。 では また・・
2008年05月05日
コメント(4)
暫くご無沙汰していました。昨日は四月と思えないほどの暑さで上天気だったのに今日はうって変わっての雨の一日でした。上着を脱いだり着たり・・の季節です。お客様で来られた方から聞いたのですが、県内西部で人工内耳をされた五才の子供さんの親が「人工内耳をして良かった。補聴器の頃と違ってとても性格が(明るく)変わって発音が明瞭になってきた」と言われていたそうです。「五歳で人工内耳の手術をされましたが、言語習得の前の二歳くらいで手術した方が良いみたいですね。五歳では言語をおぼえるのに遅いくらいですよ」とのこと。五歳で遅いなら五十歳を過ぎて人工内耳の手術をした私はどうなんだろう・・・私は人工内耳をして、とてもよかったと思っています。何歳でも遅い・・・ということはないようです。私も「発音が明瞭になった」と言われるので人間の身体って凄い可能性があるのだなぁと思います。発音が明瞭になったのは聞こえるようになったことに加え気持ちにゆとりが出てきたこと、それで自信もつき声がはっきりとなったように思います。最近孫が産まれ、別にtomoの子供とも身近にいるようになりました。以前は幼児の声が聞き取り難く、孫から話し掛けられてもはっきり聞き取れないので返事もあやふやになったりしていましたが人工内耳装用後の今はよく聞き取れます。孫も「ばぁば、遊ぼう、、風呂もばぁばと入る」と懐きます。もし人工内耳を装用していなかったら孫の話に答えられません。大人の声は判りやすいので補聴器と読唇で何とかなっていましたが小さい子供の声は(私の場合)補聴器で判り難くかったのです。自分が子育てしている時は、子供の目や口をシッカリ見て読唇が殆どでしたが(それはそれでよかったのです。真剣に顔を見て話すので心の動きまで読み取っていたからです)今は、かなりのゆとりを持って話ができます。このように孫と会話ができることは、なんと幸せなことか・・・もし健聴者だったら、孫と話すことも当たり前なんだろうけれど人工内耳のお陰で「こんなに聞える・・・」と会話ができる小さな幸せをしみじみ感じています。二ヶ月ほど前に人工内耳のリハビリで聴力検査をしましたら25デシベルまで聞えました。もし健聴だったら絶対感じ取る事ができない達成感、なんと有難いことか・・・不便な事は入浴や就寝時に外さなければならないこと。(スピーチプロセッサー”体外装置”は磁石で内部と繋がるので激しい運動時や入浴、就寝時は外さなければならない)1人でいるときは聞えなくても不便さを感じないけれど孫と入浴中にはお喋りができない。何とか読唇で話の内容をつかみたいけれど残念ながら読唇力が落ちている。就寝中に何かあっても聞えない。これにも困るけれど補聴器でも就寝時や入浴時は外すので不便さは同じでしょうね。人工内耳の手術を受けて二年八ヶ月になります。1人でいる時には人工内耳のスイッチを切るときもあるので今でも音のない時間帯があります。スイッチを入れたとき(聞えるって有難い)といつも感じます。人工内耳はもう私の体の一部なので、ないと非常に困ります。残念な事は佐賀に人工内耳手術が出来る病院がまだ無いので人工内耳のことを知らない難聴者が沢山いること・・・其の方達にもっと情報を伝えなければならないと思っています。まだまだ私がしなければならないことは沢山あるようです。人工内耳、要約筆記、、、と周知に力を入れていきたい。 では また・・
2008年04月23日
コメント(2)
四月に入ったけれど肌寒い日が続いています。でも桜は満開で一年中でも希望に溢れる時期ですね。店に来られる難聴のお客様と、聞えない事の不便さを話しました。其の方Aさんは70歳前後で7年前から徐々に聞こえ難くなったそうです。Aさんは商売を手広くやられて、それはそれはやり手の(以前は)眼光鋭い方でした。私の店は以前は普通の喫茶店で亡き主人がいた頃の常連さんだったので前から存じていました。だから健聴者だとばかり思っていました。(其の頃は健聴者だったのです)私が店を”難聴者が経営する喫茶店”としてリニュアールして暫く経った頃店に来られて「私も耳が聞こえ難くなったんです」と言われたときはとても驚きました。眼光鋭い以前の面影は薄れて優しい目つきの人になっておられました。「まぁ驚きました」と言いましたら、次から次へとこの7年間の事を堰がきったように話されました。最初のころは他の人が小さな声で喋っていると、勘違いして「もっと大きい声で話さんと、わからんじゃないか」と言っていたそうです。すぐ耳鼻科にも行ったが「神経性の難聴で治らない」と言われとてもショックだったそうで、誰にも会いたくない、家から出たくない、鬱の一歩手前までいった・・・と。何よりも客商売をやっていたので会話がスムーズにいかないことに腹立たしさを覚えたがどうする事もできない。人から話し掛けられると聞こえ難いので不安・・・補聴器を使ったが喧しくて頭が痛くなる。耳鳴りはする・・・役所などに行った時「聞えないから宜しく・・」と言うと、最初のうちは大きい声で話してくれていても発音は当たり前なので、相手が聞えないことをつい忘れがちになって、自然と声が低くなる・・・・そしたら話が聞き取れない・・・もう疲れて、疲れて・・・「聞えない事がこんなに大変な障害だとは考えたこともなかった。経験してみないとこの大変さはわからないですね」としみじみ言われました。特に店の経営者なので聞き間違いしてトンチンカンなことを言っても従業員が注意しにくい。この頃に「団塊の世代」という言葉が流行りAさんはずっと”だんきのせだい”と言っていたそうです。年下の者は注意しにくいのでしょう。何年間も「だんきの世代」と話していた数年後ある目上の方が「それは”だんかいのせだい”と言うんですよ」と教えてくれて「はぁ?”だんかい”なんですか?」と初めて知ったそうです。「何年間も恥を掻き続けていた・・」と笑って話してくれたけど本心は複雑だったでしょうね。「俺が若かったら注意してくれたんだろうけど、年下の者は言い難かったんだろうね。この耳が聞えたら”商売も誰にも負けんぞ~”と何度思ったかしれない。聞えないって本当に大変な事だ」と心の内を話されました。聞えないとテレビの聞き取りも難しいのでニュースを見てテロップが流れてもルビが無いから自己流で読んでしまう・・・これを声に出さないと誰にも笑われる事はないが、自己流で読んだまま話すと???と 相手の顔が怪訝そうになる。こりゃ~耐えられない・・・・私も今まで読み違いは数え切れないほどあったけれど小さい頃から聞えないから慣れてしまう・・・でも人生を一通り健聴者で過ごしてきた人にとっては受け入れ難い事でしょう。治らないなら難聴を受け入れないとしようがない・・「5年以上かかりました」とAさん。今でこそ笑い話だけど・・・と淡々と話しておられました。テレビのニュースでも流行の言葉にはルビを入れて欲しいですね。このテレビなのですがAさんは漫才や落語が大好きだったが、其の楽しみもなくなってしまったとのこと。奥さんがあまりのしょげように心配して落語のテープを買ってきてくれたりしたが、其のテープも聞き取り難い。漫才などの本も買ってみたが「漫才は耳から入ってこそ面白いんだ。間の取り方一つで笑えるからね。本当に聞えない事で自分の生活そのもの(ラジオを聞く楽しみなど)がなくなってしまった」と言われました。私などは幼少の頃から聞えないのでラジオの楽しみも知らないし、間の取り方・・・と言われてもピンとこなかったけれど人工内耳の現在はわかりますね。こんなわけで一通り人生を過ごしてから難聴になった方は別の意味での辛さがあるのだなぁと認識させられました。いずれにしろ難聴である事を受け入れないといつまでたっても苦しいものです。店にもいろんなタイプの難聴の方が来られますが1人として同じような難聴者はいません。それぞれに悩み苦しんで受け入れてまた歩き出すのです。なくしたもの(難聴)を悩んでもしようがない。前に進むしかありません。でも1人じゃないんだよ。仲間はいるよ。他の楽しみを見つけて生きましょう。 では また・・
2008年04月02日
コメント(0)
三月も中旬を過ぎました。春の嵐・・・と言うほど強い風も吹き、中国からは黄砂もやってきて洗濯物も汚れ大変でした。花粉症の方も辛い季節ですね。今日22日に第6回目の若い難聴者の会をしました。顔ぶれは殆ど変わりませんが若い男性・・・軽い難聴の方が初めて来られました。以前は昼過ぎから集まってコーヒーだけでの集まりだったのですが回を重ねるごとに親しみが増して昼食まで共にすることになりました。どうせならおいしいものをということで仲間の1人であるKさんの職場の弁当を頼むことになりました。始まるまでのわずかな時間でも「シュークリームを買ってきましょうか?」「肉マン食べますか?」等と食べ物の話ばかり・・・食いしん坊の一団です。そして福岡からのtotoさんが一番乗り・・・なんと彼はバイクで来るのです。とても大きなバイク・・・なんと言うバイクかな??町の中で見かけるバイクではなくツーリング用のかっこいいバイクです。黒光りするヘルメットに身体にビッタリの皮ジャンを着て風を受けて走ってくるのです。「久しぶり~1ヶ月半ぶりかな?」と話が次から次へ・・・と飛び出します。話しているうちに「こんにちは~久しぶり~」と一人、二人・・・と計八人集まりました。男性3人女性5人・・・席に着かない内からお喋りが始まっています。聞こえ難くても、何回聞き返しても全く気遣うことがない素晴らしさ・・・気を遣わないでいいことが心地よさに繋がってリラックスできます。福岡から来ている男性Oさんは、滅多に遠出しない人だそうですが、其の彼が遠距離にもかかわらず来る・・・ということは余程居心地がいいのでしょうね。「3時に帰らないといけないんです」と言いながら楽しそうに話し込んでいます。何の話が多いか??というと補聴器の話です。前回他の人の補聴器をちょっと借りて聞いてみたら「自分の補聴器よりも聞こえるから、このRメーカーに変えようかな?」と話していたMさん。早速耳鼻科の先生(私も人工内耳でお世話になった医師)に「michiさんの店で他の人の補聴器を借りて聞いてみたらRメーカーの補聴器がいいみたいです」と聞いたそうな・・・・それでちゃんと補聴器をつけて検査をしてもらったら「アナログは音が大きく入っているように聞えるが、それは以前の音(アナログの音)を脳が記憶しているからであって、言葉の判別は検査してみないとわからない」といわれ検査してみたら言葉の判別は現在の自分の補聴器が良かったそうです。つまり他人の補聴器をつける・・・ということは他人の眼鏡を借りていることと同じで本人に合わない。補聴器もちゃんと検査して自分に合った補聴器をつけるべき・・とのことです。必要以上の音が入って大きく聞えているようだけれども実際は言葉が聞き取り難い事があるようです。音だけ入っても何にもならない。要は言葉が聞き取れるか??ということだと思います。私も以前は補聴器で大きな音が入ると安心感があったのですが本当は言葉が聞き取れていなかったのです。しかも「michiさんは高度難聴で使える補聴器は一個くらいしかない」と言われてました。つまり音は入っているが言葉は聞き取れていなかったので、いつも読唇で会話していました。このように言葉が聞き取れない補聴器を使っていた私は最後の手段・・といえる人工内耳を装用したのです。(ちなみに1ヶ月近く前にリハビリした時25dbまで聞えました)皆さんが大きな音が入ると聞えているように思う(安心感)気持ちはすごくわかりますが容量以上の音が入っても却って言葉は聞き取り難いものです。話は耳鼻科で診察を受けた内容や電話の時はTコイルに切り替えた方がいい・・・とか、殆ど耳に関することばかり・・・時には「車の税金も障害手帳3級までだと免除になるよ」「バスや電車(距離に応じて)も半額だよ」「補聴器購入も補助が出るらしい」「FAX購入も補助対象だよ」「携帯電話の基本料金も半額になるよ」等情報も飛び交います。其の中で「もう6回目だから回の名称を決めようよ」ということになりました。「佐賀は”がばい”が有名だから”がばいしゃべろう会”はどう?」「佐賀の人ばかりじゃないから”がばい”はつけないほうがいいんじゃない?」(8人のうち福岡から3人来られています)いろんな意見が出ましたが私は常連さんが来られたのでカウンターへ行きました。また皆さんのところへ戻ってきて「名称は決まった?」と聞いたら「”こうひいらびっと”にしようか?」と仲間で話していました。こうひい・・・は勿論私の店の名前”こうひいの木”から取りました。らびっと・・・はうさぎのことですが、ウサギは耳が長いので、耳・・・難聴・・・ということです。はっきりと難聴という言葉を出さないで”こうひいらびっと”で決定しました。この会の一番いいところは、嫌な人が一人もいない・・・ということ。「皆さんいい人ばかり、気を遣わなくて本音で話せる方ばかり・・・このメンバーはいいよね」と自画自賛です。だから大切にしたい・・・「僕が1人になるまで続けていって欲しい」とtotoさん。「やだーーっ、自分が一番最後まで長生きすると思ってる~」と他の人が爆笑でした。とにかく笑い声が凄い!!「アッハッハ」の連続です。「こんなに気兼ねなく本音を言えるところってなかなかないよね」と楽しさ倍増です。会の始まりは(県難聴会主催の)講演会を聴きに来られた方・・・地元の新聞で私の記事を見られた方・・・このブログを見てこられた方・・・其の方が連れてきた人・・・こんなきっかけで始まった”こうひいらびっと”素晴らしい仲間に出会えてよかった!!私の大切な心の財産がまた増えました。感謝・・・・です。大切に末永く続けていきたいと思っています。必ず月に一度は開催しましょう・・・と次回を約束、楽しみに帰られました。 では また・・・
2008年03月22日
コメント(2)
春真っ盛りで近所の梅の花が満開です。吹く風も温かく心が浮き立つようです。一年中で一番いい季節になりました。最近知り合いから伺ったのですが・・・郊外に大型店が出来るため立ち退きにあわれた方がいます。その方の土地が農家をされていて広大だった為、立退き料が莫大だったそうです。働かなくても一生食べていけるらしい・・・金額は知りませんが・・・その方の長男は40代で独身なのですが、立退き料が入った後(地元では名の知れた)会社を退職されて現在何もしていないそうです。それを聞いたとき私は「まぁ、仕事がない人生ってつまらないだろうね」とつい口にしましたが、70代の女性は「私は仕事するよりもお金をもらったほうがいい」と言ってましたっけ・・人生の価値観って人それぞれなのですが、本当の幸せって何なのだろう・・と考えさせられたことでした。多分その長男は朝起きてもすることが無くただ一日を過ごしている・・と思うのですが、それで楽しいのか?と・・・考えさせられます。お金で欲しい物を買い、何でも揃ってしまったら(次から次へと物が増えていく過程は楽しいかもしれないが)その後は虚しいだけだと思うのですが??もし私だったら?日々生活できるお金は欲しいけれど(プラス病気した時に困らないくらいは必要だと思う)それ以上は望みません。私が欲しいのは仕事と、人と関わること・・・つまり友人です。現在自分の理想どおり・・・にお金はないけれど小さな店を持っている・・・その店から少しずつ人脈が広がり難聴者の活動に繋がっている。決して多くはないお客様だけど心が温かい人との繋がりが私の財産になっている。難聴者のための喫茶店にリニュアールしてからもうすぐ4年になります。店がある場所は市内の空洞化の最も厳しい所です。歩いている人も少ない。通りも以前の10分の一です。先日知り合いの方から「michiさん、ここは人通りが全くないね。この店、潰れないだろうね?」と心配頂きました。近所を少し歩けばシャッター通り・・・と言われるほど「テナント募集」の張り紙があちこちありますから心配いただくのも無理のない話です。「大丈夫ですよ。自分の家だから家賃は要らないし、電気代などの経費は出ますから・・」と答えました。現在、儲けも無いけれど私の気持ちは満たされています。来てくださるお客様と心の結びつきが持てるからです。お客様・・・・というより友人に近い方が何人もいらっしゃいます。何といっても私と同じ難聴者が「心の拠りどころ」と言ってくださる・・・それだけでも充分です。人は人と関わってこそ人間である・・・と思います。また別の方からこんな話も聞きました。「主人が定年で家にいて毎日テレビの番してるのよ。今まで働いてくれたからあまり言えないけれど、何とかならないかしらね」と。定年退職したら時間があるので好きな事をしよう・・と実行できる人はいいけれど何の目的もない日常では勿体ない。そんな方にはボランティアをお勧めしたいと思う。働かないと食べていけない人は第二の職場を探し、金銭的に余裕のある人はボランティアで人に頼りにされる生活がいいと思う。人と関わって嬉しいこと、悔しいこともあるかもしれない。でも何もしないよりはいいと思う。自分の人生は自分で決めるものだけどお金が人生を狂わせる事もあるのだなぁと思いました。ずっと先の将来のことはわからないけれど毎晩寝る前に「今日は充実した日を過ごさせてもらってありがとうございます」と言える人生を送りたいと思う。其の毎日の積み重ねが人生なのだから・・・・立退き料の話から色々考えさせられたことでした。済んでしまった日々は仕方ないけれどせめて自分の心に正直に生きたいと思います。皆さんの生き甲斐は何ですか?? では また・・・
2008年03月10日
コメント(0)
最近はとてもいい天気が続いています。春だなぁ・・・風も爽やかで足取りも軽くなるような・・・いい季節ですね。もう一度寒の戻りがあるかもしれないけれど、本当の春がもうそこまで来ています。二年前にカンボジアへ行きました。そのお誘いをしてくれたMさんは カンボジアフロム教育支援の理事長ですが、他にエコプラザの所長もされています。とてもハキハキした前向きな方で、活動で悩んでいたときもよく相談にのって貰いました。またお喋りも本音で心の底から話せます。(Mさんのいい所は誰に対しても誠実に向き合うところです)最近我が家をちょっと整理することになり、このことを話したら快くいろんなことを教えてもらいました。要らないものは捨てればゴミですが再利用できるものは物を生かす・・・ということ。例えば傘でも骨組みから外した布で簡単なバックを作る。要らない布で布ぞうりを作る・・・など新たに物を作り出す。毛糸もちゃんと生かしてアクリルたわしを作る・・・(作るのが面倒ならアクリル毛糸を片手にクルクル巻いて中心でボンボンみたいに止めればいいそうです)このアクリル毛糸のたわしは本当に汚れが落ちるのか半信半疑でした。試しにコーヒーカップを洗ってみたら茶色っぽい汚れがスッキリ落ちるのです。これにはビックリしました。茶渋も取れます。このとき注意する事は洗剤をつけないこと。洗剤をつけたら却って、汚れがスッキリと取れないようです。油汚れなどはボロ布であらかじめ汚れを落としてから(二倍に薄めた)洗剤で洗います。このときは私はスポンジを使うのですが、湯のみ茶碗などを洗うアクリルたわしとは別のを使ったほうがいいみたいです。洗剤を使わなくて重曹で洗うのも汚れがスッキリします。こんなにスッキリするなら・・・と思って風呂の浴槽でも試しに使ってみました。勿論洗剤は使わないでアクリルたわしだけです。(アクリルたわしに洗剤を使うと効果が薄れるようです)浴槽もよく落ちます。洗剤を使う量が台所も風呂場も以前の半分以下になりました。ということは汚水を流さずに済むのです。一般にゴミは市が収集してくれますがゴミ袋を買わなくてはならない。ゴミが少ないとゴミ袋も小さい物でいいのです。ゴミで多いのは台所のゴミと紙類です。この紙類は(私が住んでいる市の場合)名刺より大きい紙は全て資源物のゴミに出せるそうです。例えばマーガリンが入っていた箱、お菓子の外箱、ダイレクトメールなどは一般のごみ袋と別に(買い物した時に貰う)紙袋にそろえて出せばゴミ袋代も減らせるのです。この紙は再生されるそうです。(知らなかったぁ。今までポンポン捨てて悪かったなぁ)そういえば昔、祖母が何でも「勿体ない」と言って鉛筆の小さなもの、紙の一枚でも大事に取っていたっけ・・・裁縫の時の糸も「またしつけ糸に使える」と言ってしまっていたなぁ・・買い物も買い物篭を下げて豆腐を買うときはボールを持っていってたなぁ・・・あの頃にそのまま戻るのは無理としても、少しでも近づかないといけないなぁ・・・このように色々とエコに目覚めている最近です。他に何か省エネできないかな・・・と思っていたら電球がありました。玄関や階段、風呂場は電球を使っていましたが”蛍光型電球”に変えました。階段など80ワットの電球だったのを40ワットの蛍光型電球にしました。普通電球は100円ちょっとですが蛍光型電球は250円です。でも電気代は五分の一で寿命は六倍・・・こっちが得です。電気代が五分の一なら月々の使用料も少しは下がるでしょう。日本は資源が無いから各自が心掛けないと将来不安です。Mさんから話を伺ったお陰で身の回りの節約に気付くようになったことは収穫です。ケチケチではなく楽しみながら節約できればいいなと思っています。最近、また孫が産まれ四人になりました。この孫たちが将来も住みやすい地球でありますよう・・・少しでも現状維持の地球を残したいものです。皆さんひとり一人の心掛けで良い環境を残していきましょう。 では また・・
2008年03月01日
コメント(0)
佐賀ではひな祭りのイベントが開かれています。先日一番寒い時に道路沿いのテントで弁当販売のお手伝いをしました。テントの周りはビニールで囲ってあるだけで暖房器具は全くありません。う~ぅ寒っ・・・寒い事この上なし。足踏みしながら立っているのはちょっと辛かった。勿論あまりの寒さにお客様も殆ど通っていません・・・が、その代わり初めて組んだ方とお喋りに花が咲きました。話しているうちに共通の知人がいて親しみを感じました。私は何か誘いがあれば(差し支えない限り)断らないで出かける方です。そうして、いろんな方と知り合えて輪が広がっていくのです。以前、補聴器をしていたときは読唇で会話していたので相手の顔・・・よりも口元ばかり見ていました。必死で読み取っていた・・・というのが本当です。でも人工内耳になった最近は相手の顔全体・・・・目を見て話すことが増えました。ということは読唇しなくても会話ができるようになっているのです。それと共に読唇力は格段に落ちています。口を読み取る事が私の特技?だったのに今ではなかなか読み取れません。果たしてこれでいいのか・・・(夜、車の中でも隣の人となら会話ができる。しかしマイクは難しいけれど)でも人間の身体の機能って不思議ですよね。善くも悪くも使わないとドンドン衰えてしまう相手の顔と向かい合って話すこと自体は変わっていませんが以前より会話にゆとりができたのか、相手の顔は、即ち自分の顔だなぁと思うことがあります。こちらが笑顔で接すれば相手の顔も知らず知らずのうちに笑顔になります。ちょっと悩み事があって、こちらが落ち込んだ顔をすれば相手も怪訝そうな顔になる。(あ~ぁ今私はあまり良い顔をしてないんだな)と気付かされることがあります。無言の会話が顔に表れてくる。相手の顔は自分を映す鏡かもしれません。私は以前から思ったことをすぐ口に出して(言い過ぎた・・・後悔)と思うと顔にすぐ表れてくることがありました。自分の顔は自分で気付かないので、ブスッとした顔になっていても自分の気持ちだけで精一杯で、相手がこの私の顔を見て、どう思うのか、、、ということまで考えが及びませんでした。とにかく聞えないので相手の口を読むだけで頭の中はいっぱいできっと暗い顔をしていたことと思います。私が暗い顔をしていて相手も怪訝そうな顔になっている時(まぁ、この人感じ悪いわ)と自分の暗い顔のことを棚に上げて相手を非難しがちになっていました。ある時とても感じのいい笑顔の人と出会ったとき私もつられてつい笑顔になりました。心も少し穏やかに優しくなれたのです。あっ、こういうことなんだ・・・こちらが笑顔で接すれば相手の顔も笑顔になり気持ちがホンワカ優しくなれる・・心にゆとりがあると自然に笑顔になる・・・ことを無言で教えてもらいました。それからは相手を非難する前に自分が笑顔を見せればいいのだ・・と気付きました。赤ん坊は邪心も無くその笑顔で周りもつられて笑顔になり、周りを幸せにしてくれる。成長するに従って周りとの付き合いでいろんなことがあり、心の動きがそのまま顔に表れてきたりします。でもできれば自分で笑顔を心がければ相手の顔もきっと笑顔になってくれるに違いない。人工内耳で聞えるようになって心にゆとりが出て周りのことを考えられるようになったことは収穫です。気持ちの変化・・・ですね。聞えて有難い・・・という感謝の気持ちも増えてきました。単に聞える事だけではなく、性格まで変わってくる・・・笑顔も増えてきたと思います。これからも相手の顔が笑顔になるように(つまり私が笑顔でいるように)生きていきたいと思います。読唇力は落ちたけれど得るものも多かった人工内耳です。できれば補聴器で効果のない方に人工内耳を広めたいものです。 では また・・
2008年02月22日
コメント(2)
とても寒いです。寒波到来。これでも東北地方に比べれは温かいでしょうね。先日第五回目の若い難聴の集いを行いました。回を重ねるごとに賑やかになってきて昼飯を用意しようということで包子と中華スープで始めました。食べて、喋って、手を動かして(筆談)笑顔満開。七名集まりました。店(二階)の外の歩道まで笑い声が聞こえているそうです。(毎回のように友人が差し入れを持ってきてくれます。顔馴染になりました)今日は要約筆記応用講座の閉講式でした。前回、講習の時のテープの声が5~6割聞き取れていたのに今日は殆ど聞き取れませんでした。声は入っているのに言葉が判りません。途端に不安になりました。何を話しているのだろう?どんな話?と気持ちが雲がかかったようになります。何で聞えないのか??理由は風邪を引いたからです。この冬は年齢がいったのか、三回も風邪を引きました。引いては治り、また引いて治り・・の繰り返しです。肉声は聞えていたのでマイクなどが聞き取りにくいことに気付きませんでした。隣に座っていた要約筆記の方に「何でか今日はマイクが聞えないの。風邪だからかな?」と言いましたら閉講式の間ノートテイクをしてくれました。なんと言う安心感だろう・・筆記を読み取りながら式の進行が手に取るようにわかります。県難聴会会長として挨拶に立った私は次のように話しました。「風邪を引いて人工内耳でも聞き取り難いです。聞えないということは辛く、私以外の沢山の難聴の方の為にも要約筆記の重要性、必要性が痛感されます。受講された方は現場で難聴者の耳代わりになって下さい」と話しました。受講生の感想として「とても難しいです」「聞き取って書くだけで精一杯で難聴者の方のことまで考える余裕がありませんでした」「人生最後まで挑戦・・と思って受講しましたが、ついていくだけで精一杯です」など話されました。(書いていただいてありがとうね)と筆記を読み取りながらここにいる存在感を思いました。要約筆記者Bさんに「風邪を引いたらマイクが聞き取り難いことがわかった」と話したら「私達普通の者でも風邪を引いたら聞こえ難くなるよ。飛行機に乗ったときなど気圧の関係で聞こえ難くなるから」と話していました。「人間の身体って生身だからね。良くも悪くも・・」とBさんとお喋りしていました。私が風邪を引いたのは何年ぶりだろう・・・こんなに長引いたのは人工内耳装用して初めてではないかな?肉声は聞き取れるがマイクが聞き取れなくなるのは新たな発見でした。以前補聴器の時は、声は入るが言葉が聞き取れなかったので殆ど読唇で生活していました。人工内耳を装用した今は読唇力が、かなり落ちています。以前の五割くらい落ちています。でも人工内耳がはるかに聞える今、補聴器時代に戻りたくありません。というか戻れません。人工内耳の左耳は聴神経に電極を繋いでいるし右耳は全く聞えないからです。だからマイクの時は要約筆記の方に助けてもらおう・・・と思いました。風邪が治れば聞き取りも戻るでしょう。それまであと少し・・風邪が治るのを待とう・・嬉しい事に受講生の中に30代の県庁マンがいました。地域福祉課のMさんは以前、パソコン要約筆記講座も受講されて県庁の中ではちょっとした要約筆記スペシャリストです。「こんな場合はノートテイク」「大きな場所ではスクリーン、オーバーヘッドプロジェクター」と仕事場で問われれば答えているそうです。県庁内でも要約筆記の必要性が理解されつつあるのかな?Mさんは、最近某福祉大会でもパソコン要約筆記で現場デビューをされています。行政の若いMさんが要約筆記に関心を持ってくれて有難い限りです。これからも難聴者のための理解と啓蒙のため要約筆記、人工内耳、補聴器、耳マーク・・と連携しながら進めていけたらいいなぁと思っています。 では また・・
2008年02月13日
コメント(0)
最近、天気がいまいち良くないなぁと思っていたら千葉の嫁さんから”雪が沢山積もっています。外で雪遊びしました”と孫の画像が送られてきました。うわ~っ、寒そう・・・でも上の五歳の孫はニコニコ、下の一歳3ヶ月の孫は生まれて初めての雪でビックリ顔です。佐賀はまだ雪が降っていません。暖冬なのかな?当たり前ですが人工内耳を外すと全くの聾・・・全ての音が消えてしまいます。娘が来ていたとき、簡単な会話は読唇でわかりますが少し込み入った話になると「お母さん、早く人工内耳をつけて・・・」と催促・・仕草で訴えます。「人工内耳をつけていないと話が通じない・・」と言います。人工内耳は顔を見なくても普通に話せるからです。もう私の日常生活で、人工内耳がない事は考えられません。私の体の一部になっています。あと片方の耳はスケールアウトで補聴器を付けても全く聞えません。人工内耳が壊れた時困るので、新発売フリーダムの代替を購入する予定です。今、人工内耳を外すとこんなに不便なのに小さい頃はいったいどうしていたんだろう・・・と思い返されました。小学校の入学式で父から手を引かれ学校の講堂の入り口で名札をつけてもらったことは覚えています。(今のように聞えはひどく無かったです)殆どの子供達にはお母さんが付いてきているのに何故か私は父親でした。今思えば私の難聴の原因が結核治療薬のストレプトマイシン・・・その4年前に長男(私の兄)を結核で亡くしている父にとって私が不憫でならなかったのでしょう。(兄も亡くなる寸前はストレプトマイシンで殆ど聞えなくなっていたそうです。私は兄から結核が移らないように予防のためにストレプトマイシンを投与されたのでした)入学する前に父に手を引かれ電器屋さんに行ったことを覚えています。大きなラジオ型の補聴器の購入の為でした。何がなにやらわからないまま、アレコレと耳にあてがわれ、言われるまま補聴器を買わされ、使い始めました。(何で自分だけこんなものをするのだろう・・・)今まで聞えない子の言葉の教室にも行った事が無いし、普通の友達と同じように保育園に通っていたので釈然としない気持ちだったのを覚えています。第一に自分が聞えないことを自覚していないし、周りの友達も同じ・・と思っているので補聴器そのものが不思議で、不思議でヘンな感じでした。耳に付ければ、やたらと声が響いて言葉もはっきり判りませんでした。でもしないよりはまし・・・だったのでしょうね。使っていました。考えれば今から50年前の補聴器です。きっと性能もよくなかったでしょうに。暫くしたら「せんせ~い、michiちゃんだけラジオつけてる~」と男の子がはやし立てます。担任の先生は50代近くのベテランの男のH先生でした。先生は男の子に何か言ってくれたのでしょうね。その時はそんなにいじめられる事はありませんでした。(先生が他の子供に注意してくれた言葉が全く記憶に無いのです。きっと聞えていなかったのでしょうね)私はH先生が大好きで休み時間になると先生の机の側にまとわりついていました。眼鏡の奥からとても優しい温かい眼差しで見てくれるのです。それは私にだけではなく他の子供達にも注がれていました。取り立てて仲の良い友達はいませんでしたが1人だけ私を気遣ってくれるA子ちゃんがいて、トイレの時もついてきてくれました。勉強は?といえば、まだ低学年なので教科書を見ていたら判っていたのでしょうか。補聴器をつけたから聞き取れるわけではなく、きっと自然に口を見る習慣になっていたと思います。口の動きが主で補聴器のガー―ッとした音がそれを補っているという感覚でした。おとなしい子供だったと思います。本当はお喋りなのに相手の話す言葉がよく理解できなくて答えられなかったのです。だから自然とあまり話さないおとなしい子供に見られたようです。そして中学年3、4年になると若い女のN先生でした。(後に息子tomoと親子二代でお世話になった先生です)若いけれど厳しい先生で黒板の方を見ていないとビシッと注意が飛ぶのです。この頃に補聴器を買い換えています。前の補聴器が壊れたのです。今度はシルバーと水色のオシャレなひと回り小さい補聴器でした。少し嬉しかったです。この頃の道徳の時間はラジオを聞いて感想を書く・・・時間が毎週のようにあり、とてもイヤでした。ラジオが聞き取れないので感想が書けないのです。勿論先生は私に何も言いませんし、咎めもありません。でも皆と同じことができないのが悔しくて、道徳の時間はなくなってしまえばいい・・・と思っていましたが、このことを当時誰にも言いませんでした。というより言う勇気もなかったのです。今のように先生に何かを言う・・・そんな時代ではなかったのです。ひたすら我慢、我慢です。先生に無視されることはなかったので我慢できたと思います。当時、児童の数も一クラス55人くらいで先生も大変で、ひとり一人の子供に構う余裕も無かったと思いますし、障害者に理解もないころだったので、仕方ありません。私はこのN先生も大好きで仲良しのN子ちやんと子供の足で一時間近くかかる遠い先生の家へ放課後、遊びに行ったりしていました。今思えば凄い冒険です。当時先生はお産されて暫くでしたので赤ちゃんをあやしたりしてました。それからもずっと先生とのお付き合いは続いています。ありがたいものです。この頃、男の子に「耳つんぼ」と言われて補聴器を隠されたり、ランドセル等隠されたりしましたが、N子チャンがいつも一緒に探してくれていました。だから辛かったけれど救われたのでしょうね。そして高学年、中年の女のK先生・・・この先生の声が太くて聞き取りやすく私はK先生も大好きでした。休み時間はわからない算数の問題をよく聞きに行っていました。K先生は休み時間も、いつも教室で答案に丸をつけたりしていましたので・・・この頃算数が好きになっていました。成績は中くらいでしたが、算数は公式さえ覚えれば答えは一つなので解答できたとき、とても嬉しくて、少しでも判らないと聞いていました。読書も大好きで本をよく読んでいました。雑誌も好き・・・当時”小学6年生”という雑誌に「文通しませんか?」というのが載っていて北海道の男の子の名前でしたが試しに出してみました。すると返事が来て「クラス全員で文通しましょう」ということになりK先生に話したら快くクラスの皆に話してくれて北海道の人たちと文通が始まりました。これが私が唯一自分で発言できた事柄です。かなり自信もつきました。でも私は文通相手に聞えない事は明かしませんでした。普通の子供に見られたい・・普通に扱って欲しい・・・という気持ちが強かったのでそれから四年ばかり文通は続きましたがとうとう最後まで難聴を明かすことはありませんでした。また仲の良いみゆきちゃんが学校帰りに私の発音の指導?をしてくれたことも大きな宝物です。きっと発音が悪い私をそのままにしておけなかったのでしょう。「michiちゃん、”け”がおかしいよ。言ってみて・・」と何度も私に言わせるのです。みゆきちゃんの真剣な気持ちが伝わってきましたので私も言われるまま何回も発音を繰り返していました。そのお陰で”け”が言えるようになりました。今思い返せば本当に(専門の先生ではなく)発音を友達に教えてもらった・・このこともすごいことだと思います。K先生は異動があって卒業後、他の学校へ行かれましたが社会人になってからも自宅へ遊びに行ったりしていました。残念なことにH先生もK先生も亡くなられています。N先生は今もお元気ですがtomoは私と行きたがりません。「お母さんばかり喋って僕の話す時間が無くなってしまう」というのでそれぞれ別に会った方がよさそうです。私にとって先生やたった一人の友達に恵まれた事は、とても幸せなことでした。だから普通校で、ついていけたのでしょう。社会人になっても、すんなり馴染んでいけたのでしょう。小さなトラブルはあったにせよ、周りの支えてくれる人たちが心の財産となって生きていけたのでしょうね。ありがたいものです。これからも意地を張ることなく支えてもらいながら進んでいきたいです。人間、1人で生きて行けない・・・・支えあってこそ生きていけるのです。 では・・
2008年02月03日
コメント(2)
毎日寒い日が続き、日本全国、寒波到来です。一年中で一番寒い時期、チャリンコの私は寒風に向かってペダルを漕いでいます。運動々々と言い聞かせながら・・・一通り、子育てを終え、人生の半分を生きてきて近頃は何故だか祖母や母のことが思い出されています。何でだろう・・・自分の生き様が祖母や母の生き方に重なっているように感じる事があるからです。私は女ばかり四人の中で育ち、結婚も姉妹の中で一番最初でした。だから親の面倒も後継ぎも妹達のうち誰かがやってくれるだろう・・と気楽に考えていました。ところが他の姉妹は全て長男の嫁として嫁ぎ、結果的に私が主人共々、実家に戻り後継ぎになったのです。(実家は父が長男の本家です。だから200年以上前からの仏様を祭っています)父は 私が高校三年の時に胃癌でアッという間に亡くなりました。胃癌が見つかって五ヵ月後に・・・激動の日々でした。祖母、母、私達姉妹を遺して・・当時これほど辛い事はない・・・というほど父が亡くなった事はショックでした。小さい時は祖母がよく私を”耳が治るように滝の神様””ご先祖さんに耳を治してもらうように墓参り”へ連れて行ってました。幼少の頃は漠然と「ストマイ注射の副作用」だと思っていたらしいのですが、当の祖母にとっては、聞えない私を不憫がって藁にもすがる気持ちでお参りに連れて行っていたのだと思います。漢方薬がいいと聞けば私の手を引いて漢方薬の店へ連れて行き、煎じたものを飲まされ、とにかくありとあらゆることを試してくれました。何で母じゃなかったのか不思議なのですが、当時は妹達が小さかったこともあり、明治生まれの祖母が絶対的な権力を握っていたので母は祖母の言う事に逆らえなかったのだと思います。私達には優しい祖母でしたが、母にとっては厳しいお姑さんでした。祖母はとても信心深い人でした。毎月、篠栗観音や川上不動産、粟島神社など数ヶ所、また墓参りも欠かすことがありませんでした。勿論、毎日朝夕、仏壇の前に座りお経も上げていましたし、神仏様の花の水替えも祖母がやっていました。私に向かって「ほんにのぅ、おとん(お前)の耳がきこゆっごとなっぎのぅ(聞こえるようになったら良いがね~)」といつも心配そうに、語りかけていました。今思えばお参りして聞えるようになるなんて本当に非科学的な事ですが、当時の私は祖母のその気持ちが充分伝わっていましたので素直に従ってお参りに行っていたのでした。祖母が仏壇の花の水替えや墓参りに行っていたとき、母は殆ど関わった事がありませんでした。祖母がやっているからいい・・・と思ったかもしれませんし、祖母の仕事だと思って手出ししなかったかもしれません。私が結婚する時、祖母も母もとても喜んでくれました。本心は私が結婚するだろう・・・と思っていなかったかもしれません。というより耳が聞えない私を貰ってくれる人がいないだろう・・と思っていたようです。結婚しtomoが生まれたことをそれはそれは、喜んでくれました。tomoが生後八ヶ月のとき祖母は脳溢血で一晩で亡くなりました。本当にあっけないほどの最期でした。私は死に目にも間に合いませんでした。母と嫁姑の葛藤があってお世辞にも上手くいっていたとは言えず、私達姉妹はいつも胸を痛めていました。でも結果的には介護の手を取らせる事もなく子孝行、嫁孝行だったと思います。祖母が亡くなり(その五年前には父も亡くなっていたので)今度は母が仏壇の花の水替えや墓参りに行くようになりました。祖母が存命中は殆ど行ったことがない母が・・祖母がいた頃は母が墓参りに行くなんて考えたこともありませんでした。勿論、私もそんなに墓参りに行っていたわけではありません。父が亡くなってから少し墓に足を運ぶようになっていましたが、それでもそこまで必然を感じていませんでした。母が墓参りしているからいいだろう・・・と。せいぜい盆、正月に墓参りに行くくらいでした。ところが十年前に主人が亡くなり母も主人の四十九日の翌日(正確には主人がなくなった五十日後)母も亡くなりました。当時が私の人生で一番辛い日々でした。ショックで片耳が全く聞えなくなりました。主人も母も三年間、入退院してたので看病している時は気が張っていて辛いと思ったことはありませんでしたが、亡くなって暫くは、昼間は店で気が紛れるものの夜になると涙ばかりでした。特に主人が亡くなったことは人生最大のショックで現実感がなく雲の上を歩いているようでした。父、祖母を送り、主人、母まで送って、今、私に怖いものは何一つありません。主人の両親は既に亡くなっていたので、もう私は送られる立場です。そして今まで墓参りも、あまり行ったことがなかったのに現在、月に二回墓参りに行っています。主人の命日が15日、母が2日なので丁度、花が枯れないくらいの時に行っていることになります。よほど用事がある時は行かない事もありますが、私の墓参りは義務で行っているのではなく、ただ(行かないと淋しがっているだろうな・・)その気持ちだけです。(いつも無事に過ごさせてもらってありがとうございます。見守っていてください)と胸の中でつぶやきます。不思議なもので母から「墓参りに行きなさいよ」と言われたこともなく、小さな頃から祖母が墓参りに行っていた事が無言の教えになっていたのかもしれません。漠然と、お経を上げていた祖母の姿が刷り込まれていたのかもしれません。今は私が仏壇を守っていかなければ、墓参りに行かなければ・・・という責任が心底に生まれたようです。きっと祖母や母もそうだったかもしれません。知らず知らずのうちに順送り・・・になっているのです。亡き父や亡き主人はお互いに会ったこともありませんが共通の事をよく言っていました。「他の宗教は何もしなくていい。ただご先祖さんだけは大事にしなさい。ご先祖さんがいたから自分達がいるのだから・・」と。同じ考えだったのです。こうして親から子へ、子から孫へと人生は順送り・・繋がっていくのですね。 では また・・・
2008年01月24日
コメント(2)
早くも一月の半ばとなりました。風邪のあとも体調がすぐれず、まだ本調子ではありません。若い頃に比べて体力が落ちているなぁと感じています。でも店は殆ど休まないで開けています。1人のお客様でも迷惑をかけたくありませんから。先日久しぶりに二人の友人と話し込みました。二人ともいろんな活動をされている方で以前から私の活動のことでいろいろとアドバイスを下さっている方たちです。私は主人が元気だった頃は店と家事、子育てのみで何の会にも属した事はありませんでした。それだけで時間が足りないほど忙しかったし主人がいるだけで充分でした。主人が亡くなってから、暫くしていろんな会に属するようになり数えてみたら今では7~8ヵ所あります。一番のメーンは会長をさせてもらっている難聴協会です。そのいろんな会の中で長いこと属しているにも関わらず、今でも難聴のことを引きずっている私がそこの会にいるのです。こうしてブログを書いている私は全て難聴のことを受け入れて平気に過ごしているように見えるかもしれません。でも、まだ難聴の悩みがもたげてくる場所があるのです。あえて、どことは言えませんが仮にA会としましょう・・・このA会で(何で聞えないのだろう)と時々悩んでいる私がいるのです。勿論どこでも私が聞えないことを話していますし、その他の会では有難いほど配慮して頂いているので卑屈にならないですんでいるのですが・・そのA会ではたまに、どこかに行くことがあります。その車の中で聞えない辛さを味わうのです。私が聞えない事は話しているのですが、つい私だけ会話から外れたりする。車の後席だと前の人の話が聞き取り難い。それが何回かありました。それで友人にこのことを話しました。まるで愚痴を聞いてもらうように・・・すると友人のMさんが「そんなに悩むんだったら何でその会を辞めないの?」「だって、それ以外はそんなに不満はないから・・」と私は答えました。「じゃ、聞えないからこっち見て話して・・・と言った?」ともう1人のKさん。「言ったよ」「何回も言ったの?理解してもらおう・・・としたの?」とMさん。「言ったけれど何年たっても同じ・・・やっぱり聞えないと(会話から)外れるよ」と答えたら「プライベートでその会の人と遊びたいと思う?」「イヤ思わない」と私。「michiさんは聞えないせいにしているけれど違うよ。気が合わないんだと思う」とMさん。「michiさんは自分の耳のことを理解してくれる人はいい人・・・で、その他は良くない人・・と思っているみたい。それ違うよ。私だって気があわない人いるよ。いろんな人がいて当たり前じゃない?」とKさん。私の痛いところを突かれた。そう・・・耳のことを理解してくれる人はいい人に見える・・・でもそうじゃない。根本は気が合うか・・・合わないか・・・なのだ。この二人と話していると時間が経つのが早くて、楽しくて真夜中まで話したこともある。私が聞きとれないと二人ともちゃんとわかるように言い直してくれる。とても有難い友人だ・・・だから遠慮なしにズバッと本音を突いてくる。私だって他の難聴の方が悩んでいると「理解してくれない人は別世界に住んでいると思って切り替えた方がいいよ」と言ってるくせに、自分のことになるとこのザマだ。そしてMさんがこう言った。「中途半端だと愚痴がてる。いいかげんだといいわけがでる。一生懸命だと知恵がでる」多分、相田みつをさんの詩かな?二人は「愚痴るくらいなら愚痴らなくて済むように(改善せよ)考え方を変えよう」と言った。「michiさんがA会のとき車の中だけが不満なら”私を乗せて行ってくれている”と思いなさいよ。それができないなら(愚痴るなら)辞めたがいいよ」とMさんが言った。私を理解しよう・・・という気持ちで話してくれているのがグングン伝わる。私はまだまだ修行不足だ・・・と痛感した。心の底から話せる友人がいる有難さ・・・感謝です。二人の凄いところは、誰にでも真剣に向き合ってくれるところです。これがダメなら、この方法は?それでもダメならこうしたら?と次から次へとアイデアを出してくれる。見習わないといけないなぁ・・・二人とも忙しくて、そんなに会えないけれど、会ったときは話が弾んで時間が経つのも忘れるくらい楽しい。話した後、心の中はホンワカと温かい風が吹いている。日々の暮らしでいろんなことがあるけれど悩みを聞いてくれる人がいる・・・それだけで勇気が出る。もし難聴の活動をしていなかったら知り合えてなかった人たちだ。人との巡り合わせ・・不思議だけど人と出会う・・・って心の財産だなぁ・・・こんな財産はもっともっと欲張ってもいいかな・・・・明日からまた頑張ろう!!
2008年01月14日
コメント(8)
明けましておめでとうございます。皆さん、良いお年を迎えられましたか?私も年末からずっと忙しくしていました。娘と孫が年末、泊まりに来ていて一歳五ヶ月になる孫が、マメで少しもジッとしていなくて嬉しい悲鳴・・・というか後を追うだけで・・・体力も要りますね。正月も新婚の娘夫婦も加わって賑やかに過ごせました。店は4日から開けたのですが、多くはないけれど、開けたすぐからボチボチ若い難聴のメンバーや常連さんなど来て下さって立ちっ放し、喋りっ放しで少々疲れました。でも難聴のメンバーの方と常連さんは、同じカウンターに座って、(常連さんも難聴に理解のある方ばかりなので)私がさりげなく紹介すると、すぐ打ち解けて話が弾むのは嬉しいことです。常連さんも心得たもので「どっちが聞きやすいですか?」と聞いてくれて聞きやすいほうに椅子を詰めてくれたり、聞き取れない時は書いてくれたり・・・それが自然にできる方ばかりなのです。有難いなァと常連さんにも感謝しています。難聴の相談では新年早々、家族の方が「人工内耳関連は、どこに行けばいいですか?」と来られました。残念なことに佐賀では人工内耳の手術ができる病院がないのです。「高齢の主人なんですが、補聴器をつけても、なかなか聞き取れないし、話さなくなってしまって呆けないかとそっちの方が心配でたまらない」と奥様が言われてました。「人工内耳の手術は検査が必要だし、もし手術されたらリハビリに通わないといけないので距離的には福岡が近くていいかもしれませんよ。でも私は長崎で手術しましたし、九州では宮崎に続いて長崎が手術例が多いので、長崎もいいですよ。どちらかご希望の所にいかれたらどうですか?」と答えました。人工内耳の手術をする前の私を知っている人は、皆さん一様に驚かれます。「以前に比べたら、すごく聞えているね~表情も明るくなったね」と。でも、誰もが手術をすればすぐ聞えるようになるわけではなく、個人差があるので、その点を納得されて手術に臨まれたほうがいいようです。私は手術成功率がとてもいいほうだから・・・でも、こんな私でも人工内耳を外せば全くの聾なのです。その事を理解してもらわないと、人工内耳で健聴者に戻ると誤解される方もいるのです。耳に関して話す・・・となると自分が知っていることは何でも伝えたい、私で役に立つなら何でも聞いてください・・・という気持ちなので話の時間が長くなってしまいます。本当に1人でも心が軽くなって欲しいです。それに、この頃は難聴の方ばかりではなく、躁鬱で悩んでいる方も来られています。私は躁鬱のことは、あまり判らないのでアドバイスはできないのですが、とにかく一言も聞き漏らさないように話を聞くだけです。話を真剣に聞いてもらいたいのだと思います。寂しいのだと・・障害は違うけれど悩んでいる苦しさは同じなので「自分を受け入れた方がいいよ。どんなに悩んでもすぐ治らないなら、気持ちを切り替えたほうがいいよ。健康な人だって、気が合う人、合わない人がいるから、全ての人に理解してもらおう・・なんて無理。理解してくれないなら別世界に住んでいる人だと思って気持ちを楽にしたほうがいいよ」と言います。すると今までの辛かった事を次から次へと話されるのでジッと聞いています。「貴方がここで話そう・・・と思ったことは自分で動き出した証拠だから、動けば変わるよ。焦らないで・・・話したいときはいつでもきていいよ」と言っています。難聴者のために・・と思って店をしているけれど、来るもの拒まず、去るもの追わず・・・の気持ちなのでいろんな方が来られます。誠実に向き合っていきたいと思います。もしそれで来なくなっても、それはそれで私を必要としないほど自立できたかもしれないし、私では無理だったかもしれないのです。あるがまま、来るもの拒まず・・・で自然体で今年も過ごしていきたいと思います。 では また・・
2008年01月05日
コメント(8)
昨日も今日も12月とは思えないほど暖かい日でした。年末なので庭の草むしりや仏壇の掃除に取り掛かりました。終わったあとの清々しさ・・・月日の経つのは早いもので今年も残すところ4日。年を重ねる毎に老化?していく身体と反比例して心の財産を増やしていきたいと思っています。23日祝日に第三回の若い難聴者の集いを行いました。いつも土曜日なのですが、皆さんの都合が合わなくて三連休の中日、日曜日です。クリスマスなのでお菓子などを持ち寄ろう・・・ということになっていて重ならないように私のところへ連絡が入りました。「私はミニケーキ」「僕はシュークリーム」「私は何にしよう?」とメールがきました。おやおや甘いものばかり・・・私も和菓子にしようかと思ったけれどサンドイッチを作りました。一時半の定刻前にボツボツ「久しぶり~」「こんにちは~」と手土産を手に笑顔で入ってこられました。早速持ち寄ったお菓子でテーブルが賑やかになりました。もう席に座った途端、待ちきれないようにペチャクチャ、お喋りが始まっています。今回は第一回目の五人(私を入れて)の他に新顔が二人来られました。その内1人の方は第一回目から「参加したい」と言われておりながら、仕事が休めず今回も出席できない・・・と連絡が来ていました。話が弾んで暫く経った頃に「今から来てもいいですか?」とメールが入り「勿論オッケーです」と返信したら車で50分の道程を走ってきたのです。仕事を早めに切り上げて「どうしても来たかったので・・・」と笑顔で来られたkさん。kさんは新聞に掲載された私の記事を見て仕事が休みの平日に二回ほど来られていました。小さい頃から自然に聞こえなくなって障害手帳は3級とのこと。三十代半ばで二人の子供のお母さんです。他の6人と初めて会ったにも関わらず旧知の友のようにすぐ打ち解けてお喋り全開です。この会の最初のきっかけになったMさんも二児の母親なので子供と接する話も飛び出しました。「子供に何回か聞き返すと、もういい・・・と言われちゃってグサッとくる」と共通の悩みを話していました。また「お母さん、何で聞えないと?」と五歳の子供は正直に言うので、それもグサッ!「これから子供達が大きくなってPTAとか進路など不安・・」と本音も出ました。そういえば私も子供達のPTAは、とてもいやだった記憶があります。進路に至っては、子供の希望が第一なので三者面談の時は「自分で決めなさいよ。お母さんは聞えないから先生の言う事よ~く聞いててよ」と私は貝になってました。うっかり口を挟めなかったのです。なぜなら先生が何の話をしているか聞き取れなかったから。だから我が家の子供達は三人共自分で先生の質問に答えて私は黙って座っているだけだった・・・添え物?のように。子供達は何にも言わなかったけれど普通の親のように先生と相談できずにいる私・・が母親であることをどう感じていたのでしょうか?聞いてみたこともないけれど、自分のことは自分でしっかり聞いておかなくては・・と自覚していたのかもしれません。子供の話が結構出ていて、どう接するか?という話の中で「忙しいし聞えないから、ついあとで・・・とか言ってしまう」と言われていました。私は聞えないなら、尚更、子供の目や口を見て真剣に聞いたほうがいいと思います。いつも目や口を見て一生懸命話を聞こう・・・とするその姿勢が大切だと思います。実際私はそうして子育てをしてきました。一言も聞き漏らさないように、いつも子供の顔を見ながら話していました。一生懸命聞かないと聞き取れないからです。私が真剣に話を聞くと子供達は自然と私が聞き取れているか確認しながら真剣に話してくれるのです。だから会話は多かったと思います。勿論亡き主人とも一生懸命口元を見ながら話していました。だから聞えないから会話ができない・・とか、会話が少ない・・・というのは違うのではないでしょうか。相手の気持ちを受け止める・・・その姿勢が通じれば心も通じるのです。もう一つは「小さなことでも必ず”ありがとう”をいうこと。親であっても悪かった時は”ごめんね”ということ」は大事だと思います。親が”ありがとう”を言っていると子供も自然に”ありがとう”を言うようになるものです。新顔のあと1人のEさんは、以前私の新聞を見られていたお母さんが店に来てくださっていたので「若い難聴の方が集まります」と連絡しました。Eさんのお母さんが娘さんのことを心配しておられ私の頭の隅っこで気にかかっていました。来られる前にEさんとメールでやり取りしていましたので初対面にも関わらずスムーズに話せました。Eさんは片耳は聞えずあと一方補聴器を使っていて今まで自分以外の難聴者と一度も会ったことがないそうです。驚いたことにMさんの家の近くに住んでいるそうで又ビックリ。Mさんは「自分以外に難聴の方って絶対いるよね?会ってみたい」といつも言ってました。それなのにすぐ近くに住んでいる事さえ知らなかったのです。MさんとEさんは勿論すぐアドレス交換もして帰りも一緒に帰ったほど打ち解けました。こうしてここが皆さんの出会いの場となりそれぞれ仲良くなって悩みなど話せたら嬉しいことです。途中私の友人のaさんも回転焼きをお土産に顔を出してくれ勿論、輪の中に入りました。aさん(健聴者)には、いつも近況報告していて「私も来てみたい」というので参加してもらいました。とても明るい人で「皆さん美人ばかり・・若い方の話に入れてもらって楽しい」と大喜びです。食ぺたり、喋ったり、笑い声が響いたりと、とても難聴者の集いとは思えない賑やかさ。一番おとなしい若い女性もニコニコしながら加わっていました。軽い難聴で補聴器も使ってないけれど一回目に比べたらリラックスしていて笑顔も増えました。このことをtotoさんやNさんが素直に「笑顔が増えてよかったね」と喜んでくれるのも嬉しいものです。第一回目から参加しているtotoさんとNさんは私同様、独身貴族?の気楽さ、皆さんが帰ってからもずっと話が弾みました。totoさんは新聞記者のように私に取材?して、この店の経緯を聞いてきました。普通の喫茶店だったのを息子tomoのアイデアで”難聴者のための喫茶店”にしたので「息子さんにお礼を言いたい。こんな場所を作ってくれて感謝している」とまで言ってもらいました。totoさんもNさんも私も「細く長く続けていきたいね。来るもの拒まず、去るもの追わず・・・自然体でやっていきたい。押し付けがましくなく、さりげなく、難聴者の癒しの場でありたい」と考えが一致しました。ますます楽しい集いになりました。totoさんとNさんは集いの要のような役割りで補聴器などのアドバイスをしてくれます。こちらのブログで知りあった仲間です。いろんな話が弾んで食事もとらず、お腹が少し空いたね・・・と残りのお菓子をつまんで、時計を見たら、何と日付が変わった午前一時になっていました。午後一時半から午前一時まで延々と11時間半お喋り最高記録を更新しました。Nさんは目がショボショボなっていました。次回は1月26日一時半からです。興味のある方はどうぞおいでください。お待ちしています。 では また・・・
2007年12月27日
コメント(0)
ずっと引いていた風邪が少し治ったので一ヶ月ぶりに卓球へ行きました。寒い中、チャリンコを漕いで体育館へ・・・久しぶりの卓球だったので体を動かすことが、楽しくて時間が経つのが早く感じられました。運動もいいものです。2009年5月までに施行される裁判員制度。これは選挙人名簿から無作為に選ばれた国民が裁判官と一緒に一審を審理し、判決を言い渡すことです。この制度は一般国民が審理に加わることで、専門家以外のチェックや感覚を取り入れ、より良い裁判を目指す事が目的です。この頃は考えられないほど凶悪な事件が多くなっています。なので裁判の数も増えてくると思います。私はこれを知った時まず、聞えない人や聞き取り難い人はどうなるのか?と疑問を持ちました。一年間に国民の大体4100人中、1人が対象になると言われ、この確率では当然、難聴者も対象になることが考えられます。裁判員候補者へは、呼び出し状と質問票が送られてきます。但し、次の理由で辞退できるそうです。*妊娠中、出産直後*親族、同居人の介護をする必要がある人*重い病気や傷害*自らが処理しないと著しい損害が出る場合*70歳以上の高齢者、学生*会期中の議員等の理由があれば本人が申し立て後、地裁が事情を聞き、診断書や通院記録などの資料を提出すれば辞退が認められるそうです。もし私のような難聴だったら傷害にはならないだろうし、かといって聞き取り難いと正しい判断もできないので、マサカと思うが要約筆記者や手話通訳者に付いてきてもらうのか?などと色々考えを巡らしています。例えて言うと障害でも手足の不自由な方や車椅子の方、視覚障害者は聞えて正しい判断もできると思うが、難聴者は 聞き取り難いので、どうなるのか??聞えないけれど内容が判れば正しい判断ができるのですから。これについては、正当な理由がなくて指定の日に地裁へ出向かないと10万円以下の罰金、過料が科されるそうです。私は関係ないわ・・・と思いたいが、こればかりは無作為に選ぶので一応きちんとした制度の内容を把握する必要があるようです。質問票では”不公平な裁判をする恐れ”があるか陪席裁判官、弁護人、検察官などの質問を受け”被告人と関係があるかどうか、事件の捜査に関与していないか?”など聞かれ「はい」と答えた人はさらに詳しい説明を求められるそうです。本当に大変です。裁判という人の罪に関わるのですから・・・まだハッキリした政令が出来上がっていないので、如何こうはいえませんが心積もりは、しておかなければならないようです。ちょっと不謹慎ですが北朝鮮に拉致された方のことを思っていたのですが、もし私が拉致されていたら補聴器をつけていたので、北朝鮮に水銀電池があるのだろうか?なかったら全く聞えないからどうなるのだろうか?なんて考えていました。私は何か事があると必ず”自分だったら?どういう判断がいいのか?”と 考える癖がついています。もし聞えていたら?という判断ではなく、聞えない自分だったらどう思うのか?どうするのか?と常に想いを巡らすのです。いよいよ2009年が差し迫ってきたら政令次第では、裁判所に聞きに行くかもしれません。納得ができるように把握しておきたいと思うこの頃です。 では また・・
2007年12月19日
コメント(0)
最近寒い日が続いてましたが、今日は少し暖かくなり助かりました。寒いのも暑いのも苦手な私・・忍耐力がないのです。これから冬本番なのに、春が待ち遠しいのが本音です。先日難聴会の定例会がありました。いつも、どうやって皆さんが笑顔を見せてくれるのか苦心しています。なので前々回、唄の訪問に来て下さったHさんに又お願いすることにしました。二回目なので顔馴染になり、部屋に入ってこられたHさんに七十代の女性が早速「この袋が開からないから、開けて頂戴」と食べ物の袋を差し出されました。いきなりだから、おかしいやら気の毒やら・・・勿論Hさんに開けて頂きました。(アララ、Hさんは、唄の訪問に来たのよ。小間使いじゃないけれど・・・)と思いながら袋を開けてくださっているHさんに親しみを感じているおばあちゃんに苦笑せざるをえませんでした。さてギターの調整の後ボロローンと楽しい演奏会が始まりました。「お富さん」をギター片手に唄ったHさん、話も始まりました。「この頃のテレビはキスシーンが多いですねぇ。いつもチュツチュツとやっている。ところで、ちょっと、お父さん!(と一番前に座っていた70代のEさんに向かって)お父さん、初めてチュッチュッとしたのは何歳の頃だった?」私は人工内耳で聞えたので思わずアハッと吹き出しましたがOHPを読んだ皆さん、「アッハッハー」の爆笑です。Eさんは、OHPとHさんの顔を代わる代わる見ながら「26歳くらいやったかなぁ」「俺もそのくらいじゃったぁ」と別の70代の男性も笑いながら言いました。「そうですよねぇ。昔は好きでたまらなくても、な~んも言えなかった。恋しい、恋しいと胸いっぱいに想いをとめていたもんです。では今から”君恋し”を唄います」と情感タップリ唄ってくれました。歌詞は要約筆記スクリーン(OHP)に映し出され、筆記者がなぞってくれます。「続いて”芸者ワルツ”です。私が小さい時に流行りました」と50代半ばのHさん。♪あなたのリードで島田もゆれる チークダンスの悩ましさ 乱れる裾も恥ずかしうれし♪「島田って、人の名前だと思っていたから、島田さんが揺れて歩いていると思っていました」で、爆笑・・・八ッハッハー「”乱れる裾も~”と大きな声で歌っていたら母親が嫌な顔する。意味がわかりませんでしたもんね~ 今じゃ、乱れる裾が大好きですけど」と話されたのでまた爆笑・・・もう皆さんニコニコ顔です。腹の底から笑うと生きている~って感じます。「続いて”人生劇場”です」・・私の大好きな唄です。一緒に手拍子で歌いました。「皆さん、手拍子で!」とHさんが言われるのですが、皆バラバラに手拍子・・・それでもいいのです。楽しければいいのだから。歌った後、Hさんが「♪あんな女に未練はないが・・♪とありますよねぇ。男なら一度は言ってみたいもんです。でも言ったらおしまい。”私も未練はないよ”といわれたら大変!もうそれで最後です。ウッカリ言えません」でまたまた爆笑・・・難聴会員はテレビを見ても聞き取れない。落語や漫才のオチもわからない。話を聞いて笑う・・・ということが常日頃ないと思います。若いとき、聞えていた頃はテレビやラジオで漫才や落語を楽しまれていたことでしょう。そんな楽しみがない最近、心から笑う話に縁遠くなっていると思います。だから今回はHさんのお陰で楽しめたと思います。殆ど聞えない70代女性のTさんは、あまりのおかしさにテーブル叩いて笑っておられました。そんな笑顔を見れてホッとしました。生きていることって笑う事だと思う。笑う楽しさがないとつまらないです。聞えなくても聞き取り難くても読書だけではなく直に話しを楽しみたいのです。数曲の最後は”林檎の唄”で締めくくりました。唄あり、話しありの楽しい一時間、アッというまに終わりました。「また、来ます。声を掛けてください」とHさんは帰られました。楽しい時間をありがとう!今日は店に若い難聴の方が仕事がなかなか見つからない・・・と来られました。私がどうこうできる問題ではないけれど、少しでも話し相手になりたいし、なんとかできないかなァと思います。私に話すことで第一歩を踏み出されたら嬉しいことです。そのきっかけになれたらいい・・・最初に来られた時は思いつめたような顔が笑顔に変わっていく・・・それだけでも嬉しいです。 では また・・
2007年12月11日
コメント(4)
最近、風邪を引いて何とか、だましだまし店を開けていましたが、昨日はとうとうダウン。発熱して布団の中でした。知人にフリーマーケットの手伝いを頼まれていたのに早朝から断る羽目になり迷惑をかけて、本当に申しわけなかったです。今日は熱も下がりいつものように店を開けられてホッとしました。店のお客様に画を書かれるTさん・・・男性50代の方がおられます。その仲間のKさん共々店に時々来てくれています。(Kさんも画を書かれています)Tさんとは、どうして知り合いになったかというと、私が難聴の活動をしていった上での延長です。最初に活動し始めた頃、市民活動プラザに顔を出し、当時印刷の仕方を教えてもらった人から又別の方を紹介され、次から次へと知り合って店に来られるようになりました。3年前のことです。Tさんは当時、福祉連絡会の仕事もされていたので活動のやり方をいろいろと私にアドバイスしてくれました。活動などと無縁だった私は本当に勉強になりました。来られる毎に「難聴者の相談を受けて困っている事」や近況を話していました。その度に適切なアドバイスも受け助成金申請のことも教えてもらったりしました。難聴会で助成金が採択された時のポスター、チラシ作成もTさんにお願いしました。というのはTさんは、県美術展のデザイン部門で知事賞を数回受賞されたほどの腕前なのです。そのTさんが私のために「チャリティギャラリーをしたい」と言われました。もう、本当に驚きました。私がアドバイスを受けて教えてもらう事が多いのに、反対にTさんが私に支援してくださるなんて、勿体ないほどありがたいことです。画家の仲間10人ほどに声をかけてくれました。その中には二科展会員も3名おられるそうです。皆さんに私のことを話し、快く応じてもらえたそうです。そのお願いの文書を私も見せて頂きました。以下のように書いてあります。本当におこがましくて恥ずかしいのですが・・・[今年も残すところあとひと月。忙しくなってまいりました。さて、この度の賛助出品の内容と主旨ですが、佐賀市内に、難聴のママが営まれている喫茶店こうひいの木があり、ママは店の傍ら難聴会の代表として講演、サークル活動などに尽力されておられます。また店の一角をギャラリーとして無料で開放され、若い作家や障がい者の作品発表の場となっています。活動の成果でしょう。ここにニートの青年や障がいを隠しながら過ごす若者が顔を出し始め、個々の悩みや愚痴を話していくようになりました。引きこもりや対人不安の状態からすれば、これは大きな進歩。ママはこれを機会と捉えて「お話会」を発足されました。これを長く続ける為の活動費支援として発案した次第です。]これを聞いた私は「とんでもない。売れた代金はTさんが使ってください。私は絵を見に来られた人にコーヒーを飲んで頂けるだけで充分です」といいましたがTさんは「活動するのにもお金は、いるから少しでも(売れたら)とっておきなさい」と言ってくれています。本当に何と有難いことでしょう。私は悩んでいる方をほっておけなくて話し相手になっているだけなのに・・・それを認めてくださっている・・・胸がいっぱいになりました。実は相談に見えている人は難聴者ばかりではありません。躁鬱の方も来られています。今まで公に話したことはありませんが、多くはないけれど何人か見えておられます。難聴と同じように外見ではわからない障害・・・中味は違うけれどなかなか理解してもらえない苦しさは同じだと思うのです。精神のことは病気の内容も詳しくわからないのでアドバイスもできませんが、ただ彼らの話を真剣に聞くだけ・・・そのくらいしかできません。それでも話を聞くだけでも救われるようなのです。彼らの気持ちが軽くなるように・・・と思って聞いています。いつも、もし自分だったら・・・と立場を置き換えて聞いています。人は真剣に{話を聞いてくれる人がいる}と思うと安心するのではないでしょうか。障害はなんであれ、悩む気持ちは同じだと思います。これからもこの想いを失わないで店をやっていきたいです。決して多くはない閑散とした店ですが、私を必要としてくれる人がいる限り続けていきたいと思っています。自分が好きでやっている「難聴者の店」ですが、こうして支えてくださっている人がおられることに勇気百倍・・・励ましてもらっています。有難うございます。尚チャリティギャラ―リの開催日は12月10日~20日まで (11時~18時、日曜休み) こうひいの木店内お近くの方はどうぞご覧になってくださいね。 では また・・
2007年12月03日
コメント(0)
この頃は良い天気が続いています。ここ数年ほど私の大好物の干し柿を作っています。三年ほど前に、知人から干し柿の作り方を聞いて、私もやってみよう・・・と始めたのがきっかけです。渋柿の皮をむきビニール紐につり下げます。南側のベランダに洗濯物みたいに干していますが一ヶ月以上すると出来上がりです。とても楽しみです。(今年は柿の豊作で25個くらいを280円で買いました)24日、店で第二回目の若い難聴者の集いを行いました。前回来られた方の二名が都合が悪くて来られませんでしたが、二人の新入りがありましたので結局、前回と同じ人数でした。1人の方は中年の女性です。一年以上前、新聞の投稿欄に「脳腫瘍で聞こえなくなった」と書かれた方がおられたので、私はジッとしておれなくて新聞社に相手の連絡先を尋ね、「難聴会もありますよ。希望を捨てないで下さい」とFAXを送ったことがありました。返事を頂いたのですが、そのAさんの気持ちがまだ落ち着かなかったのか、それきりになっていました。「きっと苦しんでおられるかもしれない・・無理には言えない・・」と思ったので、そのままにしていました。最近地元の新聞で私の記事が載ったりしたので、今度はそのAさんが新聞社に私の連絡先を尋ねられ、店に出て来たい・・・ということでした。Aさんは「人と会いたくなかった。自分から話し掛けたくもなかった。話し掛けると相手の話が聞えないので、もっと辛くなる。最近もう一方の耳が突発性難聴になり、家に居たけれどこのまま黙っていても治らないので、もう外に出なくては・・・と思って、やっとここにきました」ということでした。もう1人の若い大学生はもっと辛そうでした。突発性難聴とのこと。私が「聞えない事は治らないので辛いけれど、それを受け入れて色々な方法や情報を探って前に進みましょうよ。ここに居る人は全部貴方と同じように聞えない人ばかりですよ」と話したら「そうですね」と静かにうなずきました。彼はここに来るのに、すごく勇気が要ったと思います。私もずっと座っておれるわけではなく、他のお客様が来られると席を外すので全部の会話に入ることができません。でもAさんも大学生も他の仲間と話して「自分だけじゃないんだ。頑張ろう」と思ってくれたら、それでいいのです。前回参加していた方達は、とても仲良くなっていて昔からの友人のように笑ったりして話が弾んでいます。また今回始めて来られた方のことも気遣って筆談で話の輪に入れるようにしてくれています。自分が会話の輪から外れる辛さを知っているのでさりげなく筆談してくれるのです。Aさんも大学生も夕方帰られましたが、Aさんは「楽しかった。気持ちが軽くなった。前向きに生きれそうです」と喜んでくれました。それが私にとって一番嬉しいことです。大学生も「次回も出てきたい」と少し笑顔が見えました。こうして自分が前に進もう・・・と思った時点で道ができるのです。誰かと繋がって、色々な情報も入り、気持ちが前向きになればしめたものです。私はその方達の背を少し押す手伝いをしたいと思っています。前回、福岡から来られた男性は用があり遅くなりましたが、それからでも会話が弾み、その中の1人の女性は延々なんと9時間半(午後一時半から十一時まで)も話しました。「今まで、いろんな難聴者の集まりに行ったけれど最高記録です。時間が経つのがすごく早かった。楽しかった~」と言ってました。Aさんは難聴会に入ることも考えているようで「一度見学にいらっしゃいませんか?」と声をかけています。ご本人から、難聴会の入会を希望されるようになれば私も嬉しいですが無理強いしたくありません。入会の気持ちになるまで、ゆっくり待っておくつもりです。集いだけの参加希望の方は、それはそれでいいと思います。人それぞれなのですから。先日また新聞の記事を読んでくれた女性が参加したい・・・と言ってましたので、少しずつ増えていけば嬉しいです。(当日は仕事でこれなくて残念でした)有難いことに、福岡の方達が「難聴者が集える店があってよかった。なかなか場所が見つからないんですよ。普通の喫茶店だと周りが、喧しいし、公的なところだと時間が短くて長くお喋りできないですよ。ここは静かだし、話が聞き取りやすいし、いいところです」と褒めて頂き感謝しています。私の店も(難聴者の店)にリニュアールして3年半以上経ちました。(難聴者が誰も来ない、少ない)と何回も落ち込んだり、少しでも来てくださると、また頑張ろう・・・と勇気が出たり・・・の繰り返しですが、こうして一人でもいい・・必要として下さる方がいる限り続けていかなくては・・と思っています。私も皆さんから勇気を貰っている1人なのですから・・・では また・・
2007年11月24日
コメント(0)
この頃は日本晴れが続いています。関東に住んでいる孫の幼稚園のマラソン大会がある・・・と嫁さんから知らせがきたので(よく近況報告してくれます。ありがたいものです)孫に激励の便りをFAXしました。すると沢山の怪獣の絵と「がんばります。ばあちゃん、すき」とたどたどしい字で書いたFAXが届き嬉しい宝物が増えました。すると嫁さんから「私は(絵を)貰った事がないので私も欲しいです」とメールがきました。離れていても心が通じてささやかな幸せをかみしめています。11月11日、半年近く準備を重ねてきた難聴会主催の講演会がありました。県活性化事業で採択された助成金で行いました。去年は「人工内耳と補聴器」という医師の講演会だったので今年は趣を変え、福祉機器製作、販売会社、社長中園秀喜氏にお願いしました。(東京都中野区在住)この準備で、まず難聴会員に、誰に講師をしていただくか、いつ、どこで?などとたずね、多数決で決めていきました。会場も交通の便がいいところ、会場費が高くないところ・・などと数ヶ所当たってみて市の公共施設に決めました。講師が決まると、タイトルは何にするのか?話の内容は?と数回のメールのやり取りで順次進めていきました。名義後援依頼書の作成後(県、市、マスコミなど16件)発送し、承諾を得てポスター作成依頼。レイアウトなどの交渉。ポスターができると名義後援を頂いた所へ配布し、いろんなところへもポスター貼付のお願いに廻りました。講演会間近になると会場で使う機器の確認(講師の方とメールで数回のやりとり)・・・これは要約筆記の会に協力をお願いしました。そして当日。講師の方を駅まで迎えに行きましたが写真で知っていたので、すぐに出会えました。思ったより小柄な方だったのでちょっと意外な気がしました。写真では大きく見えてましたから・・・会場に着くと案内書の貼付、机、椅子などの借用、パソコン機器の取り付け・・など要約筆記の方々の協力で準備完了。本番です。今年二月に入会された70代の男性Aさんに司会をお願いしました。司会者だけど、自分が難聴会に入会した経緯まで話されたので、一緒に来られた奥様が司会が終わった後「うちの人に司会させなくて良かったのに・・要らぬ事まで話すので・・」と苦笑されてました。Aさんは三年前に病気で難聴になられ、すごく落ち込んで家庭も会話の疎通で暗くなり、「家内に年金を半分やるから出て行っていいよ、と言ったこともある」と言うほど悩んだそうです。関東にいる嫁いだ娘さんが、思い余って(関東で難聴会があることを知り、その難聴会で佐賀の私のFAX番号を尋ねて)私にFAXしたことがきっかけで入会されたのです。今は嘘のようにニコニコされて、聞き間違っても「聞こえないもので、すみませんねぇ」と笑いながら聞き直されてます。入会されて、とても明るくなられました。司会者の開会の話の後、私が挨拶して講演会の始まりとなりました。内容は多岐にわたりました。*聴覚障害は40歳代から始まる。*手話を使っている聴覚障害者は17%で高齢になるほど手話取得は困難になる。*災害時、聴覚障害者は情報が伝わらず逃げ送れる。 (停電や混線でFAXが使えず連絡が取れなくなる) (避難勧告や避難命令が聞えず取り残されたり逃げ遅れる) (例として岡山県立盲聾学校で1950年火災が起きた。一階の視覚障害者は全員逃げ 出して無事だったが二階の聴覚障害者16人は聞えないので全員死亡した) 1985年以降火災でなくなった聴覚障害者は156人以上います。 *聴覚障害者の一番苦手な所が病院である。 (名前を呼ばれても気付かない・・・無線振動呼び出し器で解消) (マスクを掛けている医師の話がわからない・・簡易筆談器の導入で解消される) (エックス線検査の音声案内がわからない。ナースコールを押しても看護師の返事が聞えない。・・・電光文字表示器の導入で解消)*非常ベルが聞えない。逃げ送れる。などと沢山の聞えないことによる情報通達の不公平があることを話されていました。これらに筆談器や電光表示器などで配慮すれば不安が解消され精神的効果がある。不便さは、まず聞えない本人が言い続けなければならない・・特に外見ではわからない障害なので、なかなか理解され難く、配慮され難い。私など、ともすると(なかなか聞えないことを理解され難い)と落ち込んだりします。でも中園氏は「ここまでくるのに17年かかりました。何度も何回も繰り返し、聞えない不便さを社会に訴え続けている」と言われ・・・17年も言い続けているのだ、私なんてまだまだだな・・と反省しきりです。中園氏はユニークな方で「95歳なのですが、まだまだ頑張ります」とご自分の年59歳を逆に話されてました。本も数冊上梓されています。「拝啓、病院の皆様」「社長バリアに挑む」「イクオール」など聴衆も、あまり多くなかったので責任を感じ、落ち込みましたが知人の県会議員や市会議員(私が講演会に来てください・・・と頼みました)は「とても役に立った。勉強になった」と言ってくれたので安堵しました。福祉の面で聴覚障害者が困っていること、不便な事を、これから議会で発言してもらえば嬉しいことです。講演会が終わった途端、頭の中では既に来年の講演会はどうしようか??などと思い巡らしています。要約筆記会でお礼方々、反省も述べましたが「来年も頑張って講演会を考えたら?」と言ってもらい、又やるぞ~と勇気が出てきました。何もしないでクヨクヨ悩むより、色々とやって、回り道してもいいから進んでいこう・・・と思いました。まだまだ中園氏に比べたら私はひよっこです。頑張らないと~
2007年11月14日
コメント(2)
あんなに暑かったのに、今頃は季節に応じて気温も平年どおりになってきました。佐賀では有明干拓のシチメンソウが華やかな朱色を演出しています。先日四ヶ月ぶりに人工内耳のリハビリに行きました。リハビリ・・・と言っても殆ど聞き取りテストです。聴力検査は30db位で一定しています。問題はテープから流れてくる男性の声がわかるかどうか??初めは単語です。「驚く」「たまご」など全く関連がない単語なので五割わかったかどうか?次に文章・・これは7割くらいか??このテープからの声・・・が聞き取り難いのです。スピーカーからのマイクの声も聞き難い。私の苦手な検査です。「あまり成績よくないよね?テープの声は聞き難い」と言語聴覚士の方に話したら「単語は難しいですよ。私達普通の者だって、全て聞き取れない時がありますヨ」と言ってくれたので、気分的に楽になりました。テスト・・・というと(少しでも良い成績を取らなくっちゃ)なんて学生時代の気持ちがぶり返してきます。何でもその時その時、一生懸命になるのです。次に肉声での文章の聞き取りテストは9割わかり、気持ちは軽くなりました。「福田新内閣が発足して一ヶ月になる」とか「佐賀のバルーンが昨日から始まりました」等暮らしに密着した内容だったので聞いた事がスラスラと口から出てきました。そして診察室でK医師の診察を受けるのですが、診察・・というより雑談に近いです。私の手術を担当してくれたこともありますが、疑問に感じたことは何でも質問するのです。自分のことばかりではなく難聴に関して全てです。(図々しくてゴメンナサイ)今回は、先日講演会で私自身が話したとき、出会った難聴児を抱えたお母さんのことを話しました。(ちょっと、こんな話していいのかな?と思ったのですが耳に関することなので、聞いてみました)小学6年生なので勉強が、段々難しくなり、授業についていけるか心配だし、思春期・・・という難しい年頃になって・・・と、お母さんが話されていました。その時私は「授業では、要約筆記・・という方法もありますよ」と言ったのですが、この要約筆記のことについてK医師は次のように話されました。「小中学校(高校も?)では、要約筆記はつけないほうが良いですよ」(エー―ッ、何で??要約筆記があれば先生の話がわかるのに)と一瞬思いました。「子供が要約筆記の方ばかり見て教科書をみないようになる、というか教科書を見るゆとりがなくなる。補聴器や人工内耳でもいいからFMマイクを教師につけてもらって、その声を聞くようにしたほうがいい・・・」とのこと。「でもマイクの声は聞き取り難いんじゃないですか?」と私が聞き返しましたら「FMマイクは明瞭で肉声に近い声がします。それに要約筆記をつけると耳で聞こうとしないので、却って聴力が落ちる心配があります。(人間の機能は)使わないと段々と衰えていきますからね」とK医師。(はぁーっ)目から鱗だった。そういえば私が小中学校時代は隣の友達が教科書のどのページを開いているか、必死で盗み見?して教科書ばっかり見ていたなぁ。先生の話は、あまり聞えず(わからず)穴の開くほど黒板と教科書だけ見ていたものだ。子供達は勉強で知識を吸収する大切な時期だから、教科書を見ることは大事だと思う。「FMマイクも、どこの耳鼻科でもいいというわけではなく、きちんとした耳鼻科で検査して各自に合った補聴器を使わないと効果がない。佐賀では佐賀大学病院耳鼻科で検査した方がいい」といろんなことを教えてもらいました。「要約筆記は、大人は大変役に立つと思います。時と場合ですね」とK医師。本当に人工内耳している私でさえも、マイクとなると聞き取り難くて、今でも要約筆記にどれほど助けられているかわからない。私の店で若い難聴者の会を始めたことも話したら「難聴者が、お互いの悩みなどを話せる場って大事ですね。広がるといいですね」と言っていただきました。診察室を出たら、沢山の患者さんが待ってたのでとても恐縮しました。ゴメンナサイ、すみません・・でもK医師は急かせることなく話を聞いて下さって感謝です。このように何でも時と場合、ケースバイケースだということです。補聴器でもアナログよりデジタルがいい・・・というわけではなく個人差に応じて、アナログが向いている方もいるそうです。自分の知識のなさが恥ずかしいほどです。個々に対応する・・・事が大切なのです。聞えもひとり一人違うのだから、どんなに性能が良い補聴器でも人によっては、あまり効果がないこともあるのだから、よく試聴して補聴器を買い求めることも大事です。何でもそうですが、奥が深い・・・と思いました。どんなことでも、いろんな角度から物事を見ることは大事だし、必要です。また一つ勉強させてもらいました。次に繋げていきたいです。 では また・・
2007年11月06日
コメント(0)
例年より紅葉が遅れている・・・とのことです。あの夏の暑さを思えば、仕方ありませんが、観光バスなど稼ぎ時がずれて、当てが外れて困っている・・との声があるようです。先日、開催した若い難聴者の集いは、少なかったけれど、とても盛り上がりました。佐賀に住んでいる難聴者が「若い難聴の方と話したい」と言われるので企画し、地元の新聞にも載せて頂きましたが・・・こちらのブログでカキコミをされたtotoさんが、福岡から難聴の友人を連れてきてくださり、他にブログを見ていただいているNさんも同じく福岡から来てくれました。(店に来られていた若い男性も飛び入りで座りました)Nさんは最近、店にも一度来て頂いていたので長年の友のような親しみを感じました。もちろん佐賀にいる、最初に「若い方と会ってみたい」と言われた二人も参加です。難聴者は私まで入れて6人。男性二人、女性四人です。少なかったらどうしよう・・・とハラハラしましたが、totoさんが「1人でもきてたらよかです(1人でもきていたらいいですよ)」と言ってくれたのでホッとしました。そして初めて会った方ばかりでしたが、すぐ打ち解けて皆さんニコニコでした。共通点は(中途難聴)・・・ただそれだけなのにお喋りエンジン全開です。佐賀の二人は手話を知らないので、ゆっくり話してもらうとわかるようでした。福岡の三人は手話を交えて、佐賀の方がわからないときはホワイトボードに書いたりして、話が盛り上がりました。主に「一対一ならいいけれど、三人になると話がわからない」「ところどころ聞こえるから、話の流れがつかめず普通の人と話している時話し掛け難い」「何で喋れるの?と言われたことがある」「皆がドッと 笑うと一人だけキョトンとしていなければならない」「聞えない・・とわかると話し掛けてもらえない」「難聴会には(束縛されそうで)属したくない。自由にしたい」(難聴会に興味がないのはちょっと残念ですが、私も無理強いしたくありませんし)「障害手帳は何級?(二級が四人、四級が1人でした)」「補聴器はアナログよりもデジタルの方が聞き取りやすい」「メーカーによっても違う」「子供の声が聞き取り難い」「子供のために人工内耳をしたほうがいいか?」etc・・・私は一般のお客様も来られたので、カウンターへ行ったりでずっと座っているわけではなかったけれど。お客さん・・といっても常連さんなので「オッ、盛り上がってるねぇ」とニコニコしてました。お客様が帰られると私も輪の中に入って話をしましたが、1人の方から「ここは静かでいいですねぇ。普通の喫茶店は周りが喧しいと聞き取り難い。その点ここは周りも静かでいい」と言ってもらいました。店がある場所は以前は市の中心街で人通りも車も多く活気があったのですが郊外に大型店ができ、店の周りはスッカリ寂れてしまっているのです。(これは全国的な傾向ですが)この寂しさが難聴者にとっては、静かな環境なので話が聞き取りやすくていい・・・と利点になるのだそうです。(音楽も低くしています)これには私もビックリしました。考えてもみなかったのですが、言われてみれば確かにそう・・・願ってもない環境なのです。ちょっと嬉しくなりました。佐賀のMさん(女性)がtotoさんから補聴器のあれこれをアドバイスしてもらって試しにtotoさんの補聴器を借りて携帯電話をかけたら「うわーっ聞える!聞える!生まれて初めて電話の声が聞き取れた!!」と大喜び。勿論やんやの喝采です。「ハッキリ聞えたよ~嬉しい~生まれて初めて~」とニコニコでした。こんな情報交換ができるのも魅力です。耳に関して「こうしたらいいよ」とアドバイスも飛び交い、まるで学生時代に戻ったようにアハハの笑い声が続きました。「聞えなくても聞き返せるから良い」「同じ悩みを隠さず話せる」「誰も失敗を笑う人もいない」・・・と次から次へと時間が経つのが早いこと・・延々5時間近く話していました。totoさん達、福岡から来られた方は「今まで若い難聴者の会に参加したけれど、聾唖者も一緒なので手話を早くされると、話がわからなかった。聾唖者と、中途難聴者には見えない壁がある。ここは中途難聴者だけだから話しやすい」とのこと。「今まで九州では若い中途難聴者の会は、なかったです。ここが初めてですよ」とtotoさんが言われていました。九州で始めての若い中途失聴者の会だそうです。これは次に繋げていかないといけない・・・と強く思いました。名称も決めなくては・・・案として”お喋りしよう会”??福岡では「若い聞えない方の集まり」と言っても聾唖者と難聴者が集まっていたそうです。あ~ぁ、だから福岡の方達は手話を使えるのだなァと思いました。私も手話サークルに行っていますが(店に聾唖者が来られた時、手話も必要だと思って習っています)手話を使いたいと思わない人には手話を無理に勧めたくないと思ってるし、自分が好きな方法で会話すれば良いと思います。手話、筆談等選べるようにしたいのです。ちょっと気になったのは佐賀の若い女性・・・可愛いおとなしい人ですが彼女だけ障害手帳がないし、補聴器も使っていないのです。大体おとなしい方なので、あまり話しをされませんでしたが、それでも楽しかったようで最後までいました。帰り際に「私だけ補聴器をしてないし、障害手帳もないし、ちょっと外れたようで・・」と言われていましたが「同じように聞えないから、貴女もちゃんと入っていいのよ」と答えました。彼女は片耳だけ聞えないのですが、補聴器も使っていないので話が途切れ途切れにしかわからないそうです。だから「障害手帳を持っていない人と知り合いたい」と言われていました。片耳だけ聞えなくても、それはそれで不便なのです。聞こえる方の耳をできるだけ相手の方へ向けて話をされています。聴力が軽くても悩みや困ることは沢山あるのです。彼女のように軽い方も参加してくれたら嬉しいけれど・・・一番最後に「このまま終わらせたら勿体ないよね。また次に繋げたいね。又集まりますか?」と私が問いかけたら全員一致で「勿論!!又集まりたい!」ということで11月24日一時半に集まることに決定しました。今回、仕事でこれなかった佐賀の女性の方も次回は休みを貰って参加したいそうです。ブログをご覧の中途失聴者、難聴者の方、よかったらいらっしゃいませんか?その夜も参加者の方から「とーーても、とても楽しかったです。又来ます」とメールがきました。皆さんの笑顔が何よりの活動の原点となりました。私にこんな機会を与えてくれたMさんたち、有難う!!またこれからも細く長く続けていきたいと思っています。どうぞ宜しくお願いします。
2007年10月29日
コメント(0)
あんなに暑かった夏も終わり、暦通りの気温になってきました。朝晩は肌寒く確実に晩秋に近づいています。北海道では雪もチラチラしているとテレビが伝えていました。10月20日、21日は 大分で難聴者九州ブロック大会が開かれました。隔年に行われるので私は初めての参加です。二年前は熊本だったらしいけれど会長に携わってから日も浅かったし、慣れてないので遠慮していました。佐賀から男性2名、女性3名の参加でした。JR利用の為佐賀駅に集合しました。土曜日だったので沢山の乗客で博多までは、座れなかったけれど70歳代の女性会員には、既に座っていた20代の女性が席を譲ってくれて大変嬉しく思いました。博多から別府までは指定席を取っていましたので、席を向かい合わせにしてお喋りに花が咲きました。このお喋り・・・というのが普通のお喋りではなく筆談です。会員の1人が殆ど聞えないので(補聴器で音は入るが言葉が聞き取れないのです)全て筆談します。1人でも聞えない方がいれば必ず書いて知らせます。(話が聞き取れないで、その場にいるのは辛いものです)全員に情報が届くことは必要。携帯用のホワイトボードに水性マジックで書きながら消し、書いては消しの繰り返しでワハハと笑い声が続きます。とても楽しい時間でした。(学生時代に戻ったような?)殆どが「聞えなくて困る」とか「聞えなくて離婚まで考えた」とか今では笑い話なのですが、それを笑って話せるほど(難聴会に入って)心にゆとりができたということです。他の乗客は筆談が珍しいのか、チラチラ見ていますが全く気になりません。聞えなくなると、こんな方法もあるのですよ、と見てもらいたいほどです。会場では九州各県から100名近く集まっていました。一見して感じたのは高齢者が多いということです。なので福岡から参加していた30代の男性など若さ溢れる姿で目立っていました。「若いのに(中年が多い難聴会に)よく入られましたね」と聞きましたら「会長から引っ張られて入った」そうです。本音は(彼女でも見つかるかな?)と。講演は安藤紀一郎氏の「吉四六さんは生きている」という面白い話なのですが、残念ながら要約筆記が話に追いついていなかったので、オチが感じられなく、笑い声があまりなかったようです。(全てを書くことは難しい、その点佐賀の要約筆記者は上手い!)漫才や落語などは耳で聞いてからこそ、ドッと笑い声が起きるのですが微妙な筆記では、それを表すのが難しいようです。私は人工内耳でほぼ聞き取れましたので、クスッと心で笑えましたが、これが健聴者の講演だったら、もっと笑い声があったのではないか・・・と思いました。次に全体討議に入り、「障害者自立支援法への取り組みについて」「北九州市難聴者中途失聴者協会の現状と問題点」「難聴者と要約筆記者は車の両輪か」などが討論されました。どの県も抱えている問題は同じで、要約筆記派遣は無料で行われているか?会員(特に若い人)が、なかなか増えない・・・これをどうしたらいいのか・・と議論白熱しました。まず楽しくないと会員は集まらない、若い方はパソコンを使うので各県でホームページを作成したらどうか?など沢山の意見が出ました。私も少し発言しましたが(自分が取り組んでいる、若い方の集まりの企画など)これが決め手・・というものはないようです。とにかくやってみる・・・動かないで黙っていても会員は集まらないので、難聴者宅を訪ねてみよう・・などもありました。全体討議の後は交流会です。これは希望者だけの参加なのですが食後はビンゴゲームもありました。佐賀の会員で「ビンゴ!」にならなかったのは私だけでした。ガッカリ!でも他県の方とお喋りできたのはよかったです。特に隣の福岡県の方には「若い難聴者の集まりをするので宜しく」とPRもできました。その後役員会議もあったので、全て終わったのは九時半過ぎていました。広い温泉でゆったりと湯船に浸かり疲れを取りました。部屋では佐賀の会員同士、気兼ねなくお喋りして束の間の楽しい時間が持てました。翌日は総会です。事業報告、会計報告の後、また「どうしたら会員を増やせるか」の議論になりましたが、これは各県の努力に委ねないと仕方ありません。そして帰りの時間にゆとりを持って会場を後にしました。皆さんが「楽しかった。他県の方の意見も聞いて勉強になった」と言ってくれたので安堵しました。次回は二年後宮崎です。もしかしたら東国原知事も出席してくれるかもしれないそうです。それを楽しみに・・・内緒話・・宮崎の人に聴いてみました。今、旬の人のこと。「知事が変わってどうですか?」「マサカ当選するとは思わなかったのでとてもビックリした。私は東国原知事に投票してなかったから・・・最初は大丈夫かな?と心配だった。でも活気付いてきたので今は、東国原知事でよかったよ」ですって。佐賀だけの難聴会もいいけれど、時には他県の方との交流で色々なアイデアを頂く事も必要のようです。又次に繋げていきたいと思います。 では また・・
2007年10月23日
コメント(0)
十月も半ばになると、だいぶ凌ぎやすくなってきました。朝夕は掛け布団も必要なほどですが、日中は少し汗ばむくらいの熱気です。今日は隣の市まで講演会へ出かけました。人権セミナーの講演で70名ほどです。免許を持たない私は、要約筆記者の車に同乗させてもらい会場へ行きました。時間的に昼過ぎからなので到着したら、まずスクリーンなどの設定後昼飯をとりました。私は自分でサンドイッチを作って持っていきました。昼食後、会場へ行ったら、まぁ懐かしい顔が・・・娘の同級生のお母さんです。「うわぁビックリ!!」「貴女を驚かせようと思って内緒にしてたよ。ハイ頑張ってね」と手作りの可愛い造花を頂きました。彼女Kさんとは娘の小学校から中学校時代、保護者会などで仲良くなり、いつも話していました。およそ五年近く親しくしていました。買い物先のスーパーで会えば悩みや子供の進路など尽きる事がありませんでした。ところが子供が高校に入る頃(15年以上前)彼女一家は、郊外へ家を建て引っ越してしまいました。それ以来、滅多に会うことがなくなりました。「寂しくなったぁ」と残念でしたが、引越し先が講演会場所の隣町でした。「広報で貴女が話すことが判って申し込んで楽しみにしてたよ」とのこと。当時、私は難聴会や要約筆記のことも知らないまま、どちらかと言うと、おとなしい方でしたから彼女も驚いたことでしょう。講演時間は一時半から三時まで・・普通は、大体予定通りに話を終えるのですが、今日はどうした事か勘違いして三時半まで・・・と私の頭のスイッチが故障してました。自身の体験から話を始めて、小学校、中学校、高校、社会人・・と辛かったことも交えて話し時計を見たら三時近く・・・ところが話は乗ってるし、頭の中では三時半まで・・・と思っているので、話し続けていたら要約筆記者がメモに「三時です」と書いて知らせてくれました。またまた予告まで知らせてくれて・・・と変に勘違いし、話しを終えたのが三時十分。(アラッ、二十分も時間が余った)と、それでも気付かない私。司会者の説明後、控えの席に戻ったら要約筆記者から「三時過ぎちゃったよ」と言われ、やっと時間オーバーに気付いたのでした。こんな事初めてです。赤面の至りです。内容は、育児で夜泣きが聞えず主人とともに三人の子を育てた事、主人亡き後、難聴会を知ったいきさつ、要約筆記で話がわかることの素晴らしさ、存在感、耳マークや人工内耳のことまで話し、最後に「若い難聴の方の会を立ち上げる予定です」で締めくくりました。要約筆記の方お疲れ様です。難聴会の例会では聞えにくい方ばかりなので筆記も追いつくようにスクリーンに書き出されている状態を見ながら進めるのですが、今日は聴衆が一般の人なので自分のペースで普通の講演会のように話しました。筆記者は、休む間も無かったでしょうね。終了後、ちょっと休みましょう・・・と咽喉が渇いていたので売店へ行きましたら、若いお母さんみたいな方から話し掛けられました。「今、話を聞きました。有難うございました。私はFさんからmichiさんの話があることを聞いて聞きに来ました。娘が難聴なんです」Fさんは、五歳の子供さんが生まれつき難聴で、私の店にも来られたことがあり、「ダンボの会」という難聴児の親の会を立ち上げられた人です。「小学生ですか?聞えはどれくらい?何級?」と伺いましたら「6年生です。二級です。普通の学校へ通っています」「勉強が難しくなりますね。要約筆記のノートテイクで授業をうけられたらいいですね」と答えましたら「本人がまだ自分の障害をなかなか受け入れられなくて・・・ノートテイクを自分だけ受けるのは嫌だろうし・・・難しい年頃になってますから」と涙ぐまれてました。もう本当に胸が痛みました。昔の私をソックリそのまま見ているようです。私自身も小学校高学年、中学校・・・と補聴器を着けているのが嫌でたまらず、外してしまったこと、聞えないことを知られたくなかったこと、何で自分だけ聞えないの!!と苛立ちを隠せなかったこと・・・がありました。今でも、そうして悩んでいる子がいるのです。何とかしてやりたい・・少しでも悩みを軽くしてやりたい・・・でもその為には、まず自分の障害をシッカリ受け止めないと前へ進めません。「辛いですよね。一度娘さんにも会ってみたいですね。本人は充分頑張っているから、ガンバレというのは酷ですね。だから一般の方に理解を求める為に話しているんです。気楽に(聞えないから書いて下さい)と言えるような世の中になって欲しいですね」と私は話しました。「今日話されていた若い難聴者の集まりでも行きたいけれど、うちの子はまだ子供だから参加は無理だし・・いつか、又お会いできたらいいですね」とその若いお母さんは言ってくれました。その場から去りがたいような感じでしたが、親としても辛いだろうなァと子育てが終えた私でも思います。どこかに行くと、又新たな人との出会いがあり、ほっておけないことが出てきます。何とかしてやりたい、何とかしないと・・・この想いが尽きる日はないようです。また、ひとつ、小学校高学年、中学校での難聴者のことが気になりだしました。少しずつ、少しずつ考えて、できることを進めていきたいと思っています。 では また・・・
2007年10月16日
コメント(0)
十月とは思えないほどの暑さですが、台風の影響か、曇り空で今にも雨が降りそうで降らない、蒸し暑い日々です。住んでいる地区の体育祭の準備で(班長をしている関係で)早朝から、握り飯作りの手伝いがありました。今ごろの時世に市内の中心部にかかわらずまだ炊き出しがあります。多分、うちの地区だけみたいです。難聴会もあるのでバタバタするし、最初は事情を話して、「欠席でいいよ・・」と言われていましたが、気になり、少し手伝いに行きましたが、早めに失礼してチャリンコで難聴会の会場へ直行しました。ハァ~ッ汗ビッショリ。例会は、体育祭や稲刈りのせいか出席者が少なかったです。県助成金で11月11日に難聴会主催の講演会を予定していますので、準備の話から始めました。受付は?司会は?駐車場は?などと要約筆記のOHPスクリーンを見ながら決めていくので、多分、一般の会議の倍は時間が掛かっていると思います。少ない人数の中から係りを決めていくので70歳以上でも立派な戦力です。皆さんが難聴者なので一番困るのが人と接する、会話することです。受付は要約筆記者も側に座ってもらうことで、筆談で応対できます。問題は駐車場です。側に要約筆記者に、ついてもらうほどの人数の余裕がありません。「駐車場では1人ひとりに(会場は前です)と言わないといけないんですか?」と質問がありました。「何か聞かれたら困る」ことが不安なのです。「いいえ、聞かれた事だけ答えて車を誘導してください」と私が答えたら「聞えないし、話し掛けられたら困るので予算があればガードマンを頼めないですか?」という意見が出ました。「ガードマンを頼む余裕はありません。ホワイトボードなどを持ってて書いてもらって下さい」と言いましたら一瞬エーッというような顔をされましたが、私はすかさず「書いて下さい・・ということで難聴者の実態が判ってもらえるから、そのようにして下さい」と答えました。聞えないから何もできない・・・では、いつまでたっても理解を得られません。手話を使えない難聴者には筆談で・・・という方法があることを、身をもって示す良い機会だと思っています。納得してくれたようです。一般の方に手伝ってもらう方法もありますが自分達、難聴者協会が主催なのですから自分達ですることが大切だと思います。殆どが70歳代ですので私より目上の方ばかりですが近頃の高齢者は若いので、できることは、やってもらいたいと思っています。「入り口に案内書を・・」「講師の方は誰が駅まで迎えに行くか?(責任者である私がしないといけない)接待は?」「難聴の方が主だから(筆談用の)メモ用紙を受付に置いておく」などいろんな意見が出てきました。お喋り会は私の店の喫茶店で開催するので雰囲気のせいか、誰でもよく話しますが例会は福祉センターの会議室みたいな所であるので全く話さない人もいます。それで私は、できるだけ話の輪に入ってくれるように気がけていますが、人によっては、なかなか口が重いのです。無理に話させることはしたくありませんが、1人でも笑顔があるか、楽しんでくれているか・・それに重きをおいています。一部の人だけが話して終わり・・・では、折角の集まりの意味がありません。聞こえ難いから、日頃家庭でも話し掛けてもらえない人もいるので、難聴会で心から楽しんでもらいたいと思っています。会員の殆ど聞えない70歳代の女性の事ですが、以前は「どこに行っても話が聞えないから楽しくない」と言われていました。でも難聴会に入って要約筆記者のノートテイクや筆談で仲間と話をして内容が判れば「アハハ」と声高に笑われます。それで「今まで親戚が集まる時全く聞えないでつまらなかったが、この前ホワイトボードを持っていったら、姪っ子達が書いてくれて、賑やかでとても楽しかったよ」と嬉しそうに話されました。もし難聴会に入ってなかったら筆談やホワイトボードのことなど気付かず、ズーッと淋しい思いをされていたかもしれません。こんなふうに「書いてもらえて楽しかった」等と話してくれる笑顔を見ることが私の一番の喜びです。人間らしい感情を保つことが、生きていく上で、どんなに大切な事でしょうか?講演会の準備の話の後、近況報告をひとり一人に話してもらうことにしています。折角難聴会に来たのですから自身が輪の中に入ってもらいたい。中には話すのが恥ずかしいのか「皆さんの話を聞くだけでいい」とニコニコされている方はそれでもいいし、「声が、あまり出ないので読んで下さい」とメモを出される人は他の方が代読しています。このように「きてよかった」「楽しかった」と喜んで帰って頂くと私も張りがあります。結構いろんな意見続出で要約筆記者の手が休まる暇がありませんでした。ずっと書かれていたので(気の毒だったなぁ~でも、お疲れ様!)要約筆記の方のお陰で楽しい例会ができます。感謝です。有難う!!聞えなくて淋しい思いをしておられる方に、ぜひ要約筆記や筆談を知ってもらいたい。人間らしい喜怒哀楽の感情とともに過ごして欲しいと思います。 では・・・また
2007年10月07日
コメント(13)
日中は暑いけれど、夜は大分凌ぎやすくなりました。でも来週から10月だから涼しくなるのは当たり前で、どうかすると秋があまりなくて、いきなり冬になるのでしょうか?まさか、それは無いでしょうけれど、まだ冷房や扇風機が活躍しています。昨日(9月26日)パソコン要約筆記講習の閉講式でした。パソコンをただ打てばいい・・・と言うことではなく、大事な要点を打っているか、難聴者の心理はどんなふうか・・・まで講義がビッシリみたいで皆さん大変だったでしょう。ご苦労様・・・そしてお疲れ様です。修了証を手に活躍を期待しています。専門技術ボランティア・・・といっていいくらい高度なボランテイァだと思います。先日、私の店で難聴会のお喋り会がありました。普通、例会は福祉センター内の研修室で行いますが(黒板もあって、なんとなく授業みたい・・・といわれた人がいました)お喋り会は、私の喫茶店で開いています。喫茶店という店の雰囲気(話しやすいそうです)なのか、テーブルを挟んで、普通喋らない人もすすんで話したりしています。難聴者8~9人プラス要約筆記者3人です。皆さんの顔がニコニコで、筆談、高い声、ワーワーキャーキャー??とても楽しそうです。誰彼となく、お菓子の差し入れが沢山で「アレからこうした、あ~だった」と近況報告です。そんな皆さんの顔を見ていると若い難聴者のことが頭をよぎり、(若い方のことも何とかしないと・・・)と思いました。思うとすぐ動く・・・これが私のポリシーなのです。急ぎすぎて、失敗も数え切れないほど・・・でも動かないと何も変わりません。それで先日、私の店で会った若い難聴者に連絡してみました。早速店に来てくれて「どうしたらいいと思う?」と意見を聞いてみました。20代の彼女は最初に私の店に行くのに大変な勇気が要ったそうです。新聞に掲載された私の記事からFAX番号がわかり、会ってみたい・・ということで店に来てもらいました。最初は全く話さなかったのですが、こちらから話し掛け、重い口が開き、聞えなくてつらかったこと、仕事で嫌な思いをしたことなど・・・次々と話し出しました。それからもう5回以上会いましたが「私の周りに聞えない人が1人もいない。聞えない人と会って話したい」というのが彼女の希望でした。それであと1人の30代の方と、私の店で会えるようにしましたが、両方とも「もっと若い難聴者と知り合いたい」と言ってましたので相談の末、10月27日午後、私の店で集まるように段取りをしたいと思っています。喫茶店で会う方がフランクに話せていい・・・とのことです。どういう方法にするか?地元の新聞の読者投稿欄に掲載をお願いしようと思います。連絡方法はFAXで・・・と思っていましたが若い方は携帯を持っているので携帯アドレスでいいかな?と逡巡しましたが個人情報の事もあるので、こちらのアドレスとFAXで、どうだろう・・・と考えているところです。30代の女性の難聴の方も「今まで自分一人だけで、聞えない方と会った事が無かったので先日会ったことと、又別の若い難聴の方と会える・・・と思うと希望が見えて前向きになれそうです」と、とても喜んでくれました。果たして何人の人が、きてくれるのか未知数ですが最初はゼロでもあきらめず何回もPRしたいと思っています。難聴者のご家族の方、知り合いの方、身近な難聴者に「若い難聴の方の集まりがあるんですって・・・聞こえ難い、聞きづらい方、困っている事、悩んでいることを話しませんか?」と教えて下さい。どうぞよろしくお願いします。若い難聴者の集い 佐賀市中央本町7-8 信用金庫本店前「こうひいの木」 10月27日(土)午後1時半~ 問い合わせFAX0952-24-7126
2007年09月27日
コメント(16)
連日、九月と思えないほどの残暑が続いています。34度前後。本当に異常気象です。いつまで続くのか・・・暑くて体力が消耗しそうです。今日は福岡まで卓球の試合へ行きました。試合の合間に嫁さんから携帯電話の着信が届いていたので(何だろう?)とメールしたら「敬老の日なのでU(五歳の孫)が「ばあちゃんに電話する」と言っているそうです。(卓球の仲間から「幸せや~」と言われました)帰宅後「ばあちゃん、敬老の日(お世話してもらって?)ありがとう」と嬉しい電話がかかってきました。敬老の日は私自身と無縁と思っていたので、ビックリするやら、孫の気遣いに嬉しいやら、有難いやら・・心がほんわかとなりました。金曜日に幼稚園から帰ってきた孫が「月曜日に、ばあちゃんに電話する」と言っていたそうです。人工内耳で電話が聞えるようになり、孫とも話せ、触れ合えて有難い限りです。昨日(9月16日)は鳥栖で要約筆記研修会がありました。今まで、殆どの難聴会員が参加したことが無かったので(私は3回目です)会員の皆さんに声をかけてました。会場には150名ほどの参加者、殆ど要約筆記の方で、その内10名が佐賀の難聴会員でした。(他県からも難聴者が何人か来られていました)他県の難聴会の中では多かった方です。難聴会員は、難聴者大会だけ参加すればいいと思っている方もいますが、中途失聴者にとって要約筆記は欠かせません。ぜひ要約筆記の方の苦労を知ってもらいたい。補聴器をつかっても言葉の判別が困難な方が沢山います。私たち難聴者のために、こんなに頑張ってもらっていることを知ってもらうのも大事なことだと思っているので会員に声をかけ予想以上の参加者が集まりました。ところが高齢者が多いので申し込みがすぎてから「身体の調子が良くない」「ぎっくり腰」「検診の結果が悪かった」続出で4人くらい断りのFAXが入り、その度に次の方を探して何度も主催事務局へFAXしたり・・・とタイヘンでした。(事務局の方に名前の変更で大変迷惑をかけました。)当日、駅で待ち合わせ電車で行ったのですが(30分かかります)高齢者が多いので駅の階段も若い人のようにいかない・・膝を痛めている方に合わせて歩いていると受付時間もギリギリ・・という有様で会場では後部の席しかありませんでした。補聴器の人には磁気誘導ループ線があるのでスイッチをTに切り替えてもらうのですが、その時も補聴器がピーピーとハウリング(音が漏れて廻りに響く)するけど、肝心の補聴器装用者がその音に気付かない・・・などのハプニングがありました。(磁気誘導ループ線の中にいると補聴器をTに切り替えた時マイクの音が聞きやすくなるのです)講師はNPO法人全国要約筆記問題研究会、理事の三宅初穂さんです。「これからの要約筆記」と言う題で話が始まりました。要約技術は、ともかくとして私が関心を持ったのは(なんで、難聴者のために、ここまで勉強してくれるのか・・)ということです。私は小さい時から少しずつ聞えない人生を歩んできたので自分のことで精一杯で人に何かをしてやろう・・・という気持ちは全くありませんでした。要約筆記に限らずボランティアの方は、身の周りに障害者がいたら、少しは手伝ってあげよう・・・という気持ちが芽生える事も納得できますが、全く障害者と無縁の方でもボランティアをされています。すごいなぁ・・・えらいなぁ・・・ただ感服です。ボランティアということは*自発性(自分の意思で)*無償性(見返りを求めず…お金のことではなく)*先駆性(誰もやらないことをやる)*社会性(ボランティアは自分のため、社会の意識を変える)私見ですが、私たちが助かっている感謝の気持ちがボランティアの方の原動力だと思います。要約筆記は普通のボランティアと少し違って技術ボランティアと言われています。ただ書けばいい・・・ではないのです。技術が必要、技術の裏に心が必要・・とのこと。要約筆記で情報保障を受ける難聴者として(大事なことが抜けていないだろうか・・)が気になります。つまりポイントを押さえて書いてもらわなくてはならない。読みやすい字でなくてはならない。以前、補聴器の時は言葉の聞き取りが殆どできなかったので(読唇でした)要約筆記のスクリーンを見たとき、とても感動しました。(今も時と場合でお世話になっています)それと同時にそこに書かれていることだけを話している・・・と思っていました。スクリーンに出ていることがすべてだと思っていました。今、人工内耳で聞えるようになって(あぁ、これ以外にも話していることがあったんだ)と気付きました。考えてみれば当たり前なのです。人間の言葉は一分間に250字~300字話します。それを全部書くことは不可能です。どんなに早くても一秒に1字・・・ということは一分間に60字です。つまり五分の一くらいです。(話の概要が伝わるのです)六分の一でも有難い。要約筆記がなければ情報が入ることは無いのですから・・・たとえ聞えなくてもその場、その時どんな話をしているか知りたい。皆と同じように話を知りたい。話の輪に入りたい。難聴者の切実な願いです。難聴会員は要約筆記の方に、とても感謝されています。「神様みたい」「いつもお世話になります」「感謝しています」との声が聞かれます。パソコン要約筆記も少し活躍しています。まだまだ手書きが多いのですが一長一短です。手書きは「温かみがある」「字数が少ないのでゆっくり読める」弱点として「癖字があったり、文字の大小で読み難い時がある」パソコンは「字が揃っているので読みやすい」「手書きより沢山打てる」お年よりは「字数が多いので読むスピードに追いついていけない」などがあります。残念なことに「耳が聞えない人は手話を使っている」と思っている人が多いことです。社会の常識なのですが、本当は手話を使っている人は二割弱です。それほど人生の途中で音を失う人が多いということです。(全国で毎年二万人ほど聞えなくなっている人が増えているそうです)急に聞えなくなるとショックで手話を覚えよう・・・という気持ちのゆとりがありません。やはり今まで使ってきた日本語で話したり見たりするほうが安心感があるし確実です。手話がいいと思う人は手話を使ったほうがいいです。でも手話を覚えることは、特に高齢者は難しいと思います。自分が好きな方法で手話か?要約筆記かを選択できるようにしたいものです。いろいろな事を考えさせられた有意義な要約筆記研修会でした。まだまだ要約筆記の認知が低いので私もこれから周知してもらう為頑張ろうと思っています。要約筆記の皆さん、これからもヨロシクお願いします。
2007年09月17日
コメント(1)
九月に入って、日中は暑いものの、朝夕かなり凌ぎやすくなりました。ホッとしますネ。関東、北海道では台風が通過し、被害が増えているようです。いつもながら自然の威力には、なす術もありません。収穫間際の梨など落果し農家の方の落胆に胸が痛みます。負けずに頑張って下さい・・・とエールを送りたいと思います。去年暮れ、難聴会主催の「人工内耳、補聴器の講演会」に来てくれたMさんと、時々メールしています。( ご本人の了解をとって書いています)その講演会のとき、沢山の聴講の方にアンケートを書いてもらっていました。その中に「難聴会に入会したいと思いますか?」という項目で、めぼしい方に葉書を出しました。ほとんど返事がきませんでした。イザとなると、なかなか踏み切れないようですが、たった一人返事をくれたのが30代の女性Mさんでした。(後から聞くと、私からの便りを、とても待っていたそうです。)早速、日時を決めて、御主人、可愛い5歳と2歳の男の子二人連れて店に来られました。子供さんがいると話に集中できないので、ご主人が子供さんを遊びに連れて行かれて、いろんな話を伺いました。小さい頃から、少し聞こえにくくなったこと(原因不明)、ずっと普通校に通ったこと、仕事はある工場で働いていること、子供を生んだら、かなり聴力が落ちたことなどなど彼女は辛かったことを思い出し、泣きながら話し出しました。今の悩み・・・というのが、補聴器をつけてもうるさいばかりでよく聞き取れない・・今までの人生で周りに1人も難聴者がいなかった、自分一人だけだった、話せる人がほしい・・そうです。講演会のことを市報で知り、子供達を実家に預けて、ご主人と行ったそうです。(この講演会は、私が一般社会に中途難聴者への理解を求めたくて、いろんな伝から、県の助成金へ応募し、採択されたものです。書類作成が本当に大変でした)会場を見回すと、高齢者が多いので、足がすくんで、余程帰ろうか・・・と思ったとのこと。でも子供達を、わざわざ実家へ預けてきているし、勇気を出して御主人共々入場したそうです。話は、初めて聞くことばかりで、とてもためになったそうで要約筆記のスクリーンに釘付けだったとのこと。(その時ご主人が質疑されたので、私は覚えていましたが、それがMさんだと判ったのは、随分あとになってからでした)Mさんは、アンケートを書くとき{返事がきますように}と祈り?を込めて書いたので、私からメールが来たときは、とても嬉しかったそうです。補聴器も聞き取り難い、仕事でも自分だけ聞えないので辛いことが何回もあったとのこと。それで私が人工内耳の手術を受けた長崎の耳鼻科を紹介しました。彼女は工場で働いているので騒音がすごいそうですが、その中で補聴器を使っていたので容量以上の音が入って、よけいにひどくなった(騒音難聴)との診断でした。早速、聴力に応じた補聴器を試聴期間として、貸し出してくれて、今は以前に比べたら、かなり聞き取れています。(良かった~)と私も自分のことのように嬉しく思います。いつでもメールしていいよ・・・と言ってますので、彼女からよくメールを貰っています。彼女の願い・・というのが自分と同じような若い難聴の方と知り合いたい・・ということでした。私が誘ったので一度、難聴会にも来られたことがありますが、高齢者ばかりなので「老人会みたいで今後は、ちょっと・・・」と 躊躇していました。それで別に、もう1人若い女性を知っていたのでその20代のNさんに連絡をとってみることにしました。Nさんは新聞に掲載された私の記事を読んでFAXをくれた方です。Nさんは片耳だけ聞えないので障害手帳は交付されない軽い難聴者なのですが、軽くても仕事などで悩んでおられます。接客業は聞き取り難いので、ダメだし、工場ではマスクをするので聞き取れない・・・だから仕事がなかなか続かないとのこと。そのNさんも、周りに聞えない人が一人もいないので、同年代の難聴者と知り合いたい・・と言ってました。早速連絡したら、すぐにでも会いたい・・ということで日時を決めて私の店で会わせることにしました。初対面にも関わらず、話が弾んで「私もそうだった」「こんなとき聞き取り難いよね」など3時間くらい、笑ったり深刻に話し込んだり、私も仕事の合間に加わって話し込みました。「きっと私たち以外にも、若い聞えない人がいるはずよね。会ってみたいよね?どうすればいいんだろう?」などと 話が広がってきました。「じゃあ、新聞の投稿欄で呼びかけたらいいかも?」と私が言うと彼女達は「名前を絶対出したくない。難聴会の会場じゃなくて、この店だったら、くつろいで話せるからここで集いたい」と言います。私が名前を出すのは抵抗ないから彼女達の為にも難聴会とは別の集まりを企画した方がいいかな??と考えています。彼女達からすれば私は親の年代なのですが、若くても聞こえず悩んでいる人はきっといるはずだから、これからいろんな方法を探っていきたいと思っています。応援してください。また新たなる一つの目標に向けて頑張り時です。 では また・・・
2007年09月08日
コメント(9)
連日の猛暑の中、佐賀ン町は全国高校野球、北高優勝で湧きに湧きました。準決勝、決勝・・・と進むに連れてメーン通りには人影もなく、皆さんテレビにかじり付いての大声援!!ごく普通の進学校が地元の子供達だけで成し遂げた大勝利です。今年は全国高校総体も佐賀でしたので、若者の活躍が希望を与えてくれました。私が難聴会に属して四年になります。パン教室の先生のご縁で「難聴会、要約筆記」を知ったのがきっかけです。最初は、まずスクリーンに大変驚きました。話が次から次へと書き出されていく・・・もう全神経を集中して文字で話を聞き取り?ました。そして周りを見ると・・・年寄りがほとんど・・・まるで老人会ではないか・・が第一印象です。でも隣に座っていた60代の方がゆっくりといろいろ話し掛けてくれました。私よりは年上だけど、会の中では若い方・・・人工内耳を装用しているとかで{難聴なんですか?}と思えるほど聞えておられます。私に人工内耳を勧めてくれた人です。高校生の時に原因不明の突発性難聴になり、口元を読み取って会話していたそうです。「私もそうだったです」と沢山の共通の話題に話が盛り上がり、私が聞き取れない所では、メモ手帳に書いて話してくれました。(へー―ッ、書くという手段があるんだ)とビックリした事を覚えています。当時会員は10人ほど来ておられました。全体で20人に満たない小さな会です。現会長は仕事が忙しくて来れない・・・とかで会長交代の話が出ていたようです。初回、私は何もわからないまま、スクリーンの話を聞き取っていました。当時私を含めて三人が入会しました。一緒に入会した方とも話しが弾んで楽しい時間を過ごせました。(自分だけじゃなかった!私と同じように聞えない仲間がいる)と胸が弾みました。次回からの難聴会には話し掛けてくれた人に会いたくて参加しました。又一緒に入会した人yさんが、とても優しい人で、私の店にも訪ねてくれるようになりました。残念なことにご主人の転勤で引っ越していかれ淋しい思いをしました。そうして数回参加しているうちに、会の様子も少しずつわかり始め、ちょっとおかしい・・と思うと挙手して「この点は〇〇した方がいいと思います」等と図々しく意見をいうようになっていました。今思えば、それが命取り?です。一年後には「会長はmichiさんにお願いしたい」と言われました。難聴会とは二ヶ月に一回位例会を開いています。着席して前に会長が立って色々な伝達事項を話します。ほとんど全国難聴の連絡とか、どうしたら会員を増やせるか・・あるいは聴導犬のデモンストレーションであったり・・飾り物を作ったり・・・新年会を開催したり・・で食事時は皆さんが和気藹々と筆談したりして楽しまれています。例会時に意見をいう人は限られています。役員をされた方がほとんどです。みんなの前で話すのは恥ずかしい・・・と思うのか、なかなか意見をいう人がいません。その中で私は(おかしい?)と思うと意見をいうものだから目立ったようです。「会長になって下さい」と言われたときは、勿論何回も固辞しました。難聴会が発足したのは平成3年8月だそうです。10年以上も前からおられる会員を差し置いて若輩の私が・・・なんて、とんでもないことです。でも協力するから・・・と言われ渋々引き受けました。入会してから一年後のことです。よし、引き受けたからには、嫌々ながらではなく少しでも動こう・・・これが私の原点です。後から聞いた所によれば「michiさんがいなかったら難聴会は解散しよう・・という話になる直前だったよ。michiさんが会長を引き受けてくれてよかったよ」とのこと。何もわからないまま、引き受けて本当にどうしよう・・・と困りましたが、いつも要約筆記してくれる要約筆記会長Yさんに相談に乗ってもらいながら歩き始めました。会長職がスムーズにいったわけではなく、いろんなことがありました。特に協力してくれる・・と言った会員は「難聴会の中で楽しければそれでいい」という考えだったので私が思うこととずれており段々話が合わなくなってきました。私の考えは難聴会に入っている人は仲間がいるので心配ないが、本当に心配なのは聞えないことを悩んで家で引きこもっている方のことです。だから難聴会以外のどこにいるかわからない、聞えなくて苦しんでいる方に要約筆記などを知ってもらいたい・・・世の中が難聴に理解してくれるよう耳マークを広めたい・・それを考えるようになり、活動しなければ・・・との想いが強くなってきました。それで私に協力する・・・と言われた方は「活動しないと発展は無い」という私と意見が違うものだから、また当時お孫さんが生まれるので難聴会にも行く暇がない・・・ということでやめられました。とてもショックな出来事でした。その方は後ほど私の店を訪ねてくれて、「家庭の事情もあったからmichiさんのせいではないよ。これから難聴会の為にがんばってね」と言ってくれました。私が難聴会外に目を向け始めたので意見が合わなくなって活動をやめた方がいいんじゃないか・・と悩んだこともありましたが要約筆記のYさんに励まされて進みました。そうして今に繋がっていきました。何でもスムーズにいくほうが無理・・・とはわかっていても全ての方の賛成が得られることは無い・・と割り切らないと進めないのです。いつも悩みながら、これでいいのだろうか?イヤ進むべきだ・・と葛藤しながら歩いています。まだまだ未熟で失敗も数え切れないほどあります。でも自分の道を行くだけです。 では また・・・
2007年08月29日
コメント(0)
今年は本当に猛暑です。クーラーなしではおれないほどの35度を越える暑さ・・眠れないほどの熱帯夜・・エアコンなどの使いすぎで地球の温暖化が危惧されているけれどクーラーなしでは熱中症も心配だし・・・孫が大人になった時にはどんな地球になっているのでしょう・・・不安、怖いですね。ところで、私がこうしてブログを書くなんて思ってもいなかったです。何でこんなに書くようになったか・・・と元を辿っていくと、全て主人が亡くなったことがきっかけなのです。主人が亡くなって早や10年経ちます。それまでの私は主人の庇護のもと、店と家庭だけが生活の全てでした。喫茶店の裏方・・・として厨房だけ・・・あとは子育て、家事だけで全く不満もありませんでした。主人や子供達といつも会話があったからです。たまにPTAに行っても話が聞えず面白くないから、家に帰り主人と話すほうが余程楽しかったし(私の居場所は家庭しかない)といつも思っていました。時々近所の友人とお喋りするくらいが家庭外との接点でした。(それでもスーパーなどの買い物で出会った人と友達になったりしてました)それが主人が3年の闘病後、亡くなってから胸に大きな空洞ができました。何をしても楽しくない、子供と喋っている時や、店をパートの人に手伝ってもらって営業している時は、少し気が紛れるけれど、いつも空洞感を埋められず雲の上を歩いているような気分でした。空虚感、寂寥感、涙ばかり流れてきます。(子供がいても埋まらなかったのです)一年くらいは毎晩涙が流れて、とても辛い日々でした。これではいけない・・・と思うようになった二年弱、新聞に「卓球始めませんか?」の記事が載っていました。「これだ!」と思ったその日、記事に載っていた人を訪ねました。「卓球したいけれど耳が聞えなくてもできますか?」「耳が不自由なら障害者卓球クラブがありますよ」と教えて頂いたその足で又次のところを訪ねました。そして「翌日見学だけでもどうですか?」と言われ見学のその場で卓球クラブへ入会しました。全く知らない人ばかりで1人で入会して心細かったけれど「耳が聞えないので宜しくお願いします」と周りの方に挨拶しました。卓球クラブは健常者が半分で他は足や手の不自由な人、車椅子の人、1人だけ耳の不自由な若い女性がいました。スポーツとは無縁の生活だったので勿論卓球も50歳過ぎて初めてです。最初はラケットに球があたらない、あたったとしても球がとんでもないところ・・天井や隣のコートの人に当たったり、あまりの下手さに「すみません」の連発でした。そんなにして休まずに通い始めると自然と話す人も少しずつ増えてきました。ある日「一回だけのパン教室に行かない?」と仲間から誘われました。その頃は、何でも断らずに行ってみよう・・という気になっていたので行きました。15人ほどのメンバーの中で耳が聞えなかったのは私一人だけでした。仲間が気を遣ってくれて「michiさん前のほうへ行ったほうが聞こえるよ」と言うので前へ行ったらパン教室の先生がパンをこねながら「耳が不自由なんですか?」「ハイ耳が聞えません。手話もあまり知りません」と答えたら「貴女みたいな方が谷間にいる難聴者なんですよ。手話を知らない人に中途難聴会や要約筆記がありますよ」「要約筆記???谷間にいる難聴者?」サッパリ意味がわかりませんでした。手話も知らない、マイクや話し声も聞えない・・・だから谷間にいる難聴者・・・なんだと。よく聞けばパン教室の先生は要約筆記の会の副会長だったのです。(現在は会長)暫くしたらFAX番号を知らせていたので「手話ダンスに来ませんか?難聴会に来ませんか?」とFAXが送られてきました。このときは前向きになっていましたので迷わずに難聴会へ行きました。4年半前です。そこで初めて要約筆記のスクリーンを見た時の感動・・・涙が出ました。(ここにやっと私の居場所があった。話のわかる方法があるんだ)と。そして子供達に話しました。「要約筆記ってすごいよ!!お母さんも話がわかるのよ」と。そこで人工内耳のことも初めて教えてもらいました。tomoはその頃から「難聴者が経営する喫茶店」を考えていたようです。既存の喫茶店をリニュアールしたら?と私に勧めて試行錯誤の末、実現しました。友人が「市会議員に知り合いがいるから・・・」と要約筆記のことを議会の一般質問に取り上げるようにしてくれたり・・・いろいろ手伝ってくれました。その後は流れるようにして道が出来ていきました。あたかもこの道は作られていたのではないか・・・と思えるほど次から次へと手伝ってくれる人も増えてきました。信じられないほどに・・この活動の延長で知り合いから、知り合いへ・・・と知人が増えるうちに、仲良くなったMさんから、ついにカンボジアへ誘われ海外まで行きました。今でもMさんは、人工内耳で聞えるようになった私を「michiさんに聞かせたい」とコンサートへ誘ってくれます。もし、卓球をしていなかったら・・・今の私はいません。パン教室を断っていたら勿論・・・今の私はない。tomoの言う事を聞いてなかったら(難聴者が経営する喫茶店)もなかった。tomoから勧められて触ったことも無いパソコンで(tomoが)ブログを書けるようにしてくれた。店のお客様と友達になり台本付きで観劇まで、広がりました。人工内耳もtomoがインターネットで調べてくれて強く勧めました。思い返せば一歩進むごとに新たな道ができていったのです。自分の人生は、自分で作っている部分もあると思います。きっと一般の人も、進めば道が開けるのではないでしょうか?空洞感を埋めよう・・・と歩みだした時から人生も少しずつ変わっていきました。お金が増えたわけではない・・・でもお金で買えない、友人、知人が増えました。店のお客様、要約筆記の方、卓球の仲間、難聴会の方、活動を通じて知り合ったボランティアの人たち・・・たくさんの方の心を頂いています。それでも主人がいたときのような充足感はないです。多分主人にしかこの隙間は埋められないでしょう。でも以前より人生を前向きに思えるようになってきました。全ての方に感謝したいと思います。「有難う!アリガトウ!サンキュー」
2007年08月20日
コメント(8)
連日の酷暑で熱中症に罹る方が増えているようです。昼間は焼け付くような陽射しで、熱帯夜・・・と体力も低下しバランスが崩れがちです。こまめな水分補給、適切な休養でこの夏を乗り切りましょう。夏休みでtomoの子も帰ってきて、娘の子共々、第二の子育て・・かと思うほどの忙しさです。私自身が子育てしていた頃の事が思い出されます。子供は小さい頃はよく病気をします。風邪、腹痛、怪我等、その度に小児科、外科へ走っていました。まだ赤ん坊のうちは、私も聴力が90dbくらいだったので(それでも軽くは無いけれど)医師の診断の時は、補聴器と、口元を読み取り確認していました。それでも二人目、三人目とお産するたびに聴力が著しく低下しました。私の場合、子育てで困ったのは夜泣きと病院の診察です。夜泣きは、毎晩、何回も泣くたびに主人が起こしてくれていたので、そこまで困らなかったのですが、病院通いは、本当に大変でした。一番私を助けてくれたのはtomoです。tomoが一歳九ヶ月のときには長女Kが生まれたので風邪を引くと二人とも・・なんてことは、よくあってその度にtomoに言い聞かせるのです。受付する前に「tomo、〇〇さんって呼ばれたら、必ず教えるのよ」と何回も言ってました。一応、受付の人にも「耳が聞えません」と言っておくのですが、小さな小児科なので、いつも受け付けに担当の人がいたわけではなく、バタバタされていたので(もしかしたら呼ばれたんではないか?)と気が気ではありません。小さなtomoも自然に私が聞えないことをわかっていましたので、熱でグッタリしながらも呼ばれるのを気に掛けていたようです。私の手をちょっと触ってくれます。「呼ばれた?〇〇さんって言った?」と tomoに確認して受付に聞きますと、殆ど間違いなく呼ばれてました。今思えば二歳過ぎた頃です。その時は(tomoエライね)なんて思う心のゆとりもなく小さなtomoが私の命綱・・・でした。診察室に入る前にも、ちゃんと言い聞かせておきます。「お母さんが食べ物は何でもいいですか?とか、お風呂はいつから入っていいですか?と聞くからtomoは先生の言った事をあとでちゃんと教えてね」と何回も言っておきます。小さいながらも本人が熱がある時でもtomoは大事なことはちゃんと聞いていてくれてました。「お粥」とか「風呂はダメッて」とか「また来なさいって」とか単語だけですが私に教えてくれます。要約筆記を知った今思えば、(何で筆記して下さい)という考えが及ばなかったのだろう・・とつくづく思います。書いてもらう・・・ことは全く頭にありませんでした。気がつきませんでした。私の周りに聞えない若い母親は1人もいなかったし、仕方ない・・・といつも思っていました。tomoも(小さな自分が聞いておかなければ・・・)なんて思ってもいなかったでしょう。きっと私が言い聞かせていたので病院へ行けば、自分が聴く・・・ことは当たり前だったに違いありません。このことでtomoから何か不満に言われたことは一度もありません。きっと我慢していたのでしょうね。こうしていく内に、今度は長女Kも自然と私に教えてくれるようになりました。tomoだけに言い聞かせるのではなく、Kにも言ってましたから・・・二人とも市役所などでも、大人の会話に入って私に教えてくれたものです。きっと子供心にも世間の見えない差別を感じ取っていたのかもしれません。以前は今ほど障害に理解が無かったから・・tomoが7歳の時末っ子が生まれたのですが八ヶ月の未熟児で、又病院通いが続きます。未熟児網膜症の検査が必要だということで、大きな総合病院へ何回か行かなければなりませんでした。その時はサラリーマンだった主人が会社を休んで一緒に行ってくれました。とても安心したものです。医師の説明も、全て主人が聞いてくれるからホッとしたのを覚えています。その時はtomoやkの気持ちを思いやるゆとりも無かったのですが、子供が大きくなってKが「お父さんがどこかへ一緒に行ってくれると、すごく嬉しかった。だってお母さんに教えてやる為に、いつも聞き漏らさないようにしてたけど、お父さんがいると何にも考えずに遊べたもん」と言いました。考えてみればまだ幼稚園に行かないうちから、私に教えてくれていたのです。そして、その頃tomoやkは私に「聞いて教えるのはイヤだ」と言ったことは一度もありません。子供心ながらに私の耳代わりにならないといけないと思っていたのでしょう。そして末っ子といえば兄や姉が聞いて教えてくれるので(いつも子供達みんな連れて行ってましたから)何も考えないでよかったからか、のほほんと育っています。勿論、私に教えることもしなくていいので、ごく普通の子供のようにゆったりと遊んでいました。子供達が小学校に入るようになって他のお母さんと、自分の母親は違う・・・ということに気がついてtomoとkは私が聞えないことを努めて知られないように苦心していたようです。それに比べ末っ子は平気で「うちのお母さん、耳が聞えないよ」と隠さずに言ってました。(何で隠す必要があるの?悪いことしてるわけじゃないのに・・・)という気持ちだったようです。勿論末っ子も大きくなったら兄や姉が部活などで帰りが遅くなってきて耳代わりをしてくれるようになりました。こうして三人三様のやり方で私を支えてくれました。話すときは必ず目を見て話す・・私がわかるまで何回も言ってくれる・・・どんな小さなことでも目を輝かせて話してくれました。私が一生懸命聞かないと聞き取れなかったからでしょう。もし健聴だったら、こんな心の結びつきも無かったでしょう。子供達はそれぞれに家庭を持ち、巣立ちましたが三人共「お母さんのことは私たち全部が大事に思っているよ」と嬉しいことを言ってくれます。その気持ちだけで充分有難いと思います。主人が亡くなる直前「みんな仲良く」と何回も言って旅立った最後の言葉を心の支えとしてこれからも生きていきたいと思っています。 では また・・
2007年08月12日
コメント(4)
台風が通過したところです。夕方店の帰り頃は風がひどくなり、傘もさせない状態でした。今、深夜。家では、人工内耳を外していて、全く聞えません。外の風の音も聞こえないので恐怖感も無く、こんなとき、人工内耳の取り外しができる難聴って便利だなぁと思っています。普通の人は怖い音を消せなくって可哀相・・・ですね。先日の難聴会例会で、知り合いのHさんに、歌のサービスに来て頂きました。50代のHさんは、趣味で音楽をされていて老人施設や公民館など声がかかればどこでも行かれます。自称「ギター一本の零細企業?」だそうです。ずっと前から「歌のサービスにきていいですよ」と快く言って下さっていたHさん。私は人工内耳で聞えるからいいものの、全く聞えない会員がいます。どうしよう?と考えていたけれど、一回位はいいかな?という事でお願いしました。要約筆記の方に「歌のサービスに来てもらう予定なんだけど」と話すと「聞えない会に歌のサービスにきてもらって、どうするの?聞えない人が楽しめないでしょ?」と心配してました。「ちょっと30分だけでも・・」と答えましたが、全く聞えない方が疎外感を味わわなければいいけれど・・・と内心(私も)心配してました。念のためHさんに「歌詞プリントを持ってきてください」と頼むことにしました。通常Hさんは、歌詞プリントは持っていかないそうです。歌詞プリントばかり見て、肝心のHさんのほうに顔が向かなくなるからだそうです。でも歌詞プリントがないと、難聴者は楽しめません。何の歌を歌っているのかもわからない。ギターも聞えない人がいます。午前中は難聴会の伝達事項で時間が潰れるので午後から来てもらうことにしました。休憩の時に全く聞えない70代のEさんに「昼から知り合いの人が歌のサービスに来られます」と筆記しました。「ハイわかりました」と快い返事をもらいましたが、それでも心配でした。さて、いよいよHさんの歌の時間です。まずギターの調整・・・ポロン♪ポロロ~ン♪OHP(スクリーン)に要約筆記者が筆記してくれます。自己紹介から、ゆっくり話し出してくれました。歌は「お富さん」「高原列車がいく」「君恋し」「林檎の歌」など戦前、戦後の歌です。会員が70~80歳が多いからです。話はスクリーンを見るとわかりますので普通の方から比べるとワンテンポ遅れますが(筆記してくださったのを読むから・・)面白いところは笑い声がドッと起こります。特に佐賀弁の話では地元しかわからない言葉の続出で爆笑でした。歌の場面になると、要約筆記の方が素早く歌詞プリントを映し出してくれペン先でなぞってくれます。気になってEさんをそっと見ました。テンポは遅れているものの、ちゃんと声を出して歌われています。(あ~ぁ、よかったぁ!楽しまれてて)と安堵しました。若い頃の知っている歌が多かったようで、他の皆さんも手拍子まで出ました。70代の女性(おばあちゃんだけど、この頃の70代は若い!)が手を上げて「すみません。高原列車がいく・・を歌ってください。初恋の人と歌ったんです」とアンコールがありました。「わ~~っ」とパチパチすごい盛り上がりようです。若い頃を思い出されてニコニコ顔。張り切って歌ってくれたHさん、有難う!!戦争の話もありました。Hさんのおじさんが船に乗っていて狙撃され、海に放り出され紙一重で助かり、終戦後大分経ってから復員された事など・・皆さん涙ぐんでおられました。「戦友」「麦と兵隊」などの歌は私はあまり知りませんでしたが、一緒に口ずさんでいた方が結構いました。Hさんが「皆さん、時間は大丈夫でしょうか?だいぶオーバーしてしまいましたが?」と言われたらEさんが「大丈夫ですよ。まだ電車の時間まで(〇時まで)ありますよ」と答えられたのにはビックリです。本当は皆さんが楽しめるかどうか、わからなかったので30分前後と思ってお願いしてたのに、もう既に一時間以上過ぎていました。皆さんが楽しまれたことが一目でわかりました。Hさんにお願いしてよかったぁと胸をなでおろしました。後日80代の女性からお礼のFAXが届きました。「Hさんのギター持参での歌やお話などで、とても楽しく、久しぶりに心底から涙が出るほど笑が止まりませんでしたよ・・・」と。また他の会員も「初めは歌がある??と聞いて、聞えない人にどうする?と思っていたがHさんの話が面白かった。歌も楽しかった。又、きてもらいたいね」と言われてました。「OHPがあったから、よ~くわかった。歌詞もなぞってくれて楽しめたよ」ということでした。難聴者は 普通面白い話を聞く機会もないし、テレビの落語や漫才など全く聞き取れません。テンポも早いし、まず話を聞こう・・という気も起こりません。なので久しぶりの面白い話に心から笑えたのでしょう。これからもまたお願いしたいと思っています。Hさん、どうぞ宜しくお願いします。
2007年08月02日
コメント(4)
連日、酷暑が続いていて今日は何と36℃。暑いはずです。外に出たら耐えられないほどの照り返しです。外で働いている方は大変でしょう。梅雨明け前の夜中は肌寒くて目が覚めたほどですが、この頃は暑くて寝苦しいですね。私は一通りテレビのニュースは見るほうですが、皆さんはどこから情報を入れてらっしゃいますか?最近、インターネットでのニュースも一通り目を通しますが、テレビのニュースも良く見ます。ニュース番組は好きですね。一長一短ですがインターネットは自分が気に入ったものだけ見るので片寄りがちです。知りたい事柄は詳しく見れるけれど、関心が無い出来事には目も通さなくなります。速効性ではテレビが一番ですね。少々聞えなくても、最近は字幕も出ますし、割とわかりやすいです。それに一通りの世の中の動きがわかる。チャンネルを変えながらコメンターによって、いろんな見方があるのが面白い。特に選挙前の今は各党の方針(選挙が終わったら、いつの間にか、公約も忘れられたりして・・・)、事件や事故など・・・世の中の動きには敏感でありたいものです。本当はラジオが一番早いかもしれないけれど、生憎とラジオとはずっと無縁の生活です。ラジオを聞きながら、手仕事・・なんて、すごいなぁ・・・と感嘆しきり。時々、「夜、眠れない時はラジオを聞きながら楽しんでるのよ」と知人が言うと(どんな感覚なのかなぁ、話を聞くだけでも楽しめるのかなぁ)なんて思っていました。人工内耳を装用した今でもラジオは聞いた事がありません。声だけで聞く・・・というのは、かなり疲れるからです。まだしもテレビだと画面を見ながらなので、よくわかります。特にこの頃は人工内耳専用のイヤホーンを使うと、ほぼ聞き取れるのでニュースも面白くなりました。人工内耳を装用したばかりの頃はイヤホーンを使っても言葉がうまく聞き取れませんでした。一年以上、放っておいたイヤホーンを、試しに最近使ったら、よく聞こえるようになっていることにビックリしました。(人工内耳は二年ほどは聞えの能力がアップするそうです)イヤホーンの難点は他の人と一緒に楽しめないことです。音が他の人には、聞えないからです。だから私がイヤホーンを使っていると、他の人は声が聞えず画像だけでテレビを見てたりします。自分自身、イヤホーンでクスッと笑ったりすると、普通の人と同じようになった気分で、ちょっぴり嬉しいです。(話が聞え内容が判って、笑えるようになるのが夢だったのです)でも他の人は、私と立場が逆になってて(聞こえない人はいつもこんな状態でテレビ見てるのよ)と、少しは聞えない不便さを理解してもらえるんじゃないでしょうか?一番確実なニュースは、やはり新聞がいいですね。新聞は、スポーツ欄を除いて、殆ど目を通します。利点は自分の都合の良い時間にジックリ読めること。新聞は小説も載っているし、続きが楽しみで待ち遠しい時もあります。それに内容が社会、政治、経済、家庭・・・と幅広いのが嬉しい。特に読者の投稿欄は賛否両論で、一つの物事をいろんな面から考えさせられるのが良い。自分の意見が正しい・・・とは限らないので、すごく人生勉強させてもらっています。いつも、ハッとさせられることがあります。高齢者から 若い学生(若い人の文字離れが言われていますが)まで幅広い世代の意見を知れるのは新聞ならではの利点です。そして聞えない私にとって目から入る情報が一番安心できるのです。新聞を読まなくなる時は、多分人生にも張りが薄れる頃ではないでしょうか?テレビのお笑いや楽しい番組ばかり見ていると、思考力が落ちてしまうような気がします。いつまでも、テレビのニュースや新聞に好奇心を持ち続ける生活でありたいと思っています。ニュースに限らず、何事にも好奇心を持つ・・・それが人生には大切ではないでしょうか? では・・・・また
2007年07月26日
コメント(12)
七月に台風が上陸したのは、初めてのことでしたが、他地方では被害があり、また今日は新潟で大地震が起き、自然には勝てない・・・と思うこの頃です。被害にあわれた方お見舞い申し上げます。人工内耳の手術をして来月で二年近くになります。先日長崎の耳鼻科へリハビリに行ったら、また少し聞こえるようになっていました。30dbで、言葉の理解能力(耳だけで1語を聞き取る)も約7割でした。前回、試しに初めて音を入れたときの音域を聞かせてもらいましたが、今ではもの足りないほど音が低かったです。初めて聞いた音・・・当時は喧しくてうるさくて耐えられないほどだったのに、今ではその音が低く感じられます。音域が広がっている事が実感できました。人間の脳って凄い!ところで人工内耳で初めて聞えた音が沢山あります。小さい頃は、聞こえていただろうけれど2歳前のことですから覚えていません。それから50年以上のブランクがあります。補聴器でも、そんなに聞えていたわけではないのです。初めて聞いて一番ビックリしたのがスーパーの袋のこすれる音。うるさくて、うるさくて、本当にうるさいです。今では少し慣れましたが、それでもたまには、やかましくて人工内耳のスイッチを切ったりします。レジの音もうるさくて買い物中、よくスイッチを切ってたなぁ・・それと蝉の音。一番初めに聞いたのはカンボジアへ旅行に行った(手術後4ヵ月後)真冬の事。カンボジアは夏で30度近い気温だったので鳴いていたのですが、それが蝉の声だとは知りませんでした。一緒に行った仲間が「michiさんに聞いてもらいたかったよ」と。「ホラ、何か音が聞えない?」と問い掛けられ「何か音がしてるけど何の音か、わからない」と答えたら「蝉の声よ」と教えてくれました。「ウワ~ッ蝉ってあんな声?」「日本の蝉と少し違うけれど蝉の声よ」と私が聞えたことを仲間が喜んでくれたっけ。術後すぐに家で「電話がなってるよ」と私が言うと「なってないよ」と娘が答えました。「なってるじゃない」「なってないよ」と押し問答の末、娘が「どんなに聞えてる?」と言うので「リリ―ン、リーンって」と答えたら「あぁ鈴虫の声よ」と教えてくれた時、感動のあまり涙が出た事もあります。(これが虫の声なんだ、他の人と同じように聞えるんだ)と。紙がこすれて音がしているのも新発見・・・ビックリでした。紙にも音がするなんて・・又水道の水の流れる音・・・お湯が沸いたら音がすることも驚きました。風にも音があるのですね。ヒューッとか優しくサワサワと・・これも発見!電子レンジや洗濯機にも終了音があるのです。驚きの連続!またまた驚いたのは電気・・・特に冷蔵庫にブーと音が出ていること・・うるさい・・とスイッチを切ったりします。うるさい時スイッチを切れるのは便利です。健聴者に無い特権です。居間でくつろいでいると、また音がしてる・・娘に「何か音がしてる」と言うと、娘は「してないよ」と言う。「ホラしてるじゃない」「どんな音がしてる?」「チッチッ・・」「あ~ぁ、時計の音よ」と娘から教えてもらいました。なんとも、周りにこんなにたくさんの物音がしているなんて知りませんでした。最初の頃は、しょっちゅう娘達に「〇〇に音があるのを知ったよ」と携帯で即メールしていました。娘は「そうよ。周りは音の洪水よ。音が氾濫してるよ。聞こえてよかったね」と返信してくれてました。聞こえるようになって他に驚いたことは、普通の人は、こんなにうるさい日常生活を平気で送っていることです。よく平気な顔しているなぁ・・・と。うるさくないのかな?と。今では音のある暮らしに慣れたので以前のように「うるさい」と感じる事も少なくなっています。聞こえるようになったのと同時に音には身を守る術もあることがわかりました。車の音、踏み切りの音、救急車の音・・全ての音が我が身を守るのだと再認識しました。今まで見るだけで確認していたのが、視野に入らなくても音だけで危険を把握できます。これにも驚きました。人工内耳で言葉がわからないなら、手術する価値が無い・・と思っていましたが、どうしてどうして、こんなに沢山の生活音があることを知ったのは大きな収穫でした。勿論、言葉もわかりますが、(言葉が第一だけど)生活音も捨てたものではありません。音楽は今一ですが、孫と聞く童謡はわかりますし昔の歌謡曲も楽しめます。音のある暮らし・・・今まで白黒映画だったのが、カラー映画になったような気分です。50年過ぎて、初めて聞こえた音に感動する人生も満更悪くないなぁ~と思う今日この頃です。 では また・・
2007年07月16日
コメント(2)
空梅雨だと思っていたのが一転して土砂降りになりました。先日は要約筆記講習会で(体験発表)の予定でしたが、家を出る直前から凄い雨になり、傘をさしていた私はずぶ濡れ・・・自転車だったので、本当は雨が止むまで待っていたかったのですが時間も迫り、やむなく進んでブラウスから下着まで濡れる有様・・・会場に着いたら、要約筆記の方がタオルを貸してくれたり、自分の服を脱いで(重ね着された方だったので)着せてくれ、ジャンパーを貸してくれたり・・・皆さんの優しさがとても嬉しかったです。空はどんよりと重い雨雲でしたが、心は温かい灯が点り・・・皆さん有難う。私は3年以上前から「難聴者が経営する喫茶店」を1人でやっています。「聞えなくてどうして1人でできるの?」と皆さん不思議がられます。そんなに忙しい店ではなくボツボツなので1人でできるのですが、それには私を助けてくれる機器があるからです。まず「シルウォッチ」・・・これは腕時計式です。(目覚まし時計も兼ねています)店が二階にあるので、階下の階段入り口に赤外線で知らせるチャイムをつけています。このチャイムの音は人工内耳のスイッチを切ったら全く聞こえません。又チャイムの場所から離れると気付かない事がよくあります。それに人工内耳の空気電池は3個必要だし、しかも一日中、人工内耳を使うと3日で電池が消耗します。定価6個で1500円の電池では経済的に大変なのでお客様が来られた時のみスイッチを入れています。(普通に使うと6個の電池が6日で無くなるのです)チャイムがなると、チャイムの音をシルウォッチが振動で(来客を)知らせてくれ、それから人工内耳のスイッチを入れます。お客様の声の質によって感度(ボリューム)を上げたり下げたりして調節しています。人工内耳手術前は補聴器でしたが聞き取りが良くなかったので、「私は耳が不自由です。少し大きな声で言ってくだされば助かります」と書いたカードと共にお冷やお絞りを出してました。各テーブルにも「私は耳が不自由です。メニューを指していただくか筆記して頂ければ助かります」と書いたものを挟んでいます。以前、補聴器の時に来られたお客様(中年の男性)が「バナナジュース」と言われたのが、聞き取れなく3回ほど聞き返した事があります。3回目にバナナの皮を剥くジェスチャーをされたので注文がわかったこともありました。「聞き取れなくて申しわけありません。」と失礼を詫びたら「いいえ、いいですよ」とニッコリされたのでホッとしましたが・・・こんな風で失敗談は数え切れないくらいありますが、もし「聞えません」と書いたものを置いてなかったり、聞えないことを公言していなかったら、とても落ち込んで悩んでいたでしょうね。こんな小さな「聞えません」カードでも私を助けてくれる必需品なのです。人工内耳装用後は以前より聞えが良くなったので、あまり使わなくていいようになりました。あとテーブルに置いているホワイトボードとカウンターに置いているA3メモ用紙も、とても役に立っています。人工内耳を使っても健聴者のように聞えるわけではないので、時々複雑な用語が出たりすると、お客様に筆記してもらう事もあります。あと私を助けてくれるのは常連さんです。カウンターに常連さんが座っていて、テーブルのお客様が食事(カレーやピラフ)を頼まれた時、厨房に入るのですが店内の音が聞こえ難くなります。それで他のお客様が「お勘定を・・」と言われるとわからない。その時常連さんは手馴れたもので「お客さんが勘定だって」と厨房の入口まで来て教えてくれるのです。お客様が何人か一緒に重なると常連さんは「私のはあとでいいから、テーブルの人の分を先に作っていいよ」と言ってくれます。どうかすると出前(近所から時々出前注文が入ります)まで常連さんが運んでくれたりします。また仲良くしている常連さんなど時々おかずの差し入れも持ってきてくれます。その方の、時間が無い時は「自転車の籠におかずを入れてるよ」とメールが入っていたり・・・で決して多くはないけれど友達みたいになったお客さんが数人おられます。このように私を助けてくれる常連さんや便利なシルウオッチ、メモ帳などのおかげで1人で店ができるのです。こんなとき、1人で生きているのではない、皆に助けてもらっているんだ・・・と凄く有難く思います。私が難聴会を知らないときに比べて、何といろんなことを知ることができたでしょう。要約筆記、人工内耳、耳マーク、シルウオッチ、文字放送・・・など聞えない私を助けてくれる様々なもの・・・そして一番は友達、要約筆記の方、常連さん・・・つまり、人です。機器ではなく、人なのです。これからも、どうぞ宜しくお願いします。 では また・・
2007年07月06日
コメント(2)
暑い日が続いています。雨も降りそうで降らない。ムシムシムーン・・梅雨明けの少し前に、ドカンと洪水になってしまうのでしょうか?そうなれば大変だけど、農家の方のためにも、降ってくれないと困りますね。先日、知人が「子供(20代青年)の歯がボロボロでね~多分中国の歯磨きのせいよ」と。聞けば中国で8年暮らしていた息子さんの歯が、若い人とは思えないほどモロイのだとか・・毎日、中国製の練り歯磨きで磨いていたからだろう・・・と。今は日本に帰ってきていて歯医者通いらしいです。最近、中国製練り歯磨きが問題になっています。成分にジエチレングリコールが入っていてひどい所(パナマ)では多数の死者が出たそうです。パナマでは練り歯磨きではなく咳止め、抗アレルギー剤にジエチレングリコールが入っていて、心臓や腎臓神経系に影響を及ぼし多数の方が亡くなったそうです。こわ~い・・・と思いました。私は時々、難聴者福祉大会や卓球の試合で泊まりに行くことがあります。でもホテルなどに、備え付けてある練り歯磨きは使ったことはありません。歯ブラシだけで磨いた方が、まだしもいい。タップリ練り歯磨きを付けて磨く人もいますが、怖い・・と思ってしまいます。何も知らない10年以上前は練り歯磨きで磨いていましたが、何かの本に「口の中に入れるものは注意しよう」と書いてあったのを見て、それ以来ずっと粗塩で磨いています。練り歯磨きで磨くより粗塩の方が口の中がサッパリとします。日本製の歯磨き剤も怖いくらいです。ちなみにジエチレングリコールを調べたら信じられない用途に使われています。工業用溶剤、不凍液、燃料添加剤、ブレーキ剤などです。とても人間の身体に入れるようなものではない。日本の歯磨き剤は、そこまで危険なものはないと思うけれど最近は偽装が多くて信じられなくなってきています。以前から偽装はあっただろうけど最近は、次から次へと暴かれています。内部告発文書で明らかになった、大騒ぎの北海道「ミートホープ」の牛肉コロッケ。食生活で安全と思われている生活共同組合で売られていた「ミートホープ」の牛肉コロッケ・・・豚肉、鶏肉、鴨肉が原料なのに牛肉と信じて食べていた消費者。何を信じて食べればいいのか・・私はまず、市販の弁当は買った事がありません。防腐剤などが入っているから、なんともいえないような味がします。舌に残る・・・というか。どんな時でも必ず手作りのものしか食べません。これでも添加物を100%取ってないとは言い切れないけれど少なくとも自分(子や孫も)の身は自分で守るしかないと思っています。怖いことにコーヒーフレッシュは水とサラダ油と添加物で作ってあるそうです。体の為に良い・・といわれるパックサラダは切ってあるのでとても便利みたいですが、殺菌剤のプールで何度も消毒されています。(長時間腐らないほうがおかしいのです)子供の好きなミートボールは廃棄寸前の屑肉を大量の添加物で固めたものです。また、柔らかい色の悪い低級タラコも添加物の液に一晩つけてピカピカの高級タラコに変身して、わざわざ高いお金を出して買っている。数え上げればキリがない程の添加物の氾濫です。この添加物も法を犯しているわけではない。一流メーカーが、一流スーパーが売っているから大丈夫だと思っている。何でも少しずつだから大丈夫・・ということではなく体内に蓄積されれば長い人生・・・莫大な量になるでしょう。それが元で以前は無かったような病気が増えてきているようです。癌も多い。できれば和食が人間の身体にいいようですが、魚もメチル水銀が含まれていて、これまた蓄積されれば怖いものです。せめて畠の肉といわれる大豆だけでもいいのかな?と思っています。便利さと安さの代わりに私たちは何を失っているのか考えさせられる今日この頃です。ちょっと硬い話になりましたが安全神話が崩れていく日本の将来が不安ですね。 では また・・
2007年06月28日
コメント(6)
平年より遅れての梅雨入りです。今日の天候はひどかったです。雷、横殴りの暴雨、とまるで嵐のようでした。雷の音の凄さも人工内耳で耳に入るので(ウワーッ、凄いっ!)とお客様と感嘆の声・・・まだまだ、これからも雨ばかりでしょうね。先日、県外へ卓球の試合へ出かけました。車の中で女ばかり四人。私は後部席でお喋りを楽しみました・・・と言いたいところですが残念ながら、全部の会話は無理です。時々、隣に座っているTさんが「今〇△の話よ」と教えてくれますが、ついつい話が弾むと私への説明が少なくなります。高速道路に乗ったら、尚更わかりません。ゴォーッと車の音で話し声が、かき消されてしまいます。(何の話かな?聞きたいなぁ、でも話の腰を折るのも悪いし・・)と思いは逡巡します。聞きたいのに聞えない・・もどかしさ。もうイライラして思い切って人工内耳のスイッチを切ってしまって自分だけの世界に入り込もう・・としたら、隣に座っているTさんが「今、×〇の話よ」と教えてくれました。そしたら単純なもので(私のことを少しは気に掛けてくれているんだ)と思って気が楽になります。私もただ黙って座っているのではありません。「補聴器よりはいいけれど人工内耳も100%じゃないのよ。車の音で話し声が消されてしまうから聞き取りにくい」と説明します。「うん、うん」と聞いてくれます。すると前に座っているEさんが「前よりずっと聞こえているよ。贅沢言ったらダメ。普通の人と同じ様に・・なんて贅沢よ。そのくらい聞えてたら上等、上等」と言います。一般道路に下りると前に座っているEさんが話し掛けてきました。「孫ちゃん大きくなったでしょ?もう何ヶ月かな?」と私を話題に入れようとしてくれている心遣いが伝わります。「もう10ヶ月でハイハイして大変よ」と孫の話で盛り上がりました。トイレ休憩の時車椅子のEさんは「私は待っておくよ」と言うので私も残りました。(Eさんは卓球の仲間でも特に親しくしていて悩みを打ち明けたりします。)Eさんの凄い所はめげないこと!いつもニコニコ笑顔です。そして少しでも車椅子を押したら「有難うねぇ」と素直にスマイルで返してくれるところ。見習わなくては・・と思います。その時に私が「話が車の音で聞えなくて、ちょっと辛かったよ。聞きたくても聞えないもどかしさがあるよ」と言ったら「私も同じよ。ちょっと、そこまで行きたいのに歩けなくて動けない悔しさがある。思うように動けない体がもどかしい。でも仕方ないよ。誰でも何かしらの悩みを抱えて生きているのだから」と。「michiさんの気持ちもよ~くわかる」と言ってくれ、心が軽くなりました。沢山の人がいる中で、たった1人の人がわかってくれる・・これが大切なのだと思いました。いつもたった一人の理解ある人のおかげで私は今まで生きてこれたんだとつくづく思います。1人で生きてきたのではないのです。小学校、中学校、高校、会社、家庭で・・有難いことにいつも誰かが私の側に、変わりばんこにいてくれたのです。そう思うと私はなんて恵まれているのだ・・・と見えない神様?にお礼を言いたくなります。その後もホテルに着くと「朝早いので6時半に起こすから安心して寝てていいよ」と同室のmさんが言ってくれました。人工内耳を外すと全くの聾である私を気遣ってくれます。そして翌日、試合会場は立派な音響設備もある体育館です。このステレオタイプの音が人工内耳にとっては、とても聞き取りにくいのです。却って、いつも聞いている要約筆記講習会でのマイクがよほど聞き取りやすい。初めのうちは決まったコートですが、トーナメント試合で毎回コートが変わります。マイクで「佐賀のmichiさん、23コート」というふうに放送されていると思うのですが声は聞こえるけど言葉が聞き取れないのです。数人の仲間が「今度は15コートよ」などと私に教えに来てくれます。私は練習の時はバシッ?と打てますが試合になると”蚤の心臓”なので全くダメです。人様の前で話す講演は大丈夫・・・というか口から話言葉が勝手に出てくるので平気ですが、試合になると思うようにスマッシュも決められなくなりボロボロ。結果3勝3敗。試合ではいつも後悔あるのみです。試合が目的ではなく、それに付随する仲間との触れ合いや温泉、食事が楽しみで行っているようなものです。毎回どこかに行く度に、人との触れ合いで感動したり、感謝したり聞えないことも含めて人生勉強も、させてもらっています。 では また・・
2007年06月18日
コメント(4)
早い年には梅雨に入るかと思われる今日この頃、連日真夏日が続いています。今年は空梅雨なのでしょうか?暑いのと髪が伸びていたので思い切って短く切りました。いつもの美容院なので「暑いから短くお願いね」と頼みながら読唇で会話です。私が聞えないことを知っておられる美容師さんなのでジェスチャーを交えて話してくれます。いつもなら人工内耳で聞えているけど美容院では外さないといけないので会話が思うようにできないし、人工内耳を外すと全くの聾なので聞えない事がやはりもどかしくてたまりません。読唇といっても補聴器を使っていた頃に比べると読唇力が落ちているようです。それでも人工内耳を装用している時に比べると、外すとちゃんと読唇モードに切り替わるのです。近況やどんなスタイルの髪型にするか・・・など話題はありますが鏡に映る相手の口だけを見て話しているので時には的外れの返事をしているかもしれません。「口の形で読み取っているから、トンチンカンなことを話しているかもしれないので、その時はゴメンね」と言うとニッコリ笑いながら「ウンウン」と相槌をうってくれます。「もうちょっと短くお願いね」と言ってたら本当に耳のところも短くなりすぎて人工内耳を装用したら見えています。「ま、いいや」と思いましたが以前の私には考えられないほどの変化です。以前だったら少しでも補聴器が髪の間から見えようものなら、気になって、気になって髪を寄せて隠したりしていました。(知られたくない。普通の人と同じように見られたい)いつもそんな思いを抱えていました。それに比べて今はなんと言う変化なのかと自分でもビックリしています。このような気持ちに変わったのは、やはり難聴の活動をしてからです。行政に「耳マークカードをおいてほしい、要約筆記を広めて欲しい」と言っている当事者が聞えないことを恥ずかしいと思うなら矛盾しています。私は(聞こえないことは恥ずかしいことではないんだ)と堂々と言える看板にならなくてはいけない・・と思ったら、いつの間にか殻が取れていたのです。ひとつは家族の理解、協力が大きかった。子供達が「お母さん聞えないことを言うのはやめてくれ」と言ったらこんな活動もできません。三人の子供達はいずれも「お母さんのやりたい活動をしていいよ。頑張って」とエールを送ってくれます。今まで聞えなくてビクビク人の顔を見て生活していた頃に比べると随分気が楽になりました。以前の私は周りの人が話していると(何の話だろうか?私も知りたい)そればかり考えてたので表情も少し暗かったようです。もともと好奇心が強いのです。(知りたがり屋)だから今の私は「明るくなったね」とよく言われます。心の動きはそのまま顔に出るので気楽に過ごしていると顔にも明るさが表れるようです。髪が短くなり人工内耳(黒なのであまり目立ちませんが)が見えたら、それはそれで話の種になるかなぁ?なんて思いながら・・・「補聴器でも効果がない最後の手段と言われているんですよ」とか「佐賀には人工内耳の手術が出来る病院がないのよ。全国で手術ができない二県のうちの一つなのでなんとかしないとね」等と話せるかもしれません。ただ髪を切っただけだけど私にとってはいろんな思いがありました。また少しずつ歩いていこう。 では また・・・
2007年06月08日
コメント(9)
連日良い天気が続いていますが、今年は黄砂が多いようです。中国方面から風に乗ってたくさん流れてきているようです。中国は発展途上で工場の煤塵もそれに乗って空気汚染の原因のひとつと言われています。日本だけの問題ではなく、世界中で考えなければならない重要なことだと思います。店に来られたお客様と色々な話をするのですが70歳前の男性と「日本は何でこんなにおかしくなったんだ」という話題になりました。自分たちが若い頃は親のいうことは絶対で年長者を敬う、親を大切にすることは当たり前の時代だったとのこと。物は無くても何でも分け合っていた・・と。そういえば私が若い頃(20~30年前)「親を殺す」とか「子供を殺す」など、まず考えられませんでした。家族は一番信じられる小さな社会でした。他の人が何と言おうと家族は 助けてくれる最後の砦だったように思います。中には夫婦間、親子間で仲が悪い家族もあったかも知れませんが、家庭の中で殺人事件がおこることは滅多にありませんでした。考えられませんでした。私が若い頃は高度成長期で戦後の立ち直り時に生まれたものですから物があまりなかったのです。暖房器具も火鉢だけ、真冬は寒くてお風呂で温まることが天国でした。それでも全く不満はありませんでした。他の家庭も似たようなものでそれが当たり前だったのです。私は「カンボジアフロム教育支援」という特定非営利活動法人に属していますが(年間二千円の会費でカンボジアに学校を建てて学校に行かせる支援)先日総会がありました。その中で会報誌にカンボジアの学生が日本語で書いた作文が載っていました。「貧しい暮らしの中で両親は牛の世話や畠を作って作物を売ったりして朝から晩まで働いて7人の子を育てています。貧しくて姉は学校をやめなければならなかった。今は家の手伝いをしている。親はどんな大変なときでも辛そうな顔は見せず子供達に笑顔で励ます言葉をかけてくれます。≪学校に行って勉強してくれるだけで充分でそれ以外に子供達から何も貰いたくない≫と親はいいます。私は良い思いやりの親がいるから、苦しい生活の家庭に生まれても、とても幸せで運がいい人だと思います」つまり子供の将来が幸せになるだけで充分だ・・・と親は言うのです。どんな貧しくても自分のことを考えてくれる親がいるから幸せだと本人も親に感謝しています。物は無くても親はたくさんの愛情を子供達に注いでいるのです。何と素晴らしいことなのでしょうか?(カンボジア教育支援で少しでも学校に行けない子供達を応援しよう・・)との思い上がった考えは間違いで、こちらの方が人間の心の持ち方を学ばせてもらっています。それで何で日本はこんなに心が荒んでしまったのかというと物が溢れ、感謝の気持ちが無くなってしまったからではないのか・・私が若い頃は物もあまり無かったので親の世代は≪テレビを買うお金を貯めよう、洗濯機も買いたい、洋服も欲しい≫とガムシャラに働いてきました。物がひとつずつ増えるたびに嬉しくてたまりませんでしたし、大切に使っていました。鉛筆一本、消しゴム一つでも簡単に買ってもらえないので大事にしていました。今の若い人たちは生まれたときから物が溢れ、何でもあるのが当たり前、苦労することもなしに欲しい物が手に入る・・感謝の気持ちも育たないのではないかと思います。それに加えて政治家や企業のモラルの無さ・・マスコミではいつも謝罪の会見ばかり。これでは見本を示さなければならない大人がそんなふうだから、子供達にばかり「いい子に育ちなさい」というのは無理です。それが日本の現実なのです。テレビゲームも人殺しのゲームがあったりテレビでも殺人の番組があったり・・こんな現状が≪モラルのない日本≫を作り出してしまっているのではないでしようか?孫の代に少しでも心が育つ時代になっているよう願わずにはおれません。ひとり一人が心がけて「小さな事にも感謝する、感動する」ことを実践したいものです。 では また・・
2007年05月31日
コメント(2)
このところ爽やかな良い天気が続いています。世間では目を覆いたくなるようなニュースばかり・・高校生が母親を殺しバックに頭部を入れ持ち歩いたり、復縁喧嘩?で引きこもり、発砲事件になり前途ある優秀な警察官が射殺されたり・・日本はどこまでおかしくなってしまうのでしょう?胸が痛みます。以前の私は聞こえない為に(周りに聞えない人もいなかったので)かなり肩肘を張っていました。小さい時から・・・ずっと・・・「聞えないから悔しい!」「聞えないから負けたくない」「聞こえないからといってバカにしないで!!」「聞えないから・・・」数え上げたらきりがない程ガムシャラに生きてきました。言葉には出しません。まず「聞えない」ことを言いたくない。憐れみの目で見ないで欲しい。普通の人と同じように接して欲しい。何で私だけ??常に心の中では「聞えない」葛藤が渦巻いていました。何でかというと、以前より良くなったとは言え、(今でもそうですが)障害者が暮らしやすい世の中ではないからです。好きで聞えなくなったわけじゃないのに・・姉妹の中で何で、どうして私1人だけ??常にやり場のない悔しさ、どこに行っても会話の内容が判らない辛さ・・疎外される辛さ。きっと、このまま肩肘張った人生だろうな・・と思っていました。一番の転機は、やはり主人と知り合って理解してくれる、共に人生を歩んでいける人と巡り合ったこと・・だから家庭の中では耳が聞えないことを忘れるくらい幸せでした。世界一幸せ・・だと思っていました。そりゃ子供を育てる時、夜泣きも聞えないし子供の言葉も必死で口元を読み取ったり不便な事はありましたが、いつも支えてくれる人がいたので苦しさ、悲しさも反滅しました。それに増して、主人はユーモアがあるプラス思考の強い人だったので少しずつ感化されたのかもしれません。それでも、子供を育てる時「聞えない母親に育てられたから躾がなっていない」と絶対言われたくありませんでした。子供は親を選んで生まれてこれないのです。「聞えないお母さんだったから嫌だった」と先々、子供から絶対言われたくなかった。これは親になった以上、子育ては責任なのです。子育ての時に自分自身、プラス思考など考えたこともありませんでした。育てる事に必死で周りが見えていませんでしたから・・とにかく「世の中に出ても痛みのわかる、常識のある子に育てなくては・・」とそればかり考えていました。主人とは隠し事は全くない程何でも話していましたので、亡くなった当時は「自分の人生もこれで終わってしまった・・・これから何を支えに生きていこうか??」そればかり思っていました。主人の後を追いたいけれど、当時末っ子が高校生だったので「父親がいないうえに母親までいなくなると、いくらなんでも可哀相だ・・生かされるときまで生きなくては・・」と自然に逆らわずに生きていこう・・と思い至りました。そうして、主人が亡くなってもう10年になります。いつの間にか、肩肘張ることも、聞えなくて悩んだことも受け入れられるようになりました。何でかな??主人がいたときは、私が「聞えないとわかると憐れみの目で見られるから嫌だ。普通の人に見られたい」と、いつも言っていたので私の気持ちを尊重してくれ、取り立てて聞えないことも他の人に言わないようにして守ってもらってました。片耳が少しは聞えていたのに(100db)主人が亡くなったショックで全く聞えなくなってしまいました。あと片方がかろうじて補聴器で音が入る・・・でも言葉はわからないので読唇です。段々ひどくなり、ますます聞こえなくなってくる・・その後、これではいけない・・と自分で思うようになり卓球を始めました。その時子供達の励ましがあったから前向きになれたのだと思います。特に息子tomoが、私が生き甲斐を持てるように、既存の店を「難聴者が経営する喫茶店」にリニュアールできるようアドバイス、バックアップしてくれた事は大きかったです。tomoのバックアップも然ることながら私自身も、今まで私を守ってくれた主人が亡くなって聞こえないことを隠していても却ってきつい・・・ことを感じていました。「聞えないことをわかってくれない人は別世界に住んでいる人だと思うことにしよう・・ありのままの自分をわかってくれる人だけでいい」と思うようになっていました。子供達も「聞えないことを話したほうがいいよ・・・」と言うようになっていました。そしたらスー―ッと肩の力が取れて軽くなったのです。聞えないことを恥ずかしい・・と思っているのは当人だけで他の人は、そこまで考えていない、裏を返せば、それぞれに自分のことで精一杯の人が多いのです。ありのままを受け入れ、尚且つ、何で私がこんなに悩んでいたのか??世の中に難聴を理解してもらう事が大切なのではないか??と思うようになりました。きっと今までの私のように悩んでいる人がいるかもしれない・・あなただけじゃないんだよ、そう思ったらビックリするほど道筋ができたのです。tomoが「聞えないことを隠さなくていいよ。きっとお母さんのように悩んでいる人がいるよ。難聴者が集まれる店にしたら?人工内耳も考えたら?」と励ましてくれました。同時に難聴会に入会したことも大きかった・・その後は少しのきっかけも逃さず、迷わずに進んでいっています。そして聞えないことを公言したら楽になりました。人生、良いことは向こうからくるのではありません。自分が動くのです。変わるのです。何かのきっかけ(それは後になって思い出されることもありますが)を前に進む・・・すると、そこから又、道ができていくのです。自分が進んでいけば変わる・・つまりプラス思考です。同じ状況でも良い方に考えたら些細なことでも感謝の気持ちが出てきます。こうして息を吸えるだけでも、歩けるだけでも幸せなことです。でも聞えない事は不便。今まで人様の前で話したこともなかった私が時々難聴に関する講演を頼まれます。たとえ100人の前でも恥ずかしい・・と思ったことがありません。自分の辛かった人生を思い返し、1人でも悩む人が少なくなるように・・との想いが、誰かが私に乗り移ったのではないかと思うほど、話が口から出てきます。下書きの原稿も書いたことは無いのに誰かが私の口を借りているのではないか・・と。それに助けてくれる方と次々知り合えて繋がっていきます。要約筆記の方、ボランティアの方、お客様・・と、有難いかぎりです。実は今日も街のイベントに出店して、このようにして知り合った方がボランティアで手伝ってくれました。聞こえない私をありのまま受け入れてくれる有難さ・・・小さなことでも(ありがたいなぁ、感謝!)と、受け入れられるように心がけたいと思っています。この心の財産が私の生きる縁となっています。人生、1人で生きて行けないから人との関わりが大切だと思います。ありのままを受け入れて前に進んでいく、平凡な日々が一番の幸せなのかもしれません。 では また・・
2007年05月20日
コメント(3)
全249件 (249件中 1-50件目)


![]()