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吉田兼好が『徒然草』に綴った「心に移りゆくよしなし事」は、随想集ではありません。日常から人生の機微まで見通す視点は、現代を生きる私たちにも響きます。裏情報や背景を通じて、兼好の思いに深く迫ります。
「つれづれなるまゝに、日くらし、硯すずりにむかひて」の言葉には、兼好が周囲と距離を取り、自らの内部へと沈潜する姿が見えます。現代では「ひとり時間」が尊ばれますが、当時は社会的役割から脱する行為でした。その孤独は外的要因から逃れるだけでなく、内なる声に気づく契機だったと考えられます。兼好は決して寂しさを語らず、むしろ孤独を自己と向き合う手段とし、そこから得られる自由を称揚しています。
兼好は世俗のしがらみに縛られず、しかし完全に捨てることもしません。例えば「仮の宿やどりとは思へど、興あるものなれ」と記し、一時の心の赴くままに生きる喜びを肯定しています。その境界線は曖昧で、社会生活を放棄せず、それでいて心の解放を享受する生き方。現代でも「ワークライフバランス」では語られきれない、精神の自由を追求する姿勢といえます。
「万よろづにいみじくとも、色好まざらん男は…」とある通り、世間的価値から距離を置く態度を美徳としつつも、それゆえに「さうざうしさ」や「当そこなき心地」が生まれる矛盾があります。兼好は、魅力と社会的存在感の間に揺れる葛藤を丁寧に描写し、読者に問いかけています。現代と同様、男性にも女性にも共通する「美しさと存在意義」の間での逡巡は、万人の心に響く普遍的テーマです。
美意識を追い求める中で、兼好は「心ばへなどは、もの言ひたるけはひにこそ…」と、人柄や言動の品格に対する鋭い観察を示しています。容姿の美しさではなく、言葉や態度の奥にある人間性の美を重視する視座は、現代の「内面磨き」ブームにも繋がります。世の流行に流されず、芯を持って生きる姿勢を兼好から学ぶことができます。
兼好は仏教への親しみを記しつつ、修行者のように入道することを選びません。「後のちの世の事、心に忘れず、仏の道うとからぬ」とあり、現世と来世、俗世と宗教の間を行き来する姿勢が伺えます。これは極端に偏らず、バランスを保つことの重要性を示しています。忙しさや世俗的煩悩に取り込まれず、その一方で完全に割り切らない、精神の偏りを戒める賢者の姿勢です。
「山寺にかきこもりて、仏に仕つかうまつるこそ、つれづれもなく、心の濁も清きよまる心地すれ」と記し、兼好は修行の場で得られる心の澄み具合を肯定します。その動機は功徳や称賛ではなく、心の静寂と透明感。これは内的浄化の探求であり、現代心理学でいう「マインドフルネス」にも通じる探求です。
月見や雪、風といった自然描写が多く現れる『徒然草』ですが、兼好はそれぞれを人の感情や人生の流れと重ねています。「折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ」と記し、自然の移ろいを人生の儚さや歓びとして受け止めています。これは自然をただ描くのではなく、自然を通じて人生の普遍的テーマに迫る深淵な視座です。
兼好は春夏秋冬の情景を記しながらも、「月見るにこそ慰むものなれ」「雪のおもしろう降りたりし朝」のように、その場の感情を自然と共に描写しています。ここにはただの景色紹介ではなく、季節と心が共鳴する瞬間を捉える感性があります。読者もその時々の自分と重ね合わせ、自然との共振感覚を体験します。
「この世のほだし持たらぬ身に…」と記す世捨人の言葉には、煩悩から離れる勇気が込められています。しかしそこには人間らしさを捨てる虚しさ、「空の名残なごりのみぞ惜しき」という寂寥もあります。これは一見非現実的な理想のようですが、人が何かを捨てるとき、同時に何かを失っている現実への洞察でもあります。
「財を持たず、世を貪らざらんぞ」は理想ですが、それを実現する過程には葛藤が伴うことも兼好は示しています。物質的自由を得ることと、心の自由を得ることはイコールではありません。現代でもミニマリズムや断捨離の奥にある、本質的な自由とは何かを問う姿勢と重なります。
吉田兼好の『徒然草』は、ただの古典ではなく、人の心の奥底を照らす鏡です。孤独や自由、美意識、精神世界、自然、世捨人の言葉…。どれも現代に通じるテーマであり、その奥にある「人間とは何か」を問う深い問いかけが息づいています。日常に散りばめられた「よしなし事」を通して、あなた自身の内側にも降り注ぐ光を感じていただければ幸いです。
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