M17星雲の光と影

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2008.01.12
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テーマ: 本日の1冊(3798)
カテゴリ: 本
J.D.サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(村上春樹訳)読了。

しかし、これはすごい翻訳だ。「文体の創出」にかけて、これをしのぐ訳というのはちょっと考えられない。村上春樹は文学作品を評する時に、よくヴィークルということばを口にする。「乗り物」という意味なんだけど、この作品の文体はまさに「ヴィークル」として見事に機能している。この文体を模倣して、似たような作品をいくつかでっちあげることなんか、朝飯前じゃないかって気がする、いや、冗談抜きで。(というような文体なんです)

内容的にはとても不思議な作品だ。物語(というよりも「語り物」といったほうがいいか)の面白さ、語り口のなめらかさ、人物や情景の描写の巧みさという条件をきちんと満たしながら、読み終わると「どうもそれだけではない」という感じが残る。「十分に読みつくせていない」というか、「何かを読み落としている」というか、そういう感触が読後に残るのである。

ということで、もう一度、冒頭に戻って再読している最中である。

こういうことをふだん私はやらない。例外的に同じことをしたのは、同じく春樹訳の「グレート・ギャツビー」だけである。ああ、そう、「わたしを離さないで」でも冒頭を少し読み直した。そして、そうしてみると、これらの作品の冒頭部が実によく書けていることに気づく。深い読後感を残す作品は、長編、短篇を問わず、冒頭の一節で既に「作品全体が見通されている」のである。

そして、キャッチャーに関しては、訳者と読者の間に存在するエネルギー収支のバランスの問題もある。読む側からすると、村上氏がこの訳に注いだエネルギーに比して、自分の消費するエネルギーが圧倒的に少ないと感じられるのである。「このくらいのエネルギー消費で読んだつもりになってちゃいけないな」と思って、もう一度頭から読み直す。そういうことが起こるのである。

では、読み終わった後に残る「何か」とはいったい何か。これはなかなかの難問である。

現時点で考えられる仮の答は「無意識」である。

どうもこの作品の随所から、読む人間の無意識に訴えかけてくる何かを感じる。この作品全体が、「誰か」への語りかけの形をとっていることもその一因だ。そして、訳者はそのことを十分に自覚した上で仕事を進めている。



でも「無意識的な何か」では答えになっていない。だが無意識はうまくことばに乗らない。だから、ここからは「示唆」や「暗示」という方法を使うしかなくなる。

自分の触覚を頼りに気になる部分を探っていくと、「忘れ物」、「言い間違い」、「書き間違い」、「覚え間違い」、このあたりにヒントが隠されているように感じる。その例をいくつか挙げてみよう。

1、冒頭に近い部分で、主人公ホールデン・コールフィールドはフェンシング・チームのマネージャーとして(というのもいかにも奇妙な設定だが)、交流試合に行く途中、地下鉄にチームの試合用具一式を置き忘れてしまう。この物語はここをきっかけに始まる。そして、その原因は地下鉄を乗り間違えたことにある。

2、その後、寮で同室の「頭の中にセックスしかない」ストラドレイターの作文を代わりに書く羽目になる。彼の宿題は「部屋とか家についての描写的な作文」だったのだが、ホールデンは弟のグローブについての文章を書いてしまう。

3、ホールデンが寮を出て行く数日前、母親からスケート靴が送られてくる。しかし、それは彼が望んでいたレース用のものではなく、ホッケー用の間違った靴だった。

4、ニューヨークに戻り、タクシーでホテルに行くつもりが、間違って自宅の住所を言ってしまう。

5、ホテルのエレベーターボーイに女を買わないかと誘われ、女性を部屋に入れるのだが、その時のショートの値段が5ドルだったか、10ドルだったかで揉め事になる。

6,ラスト近く、妹のフィービーの部屋に入り、彼女のノートを見ると、そのスペリングは誤りだらけだった。(春樹氏の注には、「スペリングの得意なフィービーなのだが、この文章にはたくさんの綴りの間違いがある。……彼女に対するホールデンの評価が高すぎるということなのだろうか。そのあたりはちょっとした謎だ。」とある)

このように随所に「忘れ物」「思い違い」「言い間違い」「書き間違い」が頻出するのである。そもそも「キャッチャー・イン・ザ・ライ」というタイトル自体が、「If a body meet a body coming through the rye(誰かさんが誰かさんとライ麦畑で出会ったら)」という歌詞のmeetをホールデンがcatchと覚え間違ったところから来ている。

これらの事例をきわめて乱暴に一般化すれば、「規範からの逸脱」ということになる。それもけっして意識的なものではなく、「ついうっかりと」「なんとなく」なされる無意識的な逸脱である。

逸脱と放恣は違う。前者には規範に対する意識があり、後者にはそもそも規範意識そのものが欠けている。だから、ここに見られる逸脱はある意味では規範への強い意識と、なぜかはわからないがその規範から無意識のうちにずれていってしまう意識との乖離を意味しているのである。



だから彼はいつも傷つきながら、深い不安と倦怠と疲労のなかにいる。そして、たえず放浪をつづける。そして、何かを探しつづけている。

彼の妹フィービーはきわめて象徴的な存在である。あれほど人物造型に秀でたサリンジャーが彼女に関してだけは、人物像にリアリティをもたせることをあえて避けているように見える。まるでホールデンの見ている幻覚ででもあるかのように、リアリティの欠けた人物として彼女は描かれる。しかし、それは幻覚であるだけに、いっそう純粋な少女性の結晶そのもののように見える。

彼女こそは、規範からの逸脱、その不安におののく彼の魂の導き手なのだろう。

彼は自らを無神論者という。たしかに彼は既成宗教、宗教の制度的なものに対しては強い嫌悪感を示している。だが、宗教そのものの根底にある「原感情」ともいうべきものに対しては強く引かれるものを感じている。通りすがりの尼さんに寄付をする箇所、「キリストは好きだが、十二使徒は大嫌いだ」という告白がなされる箇所にはそれがよく示されている。


人生は「言い間違い」のようなものだ、とはいえないだろうか。正しい人生の実践は味気ない。かといってでたらめな生き方には不安と焦燥と破滅が伴う。正しい用法、正しい発音を知りながら、思わず知らずついそこから逸れた言い方をしてしまう。生き方をしてしまう。そこにこそ人生の妙味があり、本質がある。そうは考えられないだろうか。



読後、ふとそんなことを思ったりしてみたのである。





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Last updated  2008.01.12 11:12:26
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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