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さて、これまで「ジーコ日本代表」というカテゴリーで幾つか日記を書いてきた。それももう一年以上更新していない。理由の一つがあのW杯でのオーストラリア戦以下の惨敗だ。
つい先日行われたア杯決勝トーナメントでそのオーストラリアをPK戦で下すまで、あの敗戦の屈辱に対する溜飲を下ろせずにいた。なかかなフットボールについて語る気にはなれなかった訳だ。
それから代表監督がオシム氏となり、彼の動向、手腕を多少見極めてから書きたいとも思っていた。そういう意味で就任一年後、アジア杯惨敗後の今はそれなりのコメントをしてもいいのではないかという思いだ。
オシム氏の哲学のある戦いの美学は素晴らしい。就任早々「オシム語録」という本が出版されているが彼のポイントを突いた言葉の多くには大いに納得させられる。そんな彼の経歴を見てみると輝かしい60~70年代の選手時代、78年~90年(イタリアW杯でユーゴ代表がベスト8)の監督としての手腕は大いに評価に値するだろう。
しかし、氏の長いフットボール歴の内90年以降は祖国の政治情勢というハンディがあるにせよ、正直日本代表監督にふさわしい活躍をしていたかは疑問であり、むしろ90がピークだったのではとさえ思える。
しかし、日本代表は今回オシムジャパンがア杯を明け渡すまで、7年間アジアのチャンピョンとして君臨してきたチームである。また、ア杯チャンピョンはコンフェデレーション杯でW杯クラスの試合をこなすことが出来る。
W杯のアジア枠は確か4カ国。日本はその予選を通過して当たり前のチーム。そのチームの指揮官がアジア予選の為の試合編成を希望するのはあまりには次元が低いのではないだろうか。
ア杯を取っていれば理想の試合編成(コンフェデ出場)も可能であったはずだ。辛辣な言い方をすれば日本のスケジュールを台無しにしているのは協会ではなく、オシム氏自身だろう。またオシム氏が協会に雇われているのであって、協会はオシムジャパンのサポート団体ではない。
ならば、オシム氏の目指す代表の大義名分はどこにあるのだろうか。協会の大義名分を果たすのがオシム氏の仕事のはず。もし仮に、W杯のアジア地区予選突破が日本の大義ならば、別にオシム氏に任せなくても出来るのではないだろうか。当然それをやり遂げたトルシエ氏やジーコ氏の再登板も考えられる。
ブットボール協会やサポーターが望んでいるのはそれ以上の結果でしかない。大義名分のない戦いは勝てない。オシム氏の本当の哲学はどこにあるのだろうか。語録の中にはこんなものもある。
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ア杯を終えてのマスコミのオシム氏続投に対する批判は殆どない。おそらくオシム氏自身が首をかしげているのではないだろうか。「オシム続投」がW杯予選敗退後に「惜しむ続投」にならなければいいのだが。
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