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三男坊が40℃の熱に3日も浮かされ、ぐずぐず泣くものだから私も昨夜2時間しかねてまへん。てわけで、へろへろな動かない頭。とりあえず読んだ直後の感覚がなくならないうちに少し書いておこう。キーになる「リトルピープル」は内田百けんの(あら?坂口安吾だったかしら?いや、百けんだと思うんだけど。わかる人教えて~。しかも「けん」が機種依存文字で出ないとか言うし。しょぼっ)「件(くだん)」かなんか、短編に出てきた「小さい人」とおなじなのかなあ。それに白雪姫の小人のフレーバーをまぶしたような、奇妙な人たち。私はこういうの、キライじゃない。面白い。ただ、リトルピープルには明らかに何か目的があるのに、その目的がわからない。空気さなぎができる法則もわからない。あーほかにもっと書くべきことがあるけど三男が又泣いているので又今度にします~とほほ。
2009年07月03日
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あーしまったな~。こりゃ、きっと続編出るぞ~。それまでこの気持ちをどーすればいいの~。しくしく。ちゃんと最初に言っておいてくれないと~。ああ。でも、これで完結かも。それはそれですごく困る。と、いうこの読後感。この本、すごくすごく売れているらしいですね。またぁ、そんなこといって、いざ発売されたらその辺の本屋でどーせ山積みして売るんだから~・・・と思ったら、ほんとになかった^^;ようやく手に入れて読み終わりました。一番先に浮かんだ感想は冒頭のようなものなのですが。読んでいる最中からずっと思っていたことは、20年以上かけて村上春樹を読んできたわけではない読者は、どれくらいコノ話にのめりこめるのかしらと言うことでした。大変生意気なことをいいますが、今まで村上春樹の本を読んだことのない人にはよくわからないことがたくさんあるんじゃないかな~と。いちげんさんおことわり、な雰囲気がなくもない。高校生の頃カンガルー日和に出会って、世界の終わりとハードボイルドワンダーランドを読んで、ボーイフレンドと競争しながらノルウェイの森を読んで、何度も何度も羊三部作を読み返して、函館から札幌へ向かう特急の中でダンスダンスダンスを読んで、20歳を過ぎてから久しぶりに羊三部作を読んだら「あの頃の私はなーんもわかってなかったー!!」と驚いたり、ねじまき鳥やら少年カフカを読んで数週間実生活にうまくなじめなくなってしまったりするあいだに村上春樹をネタにした卒論を書く大学生やら常にカバンに春樹の文庫がつっこんである社会人やら主婦やら母親になってしまう、そーゆー下地が無い人がいきなりコレを読んで、「おもしろい」と思うものなのだろうか。まー私にはこの面白さがわかるけどねwなんて優越感を感じているヒマは、読んでいる間はない。おもしろーーい!!っていう、ただそれだけ。うれしくなったり、どきどきしたり、切なくなったり。間違いなく今までのなかで最もロマンチックな一本。年取るに従って、だんだんロマンチックになっていく小説家というのも素敵だ。明日はこの小説の感想をネタバレで書くことにしようかどうしようか。
2009年07月02日
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梨木香歩の小説は大好きです。今回はいつもよりユーモラスな描写が多くて、楽しかった。「細胞レベルに閉じ込められている孤独感」に思いをはせる話。普段世間にあふれかえっている「自分探し」の意味の、なんと薄っぺらいことか。以下、ネタバレです。主人公の美しい女性は、腹をたて、涙がとまらなくなり、喜びに震え、とまどう。でも、どこか底のほうにしっかりとした安定感があって、読んでいるほうは全く不安にならない。全宇宙でいっとう最初の細胞の孤独に思いを馳せたり、種(しゅ)の終焉にたちあったりして、その時の主人公の気持ちに容易に寄り添うことが出来るのに、心細い思いはしないですむ。多分、作者が強靭で健全な心を持っているのだろうなと言う気がする。恋とか愛とか、自分らしさとか自己発見とか、そんなものは小さい。小さいまま、その小ささを愛する感じの小説が私は好きだったけど、この本はそれとも少し違う。小さいとか大きいとかそんなことも意識していない。ぬか床から宇宙まであまりに自然に一続きで、どこまで小さくてどこまで大きいのかもよくわかってない自分に気がつく。このままでいい。そのままでいい。って感じの、あたたかな読後感に、またまた梨木香歩にやられてしまった。
2009年03月09日
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哲学者の本はあまり読まないのですが、中島義道はドイツで生活していたときのエッセイを読んで以来、一般向けの本は目に留まると読んでます。この本は人生とか死とか世の中の不条理を味わいつくすが良い・・・・という内容の本で、「これでいいのだ」とか「だめな自分でいい」とか、とにかく安定しようとする心を片っ端から否定している本です。死の直前に自分の業績を思い出して満足するとしたら、その業績はガラクタである、なぜなら死の恐怖から目を背けさせ、死の不条理さと対面することができなくなるから・・・と、なんとも厳しいことを言っています。中島は、東大へ行ったのちニートに(この本の中にはニートと言う言葉はまだでてきません。ひきこもりというのはあります。奥付は平成16年になってます)なるわけですが、布団の中であれこれ考えても「でも死んでしまう!」と大真面目に苦悩するくだりがあります(どうも小学生のときから死の恐怖におびえながら生きていたらしいです)。始めは真剣だったその問いも、しばらくして慣れてくると、ずるさがカビのようにびっしりと生えてくる。読んでいると、ニートもラクじゃないなあなんて思っちゃいます(笑)。勝手にうまれてこさせられて、無理やり死んでいかなくてはならない。正しいもののみが日の目を見るわけでもないし、悪人が必ず成功するわけでもない。そんな複雑な世の中だからこそ、味わう価値がある。後半に行くに従って、不思議と前向きになっていく感じですが、一般的には後ろ向きといわれる方向に進みまくっていたら逆になんとなくポジティブになってしまったというふうにも見えます。所謂、力技ですね。こんな力技、エネルギーがなくてはできることではありません。それは中島もみとめているところで、まだ充分にエネルギーがないうちはこういう人には近づかないほうがよい、とにかくこういうふうにまずはトレーニングを・・・と、手取り足取り教えてくれています。自己実現、という言葉は使われていませんが、上っ面ではなく、キレイごとでもなく、真剣に生きて、自己実現をしていこうと言う気に、何故かなってしまう。中島義道のひねくれっぷりがすがすがしい一冊でありました。
2008年12月19日
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『模倣犯』を読んだのはどれくらいまえだったかな~、それほど経っていません。記憶が薄れる前に読めたのはラッキーでした。『模倣犯』の話がちらちら出てくるので、知っていたほうが絶対に気持ちよく読めます。今回も非常に面白く、一気読みできましたが、読後感に何か引っかかるものがあり、いつも宮部みゆきの本を読んだ後に来る暖かな爽快感が感じられなく。それはどうしてなの?と、一日考えていくつか原因に思い当たる節がありました。まず、『模倣犯』の主要キャストである前畑滋子が主人公であり、これだけ前作に触れている以上どうしたって比べてしまいますが、前作が群像劇の様相を呈していたのに対して今回はほぼ前畑が出ずっぱりで、ほかの人物の書き込みが若干食い足りないところ。前作、登場人物それぞれの書き込まれすぎに疲れてしまうような人には今回のほうが読みやすいのかもしれませんが、それに感心していた私のような人にはがっかりの要因になります。人物の性格や心象の書き込みが足りないことが、話の流れの強引さにもつながっているかなと。想像力の豊かな前畑滋子の思い込みが、それほど外れていないことを脇役が一言で証明するようなところがいくつかあり、まあいいんだけどね、でもちょっと踏み込みが甘くないかなあなんて生意気なことを何度か思いました。クライマックスがそれを振り返りながら報告する手紙によって語られるって言うのも、臨場感がそがれるっていうか、読んでいて前作ほどのめりこめない(前作のときは恥ずかしながらわりとどきどきしながら読んでいました 笑)原因です。そして何より。なんかさあ、冷たくない?宮部みゆき、何かあった?なんて思っちゃいました。いつもいつも、宮部みゆきの登場人物に対する視線の暖かさにあこがれてきました。善人がいつも幸せになるとは限らない。むしろ、不条理な目にあうのはいつも善人。どうしようもない外からの悪意によって人生に影響がでてしまって、そこに救いがない場合もある。宮部の話にはそういう話、結構多い。それでも、いつでも作者の暖かな目線があって、安心して読むことができていたわけです。でもなんだか今回は、「ずいぶん突き放されちゃったね~」と思わされる人が何人かいます。最後の最後にかなりアクロバティックな展開で和むエピソードが描かれています。が、うまくいえないんだけど「こういう急転直下な幸福感を求めているんじゃないんですよ~」と、作者に訴えたい気持ちが湧き上がらずにはいられません。どうしたんだろう、なんだか消化不良だ。前畑滋子がこの件にのめりこむことになったきっかけの絵も、結局「だれの記憶なのか」わからないまま放り出されています。前作のファンならば是非、ゼヒ、ぜひ知りたいのですが、ここでも肩透かし。まあ、あの宮部みゆきの、あの『模倣犯』の続編!!!!という私の思い込みというか、激しい期待が読む前にあったわけで、読んでいる最中はところどころうなるほど面白かったんだし、ちょっと期待しすぎたってことで。あ~前畑滋子でもう一本。もう一度、この人のことを書いてみて欲しい。なんて思いましたです、ハイ。
2008年05月08日
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おもしろかった~♪もしかしたら今までで一番好きな巻かも。恋愛模様や音楽的な(あるいは音楽を通してひととしての)成長がそれこそフーガのように描かれていくのが面白い。キャラクターのつくりがしっかりしていて、台詞や行動に「この人ならこういうだろう」「こう反応するだろう」と納得がいく。でもでも。巻末の21巻の予告が~!!「裏切りと苦悩に満ちた試練の章」←すでに人に貸してしまったのでうろ覚えって・・・・あれですか?やっぱRuiと千秋さんがどうにかなっちゃうんですか?いや、のだめって純粋なラブストーリーとは違うので、恋愛に限った話ではないですよね。どちらにしろこの頃、人が裏切ったり裏切られたりする話が苦手なので。せめて22巻がでてからまとめ読みするかな。どうせ21巻が発売されるころはそれどころじゃないような予感がするしな(笑)。
2008年03月15日
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新刊が出たと知り、勇んで買ってきました♪Ruiが出てこなかったので心配したような三角関係への発展はしないものの、火種は残ったままです・・・ああ、いやだなあこういうの。二人の関係は安定させたまま、音楽のことに集中できないかなあ。ターニャの行く末も気になるし(笑)音楽の世界のキビシサもよくでてたし、なつかしのメンバーも出てきたし。面白くないわけじゃなかったけど。あー読んだばかりでなんだけど、早く続きが読みたいよ~。次の展開への橋渡しって感じでいまいち食い足りなかった・・・・
2007年11月21日
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初めて読む武田百合子。武田泰淳の奥さんだそうで。あっさり。のんびり?ぶっきらぼうな印象さえする文章。ああ、こんなふうに年をとりたかったのもだ。なんて思ってしまった。同じ言葉を続けて繰り返しても、一回目と二回目で微妙に印象が変わったり。こういう文章を書ける人は少ないと思う。誰々がこう言った、という記述は多くても、自分がなんと返事をしたかはほとんど書かれていない。たまに、満足だ、とかしょんぼりした、とか書いてあっても、なんとなくとらえどころがない。それが、なんだかカッコイイ。なんだこりゃ、って感じ。多分、この人の中に好奇心というか興味以外の感情を持たないもう一人の人がいて、じーっと自分やそれ以外の人のことを見ているの。その人が、文章を書いてる。道ゆく人の描写に「お金のなさそうなおじさん」とかいうのもあって、こういうの失礼だよね、でもなんかわかるわかる(笑)。感情のない人がそういうことをいうので、見下したような感じが全然しないの。次は「犬が星見た」を読んでみたい。
2007年11月14日
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長男の幼稚園の年長さんに、この幼稚園唯一の正社員ママがいます。大きな会社ゆえ、育児中を理由に短いシフトで働けるようですが、なかなか大変そうです。が、やたらと負担が大きいわが幼稚園の役員を引き受けたり、家はとーてもきれいで、冷蔵庫に「おそうじ表」なんか貼ってあって(書斎・居間・窓の桟・風呂場などがたての行、横に日付が並んでいて、掃除したところにシールを貼れるようになっている)、台所もぴっかぴか。うちなんかこれに比べたら丸ごとゴミ箱ですぜ・・・・専業主婦なのに~・・・このパワフルママさん、下の名前が私と同じ、偶然メルアドのつけ方も似てた、好きな作家もかぶってたりして、何かと私のことをかわいがってくれています。ありがたやありがたや。そんな彼女が貸してくれたのがこの本。児童書ですが、いや、お恥ずかしい、知らなかった。こんなスゴイ本があるなんて。一言ではこの味を表現するのは大変ですが、まあ、ブラックユーモア?ニヒリズム?命の大切さとか、仲間を守る気持ちとか、そういうものをばっさりと切り捨てる世界。年を取りすぎたエジプトのワニが、ひもじさから孫をはじめ仲間を食べてしまう。居づらくなって海に逃げてから知り合って、世話になったので惚れた蛸もじわじわと食べてしまう・・・・とか、そういう話。ワニは、食べた直後は「しまった」とか思うのだけれども、それほど葛藤せずに同じことをくりかえし、反省とか悔恨とかそういうものとは一切無縁。いくつか収録されている短編は後ろに行くほどどんどんその乾いた世界観が増長されていく。恋愛どころか母性愛さえ移ろいやすく陽炎のようにおぼろ。子供をたくさん産んだめんどりが、どんどん目の前で子供を仲間に殺されているのに平気だったりね(最初はちらっと子供に愛情を示したりするので、落差が激しいの何の)。世話になった仲間が死んでもぜんぜんへっちゃらだしね。問題作ですよねえ。こんなもの、子供に読ませちゃいけません(笑)。楽天でも取り扱ってませんでした(爆)。福音館文庫から出ています。しかし、貸してくれた人に対する好意がそうさせるらしく、「なんてハードボイルドなのっ!?クールだわあ」なんて思ってしまうワタシ(笑)。信じられない話ですが、これは父である作者が子供に創作して話して聞かせる寓話という体裁を取っています。こんな話を考える男の子供らしくというか(笑)、この子供の感想がまた気持ち良いくらい的外れで、しかも結構残酷だったりするのです。でもね。驚きつつも、父は、息子の感想を否定しない。「どうしてそう思ったの?」とは聞きますが。そこはすごいですよ、その的外れ振りときたら、創作して長々話したのが徒労と感じても無理はないくらいのものなのに、そういう気配は一切ない。うーむ。さすがフランス人ってことなのかな。なにか、想像もつかないような懐の広さと言うか、文化の奥深さを感じます。こんなひどい話!とか、R指定です!とか、そーゆーことをいえなくさせられるような、一筋縄ではいかないような何かを感じます。それがナニなのかを知りたい~!!明日、この本を返さねばなりません。そのときに、この話を聞くと誰もが引くんだけどね、ああ読んでからのほうがいいわ、とお預けにされているこの児童書にまつわるエピソードを教えてもらえそうなので楽しみにしています。・・・・というか長男坊、一昨日中耳炎のため鼓膜切って、昨日今日は家の中で暴れまくっていたけど、明日の遠足だいじょうぶなのかい?言うこと聞いておとなしくしてないと年取ったワニのいけにえにしちゃうぞ~!けっけっけ。
2007年10月14日
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小説が好きな作家はエッセイが好きになれない。エッセイが好きな作家は小説が好きになれない(除く村上春樹)。ってことで、ずっと敬遠していた梨木香歩のエッセイ。図書館で呼ばれて、ついに手にとってしまいました。結果は、とても面白くて大満足。理解はできないけど受け容れる。ということを、観念上だけのものにしない、ということ。全編の底を流れているのはこのテーマ。私のように、自分を保つためには不利益なものや無益なものは何だろうが切り捨てて生きている(不要なものは部屋にあふれてるんですけどね 爆。精神的にってこと)者にとって、この懐の深さには本当に感銘を受けます。作者の熱い思いや行動、ドラマチックな周囲の人々を描写している文章は、それでも非常に冷静で、むしろ淡々としていて、まがい物ではない知性を感じさせます。ところで読みながら、ああ、私は、この、「善と悪という概念の、曖昧で便宜的なこと」を『ゲド戦記』を読んで知っていたはずなのに!と、突然くやしくなりました。頭でわかっていても、経験が足りないで身にすることができなかったってこと?聡明さが足りないってこと?両方か~ううう・・・・っという感じで。映画の『ゲド戦記』を見て、これが物足りなくて、違和感として発露していたのだろう。「命を粗末にするやつは大嫌いだ!」「命ほど大切なものはないよ」(ってテキトーな記憶で書いてますが、そーゆー台詞をヒロインがさけんでいたんです)というのがあの映画のテーマだったのだろうけれども、そしてその主題に真っ向から対立する人はかなり少ないだろうけれども、でも、あの「ゲド戦記」の主題としてはふさわしくない。善と悪、自己と他者、光と闇、生と死、その表裏一体なこと、あるいは境界の曖昧なこと、それこそが小説『ゲド戦記』の主題だったのだとおもうのです(筋書きをすっかり忘れているのにこんなことをぶち上げるのはとっても恥ずかしいのですけれども)。死を恐れるのは生を恐れると言うことという台詞の中に、その萌芽が見えたとしても、なんというのかなあ、自分と違うものを、自分を保ちつつ、相手を嫌悪しながらも(その嫌悪感を抑えることなく)受容しようとする努力、みたいな設定をどこかに織り込まなくては、ゲド戦記らしくならないんだな。・・・・・脱線しすぎちゃった・・・・・話を元に戻しましょう。梨木香歩の筆力によって、ある人や、その人にまつわるエピソードがそのまま一遍の小説のように読み応えのあるものになるのです。私がもっとも敬愛するエッセイスト、須賀敦子とまったく同じ作用のようにみえます。女性が、ヨーロッパで異邦人として暮らしているという共通点以上のものを感じます。須賀が小説を一遍も発表することもなく逝ってしまったのをとても惜しいと思っていたのですが、梨木香歩の小説はたくさん出ているわけで、ああ、これが読める私はなんて幸せなんだろう。も~~~~だいっすき、です(笑)。
2007年09月24日
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下巻、650ページ以上あるのに・・・・読んでしまいましたよ~、結局(爆明日は幼稚園のバザーで一日外で店番予定なのに、こんな時間。。。。。大丈夫なのか?それにしても宮部みゆきはすごいです。主人公は小学生の男の子。メインは「ああ、宮部って本当にRPGが好きなのね」って感じのファンタジーで、そのゲームっぽい展開に多少途中ダレるのです。が、なにしろ冒頭、上巻半分くらいまでの現実世界の出来事があまりに生々しく、過酷で、小さな男の子を育てているママであれば絶対に涙ナシでは読めませんっ。ので、どうしてもこの子の行く末を見届けないわけにはいかなくなっているのです。容赦ない。でも、絶対に見捨てない。そんな、宮部みゆきのスタンスに、はまりっぱなしなのです。長丁場のせいか、言葉のチョイスの仕方にたまに乱れがあるような気がしますが、全体を貫く妙な勢いに相殺されています。一人称と三人称が入り乱れるような独特の文体は、私にとって非常に心地いいものなのです。ああ、そうだよね。少年は、こうやって強くなっていかなければならないのよね。お母さんは、こうやって、少年を待っていなくてはならないのよね。だって、お母さんなのだから。さて、明日に備えて寝なければ・・・・・おやすみなさーい♪
2007年06月22日
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パラレルワールドもの。私がローティーンであれば夢中で読んだだろうと思います。主人公は黒髪巻き毛の美少年。ヒロインは明るくお転婆で、舞台は中世ヴェネチアに良く似た世界。ローティーンの女の子であれば主人公に好意を抱き、魔術師の技にうっとりし、ヒロインにシンクロし、美しく無慈悲で大人な女王にあこがれるはずです。まーローティーンの女の子の2倍もしくは3倍の年月を生きてしまったワタクシなわけですが、それでもこの本には感謝せずにいられません。というのも、主人公が化学療法で重病と闘っている時、父親がベッドの横で本を読んでくれる、というくだり。これはこの分厚い本のほとんど冒頭のところで出てくるのですが、その お父さんが読んでくれる本が『ホビットの冒険』とか『トムは真夜中の庭で』なのです!『トムは真夜中の庭で』!このくだりを読むまで、すっかり忘れていたタイトルです。この題を見た瞬間、あの表紙がまざまざと蘇ってきました。↑これこれ。内容はにわかには思い出せないんですけどね。でもそれをきっかけにして、『火の靴と風のサンダル』とか『クラバート』とか、脈絡なく(どれも不思議な話、所謂ファンタジーって言うくくり以外に共通点は少ないと思われ。多分、読んだ時期が同じなのです 笑)次々と思い出して、あっという間に心はローティーンに戻ってしまったのです。戻ったまま(夫が社員旅行に行っているのをいいことに、子どもの遊ぼう攻撃をかわしつつ←ひどい)夢中で読み進めるうちに、『トムは真夜中の庭で』のこともぼやーーっと思い出してきたりして。いかにも女の子が好きそうな豪奢なドレスや宝石や仮面、かっこいい男子たち、陰謀や魔法や暗号。うきうきしてきます。ストラヴァガンザ、とは時空を旅することらしいです。覚えにくいタイトルだよね(笑)。でも、響きは美しい。それから、香りや匂いの描写がうまい。3部作の1作目ということで、気が向いたら残りも読んでみよう。
2007年06月03日
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これを読みたいと常々思っていたのです、座右の書である『家守綺譚』とリンクしていることを知って以来。これが今月の新刊コーナーに文庫でおかれているのを見たときの喜びと来たら自分でもおかしいくらい(笑)。でもどうして角川文庫なんだろう・・・活字がどうも好すきじゃない・・・・いや、好きじゃないんじゃなくて、新潮のほうがスキなのかな・・・そんなに違わないか・・・←どうでもいい独り言『家守・・』は読んでから日が浅いのですが、その衝撃は村上春樹の『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』を読んだ時以来のものです。20年に一冊の衝撃ってことになるので、これから何冊そんな本を読めるのかはわからない。『家守・・』は発表するつもりもなく気楽に書いたものだというようなことを読んだのですが、この村田エフェンディはそれとはかなり対照的に大風呂敷を広げた印象。前者が「静」で後者は「動」、いや、「激動」。文化や歴史に対する作者の考え方が情熱的に語られていると感じます。女性の美しさの描写も素晴らしい。いや、描写がどれもこれも素晴らしい。そして、登場人物一人一人がしっかりと奥行きを持ち、言葉に力があること。言葉に殉じているといっても過言ではないそれぞれの生き方には本当に心を打たれます。論理で説明できるものだけを受け入れて行くようなやり方は幼稚だわ、とこともなげに言ってしまう女性に、主人公だけではなく私もやられてしまったり(笑)。家守の読後感が温かく、充足したものだったことに比べ、村田エフェンディの読後に残るのは圧倒的な喪失感と哀感。自分でも持て余すほど。なかなか感想がまとまらないけれど、とにかく確かなのは、今一番好きな作家が村上春樹から17年ぶりくらいにシフトしているということ(笑)。今年は内田百けん(「けん」は機種依存文字だそうです。なんのこっちゃ)を読むぞ~なんて思ってましたが、まだ一冊も読んでない・・・・梨木香歩に変えようか・・・(爆)
2007年05月28日
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短編集。最初の話を読んで「久々に読んだ本がこれですかぁ~」と萎え萎えになってしまいましたが、尻上がりに面白くなっていき、最後の短編は結構面白かった。それにしても一本目・・・・コレはひどい。タイクツな上に自意識過剰。ネタとしては宮部みゆきが似たようなことをやっていたと思うのだけど、とってもスマートでしかも犯人の性格なんかもくっきり浮かんでて非常に面白かった。生意気ですが「力量の差」を感じます。ま~宮部みゆきと比べちゃかわいそうですが。作者はギリシア哲学に明るいのかしら。最後の短編「エピクテトス」は共感はできなくても、主人公の気持ちが伝わってきてなかなかよかったです。自由というのは、自分が何の奴隷になるかを選ぶってこと。エピクテトスは、ナニモノからも自由になりたかったのでしょう。あこがれはしないけど、尊敬します。
2007年05月16日
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「岩波の小さい本」と呼んでいるシリーズ(正式名称がわからない~)を、私が幼い頃母がよく買って来ていました。『機関車やえもん』とか『ちいさいお家』とか『ものぐさトミー』とか『人まねこざる』シリーズとか。どれも大好きで、今も脳みその奥~~のほうの、「大切なもの」ファイルの中に入っていて、本屋や図書館で見つけるととても嬉しい気持ちになります。たくさん買ってもらったので、なかにはイラストが地味で、「お母さん、何でこんなの買ってきたの?」と思うようなものもあるわけで、その中には「山のクリスマス」とか「百枚のきもの」とかがあるわけです。それが、大人になると「あ~あれ、いい話だよね」みたいになってくるから不思議。読み返すどころか、その本を見たわけでもないのに、突然思い出してそう思うのです。特に「百枚のきもの」は、話の筋をはっきり覚えているわけではないのですが、クローゼットに百枚のきものが本当にあったんだ!と、茶碗を洗っているときに突然感動したので(読んでからウン十年?十ウン年?経ってたと思う 爆)、自分の鈍感さ?加減に爆笑してしまいました。それから更に年月を経た今日、図書館のオススメコーナーに「百枚のドレス」という本を発見してびっくり。本のサイズは違うけれども、この淡い色使い、はっきりしない輪郭、イラストも間違いなく「百枚のきもの」です。あれ~?いじめを考えるようなコーナーに何故この本が。ぱらぱらと読んでみたのですが、記憶のなかにあるよりもずっと繊細で、痛々しい話でした。いじめられるほうでもいじめるほうでもなく、いじめる子の親友という立場の女の子の気持ちが丁寧に描かれています。これを読んだ当時の私は、たぶんこの程度でワンダ(いじめられっこ)が傷つくとは思わなかったし、マデライン(いじめっ子の親友)がくよくよするということもまったく理解できなかった。実は、ワンダのようなからかわれかたは私もよくしていました。うちはワンダのような劇的な貧乏ではなかったけれど、私はだらしなくて毎日(本当に毎日)同じ服を着て平気だったし、服のすそで鼻を拭くなんて朝飯前だった(爆?)。男子はもちろん私のことを気持ち悪がったし、女子は私をバカにしていたと思う。よくいやな気持ちにはなったけれど、その人たちを嫌いだとも好きだとも思わなかった。理解してなかったし、しようとも思ってなかったと思う。そんな私は、最後なぜマデラインが「ワンダは私たちのことが好きだったのよ」と泣いたのか、よくわからなかったと思う。今日読み返してみて、読んだ当時「マデラインは、ワンダともう会えないのが悲しくて泣いてるのね」というようなことを思ったことを思い出した。「後悔」という言葉の存在を、体験する前に知る機会を逃してしまう、大変もったいない誤解だったなあ。雪に映るクリスマスツリーのライトを見て、女の子同士で「ワンダの絵には、この色が全部つかわれていたわね」と話すところとか、とてもよい。今度借りてきて、もう一度丁寧に読んでみようかと思います。
2007年03月16日
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カフカの『変身』は2回ほど読んだのだけれど、2回目が確か15年くらい前じゃないかと思う。「何故」こんな姿になってしまったのか、ということをすっ飛ばして、変身した事に対する周囲の反応、彼の心象、などがくっきりと描かれて小説として破綻せずにまとまっていることに感動し、「なるほどこの手があるのか~」と驚いたのを覚えている。しかしこうして歳月がたってみると、小説の筋よりも、自分で想像した毒虫の映像が未だに鮮明に思い出せることのほうが驚き。巨大な毒虫が窓から外を眺める様、それに対する妹の眼差し、あるいは宙をとんで毒虫にめり込むリンゴとか、そんなもの。この『審判』は更にその描写力に頼った小説になっていると思う。なにしろ小説としては破綻しているといわざるを得ないと思う、途中で「編集者注・この章未完」と書いてあって筋がぶった切れて、一つの寓話を挟んでそのまま終章へなだれ込むのだけれど、何とも唐突。そしてそのあとに残ったジグソーパズルのピースのようにいくつか章があって、あとは読者が自分で想像しろって感じになっている(でもピースがたらなすぎ)。そりゃー背表紙のあらすじ紹介でねたばれしているわけだ。ネタも何もあったもんじゃない。こんなのが許されていいのか~!と、ちゃぶ台をひっくりかえして熱い味噌汁の鍋をぶつけられても文句が言えない出来。こんなのが出版されるなんて、こんなのが翻訳されるなんて、なんておおらかな時代だったんだろう。それにしてもこの描写の力は只者じゃないと思う。ほんの一行、容姿の描写、あるいは仕草を読んだだけで、その人物の人となりまで浮かんでくるようだ。密閉された部屋の息苦しさ、伽藍の暗さ、それが読んでいる自分までその中に放り込まれているような錯覚を起こすほど克明。克明だけど簡潔。素晴らしい。作者は、筋なんてどうでも良かったのではないかと思う。その場面のディテールがすべて。苦しんだ結果なのか、楽しんだ結果なのか、残念ながら小説として完成してはいないけど、何故か読んでいるほうは引き込まれてしまう、恐ろしいブラックホールのような小説だった。
2007年02月22日
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さて、先日「おれはティラノサウルスだ」のことを書きました。その後、「おまえうまそうだな」でもちょっと切ない気持ちを味わされ、この間の金曜日に「きみはほんとうにステキだね」に至りました。号泣です(爆)。読み聞かせながら、最後の3ページ、泣いてしまいました。子どもたちは少し前に飽きてしまって、このハイライトシーンも私の涙にも全く関心を示しませんでした~。いやはや。それから次の日くらいまで、裏表紙を見ただけでじわっと涙が湧くくらい、この絵本は私のココロの琴線を刺激したのであります。私って乙女?(冗談です)。この本がこのシリーズの最初に読む本だったらこんなに揺さぶられなかったと思うのだけど、コレまでの2冊がボディブローのように効いてきて、最後に決壊が崩れたって感じ。書きたいことはいろいろあるけど、ネタバレになるので心の中にしまっておきます(爆)。子どもたち、これから様々な人やモノやできごとに出会うたびに、この絵本のことを思い出してほしいな~なんて思いました(その前に最後まで聞いてくれ~ 爆)
2007年02月20日
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忙しさにかまけて、ずいぶん本や映画の感想を書くことから遠ざかっている。是非、感想を書いておかなければならないものがたまっている。例えば、京極夏彦の『邪魅の雫』。たとえば、映画『ビフォア・サンセット』。ああ書こう、こう書こうと思うことはあっても、なかなかまとめるのが億劫で書く気にならない。しかしこの本は、読んだという事実だけでも書き留めておこうと私に思わせるものが、ある。この作家の本は、読むたびに驚かされる。これがこの人の傑作だろうと思うことも多いし、一行が頭抜けて素晴らしいこともある。どちらにしろ、私がぼんやりと靄越しにみつめているものを、はっきりつかんでいるのだといつも感じさせる。今回は、作品全体の完成度もすばらしく高いと感じる上に、決め台詞も私の人生を預けたくなるほどしびれるものだった。主人公は、私が目指して進んでいるまっすぐな道の、ずっと先を歩いているのだ。植物の名前を冠した短い章が、美しく連なって出来ている。最初の方は「この章が一番すき」とか思いながら読むのだけど、そのうち一番を選ぶことをあきらめてしまう。主人公は珍しく男性で、綿貫征四郎という。甲斐性のない文士である。庭のサルスベリの木に懸想されたりする、変わり者。変わり者ではあるが、非常に私の好みだと思う。たとえば秋の始めに「季節の営みの、まことに律儀なことは、時にこの世で唯一信頼に足るもののように思える」などというところ。移ろう季節に不変をみるなんて、ステキだ。それに、サルスベリが自分のために骨折ってくれたことに気がついたのに、しらんぷりしているところなんかも。核心はネタバレになってしまうので伏せるけれど、それは小学生の頃から私が考えていたことで、結構真面目な話をするときにはいつもキーワードとして登場する言葉だった。書き留めなくてもいつまでも覚えていられると思う。もうひとつ印象的なのは「カラスウリ」の章かな。「なに、かまわんさ」という、主人公の一言に、心打たれた。文章も素晴らしい。全部音読したくなる。こんなことは中勘助の「銀の匙」以来だと思う。あの頃は、それを聞いてくれる友人がいた。まことに恵まれていたなあ。いや、別に一人で読んでも構わないんだけれども。こういう出会いがあると、読書を趣味にしていて本当によかったと思う。幸福感で、いっぱいになる。なにしろ、この作家には私のチャンネルがぴったり合ってしまうのだ。今まで、結婚して出産して育児をしてという自分の境遇が、家族を題材にすることが多いこの作家に私を寄り添わせるのだろうと思っていたが、今回、そうではないということがよくわかった。
2006年11月12日
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この頃新しく知り合った人と話したり、子供が幼稚園に行くようになって園児の母同士で話すようになったりして、うすうす知っていた自分の性格がくっきりと浮き彫りになってきたのを感じます。ということで、今日はねねごんずによるねねごんず分析。私以外の人が読んでも面白いことはひとつもないこと請け合いです。どんな性格かといえば、一言で言うと「狭量」。人を許せない。人の不幸も幸せも受け入れられない。ということですね。こういう性格、自分自身の首もしめるので、直したいと思うと同時に「なぜなの~?」という疑問が当然出てきます。真っ先に思うのは、父もそうなんだよな~、ということです。私の父は、自分の頭で理解できないものは受け入れづらい人ですので、その遺伝子を色濃く継いだのだろう、ということ。でも、それだけでここまで狭量になるものだろうか。なにか他にあるんじゃないだろうか。と思ったときに浮かんだのがこの本です。『モモ』『はてしない物語』に夢中になっていた小学生の後半から中学生くらいの時期に発売されたこの短編集。図書券を握り締めて買いに走ったのを覚えています。正直言って、まったく歯がたたなかった。何が書いてあるのかさえよくわからなかった。でも、最初の話はとても印象深かったのです(今読み返したら、二つ目でした)。以下あらすじ。結末まで書いてますので隠します。反転してください。不幸な迷宮都市から出て行くために、肩甲骨から翼を生やし、飛ぶ訓練をした青年。更に試験に合格すれば、街から出て行くことが出来ます。街から出て行ける者は、尊敬され、羨望され、嫉妬されながらも伝説になり、幸福になることができる。街から出ることが出来るものは幸福になれるが、街から出るには幸福でなければならない。父から「おまえは幸福か?」と聞かれ、青年は一点の曇りもなく「幸福です」ということができる。恋をしているのだ。漁師の網を纏い、日が沈むまで街を歩き回るのが試験のやりかた。課題は人によって違うし、本人にも知らされない。幸福でいつづけなければならないことしかわからない。青年は幸福と自信に満ち溢れながら道をゆく。ところが行く先々で不幸なものが青年に不幸のおすそ分けをする。自分は一生ここにいる。一生幸福にはならない。自分の不幸をすこしだけでも持って行ってくれれば、おまえの幸福の御相伴にあずかれるというものだ、といって。「幸福な者が薄情であることは珍しい」。かくして青年は、迷宮の住人の不幸を引き受けながら歩くことになる。日が落ちて、遠くの海岸に翼の生えた4人の若者が、試験に合格したことを知らされているのが見える。服従しないことが青年の試験の課題だったのだ。不合格になり、青年は迷宮都市の住人となった。これは、ローティーンの私には非常に衝撃的な話でした。衝撃と共に、「人の不幸を共有してはいけない。人の気持ちがわかるということは、とても危険なこと」と素直に思ったに違いないのです!!←大真面目ところでこれを最初の話と思っていたのもむりはありませんでした。一編目は一人称と三人称が入り乱れる、内容も難解な短編です。しかも、この短編たちは互いに干渉し合っているということを当時聞いた記憶があります。中学生の私には全くムリムリな内容、構成。今2編目まで読んで、面白いと思うということは、多少は進歩してるのかな~(笑)。続きも読んでみよう^^
2006年09月22日
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御無沙汰です。なんとなく、気力がなくて。で、読書からも遠ざかっているのですが、やっと一冊読み終わりました。小学生の時、お気に入りだったのにそれっきり読み返さなかった「はなはなみんみ物語」。チカラや武器を持つ賢いものは、いつでも重荷を背負う。力そのものが悪いのか?力の使い方が悪いのか?一度力の使い方を誤ったものは、再びその力を使ってはいけないと思うし、いつまでも誤りを思い出しては苦しむ。そんなことを、メルヘンというオブラートでくるんで子供たちに伝えようと思ったら、やはりこの本がお勧めでしょうか。野鼠や、兎、いたちのおばあさんと、小さな人の交流。ぴかぴかに磨いた胡桃の器や、きなこのスープ。双子の小人の、鼻がちょっと大きい男の子がはなはな、耳がちょっと大きい女の子がみんみ。きゃ~わゆーいと、思いながら読むだけでも充分楽しいです。その時その時、読みたいように何度読んでもいいだろうな、と思えます。わたしむつこの文体は、癖がなく、情感豊かなのに冷静で(たまにおセンチになりますが)、読書を始めたばかりの子供にぴったりと思えます。で、ホントは三部作なので続きが気になるところですが(ほとんど話を忘れてた 汗)、ど~~しても気になるので、ゲド戦記の再読を優先することにしてしまった☆
2006年08月14日
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まだ借りて三日くらいなのに、もう次の絵本を借りてくれといわれて、明日図書館へ行くつもり。忘れそうなので今借りているのをメモっときます。「メルローズとクロック えがおをさがしに」エマ・チチェスター・クラーク小さなわにのクロックと、犬のメルローズの話。表紙の赤いオープンカーに子供たち、大喜び。「かばくんのふね」岸田衿子動物園にいるたくさんの動物を、全部指差して確認。「きんぎょのトトとそらのくも」にしまきかやこ雷が鳴って風船が割れるところを開いて長男坊、「やっぱりかみなりさま、こわかった?」やっぱりって・・・・・。
2006年07月28日
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昨日は、書いている最中にまだまだ寝ているだろうと思った旦那が起きだして、続きが書けませんでした。失礼致しました。えーとどこまで行ったっけ。>私のダイスキなマクゴナガル先生も、今回ばかりはハリーをエコヒイキしきれませんでした。ですね。はい、私はマクゴナガル先生がダイスキです。無表情で厳格な印象なのに、すまーしてハリーと他の生徒に差をつける。それが、ハリーが孤児だから母性本能を刺激されてとかいうことよりは、ハリーのクディッチの才能を買ったためという印象が好ましい。そんなマクゴナガル先生も、今回はハリーを贔屓しませんでした。いくらその結果を予測していなかったとはいえ、ハリーのやったことはやはり、許されることではありません。私はむしろ、スネイプ先生が甘すぎるのはなぜかという疑問が浮かびました。本来、退学になってもおかしくないことですし、実際そうならないのはラッキーだとマクゴナガル先生も言っていたと思います。一月以上の謹慎にしても、誰も文句は言えないはずなのに、週末の数時間を拘束するだけで済ませるのは何故なのか。更に、もう一つ、スネイプの行動に関する疑問があります。比較的始めの方に登場するので、これはネタバレにはならないと思うのですが、以下、先入観を避けるためにも未読の方は読まないことをおすすめします。*************************************スネイプ先生はマルフォイの母親と「破れぬ誓い」をします。魔法使いの「破れぬ誓い」は、破ると命を落とすことを意味します。この誓いの内容は、ヴォルデモート卿(以下ヴォル)、ダンブルドアのどちらにとっても裏切りに等しいものです。これは、スネイプひとりで判断することではないような気がします。かといって、ヴォル卿にとって、この誓いにさほど戦略的に意味があるとも思えない。とすると、やはりスネイプはダンブルドアと打ち合わせをしながら動いているのかなという気もします。しかも、この行動の意味は、スネイプ自身にとっても非常に意味のあることであるような感じがします。そしてもしこれがダンブルドアとの共謀による行動であれば、ダンブルドアとスネイプは、ドラゴ・マルフォイをハリーと同じくらいの重要なコマと考えている可能性があります。コマというと表現が悪いですが、未来ある若者をなんとか明るい方へ導き、生き残らせようという覚悟のようなものを感じさせます。友人(ロンとハーマイオニー)を、ハリーと生死を共にするようにしむけることと反対のベクトルを感じさせ、違和感を生んでいます。とはいえ、ダンブルドアがすべての子供たちを守ろうと思っていることに疑いの余地はありません。はたしてスネイプがどれくらいダンブルドアに共感しているのか、それがこの長いシリーズのキーになっていることは間違いないところです。ダンブルドアの思惑通りに事が運ぶかどうかは、ハリーよりもむしろスネイプにかかっているといってもいいほどです。私は、スネイプはハリーの母親を愛していたのだろうとずっと思っていたのですが、ちがうのかな~。ドラゴのお母さんが好きだったのかしら。多少ミステリアスなところがあったほうが、男はかっこいいですかね。最終巻ですべてが明かされることを祈っています。さて、ちょこたん。さんがクレイジーと言っていいくらいダイスキな(笑)ルーピン先生は、最終巻でグレイバックと対決できるのでしょうか。どうも映画は、私とイメージが違う。イメージとしては、一昔前のクリント・イーストウッドなんですが。どうでしょう。
2006年07月12日
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今回は、面白かった!こう言ってはなんですが、『炎のゴブレット』の場当たり的な展開に耐え、『不死鳥の騎士団』のぐずぐずな進行を乗り越えたのは、この本を読むためだったのか!と納得の一本(笑。それにしても、ハリーはいつの間にこんなに大きくなったのでしょう。先の巻までの癇癪が影をひそめ、意志の強い、立派な青年へ脱皮しかかっています。クディッチではいいところがありませんでしたけどね。私のダイスキなマクゴナガル先生も、今回ばかりはハリーをエコヒイキしきれませんでした。えっと続きはまたあとで。
2006年07月11日
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しつこくてすみませんがまた秘密日記で。あるところで感想文大会をやることになっていて、7月になるまで公表できないだけで、読んで面白い類のものではないので御容赦ください。タイトルごと秘密日記にできたらいいのにな~。まだまだまとまらない~~
2006年06月17日
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図書館でみつけて、長男坊があまりに気に入ったようなのでついに購入に至った『やさいのおなか』。多分、図書館のおじさんに「なんでレンコンなんて知ってるの?」と驚かれておおげさに褒められて気に入ったのだと思うのですが。この間、見つけてしまったのです。『やさいのせなか』。今回は、野菜の上に紙を乗せて上からこすって、浮かんだ柄をまずみせて、それから次のページにイラストがのっています。『やさいのおなか』より難解です。野菜の種類も『やさいのおなか』に比べるとマニアックな選択になっていて、しかも「これはやさいかな?」ときかれたら、果物だったり野菜だったりフェイントも混じっているのです。長男坊、大興奮。「いんまんぎめ!(いんげんまめ)」「にがーり!(にがうり)」「かふふらばー(カリフラワー)」「れめん!(めろん)」などと初めて覚える名前を連呼しています。そして、私に「これはなあに」と聞かせて、間違ったことをいい、「ぶっぶー」と答えが返ってくるのを楽しんでいます。ああ・・・・ミッフィーちゃんもぐりとぐらも興味を示さないのに。でも『おたんじょうび』(まついのりこ)はもう借りるの四回目・・・・。私があまり好きじゃないから購入しないけど、コレも買うことになるのかな~。この間なんて食後にぶどうを出したら「トラック運んでた~?」というので訳わからないと思ったら、この本の中でトラックがぶどうを運んでたのです。どれもこれも字がない、あるいはごくわずか。いつになったら私のお気に入りの本に興味を示してくれるかな。やれやれ。
2006年06月17日
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事情により秘密日記へ。て言うか書きかけだし(笑)。なかなかまとまらない。
2006年06月16日
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おもしろかったです。宮部みゆきというのは、完全に役になりきれる役者の様に登場人物を描写してしまう。その真骨頂。それが、この『理由』。私、ホントのことをいうと、面白さは『火車』の方が上かな~なんて思うのですが、宮部の職人技はこの小説が一番ではないでしょうか(すべての著作は読んでないので~。今まで読んだ中では、ってこと)。途中、突然現実とバーチャルに関する考察が始まって、なんだなんだこんな高校生みたいな文章を小説中に挿入するなんてらしくないな~、などと思いつつ読み進めると、なんとそれは高校生の男の子が書いている文章だった・・・なんてサプライズもありました。今の高校生の男の子が実際にああいう文章を書くかどうかはともかくとして、私にとっては「高校生のオタクな男の子」にかなりのリアリティを感じることができました。同じように、様々な登場人物の、「理由」が克明に描かれています。そうなんだよね、実際にさ、どんな脇役に見える人でも、それまでの人生があるんだよね、「理由」があるんだよね、「木の股から生まれたわけではない」のだから。最も私をぞっとさせたのは、八代のキャラクターでした。こんな冷血とも思える人物が、圧倒的なリアリティをもって迫ってくるのは、自分の中にも彼の要素があるのだろうとしか思えなかったのです。だから最後の方で小糸少年が発する問いが胸に沁みるのです。しかし、だからこそ、この事件に関する八代の肉声を聞きたかった。どう考えてもムリムリなこのリクエスト。駄々っ子のように「ききたいんだよお~」と本に向かって言ってしまいました。
2006年06月02日
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私って短編嗜好なのかな~。←30年以上「趣味 読書」と言っているくせに(?)いまだに自分のことがわかっていない本家 京極堂シリーズより、こっちの方が好みのようです。生まれながらの探偵(=神、だそうな)榎木津礼次郎が、大暴れ!の3篇がおさめられています。京極堂シリーズも、トリックとか人間関係の機微を描くよりは、キャラクターの魅力で引っ張る傾向があると思うのですが、それが更に顕著だと思います。映画化するなら、こっちの方がいいのでは?短いし、キャラたってるし。京極堂と探偵のあうんの呼吸はとてもすがすがしい(?)し。一人称(最後の最後まで名前がでてこない)の男性が、関わりたくないと理性が止めているのに、ずるずると自分も探偵の下僕に志願するような形になる感じ、うんうんとうなづきながら読みました。特殊な人と関わっていると、自分も特殊になれるような気がしてしまうんですよね。特殊な人の出てくる本を読んでいると、自分もトクベツになれるような気がしてきます。平凡で大変な日常に訪れる、一服の清涼剤でありました。笑本家の重々しさをふきとばす、さわやか(?)な一冊でありました。
2006年05月11日
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いや~子供と一緒に寝入ってしまいました。ところでこの日記、初めの頃「ねねごんず読書日記」だったんですけど、誰か覚えてる人・・・・もういないだろうな。京極夏彦にはまって、子供が育ってきて、ふと気がつくと年間読書量が6冊?7冊?orz勘弁してくださいよ。たまには本の感想も書きたいっすよ。でも、読んでないもんは書けません。それでこの頃読んだ唯一の短編の感想でも書こうかと。それで今更何故ダザイなのかと。この『トカトントン』、定期的に読んでしまう、不思議な短編であります。少しでも何か感情が動いたり、やる気が出たりすると、どこからともなく「トカトントン」という音が聞こえてきて、すぐにもとのボーっとした郵便局員にもどってしまう。まあ、郵便局員の人が聞いたら「ボーっとしてられるようなしごとじゃありませんっ」といいそうですが、戦後すぐのはなしでございますので。良い本は読むたびに感想が変わる。良いCDは聞くたびに一番好きな曲が変わる。私は実は太宰治というのがどうしても好きになれないのですが、この短編だけは、読んでしまう。読むたびに、げらげら笑ったり、しんみりしたり、たいていはアホかと思うのですが、また読んでしまう。さて今回は、久々に読んで(5年ぶりくらい)、またずいぶん自分の立ち位置が変わったことを知らされたわけです。今回最も引っかかったのは、最後にほんの少しだけ登場する作家の、「私はあまり同情してはいませんよ」という部分。ずっと、私は作家が、「人の事かまってられるか!おまえの苦悩なんぞ俺に比べれば!」と言っているのか、「こいつの潔くないことと言ったら、まるきり俺みたいだ」といっているのか、判断していなかったのですが、今回読んで、後者かなと思うに至ったわけです。直感ですが。そして、そういう自分を、結構好きだったりするんだな、この作家は、そのことには気がついていないように思う、と感じました。それから心から、「ずいぶん気取った苦悩ですね」にうなずいている、私。育児なんかしていると、トカトントンの音も聞き逃してしまいますからね。やはりかすかな音が聞こえてくるには、興味が全部自分へ向いていなければなりません。なんか余裕ないよな、私。などと、なりふりかまわないこのところの自分をふと、鏡でみてしまったりしたのでした。嗚呼、感想のつもりが愚痴日記になってしまったです。失礼。
2006年04月10日
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久々にはじめての作家に挑戦!の『黒い春』。突然黒い粉を吐いて死んでしまう奇病、「黒手病」に挑む男たちの話です。研究者それぞれのプライベートもしっかり描写され、そのうちの一人の家族も本筋に深く絡んでいきます。遣隋使の話から現代の最新医療までずいぶんしっかり調べたんだな~と思わせられる、力作です。でもちょっと女心の研究は不足かな(笑)。主人公の一人、飯森俊樹(主要人物は皆フルネームで書いてあります。それが結構新鮮)の妻、雪子って、男性から見ると魅力的なのかな。私にはかなりウザイ(失礼)キャラクターでした。そしてその雪子が約1歳半の息子(この息子を授かるまでがとてもたいへんだったのに)を置いて買い物に行く描写があったりするんですが、そんなことするかな~。黒手病という現実にはない病気の存在感はかなりある、リアリティを充分感じさせるのですが、そういう細かいところにあれっと思うところが結構あります。それからプロローグ。かなり思わせぶりなのですが、終わってから読んでもちょっとわかりずらい。わからないというほどでもないのですが。と、文句ばかり並べてしまいましたが、きっと「嫌われ松子の一生」も読んでしまうであろう(笑)。読み応えのある一冊でした。
2006年02月13日
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ゲド戦記の読み残しもこれが最後の一冊になりました。別れを惜しむように(というかいつもの通りなかなか読書の時間が取れなくて)ゆっくりゆっくり読みました。内容は、今までの本編5冊を(最も最後の一冊は、この外伝の後に出版されたそうですが)愛していた読者に贈られたプレゼントのような、マニア垂涎の一冊でした。ゲド戦記の世界観を補強するために様々な時代の話が短編で描かれ、事典のようにアースシー世界の説明が巻末についています。あいかわらずどの登場人物も苦難に耐え、耐えたら更につらいことがまっているといった感じで、もう気持ちが若くない私としては、もうちょっと楽させてくれないかな~と思いました(笑)。このシリーズを初めて読んだ頃は、主人公の苦難を苦難と思わずに読んでいたようなところがありましたので、長い年月の間にいかに自分が怠惰になったのかということです。更に今回、どの話もラブ・ストーリーの体裁をとっているというのが新鮮です。ベッドシーンはありませんが、それを匂わせたり、それが目的で男性が行動したり、児童書とは言えない内容(笑)です。字も小さく、ターゲットは中学~高校生くらいなのかな。いえ、やはりこれは小学生の頃ゲド戦記に夢中になった大人たちのために描かれた話なのでしょう。
2006年02月07日
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ひっさびさに髪を染めました(20代の頃からたいそう白髪が多いもので)。ヘナという種類の毛染めを使っているために、泥状の毛染め剤を塗ってから一時間放置しなくてはなりません。服をかばったりするのがめんどくさいく、お風呂でやっているので、薄めの本を再読しながらすごします。ということで今回は『ラビット病』。この本には非常に感銘を受けて、しばらく餃子のことを「耳」と呼んでいたような記憶があります(今思うとアホかって感じ。もう小説や映画に影響を受けるのはやめよう・・・・)。再び読んだ感想は、「私は山田詠美からずいぶん遠いところに来てしまったんだな」ということ。山田の小説には珍しくコメディなのですが、作者夫婦が非常に色濃く投影されているという主人公たちのラブラブぶりが、あんなにうらやましかったのに、今はただただ息苦しいだけ。双子やウサギに例えられる強いつながり。日常的に繰り返される、相手をおもう切ない涙。いちゃいちゃ。こういうものって、本当に人生に必要なんだろうか。などという疑問が頭をよぎったりする。愛をテーマにした小説を読んでいて、「ほんとにこれは必要なの?」などと思ったのは初めてなのです。とても軽いタッチだと思っていたのに、読み返してみると、やたらと重厚なのでびっくりしました(笑)。この小説を読んだのって・・・・8年?10年?ぶり。人の感じ方というのはずいぶん変わるものです。もしかしたら山田詠美も変わっているかもしれないし。今度この頃書かれたものを読んでみようかな。
2006年01月30日
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実は、一度挫折したのです。最初の50ページほど読んだまま、放置していたら図書館から督促状が来ました。ええ、初めてのことです。で、2週間ほど置いて再トライ。今度は無事に読むことができました。多分これは、この本は悪いのではなく、この前の本(『宴の支度』『宴の始末』)が悪いのです(自分のせいではありませんっ 笑)。前のがつまらなかったので、今回もそうだろー、まあ乗りかかった船だしょうがない、という気持ちがなかったわけではありません。しかし今回は、宴の話で反省したのか何なのか、とても読みやすい、あっさりした話に仕上がっておりました。このシリーズの常連、メインキャストの物語が絡んでこなかったせいだと思うのですが、落ち着いて筋を追ったり、結末の哀しさに浸ったりすることが出来ました。今回は探偵がだいぶふがいなかったですね。そして陰陽師はいつもより作家を大事に扱っていたように思います。これって宴の時のことが負い目としてあるからなんでしょうか。そんな水臭い間柄ではないので違いますよね。と、これくらいわけわからないことを書いていれば、もうこの本を読んでいない人はここまで読んでないと思いますので(爆)、私が昔遭遇したエピソードをひとつ。読んでいない方には、私がこの本からこの話を思い出したことでネタバレになってしまう可能性がありますので御注意ください。私には妹が2人おります。姉妹3人で、知り合いの女性の話をしておりました。女性は、更年期障害で、旦那さんとの間もぎくしゃくしているという話。お母さんもなるのかな~。いやだな~、なんでそんなことに~、と妹がいうので、「まあしょうがないよね。生理がとまるなんてさ~、体の中がすごーい変化が起きるってことだもん。精神的にも不安定になるよね」というと(読んでいる男性の方、下品な話ですいません~)、当時もう高校生か大学生にはなっている妹がはっとして「えっ・・・更年期障害って、生理がなくなることなの!?」といいました。そうだよ、生理があがる、って言うじゃん。何だと思ってたの?と聞くと、「おかあさんが、お父さんのこと嫌いになることかと思ってた・・・・」・・・・・。ちゃんちゃん(妹よ、ネタにしてごめん。時効だよね)。言葉の解釈が変わると、話している内容が全く違う受け取り方をされる、ということは現実にもよくある話だと思います。そういう意味で、「ありえね~っ」という感じのこの小説、妙に説得力があったりするのでした。
2006年01月24日
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残念!楽天ブックスに在庫無い上に画像も無い!残念だ!いまどき398円なんだ~。この本、私が数をおぼえたとも言える、むかーしからある本なのです。この頃トイレのカレンダーで12までの数を覚えた長男坊。というのも、去年まで一枚の大きなカレンダーだったので、月の所だけをみておぼえたようなのです。今年になって、月めくりに変わって、目に入る数字は30前後になりました。ことが終わったあとだっこして、「いーち、いー、しゃん、しー・・・」と指差しながら一緒に読みます。ああこれでもしかして30まで覚えちゃうかも、うちの子天才?とわくわくしていましたら、何回やっても13から先は「・・・じゅーに、わちゃわちゃわちゃ」と言って笑っております。ま、いっか。歩いていても、住所表示とか駐車場の番号とかをすばやく見つけては読んでおります。そんな長男坊が、図書館で見つけた小さな本。それが、私が小さい頃家にあった、安野光雅の「かず」。ぶっちゃけこれが安野光雅だということも、今回初めて気がついたんですけどね。これは単純に一、二、三と紹介していくのではなく、開いた掌「5」からはじまる凝った構成です。5,4,3,2,1,0、6,7,8,9,10,11,12となっているのです。数ごとにウサギの尻尾や足の数、てんとう虫の星の数や足の数を使って説明してあるのがとても楽しい。大人になってから見ると、工夫をあちこちに感じて、やっぱり安野光雅ってよいわ~。などと月並みな感想をもってしまいました。
2006年01月18日
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続きと言っても昨日は感想を書けませんでしたが。今回は主人公が決まっていないと言うか、群像劇のような体裁になっていました。それぞれがそれぞれの立場で葛藤や悩みを抱えていると言う感じで、あっさりと書かれていても表現が適確で、作者の力量を感じました。ゲド戦記といいながら、ゲドはそんな若者たちの一人と接触するだけで、特に何かをするということはありません。完全にアースシーの世界が世代交代をしている、ということが自分がこのシリーズと共に歩いてきた20年以上の歳月と重なり、感慨を覚えます。ゲドがすべてをかけて守った壁に、異変が起きている。というところから話は始まります。それにしてもこの作者はいさぎが良い。もう充分評価されているシリーズの世界を壊すことをなんとも思っていないようです。そして、破壊だけではなく、たくましく再生もする。そして再生してみると、まるで脱皮の後の皮の様に、前いた世界を色あせたものに感じさせる。あんなに輝いて見えていた世界が。これはこのシリーズの特徴で、一冊終わるたびに「ああ、これで世界は完全なものになったんだ」と毎回思わされるのです。今回も御多分に洩れずでした最後の書、のあとでコレだけのものがでてきたのです。また、10年単位で忘れた頃に出てくるかもしれませんね。完全な世界も永遠には続かない、でもそれはそれほど悪いことでもないのだ、ということをわからせてくれるために。
2006年01月12日
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ゲド戦記3巻セットを、サンタクロースからもらった図書券を握り締めて本屋で購入しに走ったのはもう25年くらい前の話です。そのセットは、今でも我が家の本棚に並んでいます。3巻目が出たのが1972年。その続編「帰還 ゲド戦記最後の書」が出たのが1990年。私がそのことに気がついたのは、確か1995年か96年のことだったと思います。社会人になって小学生よりは自由になるお金があった私は即買い、即読みました。そして、かなり衝撃を受けました。かつて光り輝いていた主人公や準主人公が惨めに埃にまみれ、「ビッチ」とののしられ・・・・。小学生の頃に出版されていなくて良かったと胸をなでおろしさえしました。自分の弱さを受け入れることによって本当に生きていくことができる。ということは、20歳をとうに越した私にはなんとなくわかっても、小学生には刺激が強すぎる表現ではないかと、児童文学としてはかなりの問題作であると思いました。「最後の書」と言うからコレで最後なんだな~と思ってましたが、実は2001年になって、更に続編が出来ていたのです。なんとなく知ってはいても、4冊目の存在を知った時ほど心が躍ったわけでもなく、なんとなくそのままになっていました。しかしこの間、図書館へ行ったときに、偶然みつけてしまったのです。というわけで読んでみました。『アースシーの風』。結論。我が家のゲド戦記を4巻までで終わらせてはならないかも。この本も是非購入しよう。ということで感想は又明日。
2006年01月11日
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宮部みゆきのどこがスキって、やはり性善説を採用しているらしき点ですよね。世の中や人間を見る眼差しが、「いとしい」と言っているようで、なんとなく安心してしまうのです。しかし。『心とろかすような』では、一概にそうともいいきれないというか、「事情があって悪いことをしてしまう」人ばかりではなく、「根っからの悪人」らしきキャラクターや、「ただの弱い人」「救いようのないバカ」も出てきます。この連作短編集は犬の一人称で語られています。それにより、寒々としているように描くこともできる「悪い人もいる世の中」を、どことなく滑稽に、マイルドに表現することに成功しています。いつものように描写は秀逸でした。人や犬の顔は目の前に浮かぶくらい適確に表現され、公園や住宅の様子や、家族の親密さも2~3行で読者にしっかり伝わるように書かれています。又、犬が見た事件簿だけに、普通の大人が持っているような固定観念は通用しません。すべての子供がいたいけなわけではない。すべての善人が強いわけではない。この本の感想は、いつもの宮部作品のように「胸がぽっと温かくなりました」というだけではなく、「宮部みゆきって・・・・・冷静なんだな~」というものでした。でも一番気に入ったのは・・・・テレビを見ているところをみつかってしまったマサが、しっぽを振りながらごまかすところですね。「てれびってなに?ぴりぴりするの?」ってところ。笑っちゃいました。
2005年11月10日
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これ、安東次男が訳してるんですね。安東次男って、小学生の頃実家にあった『百人一首 注釈』(タイトルてきとーです)の作者じゃなかったかなあ。同一人物なのかしら。そんなことはさておき。久々に児童文学なんぞ読んでみました。実は、小学生の時に読みかけて挫折していた、『みどりのゆび』。読み始めてなるほどコレは挫折するかも・・・・と思いました。多分小学4年生くらいの頃に読もうとしたのです。最初の方に主人公チトが生まれて洗礼を受け、名づけられるくだりに大人の悪口のようなものがからんでいるのですが、これは子供が読んでも退屈でしょう。それにしても惜しい。実は小学四年生の時には『星の王子様』も挫折しているのですが、これは中学生になってから読んで「なんて面白いんだ!」と感動した記憶がありますが、その勢いでコレも読んでおけば良かったのに。できればまだ自分が「少女」に分類される頃に(今だって気持ちは少女ですが 爆)読んでおきたかった。訳者のあとがきに、非常に感銘を受けましたので長いですが引用します。「人間は、なにからなにまで詩につつまれて生活することはできませんし、またそんな純粋な世界ばかりで生きていたら、とても生きてはいけないでしょう。・・・(中略)・・・しかし、本当に勇気をもって生きていくためには、詩がひつようなこともまたたしかです。それと同じように、こどもたちが読む本が、ぜんぶ『星の王子様』や『みどりのゆび』のようなおはなしばかりでは、すこしばかりお行儀がよくなりすぎてこまる、とわたしはおもいますが、いっぽう、わんぱくな子供たちの冒険がいっぱいでてくるおはなしに、みなさんが胸をおどらせるかたわら、とても詩的な童話をよむことも、是非ひつようなことだとわたしはおもうのです」この文章は1965年に書かれたものだそうですが(私が生まれる前ですよ!いやほんとに。嘘じゃないですって 笑)、今の子供たちにもそのまま当てはまると思うのです。やがてうちの子供たちもジャンプやマガジンに夢中になるんでしょうが(そして母も便乗して読んじゃったりするのは間違いないんですが)、たまにはこういう寓話を楽しむ心を是非持ってもらいたいものです。それにしても最後の章のタイトル、「けっきょくチトはだれだったのでしょう?」は秀逸ですね。夜中に起きた次男坊を寝かせつけながら、「ほんと、だれだったんだろう」と考えてしまいました。みどりのゆび、とは触ったものから思うとおりの植物をあっという間に生えさせることのできる指のことです。死生観は若干うなずきがたい部分もありますが、メタファーでありながら訴えることはストレートで、ぜひ子供たちにも読んでもらいたい本の一冊であります。でもな~。小4で挫折したんですよね、私。中学生の男の子にすすめられるかな~・・・・うーむ。でも子供たちも小学生の時読んで挫折するとは限らないし・・・・。『星の王子様』とセットでわたすっていうのはどうだろう。『ナルニア国』シリーズと一緒でも可かも。作戦を練っておこう・・・。
2005年10月29日
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ずっと気になっていた作家の本を読めるのは嬉しいですね。手元にはあったんですが、ようやく読むことができました。というわけで『転生』。こんなこと、あるかもな~、でもないよな~、いやわからないよ~、という微妙~なところをうまく突いて、なかなか面白く読むことができました。心臓移植をしたとたん、嗜好が変わり、趣味も変わり、恋をする。それは心臓に残った記憶のせいではないのか。この心臓は誰のものなのか、そして夢にでてくる女性は誰なのか。こういった謎は、それほど小説の牽引力にはなっていないと思います。要するに、なんとなーく先が読めるんですね。それでも最後まですんなり読めてしまう。それはなぜか。ひとつには、素直でのびやかな文体があげられると思います。難しいこともなく、装飾もなく、非常に好感が持てました。最大の原因は、文体と同様、感じの良い登場人物たちだと思います。書き分けはしっかりしているし、個性的な人物が多いのですが、どの人物も憎めません。少し数が多すぎたかな?もう少し絞り込んで、それぞれの登場回数を増やしても良かったかもしれませんね。特にヒロインの恵莉子がなかなか登場しないのでヤキモキします。話を進めるコマにしかなりきれなくて、少し残念。もう少し彼女の気持ちを垣間見える描写がほしかったですね。多分この作者自身が明るく素直な人柄なんだろうな~と、一作読んだだけで思ってしまいました(笑)。機会があれば又読んでみたい、と思いました。
2005年10月27日
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??何故??「奇譚」が変換されません。コピペしちゃった。読み方間違ってるかと思ったよ~(爆)。謎。そんな話はおいといて。ようやく読める~!!と思ったらあっという間に終わってしまった久々の村上春樹。村上春樹に限っては、呼吸で入ってきた酸素のように自然に体に馴染んでしまうので、うまく感想が出てこないんですよね~。読書する上でのホームポジションのような作家です。で、今回は5編の短編が収められていたのですが、多分この短編集は好きなCDのように、一番好きな短編(曲)がその日のコンディションで違う、という読み方になるのかな、と。昨日の時点では『ハナレイ・ベイ』が良かったですね。ハワイでサメに襲われて息子が死に、天涯孤独になってしまった女性の話。本当に見たい人には見えない幻。「それでも地球は回っている」という感じの世界観がとてもいいな~と。今日は最初の「偶然の旅人」という気分です。村上春樹が経験した「うそぉ~ん」という感じの偶然の話を枕に、ゲイのピアノ調律師がある出来事がきっかけで絶縁状態だった姉と和解する、味わい深い短編です。実は今日図書館へ行ったのですが、人生には影響を与えないけど面白いな~と思う偶然に出会ったので、今日は「偶然の旅人」。いえ、次男坊がいたずらして引っこ抜いた本が、たまたま今日返した絵本の続編だったというだけなんですが。この短編流に言うと、「絵本の神様」がいることになりますが、いちいち「ジャズの神様」「ゲイの神様」「絵本の神様」と区別するのは大変なので、「やおよろずの神様」・・・・・・じゃなくて「偶然の神様」というのがいるんだ、ということでどうでしょう(誰にきいてるんだ)。しかしディープな村上ファン(の、つもりな私 笑)が最も愛好するのは、やはり「品川猿」かな。この短編自体、その日の気分で解釈が分かれそうです。あ~この短編について書くことで一日分の日記になりそうなので、気が向いたらいつか書こう。
2005年10月13日
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ようやく読み終わりました。『塗仏の宴 宴の始末』。長い長い。途中で何度寝てしまったことか(笑)。映画ならその間も続いていきますが、小説の場合、自分が眠っちゃうと話がそこで止まってしまうんですよね~。以下、心無いネタバレを含みますので未読の方は注意です。さて、今回の話は長いからと言うだけではなく、シリーズの中ではかなり駄作の部類に入るかなと言う感想を持ちました(これがスキだと言う方、どうもすいません。以下スルーをお願いいたします)。京極堂の物語というだけあって、仕掛けがかなり大掛かりなのですが、結末部分があきらかに尻切れトンボ。『ブルー・ソネット』という少女漫画があったのですが、その結末を思い出しました。時間も量もかなり長ーく続いたのに、最終回がその重みを背負ってないんですよね~。あれだけ『宴の支度』で関口の一人称で引っ張っておきながら、『宴の始末』にちらっとも出てこないのはおかしい、というのがまず一点。締め切りまでの時間的なしばりがきつかったのか、それともこれ以上本を厚くするわけにはいかないという枚数の制限があったのか、と勘ぐってしまうけつまつでした。それから三人称かと思っていたら実は観察者の一人称だった、という仕掛けですが、ちょっと唐突過ぎたかなと思います。確か三回くらいそういう落とし方をしていたと思うのですが、はっとするというよりは何じゃそりゃって感じなんですね(私の私見です)。そういえば村上春樹の『アフターダーク』には、肉体をもたない意識体の一人称で語られる小説でしたが、あれも観察者の視点から見た小説ですね。観察者はまったく物語りに影響を与えませんでした。作家によって観察者の解釈が別れるところでしょうか。まあ、『アフターダーク』の意識体の概念は、「肉体こそ精神」の京極堂シリーズではありえない設定でしょうが。いつもこのシリーズは、わけがわからない、極限までこんがらがった事柄を、最後に京極堂が弁舌さわやかに解きほぐしてくれるのが魅力なのですが、今回はさすがにこんがらがりすぎ、というのが三点。解きほぐした後ならばぼんやり全体が見えるのですが、なにしろこんがらがる間が長いので、私の頭では興味を持続することが非常に難しかったです。この三点が「駄作」と暴言を吐く原因になっています。が、榎木津がかっこよかったのでユルス(笑)。ふすまを開け放ったまま大の字で立ちはだかるところとか、思わず笑っちゃいました。このシリーズの重要人物ですので、多分大丈夫だと思いますが、関口の精神は大丈夫なのでしょうか。壊れたりしてないよね~、とちょっと心配になります。それにしてもこのシリーズのファンの方々が「関口の嫁さんにだけはなりたくない」とおっしゃることがよくよくわかりました(笑)。関口の奥様の視点で見ると、「ほんとに男の人ってのんきでいいわね~、そんなことで生きるの死ぬの、バカじゃないの」って感じですね。やれやれ。これからに期待(けなしながらも続きを読むことは確定 笑)
2005年10月12日
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先日柄にもなく「夫婦愛について」などという日記を書いたばかりですが、この小説を読んでからにすればよかったなあと思わされるような「愛」に関する記述がありました。抜粋します。 愛とは何だろう。 愛とは不可侵の形而上学的な真理などではない。 物理学的に還元出来る、形而下の生理現象である。 それで----いい。それでも愛がなくなる訳ではない。不必要に過剰な幻想が消えるだけである。否、それこそが愛と知るべきなのだろう。 この前に、人の喜怒哀楽は脳内物質の分泌加減によるもので、母性さえホルモンによってもたらされるもの、つまり生理現象である、という説明があります。通常この京極堂シリーズは、難しいことも易しく語る傾向が顕著で、一般に浸透しているとはいえ「形而上学的」などという哲学用語(?)を使うことはかなり珍しいと思いますが、これは織作茜というキャラクターが頭の中で考えていること、いってみればモノローグに近い箇所ですので、彼女のボキャブラリーや言葉の使い方に近づいたのだと思われます。こういうことを、最も愛から遠ざかってしまった、真に天涯孤独である織作茜が言ったということが、大変意味深いと思います。愛とは生理現象で、別に他の何かと比べても特別な意味があるものではない、というところまでは容易にたどりつけたとしても、その先に「それでも愛がなくなる訳ではない」ということを言ってのけるのが、すごい。と感動をしてしまいます。この境地に達したということと、彼女のあの行く末を考えるにつけ、作者は彼女を許したのか、許さなかったのか・・・・・悩むところです。作者にしてみれば、許すも許さないもこういうことなんだからしょうがないということだとは思うのですが、やはり作者の倫理観が無意識に出るところではあると思うんですよね。かなり的外れな視点ではありますが。とにかく、愛とは生理現象である。ここから更に発展して、「この体が私である」というところまで説得力を持って引っ張っていく筆力には脱帽です。と、こんなことはこの小説の超重箱の隅ですので、全体の感想も書いておかなくては~。といっても、まだ前半なんですよね。下巻にあたる「宴の始末」を読んでからのほうがいいかな。そうします。今回は何といっても敦子ちゃんのピンチに颯爽とあらわれてばったばったと悪漢を倒す榎木津さんが「きや~~~~かっこいいいいい!!!」でした。おもわず隣にいた旦那をばしばしたたいてしまいまして、かなり顰蹙をかいました・・・・・・・・・。(でもそういう人、結構いるんじゃないかなあ)。以上!
2005年09月22日
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京極夏彦が続いていたこの頃の読書ですが、次の京極作品を図書館に予約している間に違うのも読んでみようかな~と手に取ったこの本。これを選ぶとき、長男坊が走り回って図書館の男の人に怒られてたんですよね。遊んでもらっていると勘違いして爆笑している長男坊・・・・おかげでゆっくり選べなかった・・・。あ、そんなことどうでもいいですね。親や社会に反発した頭自慢と力自慢の十代男子がファイトクラブを開催して荒稼ぎ、という設定。話のメインはヤクザからプロの強盗が強奪した金をひょんなことから手に入れてしまい、両方から追われそうになるところを返り討ちにしようということなんですが・・・・え~、すいません、面白くなかった・・・・。これは小説に力がないというよりは、多分私とチャンネルがちがうのだと思います。描写のツボが違うんですね。車の改造の話や、大学検定を受けるに当たっての独学の勉強の仕方などが、私にとって必要以上に詳しすぎて、小説全体のスピード感をそこなってしまっていると感じるのです。ただし、ここらへんにリアリティを感じる人もいるのだろうと思います。それからこの作者は私より年下なのだと思われます。私は「携帯」とか地の文で書かれるとひっかかる、多分最後の世代なのだと思うので(笑)。え~ほかにもなにか書こうと思ってましたが、上の二行を書くたびに何故か消えてしまって4回も書いたら忘れちゃいました。ので、今日はここまで~。
2005年09月03日
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きっと現実に目の前にいたらキライだったり鬱陶しかったりするだろうという登場人物たちですが、これくらい長い間付き合い続けているとそれぞれ愛着も湧くものです。今回はお気に入りの待古庵と伊佐間の出番が多くて嬉しかったです。なんとなく今回はこの二人の思い遣りのようなものが、つらい物語を少しだけ救ってくれたような気がします。今回はいつになく京極堂と榎木津の距離が近く感じたのですが、気のせいでしょうか。京極堂の口から榎木津をほめる?信頼している?というようなセリフが出るととても違和感を感じます。というか、今回京極堂、人をほめすぎのような。関口のことはけなしすぎでしたが。全く関口が出てくる気配が無かったのが最初の頃不思議でしたが(白状すると少し淋しかった 笑)、「蜘蛛の巣にかからない方法は、たったひとつ、関わらないことだけ。事件全体を俯瞰できる者は、この事件を知らない人だけ」ということで、語り手である関口が関わってはまずかったのか~といったんは納得しました。でも、いっつも関わって、その最中は訳わかってないよね、関口・・・・。又プロローグに話が戻りますが、蜘蛛は黒衣の男が好きになっちゃったんじゃないかな~。だから縁談断ったようにもみえますよね。映画では堤真一という色男がやってますが、私の中で京極堂って筒井康隆を若返らせたような、決して美男子とはいえないイメージなので、「びじょとやじゅう・・・・」という独り言が出てしまいました。しかーし!京極堂は奥様がおりますので。恋愛に発展されても困るんですけどね。
2005年08月23日
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じょろうぐものことわり、と読みます。本来エピローグに来るべきパートがプロローグになっています。今回は、前回の『鉄鼠の檻』とちがって犯人が居りますのでよろしく~、という作者の挨拶であります。犯人の年や性別がある程度特定できているのですから、多少のネタバレは許されるかとも思われるのですが、今日の日記はやはり既読の方対象ということを明記させていただきます。さて、このプロローグを読んで、当然「誰?誰が犯人なの?」という興味は尽きないわけで、妙齢の女性が登場するたびに、すわっとなる・・・わけでもないか。プロローグでは毒殺と明言しているにも関わらず、目潰し、絞殺といった殺人事件ばかりで「誰が毒殺されるのか」に興味が移ったりして。だいたい中盤位で犯人がわかりますが、それでも「いや、こっちが犯人か?いや、こっち?」とまどわされるのも又楽し(笑)。さて。今回は事件そのものは終わりますが、くっきりと「続く」の文字が浮き上がっているような小説の終わり方であります。なんとなく、この次の話も考えてあるのね~という気がします。そして必ず、読み終わったあとプロローグを読み直すことになります。プロローグの中で、「事件を産出するネットワークを歳産出してしまう事件が成立する環境を作り上げた」と男が指摘しています。しかも、作り上げた蜘蛛はそれに無自覚である、と。その言葉の通り事件が事件を呼び、最後まで行くわけですが、当然「本当にコレで終わりなの?」・・・・・という疑問は消えないわけです。なぜなら、京極堂は「あなたの部屋には8つの扉があります」と言ったので。二人の実行犯を蜘蛛の巣の縦糸に例えて、京極堂は机上で二本の線をクロスさせて説明していました。それなら扉は4枚のハズなんだけどな~。などと深読み(?)してしまいます。まあ、屋敷の構造の話なので、余計なかんぐりの可能性のほうが高いですが。しかしこの犯人、非常に頭の中で映像化しやすい美貌の持ち主ですので、ぜひこれからも出てくることを願う。京極堂は「あなたから落とすものはありません」と言っているのですが、それならばどうして黒衣を着ていったのかという疑問もありますね。落とせないことはわかっていても、落としたいと言う願望の現われだったのでしょうか。なんとなーく同類同士の間に芽生える恋愛感情が二人の間に見えるシーンです。少なくともこのシーンを見ている人にはそう見えたのではないでしょうか。美しい桜が凄惨ながらもロマンチックな雰囲気を作ってしまったせいかもしれませんが。ということで、「今回のレギュラー陣」については明日へ続く。
2005年08月22日
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といっても何を書こうと思っていたのか例によって忘れてしまいました~。どうしよう。ネタバレと書いておいてそれほどネタバレてないと言うことは、そこらへんのことを書こうと思っていたということだな。うむむ。今回、京極堂はいつになく迷いや苦労をにじませていました。いつものような読後の爽快感も若干少なめでした。読後の爽快感がいつもより少ない・・・何故か。憑き物落しがいつものように華麗におこなわれなかったからですね。いつもならひっぱってひっぱってひっぱってどりゃ~~!と登場人物たちの憑き物を一気におとす、その爽快感が大きな魅力になっているのです。しかも、たとえば狐がついている→おとそう、というのではなく、読者にも憑き物の正体は隠され、狐だとわかった瞬間に(狐であると指摘することによって)憑き物がおちるので、二重、あるいは二倍の爽快感があり、それが何人もいっぺんに行われるので、非常に読んでいて気持ちいいのですね。ところが今回はそれがない。憑き物落し自体が一人だけ、おまけのようになされて、京極堂自体がはじめから負けを認めている。しかし野球のヤクルトとか横浜のファンを見ていてもわかるとおり、本当のファンと言うのは勝ち負けだけで試合を見ているわけではありません。いや、負け試合に最後までつきあうからこそ真のファンであることを自覚でき、喜びさえ感じるものであります。1300ページを越える小説で、その途中で負けを宣言され、それでもなおかつ最後まで付き合う。ファン冥利に(私は本当に新参のファンですが)つきるというものです。あ、ネタバレで一つ思い出しました。仁秀さんは鈴を拾ったときのことで嘘をついていたと思うのですが、それが何故なのかわからない・・・・。わかる方、教えてくださいませ。というわけで次は『絡新婦の理』。1400ページ越えです。ふふふふふ・・・・・・。
2005年07月18日
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すごいっす。私のような機械オンチでもフォントもリンクも自由自在にあやつれるように楽天様が進化してくれましただ。ありがたやありがたや。そのうち使わせていただきます。さて『鉄鼠の檻』。厚いです。寝転がって仰向けで読むと腕がいたくなってきます。文庫で1500ページ近いのって・・・・。さて今回の一番の衝撃。名づけて「ねねごんずは一番榎木津に近いのか疑惑」。まんまですね。この間からレギュラー陣の中で旦那様にするなら誰がいいというような論争がこの日記内で勃発しておりますが、自分が誰にキャラクターが近いのかということは考えたことがなかった。今回も特にそのような視点では読んでいなかったのです。ところが私の心の声と榎木津のセリフがかぶってしまったところがあったので少しあわててしまいました。公案の話が出て、「釈迦も弥勒も彼の下僕にすぎぬ。答えよ、彼とは誰か」という問いかけに、反射で「私だ!」と思う人は多いですよね。多いことにしてください。そうでなければ私の発想は榎木津並ということになってしまうので。あそこであんな答えで菅野ががくっと来てしまったのはやはり舞台装置と榎木津の迫力のせいだと思います。答え自体はきわめて凡庸。凡庸な言葉に魂を入れるのは、やはりタイミングと発する者のカリスマ性なんでしょうか。冗談はおいておいて冷静に眺めて、(本当は認めたくないのだけど)やはり私は「お嫁に行きたくない人ダントツでナンバーワン」関口に最も近い人間のような気がします。自信満々で話す人に呑まれてしまう。すぐ影響されてしまう。すぐ弱音を吐いてしまう。基本的に怠け者。ま、すぐに彼岸に行ってしまったりはしませんが。ただ、超人的な知性や才能の持ち主たちに気後れせずに読者がついていけるのは、やはりこの関口が居るからではないかと言う気がします。京極堂の知識や榎木津の破天荒ぶりに「ついていけないよ~」とぼやきながらも、誰よりも事件や事件の当事者にのめりこんでいく、そんな関口だけが一人称で語るからこそ長丁場を飽きずに読むことができるのだと思います。といってもいつにもましてその一人称のパートが短くて、正直飽きる部分もありましたが。お釈迦様までさかのぼって仏教の歴史を紐解いたのだからあたりまえかも・・・・禅版ソフィーの世界(笑)。今回は禅の世界を描いて、「自由とは何か」というようなテーマを感じました。自分の脳からさえ自由になるのは可能なのでしょうか。京極堂のように「言葉が届く範囲」と自分の限界をくっきりわかっている人は、迷い方も明晰なんだな~と感心してしまいました。長くなりましたので続きは又明日。か、それ以降。
2005年07月14日
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『川のむこう』。つれづれノートも14冊目。読み始めて14年か~。庄野潤三が元祖ブロガーなら、こちらは日記アリ、イラストあり、ブロガー本舗か?リンクさせてもらっているbaby-beckhamちゃんの日記で「そっかーそんな季節か」と思っていたのに買うのを忘れ。自分の日記で「つれづれ」と書いて、再び思い出し、やっと昨日買ってきました。で、読み終わったんですが。今回で最終回だそうです。え~~~~~~っ!よその親子のことなんか読んでも面白くない・・・と書いているところがあったので、そんなふうに気持ちがシフトしていったんだろうなと思います。13冊目とかだいぶ煮詰まっていましたしね。子供たちも大きくなったし。しょうがないですよね。リンクしている人が日記をやめてしまったような、切なさを感じます。今回は前よりも気持ちが安定して穏やかな感じ。弟君がしっかりしてきて姉の悪口を一緒に言えるようになった分、お母さんの負担も減ったか?笑多分今まで14年の蓄積が何も無くて、突然この本を読んだら頭の中が「???」になって、何でこんな本が売ってるの?となってしまったと思うのだけど、ずーっと日記を読んできたものにとっては、なんてことない子供たちの描写でもしみじみ「あ~カンチ、おおきくなったな~」と感慨にふけってしまう(笑)。今回最もどきっとしたのは、書評についてのくだり。「書評で欠点ばかりを指摘する人は自己顕示欲だろう」というようなことを(付箋をつけなかったので記憶だけで書いてま~す)。書評などと言うものではないけれども感想を書いている自分をふりかえるとそういう部分は多大にある・・・。あまり良い悪いとか言わないで読んで感じたままをさらっと書くように心がけたい・・・・・と自分の身におきかえたりなんかして。私は銀色夏生の詩がとても苦手で、散文がスキ。ミタカ君シリーズの続きがでないかな~(今度は植物の観察日記のようなものではなく、やっぱ人間中心の話が読みたいよ~)。なのでこれからつれづれシリーズが読めないのは本当に残念。芸能コメントだけでもどこかで読めると良いのだけれど(笑)。とにもかくにも残念至極なできごとであります。
2005年07月11日
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続きは明日と言って書かなくてすいません。あ~できない約束はしない主義なんだのに。しかも何を書こうと思ってたか思い出せない・・・・嗚呼。京極堂の登場のタイミングと・・・・あれ~なに書くんだったかしら・・・・。と言うわけで。京極堂はまだか京極堂はまだかという感じで読んでいて、ようやくでてきたのはもう三分の二が過ぎたところでした。その代わり他の人が薀蓄を並べていたので、このシリーズは薀蓄からは逃れられない運命なんだな~などと思いました。あと朱美さんのしゃべり方がとてもステキでしたね~!たたずまいまで伝わってきそうな話し方。美しい女の人に近づくとする、あのいいにおいが行間から立ち上ってくるような気がいたしました(笑)。今回はイマイチ入り込めるキャラクターがいなかったので淡々と読んでしまいました。が、もう次の話『鉄鼠の檻』は入手済みです。楽しみなんだな~これが!というわけで短めですが読書に戻ります。
2005年07月08日
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京極堂シリーズの3冊目。思えば『姑獲鳥の夏』を読んでから1年半以上経っています。なので記憶があいまいなのですが、キャラクターの性格がずいぶん極端になってきていると感じるのは私だけでしょうか。特に榎木津。台詞のほとんどが「!」で終わるという、大人向けの小説ではかなり反則的なしゃべり。そしてあの性格。でもスキ(笑)。ところでこの間の『魍魎のハコ』のコメント欄で、嫁に行くなら誰がいいかで若干盛り上がりましたが(笑)、今まで気にも留めてなかった伊佐間。私は奥さんになるなら彼が良いですね。たま~に覇気の無さにいらいらしそうになったら関口をみて「あの人よりは趣味があるだけいいわ」とか榎木津を見て「覇気がありすぎるのもどうかと思うの」とか自分を納得させて(笑)。全国を放浪している伊佐間。前作で最小の登場時間で、ある意味最もおいしいところを持っていっていた彼が、今回はほぼ主役。前作の木場修の立場になってました。生来の楽天的な性格と、彼岸の風景もそのまま受け止める器の大きさで、自分の中の修羅をそれほど突き詰めて覗かずともすんでいる、シリーズのメンバーには珍しいバランスのよさを感じさせます。こういうシリーズで伊佐間のような人物が中心になると話が盛り上がらないものですが、その分この話限定の登場人物の闇がそれぞれ掘り下げられていました。古事記から南北朝時代からフロイトからはなしがあっちこっち行っている割にはぐちゃぐちゃにならずにすみました。それってやはり京極夏彦の筆力によるものでしょう。が、ネタバレをしたくないのでこらえますが最後の種明かしの方で伊佐間がちょっとこんらんしてるのかな?あれ?混乱してるのは私か?という感じの部分が無きにしも非ず。多分一番初めに読み返すことになるのはこの本じゃないかという気がします。え~、まだまだ話すことはあるので続きは明日。
2005年07月06日
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