全413件 (413件中 1-50件目)
岸信介晩年の長生きの秘訣三条件は「ころぶな、風邪をひくな、義理を欠け、この三つです」と、年をとってから、ころんで寝ついてしまうと、足が弱ってそのまま病院から出られなくなる、だから絶対ころんではいけない。風邪、これもあぶない。たかが風邪と思っていると肺炎になって死んでしまう、もう一つは義理を欠け、である。知人の葬式などにいちいちつきあって、寒い時に出棺まで見送るということをやっていると、風邪をひいてしまう。これが長寿の秘訣だと笑っていたが、その実、岸さんは義理堅くて、義理をつくす。亡くなるきっかけになったのは、義理で出かけた先でころんで、腰を打って入院し、そのうちに風邪から肺炎を起こしてしまったという。自分のことになると思うとおりにはできないものだろうか。
2021.11.07
コメント(0)
ソローンの法律の中で極めて独特な意外と思わせるものは、内乱の場合に孰れの党派にも属しなかったものは市民権を剥奪されると規定している法律である。恐らくソローンは、人が公のことに対して感情も感覚も持たず、自分のことだけ安全にして置いて祖国とともに苦しむことも悩むこともぜずに好い顔するのは止めて、直ちに良いこと正しい事をしている人々の味方に付いて危険を共にし援助を与えるべきで、危険から免れて勝つ方の側を待っていてはならないと考えたのである。(河野與一訳)
2021.10.28
コメント(0)
ソローンのことば どんな国家が最もすみいいか、と訊かれて「不正を受けない人々も、受けた人々に劣らず、身を入れて不正を加えたものを罰する国家だ」と答えたそうだ。河野與一訳
2021.10.27
コメント(0)
2021年1月19日平野貞夫×佐高信×早野透 3ジジ放談 デモクラシータイムズ 新春第一弾平野貞夫氏の紹介で1月12日朝日新聞の福島原発に関する記事が紹介されていた、東電の事故報告書作成に関係した当事者への聞き書きとなっている。原発事故は起こるべきして起きた。かって東京電力の中堅社員男性が初めて取材に応じた。事故3ヵ月後東電自らも「福島原子力調査委員会」を立ち上げ事故究明に乗りだし、男性は上司から調査報告書の取りまとめを命じられた。しかし調査は事故の経過や現場で起きた事実の積み上げに多くの時間が割かれ肝心の事故原因の分析には進まない。報告書の原案で原因に触れようとすると経営陣から厳しい言葉が飛んできた。事実に立脚していないことは書く必要はない、なんでお前が勝手に決めるんだ男性は事故は「天災で防ぎようがなかったというシナリオを求めている」と感じた。02年に発覚した原発のトラブル隠しがすべての始まりだった。2002年8月29日、東京電力による自主点検記録の不正問題が、原子力安全・保安院から公表さた。調査を進める過程で、調査に協力していた米国General Electric社からほかにも自主点検記録に不正がある可能性がある事案についての情報が寄せられ、8月に入り、東京電力もこれらを認めるに至った。東京電力福島第一、第二原子力発電所および柏崎刈羽原子力発電所の3発電所において、1980年代後半から90年代にかけて実施された自主点検作業時に、点検結果や修理作業等に関して記録の不正記載等が行われた疑いがある事案が29件あり調査を行なっている。さらに男性は「細かい不具合をゼロにすることばかりに集中し、大きな視点で安全を考える余裕がなくなっていた」さらに平野貞夫氏は令和元年9月号 月間文藝春秋 木村俊雄 福島第一原発は津波の前に壊れた津波のくる前に危機的状況になっていた壊れた原因は地震動であった可能性がきわめて高いと記事をパネルで表示していた。佐高信氏が話題を少しかき回しますが、平野氏はすじを戻しこれは重大な事実だマスコミはじめもっと取り上げ議論する必要性を力説されている。確かにマスメディアではあまり見かけない記事である。初めて聞く内容でネットで関連ページを閲覧すると木村俊雄氏と古賀茂明氏との対談が掲載されておりまたユーチューブで自身の講演がアップロードされていることを知った。木村俊雄さんプロフィール 元東電社員、自給エネルギーチーム共同代表。福島第1原発にて炉心設計管理業務に従事。福島第一原発で起きたメルトダウンのような重大事故を検証するには、炉心の状態を示すデータの評価が不可欠。特に、炉心の中の水の流れを示す「炉心流量データ」は重要ですところが、「国会事故調」「政府事故調」「民間事故調」「東電事故調」と、福島第一原発事故を調査する委員会は4つもあるのに、どの事故調も炉心流量データに基づいた検証を行なっていない。データを基に事故後の1号機のプラント挙動解析評価をしたところ、地震発生までは炉心の中に毎時1万8000tもの冷却水が流れていたのに、1分30秒後にはその流量がゼロになっていたんです。炉心には冷却水を送り出すためのジェットポンプが20台も設置されているんですが、その20台すべてがゼロ付近の値を示していました。核燃料集合体の発熱と除熱のバランスが崩れた可能性が非常に高いということ。普通、電源喪失でポンプが止まっても、炉心はまだまだホットですから、内部の水は熱対流で自然循環します。流量ゼロということは、その自然循環がなくなったわけです。それにより炉心内の燃料体表面に気泡がびっしりと張りつき、冷却できなくなって燃料体が次々に壊れてしまう。これを「ドライアウト」と言います。古賀 つまり、津波の前に1号機は壊れていた可能性が高いと。木村 そこは注意してほしいんですが、福島第一原発のメルトダウンについて「津波が原因ではない」とか「地震が原因だ」とは言ってない。あくまで地震の後の1分30秒後にドライアウトが起きていた可能性が高いと言っています。それも、1号機の原子炉格納容器などを詳細に検証できない以上、まだ確言はできません。ただ、冷却水の自然な対流が維持されなくなったということは、例えば地震動で微細なひびや破損が生じ、水がその漏洩(ろうえい)箇所に向かって流れたと考えるのが妥当です。缶ビールを振って小さな穴を開けると、そこからプシュッとビールが噴き出す現象とまったく同じ。木村氏はユーチューブでも分析結果を図表示され、科学的データ駆使し原因を伝える姿勢を表さている。古賀茂明氏の著作『日本中枢の狂謀』『日本中枢の崩壊』『原発の倫理』などを読んでみると東京電力の体質、影響力の大きさが改めて考えさせる書籍です。先月報道された電力ひっ迫の記事も古賀氏の著作で類推すると果たして正しい記事なのか疑わしく思える。
2021.02.02
コメント(0)
2019年5月9日 ユーチューブ デモクラシータイムズ 「佐高 早野ジジ放談深代惇郎ことばの力」を見た。深代惇郎1973年論説委員、同年2月から1975年11月入院するまで「天声人語」の執筆を担当した。46歳で急性骨髄性白血病で死去。深城惇郎エッセイ集朝日文庫 政治家と金「首相の後継者争いで、日本の政治に札束が舞いそうだ」といったら、知り合いのイギリス人が「へえ、日本の総理大臣は金で決めるのか」と、気の毒そうな顔をした。弁解はしてみたものの、自分の国が、大変後進国に思えてきて、情けない気分になってしまった。イギリスでは政治家が簡素な生活をしているイメージは中産階級の真ん中あたりの生活を想像させる。政務次官をしたロンドン選出の議員の家によばれたことがあるが、中年のサラリーマンのごく普通の家という印象だった。政治家と業界の結びつきがすくないことにも感心する業界団体が政治とかかわりを持つことをきらう、かりに議員に金を出してもあまり効果がない、ある議員がある方面に特定の経済的利害を持つ場合は、議場では、この点を宣言しなければ演説できない。金をもらって関係者のために演説や質問をしたとわかれば、他の議員からあいてにされないし、選挙民の支持を失うおそれがたぶんにある。日本から見て驚くべきことは選挙違反や政治汚職がほとんど皆無に近いことだ金銭にからんだ疑獄事件で、内閣が揺れた最後はたしか一九一六年のロイド・ジョージ内閣のマルコニ事件でしょうと、歴史のお話になってしまった。このような政治のモラルは、きびしい法律でささえられているのではない。首相争いで金を使ったら、党内の支持を失う。業界から金を受け取って、その弁護演説をやったら、次回落選は疑いない。そういった事実が、何より力を発揮する。金とからんで政治家が選ばれ、政治決定がなされ、そして、政治が、まったく別世界のチャンネルによって進行していくならば、社会の混沌はいつまでたっても、ただの混沌でしかない。
2021.01.30
コメント(0)
宮本常一氏の「辺境を歩いた人々」の中に菅江真澄「遊覧記」の東北を歩いた聴き語りが有ります。時期は天明の飢饉の数年後でした。藩ではおすくいまいをたびたびだしたが飢えて死んだ人はあちこちにたおれていた。二三歳の子どもを川へ投げいれ、こじきにでる女がたくさんいた、そうした女のうちに、ある川原へ七、八歳のむすめをつれていったものがあり、その女はむすめを、石をまくらにして寝させました。はじめは、髪の虫などをとっているように見えましたが、そのうち手ごろの石をふりあげ、ちからまかせにむすめの頭をひとうち、うちつけました。、女のこはわっとなきだし、「これからは食いたい、食いたいといわないから、どうかゆるしておくれ。」となんどもあやまりました。しかし、女はゆるさないで、なおも頭をうちつづけ、みじんにくだいてしまいました。そしてまだむすめが息をしているうちに川へおし流してしまいました。女は目をこすりながらあるいていきましたが、それからゆくえがわからなくなったということでした。柳田國男「次の代の人々と共に」この間も、ある女の代議士の団体から「今日何が一番必要な問題であろう」と言われましたので「親子心中を無くす策を研究するのが一番大きな問題である」と返事をしてやりました。とある1957年当時の記事である、この時代も親子心中という痛ましい流行があったのでしょう。親子心中に至る事情を、周囲で知って居りながらも、それに対する設備が非常に不完全なのであります。何も設備が満足に具わって居らないのは、ゆっくり手落ちのないように考えて、もう少し先々の施策を適時にしなかったからであります。甚だ露骨な言葉であるが近世史というものを、史学者が粗末にしたからだと思うのであります。とある。めいめいがかってな生活をさえしておれば、人のことはかまっておられないということが、今日ではごく普通の常識になっている。元来日本人の気持ちからいえば、縁もゆかりもない他人の挙動でも、ひまにまかせて静かに見ておって、批判する者が多かった。それゆえに世間の思惑がこわいから、親をいじめたくともそれができないとか、笑われるから夫婦喧嘩もさしひかえるとかいう考えがあって、人は肩あげのとれるころからおたがいに批評の対象になっていた。その批評はいつも本人に面と向かってされるのではなく、本人の気づかぬ陰や背後でいわれることがいやなばかりに、自然に自分の行為にも節度を保ち続けてきたのである。要するにわれわれのあいだに起こった批判というものの起こりは、外部の人間が等しく関心を持ち、かつ外部の人間であるがため公平な判断を下すことができた。日本人は元来小さな社会の中にこうした外部の制裁に基いて自己を形成してきたのである。2020年日本は大変な飢饉なのでしょうか、はたまた未曾有な天災に襲われているのでしょうか。痛ましい子どもの事故が報道されるたびにそう思わないではいられません。
2020.08.26
コメント(0)
年末子供の家を出て自宅に向かう、途中池上法門寺の階段前を通過する。大晦日の当日であり大混乱を予想したが案に相違して階段下はそれほどの人込みではない。帰宅後雑用を済ませ2時半頃に初詣に行く予定であったが少し遅れ自宅を出たのは3時頃であった。風が強くとても寒い朝であった。頬を打つ風は寒く体までが冷え込む。自転車で商店街を抜けて行ったが人影は見かけず、街道を横断し湖畔に近い住宅街を抜け神社の階段下でまで行くと果たして予想通り人は見当たらない。階段を上り昨年の破魔矢を焼く熾火に破魔矢を入れて焼却した。周囲に数名の人が居るのみで閑散としている。社殿前まで行もはおみくじを読んでいる数名の人のみで社殿前には誰もいない閑散とした状態であった。社殿でお参りをし破魔矢を購入しようと周囲を見たが例年の場所は無人で階段の上に数本の破魔矢が箱に入れられており靴を脱ぎ階段を上り建付けの悪い引き戸を開けようとすると中より神主さんが内より開けて頂き代金を支払うが扉は簡単にはしまらなかった。12時前後朝の7時頃では人数は少ないが全員が社殿の鈴を目指すために1時間くらいを要する。待つことに初詣の感慨があるのかもしれないがすんなり通過できるほうが私にとっては有難い。帰宅後すぐに就寝一年の始まりで有った。
2020.01.08
コメント(0)
細々とブログを掲載している。見る人とていないのだがアップロードするとそれなりの方が目に留まるようだ。原因は私も良く拝見するブログ、その語り文章が落ち着いており見識の深さ、世界を見る広さに感心している「カーク船長」氏がFavorite Blogに入れて頂いていることが原因である。玉村氏の著作隠居志願を読んでいると表紙、挿絵にザクロのスケッチが有る事に気が付いた。「ザクロの絵を飾っておくと子宝に恵まれる、というのは本当だろうか。私が描いたザクロの絵を壁にかけたら、そのすぐあとにお医者様から妊娠を告げられた、というような話を、これまでに何回か聞いている。ザクロの絵は玄関にかけると一家に福を呼び入れる、ともいわれ、玄関に飾る派と、寝室に飾る派と二派に分かれるようである。」玉村氏の文章生家の東側、蔵のそばにひらがなの「し」の字のような柘榴の木が有り根は当方の敷地内にあるものの枝は三尺ほどの築地の上から伸びて、ほぼ全体が隣家の敷地に伸びていた。隣家は広々とした荒地がありその中に柿の木があ雑草の中に桐の木一本が真っ直ぐに伸びていた。南側は水田に水を供給する為の溝があり、潅木が群生していたように思い出す。田舎のことゆえ枝のトラブルは聴いたことが無い。柘榴は実の形態と、熟した後外皮がいびつに裂け、赤い果肉が中に見え、粒が規則的に並んでいる状態から見た目にも好奇心を催す実である。たぶん父が生家より株分けをして植えたものであろうか、然し樹齢から推測してそれ以前に植えられたもののように思われる。近隣に柘榴の木がある家を見たことが無いので推測する。実は殆ど食べた思い出が少ない食用としては味が良くなく進んで食した記憶が無い。東京でも通勤途中細い路地を通行すると熟れたた実が路上に無造作に落下して拾う人無き状況を目にすることがある。幸福を呼び入れる実にしては粗末な扱いである。生家のうち捨てられた柘榴を思い出した。
2020.01.07
コメント(0)
朝より快晴雲一つないとの天気予報を聞き屋上から見る景色も平凡なものになるだろうと想像し登る。地平に近い部分には雲が多く何時もの地平線と並行した雲が横たわっている。羽田D滑走路を離陸した航空機がクレーンの後ろに写っていた。富士山は雲が多いながらも昨日都心にも雪を舞わせた寒気があり真白にくっきりと確認ができる。下町、六本木方面は青空でこの方面には雲が見当たらない。夕刻ダイヤモンド富士は近いのではないかと確認のために登ってみる。太陽はまだ地平線には近づいていないが大山の左上空にありダイヤモンド富士まではまだ相当日数を要するようだ。上空には刷毛で書いたような雲があり数葉の写真を撮影、古いキャノンのカメラで撮影スマホの画像以下の代物である。背中には月が上空にあり肌寒い。
2020.01.06
コメント(0)
今朝就寝中に胃の痛みを感じ目が覚めました。胃の異常は夢に直結しているようで必ず何かの夢を見ます。起床後も内容が明確に反芻できる夢出来ない夢があります。先程の夢だからと考え記憶を辿るとしても思い出せない日もあります。例年胃カメラの診察を受けていますが今年は区の癌検診を利用してみることにしました。区の補助が有り費用が1500円と大変割安です。申し込みに行くと診察を行うと云われ待合で待つことにしました。待っている患者の人数が多く一度外出する許可を得て自宅に帰りました。胃カメラは初めて鼻孔からの挿入で管も大変細い内視鏡でした。鼻の麻酔を行い検査が始まりました喉も問題なく通過胃を通りこし十二指腸まで行き。その後出し入れを行いながら念入りに検査が続き終了かなと考えているとまた奥へと何度か繰り返します、最後は念入りに観察していない胃の粘膜のシワに懸念があると言い胃の粘膜を採集しました。その際自問自答で問題ないと思うがと繰り返していました。医者は長くて申し訳ないと言い私も途中で咽てしまうほどでした。終了後異様な喉の傷みを感じました確かに内視鏡は鼻孔より入っていますが喉を経由しています。口より挿入の場合は喉の麻酔を入念にしますが今回は喉の麻酔は有りません。待合室で待っている際老夫人同士胃カメラは口の方が楽だと話していました。私も同感でした。一般診察の合間に施術を行うために待つ間の時間が必要となります。操作中モニターを見ていった為特に問題はないと判断しています。吉村昭氏の文章を見ていると胃カメラという文章が目につきました。氏は若い時代病弱で内視鏡は2度目だと書いておりますその中で胃カメラを実施する医者は自分でも内視鏡を行うべきだと指摘をして居りました。私もある病院で人間ドックを行った際前の検査者が内視鏡は6回目だと言い余裕の状況でしたが若い検査員で可成り念入りに検査を行い終了時は車いすで搬送されていました。確かに慣れない人、行う医者により体力を消耗する検査です。因みに私は約30回ほどの経験が有ります。
2020.01.05
コメント(0)
今日も屋上に上り周囲の景色を見渡しました。少し風があり雲も広く天空を覆っていますが処々青空もみえます。立体的な、動的な雲の塊が所々に浮かび雲の状態を見ているだけでも気分が広がる感じを受けます。海寄りには積乱雲のような雲が水平に広がり東側を覆っています。丹沢方面は雲が湧き山容は確認することが出来ませんでした。富士山ももちろん見えません。久しぶりに羽田に着陸してくる航空機を見ることが出来ました。低空で侵入してくるため雲、ガスの影響でほとんど見えることがありません。今日は風向きでA・C滑走路から離陸しておりB・D滑走路は着陸に使用しているようです。多くD滑走路から離陸しているようで直後の機体を見ることができるのですが本日はほとんど確認できませんでした。5月4日撮影白金庭園の緑も濃さを増し、樹々が膨らんで見えます。自然の息吹は凄まじいものですわずかの間に芽生え葉を繁らせるのですから。ドストエフスキーが世の中がどんなに悪に満ちていても木の芽のねばねばする季節は良いと書いていることに同感を覚えます。4月11日撮影
2019.05.06
コメント(0)
憲法記念日の昨日憲法学者樋口陽一さんのインタビュー記事が朝日新聞に掲載されていました。個人の尊厳という考え方は日本社会に根づいたでしょうか「日本は個人というものを表に出すことが難しい社会の一つです」憲法13条は国民は「個人として尊重される」と規定されています自民党の改正草案は「人として尊重される」に変えましたなぜ「人」ではなく「個人」と書くことが大事だと考えるのですか。「集団のために自分の意見を殺して犠牲になることを「人として価値がある」とみなす傾向があるからです。朝日新聞では森友・加計学園の問題が表面化してより、あの手この手と思えるほど念入りに報道を繰り返していました。しかし世論を形成するほどの力とはなっていません。昨今読書をしない学生、社会人も増え購読者数も限られているのでしょうか。麻生太郎・副総理兼財務相は自民支持が高いのは10~30代として、「一番新聞を読まない世代だ。新聞読まない人は、全部自民党なんだ」と持論を展開した。知らしむべからず。西部氏、小林氏も国民を愚民と表現しておりました。
2019.05.04
コメント(0)
連休が始まりいきなり山岳遭難のニュースをみました。いづれも高年齢者で単独登山のようです。遭難の記事に接すれば、一般的に計画がどうであったか、天候を読み違えたのではなかったか、早く引き返せなかったのか等々言い尽くされて居ります。事故はそれぞれに事情があり、予想は不可能であり、一概にコメントをする状況にはありません。が天候が悪く動けなくなるごとはある程度予想をされていたのではないでしょうか。風の強さは山の稜線の左右ではまるで違うことがあります。風下の稜線を少し下がれば無風状態になることもあります。山小屋の関係者に「たどり着けそうにない」と携帯電話で救助要請とありますが、どうしても山小屋までと考えず荷物にツエルトを入れていればくるまって風雪を凌ぐこともできそうに思えます。ツエルトといっても荷物で背負えば一キロくらいはあります。これはそれなりに体力に負担となります。岩波の写真文庫に登山者の心得のような箇条書きがあったように思います。重い荷物を背負えること長時間歩行に耐えられること寒さに耐えられること10箇条くらいの内容でありましたが記憶が定かではありません。極当たり前の内容でしたが思い当たることはすべて網羅されていました。私の場合はテント泊まりのため疲れてしまえば程よい場所を見つけそこで宿泊をしてしまします。テント場でない場合は夕暮れ直前にテントを張ります。どうしても山小屋にという意識はなく已む得ない場合はどこでもビバークをする積りでいます。相当前ですが新年早々聖岳に登り夕暮れ前、小屋を出て聖沢を下りました聖岳は三度目の登山でしたが、聖沢は通行したことがありませんでした。小屋を出るとすぐ道が解らなくなり困惑しましたが夜中もくもくと歩き、日が明けるころ車道の見える斜面までたどり着き安堵しそこで仮眠をとり、目覚め後車道に出ました。車道を歩くと山道と違い谷をつづらに巻きながら道が造られているため大変長距離を歩く羽目になりました。北ノ俣岳は夏二度歩いたコースでした、最初は黒部五郎岳のカールを目指し通過しました。カールで止まり早朝再び山頂に日の出を見に上り返しましたが生憎の天気で日の出は見ることができませんでした。山深くコースが違えば一日では街に下山することができないエリヤです。登山経験も豊富な方ではないでしょうか。
2019.05.03
コメント(0)
ある年古代史研究家の書籍を取り違えて送付することがあり、古田武彦氏の著作に触れる機会がありました。まず「邪馬台国はなかった」の書籍名から第一印象は正当な学者ではないのかと思われました。修学の四標的一に曰く、正なり。二に曰く、大なり。三に曰く、精なり。四に曰く、深なり。学をなすに当たって人に勝らんと欲するの情の強きは、悪しきことではない。しかし人に勝らんことを欲するの情強きものは、ややもすれば中正を失うの傾きがある。僻書を読むのも正を失って居るのである。奇説に従わんとするのも正を失っている。しかし読んでみますと資料をかなり読み込んでおられ検証も精密に行われています。2年前くらい図書館に氏の著作が揃えられており可なり読んでみました。浅学のため詳しいことは言えませんが。東洋文庫に三国史記があり倭の時代の記録で倭が登場する部分がないものかと思い読みましたがほとんど登場しません。唐と百済(記憶があいまいで確かではないかもしれません)との調停の際倭も同席した。との記述があります。白村江の戦いも中国の記録にも殆ど取り上げられていません。三国史記にも記録がありません。大海戦について記録がないことが不思議で中国にしてみれば大勝利であり人間の習性として書き残す欲望が湧きそうなものです。ないようです。先日世界史の講座を聞いておりましたところ白村江の戦いの後進駐軍が福岡に上陸したと講師が話しておりました。勿論古田氏の著作には何度かに渡り最大一時に4千人程度の進駐軍が上陸したと書いておられます。隋の時代沖縄は隋軍に荒らされ、倭の使者が隋を訪れた際捕虜となっていた人物が顔見知りの者であった為倭が憤慨しトラブルが起きたようです。元号が人々の話題に上がることが増えました。朝日新聞でも珍しく元号の発案者が誰であったのか可なり掘り下げた報道が行われていました。古田氏の著作の中で二重元号の記述があり法隆寺の釈迦三尊後背銘に歴史にない元号が刻まれているとの記載があります。法興元三十一年という年号です。ネットで検索をいたしますと年号の考証されたページがありました。
2019.05.02
コメント(0)
毎日幸田露伴の「努力論」をバックに入れていますが時間に追われ繙くことがありません。この書籍は棋士故人となりましたが米長氏の「人間における勝負の研究」で触れておられ著作を知りました。静光動光の中で気が散って思うように仕事ができないということはややもすれば人の言う事である。気の散るのは実に好ましからぬ事である。多くの学生の学業の成績がよろしからぬものを観れば、その人多くは聡明ならざるが故にあらずして、その人多くは散り乱るる気の習癖があるが故である。気の散る癖などは実に好ましからぬ事である。読書をしていても読書の最中に過去の記憶がよみがえりその事が頭に浮かび読書の内容が不明になったり、主語が飛んでしまい誰の述べた言葉であっのか忘れてしまい文脈があやふやになったり気は千路に乱れてしまう癖が多くあります。司馬遼太郎氏の日本語に関する公演をCDで何度か聞いたことがありますが終戦後路上、電車の名で声を出して新聞を読む人を見かけたという話がありました。プラトンの対話編を読みながら恒例の気が散り読んでいながら読書とは関係のない記憶が蘇ったり、昼食をなんにしよう、午後の天気はなど気が乱れ文章の内容が理解できていない事に良く気が付きます。それで素読をすると果たして声を出すために気は黙読の時より散りません。一人で居る時は声を出しても怪しまれることなく、気兼ねなく読書はできます。気が散らなければ内容も少しは頭の中にインプットされます。岩波文庫 藤沢氏訳ソクラテスどうも私は、あまり物覚えの良くない人間でして、ひとに長い話をされると何の話だったか忘れてしまうのです。私のために答えを切りつめて、短くしていただけませんか。プロタゴラス君がいま命じているようなことをして、討論相手から言われるがままのやり方で言論のやりとりりをしていたら、私は誰にたいしても優位に立つことはできなかっただろうし、プロタゴラスの名がギリシア人の間にひろまることもなかっただろう。
2019.05.01
コメント(0)
朝から肌寒くなすこともなく机に向かいPCを見ていました。時刻は昼前、息子に電話を掛けてお昼を一緒にしようと連絡をしました。室内では気が付かなかったのですが意外と風がなく暖かく自転車で池上本門寺の前を経由して蒲田に行き以前より話題になっていた煮干しダレのラーメン店に出かけました。客が並んでいるのかなと心配していましたが並ぶ人はなく食券を購入後店の前のベンチで5分くらい待ち入店となりました。店内は10席程で店員は3名、ほとんどの作業は一人の方が行い出し汁の準備を一名が、注文を一名が行っており店員同士は友人のように語らいよくある威圧感のような店主ではありません。麺は太めでうどん位の大きさで厚切りのチャーシュー2枚が付いていました。大盛は食べないほうが良いと入店前に聞いたとおり、量的には充分だと思われます。汁は半練りの状態で汁気はなく、最初は煮干しの味が濃く感じられ水気がない為喉通りが悪く、べっとりと唇に汁が付着するために食べずらい感じがしましたが完食、残りを出し汁を注ぎ私はすべてを飲み干しました。底には魚の破片がかなり残っているようでした。完食後表に出ると並ぶ客がいました。
2019.01.30
コメント(0)
風の強い一日でした。中原街道を自転車で五反田方向に向かいました。歩道車道一面黄金色の銀杏でびっしり敷き詰められて普段見ない光景でした。立木にもまだ多くの葉が残っており落葉もまだまだ続きそうです。祝日で通行量も少なく年末を感じます。屋上からの富士山は富士の右肩辺りに雲が沸いているようですが稜線はすっきり確認できました。羽田方面を見渡すと離陸する航空機の姿を鮮明に確認することができました。木更津方面に飛行しターンをして西に向かう機影北を目指し上空を通過していく機影を青空の中に確認できました。風が強くズームを使用したため画像は手振れがしています。屋上で日課のストレッチングを行い体をほぐしました。12月18日富士山です。
2018.12.24
コメント(0)
今朝オークションを確認したところ値引き交渉を行なったメモリーが落札されていたことを知りました。昨夜確認をした時点では交渉は成立せず再出品となっておりました。現在使用中のノートのpcはメモリー6GBで、カードは2枚装着が可能です。一枚は4GBですが一枚は2GBです。両方を4GBにするため購入を検討していました。4GBのメモリは比較的高額で古いノートに増設する不経済を考えて躊躇しておりました、値下げがあったこと、クーポンがあり割引になることなど比較考慮して購入を決断致しました。同じノートを2台利用していますが一台は突然フリーズを繰り返し最後は立ち上がらなくなりました。復旧ポイントを何度も設定していたのですがポイントも保存されておらず、システムに異常があるようです。DOSでファイルの修復を何度も繰り返しまいたが断念をし現在ファイルの移行の為にPCよりHDを取り出しています。今朝同時にHDを購入、再インストールを行い古いHDから必要なファイルを移動する予定です。以前の状態に戻し、利用する為には1ヶ月くらい時間を要します。電気屋に行きHDのUSBケーブルを問い合わせしましたが現在はそのような文化がなくなり店頭には置いていないとの返事でした。外付けHDでデータを保存、内臓HDには保存しないのでしょうか。PCの重量があり移動には適さない為、職場に置いて置く為、2台を併用しています。
2018.12.16
コメント(0)
先日娘が運転免許証を取得、その後運転をしたことが無いため助手席に座して運転に同行を行ないました。最初は近隣の道路を運転をしましたが、国道に出てみたいと言いだし目的地を羽田にし向かうことにしました。怖がるかと思いきや、随分大胆に運転を行い助手席に座してとても落ち着かない時間を送りました。家族を乗車させ運転する運転手の気持ちは充分理解しており可能な限り感情を抑えておりましたが居心地の悪いこと限りがありません。私は免許証はゴールドですが当たり前で数十年運転を行なった実績がありません。先日外国より友人が來東し久しぶりに運転を行ないましたが車の機能が自分の運転した時代と丸で隔世の感が有ります。何がなにやらさっぱり解らず困惑を致しました。最初にして大胆な運転より小心気分で運転して貰いたいものです。
2018.12.15
コメント(0)
丸山眞男の著作か座談の中で良い本二冊の紹介があり一冊は清水幾太郎氏の「流言蜚語」他の一冊はリップマン「世論」でした。流言蜚語は図書館で借用、書庫の中の蔵書でした、リップマンの「世論」は区の図書館には在庫の無い図書で借用は出来ませんでした。最近のニュースを読むためにも是非読んでみたいと思い岩波文庫を購入し、読み始めました。一度通読をしたのですが物足りず最近再度余暇を惜しんで読み返しています。内省の深い書籍は一読で理解できる文体ではなく可也神経を使います。丸山氏はこのような本を学者ではなくジャーナリストが描いたことに驚いています。富士を見るとは、見る本人は現実の富士山を見るのではなくステレオタイプの富士山、どこかに飾られていた写真画家の描いた富士山、葛飾北斎、安藤広重、銭湯の壁絵を見るのであり、現実に対面している原風景を決して見ようとはしない。また見たから間違いは無いものでなく、曖昧なもので決して事実を見、認識しているわけではない、感覚、意識は事実をステレオタイプで判断しており判断を誤ると書いています。日本人のステレオタイプは何度か「ずるい人種」と表記されておりアメリカの当時の日本人に対する印象はそうであったのかと気ずかされます。
2018.12.12
コメント(0)
7時前のニュースでは渋谷は快晴、今日は期待できそうです。8時前に一階より階段を登り、8階くらいよりビルの上に雲の状況が見え始めます、矢張り低いところは雲が多く期待できそうにありません、11階をぬけ、屋上に登る扉を開錠複雑に張り巡らされた配管のまえで南方向を見ると雲が厚く覆われております、然し上部は雲が多いのですが青空も見えます。西方向は丹沢の稜線がくっきり現れておりその上は厚い雲で覆われていました。果たして富士山はくっきりと全容を表していました。背景は白い雲に覆われていましたが稜線はくっきりと現れています。デジカメを取り出し撮影を始めたところメディアがありませんと表示されカードを忘れたことに気がつきました。その後9時半頃、再び上って見ましたが丹沢ははっきり稜線の確認が出来ましたが、富士の山容は雲に覆われ確認が出来ませんでした。
2018.12.11
コメント(0)
本日は良く冷え込み寒い朝でした。9時前に恒例の屋上に上り富士山を見ましたが生憎の雲で山容は見ることが出来ませんでした。丹沢山塊はくっきりと稜線が見え視界は良好です。暫く眺めているうちに光線の関係で大山は独立した稜線であることが見分けられました。普段眺めていると大山が一番左側に見えその続きで塔ガ岳、丹沢、蛭が岳の稜線が一列に並んでいるように見えるだけです。今朝は大山は光を受けず、その後の主稜線は光を受け明るく黄土色に輝いており大山はその前面に群青の色で確認が出来ました。富士山といえば何故か太宰治を思い出します。ただそれだけのことですが葛飾北斎ではなく、安藤広重でもなく記憶に浮かぶのです。富士の大きさを感じたことを振り返ると相当前になりますが塩山から大菩薩峠に歩いたことがあり、友人がその麓の温泉に出かけるのでそこで落ち合うことにしました。友人は常連で宿の方にも馴染みでした。一泊し翌日夕刻連泊する友人と別れ甲斐大和駅まで歩きました、川沿いの散策をしたり車道を歩いたりのんびり歩いている途中で山の間より富士山が鮮やかに見え大きさを実感しました。富士山には4度登頂をしており、南アルプスは数え切れないくらい出かけていますが大きさを実感した記憶がありません。東側は明るく晴れており手前は一直線に区切られて厚い雲に覆われています。
2018.12.10
コメント(1)
7月初旬までは大学の警備室に勤務しており毎日構内を歩いていました。借用していた事務所を返却するため勤務をやめ、今年の夏前、命の危険に関わるシーズンに整理を行ないました。什器は有りませんが約1万冊程度の書籍を搬出するために3ヶ月を要しました。エレベーターのないビルで2階でしたが運び出すため手で持てる大きさのダンボールに入れ、人力で搬出、猛暑に耐えるために深夜、早朝に行なうことも度々でした。現在は通勤もなくなり足腰の弱りを幾ばくでも緩和するためにマンションの外階段を時間が見つけ上下しています。12階まで有り往復に5分くらいを要します。日に10回登り下りすれば50分位の時間となり山道をそれくらい歩いた状況でしょうか。血圧が高く、ストレッチを毎日行い薬と運動で老化した血管の流れがよくなるように心掛けています。昨日は晴れる時間帯もありましたが、雲が多く朝は丹沢の山際が確認できましたが、多くの時間帯は山自体も隠れてしまいました。富士山は見えず、屋上の遠景です。
2018.12.09
コメント(0)
私は今でも携帯電話を所有していません。前の会社である社員が社内で携帯を所有していない人は3名と話していました。勿論私もその中に含まれていましたが、メンバーを聞き同一項に入りたくないメンバーだと苦笑いをしました。私の家族では全員が携帯を所持しており娘に於いては携帯がなければ生活ができないくらいです。数か月利用料が15万円を越す事が有り、妻にショップに行き状況の確認をさせましたが利用した料金ですと云われ要領を得ませんでした。仕方なくドコモに連絡、対処法を聞きました。店に出かけて相談を行い過去にさかのぼり料金体系を変更してもらい事なきを得ました。私が聞かなければ料金はそのまま支払われていたものと思います。税務署と同じで税金の安くなる方法が解っても、聞かれなければ教えることは有りません。電話料金も複雑で敢て聞かれなければ教えないを決め込んでいるようです。携帯は多くの人が利用しています。道を歩きながら、駅の階段を登りながら行く人の流れを気にしないで操作をしています。電車の車内を見渡せばほぼ半数以上が携帯を睨んでいる光景が見受けられます。本多勝一氏の「新・貧困なる精神」に携帯電話と立ち小便がの文字が目につき読んでみると、似ていませんか、立ち小便の場合と、街頭で堂々と小便する奴には腹が立つ、すみっこでかくれるように、恥ずかしそうにしている奴には腹が立たない。小便は、厠なり、小便すべき場所でしていれば、当然の姿として気にならない。公共の場で私的なことを丸出しにするほど不快指数が上がる。と書いて居ります。携帯が便利なものか如何か不所持の身では判断が付きませんが、持つ意思がないことは必要性を認めていないことになります。メールもパソコンでは開かなければ受信できませんが携帯の場合は昼であろうが、夜であろうが相手が送信すれば受信合図とともに着信をします。どうしても携帯を利用しなければならない状況がどれくらいあるものでしょうか。3月の大震災の際自宅に連絡をしたく街を歩きましたがなかなか見つかりませんでした。あちこち歩き漸く見つけ家に連絡をした次第です。公衆電話の需要は確かになくなっているのでしょう。
2011.07.13
コメント(1)
馬込図書館には馬込文士村に住んだ作家のコーナーが有り、また特集のコーナーでは順番に作家の著作、資料の陳列を行っているようです。先日古書店で萩原葉子氏の文庫を見つけ購入をしました。萩原朔太郎氏の長女です。萩原朔太郎は私が初めて読んだ詩人です。高校に在学のころ昼休みを利用し松林の中にある大きな石碑の階段に腰を掛けて読みました。高校は山名氏の城址の跡にあり校内には沢山記念の墓誌のようなものが有りました。既に朔太郎の結婚は幸福ではなく、奥様を見下していたことは承知していましたが此の娘さんの結婚は輪をかけたように不幸な結婚でした。時代なのでしょうか、父は天才と書かれていますが著名な詩人の娘さんを妻にしながら家庭での平衡を保つことなくお互いに憎みあい、蔑みあって同居している状況は読む者の人間の感情を逆なでします。「対岸の人」は無残な結婚体験を克明に記した小品です。その後馬込図書館に行き天上の花を借りて来ました。歌人三好達治の物語で朔太郎の妹愛子氏との不幸な結婚物語です。愛子は佐藤 惣之助と結婚、夫亡きあと三好達治と再婚、その後離婚をしました。三好達治は晩年よく次の詩を揮毫し、口ずさんでいたようです。山なみ遠に春はきて こぶしの花は天上に「束の間の午後」の文庫本解説に宇野千代氏が葉子氏の文章を小説の名手ではない。どちらかと言うと下手な小説を書く人である。と書いています。宇野千代は波乱万丈、結婚離婚を繰り返しながら不幸な結婚の人ではないように思えます。実は殆ど著作を開いたことが無い為知識が有りません。甃のうへあはれ花びらながれをみなごに花びらながれをみなごしめやかに語らひあゆみ三好達治の詩のどこに愛子氏と暮らした三国のすさんだ生活が有るのでしょうか、晩年は下北沢のアパートで独り暮らしをし、葉子氏とも行き来しながら暮らしたようです。葉子氏の表現では自分の娘のように思いながら。
2011.07.10
コメント(0)
暫く早朝散歩に出掛けませんでした。天候の所為と疲労の為です。疲れを残さないため数日間飲酒の習慣を改めていますが、寝不足のような疲労感にさいなまれています。2週間前に馬込図書館で借用した榊山潤「馬込文士村」を返却に行きましたが生憎休館でした。文士村書籍に指定されておりポストへの返却はいけないとの付箋付きで借用した書籍の為、致し方なく再び持ち帰りを余儀なくされました。馬込の記述は随所にありますが特に感興をそそられる記述は有りませんでした。詩人萩原朔太郎が八景坂で夫人と恋人の姿を確認し首くくりの松に身を隠しじっとしていた光景の記述は現在の大森からは想像できません。八景坂とは大森駅を山王口に出ると目の前の道路で線路と平行して走るバス通りです。現在は身を隠す場所も無いほど雑然としており賑やかです。大森貝塚の所在でも知られる通り駅反対側はすぐ近くまで海が迫り風光明媚な場所で有ったろうと想像します。馬込銀座の交番で三好達治、松沢が有らぬ嫌疑をかけられ若い巡査とやりあう場面も現在の環七に近いあたりだそうですが、想像に結びつく情景は有りません。大根畑、笹薮、九十九坂と云われた当時の馬込の面影は僅かに北野神社辺りの雑木林を連想するのみでしょうか。私の関心はそこに住んだ作家のエピソード、思想、行状ではなく、馬込の街、道をどんな心境でどの経路を徘徊したのかに興味を持っています。あくまでも地理と行状が重ならなければ興味は半減してしまいます。
2011.06.16
コメント(0)
よく晴れた朝、気乗りがしないまま散歩に出掛けました。行く先は、また馬込の町、環七を通らず一本中の道を東に向かい臼田坂に向かう道にでてその後は地図を見ながら室生犀星、小林古径旧宅あたりを散策しました。室生犀星住居のあたりを探しているうちにお寺の側道が有り曹洞宗万福寺でした。本で古刹と書かれており境内に入ると最初に目についた案内板は梶原景時の墓と表記されており、振り返るとそこに室生犀星の「笹鳴」の句碑がありました。馬込図書館で借用した近藤氏の著作を読みましたが印象は以前より悪く成りました。馬込文学地図の主役は尾崎士郎、宇野千代でどちらも殆ど読んだことが有りません。室生は萩原朔太郎を慕い馬込に転居したようです。梶原景時の墓は大木の下にあり一見古いお墓とは想えませんでした。境内を巡り山門にでて、再び境内に入り最初の場所に帰りました。左にうろうろ歩くうちにマンションの入り口に室生犀星住居の案内板が見つかりました。道を挟んだ位置に小林古径の住居と記されていますがそちらは標識は無いようです。その後広津和郎、秋田忠義の住まいあたりをあるきました。バス通りに帰り来た道を夏のような朝日を浴び帰宅いたしました。
2011.05.20
コメント(0)
昨年転校した家族が来東され同級生の親子40名程で懇親会を開きました。中国料理で飲み放題のメニューでした。多くの方が紹興酒を依頼し飲んでいました。春節前に上海に行き、ほとんど毎日ウオールマートに買物へ行きました。食料品と紹興酒を購入するためです。旧正月前は多くの種類の紹興酒が有り久しぶりでもあり色々な銘柄で高級酒ばかりを購入し飲みました。正月前には高級酒は殆ど売り切れ低価格のお酒が残っている状況となりました。大勢の人が沢山の買物をしてお正月を迎える華やいだ雰囲気でした。中国の紙幣で一番大きな額は100元です。100元札で支払いをすると殆どの店員さんが透かしを見ます。中に金属製の筋が入っておりこれを確認するようです。あるタクシーの運転手が偽札を支払われたと話していました。夜間は確認がしづらくうっかりすると偽札を受け取るようです。然し憤慨をしながらも当局に届けることもしません。不運は自分の確認が悪かった程度に割り切っているようです。支払いをするため列に並んでいたのですが一人の家族の所で渋滞となりました。女性の店員が延々何度も何度もお札の確認をしているのです。地方から来た家族のようでしたが、呆れ顔で怒りもしないで苦笑いをしていました。私も日中家にいる場合は昼間からビール1本、紹興酒1本を空けていました。2合瓶位で50元石庫門1を沢山購入しました。上海の紹興酒で切れ味が良く、さっぱりしています。友人は苦いと表現していました。招待をされて飲む酒は正月でもあり五狼液でした。ウイスキービン1本位の量で種類は沢山ありますがお正月様に取る酒で価格は1万円を越します。アルコール度は55度位あり口に含むとと強く広がり表現しにくい味がします。乾杯は日本人のようにグラスを合わせると一気飲みを意味し飲み干さなければなりません。グラスを上げるのみは随意に飲みましょうです。日本式にグラスを合わせると相手は一口に飲み干し貴方はと催促をされます。離れている場合はグラスでテーブルを叩き乾杯の意思を表現します。然し沢山飲める酒ではなく、最初は相手も喜び飲んで居りましたが暫くして紹興酒を飲んでおりました。懇親会散会後ある家族の家で飲むことになりスコッチを戴きました。ご主人曰く癖のある酒だが好きだと勧められました。匂いは病院のヨードホルムのような香りが有りますが飲むとさっぱりした味でした。日付の変わるころ辞し帰宅しました。
2011.05.07
コメント(0)
4時頃に目が覚め暫く寝返りをしていましたが散歩に出かけることにしました。運動不足解消と、減量の為の運動です。事務所までMP3のウオークマンを取りに行き、メールを確認、出かける前に道中の確認をし歩き始めました。荏原町方面から第二京浜を越し大森の方面に向かいました。大森に行く際よく自転車で通る道です。この道は殆ど平らで稜線を通っています。途中より右折綺麗な街並みの道を下ると山王草堂の入口が有りました。門は早朝の所為か閉じられており、また公開の時間の表示も有りませんでした。北側の道を屋敷に沿い登り扉越しに中の様子を見ました。都心と思われないほど木々に覆われ歩道が南のほうへ延びていました。大森駅より環七に向かう道の一つ手前の路地を左折し環七に沿って歩きました。左は2メートルくらいの高さが有りしばらく歩くと榊山潤の住居跡が有り暫く歩いた後環七を渡り一本中の道を高円寺方面に歩きました。途中より三好達治居住跡を通り臼田坂に通じる道まで登り自宅へと引き返しました。近隣は3度目の散歩で最初の感動は薄れました。芦花公園にも数度出かけました。旧宅が保存されており居室の中へも入りましたが贅沢なつくりではありません。冬の寒い季節は大変だったろうと余計な心配をしました。広大な敷地は目を見張るものが有ります。
2011.05.07
コメント(0)
良く通行する道ですが改めて立ち寄ることの少ないところです。午前中でしたが薄日が差し、暖かい日でした。日蓮上人入滅の本行寺に参り臨終の間に入りました。廊下を回り裏庭に面する場所で写真を撮りました。定かではありませんがここに来るのは数度目だと思います。説明書きには郷主・大檀越池上宗仲公の屋敷で入滅と書いてあります。当時はお寺ではなく個人の邸宅であったのでしょう。現在の建物でなくとも相当の作りの建造物で有ったことでしょう。病をおして弟子を伴いこの地まで参り、激しい生涯の幕を閉じた当時を想像しながら境内を歩きました。入滅時俄かに咲いたさくらと記載された桜の木のそばを通りその後塋域に入り荼毘に付された跡に建てられた宝塔を拝観しました。その奥に二基の立派な多宝塔が有り小さなプレートが有りました。内容はこの墓に参られた縁者の方は社務所にお寄りくださいと記載されています。どの家のお墓なのか現在解らないようです。お墓の石、規模、造りといい当時大変な旦那と思われます。家も数代を経ると有為転変を重ねたものでしょうか。階段を登り徳川家のお墓を見て上の境内をめぐる道路に出た後大坊へ下る階段を下りて帰路につきました。
2011.05.06
コメント(1)
連休ですが出かける予定もなく息子を誘い古墳を見に出かけました。学校の授業で先生に古墳を見に行く良いと言われたと聞き思い立ちました。子供たちは休日は起きる時間が遅く、だらしない習慣です。私は一時事務所より帰宅後すぐに出かけることにしました。等々力で下車渓谷の橋を越え高級感のある住宅街を通り環状八号線に出ました。超えるとすぐに古墳は有りました。以前仕事で近隣を歩いた際にも立ち寄った記憶が有ります。前方後円墳で大変大きな古墳です。勿論修復され過去の原型を復元したものでしょうが工具、運搬手段のない場所にこの規模の土を盛る労働力は大変なものだったでしょう。埋葬者の人望が遥察されます。その後多摩川のほうに下り御岳山古墳へ行きました。入口は閂錠が掛かっていましたが中に入りました。規模は小さくまた最近拡幅された道路がそばを走り雰囲気は古墳らしくありません。道の周りには石仏が沢山置かれていました。等々力不動より渓谷に下り横穴古墳を見た後、駅のそばまで溪谷を遡り等々力の駅に帰りました。
2011.05.04
コメント(0)
昨年健康診断の結果メタボの指摘が有り、年の暮れより健保組合の指導を受けました。脂肪のブロック1キロの標本を持参され持ち上げてみました。驚く重量です。このような不要物質を毎日持参、歩行していたのかと、一念発起減量に励むこととしました。方法は余計な食物を摂取しないこと、運動を行うこと、毎日二度体重計に乗ること。今年二月定年となり通勤がなくなるとともに運動量が不足しました。定刻に事務所に出かけ一日作業を行っていますが、机に坐したままの時間が続き体重も段々以前の水準を回復してきました。朝起きると再度南馬込を歩いてみようと思い立ち家を出ました。3日前に散歩したばかりですがこの辺りは実に雰囲気が明るく愉快な場所でした。環七通りに沿い大森方面に歩き第二京浜の前で上部の道路に出ます。その後臼田坂に向かいバス通りを歩きました。この地域は高低差が有り、また道が入り組んでいます。畦畔の名残りでしょうか経済性を無視した地割です。各家の敷地はゆったりとしており土地の起伏、緑を生かした家が多く見受けられ、朝の陽を浴びて興味が尽きませんでした。本日は臼田坂を下り、川端康成旧居跡を通り右折川端龍子記念館のほうへ向かい、通り過ぎ右折暗渠になった通りを西馬込方面に向かいました。途中熊谷恒子記念館の前の坂道を上り近くの墓地に入り眼下に近隣の町なみを確認しました。西馬込を通り稜線を通る道を夫婦坂に向かい帰宅しました。肌寒いくらいの陽気でしたが適度な運動でした。
2011.05.02
コメント(0)
2月2日(大晦日)知人の家で昼食、夕食を御馳走になりました。浦東地区で周囲は工場街で住宅街という雰囲気は有りません。一角にタイル張りの団地式に建築された低層の外壁はタイル張りのマンションが有り、そのマンションに伺いました。メゾネットタイプで上階に上る階段がリビングより確認できました。兄弟家族が旧正月の為に上海に集合し大変賑やかな昼食でした。厦門から来られた家族があり飲茶の接待を受けました。急須、湯呑を最初に注いだお茶で温め、二度目のお茶を小さ湯呑茶碗に少しずつ注ぎ飲みます。お湯を注ぎ湯呑を洗い、何度も新しいお茶を喫しました。昼食はご家族で調理した品々で大変沢山の種類が有りました。私には特別に亀の煮物を提供して戴きました。油をひいたフライパンで炒めたようでした。ビールを戴きその後白酒(60度位)を飲みました。価格も日本円で1万以上する酒です。 食後、言葉も不案内で長時間一緒に居ることに退屈し、また昼間から頂いた白酒の酔い醒ましも兼ね近所に散歩に出かけました。比較的暖かい日でさむさも感じないくらいでした。街区も大きく人通りのない広い閑散とした年末の街並みを帰宅の道に迷わないように注意をしながら1時間半くらい歩きました。大晦日路上の店頭で爆竹をする店舗も多く彼方此方で爆竹の音、火花が喧しく聞こえていました。然し街は年末でほとんど店を閉じた店舗ばかりでした。5時前に帰宅。 夕食を御馳走になり足早に帰宅を致しました。宿泊しているところは23階で年末の花火を見る場所としては格好の場所でした。11時30分頃よりそれまで以上に爆竹、花火が打ち上げられ始め、日付が変更される頃はピークとなりました。遠景は花火で見えないくらい煙が立ち込め、建物の窓際にも花火が打ちあがります。縁起を担ぎ盛大に爆竹を鳴らすのだそうです。街中が爆発しているような景観でした。
2011.04.07
コメント(0)
銃を所持して既に40年になります。然し余り出かける機会が有りません。なぜなれば射撃を行うとなれば一日休業をし出かけなければなりません。それは所持を許可している人の義務だと言いますが、所持者の圧倒的多数は東京都民ではないでしょうか。射場は東京都にはなく、神奈川、千葉、静岡が近距離の射撃場です。射撃に馴染みたいのですが、いざ行うとなればそれなりの時間、費用の負担が必要となります。時は春、郊外に出かけますと雑草に混じり春の草花が咲きほこり目を引きます。緑、自然に馴染むことの少ない日常が嘘のようです。少し街を外れると桜の花が咲き誇り遠景に大きな富士山が眼前に控え春真っ盛りでした。常緑樹も例外でなく、春の光を浴び萌え出る雰囲気を宿しています。うらうらと自然を満喫し長閑な一日を浪費しました。
2011.04.06
コメント(0)
東京は快晴。肌寒い一日でした。午前中は書籍の整理、自宅の整理で時間を浪費し、現刻となりました。QQで上海知人の娘さんと初めて数分間会話を行いました。本年は大学を卒業されると聞いています。父君はJALの機内誌の取材に訪れる日本からのゲストを数日案内、写真撮影をれているとのことでした。旧正月時の上海の暖かさを思い出しました。今年の花はなぜか寂しい気が致します。今日一日が健やかに終わりますように。
2011.04.04
コメント(0)
日々過去に囚われている意識を生き返らす為に。湯之盤銘曰、苟日新、日日新、又日新を口すさみながら、自分に言い聞かせています。民のみならず、自己も。
2009.06.06
コメント(1)
三島由紀夫は「百物語」の鍵は、「追儺」よりも慎重に隠されている。何事も起こらない、夜の叙述だけで終わるこの短編は、肩すかしを喰らわす効果では「追儺」と同じだ。今紀文と言われる主人役その人が、実は生ける化物だという荒涼たる読後感は、他に比較するものを見ない。私も夜道を斜めに磨り減った歩き難い下駄をはいて田圃の畦道を、とぼとぼ歩行する読後感でした。蟀の音ばかりが耳について。
2009.05.23
コメント(0)
数日前古本屋で日本文学全集の鴎外の巻2冊を購入しました。文庫本では読みたい小説が少なく全集では持ち運びに不便なため全集のカバーをはずし、製本の切れ目の良い所で書籍を引き裂き一日に読める範囲の分量を鞄に入れて持ち歩いて居ります。「半日」は鴎外の未亡人が最後まで再発表を拒んでいた小品です。鴎外の家庭はこのような状態で有ったのかと寒々と推察を致します。幸福な家庭は一体的に同じような家庭ですが、不幸な家庭はそれぞれ個性があると始まる小説を思い出しました。また、このような家族に思い当たる節がない人は幸せです。三島由紀夫はこのような女性が生きた明治時代を考えると、明治時代を別の角度から見直してみたい。また、近代というものの不思議な姿をうつ出している、とも言っております。井上通泰氏前掲の書に森の母は清少納言のような人で有った、書生を愛し、林太郎を訪ねて行き、不在だと自分と話して行きなさいと引き止めた、森もそれがイヤで母の前で卑猥な話柄をして側に居ない様にしたと云っています。ヰタ・セクスアリスの中に寄宿舎を訪れた父の様子を書いた部分が有ります。父の面影を感じます。また小倉日記の中で赤松氏の死亡記事を送付され我が旧妻だとしるし、その才能を賞賛して居ります。記載も透明で感情を抑えた記載です。鴎外全集岩波書店発行37巻を所有していますが、古書店の市場で購入する業者が無く3000円で引き取られたと聴きました。書籍は重く嵩張るため現代の家屋では保管出来ないのでしょうか。また鴎外も時代が古くなった感がします。
2009.05.09
コメント(0)
作家論で三島由紀夫は以下のように述べています。長いですが引用を致します。森鴎外とは何か戦前の日本では、「森鴎外とは何か」などという疑問がそもそも起こる余地がなかった。鴎外は鴎外だった。それは無条件の崇拝の対象であり、とりわけ知識階級の偶像であった。ふたたび問う森鴎外とは何か鴎外という存在の。現代における定義を下すべきだと思う。鴎外は、あらゆる伝説と、プチ・ブルジョワの盲目的崇拝を失った今、言葉の芸術家として真に復活すべき人なのだ。言文一致の創成期にかくまで完璧で典雅な現代日本語を創り上げてしまったその天才を称揚すべきなのだ。どんな時代になろうと、文学が、気品乃至品格という点から評価されるべきなら、鴎外はおそらく近代一の気品の高い芸術家であり、その作品には、純良な檜のみで築かれた建築のように、一つの建築的精華なのだ。現在われわれの身のまわりにある、粗雑な、ゴミゴミした、無神経な、冗長な、甘い、フニャフニャした、下卑た、不透明な、文章の氾濫に、若い世代もいつかは愛想を尽かし、見るのもイヤになる時が来るにちがいない。人間の趣味は、どんな人でも、必ず精錬へ向かって進むものだから。そのとき彼らは鴎外の美を再発見し「カッコいい」とは正しくこのことだと悟るにちがいない。現代(当時)の文章の氾濫にかくも多くの形容詞をかさね尽くしている点に微笑を禁じえませんでした。
2009.05.06
コメント(1)
松本清張に刺激を受けて森鴎外を読み始めました。ある日森銑三「明治人物閑話」を古書店で購入をしました。森氏の話柄が記載されており興味を感ずる部分を紹介をします。この断簡は森氏のことより井上通泰氏の人物に主眼ががあり、森氏はその付録のような扱いです。井上氏は森鴎外を鴎外と呼ばなかったそうです。殆ど林太郎君、または森君と呼んでいたようです。林太郎と呼ぶときは親愛の情がこもっていた。山県公が井上先生に文章を善くする者を二人見た。福地源一郎と一人は森林太郎だ、といわれたそうです。井上氏は不満で言葉を返し福地と一つにされては森が可哀そうです。森氏の文章は福地の文と一つ見るべからざるものとせられた。ある時森氏が井上先生に文法の話しを聴きたい。と請うた。それではと、話しを始めたら、30分ほどで、もう分かった。それだけでよろしいと、といって聴くのを打ち切った。井上先生は森の書くものに文法の取外しなどはなかった。といわれた。井上氏はこの書籍を読んだ後調べると柳田国男の実兄であることを始めて知りました。森銑三は井上通泰がそれほど世間に知られないことを残念に感じられています。鴎外は攻撃をせられると、一々それに応酬をする。取るに足りぬ群小輩にまで、言葉を返し大人気ないという感じがする。黙殺して済ますことのできぬところに鴎外の性格があった。松本清張の文章の中に鴎外の文章が冴える時期と官僚としての成功時期は一致している。多才な鴎外、文筆かとして大成しても官僚としての立場を片時も忘却する人ではなかった。逆境にある時は著述も停滞をしていると指摘している。慎重な鴎外の性格がこのようなところにも現れているようです。永井荷風の断腸亭日乗によく鴎外の墓に詣で墓石の苔を払う記述が有ります。以前は父の住居の近くに墓地が有ったそうですが、改葬され三鷹、太宰の墓の向かいに埋葬された。鴎外は文字が違いますがブログで扱えない文字でこの文字を記載しました。
2009.05.04
コメント(1)
安岡正篤氏の書籍を数冊読んでいるうちに終戦に関し半藤一利氏の著作を読みました。同氏の著作の中に司馬さんと清張さんという書籍があり始めて両氏に編集中として深く関わりを持っていた事を知りました。司馬氏の書籍は多くの書籍を紐解きましたが、清張氏の著作は読んだ事が有りませんでした。気分から推理小説は気乗りがせず「西郷札」「或る『小倉日記』伝」を読みました。その後森鴎外の小倉日記を読み偶然購入した文庫本から両像を読みました。渋江抽斎は間接的に松本清張氏の書籍から知り手持ちの文庫本で読み始めました。登場人物の氏名などはルビがなければ不案内で正鵠を得ているのか不安です。渋江抽斎の経歴を閲すると鴎外の経歴と重なる部分があるようです。医官の家に生まれ漢籍の理解が深かった事、家庭の不和で離婚を経た事、多方面の知識に造詣が深かった事。人物が森氏の著作を通して偲ばれます。渋江抽斎しは最近の新インフルエンザのようにコレラに罹り落命されましたが長命であれば多くの著作を残されただろうと惜しまれます。松本清張氏は森鴎外を愛読されておりその影響を受けて居られたようです。自伝的な文章も多く草されておりその経歴を思うと多難の連続のようです。文豪とは「いかに長時間机に向かい座して居られるかだ」と話されていたようですが、日蓮のように体勢に折伏を繰り返し、世間的な栄誉を受ける機会に恵まれなかった清張氏の著作が100年を機会に読み直されることを念じます。
2009.05.03
コメント(0)
円仁を読んでその時代を知るために唐の歴史を宮崎市定氏の書籍で読みました。その後再度中国の歴史関係の書籍を読みました。きっかけを忘れましたが暫らくして安岡正篤氏の書籍を数冊連続して読み、文春文庫の安岡氏の自伝らしき書籍を読みました。岡田啓介氏の回顧録を読み2・26の記述等を興味深く読みました。安岡氏も添削したといわれる終戦の詔勅にふれ聖断、真珠湾の日、ノモンハンの夏と半藤一利氏の一連の文庫を連続して読みました。又関連しマッカーサーの二千日を文庫で読みました。司馬遼太郎氏の坂の上の雲はかなり前に読みましたが戦記物を余り読みたいと思うかとは有りませんでした。体験は有りませんがなぜか生理的に遺棄していたようです。戦士の遺書 半藤一利 太平洋戦争に散った勇者たちの叫び遺書は定型的な記述でありますが与えられた使命を只管に遵守する人たちの悲しくも、しっかりとした、言葉で満ちています。望み無く、援助無く、勝利の可能性なく使命を果たす事のみに過酷に生きた人たちの居たことを知っていなければいけません。
2008.06.29
コメント(0)
春節を上海で迎えることになり2月17日成田より上海に向かいました。年末にもかかわらず大変空席の多い便でした。どこでも好きな場所で席を取り3時間の飛行を過ごしました。日本の航空会社のためスコッチのオンザロックを気楽に頼みました。その量の多さで着陸する頃には可也胃に負担を感じました。ツアーのため現地で迎えのワゴン車に乗り市内へと向かいました。うすぐれたハイウエーを走り始めてすぐに遠くで花火が見え始めました。特別に依頼し私達は自分のマンションの前で下ろして頂きました。市内の直前の橋の近くで少し遠回りですが自宅の前で降ろして貰いました。夕飯を食べ始める頃より爆竹、花火が次第に多くなり耳を劈くようでした。近くで打ち上げられた花火は目前で破裂し飛び散っていきます。日本との時差が有り一時間遅れて日が変わりす。暫く仮眠を取り日の変わる頃再び起き爆竹の様子を見ました。あたりは煙でかすみ、彼方此方で打ち上げる花火が見られました。一年の幸運を望み爆竹を鳴らすのだそうです。何度か引越しの際、到着の際爆竹を鳴らす場面に合いました。私たちも30分くらい爆竹を鳴らし幸運を期待しました。又布団にもぐりこみイラクの爆撃もこのようなものかと思いながら就寝しました。音は似ていても此方は実弾が飛んでくることは有りません。友人の家で供された飲み物 棗のようでした。
2007.04.07
コメント(0)
桜まだ開かない或る春の日、偶然日蓮上人入寂の家の前を通りました。以前数度訪れ大勢の来訪者に混じり拝観した遺跡でした。弘安四年の春、六十歳のときに、下痢が激しくなり、弘安五年の秋、病を常陸の温泉に養い今生の思い出に故郷安房の国も訪問しようと身延の沢を出発し武蔵野国池上の大夫宗中の舘に着きました。しかし病篤く、自分で記した大曼荼羅と、随身の釈迦牟尼仏の像を安置し読経の声に囲まれ生涯を閉じた場所です。日蓮上人は安房の国小湊村で生まれた。貧しい漁師の子供であった。十二歳のとき信心深い両親の希望で清澄寺に預けられ修行を行いました。その後鎌倉で修行をし、帰郷、再び修学のため京都の比叡山に向かいました。その後帰郷、故郷の寺で帰郷の報告を行い故郷を終われるように再び鎌倉へ出ました。考えを要約すると仏陀の始めた仏教に無数の教派が存在し互い他派の非難をしている問題でした。仏教とは一つではないのか。いずれの宗派が自分の進むべき仏陀の道なのか。仏陀の残した経の中でどの経が一番仏陀の意をたいしているのか。日蓮は研鑽の中で法華経が最晩年の教えであり、日本を救う唯一の教えであることを確信し、その後の生涯は日本を救うため法華経をすすめ、他の宗派を信じる人を改宗させることでした。鎌倉で小さな草庵に住み、街頭に立ち辻説法を始めました。幕府の膝元で将軍の尊崇する大寺の教派を真っ向から批判し末法の物騒な世情を救うために大奮闘を開始したのでした。内村氏は次のように書いています。日蓮の教説がすばらしいという訳ではないが、身分の無い一介の漁師の子が独力、独立不羈の精神であらゆる権力と戦い一つの経典と法を信じ、実践し、ために身命をおしまなかった。そのような僧は日本でただ一人の人であると。ただ私は一人であろうとも、この人物のために、必要なら私の名誉をかけてもよい覚悟であります。日蓮の教えの多くは、今日の批評によく堪えるものではないことも認めます。日蓮の論法は粗雑であり、語調全体も異様です。日蓮はたしかに、一方にのみかたよって突出した、バランスを欠く人物でした。だが、もし日蓮から、その誤った知識、生来の気質、時代と環境がもたらした多くのものを取り去ったとしましょう。そこに残るのは、しんそこ誠実な人間、もっとも正直な人間、日本人のなかで、このうえなく勇敢な人間であります。恐れをもっとも知らぬ人間、この勇気は、自分が仏陀の、この世の特別の使者であるという確信から生じたものでした。森有正氏の内村鑑三論を読んで初めて日蓮と共通するものを強く感じました。キリスト教の中でどの派が一番キリストの教えを正しく継承しているのか、また聖書研究に見られるように聖書(経典)の内容を重要視したことなどです。内村氏の日蓮描写はそのまま内村氏の人に重なるではありませんか。この世に使命として使わされたキリスト者。先日家族と伊東に出掛けました。昼食を食べるため寂れた町を歩き目的地に向かいました。途中で日蓮遺跡の案内表示を見つけました。翌日朝食後一人でその寺に出掛けました。大きな本堂があり階段で拝殿に登りました。扉は開放されており勝手に上がり中を拝観しました。特に変わったようすは無く池上の法門寺の装飾に似ていました。長押のあたりには日蓮上人の伝絵が沢山飾られていました。随身の仏はこの舘の主人が病気平癒の祈祷に感謝し海より掬い上げた像を日蓮に差し上げたと説明書きがありました。すぐに表に出ました。すれ違いに住職がこられカメラを見て写真を取りましょうかと尋ねられました。その後周囲の道を散策し数様の写真を取りました。歴代の住職のお墓は簡素なもので、仏光寺歴代の住職の人柄が偲ばれるようでした。闘争好きを除いた日蓮、これが私どもの理想とする宗教者であります。と内村鑑三は記しています。
2007.04.04
コメント(1)
近くに教会があります。幼稚園を併設しており昨年より建築看板を設置していました。桜の満開を過ぎた二日後大きな枝を切り落とし山積にしていました。桜の花がついたままで横たわっていました。随分心無いことをするなと思いながら見て居りました。数日して根より切り落としすべての木、枝が無くなりました。幼稚園の増築のため伐採されたようです。桜より経済の優先でしょうか。保存する方法も無かったものかと残念に思いました。
2007.04.02
コメント(2)
昨年の夏前、有る機縁があり但馬の国出石に出掛けることが有りました。姉妹の家より車で水害の跡の残る堰堤を走り、出石の町に入りました。ある店で出石蕎麦をお腹いっぱい食しました。特段の味はありませんが小さな白磁に盛られた蕎麦を全員で30枚くらい頂きました。枚数の注文を聴き驚きましたが一口位ずつ盛られた蕎麦を食べ、お皿をつみ重ねる風情が出石の蕎麦の食感なのでしょうか、食後も机に重ねられた皿を見ながら蕎麦の余韻を愉しみました。その後出石の町を散策しました。但馬の国に生まれながら出石の町は数年前職場の旅行で訪れたのが最初でした。沢庵和尚は出石で生まれ、十歳の時、浄土宗の寺で出家した。十四歳の時宗鏡寺に移った。この寺は山名氏の菩提寺であった。城下町のはずれ緩やかな傾斜を登ったところに宗鏡寺はあり昼時の所為か拝観料を受け取る人も居なかった。センサーが稼動し人が近づくとお寺の説明がスピーカーから流れ始めた。境内の上部に山名氏歴代城主のお墓があり当時の大名の権勢を偲ばせるものであった。小高い台地の上に沢庵和尚のお墓があり、その下からプールで水浴する子供達の歓声が聞こえていた。その後大徳寺の僧董甫が出石城主前野氏の招きで宗鏡寺に来た。その後この住職が京都に帰るとき、お供して大徳寺に入り京都での生活が始まった。しかし京都の生活は権門に阿る住職の考えと違いが煩悶する日々であったようである。董甫が亡くなった時大徳寺を出て堺の南宗寺陽春庵に一凍を訪ねた。宗彭(沢庵和尚)はこの師より引証の語と「沢庵」の名を頂いた。一凍亡き後南宗寺の住職となったが、勅命を受け大徳寺の住職となった。しかし、大徳寺に入山後三日目に退院上堂の偈を述べて南宗寺へ帰ってしまった。「法度事件で」徳川家康の信任の厚い崇伝の横車を受け大徳寺の代表として江戸に召還された。しかし崇伝の意見が通り当事者は厳罰に処された。沢庵は出羽上山へ流罪となった。将軍秀忠が死んだとき特赦があり許され三年の上山生活を離れ江戸に帰った。時齢六十歳。赦免後の沢庵禅師に対する将軍家光の傾倒は一方ならず、しばしば禅師を招き教えを受け、品川に東海寺を建立し禅師を住まわせた。大徳寺の教団に満足をせず、又時の幕府の政策に宗教人として硬骨の対応をし、身の回りを質素に保ち続けた禅師。最後は家光の保護を受けて安穏に暮らし初めても自嘲禁じえなかったそうである。
2007.03.19
コメント(0)
著者の紀野一義氏はこの書籍を読むまで不知でした。この書籍を読んだ後も知らず。学術文庫では4巻に分かれております。その中で一番印象深い高僧といえば何故か親鸞です。親鸞は京都宇治に近い日野の里でむまれた。藤原氏の支流であったが貧しい家庭で、その証拠に兄弟すべてがそれぞれ違う宗派のお寺に出家をしている。長男親鸞はわずか九歳で僧慈円を師として出家した。大正十年西本願寺の庫の中より妻恵信尼の手紙が見つかり、親鸞は九歳から二十九歳まで叡山の横川の常行三昧堂にいて不断念仏を修していたことが明らかになった。親鸞はある日下山し、京都の六角堂に百日の参籠を行う。九十五日目の暁六角堂を卒然と出て、黒谷の法然のもとに行き、百日疑問を問質し「行くみちを承り、決定したので」と記されている通り自分の道を歩き始めた。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。法然の唱導した念仏者の集団に外部からの圧力が加わると共に念仏者の中に圧迫を増幅するような行動を起こすものがあった。比叡山の衆徒は専修念仏を禁止するように天台座主に訴えた。法然をはじめ親鸞もこれにより流刑となる。親鸞は越後の国府に流されてゆく。この地で四年間を過ごし、赦免後京都には帰らず妻、子供を伴い常陸の国へ向かった。二十年に及ぶ関東教化の始まりであった。六十三歳前後飄然と常陸の国を去り京都へ去った。親鸞が去った後関東の衆徒は混乱を起こし、その調停に息子善鸞を派遣するがこの善蘭が混乱を増幅する行動を起こしついに義絶する結果となった。晩年の親鸞のそばには末娘覚信尼と、善鸞の子の如信がいて身の回りの世話をやいていた。孫の覚恵は生活に困り真言宗の僧となるほどの生活であった。「某、閉眼せば、賀茂河に入れて。うほにあたうべし」といってこの世を去った。消息に書き表された夫婦愛、信頼が有難き心地してそこはかなく思われます。「わが歳きはまりて安養浄土へ還帰すといふとも、和歌の浦曲の片男波の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。一人居て喜ばば二人と思うべし。二人居て喜ばば三人と思うべし。その一人は親鸞なり」
2007.03.18
コメント(1)
何かの書籍に沢木氏の禅は完璧なものであったと記載されている箇所がありました。詳細は忘れましたが脳波を検査しながら禅の状態を測定したような記述でした。座禅を開始するとすぐに脳波は安定した曲線を描いたそうです。沢木氏は幼くして両親を失い養父の家に預けられました。艱難辛苦の幼少時代をおくり明治二十九年(十七歳)の六月二度目の家出をし永平寺を目指しました。特に永平寺に理由はなかったが家から遠いため連れ戻されることがないとの判断だった。無一文に近い状態で津から北陸永平寺まで歩き「坊さんにしてください」と頼んだが「帰れ」となかなか聞き入れられず二昼夜飲まず食わずで頼み続け直歳和尚が見るに見かねて作事部屋の男衆として寺にのこれるようとりはからってもらった。その時の嬉しさは一生忘れることができない。感激の涙が流れてしかたがなかった。会う坊さん坊さんが菩薩のように見えた。と書かれています。一生政治的なもの無関係で、色合いを持たず、素っ裸で、正味ばかりの宗教で、押し通すことを信念として生きてこられた禅者の姿が生き生きと伝わってきます。宗教家で有りながら人間的で、豪放で汚濁まみれた生涯は読む人に少なからずよい余韻を残す書籍だと思います。
2006.12.09
コメント(2)
神仏習合について「古事記」「日本書紀」には多くの神が登場します。九州では宗像神、綿津見神です。二神とも海上豪族の祭る神です。八幡の本家にあたる宇佐八幡は登場しません。中世には八幡宮として鎌倉の鶴岡、京都の岩清水、九州には宇佐八幡がありました。岩清水八幡は日本を始めた祖先神として、伊勢の天照大神とあい並ぶ地位を占めます。しかし宇佐は西海の辺鄙な一地方神にすぎなかったのです。中央貴族の世界に宇佐八幡はいつ登場してきたのか。これは仏教が重要な役割を果たしている。平城京に都が移されてまもなく隼人が反乱をおこします。奈良の政府は南九州に軍隊を送りこみます。宇佐からも兵士が徴収され加わりました。ところがその直後宇佐八八幡は託宣をくだし、自分は殺生の罪を犯し、その罪報におののき助けてほしいというのです。こうして宇佐八幡のために、仏教の経典が読まれました。神が仏を救済者として仰いだ第一番目です。これが宇佐八幡が中央に名前を轟かす出発点になったと考えます。740年聖武天皇は河内の知識寺をに参拝しました。そして金堂の本尊を拝し自分もこういう仏像を造りたいと思いました。しかし困難を考えためらっていたところ、宇佐八幡が託宣をくだし、いかなる困難があろうとも天神・地祇を率いこの大事業を成し遂げると強い意志をしめしました。このとき仏教に救済を求める苦悩者の域を越え、仏教を擁護する神になるわけです。そして託宣のとおり東大寺は完成しました。中央貴族から崇敬と信頼を寄せられるようにったのも当然でしょう。田村氏はこの記事を何度も読んでいたが、ここに重大な意味が隠されていることに気がつかなかったと述べています。天神・地祇は太政官と並ぶ神祇官が天皇の名において奉祀する神々のすべてであり、その神々は序列化されていました。大きく分けると天神が上位で、地祇は下位です。天神の最高位は天照大神です。宇佐八幡は天照大神を先頭とするすべての日本の神を自分が率いると宣言しているのです。宇佐八幡の特性は仏教に対する親近性、在地性・土着性が希薄なこと。東大寺が完成すると、八幡は宇佐から奈良に移り手向山八幡となります。都が京都に移ると男山に移り岩清水八幡になります。鎌倉に幕府が開かれると鶴岡八幡となります。次の特性は託宣です。古代の宇佐はしばしば託宣をくだしています。田村氏は宇佐八幡は外国の神ではないかと考えておられます。この神は宮司が三氏有り、近隣は外来人が多く住んだところだそうです。又鏡を製造し貴族に贈呈をしていたようであり。三池炭鉱で有名な鉱脈を既に見つけ、この地に住んだのではないかと推測されています。大仏建立には技術と、この地で算出される銅を献上し助けたのではないかと。
2006.12.03
コメント(0)
「ブッダ最後の教え」石上善應氏のテキストを読みました。以前「自灯明法灯明」をブログに書きましたがこのセミナーを読んで気がつくところがありました。仏陀は村から町、町から村を通りながら弟子と一緒に移動を重ねていました。既に八十を過ぎ自分の生涯の終息を感じていました。大勢の弟子と移動をしたのではなく少数の人たちで旅を続けていたのではないかと想像しています。仏陀も毎日托鉢をし、弟子と変わらない生活を続けていたようです。「この世で自らを島として自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ、そういうことがどうして起こるのであるか?」原典では島という表現です。島とはインドの大河の中州が河を渡る人々にとって大変大きなよりどころなっていたというたとえだそうです。晩年の仏陀は教団(サンガ)が大きくなるにしたがい教団の分裂の可能性を心配をしていたようです。そのような不安をを感じながら自分の教えを継承する教団の永続性を望んでいたのではないでししょうか。仏陀の生存中は軋轢が表面化しなくても亡き後の纏まりを大変心配していたようです。「自灯明法灯明」私は灯明が好きですがほんらいの意味からすると島が正しいのです。島がどうして灯火と訳されたのか。「よりどころ」がもとのことばだったと思います。と話されて居ります。
2006.11.23
コメント(0)
全413件 (413件中 1-50件目)