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あまりにもイメージと一致してしまって意外性の欠片もないけれど、三ノ輪の界隈には魅力的な蕎麦屋さんが少なからずある訳です。わが心の酒場とでもいうべき何軒もの酒場が営業を止めてしまい、ある酒場はマンションに建て替わり、またある酒場の2階からは店主が健在であることを辛うじて示してくれていたか細い照明も消えてしまった。それ以降、三ノ輪を訪れる機会がガクンと減りました。それは当然、行くべき理由を失した以上は好き好んで歩き回るにはこの界隈の酒場事情は分かっているし、何より喪失感に苛まれるのが堪らなく虚しかったのです。しかし、近頃になって蕎麦屋を酒場の仲間として動員してみると、イヤイヤなかなかに良いではないか。とまあそんな気持ちの切り替えが功を奏して再び三ノ輪の町に舞い戻ったという次第なのですが、さすがに蕎麦屋をハシゴするだけの胃腸を持ち合わせておらぬから、とりあえず一軒は日中、もう一軒は閉店間際にそれぞれ訪れた際の芳香をさせて頂きます。 まず昼下がりに訪れたのが三ノ輪橋電停から程近い商店街、ジョイフル三ノ輪にある「朝日屋」です。この巨大なバラックのような愉快な商店街には知るだけで3軒の蕎麦屋があって、その一軒は砂場の総本家としてつとに知られるところで、このブログでも以前お邪魔させていただいているけれど、あとの2軒はいかにもどこの町の路地裏辺りにでもありそうなお店であります。しかし、この昼でも薄暗く、夜もやはり薄暗い商店街にあるだけで地下街の飲食店に通じるなんとも懐かしい郷愁めいた表情をまとって感じられます。早速店内に入ると店内もちょっとばかり窮屈な印象なコンパクトな席の配置となっています。先客2名のお一人は買い物途中のご婦人、もう一人のオッチャンはビールで顔を真っ赤にしています。お付き合いすることにしよう。そして頂くのはカレーライスなのであります。ここのが黄色いと聞き及んでいたからやはり頼まぬわけにはいかないのでありました。出されたそれは確かに黄色くはあるけれど、思っていたほどには明るい黄色ではありませんでした。ジョイフルのアーケードの下だからくすんで見えたのでしょうか。それでもやはりそば屋のカレーは大層旨い。日頃南インドカレーがどうのと偉そうに語っている自分がいる一方で、こうしたほんのりと出汁の風味が香る優しい味わいが恋しくなる自分もいる。カレー食いとは世に数多あるさまざまなカレーを受け入れてこそ誇れるのであると言ってはみるけれど、やはり節操のなさは否定できません。 次のお店は、「そば処 大むら」です。吉原大門のすぐそば、良く知られる天ぷらの有名老舗店「土手の伊勢屋」の道を挟んだお隣にあります。ということは「桜なべ 中江」も隣接してあるし、すぐ目と鼻の先に先般お邪魔して感動した「とんかつ 美乃屋」もあるのであります。そして、この「大むら」も負けず劣らず素晴らしかった。「土手の伊勢屋」もとても好みではあるけれど、いかんせん人気があり過ぎてこの界隈の静けさをぶち壊している感もあるのが非常に残念に思われるのです。それに引き換えるとこの木造店舗の枯れた佇まいのお店は、静まり返っており寂しすぎる位です。しかも天ぷらを待つ行列客の好奇の視線に晒されながら立てつけが悪くなった戸を引かねばならぬのだから、なかなかにプレッシャーを感ぜざるを得ないのです。しかしそうしたプレッシャーを跳ね除けた先には、この上なく閑静で心地よい空間が待ち受けているのだからめげてはならぬのであります。先におられるお二方もこの静寂を全身で感じようとするかのようにじっくりと浸っているのでした。ここではラーメンをいただこうと決めていました。腹を膨らせぬように頼んだウーロンハイだったかな、とにかくサワーの類は思いがけずにモダンなスチールコップで出てきました。それをちびちびと楽しんでいたら厨房におられたご主人が出てこられて急に賑やかになります。声が大きいのですね。でもそれがちっとも嫌な感じがせず、会話もいかにも下町の方の会話で思わず聞き入ってしまいました。ラーメンと書きましたがこれは間違い、まさに正統派の中華そばと呼ばなくてはならないような品でまたもや感動したのでした。 結局、どちらでもそばを食っていないではないかと突っ込む事のなきことを祈願します。蕎麦屋のカレーライスやカレー丼、中華そばの誘惑の強烈な事は多くの同類の方が述べている事だし、実際、蕎麦屋の品書に安定したポジションを占めていることを思えば、けして異端の食行動ではないのであります。
2018/05/05
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浅草橋は多くの呑み屋をはじめとした飲食店が軒を連ねており、その全貌を掌握するにはひと月ほどは日参する覚悟が求められると理解しているけれど、その困難さを高めているのが日中のみの営業という店が多い事、さらには日中のみやってる店というのは概して土日祝日とお休みの事も少なくないのであって、ある意味では喫茶店に通じるところがあります。それはこの町が問屋街として栄えてきたという事情があるはずですし、確かに問屋仕事ということになれば夜に店を開けてもそう多くの集客が見込めそうもないと素人ながら思いもします。素人なりに考えれば食の情報に不自由せぬ現在であれば繁盛店であるなら夜に営業しても、そこを目当てに訪れるお客さんも少なからずいるはずです。しかし、そこはそれ古いお店であれば後継者問題とかあったりするわけで、高齢化する店主たちばかりで終日の営業が困難なことも理解できるのです。となれば、例え昼呑みを余儀なくされようとも足を向けるのを躊躇している場合ではないのです。 そんな訳でやって来たのは、「大勝軒」です。ここを知る方であればおやっ、コイツは何を抜かしているのだと思われた事でありましょう。そう、こちらのお店は夜の営業もあるのだから話が違うではないかと言われても仕方がないことは承知しています。実のところは、昼のみの営業のお店にここに来る前に立ち寄っていたのでありますが、目の前で営業終了を告げられたのだから仕方がないのです。しかし、「大勝軒」にお邪魔したのはそこから至近であったからという理由ばかりでなく、実際に訪れたい店の有力候補であったから何の不都合もないのであります。そしてこうした店ではどうしても飯物、麺物を避けて通るのは困難なのであります。夜にわざわざ浅草橋に来て、ラーメンのみ啜って帰るのはちょっと気が乗らないのです。きっと腹がくちくなってもよそに立ち寄って非常なる苦悶に見舞われることが容易に想像されます。さらにはこちらは定食というかセットメニューが充実している。どうもセットとかサービスとかいう単語には弱くていけない。だから昼であればそれなりに食べても許される気がするというか、休みの日くらいはその程度のお愉しみを自らに許しても構わないじゃないかと、とにかく言い訳抜きに飲食を制限せねばならないのは切ないことです。さて、写真でもそれなりに伝わると思うけれど、ここの食事メニューはけして特別なものではありません。言えるのは極当たり前の品を極々丁寧に提供してくれるということ。こうした勤め人の空腹を満たすための店にグルメの入り込む余地など本来ないのではないか。そんな事を思いながら、多くの人が勤めにつく自分だけの休日を幸福に堪能するのでした。
2018/05/03
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なんて威勢のいい事を書けば別な趣味の方たちが食いつくかもしれぬと期待するわけでは消してないけれど、まあそうした豪遊とは無縁でありながらも消して知らぬわけではなきこの界隈の酒場事情をリサーチしてみても良いのではないかと思い至ったわけであります。というか、前々から懸案であったとある飲食店をどうしても訪れたくなったのであります。この店の前を何度通り過ぎたか知れぬ。けれどここでこの店に入ってしまうとこの先呑めぬであろう、いや、ことと次第によっては過ちを犯してしまいかねぬという不安もなかったと言えば嘘になるかもしれぬのだ。 なんとなればこの店は、とんかつ屋なのであります。店名は「とんかつ 美乃屋」という。老舗有名店の並ぶ明治通りに面した―でいいんだっけな―、その並びにあるのだけれどかなり存在感は希薄なので見逃してしまう方がいても少しも不思議ではないのです。その老朽感は近隣でも際立っているはずだけれどなぜだかそん存在感は希薄なのであります。店に入ってその理由が分かったような気がしました。とにかく店主が極めつけに謙虚で物静かな方でぼくなど店に足を踏み入れた時点で様々な賛辞をいかに店主に捧げようかと躍起になっていたにも関わらず、必要不可欠な言葉以外発することは許されぬような峻厳さすら漂わすのでした。外観はああでも店内に入ると案外こざっぱりしているという事は少なからず経験しましたがこちらは創業当時をそのままに適切に歳月を経てきたという年輪があからさまで、そこにもう感動させられるのです。単品のとんかつで一杯呑むその幸福。サイズもお値段も程よくて、これなら週一程度の頻度で通いたくもなるのですが、そこまで通い詰めるには些か場所が不便なのです。でもだからこそ地元の方にも可愛がられてここまでの長い歳月を乗り越えて来られたのだと思うのです。毎週は無理でも月一位は通えるかなあ。 明治通りを渡った先には、男の天国、女の地獄―それも今は昔のもっとずっとドライな場所に成り果てているのだろうけど―があるのですが、通りに面して「堤や」という居酒屋があることは以前から知っていました。しかし、先入観かもしれませんが、ここはこの奥に広がるソープ街の関係者たちの溜まり場というか安息の地ではなかろうかという思い込みがあったので、そご余所者が知らぬ顔して踏み荒らしてはなるまいと考えていたのです。その禁を破ってお邪魔したのは、先のとんかつ店の余韻を噛み締めたいと思ったからだったはずです。実際に入ってみると極めて平凡なお店で、店主は幾分強面だけれど至って穏当な応対をしてくれます。男性、女性それぞれ独りのお客さんもいて、ぼくのような大概が独りで呑んでグループ客ばかりだと気兼ねしてしまうような気弱な者には有り難い。酒も肴も至って当たり前の品ばかりだけれど、なあにそれ以上は求めるつもりはないのであります。場の空気に馴染んでくるとこの界隈の話題を語らう人たちの来店を心待ちするようになるという下世話さと好奇心が首をもたげてくるのだけれど、ここで調子に乗ってはならないだろう。往々にしてそんな気の緩みが碌でもない結果をもたらすものです。今晩は大人しく程よいところで切り上げるべきでしょう。 そういえば軒を連ねるように「ますみ寿司」というのがあります。ここもなかなかに良い佇まいであるなあ。宿題として記憶に留めることにしましょうかね。
2018/04/30
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そな不満の出処はハッキリしていて、世に黄色いカレーは思ったよりずっと多く流通しているのです。なのにいくら数字が取れるからと調子に乗ってTV番組で取り上げるのはどうしたものた。いやまあ、ぼくにしたところでTV番組ではないけれど、ネットでたまたま目にしたそのルックスの鮮明さに惹かれて訪れることにしたのだから、調子に乗るという意味では等価であるかもしれぬから、自戒の念もそこには加味しておくべきかもしれません。いや、せっかく放映するなら新潟の万代シティのカレーなど全国津々浦々をサポートしての特集であれば両手を上げて賛辞を送りたいのであります。がけしてそうでなかったはずです。店先には中居正広とかいうとうに旬を過ぎたアイドルグループのお調子者キャラが出演する番組で取材があったと書かれており、売上が上がってもともと数量限定のこの看板商品が提供できない場合があるかもしれぬといった趣旨の文章も付されています。これは困った事になったかもしれぬぞと内心激しく動揺したのであります。この同様の苛立ちを今後の生き延び方を模索する悩めるアイドルにぶつけたのは申し訳なかったかもしれない。マツコ・デラックスの番組なら黄色いカレーマニアが登場する事もありそうだし、もしかすると既にぼくの知らぬ店々は世の人々にとっての周知の情報として共有されているかもしれない。ともあれ、昼下がりでかなり商品の残りがあるか危険な時間帯であるけれど入ってみなければ始まらぬのであります。 入谷駅から少し歩けば「東嶋屋」に行き着くのは予習していたけれど、やはりきっちり空腹状態を用意すべきと南千住駅から歩いたのだけれど、空腹の度合いが昂じすぎたのも苛立ちの要因かもしれません。ところで、こちらのお店、店内もなかなか素敵ではないですか。外観は一般的な蕎麦屋の構えでしかないけれど、中は思ったよりずっと広くてそればかりでなく席の配置が蕎麦屋らしくないのです。入ってすぐはまっすぐ伸びた長いカウンター席になっています。テーブル席が主体となりがちな蕎麦屋でこれは結構珍しいのではないか。そして奥には飾り気のなさが老舗感を高めているテーブル席が用意されています。ここが座敷とかだったら余り面白みはないのですが、少しばかり秘密めいたその空間がとても良いのです。カウンター席で独りで呑むもよし、奥の席で友人と語らいつつ腰を据えて呑むもよし、そう出来のいい居酒屋みたいなのですね。さて、ビールとそして念願のライスカレーを頼むことにしました。お隣りの女性も黙々とそして熱烈にライスカレーを掻き込んでいますが、これはきっと中居くんを見て来たのだろうな。かなり出汁の風味が強くて、ひと口目には少し違和感を感じたけれど、食べ進めるにつれ中毒といってもいい位に病み付きになってしまいました。真っ赤な福神漬けとのコントラストも毒々しくて素敵だし、途中ウスターソースをまぶしてみると―この間、別のお店でやはりかなり黄色いカレーに遭遇しましたが、そちらは惜しくも中濃ソースでこれはどうもぴったりはまらなかったなあ―これが実によく和風と調和して、その量の加減次第で2度も3度も変化を愉しめるのでした。これはいいなあ。ここのライスカレーは評判に違わずリピートしたくなる謎めいた品だったのです。 備忘のためですが、近所には「レストラン&ティー プライム」、「喫茶&スナック nob」なんてお店がありましたね。前者は何度も通っていますが今のところ入店のチャンスに恵まれません。後者は、ちょっとねえ。ドアを開けたらカラオケの大音量が轟くようでひるんでしまいました。
2018/04/26
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南千住駅を下車して常磐線視線の隅田川駅を見渡せる貨物線跨線橋を越えて、泪橋を辿るコースをもう幾度歩いたことだろうか。地元の方であれば毎日のように歩いているのだから、住んでいるわけでもなく、勤務地があるわけでもないぼくが、いかにも飽き飽きだといった書き振りをするのは無礼に当たるかもしれません。しかしまあ始めこそ物珍しく見えるドヤ街の風景もすぐに見慣れた風景の中に埋没してしまい、そうなると変化に乏しいこの界隈を歩くのは正直うんざりとしたものになるのは、致し方のないことです。南千住駅以外にもっと最寄駅というのがあれば起点―終点間の経路に変化を付けることができますが、この辺りではそれもままなりません。という訳でやはり飽き飽きしたいつもと変わらず明治通りをひた歩きアサヒ商店街までやって来ました。アサヒ会通りという通りの名もあるみたいですが、この際呼び名などどちらでも構いはせぬのです。 この通りにはポツポツと喫茶店もあって、なぜか行きそびれていた一軒があったのでひとまず立ち寄ってみることにします。こういう風に酒場記事に喫茶店を忍び込ませるという事を時折やってしまいますが、これまでもそうだけれど、酒場は毎日書いているので余り書き漏らしは生じぬけれど、喫茶店にはそうでもせぬとお披露目できぬ店もあるので悪しからずご理解ください。なにせ日曜日の恒例にしている喫茶店報告が近頃とみに旅の記録と化してしまい―最近読み始められた方はそうお思いかもしれぬけれど―、そうすると必然東京近郊の喫茶記録はオナザリになりがちでそのままになってしまう事が多くなるのです。それは少しばかり残念だ、ということでたまにこうした構成となることをお許しいただきたい。さて、行きそびれ喫茶は、「喫茶 クロ」でした。極めてオーソドックスながら、ゆったりしたチェアの座り心地はちょうど良い塩梅です。正直こうしたお店が採算が取れているものかいつも気になります。よそ様の財布事情を気にするなんていうのは、品性が卑しいと断じられてぐうの音も出ぬけれど、こうした余裕のある人生を全うして下さる方は、先の読めぬ厳しいご時世で期待するのは図々しい事なのだろうなあ。なんてことを物思いつつも腹は急速に減るのでありました。 この日の目当ては、「カレー専門 キッチン ニューダイカマ」なのでありました。前々から気にはなっていたけれど、ようやく機会が到来しました。オヤジさんが店の前でウロウロしていて入りにくいので、頃合いを図ってお邪魔することにします。時間は昼下がりというには遅いからまあ空いている時間帯なのでしょうか。外観こそしっかりしていますが、店内は期待通りの昔の食堂の見本のような佇まいです。ナポリタンとミートソースのスパゲッティも気になりますが、ここはカレーにしておくべきか。ついでにビールも頼んでみると、小瓶だけれど良いですかの問を受ける。いやいや呑めるだけで有難い。飯物と一緒に大瓶は厳しいからむしろ有難いのです。いろいろ難しいとは思うけれど、普通の居酒屋でも小瓶を是非とも定番として貰いたいものです。グラスに一杯目を注いだ頃にすぐにカレーが出されます。ライスとルーが別盛りのスタイルは、面倒だけれど何だか贅沢した気分にもなって嬉しいものです。福神漬とラッキョウを乱暴すぎない程度に更に取り食べだします。豚肉以外は具材の姿の見えぬそのルーは程々に辛味があってしみじみと美味いのです。日本人の口に合う懐かしい風味を基調にしつつも独特の辛味が癖になります。なんてこのブログでのコメントを検討しつつ味わっていると、おやご主人がこちらの様子をじっと見守っています。この凝視は何なのだ、しかし不安を感じたのは杞憂だったみたいです。食後のコーヒーを用意してくださっていたらしいのです。それはインスタントのコーヒーでけして高級なものではないはずだけれど、ソーサーに置かれた角砂糖を沈めてみると不思議に美味しく思えるのでした。
2018/03/07
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上野駅のそばにある中華料理店をハシゴしました。標題そのまま繰り返すのはこのブログをご覧頂いている皆様方の貴重な時間を奪ってしまうようで非常に申し訳ないとは思うのだけれど、適当な発句が浮かばぬのだから勘弁いただくこととして、上野には実際どれほどの中華料理店があるのやら。もしかするとスナックなどのジャンル違いの呑み屋を別にすれば、居酒屋などよりずっと数は多いかもしれません。とか言ってはみるけれど、実際によく町中華なんて呼ばれたりする店に出会う事はそう多くない。中国人の経営によるぼくが適当な気の利いた呼び名を未だに掘り起こせずに中国料理店という間に合わせの呼び方で誤魔化している、そういうお店が大多数なのではなかろうか。全体上野には往時のままに姿を留める店というのは少ないように感じられ、上野マニアの方でも町中華マニアの方でもどちらでも良いから、食べ歩きマップを拵えてもらいたいものです。すぐに他力に本願してしまうのでありますが、ぼくの身には余る所業なのであります。 ちょっとした会合が「東天紅」でありました。この池之端の老舗中華料理店にも何度か来る機会がありましたが、残念ながらこれまで一度として感心した事はありません。そうだ、今中華料理店と書いたばかりだけど中華料理店=町中華ということにするのであれば、ここはいずれにも該当せぬだろうなあ。じゃあ中国料理店のサブジャンルとして高級中華料理店というカテゴリーを設けてみてはどうか。そうすると町中華は低級中華料理店となってしまうのか。それはまずい、よろしくないのだ。マダム中華とおっさん中華も差別的かなあどちらも若干の侮蔑的な意味を汲み取られると良くないよなあ。いっそのこと「東天紅」や他では「銀座アスター」なんかを中華料理店と呼んでおき、日本人好みの古い店は中華食堂と呼ぶことにしよう。チェーン系のお店にそういうの見たような気もするけれど構っていられぬ。こんな事にいつまでもかかずらわっていては一向に先に進められぬのです。などと書いてはみたけれど、さほど語りたい事はないのであります。中国料理店と呼ぶ事に決めたは良いけれど、ここは料理店と考えるよりはむしろ宴会場と捉えるのがいろんな意味で適切かもしれぬあ、などと捉えなおしてみる。すると、あらあら不思議なことに美味からず不味からずのどっち付かずの曖昧さ―本当の不味さは素材の悪さでなく調理の才能の有無からもたらされる事は極めて稀な事に思われるのです、だから料理下手な店に遭遇するとそれはそれで稀有な体験なのです―にも至って冷静に対峙できるのだ。だってここには適度に暖かい好環境があるし、立食をポリシーとして回避するためちゃんと席も用意されている、そして何よりも酒が呑めるのだから本望は叶っているのだ。 でも自分で店を決めることができるなら、ぼくはこの「揚子江」のような中華食堂を選ぶはずです。立て続けに中華料理の店に入ってしまったのは、少しく酔っていたからでありましょうか。こういう店ではザーサイなんかを肴にゆっくりやればいいのだ。アメ横辺りで一個50円もあれば買えるだろうザーサイをスライスして塩抜きしただけなのに何だか悪くない気がする。これが先の中華料理店で普通に一皿として出されたらムッとするところだろうけれど、中華食堂な場はこんな粗末な料理ともいえぬ品すら美味しく感じさせる魔力があるようです。そう、中華料理店だって寿司屋がガリを添えてくれるように本格的な韓国料理店がとりどりのキムチやナムルを突き出してくれるようにザーサイを出してくれると良いのに。ともあれ、カウンター席だけのガード下らしいこの店は不思議と馴染むのでありました。しかしまあほとんど食べられなかったのは申し訳なかったです。
2018/02/15
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鶯谷って町はぼくのごく限定された行動範囲に辛うじて収まる立地なのだから、面倒がらずにもう少しマメに散策しておけば良かったと先般の訪問時に反省してみたりしたものです。という訳でまだまだ見過ごしていた酒場もあるだろうと、ノコノコとやって来たのでした。駅南口の改札を出て跨線橋を入谷方面に下っていくと、ここも地獄谷と呼ばれたりもするらしい酒場の密集地帯があります。といっても大森の山王の地獄谷とは比較にならぬ程に規模は小さいのであります。こんな地獄谷が日本にはどのくらい形成されているのだろう。地獄がみんなこんなだったら地獄行脚も悪くないなんて思ってしまうのです。先夜もこの地獄谷で極楽のような酒場で癒された事は報告済であります。しかし、今夜は地獄は避けて俗世にて呑むことにします。 いや、「居酒屋 きせん」のあるのも橋の反対側なのでやはりここら辺も地獄谷なんだろうなあ。ともかくかつて天ぷら立ち呑みがあったその脇に良さそうな正統派居酒屋があった事はずっと認識していて、何度か入ろうと思ったこともあるのです。というか、余りにもそれを繰り返してきたのですでにお邪魔しているのに、覚えたおらぬだけなのではないかという疑念もあったりして、来ているのに覚えておらぬのならたいした酒場ではなかったのだろうという思考の無限ループに陥るのでした。そうであるなら折角に訪問先のメモを残しているのだから、突き合わせて来れば良いのではないかという問いには、予めここと決めて来たんじゃないからもはや手遅れなのだと答えさせて頂きます。だったら今回は見合わせてチェックしてから改めて来てはどうかというご指南には、こう答えることになるでしょう。ぼくはそれほどマメではないのだ、と。しかし、まだるっこしいから入ってしまおうという積極性がこの夜はあったのだ。物事は、万事、迷うなら行動に移すのが解決への近道なのだ。そしてその戸を開け放った瞬間にやはりここは初めてであったと悟るのでありました。こんなに味のある居酒屋らしい居酒屋もそうはお目に掛かれぬのではなかろうか。一枚板の立派なカウンター席は高級店に赴けばそれなりに目にする事があるけれど、どう語ったものか、細部に視線を送ると綻びもあるのだけれど全体として眺めるとここの細部の瑕疵が良い風に収斂される様なのです。まあ、そんなふうに感心しつつ、常連さんと店主のかなり際どい町の噂話を聞くともなく聞き流しているのです。フグ皮の湯引きのお通しなんて気が利いてるじゃないのなんて思いながら〆鯖など所望する。そのうち一人、もう一人と席を立つ。ここの常連さんは切り上げ振りが良いようです。ならばぼくもそれに倣う事にしようか。 ほろ酔い気分で町を見渡すと見知らぬ店もそれなりに見えてくるものだなあ。。「卯月」というなんてことのない構えのケバケバしいお店で、普段なら見向きもしないかもしれませんが、先のしっとりとした雰囲気の店の後なら悪くは無かろうて。さて、店内は十名も入れば一杯になりそうなカウンター席のみのちんまりとした造りです。お客さんも常時2、3人程が入れ替わりしつつでおられて、席を立って帰り支度という段になって立ち話になり、結局一杯呑めるくらいの時間が経ってしまうって感じの気兼ねのない感じのいい雰囲気でした。とうやらこちら10時30分から23時までの営業時間と昼間から呑まれる方もいるのだろうか。お通しのスパゲティサラダがマヨ強めの酒の肴にピッタリなもの、これたけで十分に呑めますが、そうもいくまいと鶏皮ニンニクを貰います。これも独り酒に丁度良い量で、チューハイによく合います。何でもない店でしたけど、こういうどうってことのない店はありそうでそうはないんだよなあ。 そしてやはり「居酒屋 呑」に立ち寄ってしまうのです。ここはホントに好きだなあ。これが自分の探索により見つけた店なら大いに自慢してしまうのだけれど。オヤジさんもぼくなことを覚えていてくれたみたいだけど、ホントかなあ。仲間内では早速すごい酒場だと触れ込みました。まあ、仲間といっても片手に余る程度なので余り効果の程は期待出来ぬだろうけど。もうここはぼくのレギュラーコースになったので余り登場の機会はなくなるかと思うので、一応書き残しておくことにしました。
2018/01/24
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なんていう標題を掲げてしまうと、その筋の方たちが総毛立ってしまうかもしれぬけれど、こちらはどこまでも健全な大人のお遊びのブログでしかないので予めお断りさせておいて頂きます。その筋の愛好者がウッカリとこちらをご覧いただくよう誘導しているとかいった意図は毛頭ないとご承知おき頂きたいのです。さて、ひと頃度々足を運んでいた鶯谷にまたも戻って来たのには、近頃やけにお名前を拝借しているせんべろ嬢の最近の記事を目にしたからでした。またもや一言お断りしておきますが、これはけして色目を使っている訳ではありません。純粋にその記事に驚嘆させられたと同時に徹底されて打ちのめされたのです。鶯谷では大概の酒場は渡り歩いたという自慢にもならぬけれど大それた自負が無残かつ惨めに打ち砕かれたのでありました。 しかもその酒場は幾度となく通り過ぎた言問通りに面しているようではないか。いやいやそんな筈はあるまい。この期に及んで信じたくないぼくは地図上は言問通り沿いにあるようだけれど、実際にはその路地裏とかにあって見落としたとかビルの二階にあるんじゃないかと己に言い聞かせてかの地に赴いたのでありました。そんな懊悩はどこ吹く風の当然さで「居酒屋 呑」はいともアッサリと見たかったのでした。何たる不覚と呆然として店に入って、腰を下ろすのだけれど酒の品書きが見当たらぬのだ。これはいかなる事態が勃発したというのだ。店主に酒はありますかと問い掛けるとちは酒はないのだとの釣れない、いや大変丁重に仰ってくれたのにそれはないな言い直すことにしよう、残念なお答えが帰ってきたのです。これはしかしどうしたものか看板はあるのに店はないというのか。品書はそば屋のようです。これは店を誤ったようです。慌てて謝辞を述べて席を立ちます。ここも雰囲気は好みなので口ばかりでなくいずれ食べさせて頂きたいと思います。隣はパーラーというかカウンターの洋食店という感じの内装ですが、実は立ち食いそば屋だったみたい。40年位前にそこを引き継ぐはずが現店主の気まぐれで呑み屋にしたとか。チューハイを頼むとハタと悩んでしまう。とにかく肴の品数が充実しているのだ。余りグズグズ迷うのもみっともないからカボチャ天150円と鶏唐200円を注文。揚げ物が被ってしまうとはセンスがまるでないなあ。しかしこれが脂っこさがなくて美味しいのだ。量も立派だ。ばくに続いてやって来たおぢさんもご満悦らしく、せんべろの人のネットを見てきたのだと堂々とカミングアウトしました。店主もそうそう来た来たと満更ではなさそう。ぼくだとそうはいかぬだろうな。可愛いコだったよに加えて聞き捨てならぬ情報も耳にしましたが、それは内緒にしておくのが良さそうです。間違いなくまた来ます。 さて、実はその後、ちょっとしたトラブルに見舞われたので、もう一軒立ち寄ることにしました。そこでトラブルの対処をするつもりですが、そのトラブルも私的なことなので割愛です。鶯谷の有名焼鳥店でもいいのだけれど、腰を落ち着けないと対処もままならぬのでした鶯谷の。地獄谷で行きそびれていた「一代」に立ち寄ることにしました。店のある2階への階段を上る際はさしたる期待などしていなかったのですが、ここがまたもや大当たり。枯れた店内の雰囲気もバッチリ好みだし、酒もお手頃で肴もいい。にごり酒400円は律儀にコップとぐい呑で一合なのでしょう。380円のイワシ刺は身も丸々と肥って脂の乗りもよくその量たるや独りで平らげるのがもったいない位です。そして何より嬉しいのが気さくな女将さんの人柄であります。トラブル対処では大変お世話になりました。こちらも間違いなく再訪が決まりました。
2017/12/30
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浅草は、ほんのひと昔と比べてみても余りにも変化を被ってしまって、それが世の理とは頭では分かっていてもどうしても不愉快な気分になるのを抑えられません。夜になると人の気配が途絶えてしまうのは以前とさほど状況は変わらぬのでありますが、浦浅草に向かうつもりでひさご通りなど通り抜けてみると、この界隈は以前以上に閑散としていて、暗澹たる気持ちにさせられます。ひさご通りを抜けて大通りーこれは明治通りではないのだろうなーを渡ると、裏浅草と呼ばれる一帯に行き着きます。この辺は、下町紹介や散歩番組で穴場とか言ってここ数年やたらと紹介されたりもして、少なくとももはや穴場とは呼べぬようになっているのでありますが、ここら辺はやはり随分と廃れてしまっているように感じられます。意識の高い若い料理人やらが店を構えたなどと言われているようすが、それは嘘ではないにしてもかつての呑み屋街の艶っぽさやネオンの妖しい誘惑が失われつつあるようです。 しかし、そんな隠れ家風の気取った店ばかりがじわじわと増殖するそんな町にも古いお店はまだ残されています。「餃子舗 龍王」は裏浅草の路地裏にひっそりと、しかし古い店を好む者であれば見逃すことのできぬ存在感で佇んでいます。古い店は通りの風景にしっくりと馴染むのであります。タクシーでスッと店の前まで乗り付けるような人たちには視界にすら収まらぬに違いないのです。ところで何より目を引くのが餃子舗なる聞き慣れぬけれどどこか懐かしい解雇的な響きで、痺れます。店内はごく平凡な町場の中華料理店です。カウンターでは親子三人がいくつかの料理を分け合っています。観光客らしいのですがこういう店を選んだこの家族は偉いなどと褒め称えたくもなるのです。まだ年少の娘さんもリラックスした表情を浮かべています。こうした店で食事を取るのに抵抗がないというよりも好んでいるように思えます。かように物静かな家族ですが幸せオーラが放たれまくりなのでした。ビールを注文しました。いくら中年になってビールが苦手になってきたと言っても餃子にビールはやはり鉄板の組合せです。ビールがあってよかったとこの時ばかりは強く感じます。この餃子も餃子舗を標榜するだけの満足すべき味わいです。こうした店が裏浅草にある限り、懲りもせずまた裏浅草を訪れることになりそうです。
2017/08/03
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浅草にやって来ました。知人二人と呑む事になっているのです。どちらも金の苦労がなさそうな優雅な生活を送っているようなので、遠慮なくぼくが店を決めさせてもらいます。酒場放浪記の未防店をこの機会に片付けてしまうというのが、ぼくにとって都合が良い。しかし、その一軒がぼくにとっては難関で、これまでに三度行って三度ともやっていないのだから、そんな事が許されるのか。酒場などというものはいつ行ってもやってるからこそ愛着を持って通うのであり、予め電話で予約したり、営業しているかを問うなんてことは無粋極まりないのであります。このブログによく登場するO氏などもぼくと同じく三度の空振りの末に先般ようやく入店が叶ったらしい。ぼくもそうである事を願いつつ、とりあえずは確実にやっていそうな堅実な酒場を目指すのであります。 美食通りだったかなあ、古めの飲食店が間延びしてあるあまり人通りのない通りの路地を入ったところに「木むら」はありました。一部の老舗を除いて、単なる居酒屋なんかは次々に店をたたむか、見る影もなくなる程に改装してしまいまるっきり魅力を損なうかしており、ますますお寒い町になりつつあります。そんなご時世にあってここは最後の砦のように頑張ってくれている一軒で、以前から見知っていたことを今回訪れて気付かされました。知らずに通り過ぎていた頃は、どうせ敷居が高いお店なのだろうなあとーあくまでも値段の面でー、見てみぬふりを決め込んでいたのですが、やはり吝嗇なO氏によると安くはないけれど感じは悪くないとのこと。ならばある程度は信用して良さそうであります。ぼくには彼の感想は案外信用の置けるものと言う程度には信用しているのであります。さて、なるほど店内はかつてぼくの憧れた浅草らしいいかにもな呑み屋の光景が待ち受けていました。適度に地方の土産物が飾られ、水槽ではキラキラと光を放っているーかに思われるー観賞魚が無愛想な姿を晒している。どうやら女将はひばりと裕次郎という凡庸な感性の持ち主らしい。この凡庸の一語を誤解してはならぬのである。砂肝ラー油やらいう誠に想像の容易な品など、自分で作ればなどという邪念が脳裏をよぎるのであるけれどそれを語らぬのが酒場の神器であります。とにかく店の雰囲気以外に取り立てて見るところもないのでありますが、それでも今の浅草ではこの上ないオアシスに思えるのです。 瓢通りを抜けて向かうのは「ぬる燗」です。移転前の店に裏切られ続けて積もる恨みもあります。しかし、今度はようやく入ることができました。足元に灯るボンボリ看板を見たときには、心底安堵を感じたものです。思ったより客も少なくて、煩わしい靴を脱ぐスタイルも苦になりません。狭いくせに混んでいてこのやり方はいただけない。その一方で汗まみれのぼくがこんな新調されたばかりの畳に足を載せるのが躊躇われます。お通しは、そうだったなあ、椀物が出されます。この夜はポトフでうまいことはうまいけれどなんか違うなあ。これならぼくのほうが上手だぞ。なのでとりあえずはビールにします。店名に従いぬる燗にするつもりがハナから予定が狂ってしまいました。でかいガンモやホタテの煮凝りなどなる程、工夫されているけれど、これを褒め称える気にはなれぬのです。何よりも言いたいことがあるのだけれどそれはよしておくことにします。ぼくにはこの店はまだ敷居が高かったということか。O氏も語っていたけれど、いやいや、これも語らぬことにしよう。今のぼくには早すぎる酒場のようです。
2017/07/29
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三ノ輪には、ほんの数年前まで東京を代表するといっても過言ではなかろう何軒かの酒場がありました。そうした酒場の痕跡の片鱗のわずかなりともこのブログに留め置けたのは、こうして愚直さだけを取り柄として書き続けてきたことのささやかな価値と自負しています。しかし、それを自ら振り返って省みる事はついぞ行わぬであろうと思われます。それでもどなたかの目に触れて、懐かしんで貰えたり、場合によっては新たに酒場を始めようとする方の何某かの参考になるとするのならそれに勝る幸せはありません。そんな追想の対象としての三ノ輪でありますが、そんな現状なので、めっきり足を運ぶことも少なくなりました。この日三ノ輪に足を向けたのは感傷などというものの付け入る余地などどこにもない、合理的かつ明確な目的があったからなのです。 それは、ぼくが三ノ輪で最初に入った酒場の一軒である「色香美味」が店を閉めて、その居抜きとして「居酒屋 凜夏」なる酒場に生まれ変わったと耳にしたからなのであります。久し振りの三ノ輪の町は、こちらの不義理を無視するかのようによそよそしいのでありますか、それはこの町元来のものだったかもしれない。記憶を辿りながら店を目指して歩きます。そそに初めて来たのは、近くにあった、そして今は東武伊勢崎線のどこかに移転してしまったという、泡盛を呑ませる酒場を訪ねたのが理由だったはずです。その時にはすでにその酒場は痕跡すら留めておらず、近くにあった気取った店名の店に立ち寄ったのでした。それは看板に記された文字以外はほぼそのままに残されていました。外観はともかくとして内装の安っぽい所などは下町の酒場そのものであります。ひとまずそれに気を良くして品書きを眺めてみると、ありきたりではあるけれど手頃なところに機嫌を良くするのだから我ながら単純なのです。サワーはジョッキの他に小さめのピッチャー、これが2杯半分入っているようなのでありますが、680円くらいだったでしょうか。これがしっかりと3杯分はとれるのがありがたいし、暑くてうんざりしていたのでのんびり独りでやりたいと思ったときにも重宝します。若いママさんは常連らしいよく喋る兄さんと競輪話しで盛り上がっています。その旦那さんでしょうか、調理の仕事を終えるとすぐにスマホ弄りに浸るのはどうかと思うけれど、人のことは言えぬか。期待していませんでしたが、良いお店になっていて嬉しく思います。 南千住駅から帰ろうと明治通りに出ると、以前は「北二幸」とかいう居酒屋さんだった店もまた「いいとこ鶏」なんていう味も素っ気もない店名の店になっていました。建物の上の方にはかつてのままの袖看板が残されていました。店の前に置かれた看板だけは今時のポップな色彩と絵柄のものに変わっていますが、入った店内はかつてのままに使い勝手が悪そうです。一階がカウンター席が5席ほどで、二階、いや三階にも客席があると言っていただろうか。品書も大部分はかつてのままの王道居酒屋メニューがズラリと揃っています。しかし、よく見るとエスニック風のメニューが少なからず紛れ込んでいるのです。何よりも変化を遂げていたのは店の方で雇われ店長はミャンマーの方だったでしょうか、日本語も達者でよく喋られますが、すごく真面目な人です。相棒は日本語がまだ不得手らしいのですが、それよりももともとが寡黙な感じの若者のようです。クミン風味の羊串をうまいうまいと摘んでいると、お隣のよく喋る常連ー三ノ輪の独り客は孤独を嫌うのでありますーから、旨いですよねと、案外丁寧に語り掛けられます。この方、見掛けによらずインドに造詣があるらしく、インド料理にも当然に一家言あるようです。雇われ店長に対して、インド料理の3点盛りを是非とも出すべきだと執拗に要求するのにぼくも加勢すると、俄然その気になったかと思うのだけれど、今頃提供しているのかしら。とりあえずアチャールが食べたいと駄々を捏ねるのにぼくも加担するのであるが、これには即応じていただけたのであります。ちなみにアチャールはスパイス風味の漬物みたいなもののことです。 というわけで、いずれの居抜き店も思っていたよりはずっと快適で楽しめました。特に後者は、以前よりずっと良くなった気がします。今後にも期待したいところです。これからこうした外国人の方が店の中心となるお店が増えると思われ、これはこれで期待してみてもいいのかなと能天気に思うのでした。
2017/07/25
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根津は先日行った串揚げの有名店もそうだけれど、雰囲気のいいお店が確かにある。雰囲気は確かにいいのだ、だけれど雰囲気ばかりを売りにして、そのムード料が値段に跳ね返っているとしか思えぬような店が多いのだ。ぼくのような雰囲気優先の酒場好きにはこれはたまったものではないのである。酒場というのは店の雰囲気やそれに付随するあれこれの要素は、値段とは切り離されていなくてはならぬと思うのです。本来雰囲気なんてものはオマケとしてくっついてくるものであって、そこに価格を上乗せするなんてことは反則なのです。騙し討みたいなものです。酔っぱらい相手に騙し討をするなんてことはやめてもらいたい。根津という町は谷根千とか言って、下町人情の残る町だとか言われているけれど、確かにそうした商売をする店もわずかながらあるのを知っています。しかし大方の店は、えっ、この酒でこの肴でこの応対で、ただ店の佇まいとムードだけでこんな値段を客に突きつけることが許されてしまうのか、と嘆息を漏らすことになるのです。町はこうした不遜な者たちが蔓延ることで、色褪せてしまうのだと思うのです。近い将来、この町のどこに魅力を見出したのかと首をひねらす様なことにならぬことを祈るばかりです。 しかし、今はまだ「中華 広宴」があるじゃないか。実はまだ他にも愛すべき店があるのだと思いたいが取り敢えずはこの路地裏の中華料理店があることで十分に満足なのです。根津の住人は近所にこうした素晴らしい店を持てたことをもっと誇りとし、通うべきではないか。しかし、まあ思っていたことですが、お客さんは近所の高齢の夫婦と仕事帰りのくたびれたサラリーマンだけでした。理想的な店内のパイプ椅子に腰を下ろし、店中に張り巡らされた品書きを眺めます。吟味する前に目についたチューハイを注文しておきます。いつものように餃子とするのも良いけれど今日は麻婆豆腐を食べたい気分です。単品で700円は少し高いかななんて煩悶していると別の壁を見ると金曜のサービスセットが麻婆豆腐の定食であります。しかもこれが500円とはここの価格設定は一体どうなっておるのだ。無論セットを頼みます。ホントはゴハンはいらんけれど、このお手頃さは捨てられません。ゴハン少なめとか言えればいいのだが、セコいからそうはせぬし、ラップで包んで持ち帰りたいと言いたいが無駄なプライドが邪魔をする。食い切ってしまえばいいではないか。チューハイにちょっとした小鉢が添えられているのが嬉しいなあ。麻婆豆腐は辛味控えめの優しいお味。近頃家では陳麻婆豆腐の素で刺激的な味を好むけれど、この柔らかな味わいは懐かしくも新しい印象です。たっぷり添えられた具の最小限に抑えられた焼きそばがこれまた嬉しい。冷めきってモソモソした焼きそばってどうしてこうも旨いのだろう。酒のアテにぴったりです。結局またたく間にコメの最後の一粒まで平らげてしまいました。いつも同じこと言ってるけれどここはホントのホントに近所にあったら良かったのにと思うのです。
2017/06/30
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かつての日暮里の駅前はどんなだったんだろう。ぼくが頻繁に日暮里に立ち寄るようになったのはせいぜい十年程度のことだから、日暮里駅前はとっくに今の無残な再開発に攫われた後の事になります。無論、何度も日暮里駅は通過していたし、もしかすると下車したことも幾度かあったかもしれません。しかし、無念なことに残像ほどにも記憶に留まってくれてはいないのです。だけどもしかしたらそれで良かったのかもしれません。昔の町並みを思い返して昔は良かったとのたまうようなジジイにはなりたくないし、失われたものは大概の場合、美し気なフィルターでエフェクトされるのだから。思い出というのはとかく厄介なものであります。時としてそれは人を立ち止まらせて、ひどい場合には心の奥底にある檻に閉じこもらせたりもするのだからくれぐれも用心が必要です。とにかく日暮里にはそのような注意は無用なのだから、大手を振って歩けばいいのだけれど、実際には歩き回りたくなるような町並みは消え失せたといっては言い過ぎになるのだろうか。かつては地べたに立ち並んだ各種の店舗、とりわけ駅前は駄菓子の卸店や小売店が軒を連ねていたと噂には聞くけれど、そのいくつかは巨大タワーマンションに場所を変えて、所在さなそうにほそぼそとした商売を続けています。そんなテナントフロアーにはそれなりの飲食店があります。思いのほかチェーン店は少なく、ほとんどが個人経営のお店ということはここが建つ以前から路面で店をやっていたということだろうか。 そんな一軒が「香港料理 申申」であります。テナントビルの店に過大な期待をしてはなりません。これは鉄則なのだから、当然心構えはできていました。実際そこは心構えがなければ、落胆の色を隠せなかったはずです。仕事関係で医療関係の近頃仲良くしていただいている方の贔屓のお店ということなので、かねてから噂には聞いていましたが、この夜は偶然鉢合わせしたので連れて行ってもらうことになったのです。ガラス張りで店内も筒抜けに見通せるマンションの立派さに比するとかなり安普請な構えであります。下手に上っ面だけ見栄えよくしたテナント飲食街のウソ寒々しいのよりはずっと好ましいがやはりねえ、もうちょっと遊び心が欲しいところです。これがあと20年もしたら相当にうらびれて、味も出てくるのかもしれません。容器で元気ですごいお喋りなおばちゃんに出迎えられました。ぼくも面識のある医者やら歯科医師やらの固有名詞が飛び交います。ここはどうやらそちらの業界人の溜まり場となっているようです。先客も看護師さんとのこと。医療関係なんて狭い業界だから口コミに口コミが交錯することで、情報が増幅されているのでしょう。そんな良客にも恵まれたためか、娘さんは六本木だか麻布だがに支店を出しているようです。実母の言うことにどれほどの説得力があるか知らぬけれど、美人でスタイルも良いのに未だ独りで、目下花婿募集中らしい。さて、香港料理とありますが、まあ中華料理なら一通りできるようてす。火鍋なんかもあるようてすが、素早くできる一品料理をおまかせで。香港の味付けは旨味がしっかりしているから酒が進みます。どれも味が濃くて驚かされるような味付けは全くなく無難に旨いのですね。ビールから紹興酒に移行、白鳥みたいな例の酒器は風情があるがあっという間に空くのがちょっぴり面倒。ママさんが次から次にサービスと言って紹興酒を注ぎ足してくれるので、呑んでも呑んでも酒が切れることはないのでした。ここは普通に美味しい料理と愉快なママさんとの語らいを楽しむ店のようです。お隣にはちょっとした会合のできるスペースもあるそうです。今度は娘さんが応対してくれたりしないかな。
2017/06/28
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鶯谷で少しばかり呑んだ後に入谷の辺りをご機嫌になって歩き回りました。季節もぼくにとっては最適で、夜風が熱った頬に心地良いのです。5月に入ると今の東京はもはや初夏というのが適当に思われる陽気で、早くも散策するには暖かすぎるのです。皮膚をチクチクと冷気が刺すような人によってはまだ薄手のコートが必要な頃こそが酒呑みの徘徊には適切な気温に思われます。ほんの少し寒いくらいのほうが次の酒場を探索する足取りも軽やかになるし、程よく酔い覚ましできている気もするのです。ともかくそれなりに歩き回ったのですが、どうもここぞという酒場が見当たらぬのです。平日の夜なのにいつまでもブラブラしているわけにもいかぬと、やはり夜の散歩を好むT氏も同じような思いに至ったらしく大人しく日暮里方向に進路を定めたのでした。そんな風に明確に目当てを付けると不思議と酒場で遭遇するものなのですね。むしろそんな風に思うような場所だからこそ店を出しているのかもしれません。 そこは「小料理 みゆき」という通常であれば入店を躊躇うようなお店でしたが、同行者もいてしかも歩き疲れているのだから決断は早かった。視線を交わすと迷うことなく戸を開け放つのでした。やはりそうだったか、こちらの雰囲気はスナックのそれに明らかに寄り添っているのでした。しかしまあ幸いなことにカラオケが鳴り響くなんてこともない。それよりもっと目を引いたのがタイガースの選手たちのポスターやら色紙やらが所狭しと貼り巡らされていること。うむむ、これはとんでもない店に迷い込んでしまったものだとほんの少し後悔の念が脳裏を過るのでした。カウンター席だけの狭い店内はかなり賑わっていて、しかも散らかり放題なのでかなり窮屈な印象でしたが、おかしなことに不潔な感じもないし、リラックスできてしまうのです。もしかするとぼくの趣味ではないけれど、好きなものに囲まれるというのは同類にとってみては案外と住み心地よく共感をもって受け入れられるのかもしれません。とにかくフレンドリーなママさんで、これウチで漬けたキムチだから、このソボロも食べな、新庄がうちに来たんだよ、このポスター誰だか分かる(と若い手のイケメン選手を褒め称えるのです)、何とかさんはと常連さんを指し示して相鉄線が自宅なの、ウチのお客さんはみんな遠くから来てくれるのととにかく話題は留まることがないのです。しかしツマミもそうだし、話題もそうなんだけれど同じことがとにかく繰り返されるのであります。三度、四度と同じツマミを出されてはさっきもらったからと答え、話題が繰り返されるのはまあ二度までは適当に相槌を打ちながら黙って聞いていたけれどさすがにこれ以上はもういいかなと思う頃にはすっかりいい気分になっているのです。それでもお勘定は思ったよりお手頃でしたが、また妥当なものだったのは安心です。皆さんもそんなママさんを大好きなのはもちろんのこと、半分見守るつもりで通われているんでしょうか。
2017/05/22
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入谷といえば鬼子母神。でもぼくにとって馴染み深いのは雑司が谷の鬼子母神であります。田舎生まれの田舎育ちという今では一端の東京モノのフリをしているけれどやはり根っからの田舎っぽさが抜け切らないのです。あちこちの田舎を転々としたことも幸いして訛や方言こそないけれど、やはり生粋の東京人とはどこかが違う。しかし、ここで語りたいのは田舎者かどうかなどではなく、入谷と雑司が谷のことなのであります。馴染み深いのは雑司が谷と先に書きましたが、それはひとえに傑作漫画『まんが道』に負うところが大きいのです。脱線を覚悟で『まんが道』を礼賛してみたい。最初に藤子不二雄らを中心とした漫画家たちの青春群像を描いたこの漫画を最初に知ったのは実はそのリライトヴァージョンの『ハムサラダ君』が最初でした。今読むと稚拙な焼き直しに過ぎぬこの漫画ではありますが、その素晴らしい青春の物語を愛し、そして大いに憧れたのでした。やがて中央公論社から発行された1000頁を越える4巻本でようやく原典に接し、その後NHKの銀河テレビ小説のテレビドラマ版や市川準の映画版などに触れてきたのですが、どの作品にも思い入れがあります。今ではその内膜が漫画ほどには綺麗事ではなさそうなのは知っていますが、それでも漫画作品と現実が違っているのは当たり前のことです。こう書いていて今にも読み返したくなるのですが、この話は唐突に打ち止めとして、この漫画には手塚治虫が雑司が谷に住んでいた頃のエピソードや満賀道雄が編集のお姉さんと散策する姿が描かれぼくにとっての聖地となったのです。だから東京に来てみて都内や近県の人達が意外にも雑司が谷を知らぬことに絶句したのでした。むしろ入谷の鬼子母神があじさい市なんかでしょっちゅうテレビニュースで放映されるのに憤ったのです。とまあそういうわけで入谷には敵愾心すら抱いているということを言いたかっただけですが、長くなったのでこの先は手身近に。 始めてみたときはその蔦の絡む店構えに魅了されたものですが、その後、三木のり平の一族が贔屓にしているという情報を得てからはすっかり興味を失ってしまったこの蕎麦屋に飛び込んだのは季節外れの夕立がきっかけでした。入ってみたらなんのなんのいいじゃないですか。描写は放棄して写真でその良さを感じていただければよろしいのですが、ここはいいです。酒の肴はまあ味は普通だけれど、店の方が親切だし、サービスのいいものだからすっかり気に入ってしまった。「日吉屋(日よしや)」さんはそんな素敵なお店です。雨宿りで入ったので、そばが食えなかったけれどいずれ食べに来ます。 続いてきたのは「大衆酒場 蔵」です。雰囲気抜群です。は大きな破れ提灯が凄く誘惑します。だから無論入りました。店内も情緒があるなあ。でもまあ描写は省略です。オヤジさんに刺し身の盛り合わせを勧められるとつい調子に乗って注文しちゃいます。冷えた体を温めるには熱燗が一番。ゆるりゆるりと熱燗を舐めながら貝類が豊富な刺盛りを摘むと、なんだか大人になった気分になる。他にはお客はおらぬけれどなるほど、いいお店であります。何より上質な酒場で飲んでいるという、実感がひしひしと感じられるのです。小遣いを貰ったばかりということもあって気も大きくなっていたこともありますが、値段のことなど気にせずこうした雰囲気のいい酒場で呑むのもたまには悪くないと思うのでした。同伴者もたまにはこうした店でゆっくりと呑むのも悪くないと申しておりました。
2017/04/20
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最近、鶯谷にちょくちょく出向いています。と言っても目当てはあくまでも酒場なのであって、それ以外の鶯谷でよく目立つ施設を目的としているわけじゃあ残念ながらありません。しかし、鶯谷を目指す人々の欲望は純粋と言っても過言でない程にストレートらしくてここを訪れる男女ではその目当てには若干の差異があるといえども道徳的にはけして褒められたものではないし、事を終えた後のシラケた気分で酒場を訪れる人も少なくないはずです。だから遅めの時間は避けておくか、少しばかり駅から離れた店を選ぶのが賢明かもしれません。 だけれどまあ最初の一杯目は駅近を選択してしまうのが人情というもの。鶯谷駅の南口いや東口だったかの改札を抜けて、階段を降りるとそこには件の施設の多様な充実ぶりに比すると貧弱な呑み屋街があるのです。ここら辺の古参の酒場で女将でもオヤジでも構わぬけれど、ちょっと話をしてみると、どういうものか決まってこの界隈がかつては地獄谷と呼ばれていたことをことさら我が事のように自慢気に語り聞かせ、それはまあ大森辺りでも事情は変わらぬのでありますが、それはさておきそんな狭小な呑み屋街の一件にまだ足を踏み入れておらぬお店があったのでした。お店と書いたのはそこが純粋な意味での酒場てないときの常套的なぼくの言い回しでありますか、とにかく中華料理のお店があるのでした。「錦華桜」というなかなか風格の漂う良さそうなお店があるのでした。貼り紙には今日のお勧めとして梅サワーだったかが250円也とある。じゃあまあ今残の一軒目はここにしておくか。店内は改装されたのか外観ほどには風情がなく散らかったカフェっぽくてちょっとばかりがっかりするのですが、そこはまあ適当に寄っでみただけのお店だから不満は言うまい。たっぷりのザーサイのお通しが嬉しいなあ。これがあればもうそれだけでいくらでも呑めそうてす。気が向いて時折丸のままのザーサイを買ってみたりするのだけれど、塩抜きの加減がどうもつかめず、えらくしょっぱかったり、もしくは風味が飛んで味のない沢庵みたいになってみたりどうもうまくいかぬのでした。しかしそれはともかくとしてこちらの餃子はいかがなものか。皮は焼き餃子にも関わらずとろけてしまっていてグズグズなのであります。タネはまあ濃い目の味付けで悪くないのでありますが、これは客に出せるようなものじゃないのではないか。一考あられん事を熱望するところです。まあ全般にお手頃だからあまり文句は言いたくないのですけど。 それにしても都内各地にタケノコのように乱立する「晩杯屋」の健闘ぶりは驚愕に値します。鶯谷店もオープンしていたのですね。しかしまあ空いているなあ。駅からちょっと距離があるとはいえこれは少しばかり前途多難な印象であります。この系列店の奮闘ぶりそれなりの遍歴を重ねてきたので大凡の所は理解しているつもりでありますが、基本的に少数精鋭の合理化で価格に見返りを反映されるというまあ凡庸な戦略を先鋭化することで成り立っているようなのだけれど、他店と違ってこちらは客よりずっと従業員が多いのは経営戦略に綻びが生じたことの証左であります。肴の質の凋落振りはぼくなどがとやかくいう筋のものではないけれど、見るも無残なほどで、この夜たまたま迂闊にも選択してしまったほっき貝の食感の悪さは憤りを感じるほどなのであります。いろいろ噂に聞く社長さんではありますが、ここは一度立ち止まって戦略を練り直したほうがいいのではと老婆心ながら進言したくなるのでした。タケノコも伸びすぎると食えたもんじゃないですからね。
2017/04/19
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酒場放浪記でのホームページで上野の有名居酒屋を放映することを知ったもののあまりに知れ渡っているし、そればかりでなく上野を目当てなく彷徨っていると必ずや目に留まるようなお店なものだから、わざわざチェックをするまでもないと思っていたのです。でもまあなんとはなしにメモをめくってみてもどうもこの居酒屋が見つからないのです。これは一体全体どうした事だ。ネットで地図を見てもやはりそれは記憶にあるのと同じ位置を示している。しかしまあ考えてみても酔っ払いの記憶は少しもアテになどならぬものだし、メモを取ってるといって振り返ってみると遺漏が幾らもあるのだからこれはもう初めてのつもりで行ってみればいいじゃないか。 訪れたのは「全国銘酒 たる松 上野店」でした。お隣なんだろうか、改装工事中をしているようですがそれが記憶を過たせる理由とはならぬはずです。だってこれ間違いなく来てるもの。よくよく調べるとこちらには上野店と本店があって、単に以前は本店に行ったんじゃないかという指摘はいやいや違うはずとの答えに行き着くのです。本店の方にはかつて知人と確かに行ったはずです。実は二軒じゃなくて三店舗あるのではないかとの疑念も湧き出るけれど、これ以上の詮索は不毛であります。店内はテーブル席がせせこましく配置され、そんなほとんど人が通れるかという程度の隙間しかないのは都心の古い居酒屋らしい光景です。こうした店にあってはカウンター席こそが最高の上席であります。独りなので頼まずともその上席に促されるのは嬉しいことです。目の前に見事な酒樽がでんと置かれているのを眺めながら呑むのは大変気分がいい。まさに酒蔵で出来立ての酒をそのままに呑んでるのに準じるくらいの贅沢な呑み方かもしれません。なんて偉そうに語りながら最初はホッピーにしちゃうあたりがしっかり者のぼくの限界です。この店でホッピーはないだろうという意見は拝聴させていただきますが、悪いとは思っていません。何故と言うにやはり樽酒は樽の下部にある注ぎ口から木の栓をスコンと抜いてジャブジャブ溢れる酒を升で拾うのがいいんじゃないか。ここでは一度一升瓶に受けて、それをお銚子に移して、升へは客自身が銚子から升に注ぐのだから過程を二つ飛ばしてしまっているのです。これはやはり決定的に酒呑みから興を奪っているとはいえまいか。いやいや店側には何かしら言い分のあることは重々承知しています。だけれどもそうした理屈など抜きにして気分というのを大事にしたいものなのです。少しでも気分を盛り上げるため、塩をもらって升の隅に添えてみたけれど、やはりそれでは後付のごまかしでしかないようなのです。
2017/04/11
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なんてヘンテコリンなタイトルをつけてしまいましたけど、実のところはたまたま上野にいたところを知り合いに遭遇して一杯だけ呑もうと誘われたのでありました。ご馳走になれるのなら断る理由など持ち合わせていません。喜び勇んで向かったのはがっかり残念なチェーン系寿司チェーンなのでありました。 でもまあ有名な「すしざんまい 上野」なのだから、一度位は入っておいても損はありません。実際、どこにでもありそうなこの系列店にこぞって押しかけるその心根は、ぼくには到底理解できぬことなのですが、よくよく客層を眺めてみると外国人の姿が目立ちます。観光客に定評のお店なのでしょうか。お手頃でありながら目の前で職人さんが握ってくれるというのは、物珍しくこれだけでアトラクション感覚での価値も併せ持っているのだろうなあ。日本人でも食通とか呼ばれる種族は、職人の所作を清流のような流れるような所作が見事である、とか語ってみせるところなんでしょうが、あいにく僕にはそんな振る舞いを云々するほどの経験もないし、さほど面白いとも思えぬから、やはり食通からは程遠いと思わざるを得ないのです。しかもたいして寿司を握ってもらうまでもなく、酒ばかりお代りしてさてそろそろ握ってもらおうかというところでお開きにされちゃったもんだから果たしてこれでこの店の真価を見たと言えるのか甚だ疑問符付きではありますが、もう二度と来ることもないかと思うと一応報告しておこうと思うのが、ぼくらしいとい思われるでしょうけど、ぼくはこれから食うつもりだったんだから無念なのですよ、本当に。 あっさりと解放されて一人になったぼくは放心して途方に暮れたかというと無論そんなこともなく、御徒町駅のそばで「日吉屋」とかいうお店に遭遇したので入ってみることにしたのでした。もともと上野界隈には正直あまり興味が持てなくなっているのです。確かに夥しい位の酒場が乱立するこの町だから、まだまだ未訪のさかばも数しれず存在するに違いありませんが、安くて肴が旨くて酒の揃えもいいとかいうことだけじゃ、ぼくにはさほどの魅力ではないのです。なのにここでお邪魔したのはまさしくその三拍子を揃えていながらも店に少しの味わいも感じさせぬのです。屋号こそ日本風ですが、どうやら中国の人がやっているお店です。偏見をお持ちの方にちょっとだけ言わせてもらうと、日本で商売する彼らは全てではないけれど概して気分のいい方が多いと思うのです。彼ら自身が日本人に対していかなる心情を抱いているかは知りようもないことだけれど、客として対峙すると結構親しく接してくれることが多いように思います。まあ、実際にはその人が大陸の人なのか台湾の方なのかすらあやふやなんだから一概に悪く言ってしまっては申し訳ない気がするのです。この話題は深みにハマるとキリがなくなるのでこの辺で切り上げることとして、このお店のご夫婦はとても感じがいい。ちゃんと見送りのときにも笑顔を見せてくれるなんて日本人の店でもそう多くはない。ところで絹さやの炒め物をオーダーしたらこれがもうびっくりするくらいの量の絹さやに、肉や魚介がこっそり紛れ込んでいるようなもので、これが旨い。ぼくは大体香りの強い食材を好む傾向にあり、それは葉物の好みを以前書いた気がしますが、豆類もそう。乾燥した豆はそんなに食べませんが、青い豆には目が無いのです。枝豆やそら豆なんかも好きですが、それ以上にインゲンやスナップエンドウ、そして絹さやのような青臭いのが大好き。何だったらこれを主食にしてもいいくらいです。だからこの絹さやをこれでもかとふんだんに使った炒め物大好きでした。あゝまた食べたいなあ。
2017/03/11
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千駄木にはひと頃よく呑みに行きましたが、格別好きな店があったわけでなく谷根千とか呼ばれて休日など観光客で溢れるエリアからわざとはみ出すように歩いていると少し路地を入り込んでみると小体な酒場が潜んでいたりしてそれが楽しいと思えていたのです。しかし散々っぱら歩き倒すともともとそれほどに数多くの酒場があるわけでもないので、ある時期憑き物が落ちたかのようにピタッと足を運ばなくなったのでした。しかしこう書いているのだからきっとお前はああだこうだ述べているが、結局千駄木に行ったのだろうと詰問されるまでもなく、そう行きましたとお答えします。出向いた訳は恥ずかしながらまたもや酒場放浪記のHPで放映予定を見てしまったたからなのであります。 駅を出ると見慣れぬ新しいお店がちらほらできています。もちろんさほど興奮することもなく、それでも年季のある酒場に向かう前に新しいお店に立ち寄っておくのもよかろうと、無難でお手頃っぽく見える「くし家 串猿Z 千駄木店」にお邪魔することにしました。ホッピーに串揚げの盛合せを頂きます。1階にはテーブル席とカウンター席があって、程よい距離感があって案外居心地は悪くない。トイレが2階で面倒です。かなりの席数がありますがガラガラでした。串揚げは思ったよりいいなあ、どうってことのない料理だからこそ差が出るんですね。小ぶりではあるけれど、素材も衣の加減も良くて、この年になると量より質という考えは至言であるなあと感ぜずにはおられぬのです。チェーン店でぼくが好意的なことを発言するのは極めて稀なことであります、などという発言をしれっとしてみせる。あれこれ店を見比べて事前にクーポンを入手していたことは極秘なのです。それで串揚げ5本をサービスしてもらったから礼節としてのおべんちゃらを語っているわけではないのでくれぐれも誤解のなきよう。 さて、先日放映されたばかりの「みさき」に向かいます。一応補足しておくと、実際に伺ったのは放映前のことです。地図アプリで調べると夜店通りの路地を入った辺りを示すので、あああの路地の奥にも店があるのかと俄然期待が高まるのですが、なんの事はない通い慣れた夜店通りに面していました。先般お邪魔した「キッチン マロ」の斜向かいです。何度か立ち寄ることを検討したことのあるお店でした。膨らんだ期待が途端に萎むのですが、ここまで来てすごすご退散するはずもない。店内はカウンター席のみの至ってありふれた雰囲気です。カウンターのネタケースの位置が高くて店全体が見渡せぬのがちょっと詰まらない。奥の方の席が常連さん用なのだろうか、高齢の男女カップルが愉快で仕方がないように会話を交わしています。ぼくにお通しと酒を出すと主人も会話に加わります。話題はもっぱらゴルフのこと。全く門外漢のぼくには入り込む暇もない。まあ独りで黙って静かに呑むのも良いもの。ビールにもホッピーにも飽きたし、清酒でももらうことにしました。銘柄は一番お手頃な高清水、これで十分です。メニューを見れば分かるけれど沖縄料理をメインに据えたお店です。ポークたまごとか家で食べると旨くも何ともないのに表で摘むと酒が進むんだよなあと思いながらも、もうお腹はいっぱいだ。クリームチーズに酒盗を乗っけたのをいただきます。これまた宅呑みではさほど感心しないのにこうして頂くと酒が進みます。あくまで普通のお店ですが、そこはかとなく暖かな雰囲気で、帰り際には常連さん方からお疲れさん、お休みなさいと声をお掛けいただくと今度は心から暖かな気持ちになるのでした。
2016/11/24
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いい年をしたおぢさんが傷心だなんて気色悪い。傷心とハードブレイクは同意とチェッカーズで知ったーしかしハードブレイクなら壊心とか破心とかの方が適当なのではないかー世代は、案外まだ感傷的なのです。今時の若者は恋愛なんかには頓着しない、というか敬遠するものも多いと聞きますが、それって本当かなあ。近頃映画で多くのアニメ作品が大ヒットロングランなんてことになっていますが、どれもこれも恋愛沙汰を描いているように思われます。リアルな恋愛が面倒ないしは縁がないというだけで、表面でニヒルぶっているだけなのではないのでしょうか。ぼくなんかは、常にのめり込む対象がないと退屈で仕方がないという厄介な性癖に生まれついてしまったせいか、学生の頃などはとにかくいつも出歩いてばかりで友人も少なかったものです。その癖、やたらめったらと惚れっぽくて、砕け散ってばかりでした。なんてそんなことはどうでも良くて、今では人様の惚れた腫れたよりは古い何かが失われていく、特に現時点での興味の中心的な対象である酒場や喫茶店が無くなっていくのは非常に辛いものです。先般も三ノ輪の名酒場が前夜を持って店の歴史に終止符を打ったことをいくらか感傷的に綴ってしまいましたが、その後、ちらりと立ち寄った中華料理店で呑んだだけで、満足するはずもなくその後も数軒をハシゴしてしまったのでした。 都電荒川線の三ノ輪橋電停はスケールは小さいですが城壁に取り囲まれたようなゲームのダンジョンのような空間が楽しいのですが、その外壁に沿うような感じで何軒かの酒場があります。「呑み処 福」もその一軒ですが、こんなお店、以前からあっただろうか。見たところ新しいお店なので最近になってできたんだと思いますが、どんなもんでしょう。うん〜、どうってことなかったですね。若い女将さんが一人でやってるこぢんまりとしたお店です。二人掛けのテーブル席もありますが基本的にはカウンター席だけのお店。早くも女将さん目当てなのか常連さんもついていて一席しか空いていません。まあ、もともとが5、6名しか入れないんですけど。すべてが常連で疎外感はただならぬものがありますが、客どうしというよりは女将さんを的にした会話がやり取りされているのでさほど苦にもなりません。客たちがみな親密な関係の場合なんかだと、自分の酒や肴の上を言葉ばかりでなくツバキまでが飛び交っているような気分になり、甚だ鬱陶しいものです。そんなに親しげなんだったら隙間を空けず一見用に端っこを残しておいてほしいと思うものですが、なかなかそんな店はない。より親しい常連のためにあえて空けてるのかもしれないし。酒場としての実力はまだまだというところのようにお見受けしました。女将さんだけの魅力でやっていく路線もありかと思いますが、ぼくにはそれはいかにもつまらない。塾女好きということはけしてありませんがぼくには性差など超越したような方たちこそが、酒場の主にふさわしいと思うのです。なのでぼくは早いとは思ったけども頃合いを図ってお勘定を済ませるのでした。 三ノ輪にはぼくが心底から憩えるような酒場など残されていないのでしょうか。そんな融通な気分に陥りながらも最後の足掻きとばかりに南千住駅に背を向けていたのでした。ところが歩き出して早々に「たる平」なる酒場を見つけたのは幸と出るか不幸と出るかは、店に入ってみなければどうにもなりません。屋号が山形の銘酒、樽平なのだから銀座や新橋に古くから店を構える看板酒場の残党かと思うのです。期待と不安にゾクゾクしながら戸を開けると何とも言えない味わいがあるではないですか。靴を脱いで上がり込むとある意味艶めかしい絨毯が敷かれております。席は足を下ろせる掘り炬燵風になっており、これは高級店かもしれぬという不安よりもまず見ぬ店の造りに興奮します。足元からは温風が吹き付けて暑すぎるくらいだけれどそれが昔小学生の頃に乗った常磐線の事を思い出させてくれているしばしノスタルジーに浸るのは悪い癖。おっ、店の奥の方に樽平と住吉の一升瓶が陳列されているではないですか。やはりここは由緒正しき正統なる看板酒場であるに違いない。でも肴へのこだわり方が銀座店や新橋店とはまるで違っているのです。どこかで袂分かつような事件があったのでしょうか。樽をたると開いてみせるのもその現れか。ざっと眺めた限りではこちらの品書にぼくの知る他店に謙虚な山形への執着は感じられない。これはきっと看板酒場としての役目を終えて自由に店の方針を認められたからであろうな。と思いながら穴子の小鍋仕立てとかいうのをいただく事にします。運ばれたそれは予想に反して穴子飯なのでした。飯も充分酒の肴になるぼくにとってはこれはこれで嬉しいのですが、さすがに腹が一杯になるのです。客はしばらくしてお一人来られました。ご主人も気さくです。でもなぜかあれこれ詮索することが馬鹿らしいことのように思われます。この静寂はいざという時のために取っておきたい、三ノ輪の最後の砦としてこれからも頑張ってもらいたいし、ぼくも折を見てはきっとまた出向くことになりそうです。
2016/11/22
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何とも言えぬ予感に駆られるということが実際にあるものなんですね。この記事を急遽アップすることに今決めたので、一昨夜のことになるのですが、何やら胸騒ぎを感じたのです。その夜は、来月に店を畳むという酒場に行くかそれともぼくが愛してやまぬ三ノ輪の老舗酒場に行くべきか、激しく煩悶した挙句に全く他の酒場に出向いたのですが、それがアダとなるとはその時は思ってもいませんでした。翌日ー昨日のことですーになっても胸苦しさが止むことはなく、どうにも耐え難い心境にまで追い込まれたので、これはやはり三ノ輪に足を向けぬわけには行かぬ。 三ノ輪駅から向かえば近いのですが、交通の便が職場から良くないので南千住駅に向かいます。都電の荒川線の三ノ輪橋電停も使えなくはないのですが、ここは通い慣れた常磐線に乗り込みます。ちょうど向かう酒場は車窓から見えそうで見えない場所にあるので凝視しますが見えぬものはいくら眼力を込めたところで見えては来ぬのです。南千住駅に着くと一目散に商店街を抜けて、三ノ輪の交差点の長い信号にジリジリとした気持ちになるのでした。間もなく「大衆割烹 中里」に到着です。ここは店の前まで来ないとやってるんだか休んでるんだから遠目にやってなさそうに思えても店の前までは行っておらねばなりません。じきに開いてないことが分かっても近頃はよくある事なのでさして驚きはしなかったはずですが、よくよく見ると何度も開け閉めした引き戸に10月31日を持って閉店する旨の貼り紙がされています。スッと血の気が引くのを実感するほどの衝撃でした。建付けの良くないらしい2階の網戸の隙間からわずかに照明が溢れるのを見ると悲しみが到来します。 当然のごとく呑まずにはやりきれない心持ちになるのであって、以前からハシゴするつもりであった「再來軒」に伺うことにしました。外観からは殺伐とした印象の今の気分に沿った中華料理店と思っていたのですが、女将さんがややぶっきらぼうなところがありますが、オヤジさんは感じのいい、接客ぶりです。先客には若いサラリーマンがビールに餃子の晩酌中です。ぼくもそれを真似ることにします。時代劇専門チャンネルが掛かりっぱなしのテレビ画面についつい見とれてしまいます。ビールを呑みながら「中里」ー看板には「中さと」や「中ざと」の表記がされていたはずですがどちらが正解なのか聞きそびれてしまいましたーの回想でもしながら、これまで世話になったことを感謝しようという目論見を全うするのは困難なようです。ニンニクのよく効いたそれでもタネが野菜メインのさっぱりと食べやすい味にビールが珍しく進みます。店を出る際に「遠太」が店を畳んで久しく、さらにまた「中里」を失ったこの町に来ることはもう当分来ることはないのだなと思うと、ここまで夜道を歩かずに済むことになったことにちょっとホッとすると同時にもう少し呑み歩くことにしたのですが、それはまたいずれ。
2016/11/02
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日暮里の繊維街への入口を真っ直ぐ進まず、ちょっと脇に逸れてみると端正で品の良さそうな、つまりはぼくなど滅多なことがなければ足を踏み入れないようなお店があることはずっと以前から知っていました。知っていましたが滅多なことがこれまでなかったため足を踏み入れる機会は無かったということになります。そんなわけで念願かなったという誠に喜ばしい機会が到来したことになります。滅多なこととは何事かという説明が必要となりましょうが、至って面白みのない答えなので、あえて書き記すことに躊躇いを感じずにはいられませんが、誤魔化してしまうのも気が引けます。なのでことさらにサラリと述べておくことにします。日暮里でご馳走するよ、どこでもいいからという条件付きの振る舞い酒を頂けることになったのです。 そこでふと思い出した上品な鳥料理のお店、「鳥八」に決めたのでした。例えば湯島とか御茶ノ水なんかなら行きたいお店はいくらでも挙げることができますが、日暮里ではここを筆頭に挙げざるを得ないのです。こう書くといかにも消極的な書きようですが、遠からず身銭を切ってでも来ることになりそうだったので文句はありません。店内に足を踏み入れるとカウンター席は5席ほどで、あとは座敷席となっています。焼鳥よりもちゃんことかの鍋料理をメインに据えているようです。先客の2人は鍋料理を召し上がっています。スポンサー氏もちゃんこにしようかと提案してくれますが、鍋を食べちゃうと酒が呑めなくなるし、何よりちょっと面倒だ。なので焼鳥などを数品頼んで呑みだします。焼酎のボトルも導入されました。勢い付いていつも以上のハイピッチで呑み進めていると、どうしても鍋物が欲しかったのか湯豆腐が注文されています。目の前に置かれると食べたくなるもの、実際なかなかいいものだ。湯豆腐っていうの淡白で地味な肴の典型でありますが、こういうのがしみじみ良い物だなあと感じているように振る舞ってみたりしたのですが、どうにも様にならぬのでした。今のぼくでもまだまだその域には到底達していないのですが、老後には燗付の付いた湯豆腐鍋でチビチビと清酒を啜ってみたりすることを夢想したりもするのです。まあ、今みたいな意地汚い呑み方をしている限りはそれも夢でしかあり得ないのですが。このお店もも老境を間近に控えたような方に似合いそうな落ち着いたお店で料理も良かったけのですが、ひとりで来ることは当分ないだろうなあ。 続いて入ったのは近頃評判の人気店という「窯MARU」というお店でした。窯焼きのピザを食べさせるとかで若い女性客なども多くて、活気があります。先程の店でオーバーペースの呑みをしてしまい、量ではなくスピードでそこそこ酔ってしまいましたが、雰囲気ががらりと変わったこともあるし、酒の種類もワインに切り替えたためここでもまた懲りずにパラリパラリと杯を空けることになりました。ピザも食べたし、チーズやらも頂いたことは朧気に記憶に残っているのですが、写真など悠長に撮っている暇も惜しむように、ひたすらワインを呷ってしまうような己の酒量すら未だ制御できぬ輩に大人の呑みなどちゃんちゃらおかしいのでありました。
2016/11/01
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上野ってどうも忙しなくてしっぽり呑むとか、腰を落ち着けて呑み明かすなんてことには向いていない酒場が多いようで、それはまあ都内のターミナル駅のある町であればどこでも似たような傾向があるように感じられるのですが、上野はとりわけその印象が強くてどうも落ち着けなくていけない。でもやむなく上野で呑まねばならぬ事情が生じることもあります。 そんな時には「鳥清」は選択肢の一軒に加えて間違いないはず。これが2度目に過ぎぬのに分かった風なことを語るのはちゃんちゃらおかしいことでありますが、厚顔無恥を承知であえて言ってしまいますが、この店には客の引いた8時過ぎが狙い目ではなかろうかと思われるのです。この夜がたまたまそうだったからに過ぎぬ無責任な話ですが、この店にはどうも開店後の第一波で店が埋まると当分は客の動きは止まり、第二波が到来することはなさそうなのです。ここの焼鳥を目当てにした人は品切も覚悟せねばならぬのですが、幸いにもぼくとこの日同行したT氏はちょっと摘めるものさえあれば選り好みなどないというグルメとは無縁の単なる酒呑みだから、残ってるもので満足です。というか、前も書きましたがここの大女将というのが何というかなかなかすっとぼけて憎めないのですが、結構強引な注文取りをするのが言い方はキツイかもしれませんがうざったいのであります。前回は小上がりでしたが今回はカウンター席に通されます。やはりこちらの方が広くて落ち着けるなあ。やはり焼鳥は美味しいなあ。前の時は珍しい顔ぶれで気分が高揚したこともあり、肴を摘むこともそこそこに酒ばかりくらってしまったので味わうなんて余裕はなかったのです。また、上野で静かに呑みたい時には訪れたい店です。 アド街の上野を取り上げた際に出てきた日本酒バーが気になっていました。地方に向かう列車の乗客が時間調整なんかで利用するといった紹介のされ方をしていましたが、実際に店は上の駅の正面口を出てすぐの所にありました。あまりにも町にしっくりと溶け込んでいるのでこれまで気に留めることがありませんでした。これは確かに隠れ家という感じがして悪くないなあ。自分が昭和四十年代ころの地方で勤めるサラリーマンのような気になって、独り帰りの寝台列車、いやここは店名の「夜行列車」に倣って青森行きの夜行列車、急行 八甲田の乗車時間までのひと時を過ごしていると思ってみると、たまらなくような胸苦しいような望郷の念が沸き立ってくるのです。望郷とはいえぼくの場合は生まれ育った土地がほうぼうにあってどこかしらにとりわけの愛着を持たず―愛着とは正対の恩讐の町こそが故郷となる場合もあるのでしょうが―、単に生まれ育った町を想起しただけでは噴出し得ない何某かの作用がこの店にあるようです。切なさと言うのは気恥ずかしいのですが、何だかそうとしか名付けようのない気持ちが湧いてくるのはどうしてなんだろう。品の良いお店であることは間違いないのですが、とりわけ変わったところはないよあですし、店の方が方言混じりで語りくれたりとかまるで田舎の人のように親切というわけでもない、というかむしろ知らんぷりでほっておかれるのです。いやこの都会のど真ん中、でも地方への振り出しの町でもある上野で、上京したての頃のような疎外感があるからこその孤独がここにはあるのかもしれません。店の方に語りかければきっと親切に応対してもらえそうですが、ここの初訪時はまず孤独であることを決め込んでいただきたいのです。日本酒をちびりちびりと啜りながら胸を締め付けるような思いに浸ることこそ本当は上野での酒の嗜み方のように思えてくるかもしれません。
2016/10/20
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南インド料理をこよなく愛するお姉さんからのお誘いにホイホイと乗って御徒町にやってきました。ぼくの南インド料理熱は未だ冷めていないのであります。この酒場報告をご覧になっている方には近頃食えなくなったなどとボヤいてばかりのぼくが食べる暇などあるのかと的確かつ鋭い疑問をすぐさまに脳裏を過ぎったはずでありますが、実は食べ終えた頃には胃がはちきれんばかりになっているのです。苦しくて苦しくてどうにもならぬ、なのに匙―そう、右手のみで食べるなどぼくには到底無理―を口に運ぶ手を制止することが叶わぬのが南インドの味の魔力なのです。だから一杯呑もうと思ってもホントに一杯に終始してその後、しばらく間を置かなくては酒の一滴すら口元に運べぬということになるのです。でもそれでも騙されたと思って是非一度試していただきたい。事実騙されだからといって因縁をつけられてもどうにもお詫びしようがないですらご勘弁ください。 御徒町駅の南口改札を出た暗い裏通りにある「アーンドラ・キッチン」は、立地は夜になって人通りもなくなったうらびれた通りにありますが、店の構えはちょっとしたカフェっぽい、まあインド料理店としてはありがちなスタイルです。インド料理のお店ってどうしてこうも型にはまったかのような工夫のない店作りをするのだろう。麹町の老舗や東池袋のお店なんかは、さすがに老舗だけあってそこはかとなく味のある内装が楽しめるのであって、ぜひともそちらの雰囲気を取り入れてもらいたいものです。まあ愚痴を語っていても詮無きことです。店内には一組のカップルがいるばかりでいささか寂しいムードです。ドーサ(豆の粉のクレープ)とワダ(豆の粉のドーナツ)付きのちょっと贅沢なミールスのセットをシェアすることにして、もう一つは通常のミールスセット。ベジタリアン仕様とノンベジ仕様があるのでそれも交換し合っていただくことにします。あまり呑み過ぎては食べられなくなるので、珍しく生ビールをちびちびやります。早く出てきたドーサとワダにサンバルという豆ベースの野菜のカレーやココナッツチャツネを絡めて食べるとまあ旨いこと。辛味は控えめでマイルドなのもいいなあ。昔は刺激を求めてとにかく辛ければ辛いほど旨いと思い込もうとして、汗だくになったものですが自分でスパイスからカレーを作るようになってからはバランスと配合のセンスを探らんとしながらしっかりと味わえるようになりました。ベジタリアンの方にはヨーグルトの温かいカレーがあってこれはあまり食べたことがなかったのですがいやいやなかなか旨いものです。さっぱりしてコクがあるんですね。青いバナナ入りのカレーも独特の食感で楽しいし、スッパ辛いアチャール(漬物)は何物か尋ねるとそれはなるほどレモンを刻んだものでした。これもいいなあ。接客と配膳担当のマイルドな風貌のインドの方は非常に親切であれこれと訪ねたことに答えてくれるのは、気分がいいし、いいアイデアも教えてくれます。ところでバスティマスライスとラッサム(酸味と胡椒のスパイシーさが楽しいサラサラカレー)とサンバルはお替わり自由なのですが、ついどれも控えめに追加してもらいました。やはりこの三つの組み合わせが抜群に旨い。胃がはち切れんばかりになりますが、そこに至るまで食べ止まぬことになりかねないので、くれぐれもご注意あれ。
2016/10/18
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さんざん腐しておいてそれでも性懲りもせずに酒場放浪記で紹介された酒場を追っかけるのは、時として拾い物の酒場が紛れ込んでいるからに他ならないのですが、残念ながらあまりに番組がメジャーになり過ぎて、出演拒否―出演と書くのが適当かどうかはこの際どうでもいい―するお店も多いのだと推測します。番組を見てやって来たと自ら告白することはないけれど、そう問われれば正直に白状することにしています。酒場にまで来て高感度を高めようとはケチ臭い根性ですが、ホントにケチなのだから仕方あるまいと開き直るのです。そんな店でよく聞かされるのが番組に出て一時的に予約が増えるけれど、怒涛のような日々はほんの一時のことで嵐が去るとピタリと客足が減り、しかも常連までも攫っていってしまうというお話し。すべてが全て真実であるかは定かでないし、適当に眉に唾してお伺いしているけれどそこに一縷の真実が含まれているのは否定できません。そんな噂が噂をよんで、なかなか取材も大変だとは思われますが、今というより将来のために貴重な資料となるやもしれぬので頑張って続けていただきたいものです。 と長々くだらぬことを書きましたが、今回お邪魔したのは湯島の駅からすぐの「彩とう」というお店。番組を見ていないので先入観はありません。番組を予め見ていると気分が萎えてしまいかねません。たから出来る限り放映されていても未訪問の店は見ないよう気を付けています。今回も店の構え、特に小洒落た外観と、立派な木戸を見るとここは迂闊な注文をすると痛い目にあいそうな予感に満ちています。でも果敢にも入ろうとするぼくを押し留めようとするかのように思い扉は行く手を阻むのでした。こうなると意地でも入らずにはおられぬ、入店を拒否される―実際にはそんな事はないが貧乏人の僻みが顔を覗かせる―と、踏ん切りがつき過ぎて必要以上に気合が入ってしまうのでした。店内もこざっぱりとしていますが客は下品な会話に夢中なサラリーマンの団体がいて、その上司らしきオヤジが下ネタで若い娘の関心を買おうと躍起になっているのが滑稽で、それほど格式の高いお店ではないな、これなら大丈夫という気分にさせてくれました。ここは焼鳥のお店です。しかしあえて焼鳥を食べずに済ませることができるのが、グルメ系ではないこのブログの持ち味―なんてえばれるものでは少しもないのですが―なのであります。実のところはこの後に待ち合わせがあって時間がないこともあるのですが、このレベルのお店でじっくり腰を据えて呑んでしまうとぼくの毎月の小遣いなどあっという間に消し飛んでしまうのでむしろ都合がいいのであります。なので、お通しは小鉢に加えて、サラダや〆の鶏スープなんかも付くのですがスープはともかくサラダはなんだか虚しく感じられます。この3種で500円のお通し代を取るシステムになっているようで、勘定の際にもう呑み終えているのにあわててサラダとスープを出されるのはあまりにも杓子定規な接客ではなかろうか。焼鳥を食わぬ呑み客だってたまにはいるだろうに。まあ若いご夫婦なのでそこらへんは今後検討いただけるとありがたいと思います。さくっと呑んだけれどそれなりの値段になるのはまあこういうお店だからしょうがないというところでしょうか。
2016/10/12
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近頃足の遠のいていた上野に立ち寄るようになっていますが、しかしどうも上野の居酒屋というのは一部の老舗や有名酒場を除くと、何処もかしこも似たりよったりです。それは記憶するに値しない酒場語少ないというのと同義でもあるわけですが、実際、いつもと違う店に行こうと思いたち町を徘徊してみたところでどれもこれもが以前入ったことがありそうです。それでもいつまてもウロウロしていてもどうにもならないので、妥協を余儀なくされてなるものかとの当初の意気込みはどこへやら、甘んじて目に付いた酒場に入ることになるのです。それがまあ狙い通りに初めての店ならまずは良しとすべきですが、入っただけではそこが旧知の店なのかそうでないかの判別すらままならず、多くの場合はいつか行ったような気がするなあという曖昧模糊とした気分のまま帰宅することになるのです。 帰宅後調べてみたところ、幸運なことにこの夜訪れた酒場はいずれも初訪でありました。その一軒はアメ横の只中にある「みなとや」という海産物の小売店で、海鮮丼なども出していますが、そんなの食べたら呑めなくなること必至なので、たこ焼を扱う方へと足を向けました。たこ焼っていうのもうまいけど案外腹に溜まるものです。だから4個っていうのはみみっちいようだけどありがたい。水冷式の冷蔵庫で冷やされた缶の呑み物を選ぶというのも屋台っぽくて気楽ではありますが、いささか味気ないものです。そんなそんな角打ちにも似た露天商売が愉快なのか、次々に熱々のたこ焼きをほおばっては冷えた酒で呑み下し、足早に去っていくのですが、逆に腰を下ろしている客たちはズルズルと長居して迷惑極まりないのです。こういう店は用を済ませたら早々に立ち去るべきじゃないですかね。 続いては路面の酒場が立ち並ぶ中で、看板らしきものも見当たらず店名さえ定かでない「立ち飲み処 呑む三」にお邪魔しました。一応こうして店名を書く以上は何かしらの手掛かりがあったようですが、すでに記憶の彼方です。丸椅子とぐらぐらのテーブルが置かれただけの味気ない店内をほぼ満席の客たちは楽しんでいるようですがに何がそんなに楽しいのだろうか。残念ながらぼくにはどこかの酒場で呑んでいるなんていう気分にはちっともなれず、そこらのコンビニ前でたむろして呑むのとどこが違うんだろうというさみしい感想しか浮かんでこないのでした。こういう店だと客同士の触れ合いがあるなんてことをよく言ったりしますが、実際にはそんなふうに打ち解けることはまれであるようです。独り客の集まる店ではないのですね。職場の若い連中にどうよ、こんな酒場もあるんだぞと社会見学の一環で若者を引き連れるおぢさんが痛々しくも張り切る姿を見受けました。でも本当に見知らぬ他人が親しくなれる機会があるのだろうか。そんなことがあるのならな、ぼくの隣に座った可愛い二人と、ぜひ親しく語り合いたかったものです。
2016/09/28
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いやいや、それこそ戦後以降ずっと上野の町は酒場で充満していたのでしょうし、いまさらそれに驚いているわけではないのですが、それにしてもこの界隈には酒場が多い。そして年々その勢力範囲を広げているようだからすさまじいことであります。新興店が次々に開店し、呑み屋街化に拍車を架けているようです。だからといって喫茶店「王城」を包囲する数軒の居酒屋は確かに老舗らしい情緒はありますが、他にはそんなに老舗酒場と呼べるような古いお店はなさそうです。無論、東京どころか日本を代表するようなガード下酒場の代名詞ともなっているらしい「大統領」などもあり、それは確かにいい酒場なのですが、今では酒場というよりは観光スポットとして利用されているように思われてならず近頃はどうも近寄りがたくつい敬遠してしまうのです。 なので上野で呑む際は老舗は早々に諦めて目新しい店を見ると入ることになってしまいます。「もつ焼き おとんば」は、北千住と中山ー総武線の中山ですねーにお邪魔していて、上野店ができていることも知ってはいましたが入るのはこれが初めて。最近北千住を敬遠気味なので今はどうなっているかはあずかり知らぬ所ですが、伺った際は繁盛していたように記憶しています。一方で中山の店舗は居心地悪いくらいに客が入っていませんでした。そしてこの上野店はと言うと中山店と状況は変わらぬように見えます。5時を回ったばかりとはいえ昼間からやってるこの店舗で独りの客も入っていないのはやはりちょっとまずいのではないか。いやちょっとどころか相当ヤバイんではないか。一月前位に通り掛かったときにはそれなりに入っていたように思われますが急激に客が離れるような何事かが起こったのでしょうか。カウンターの奥、隅っこに腰を下ろしますがここはフロアー係の詰所化していてどうも落ち着かないのです。さらに奥にはテーブル席もあるようですが、一階は背後を人が行き来するので出っ張らないよう配慮する必要があります。100円のもつ焼は他店舗同様に悪くないのです。気になったのは店の方たちの態度にあるように思われます。新しく入ったバイトさんがいて、その教育に余念がないのは分かるのですが、どうもその新入りさんが要領が悪くて、イジメっ子の態度で彼に指導するのです。そして彼が持ち場に向かうと、その彼への陰口が交わされるのです。もう少し遅い時間になると無駄口を叩いている暇が無くなるのかもしれませんが、客としてはそういったやり取りは見えないところでやってもらいたいのです。そんな中、独り表で声を張り上げて呼び込みしている外国人らしい女性店員に好感が持てました。 前々から気になっていた中華料理店「昇龍 part2」に向かいます。ガード下のパートなんとかのないオリジナルの店は混み合っていそうなので遠慮しておきます。何よりこちらの店舗は地下にあるのが怪し気で気になるのです。降りてみると案外奥行きがなく店舗が2軒あるだけ。奥が目当てのお店です。店内を見ると何だろうなあ、テーブル席にカウンター席もありますが、独り客はどうやら真ん中に置かれた大きな丸テーブルに着くのが良さそうです。威勢だけは良く出迎えてくれますが、フロアーを担当する方の視線はテレビの野球中継に向いており、仕事への真剣味が足りない。いや、こっそりテレビを見るのがいけないとまでは言わないけれどせめて野球には興味ありませんって振りくらいしてみれば印象も変わるのに、と野球なんかよりニュース番組を見たいぼくは舌打ちをしてしまうのでした。餃子とビールを貰います。餃子はでかいのでまあ値段相応と思うにしても、ビールを始めとした酒の値段は納得しづらいものがあります。しばらくすると次々にお客さんが入ってきてほとんどが酒場使いしているのですが、ここで呑みに徹するのは経済的ではないなあと余計な心配をするのでした。隣席の関西人がここの餃子はすごいんたよ、皆が揃ったら頼もうとさも嬉しそうに話していますが、そこまで旨いかねえ、大きいことは認めますが。期待とは違っていてぼくの好みではありませんでしたが、多くの客に支持されているようだからぼくが変なんだろうなあ。
2016/09/21
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いずれは行こう行こうと思いながらなかなかその機会を得られぬのは、日頃からセコセコと小銭を浪費しているからで、いかにも身から出た錆でしかないのです。だけれど、さすがに都内でも屈指の鰻の名店となるとちっとやそっとの倹約では行けたものではない。というか確かに鰻は好きだし、毎週食べたいとまでは思わぬにせよ、月一位で食べれたら嬉しいと思うのです。よく小説家や映画監督のエッセイなんかを読んでいると、この人たちは一体どれだけ健啖なのかと呆れるよりも驚嘆を禁じ得ぬことがあるのですが、ぼくにはそこまでの精力などありはしない。きっと彼らは脳髄をその隅々まで振り絞って、鰻やら牛なんかの絶倫パワーを奪わずには日々を乗り切れないのかもしれません。それだけの旺盛な生き様をするからこそ鰻やらステーキなんかを日常食にするだけの財をなることができるのでしょう。ところでこの夏は彼らとは対極的なだらけ切った日々を送るぼくにも何度か鰻を食する機会が到来しました。回っているとはいえ寿司にまで出逢えるとは一体ぼくの生活は大丈夫なのだろうか。 さて、この夏、念願叶って訪れることになった鰻屋とは「尾花」のことであります。記憶は曖昧ですが、日本を代表する映画監督の一人、小津安二郎も贔屓にしたという名店であります。この人の食卓もまたわれわれ庶民とは異なる蛮人めいた油分過多のメニューとなっていたようです。その辺のことは関連書籍でも当たっていただければいくらも知ることができるのでここでは割愛します。松戸の年長のガールフレンドとその縁故筋の女性と三人で店に向かうことにします。しめしめ女性が多いと食べ切れぬ鰻のおこぼれがぼくのもとに回ってくるやもしれぬ。ということで夕方5時前にはお店に到着したのですが、すでに1順目の人たちは店内に入っているのが見えます。表にも20名前後のお客さんが今か今かとそわそわした表情で順番待ちをしています。大体想定していた通りなのでわれわれは慌てず騒がず順番待ちの列の後に続きます。こうして鰻の焼ける香りを嗅ぎつつ、日が暮れるのもめっきり早くなってきた季節感を味わうというのも優雅なものです。普段はあくせくと町を駈けずり回っていることもあって、これほどのんびりとした夕暮れ時は久しぶりの気がします。やがて店内に案内されますが、まあ格調の高い日本家屋にありがちなことですが、さほど見るべきものはありません。座敷に低い座卓というのは風流ではありますが、長時間この姿勢を保つのはつらいものです。うざくやう巻などというオプションも魅力的ではありましたが、価格高騰の折にあって余計な品を注文できるほどの余裕はありません。日本酒へと移行したいところですが、いくらか手頃な―それでも世間の相場からは破格であります―ビールの大瓶をいただくことで我慢します。やがて届いた白焼きや並でも4,300円、上だと5,300円と日頃の呑みであれば数軒分になる金額のうな重でありますが、ここまで高額だと感覚も麻痺してきて高い方を頼んでしまうのでした。その旨さをあれこれ語ってみたところで、実際食べたときの興奮を伝えられるはずもない。案の定、女性陣の胃に余った鰻はぼくの元へと回されてきますが、ぼくの胃腸も目一杯になってしまいました。子供から老人まで多くのお客さんがおりましたが、皆さん旺盛な食欲をここぞとばかりに発揮されて、見ているだけで胃もたれしそうになるのが、普段豪勢な食事とは縁遠い庶民の限界と知りました。それにしても日本人というのは本当に鰻が好きなのだなあと再認識させられる一夜となりました。 鰻とか寿司とかって、ぼくも無論大好きなのですが、当然ながら飯物なのでそうそうは食えない。これら日本を代表する和食の中でもとりわけ高級な鰻や寿司をぼくが敬遠するのは、金銭的問題ばかりが原因ではなく、食べると呑めないというジレンマに対して酒を選択したということに過ぎぬということもあります。 そんなわけですっかり満腹して酒の一滴すら呑めない時でもコーヒーであればなんとかなる。というわけで閉店時間は迫っていますが、久々に「オンリー」にやって来ました。系列3店舗の中ではやはりここが一番だなあ。でもここ数年の喫茶店巡りですっかりすれてしまったのか、以前のようには素直に店の雰囲気を愉しめなくなったことを感じざるを得ぬのは悲しいことですが、致し方なくもあります。
2016/09/02
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それを知ったのはやはり酒場放浪記だったのは、鼻先で油揚げをさらわれたような何とも言えぬ無念さと不快感、そして調査力の差が露呈したことの一言で表せば悔しさということになるのでしょうか。先に発見したような気になって得意げになるのは品性に欠ける行為であることは間違いないことです。ましてやそれが居酒屋だったり喫茶店だったりするのだから、程度が低いと言われれば返す言葉もありません。しかも古くからやっている酒場や純喫茶などと呼ばれる遺物に愛着を寄せるのは良いとして、そこがそれだけ長くやってこれたのは世代を越えて多くの人に愛されてきたからであって、それを今更発見なんてちゃんちゃらおかしいことではないか。これが例えば映画となると話は大きく違ってきます。今では世界中の映画ファンから愛されるようになった小津安二郎すら近年まで日本ですら正当な評価を受けていたとは言い難い。鈴木清順だって加藤泰だってそれこそガクンと劣るものの鈴木英夫だってそのフィルムが商品として流通された当初はほとんど評価の対象ではなかったのであって、真に驚嘆すべき映画であると認識されるまでには数十年の歳月を要したわけで、まさしく映画は遅れて発見されるものであるらしいのです。しかし酒場や喫茶店はどうだろうか。太田和彦氏の著作を始めとしたごく少数の居酒屋本は、とても面白いけれど、その太田氏も分析的というか批評的な姿勢の著作はちっとも楽しくない。そもそも酒場という施設が酔っ払うー分析が明晰さを要請するとすれば、酒場は明晰さとは対極にある状態、つまりは酩酊をもたらす場であろうーため、まさにそこにこそ究極的には存在意義があるとすれば、未だ酒場について批評する言葉がないのは当然、いや必然なのかもしれません。むしろ現代的な視点から見るとほぼ同時多発的に発生した喫茶店を足掛かりにすべきかもしれません。といった文章がなんで上野の二軒の焼鳥店の文章書くにあたって綴られたのかは、もちろん酩酊の中で書かれているはずなので理由は語れそうもありません。 さて、肝心の焼鳥店についてとっとと片付けてしまうことにします。これもまた酒場放浪記で目にした酒場を参照しているので、番組を見ていただくのが早いと思います。ぼくも見て、今後はそれなりに店の雰囲気を押さえているように思えました。 ところでパンダ口からの退屈なペデストリアンデッキを越えた先には、呑み屋街というにはまとまりに欠けた寂しい一角があり、そこでも何度か呑んでいます。でも迂闊なことにここは見逃していました。暗く細い路地のさらに奥の裏路地にこれ程味のある店があったとは。しかも焼鳥店が2軒、路地を挟んであります。一軒は番組に出たお店で訪問後に録画を見たところもう一軒はその存在がないものののように撮られていたのには、感心しません。そのお店は「鳥心」といいます。どちらかと言えば格上の格調のある店舗を構えた番組の店よりもうらびれてより庶民に寄り添ったお店に見せるこちらがぼくにはしっくりときます。飾り気なく思いの外に広い店内は長いカウンターといくつかの卓席、奥にはさらに粗末にすら見える殺伐とした座敷もあり、独りカウンターの隅っこで呑んでいると切なくなってくるのです。全般に値段はそれなりですが、焼鳥は大振りで特にツクネだかダンゴはでかくて2本からのオーダーで独り食べるには持て余すほどです。 本来はこちら「鳥清」がこの夜の主の酒場となるはずでした。綾瀬と船橋の酒場を愛する根っからの酔っ払いのおぢさんともう一人職場の女性と三人で呑むことになっていて、おぢさんは先にビールで一杯始めていました。焼鳥はまずまず、値段もまずまずとそれ辺りは番組をご覧いただきたい。書き残しておくべきはここの女将さんのすっとぼけ振りで、長年やってる割にはちっとも手慣れぬその応対は見ていて苛立つ向きもありましょうが、この夜のぼくには微笑ましく思われました。予約ーこんなことしたくないんですけどね、先のおぢさんと腰を据えてじっくり呑みたいがばかりについ禁を破ってしまいましたーの際に混むから盛合せと唐揚は、注文しておいて下さいと言ったにも関わらず、焼鳥は一人前づつポツポツと出て来るし、ほぼ呑み終えたので残り一人前はキャンセルしたのに、席を立とうとした時に出されて、これでご予約の品が揃いましたからと言われてもねえ。あと、入口そばの小上がりは現代人の体格で三人はちょいキツかったかな。まあこれは開店当時の面影をとどめていると思えば楽しかったんですけど。
2016/08/19
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上野の池之端には享保年間創業ーって言っても西暦何年頃なのかサッパリ判らぬのですがー、江戸最古の鰻料理店であるという有名店があって、都内に在住して短くないのだから、一度や二度は行っていてもおかしくなさそうなものですが、ぼくにはとんと縁がなくてこれが初めての訪問となったのです。値段は張るけどたまにこんな老舗有名店で呑めるのは満更でもない出来事なのです。 しき、初めてのチャンスだというのにお邪魔できたのは「伊豆栄 不忍亭」という別館なのは残念至極。やはり老舗は本店に行ってこそナンボのもんであります。ここは何があっても譲れぬところなのでありますが会合での利用なのでぼく一人が騒ぎ立ててみたところで詮無きことだし、他の人たちは別館であってもさほど文句はなさそうなのだから全くつまらない。折角高い金を出すなら歴史の感じられる本店に行きたいと願うのはむしろ自然な考え方ではなかろうか。まあ決まってしまったものにはむかってみても太刀打ちなどできるはずもない。本店にはいずれ節約して行ってみることにしましょう。さて、味気のないビルの二階に案内されるのですがこれまた外観以上に味気ない。どうやら宴席が立て込んでいるようです。たからもうここではこれだというだけでひとまずは満足しておくことにします。来てしまえばどうでもないのがこうした老舗の常だと思えば、それはもう納得できたということになります。だから料理の写真はなぜか肝心の鰻は撮られていません。余分な油も落ちてさっぱりしていたことは覚えていますが、雰囲気重視のぼくにはもはやこれで十分納得なのです。 で、驚くべきことに「伊豆栄 本店」にお邪魔する機会が間もなく到来したのです。だけど正直言って本店だからという感動はまるでなく―というか先般伺った「不忍亭」とほとんど変わることなく上野駅から便利か、はたまた湯島駅かという差程度しかないような気がする―、写真を撮ることさえすぐさま放棄してしまうことになったのでした。その理由は写真でご理解いただければ。近くにもう一軒、別館があるようですがもうどうでもいい。希薄な鰻の記憶はもうこのブログがグルメ系からは、遥かに遠くに来てしまったんだなあと感慨に耽るのでした。今回などはなんたることか鰻どころか飲食の写真すら撮っていないんだからよほどのことです。これだけのお金を出すならいくらでもよい酒場に行けたのにと悔やむのは禁物と思いながら、どうしても言わずにいれぬのでした。
2016/08/18
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上野って町のことどうしても好きになれません。いやいや、確かに機会のあるたびにちょくちょく足を運んでいるし、好きとか嫌いとか語れるほどに上のを知り尽くしているかといえば全く自信などないわけで、それでもあの雑踏の凄まじさは渋谷なんかとはまた違った種類のそれであって、確かにアメ横の界隈を急ぎ足で通り抜けるときなどかつての闇市の名残を感じ取れぬのではないのですが、異国の人がさも愉快そうに誘惑しているのを目にしたりするとこれはやはり現代の日本でしかないのであって、一気に興醒めしてしまうのです。こういう闇市というのは、少しく危険を感じるくらいでないと単なる物見遊山でしかないのであって、緊張感を伴うことで初めてその土地の由来やら成り立ちに思いを馳せることができそうです。今の上野でそうした戦後の趣を留めるのは仲御徒町方面とかパンダ口のペデストリアンデッキを渡った先の一角辺りに見ることができそうです。表通りこそ建物は新しく建て替わっていますが、裏通りにはまだ歩いたことのない路地も残されていそうです。古いビルには地下飲食店街の名残が見られますが、残念ながらその多くは店を畳んでいるようです。でも一軒、ビルに穿たれたトンネル内で呑み屋をやっているのが見えました。ここは入っておかねばならないでしょう。 そのお店、帰宅後に調べると「定食とさぬきうどん 司馬」という店名が付いています。食堂が呑み屋を兼ねることはごく自然で特別なことではありませんが、この薄暗い通路の雰囲気はアジアのどこかよその国の屋台の酒場で呑んでいるような異国情緒を感じるとともに、日本もやはりアジアの一部であることを再認識するのです。一応店舗もあるのですが通路にもテーブルが置かれており、ここで呑んでいるとなおさらにここが東京とは思えぬのです。アメ横にもそんな店舗があって、ぼくも何度かはそこで呑んでみたりもしたのですが、雑踏はともかくとしてゆっくり酒を呑もうという気分にはとてもなれぬのです。それに引き換えこちらは繁華街から外れた町の片隅で人知れず営業しているという哀感が漂っていて、しんみりと呑むのにも適しています。店のオヤジも適度に愛想が良くてこういう店のオヤジが醸すギスギスした感じもなくありがたい。カウンターだけの店内は独りで呑む常連、表はグループというように何となく棲み分けもあるようで、それさえ心得ていれば酒の肴も揃っているので常識の範囲内でまったりと呑めます。〆にはやはりうどんをいっておきたい。って、日頃店の看板商品など知らぬ存ぜぬを決め込んでいるぼくが言うのも口幅ったいのですが、お値段が手頃なので珍しくも迷わず注文します。カレーうどんを食べた記憶がありますが、定かならず。うまかったような気がします。ハシゴの〆にも重宝しそうなお店でした。酔っ払ったせいもあって写真が少なくて面目ないことです。
2016/08/17
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日暮里駅で途中下車して、ぶらりぶらりと歩き出していました。こう書くとまるでとんでもない暇人と誤解を受けそうですが、実際にはそれほどまでに自由を満喫出来る身分でもなくて日常だと夜のほんの一時だけが自由を享受できる程度のものです。そんなわずかばかりの解放感とそれが時間制限ありという忙しない気持ちの間に揺れつつも、この一時を最大限に味わえる場所を求めて日暮里駅で下車したのですが、もとより日暮里にそんな安住の地を求めるのは誤りだったようです。日暮里の町が基本的にはそんな小市民の小さな幸せをもたらしてくれはしないことなど知っていたはずなのに。そんなわけで足はやがて日暮里を過ぎ去り、入谷へと踏み入っていたのです。いや、駅で言えば入谷駅ももしかしたらまだ結構遠いのかもしれません。そんな今となっては再び辿り着けるか少しも自身の持てないような住宅街の裏通りにポツンと一軒の中華料理店を見つけたので入ることにしたのでした。 そのお店は、「一兆」というなかなか威勢のいい店名を持っており、実際古びて入るものの間口の大変広い個人店舗としてはかなりの規模のお店でした。そんな50人は入れそうな大きな店なのにお客さんが家族連れ一組というのはいかにも寂しいことです。この家族もどうやら店の方と縁故があるようです。店内も近頃は有り難みすら感じるような旧態然とした枯れた雰囲気で、当時は実用一辺倒だったはずですが今では愛らしさすら感じさせてくれるデコラ張りのテーブルやパイプに合皮の椅子が雰囲気に彩りを加えています。そんな贅沢極まりない店のほぼ中央の上席を陣取りビールをグイッと呑むその幸福たるや何物にも変え難いというとちょっと褒め過ぎかもしれません。やがて焼き上がった餃子が届くと、近頃食傷気味であった餃子がすごいご馳走のように思われるのです。テレビでは普段なら映った矢先にチャンネルを回してしまうーこのチャンネルを回すという言い方もすでに死語なのでしょうねーナイター中継こそが日本のお父さんの夜何だよなあとしみじみ感じ入ってしまうのはぼくもオヤジになったということに違いありません。ネットで調べたら引っ掛かってきました。でもこういうお店はたまたま夜の散歩の途中でたまたま出会うことこそが相応しいと思われたのです。
2016/08/04
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谷根千とかいってマスコミでも物見遊山の客でもとりあえずはどっちもいいのですが、どうしても許せぬことがあります。いやいやぼくにとっては谷根千とか呼ばれる町など正直言ってさほど好きにもなれぬ町でしかないのですが、それでもやたらと人気の町だなどと持ち上げられるのを目にしたりすると、もしやこの町にもぼくの知らぬ懐かしい何かがあるのではないかと見入ってしまうのですが、それはほとんどが旧知のものでしかも少しも懐かしくないとなると文句の一つも吐きたくなるのです。いや確かに先般初めて訪れた「ときわ食堂」を起源とした居酒屋さんにはテレビででも紹介されていなければなかなか思いきれていなかったことでしょうが、なんでここにというトピックばかりが報じられることのいかに多いことか。そしてそんな約体もないお店に出向いてしまう人のいかに多いことか。 そんなに懐かしい店に行きたいなら黙って「キッチン マロ」の暖簾をくぐればいいじゃないか。レトロって言葉は大嫌いですが、ぼくが認識するレトロはここにあるのです。レトロなるものを求めるなら、テレビなんかで見たあすこやそこの店になど目もくれず、気づかぬうちに吸い込まれてしまうのが当たり前ではないだろうか。なんて大言を吐いていますが、だったらお前はこれまで入ったことがあるのかと尋ねられると黙りこくらざるを得ないのがお恥ずかしいことです。ずっと気になりつつ呑めるか呑めぬかが定かでないからといって入らずに済ませていたのは、いかにも言い訳がましいことです。でも大丈夫、種類は限定されるもののちゃんと呑めます。メニューはそれほど多くはありませんが、しっかりと単品もありますので呑むには不自由しません。こんなことならとっとと来ておけば良かったなあ。手頃なメンチカツを肴にします。目の前でミンチ肉などを両手でペンペンと空気抜きしたばかりの揚げたてが3つとはなかなか充実しています。テレビの真正面の特等席であろう卓席で先客の御老体が食後のお茶で一服中、ぼくはその後ろの卓にてその姿とテレビを行ったり来たり。列車のボックスシートを独占するような贅沢な気分になれます。帰りマッチの詰まった箱があるのを察知していましたので、貰うつもりでしたがご主人とうっかり話し込んでしまい貰いそこねてしまいました。まあきっと次の機会があるからいいか。
2016/05/13
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湯島で会合となれば、中華料理の巨大店舗が筆頭に挙げられますが、実はこの中華料理店にはこれまで一度も入ったことがなくて、宴会メニューなので料理そのものにはさして期待していません。とにかく店の内装などの雰囲気を堪能すればそれで良いと思ってました。不忍池を上野駅から回り込むようにしてのんびり歩くのは悪くないものです。アメ横などの雑踏がかつては面白いと思えていたのが、今では面倒と感じるばかりなのです。広小路の呑み屋街の客引きの群れとも無縁なままに人通りも少ない道を歩きます。やがて巨大なビルが見えてきました。あれご目指すべき今夜の会合の会場のようです。 言わずと知れた「東天紅 上野店」が迫るにつれて、気持ちの中に幾分足りともあったわくわく感にガッカリ感が取って代わります。気取った面白みのないホテルのような建物には微塵足りとも遊び心がないように思われ、いかに多くの客を受け入れるかばかりに腐心したような造りです。やはり中華料理を食べに来たのだから、それに相応しい店舗であって欲しいと思うのはそれ程に過大な要求とは思わぬのですがいかがでしょうか。もはやすっかりこの中華料理を供するだけの巨大会議室ビルには興味を失ってしまったのですが、金額次第では貴賓室みたいな部屋の用意もあるんでしょうか。ちなみに予想はしていましたが、出される料理は「銀座アスター」の劣化版といった程度で、まず自腹で来ることなどなさそうです。やはりぼくにはそこらにある町場の中華がお似合いのようです。 酒だけはたっぷり頂いたのですが、どうにもこのまま引き上げる気にもなれず、上野駅までの道すがらに居酒屋を探し求めました。で行き着いたのは「赤提灯」でありました。湯島といえば大人の町の印象がありますが、この場合の大人というのはただ単に年をとっているだけではまるでダメで、紳士としての振舞いを外観だけでなく内面からも匂わせていなければならないのであります。ぼくのようなとっちゃんぼうややチンピラおやじは大人とはとても言えぬのです。なので湯島では滅多なことでは呑みませんが不良中年でも受け入れてくれる懐の深い酒場がここ「赤提灯」なのでした。ここで過去形になるのはこのお店、数年前に腐れ中年たちの願い虚しく店を閉めてしまったのであります。でもそれは恐らく移転を前提としていたのでしょう。見事、かつてとは違っているのは当然にしてもそれなりの酒場感をとどめているのは、ここのオーナーは呑兵衛の性癖をよく心得ておられる。肴だって少しも旨いわけじゃないけれど、琴線をくすぐるような品には事欠かずまさに酒場に来ているのだという今となっては郷愁に近い親しさがあります。店の人だってちっとも愛想なんて良くないんだけど、その堂々たるガサツさには実の親に叱られているような懐かしさを感じるのです。移転しても大衆酒場を装う数多のチェーン店のようにならぬのは、まさしくこうしたおっちゃん、おばちゃんたちの身に染み付いた酒場的としか言えぬなにものかがもたらしているようです。
2016/05/06
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下町情緒を今に残す佇まいとやらで日中は、多くの観光目的の客で溢れかえりそれこそ土日になると国籍や老若男女を問わず狭い路地を行き来して、祭りのような活況となる谷中の町ですが、平日の夜の様子はお寒い限りです。特に呑み屋の疎密さと言ったら腹立たしくなる程で、浅草なんかを例外にすると古くからある町というのは案外夜はひっそりと静まり返ることが多いように思われます。ところが、そんな谷中のメインストリートである谷中銀座に呑める店―それもお手頃に―ができたというので行ってみることにしました。これは実は食べログのニューオープンによる検索で知ったものでした。夕焼けだんだんとか呼ばれる階段手前には初音小路も惹かれますが、お手頃さだけが目当てのぼくのこの夜の財力ではちょっと分が悪い。そういえば駅からすぐにあった日本酒の銘柄を数多く揃え、肴の美味しいことで定評のそば屋が見当たらなかったな。まあ何度か行ったきりで近頃パッタリと縁がなくなったから気にせぬこととします。さて、階段を下り商店街のどんづまりまで来ましたがそれらしい店は見つからず、やっと見つけた看板は食べログ情報と合っていますが、とても居酒屋には見えないし、第一やっていないのではこれ以上如何ともし難い。果てさてどうしたものか、困ったなあと谷中銀座と垂直に伸びるよみせ通りをふと見渡すとすぐの所に立ち呑みの店がいつの間にかオープンしているではないですか。 「Music Standing Bar E-YANAKA」とかいう店名だったでしょうか。谷中に勝算を見出したような姑息な計算で始めた店のようにも思われ、普段であれば余程のことがなければ寄り付きそうもない、はっきり言うと苦手な雰囲気です。実際、椅子付きの奥のカウンターで呑む連中はさも常連でございといった我が物顔の振舞いが目立ち好感が持てません。酒場といえど公共の場なのだから最低限のマナーは守ってもらいたいものです。さて、開店したばかりの店を腐すのはこのくらいにしておいて、店そのものに目を向けることにします。カウンターに島のテーブルがメインで長居したいわけでもないぼくは島のテーブルに場所を確保します。頭の上にはミラーボールが煌めいていて、これがMusic Standing Barたる所以だろうか、それにしてもBGMが流れていた記憶はないのです。店長風にキビキビと立ち回り、気持ちよく客と応対する方が主人かと思ったのですが、もう一方、酒を運ぶばかりでむっつりした方がオーナーとのこと。このお店は4月1日オープンしたばかりとのこと。かつては薬局だったそうです―店の奥はすぐに茶の間になっているそうです―。六本木で店をやっていたマスターー見た目は永ちゃん風ーが薬局をリノベーションして、シャレオツ立ち呑みを始めたばかり。早くも常連多数、早くも折りたたみイス完備となってこのまま健闘できるかは、常連たちに掛かっているのかもしれません。
2016/05/05
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御徒町でわざわざチェーン店に行くか? 普通だったらあえて行かないでしょ。それでもどうしても行かざるを得ない時ってもんがあるらしい。いやいやもともとどうしても呑まなきゃならないなんてことは社用で仕事の延長でもない限りはないはずだ。ぼくなんかはどうしても毎晩呑んでしまうアルコール依存の人なのでいまさら取り繕ってみてもどうにもなりはしないーと書いておきながら、検診前に一週間程度抜くのはそんなに辛くないよ、まあそんな時に限ってお誘いがあるもので断酒を続けることはないんですけどー、と書いていながらこれの話題は本筋から脱線してますね。とにかく言いたいのは御徒町で迂闊にもチェーンの酒場に立ち寄らざるを得なくなってそれでしっかり呑んじゃったということだけなんですね。 そのチェーン店っていうのが「加賀屋 御徒町」だったら、ああ何だと言われてしまいそうですが、まあそういう事なのです。以前から「加賀屋」だったらまあ外れはあっても大ハズレはないということで、こういう暖簾分けのお店のようなブレのある楽しさはやはり若干ではありますが緊張感がある。露骨な店名を出すには憚られますが「○民」とかゆうような店には少しのときめきもない。大失敗の緊張さえない酒場なんて酔っ払いの行く酒場とは無縁なはず。とにかく赤い灯火に促されるがままに、どこも変わらぬチェーン店の誘惑など払い除けて見知らぬ酒場に突入するべきなのです。初めての酒場の酒はどこのどんな有名銘柄酒の独特の芳香などとも全く無縁な、その店にしか出せぬ独特の風味を醸すようです。時の経過が店自体を熟成させ、壁や天井、とにかくあらゆる箇所に染み渡って、酒を呑むという行為には店の長年累積された時間の経過も呑み込むことに繋がっているのかもしれません。というような事を呑みながら書いたらしくちょっと振り返るとワケが分からなかったりしますが、あえてそのままに放置することにします。ともかくこの定番酒場はけして悪くない。地下への階段を降りると思いのほかコンパクトな店内が広がりそれこそ老若男女がみっしりと客席を埋めています。案内された隣の席ではギャルたちが大量食いの痕跡を留めつつデザートのつもりなのか揚ラビオリをむさぼり食うのです。ぼくにとってはこれで2杯は呑める肴でも、若い女性にとってはスナック菓子と同じようなものなのでしょう。手短にするつもりが長くなってしまいました。やはりこの系列は似ていながらも微妙な差異があって飽きさせません。最初は他店舗との再探しを楽しみ、それに飽きたら定番を味わうといった一粒で二度楽しめるお店なのでした。
2016/05/03
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仲御徒町は夜でも昼でも何だか人通りがまばらで、なのに台東区という土地に妙なー在住の方には無礼な偏見でありますがー期待感があって、場末めいた酒場が必ずやまだまだたくさん埋もれているはずだ、という事は先日訪れたばかりの小さな食堂に出会った事がますます確信に結びついてしまったのだから難儀なことであります。そんなあいまいな思い込みなど、夢幻であることなど散々ぱら経験しているくせにそれでも足が向かってしまうのは、巡礼者のそれに近いものがありそうです。 最初に入ったのは酒場ならぬ中華料理店でありました。「中華料理 勝太楼」というそのお店の構えはやはり溜まらない魅力を放っています。店内に入らずとも感じられるひっそりとした店の気配はぼくを瞬時に捉えました。でもいきなり中華というのもどんなもんだと抗ってみたくなるところですが、やはり結局はその魅力に流さざれるを得ないのです。店内はすごいいい感じ。広大な中国にしては狭い店内ですが何だか本当に中国にこんな店があっても不思議じゃないように思えるほどです。お店の方以外には誰一人いない店内にて、孤独に佇むとまるで知らぬ国で呑んでいるかのような充実感を覚えるのです。酒を呑むという行為が祝祭での特別な出来事だった時代など知ったことではない、日常と地続きのありふれた、でも一日一日が特別だと感じられる者にとっては特別な時間が過ごせる、そんな心持ちを後押しくれるようなお店でした。デタラメに書いていてしかも読み返すこともしないので文章は無茶苦茶ですが、そんなところです。ワンタンはとにかくすごいボリュームなので胃袋に余裕を設けてください。 長くなってきたので次は手短に。「武井食堂」って店に入っちゃいました。ガラス張りの町の食堂って雰囲気ですが、今では牛丼チェーンを筆頭にどこも似たりよったりでうんざりしてしまいます。ここは、同じ表から丸見えタイプの店でも全く違う年季の経験値がしっかり活かされているのが感じられます。整然としたお店なんですか、どこか懐かしいのは何なのでしょう。とにかくここは好きでした。また来たら寄ります。多分。東京なんてこの程度の町ですいや町じゃなくて町をガンジガラメニシテイル行政が悪すぎるのだなんてことを言ってみてもしょうがないのでここならのんびり独りで呑めることだけ記録しておきます。
2016/05/02
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上野には飽き飽きしているので、つい駅を背にして人気のない方へと足が向いてしまうのです。歩くのはいいのだけどあんまり行き過ぎてしまうと帰りが大変です。こうして通ったことのない道を歩いてみたところで、何か発見するなんてことはまずあり得ないのにそれでも夜の散策の楽しみは何物にも変えがたい―それはいささか大袈裟すぎるか―。そんな風に思うことで自分を鼓舞して歩くのですが、突如として激しい空腹に見舞われてしまい、あっさりと決意を捨てて視線に飛び込んだ定食屋とかいう何だかいい加減な店名の店に飛び込むのでした。ガラス越しに団体さんがパーティーしてるので、呑ませてもらえることは間違いなさそうです。 「おくふろの味 定食屋」はおふくろならぬオヤジが一人でやっているそれなりに収容力のある新しいあまり味気のないお店でした。いくら腹が減ったとはいえ誤ったかとすぐさま後悔が脳裏を過ぎりますが、この期に及んで店を出るわけにもいきません。ウーロンハイとコロッケなんかを試しにオーダーしてみました。すると何たることか、焼酎瓶ごとと烏龍茶のペットボトルをテーブルにドスンと置かれるのです。氷はいるとの問い掛けに瞬時に事情を察したぼくはもちろん氷など貰うはずもありません。適当に作って呑んで、何杯呑んだかは数えといてねと容易に推測できるありがたいお申し出であります。梅割りみたいなほとんど透明なウーロンハイを作るかといえばそこまでは卑しくありません。ジョッキ半分くらいしか焼酎入れてません。あんまり濃いと身体壊しちゃいますから。さて、300円だかのコロッケも何とも立派なこと。こちらはどうやら食堂と弁当屋を兼ねているらしく、どうしても手間の掛からぬ揚げ物が多いのですが、それにしたってちゃんと手作りのコロッケ何だから文句などあろうはずもない。いい酒場に行った時の決まり文句になっていて、われながら芸がない、いや表現力のなさにげんなりしますが、それでも言ってしまいます。うちの近所にこんな店があれば足繁く通うのになあ。近くなくても懐が寂しい時にはお邪魔することにしようかな。財布に優しい気のいい酒場でした。
2016/03/25
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浅草橋で一杯呑んで酔いざましというわけではないのですが、ぶらぶらと特に目当てもなく歩いていた時でした。どうしてこれまで知らずにこれたのか、なぜこれほどまでに抜群のビジュアルであるのに世間であまり知られていないのか、これは営業しているうちに必ずや訪れなければならない、いやいや訪れないでおくものかと思ったのも今は昔のこと。昔と言うにはやや大袈裟に過ぎるけれど、いかに酔っ払っていたとしても、その店が幻なんかでないことくらいの鮮明な記憶がありますし、これだけのインパクトはそう滅多にあるものでもないのだから忘れるはずもありません。どうして来なかったか、面倒という場所でもないのだから早々に来ておけば良かったのに。答えとしては単に忘れていたとしか言いようがありません。たまたま数日前にお通しに出たわらびの水煮に醤油をまぶした簡単な品を摘んで呑んでいるときに、突然記憶の片隅から愛おしいイメージとともに脳裏に噴出してきたのでした。そうなるともう我慢ならぬ、ただしこうしてわらびを摘んでいる時分に行ってみたところでやっていないに決まっています。という訳でその翌日早速行ってまいりました。 どうですかこの眺め、あまりにも愛らしい姿ではありませんか。「わらび食堂」とトタン看板にありますね。足繁く通うなら、わらびちゃんと呼びたくなるほどの愛嬌ある店構えです。岡本喜八の『大誘拐』での北林谷榮のようなしっかりしているのに可愛げを失わぬ姿を見ているようです。店内のこぢんまりとしながらもひとつの世界として成立しているさまはまさに食堂空間のひとつの理想形とも言えるでしょう。こういう小体な家庭的なお店もあれば、王子「山田屋」、川崎「丸大ホール」のようなオオバコもいい、荒川区や北区などのかつての工場街にあるような―北赤羽の「しん」など―実用一辺倒の殺風景な店もたまらない、もしかするとぼくにとっての酒場の理想形は大衆食堂にのみ残されているのかとさえ思ってしまいます。さて、店の素晴らしさは写真で一目瞭然でしょうから手短おくとして、こちらは店に比べると随分お若い主人が作る料理のボリュームが大したもので、この日の日替わり定食の単品として出されていた茄子とピーマンの肉詰めが大層旨いのてす。きっと別に特別な魔法のスパイスなどまぶしているわけじゃないんでしょうが、ちゃんと調理されたものは素材がそこそこでも旨くなるということなのかもしれません。そこそこの素材でなければこの値段で出せるはずもない、いや実は慈善事業なのだろうか。昼間は分かりませんが夜のこの店は静かです。他の客は昼夜としばしば通われているらしき老女で新聞を眺めたり、主人と喋ったりしながらのんびりしたペースで焼酎を呑んでいます。とにかくここは見かけだけじゃなくソフトウェアも抜群に良いのです。機会があればぜひお出掛けください、なんて書くと店の方にも常連さんにも迷惑なのだろうか。
2016/03/17
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どうして仲御徒町で呑むことにしたのか、マメにテレビをチェックしてる方ならすぐにお判りだと思います。お判りにならない方のために念のため申し上げておくと、吉田類氏の例の番組で取り上げられた酒場があったのでした。独りで行っても良かったのですがO氏が呑めるようなので一緒に行くことにしました。ただ映画を見てから来るとのことなのでしばらくは独りでどこで呑んで待つことにしました。この界隈はそこそこ歩いていますが夜に彷徨うことはあまりないので、呑む前に歩いておくことにします。明るいうちには分からないものですが、夜になるとちらほらと酒場らしきものが出没しだすようです。 とある酒場が路地のかなり向こうに見えています。何となく寂しげな佇まいなのでちょっと気になり寄り道してみると店先に置かれた看板に品書が貼られていてそれを見る限りではなかなかお手頃のようです。「つくし」というランチもやっているお店です。店内にはカウンター席がなく、テーブル席のみです。まあ、追っかけ他のお客さんが来たなら相席を申し出ればいいと4人掛けの席に腰を下ろすとします。テーブルが5卓あるだけの狭い店ですが、それにしてもお客さんが良い具合に入っていて、この尽くが常連さんらしく互いに名前で呼び合っては他愛無いおしゃべりに興じています。女将さんも明るくてキビキビとしていて好ましい印象です。さらには表の看板で見たとおりに肴が豊富でお手頃なのはなるほど連日通いたくなるわけです。でもこの日のぼくの体調はどうも今ひとつで、一向に食が進まなかったのはもったいないことです。もう一度来ることがあるかは覚束ないところですが、地元の方の憩いの店として長く続いてもらいたいと思うのでした。 さて、時間になったので「酒処 さくら」を目指します。すぐそばに焼鳥の酒場があってむしろそちらに興味が湧いたのですが、一度は行っておいても良いでしょう。暗い道をO氏が歩いてくるのが見えます。早速店に入ってみることにします。表か見た限りはこれと言って変わったところのない新しいお店です。店先の足元を照らす照明が高級そうな印象で、一人だとちょっと入りにくいかもしれません。入店してすぐに足元に転がっている洋ナシ形の照明を蹴飛ばしてけたたましい叫び声が。どうやら女将さんらしい。若くておきれいであるがなかなかにわがままな方のようです。テレビ見て来たんでしょと先制攻撃を浴びますが、そんなときは慌てず騒がず素直に首肯すればよいのです。来ないでよねえ、と別に嫌味ということでもなさそうに仰られる。首を縦に振ったものの実のところは、番組が放映されたとはいえ、それを見ているわけではなくHPで目にしただけのこと。なので、懐をあっためて訪れた訳ではないから、O氏を差し置いて独りで来ていたらえらく面倒なことになったのは容易に察せられます。一言で言えばお値段に難ありなのです。われわれでカウンター席は塞がったのですが、皆さん随分とゆとりのある生活をしておられるようで羨ましい限りです。
2016/03/16
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新御徒町は酒場が少ないのです。だから好んで足を運ぶことはあまりなくて、浅草で呑んだり、飲んだりしながらブラブラと上野に向かって歩いていて、たまたま見掛けた酒場にフト気が向いて入ることがある位です。そうそうこの夜行った酒場も上野駅を出て、宮殿風喫茶の名店「古城」にてO氏と所用を済ませてから向かったんだっけ。これほどに味のある酒場がどうしてこれまて放置されてきたのかと感じなくもないのですが、昭和の酒場を当たり前にしてきた人たちにとってはこの酒場は特に贔屓にすべき店ではないのであろうかと疑問に感じるほどにあまりにも知られていなさ過ぎるように思われます。 そんなことはないはず。この一軒家の切なくなるほどに稀有な佇まいを見つけてしまって、無視することのできる方は、このブログとは正直無縁かもしれません。なんて大上段に構えてしまいたくもなるようなそんな素晴らしいお店が「大衆酒場 つちや」であります。このお店、初めて見たのはいつのことだったか、でも間違いなくそれは昼間に目撃したのであって、昼間はここが一体どういう家屋なのか外観からは全く分からないのでした。看板ばかりか暖簾や赤提灯といった符丁が何もない所から酒場と推測するのは困難で、渋い家屋があるなあと思うしかないのでした。実際呑むために訪れる町としての役割はこの時失しており、再び今度はたまたま夜に訪れたのは単に気まぐれに過ぎなかったのでした。夜にだけ姿を露わにする酒場はたまにあるのですが、ここ程に鮮烈な印象をもたらす事は稀だと思います。さて、肝心の店の話を書いている暇がなくなってきました。まず、オヤジさんがいい。真剣な表情で押し黙っていたかと思いきや、突然テレビに反応してニヤリとし茶目っ気たっぷりに語りかけてきたりもする。肴も手頃な値段で理想的ですが、何より嬉しいのが焼酎の量、奥の茶の間に金宮の一升瓶が見えるのできっと焼酎は金宮なのでしょうけど、これを大きめのロックグラスで量り売りしてくれるのです。それもグラスの縁まで並々と。いやはや書いているとまた行きたくなって来ました。今晩行っちゃおうかな。
2016/03/02
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日暮里駅を出て夕焼けだんだんと名付けられているらしい、まあそれなりにステキな景観を持つ階段を降り人通りの少ない平日夕暮れ過ぎの商店街を抜け、夜店の意味するのがこの夜店だとしたらいくらなんでも寂しすぎるのではなかろうかというよみせ通りを谷中方面に進んでいくと古い中華料理店や洋食屋があったりしてまずまず情緒があるのです。でも残念なことに居酒屋はそれ程多くなく、その何軒かにはお邪魔しているけれど、これから伺うつもりのお店のことはなぜか見過ごしていました。今週の酒場放浪記で紹介されるらしい―この記事をアップした時にはすでに放映済みのはず―ことを知り、放映後の混雑を避けるため先回りして行ってみることにしたのでした。カンニングみたいでちょっとズルッこいし、自らの脚で出会ったという歓びは初めから捨てざるを得ませんが、それもやむなし。思い立った時に行っておかねば機会を逸することしばしですから。 そんな訳で、日暮里駅から歩いてとぼとぼてくてくと歩きこんだ正直食傷気味の道を脇目も振らず歩くことになったかといえばさにあらず、少しでも変化を付けようと谷中霊園を通り抜けて「谷中ときわ」に辿り着いたのでした。1966年開店との調べ通りになかなかに枯れた風流があり、まずは来ておいて間違いでなかったとほんの少しだけたまには酒場放浪記も役に立つなと独りごちるのです。がしかし、何か違和感を感じるのです。それにしてもなんで気付かずにいたかなあ。暖簾をくぐると思いも掛けぬ光景が目に飛び込むのです。「ときわ食堂」からの暖簾分けしたお店との紹介があったので、てっきり大衆食堂風の構えかと思ったら全くもって小料理屋の体裁なのです。間口が狭いのでテーブル席が一列づつ4、5卓並んでいるのかと思えばさにあらず、カウンターにわずかに6,7人も並ぶといっぱいという窮屈な店だったのです。さらに大体がこの界隈の店は空いているし、しかも一部例外的に有名な「ときわ食堂」―町屋のとか巣鴨、浅草辺り―以外は決まってガラガラなので、狭いとはいえカウンターびっしりと人がいたのには、げんなり。しかももう一人位入りそうに思えたので店の方に大丈夫か尋ねるとどうぞというのに席が見当たらぬ、じっとこちらを振り返る二人のオヤジ客の顔を見つめると、しばらくは白を切って見せたものの、構わずじっと見つめ返すとやがて観念したかのように二人の間から椅子が出てくるのでした。後で酒場での振る舞い方やら酒の呑み方の講釈を夫婦者に語っていたけれどそれ以前に己の態度を見直してほしいものです。さて、長くなったのでメインは簡単にしてしまうという怠慢を許していただこうとは思いませんが、普段使いにはちょっと厳しい。というのも魚介を中心にした肴の質は上々ですが、値段が結構張るんですよね。両脇のオヤジたちは豪勢にやってましたが、懐具合がいいんでしょうね。ついつい年金の不条理に思いが巡ってしまい、虚しくなるのです。それにしてもあんなに大人しいご主人、放映では言葉を発するのかしら。
2016/02/17
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久し振りに湯島にやって来ました。湯島という町は湯島天神とラブホの町というのはあまりにも大雑把な括りですが、元来、多くの参拝客が訪れるような観光地としての役割を担うような神社の周囲には歓楽街が寄り添うように発達するのは何処も変わらぬことです。そんなわけで当然ながら湯島にも数多の酒場があるのであって、それなりに寄せてもらっているのであります。しこしどうも高いお店が多いようなのです。ようなのではなくて、ハッキリと安くなくてもちろん例外のお店もあるにはありますが、そう始終遊びに行こうという気にはなれないのでした。でも稀には誘われて呑みに行かざるを得ないといった状況に陥ることもあるのであって、しかも時間も早くはないので東京メトロの千代田線の池之端側の出口を出ると、すぐに目にすることになる酒場に入ることにしたのでした。 後で調べてみると「備長炭 焼き鳥 呑ちゃん 湯島店」といういかにも有りそうな凡庸な店名のお店でしたが、外観もまた最近多くなった一見すると味が有りそうに見えても実のところは単に安普請であるに過ぎないつまんない店に思われました。それだけ店の良し悪しを選り好みする時間がもったいなかったのでした。でも店内は思いがけずいい雰囲気の侘びしさが漂っています。この三和土の寒々した感じが好きなんだよなあ。この感じはどうなんでしょ、皆さんお好きなのかなあ。変に洒落た床材で見掛けだけ綺麗なのってのは酒場には不釣り合いに思えてしまうのです。まあ実際のところは、時折、めっきり近頃店舗を減らした「白木屋」のあのソファの腰を下ろす時の不気味さと同様に衛生面にどうしても不安を感じるのです。散々汚い店を渡り歩きながらもそれはどうしても気になるのです。若い中国の方が夫婦でやっていていかにも居抜きでやってるのですが、案外悪くない。幼い娘さんが学校帰りに立ち寄っているのですが、これもよく中国の人の経営の店で見かける風景ですが、この子たちしくださいは大丈夫なのだろうかと思いつつも、いい意味で店のマスコットとして活躍しています。主人は目付きが鋭いけど、奥さんは陽気でまあ悪い店ではありません。職場が近ければたまに寄ってもいいかも。まあ職場が近くないから今度はいつのことになるのやら。
2015/12/17
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上野駅界隈はいつも大変な賑わいで、正直気持ちが下がり気味の時にはどうにも億劫になり敬遠してしまうのですが、こと浅草口側は独特の暗さに覆われていてふと気付くと足が向かっています。かつて立ち寄ったビルの地下にある居酒屋は店をたたんでしまったようですし、その隣のホテルも閉業したらしく、このホテル併設の食堂で呑んだことが思い出されます。さて、街灯も疎らな北に向かって歩けどもこれといった酒場があるわけでもない。味のあるスナック街がありますが、気がそそられはするものの照準外なので、歩を緩めて通り過ぎることで我慢します。昭和通りを駅方面に引き返していくとけして新しくもなさそうながら、なんだか素っ気なさ過ぎる程に殺風景な居酒屋がありました。一見したところは立ち呑み屋のようにも見えます。 「ヤスキチ」という店名のお店です。立ち呑み風ではありましたがちゃんと椅子もあります。二階席もあるようですが、従業員は一階にいる二人だけのようなのでオーダーが通りにくいことあるんじゃないでしょうか。店内も至って簡素な造りで、およそ装飾とは無縁の何とも白々しい雰囲気です。こういう店で呑んでいると心が荒んでくるのですがそれはそれで酒場らしくて実は嫌いじゃないのです。喫茶店だとこういうのに出逢うと途端に機嫌が悪くなるのですが、酒場ではそうはならないのは不思議なものです。酒も肴も工夫何もあったもんではないのですが、こういう店で凝った料理なか出されたりしたらかえって面食らってしまうことになります。窓際のカウンター席で不愉快な表情を隠しもしないおっさんを見かけた方がいたら、それはぼくだったかもしれません。いや、この店のカウンターには夜な夜な孤独な怒りを胸に秘めたハードボイルド中年が屯しているのでぼくを見極めるのは困難に違いありません。実際はささやかな小遣いをやりくりするしょぼくれたおぢさんでしかなく、実際ガラスの向こうを通り過ぎる通行人も心無しか視線に冷たいものが混じっているようです。 ああ、こんなことなら移転前の枯れた店舗に行っておくぺきであったなあ、などと後悔してみたところで時すでに遅し。行っておくべきだったなあは、「カミヤ 上野店」の旧店舗のことで、こんなことならが意味するのはカミヤ定番の10本縛りのことで、浅草橋の店舗では本数を指定できるのですが、ここ上野店は大部分の店舗がそうであるように座った以上は10本が必須となるのでした。これは年のせいかそうはつまめなくなりつつあるぼくには辛い。店内は大衆酒場の体裁は保っていて心意気は買いますが、折角の長年堆積したオリのようなものを再現することはかなわない。それは致し方ないことだし嘆いたところで取り戻せるものではない、それを知りつつ愚痴ってみたくなるのはハードボイルドと縁遠いかも。カミヤというどこかしら攻撃的で尖った店名には似つかわしくないのんびりとした家庭的な雰囲気が心地よく感じられるのは、弱さの証左かも。懸念していたもつ焼も小ぶりだったこともありますが、いつしかすっかり平らげていまい、でもこれ以上は時間を置かねば腹に収まらぬと上野駅から次の町へと向かうのでした。
2015/10/10
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都内を散策しているとそこここで韓国人街に行き当たるものです。なので都内の初めて歩く町で韓国人街に行き着いたところで今では少しも驚かなくなりましたが、ぼくが上京して初めて意識して都内を歩き始めた頃に東上野のコリアンタウンを目にした時は、これまで暮らした町では目にしたことのない飲食店や食料品店などが狭いエリアに密集してあることに驚愕したものです。その後都内のみならず日本各所で同様の町を知るにつれ、当時感じた新鮮さは影を潜めてしまいつつあるのが残念なことです。特に日本の韓国人街はどこもかしこも似たりよったりの印象があって、変化に乏しいように思われるのです。特に飲食店は判を押したように画一的で、韓国料理の多くが案外お手軽に食べれるようになった現在にあっては、敢えて呑みを目的に立ち寄ることは稀有なことになっています。 そういえば韓国料理の飲食店で立ち呑みって見たことがないような気がします。韓国人のやっている立ち呑み店は行ったことがありますが、キムチやチヂミなどが日本的な定番ツマミに交じる程度でより本格的な韓国料理を出してもいいんじゃないか、大体が宮廷料理などは別にして多くの料理が調理も簡単で屋台料理程度に手軽な印象があり、常々立ち呑みに向いてると思っていたのです。で、仲御徒町にそうした店が誕生していたかというとそういうわけではなく、まったく逆に焼肉店がひしめく中、かなり本格的な焼鳥店「孫市」を見掛けたのでした。町のど真ん中にある共同便所をちょっと拝借、ホッとして改めて見渡すと混沌とした景色がやはり面白いなと眺めるまでもなく、視線の先に通路に椅子を出した半屋台状の焼鳥店がありました。また熱帯夜の続くうだるように暑い夜だったのでしばし躊躇しますが寄ることにしました。3席程度しかなかったと思いますが、1席空いています。背後からは工事現場にあるような巨大なサーキュレーターが唸りを上げ、涼感に寄与しているのかは甚だ疑問ですがそれでもないよりはずっと快適です。若い店主は日本の方のようで寡黙で真摯な仕事っぷりに思われます。実際焼き上がった焼鳥はちゃんとしていて、居酒屋のそれというよりむしろ滅多に行くことのない焼鳥専門店のモノのようでした。弁護士をしているという在日韓国人たちの会話に耳を傾けつつ、異国感を楽しんだのでした。難を言えば値段にありますがそれに関してはくどくど語らぬことにします。
2015/09/09
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千駄木っていう町、はっきり言うとうんざりするくらいに嫌いな町です。何が嫌いって言うまでもないので言いません。本来なら良くなる町をダメにしているのが現場の方達―住人の方たちではありません―というのが、ますます気に入らぬ。兎にも角にもいけ好かない町なのです。とここまてが昨夜酔っ払って書いたことで酔っ払いの言うことなので無論責任は取れません。さて、実のところはこれほどまでに酔っ払いがご機嫌を斜めにするのには理由があることをぼくは知っているのです。単に銭金がそこに関わっていて、それも別にハシゴした一軒が意に沿わなかっただけでしかないのですが、その一軒で千駄木を代表させてしまうほどの衝撃を受けたようなのです。 そのお店とは、先般酒場放浪記で紹介された「五十蔵」であります訳で、よみせ通り―夜になると人気のなくなるこの町をよみせとはちゃんちゃらおかしい、通りの外れにあるすずらん通りというささやかな呑み屋街の方がその慎ましさからずっと好感が持てます―の一本裏手の通りにさり気なく佇む風情はなかなか良し。こういう情緒が千駄木散策を好む方たちに受けているんだということを分からぬまでに無粋ではありません。そしてこうした外観をすぐさま利益と直結させる意図も分からぬではないのです。店内は至ってさっぱりとまとめられ期待するような和の様式が感じられぬのも、耐震性やらなにやらで維持することが困難なこともやむを得ないと理解することにしましょう。だけど、鳥を焼いたのを頼むと3名だと二人前にしときましょうかしら、ニンニクのチーズ焼だかをもらうとお一人一つづつあったほうがいいわよね―えっ、もともと何片なの?―、などともうこの辺りから不安と焦りが最高潮となり、支払いの際はおおよその検討をつけていたのにも関わらずそれを遥かに上回る金額を請求されたとあっては、一人で行かなくて良かったと心底思うのでした。 それにしても「酒の店 春」のようなさり気なくも良い酒場を大事にするこの町と先の店がどうにも解せません。あえて順番を逆に待ち合わせを兼ねてたまたま路地裏をぶらついていたら見掛けたこぢんまりといい雰囲気のお店です。こういうちょっと感じのいいと思われる店でも谷根千辺りではいいお値段を取られたりするから油断ならないのです。でもそんな懸念も店に入った瞬間に吹き飛びました。カウンター8席に小上がりに2卓程度の外観を裏切らぬ小さなお店ですが、すでにほぼ満席でおることも安心感につながりますが、そのお客さんたちがこぞってご高齢の方ばかりというのもそんな高くはなかろうという安心に繋がります。お通しに数品出してくれてそれがいちいち気が利いていて美味しく、これだけでもビールの2本は頂けそうです。客同士も店の雰囲気からするとお若く見える女将さん―この後本当の女将さんが入ってこられて、やはり客たちと同様にそれなりのお年を召しておられたのですが―も和気あいあいとして実にいいムードです。まさに店名通りの春のような穏やかな空気感のある素敵なお店でした。千駄木に限らず多くのお店に見習っていただきたくなるような気持ちのいいお店です。お値段も安くはないもののお手頃なのでご安心を。
2015/07/24
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この所、上野からは足が遠のいていて色々と新しい酒場の噂も耳にしていた―いや、どこかのブログで見ただけなので目にしていたが正しいか―ので、たまには行ってみようかなと思っていたところに折りよく浜松町勤務のA氏から呑まないか―いや彼の場合は、誘いというよりは今晩大丈夫といった都合がいいから付き合えるよという、「もうすぐ職場出れる」とか「今晩大丈夫」って言い方になるのですがそれはまあ置いておくこととして―、という連絡があったのでそれでは上野ということに相なったのでした。 と言って下調べをしていたわけでもなく、アメ横の周辺をぶらつくうちに、「ふぶき(Fu Bu Ki)」という評判の魚介系立ち呑み酒場にたどり着けたのでした。ホントはすでに入店待ちの客が列をなしていて、次の店に向かったのですが話がややこしくなるのでシンプルにこのまま入れたかのように書くことにします。それでも5分ほどは待たされたのですが、通されたのは立ち呑みですが、運がいいのか悪いのか椅子席なのでした。つい直前まで親子ほども歳が違いそうな男女がベッタリねっとりと熱い交渉を交わしていたので、そんな席に無骨なA氏とさし向かいになるのは、照れ臭いとかではけしてなく、決まりが悪い思いになるのですが、それはお互い様なのでしょう。刺身三点盛を頼むと三点どころか六点盛り、質はまあアメ横レベルかもしれませんがこれなら文句のつけようがありません。南蛮漬け―魚が何かは失念―をオーダーするもののすでに品切れ、よほど人気があるのでしょうか。雰囲気とかそういう風流を求めるのではなく実を取るのであればなかなかに優れた立ち呑み店が誕生したことを素直に喜びたい気分です。 時間つぶしに立ち寄ったのが「クシヤキ酒場 ヤリキ」です。以前立ち寄った酒場とは違い酒の値段に難ありとのレポートを読んでいたので―めっきり情報収集で注視するのが値段ばかりなのがわれながらさもしい―、店先にハイボール100円を見るとすぐさま入ってしまうのが大人げない。ハッピーアワースタイルになっていますが終了の7時まではまだ30分もあります。計画通り3杯を干しはしたのですが肴の旨さはなかなかのもの。特にメインとなるもつ焼は下手な専門店よりずっと美味しくて、サイドメニューも充実しています。これは酒の値段を気にせずまた来るかもなと思いつつ、きっとハッピーアワー目当てになってしまうんだろうなと相変わらずの貧乏根性を帰るには至らないのでした。
2015/06/12
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標題だけご覧になると、どうもこの店を大いに満喫したように勘違いされるかもしれませんが、事はそう単純ではありません。正直その居酒屋から受ける印象は愛憎入り混じって、正直なところ今でも再び行くことはないであろうななどと思ったりもするほどです。 上野駅を出てしばし迷った末に向かったのは呑み歩くためにはそう歩くことのない浅草通りです。この裏手に散漫としながらも呑み屋街が形成されていることは知っており、恐らく酔った末にたどり着くことも何度かあったかもしれません。そんな裏通りの一軒にぼくの酒場琴線をどうにもくすぐる一軒があったのでした。 今更カッコつけもあったもんではなく、日頃の呑み方にもそれは如実に現れているとは思いますが、とにかくぼくにとってはノスタルジーなんていうこっ恥ずかしい代物は唾棄すべきものでしかなく―大体そういう発言をする輩こそおセンチであるという意見はごもっともと首肯せざるを得ません―、けしてそんな俗な感情からこのお店を選んだのでないことは誓って言い切れます、言い切れるはずです。。。そのお店は、「博多屋 上野店」でした。あちこち呑み歩いているはずですが、チェーンは意識して避けているのでどうしても見落としがちになるのは致し方ないとはいえ、このの「博多屋 上野店」というお店のことは、まったく知りませんでした。どこか他所にもお店が残っているのでしょうか。入ったお店の雰囲気は和洋入り交じるまったく垢抜けぬ泥臭い雰囲気です。つまり今時の基準から考えるとまったくダメのダメのダメななんともどうにも改善しようのないようなあくまでもダメな酒場でしかないのですが、それなのにどういうわけかしっくり来るのです。うまくもない、安くもない、早くもない、綺麗でもない、それなのにこの酒場にどういうわけか惹かれるのです。それはもはやノスタルジーなんだと一言で片付けてもらいたくない。こちらは必死でノスタルジー以外のセンスを総動員してこの店の味わいのどこがぼくを魅了するのかを必死で模索しているのだから。やがて、当然ながらそんなどうでも良いことなどすっかり忘れ、どうでもない店だったなあと毒づきながら店を後にするのです。
2015/06/11
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縁のない酒場っていうのがあるものでーそれはむしろ喫茶店に顕著なのですが―、何度も空振りばかりが続くと諦念というよりは怒りのような衝動に駆られることがしばしあって、それは仕方のないことだと割り切ってしまうには、まだまだぼくも修行が足りていないようです。そんな酒場の一軒が浅草にもあって、この店の場合はまだ2度空振りしているだけで、裏浅草にある燗酒で知られる酒場などはそれ以上に巡り合わせが悪く、この夜もハシゴして足を伸ばしてみたものの店の扉は固く閉ざされたままなのでした。三度目の正直など信じるわけではありませんが、そんなたわ言にも縋り付きたい思いで店を目指すのでした。 その酒場は「山之宿」で、大変よく知られたお店なので今さら紹介するまでもないかもしれません。一軒家の和風建築は格式が感じられ、ちょっとした料亭の趣さえ呈しています。かほどに風情ある空間で居酒屋価格で酒を呑めるとは、なかなかに他所では得難い経験であり、この夜無事に店の灯りが見えた時には心底からひと安心したものです。これまての空振りしてきた虚しさやら悔しさという負の感情はそれだけでスッとオリが落ちたかのように消え去るのですから、自分で言うのもなんですが誠に御しやすい。念願の店内に入ってみて最初に気付いたのは、明日からしばらくの間店を休ませて頂きますとの張り紙なのでさらに一層の安堵に包まれました。和風建築というのはその風情は分かるもののいざ室内に入ってしまうと案外単調なものです。現代のマンションでしか暮らしたことのない人にとっては新鮮に感じられるのでしょうが、畳での生活が当たり前だった人には親密な空間ではありますがさほどの興趣が湧くものではありません。店舗として利用されているのは主にかつては土間であった場所のようで、立派な囲炉裏が置かれていてそれなりの工夫はありますが酒場という印象からは少し離れているように思われます。浅草らしく観光の一環として楽しめば良さそうです。酒や肴もまずまずという感じで、特筆するものではなさそうでその点もまた浅草らしいと割り切ってみると良さそうです。念願が叶ったというのに今ひとつ乗りが悪いのはこうしたお店は、酒場と言うには幾分違ってるんじないかという違和感が拭えないからなのです。それは端から分かっていたというのに我儘なものです。
2015/05/13
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親しくしてもらっている獣医師のK氏とまたしても呑むことになりました。互いに帰宅の便を考えると浅草ってけして便のいい町ではないのですが、さすが大歓楽街ということもあって時折足を運びたくなるのでした。でも最近のお気に入りは雷門や浅草寺などの観光とは無縁の裏浅草方面。と言っても迂闊に入ると思わぬ散財を強いられてしまいかねぬ危険性は隣り合わせていると思われ、うっかりと酔っ払って気持ちが大きくなって地獄に一直線なんてことにならぬよう気を付けねばなりません。 知る人ぞ知るなどと勿体ぶるまでもない豆かんの名店「梅むら」ー各地の有名店の豆かんはかなりの数を頂いていますが、いまだここを凌駕するだけの味に出会えていませんーの斜向かいに「もつ久」はありました。あまり飾り気のないところが渋くてまさにこれこそこそ裏浅草らしい粋なスタイルと感じ入ります。しかしここで気を抜いてはなるまい。裏浅草にあっては気のおけない酒場と思って入った酒場がおもいかけぬ勘定で跳ね返ってくることはよくあることです。でも屋号のもつの部分だけに頼って暖簾をくぐってみるとまさしく危険な方面に足を踏み入れたことに気付かされます。でも大丈夫、今晩はスポンサーがいるのです。もつを焼く香ばしくも煙たい気配など微塵もなく、きっと居抜きで屋号はそのままに引き継いだに違いありません。割烹着という田舎町では、いや今では老女の営むごく限られた酒場でしか気を抜いてならぬ、まだまだ色気満載の女将さんが出迎えてくれるのも警報を打ち鳴らすに十分な理由となります。大根の皮のきんぴらやら身の部分の煮付けやらいかにもな家庭の味がいかほどの勘定に反映されるのか、好奇心が芽生えるのと同時にただならぬ不安感に見舞われますが、ほんわかとした魅力的な女将のお仕着せがまくない接待ぶりにやがて単なるいつもの酔っぱらいと成り果てたのでした。誤解のなきように一応いい添えておくと、ぼくはけしてK氏を食い物にしているわけではなく本当にこの人と呑むことが楽しくてしょうがないのであって、けして入りの良くないこの店に時折姿を見せるお客さんが姿を見せては露骨とまではいわぬまでもぼくの目にはいかにも女将キラーでありたいと願う下心が透けて見えてむしろ清々しい程ですが、その好きを縫うように色気のないわれわれは邪魔者以外の何者でもなかったはずですああ十分酔っ払ったようです。すでに何品目かは定かでない肴の数々もここらでストップして次なる酒場を目指すことにしたのでした。ちなみに値段は驚くようなものではなかったと申し添えておくことにします。 長くなったので、次に伺った「お多福」のことは控えめにしておくこととします。店構えと玄関までのアプローチ、暖簾くぐって伸びるカウンターまでは紛れもなく名店の佇まいでかなりの好印象。奥に通されいかにも付け足しに設けられたらしい新しいフロアーに興ざめするだけでなく、品書を眺めるにつれこのいかにもお上りさんを食い物にしたとしか思えぬ価格設定に忸怩たるものを感じずにはおられません。ここはおでん屋でしょう、おでんは庶民のささやかな普段着の肴でしかないはずなのにこれはないだろうと、一人憤慨するのですがK氏はさすがに大人です。動じる風もなくここをはじめて訪れた際の思い出を語ります。ほくは果たしてこの先ここを良い思い出として語れるだけの技量があるのかと考えると暗澹たる気分にならざるを得ないのでした。
2015/03/14
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