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兼好法師の『徒然草』は、表面的な教訓だけでは読み解けない深い洞察に満ちています。第百三十二段から第百九十五段には、人の老い・芸・美・信仰・愚かさへの眼差しが連綿と込められており、現代を生きる私たちに鋭い問いを投げかけてきます。
「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」。この一文に、兼好は日本の美意識の核心を込めています。花が散り際にこそ風情があり、月も満ち欠けのある姿にこそ趣があるという感性は、ただの感傷ではありません。完全なもの、完成されたものだけを追い求める現代社会への警鐘とも取れる表現です。
不完全であるがゆえに、美は揺らぎや余白を宿し、見る者の心を照らします。完璧を求める現代の「成功」や「幸福」の定義を見直すとき、この言葉は深く胸に刺さります。季節の移ろいを慈しむ眼差しが、自己にも他者にも寛容な視点をもたらします。
月の美しさを満月にのみ見出すのは、未熟な感性かもしれません。人間もまた同じで、若さだけに価値を置くならば、その人の成長は停滞します。欠けていく月にこそ成熟の風情があり、それを美しいと感じる心が、本当の深みを持つのではないでしょうか。
兼好の視点は、老いを忌避する価値観を問い直し、枯淡の境地へと私たちを導きます。欠けるからこそ補い合い、満ちる過程にこそ意味があるという人生観は、経年の味わいを深く知る者だけが持ち得る視座です。
第百五十一段に「年五十になるまで上手に至らざらん芸をば捨つべきなり」と記されます。この厳しい断言は、人生の有限性を直視する冷徹な智慧とも言えるでしょう。時間には限りがある以上、見切る勇気こそ成熟の証と考えるべきなのかもしれません。
しかしこれは、芸術や学問の追求に対する否定ではありません。むしろ「今から真剣に向き合う覚悟があるか」を突きつけています。自分の才能を過信せず、他人の言葉に耳を傾け、正しい努力を積み重ねてこそ、五十以降も光る道が拓けるのです。
「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ」という第百五十段の言葉は、自信過剰な若き芸人に向けた痛烈な忠告です。未熟なうちに他人に技を晒すことは、己の芸を腐らせることに等しいという覚悟が込められています。
これは芸だけに限った話ではありません。人に何かを見せるという行為は、それが未完成であればあるほど、評価によって自身の可能性を潰す危険を孕みます。学びの最中は、静かに鍛錬を積むことの重要性が語られています。
第百四十八段に「四十以後の人、三里を焼かざれば、必ず病に冒される」といった記述があります。ここで言う「三里を焼く」とは、灸による養生法を指しますが、身体への手入れだけでなく、加齢に対する自覚や習慣の重要性を語っています。
老いを迎えるにあたって必要なのは、ただ歳を重ねることではなく、自分の身体と向き合い、病を未然に防ごうとする意識の成熟です。信仰や儀礼が生活と密接に結びついていた時代において、身体的な行為が精神の安寧とどれほど密接であったかがうかがえます。
「灸治、あまた所に成りぬれば、神事に穢れあり」という記述もまた興味深いものです。肉体を治療する行為が、神聖な場において「穢れ」と見なされるという価値観には、当時の宗教観と医療観が入り混じっています。
現代においても、科学と宗教、合理と信仰はしばしば対立します。しかしその対立は、本質的には「人間は何を清らかと感じるか」という、感性の問題とも言えるのです。灸という極めて身体的な行為が、精神世界と交錯するこの描写には、今でも色褪せぬ示唆があります。
「心なしと見ゆる者も、よき一言はいふものなり」。この第百四十二段の表現は、普段物静かな人の一言が、思いがけず本質を突くことがあるという経験則を示しています。言葉が少ない人の沈黙には、時に深い洞察が秘められています。
今の時代は、言葉があふれすぎています。SNSでは、何かを言わなければ存在していないことになるかのように、言葉が投げ捨てられていきます。しかし、言わないこと、語らないことが、真に強い信念や深い理解のあらわれであることを、私たちは忘れがちです。
第百四十三段で描かれる「静かにして乱れず」という死に方には、真の気高さが宿っています。死を前に取り乱すことなく、周囲の者に何かを残そうとする姿勢は、人間の尊厳の核心に触れています。
この描写を読んで思い出すのは、言葉で多くを語らずとも、生き様と死に様に一貫性を持った人物の在り方です。現代では死を遠ざけ、語らない風潮がありますが、本当の死は、日常の延長線上にこそ存在するものであり、そこに備える覚悟が問われます。
第百七十二段には、若い人々の衝動や情欲の多さが語られています。これは批判ではなく、むしろ自然な成り行きとして理解されています。若さには未熟さが付きものであり、それを否定せずに見守る視点がここにはあります。
兼好は、若者の無鉄砲さを責めることなく、それすらも人生の一段階として受け入れようとします。歳を重ねた者がこの姿勢を持てるならば、世代間の断絶も和らぎ、教えや育成が本質的なものになるはずです。
第百九十段で語られる「妻を持つべからず」という言葉は、決して女を否定するものではありません。むしろ、それに伴う煩悩や苦しみから逃れられない男の愚かさを、笑いに包んで描いているのです。
兼好は、人の愚かさを嘲笑するのではなく、それもまた人間の業として受け止めています。この眼差しは、すべてを悟った者の冷たさではなく、むしろ温かみと共感に満ちたものです。
『徒然草』の後半に差しかかるこの領域では、人間の滑稽さ、美しさ、愚かさ、そして静かな悟りが交錯します。兼好法師は「語ることの力」と「語らぬことの力」を巧みに使い分けながら、読者の心の奥を揺さぶります。
現代に生きる私たちは、何かを「知ったつもり」になることに慣れすぎてはいないでしょうか。兼好の言葉は、そうした傲慢を打ち砕き、本当の知と謙虚さの在処を示してくれます。徒然草を読むという行為は、古典鑑賞ではありません。それは、今この時代において「人としていかに在るべきか」を真剣に問うてくる、鏡のような読書体験なのです。
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