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若き日の熱に浮かされることなく、老いてなお道を深めることの意味を兼好法師は語り残しています。徒然草の終盤にあたる段では、衰え、芸、礼儀、そして人間の浅ましさまでもが鋭く抉り出されています。今回はその中でも、特に現代にも通じる核心に触れていきます。
「四十以後の人、身に灸を加へて、三里を焼かざれば…」と始まる第百四十八段では、兼好法師が老年に入った人々に対し、身体のメンテナンスを勧めています。三里というのは足三里というツボのことで、古来より胃腸の働きを整えるとされてきました。
この一節には、健康法以上の意味が込められています。若い頃は無理が利き、健康を省みずとも生きていけます。しかし四十を過ぎた頃からは、自然の理に従って体が変わり始めるのです。無理を押し通すのではなく、変化を受け入れて、それに見合った生き方に軌道修正していく。そうした慎ましい人生観がここに現れています。
兼好は「灸をすえる」という一見地味な行動を通して、「老いを自覚することこそが、生きる術である」と語っているように思えます。
第百七十二段では「若き時は、血気内に余り、心、物に動きて、情欲多し」と述べられています。若者の性質として、感情の爆発、欲望の奔流が挙げられ、それが行動の軽率さへとつながっていきます。
ここで注目すべきは、「若さは勢いである」という一般論を超えて、その“勢い”がもたらす不安定さと破滅の可能性にまで目を向けている点です。年齢を重ねることで、人は激情から距離をとる術を覚えます。それは冷たさではなく、深さへの変化です。
兼好の視点は、ただ若さを賛美するのではなく、老いが持つ静けさを肯定し、そこにこそ人間の完成形があると説いているのです。
第百五十一段にて、ある人物の言葉として「年五十になるまで上手に至らざらん芸をば捨つべきなり」と紹介されています。この言葉は、非常に厳しい自己規律を示しています。五十になっても成就しない芸事は、見切りをつけるべきだというのです。
現代では「努力すれば夢は叶う」という言葉が美徳とされがちですが、兼好はその盲目的な努力を冷静に戒めます。芸とは時間と才能の集積であり、時間が有限である以上、過ぎた執着は時に人生の重荷となります。
芸を極めるということは、同時に見極めることでもある。無限に挑み続けるのではなく、時に潔く手放す勇気こそが、成熟した生き方なのです。
第百五十段で「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ」と語られています。自信のない芸を人前にさらすのではなく、むしろ知られずに終わる方が潔いという考え方です。
これは現代のSNS社会において、特に胸に刻むべき言葉かもしれません。未熟な状態で評価を求めて発信することは、誤解や批判の対象になりやすいものです。
兼好が語るのは、「実力が伴わないならば、無理に注目を浴びるな」という戒めであり、それは決して諦めを意味するのではなく、自分の器と立ち位置を見定める冷静な覚悟の姿勢なのです。
第百五十五段に登場するのが、「世に従はん人は、先づ、機嫌を知るべし」という一言です。人と共に生きようとするならば、まず相手の機嫌を察しろというのは、驚くほど実践的な教えです。
現代においても、職場や家庭、あらゆる人間関係において「空気を読む」ことの重要性は変わりません。しかし兼好は、その表層的な「同調圧力」ではなく、もっと本質的な「相手の心理や状況を読む」知恵として語っているように感じられます。
人の気分は天候のように移ろいやすいものです。その変化を敏感に察知し、自らの動きを合わせていく。それはただの迎合ではなく、生き抜くための柔軟性なのです。
第百七十段では、「さしたる事なくて人のがり行くは、よからぬ事なり」と記されています。用もないのに人のもとを訪れることは、相手に迷惑をかけ、また自分の品位を損なうとしています。
この言葉は、現代においても十分通じます。友人や知人との距離感、接し方には慎重さが求められます。誰かの時間を奪うことは、自分の価値を落とすことにも繋がります。
兼好が説くのは、無駄な接触を避け、用件が済めば速やかに引き下がるという礼儀です。これはただの形式ではなく、相手の人生への敬意でもあります。
第百六十九段に登場するのが、「盃の底を捨つる」しぐさについての記述です。これは酒宴の場面において、酒を飲み干したあと、盃の底を軽く地面や畳に振ることで、酒が残っていないことを示す動作とされています。
兼好はこの所作を「ひきたる事なり」と表現しており、いささか風流を気取った無用の行為とみなしています。実際のところ、このような振る舞いは、酒席での体裁や自分をよく見せるための演出であり、真の礼儀や内面の整いからは遠いのです。
ここから兼好は、礼儀作法の「かたち」だけにとらわれることの浅さを指摘します。盃の底を振るよりも、沈黙のうちに相手を思いやる心のほうが、はるかに礼儀の本質に近いのではないでしょうか。形式に拘泥せず、行為の背景にある精神性を大切にする――それが兼好の礼儀観なのです。
同じく第百六十九段では、和歌や贈答などの場面でも形式にこだわりすぎることを批判的に描いています。歌会における贈答や応酬は、しばしばその場の見栄や虚勢が交差し、言葉の真意が失われることがあると兼好は見抜いています。
これは、現代のビジネスマナーや儀礼的な言葉づかいにも通じます。儀式化されたやりとりの中で、人間味のある会話や本音が排除されていくのです。兼好の視点は、礼儀を否定するのではなく、その背後にある「誠意」の欠如に警鐘を鳴らしています。
表面的な体裁に惑わされず、相手の立場や気持ちを思いやる心こそが、真の礼儀である。そうした本質的な礼の精神は、時代を超えて私たちの生活に息づいているべきものです。
第百九十八段にて、兼好は「人の智を以て智を測ることなかれ」と語ります。人間の知性というものは、他者の理解をもって完全に測れるものではないとする考えです。
この発言の背景には、外見や言動だけでは人の能力や才知を見誤る危険があるという認識があります。実際、真に優れた人ほど言葉少なく、表に出さないことも多いものです。表層的な判断に頼るのではなく、長い時間をかけて、その人の言動の一貫性や影響力を観察する必要があると兼好は諭しています。
現代でも、人の力量をSNSの投稿数や肩書きで即断する風潮がありますが、兼好の時代からそれは戒められていたのです。「見た目の利口さ」ではなく、「静かなる力」にこそ、真の賢者の姿が宿るという哲学がここにあります。
さらに第百九十九段では、「よくする者のせぬ事は、必ず理あり」と述べています。達人と呼ばれる人々が、あることを「しない」とき、その選択には理由があると兼好は信じて疑いません。
弓の名人がある矢を射ないとき、素人から見ればそれは怠慢にも思えるでしょう。しかし達人は、風の向きや弦の張り具合など、細かい条件を瞬時に察知し、撃たない判断をしているのです。
このように、表面に現れない「しない選択」こそが、真の力を示す場面もあります。現代においても、ある人が「なぜあれをやらないのか」と疑問に思う場面がありますが、そこにこそ深い洞察や戦略があるかもしれません。
兼好は、行動の背後にある知恵を読み取ることの大切さを語り、達人たちの「沈黙」や「省略」にこそ敬意を払うよう勧めているのです。
徒然草の後半にあたる第百四十八段から第二百段には、兼好法師の思想の核心が色濃く表れています。それは、加齢に伴う身体と心の変化を受け入れ、人生の終盤をいかに美しく静かに過ごすかというテーマに収束していきます。
若さや勢いに任せるのではなく、老いと共に積み重ねた経験と洞察によって、生き方を整えていく。その過程においては、時に芸を捨て、人付き合いを省き、形式的な礼儀よりも本質を選ぶという厳しい選択も必要になります。
兼好が描いた「良き老い」とは、静けさと知恵、そして潔さに満ちたものです。現代に生きる私たちもまた、情報過多の喧騒の中で、彼のように「足を止めて考える」力を持たねばなりません。
徒然草は随筆ではありません。人生をどう生き、どう終えるべきかという普遍的な問いに対する、一つの静かな答えなのです。
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