M17星雲の光と影

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2008.04.22
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カテゴリ: その他
京都に出かけ、庭園を見に行く。門をくぐり、木々におおわれた細い道を通り、玄関を入る。薄暗い廊下を抜け、庭を正面から見渡せる座敷に入り、縁側に腰を下ろす。静謐、閑寂、清楚、端麗。正面に広がる庭の全景を見ながら、小さな溜息をつく。

この情景を写真に収めるのはむずかしいだろうと思いながら、せめてものよすがにとカメラを構える。

庭には白砂が敷かれ、庭箒で細かな線が描かれている。細い直線とゆるやかな曲線が砂上に浮かび上がる。

白砂の上には大小さまざまのツツジの小山が鎮座している。密集した小さな葉が描き出すその稜線は、どこまでもゆるやかで、たおやかで、おだやかだ。

ツツジの背後にはモミジの若葉が、空中に緑の息吹を放射した形そのままにかすかに風に揺れている。

その向こうには遠景としての木々がそびえ立つ。

なだらかな白砂とこんもりとしたツツジの山を近景とすると、ゆるやかな緑のM字を描き出すモミジの新緑は中景というところか。その背後には遠景として鋭い高木が屹立する。

静かな遠近法のなかで、それぞれが自らにふさわしい場所を見出し、穏やかなたたずまいのなかに自足している。

カメラをもち、構図を決め、静かにシャッターを下ろす。しかし、ファインダーを覗いた時点で、この庭のもたらす味わいは写真ではとらえられないことに気づく。



部屋に入って庭を眺めた瞬間の、あの小さな感動がなぜ写真に写らないのか。私はもう一度カメラを手に取って、ファインダーを覗いてみる。

おや、さっきよりはわずかにファインダーの中の像が自分の思いをとらえているようだ。いったいなぜだろう。ほとんど同じ角度から庭を写そうとしているにもかかわらず、感触としては微妙にこちらのほうが勝っているように思える。いったいどこがちがうのか。

試みにシャッターを押してみる。そして、さきほど撮った写真と並べて表示し、両者を比べてみる。

一枚目は縁側から写した庭の全景である。二枚目は座敷の奥から撮った庭。二枚目は部屋の奥から撮っているので、畳、柱、梁などが暗く前方を占め、その向こうに庭が写っている。室内の闇に黒く縁取られた形で白砂の庭が方形に切り取られている。

「そうか、暗がりがあるかないかの違いなんだ」

薄暗い室内。その向こうにある光に満ちた庭。空は曇天であり、その光はあくまでも柔らかい。木々の緑は夜来の雨でみずみずしく輝き、その緑色の光が室内の闇に隈取られ、くっきりと方形に浮かび上がる。

この写真のほうが庭に対した時のこちらの心持ちに近い。庭は自立したものではなく、座敷の暗がりと一体となって存在しているのだ。門をくぐり、玄関を入り、暗がりを通り抜けて、庭の光に出会う。縁側に出て、暗闇を背負い、緑の光線に向かい合う。前方に光、後方に闇。この位置関係と庭のもたらす感興を切り離すことはできないのだ。

そう思って、少し得心がいく。

光と闇の対照の中に、この庭の本質はあるのだ。

だとすると、庭を隈取る室内の闇は「額縁」の働きをしているのだろうか。

どうもそうは思えない。額縁は対象を切り取り、その周囲に装飾を施す役目を担うものだが、この方丈の闇には対象を切り取る意識の働きも、装飾を施す作為も感じとることができない。



私の脳裏には昨夜買い求めた祇園、甘泉堂の水羊羹が浮かぶ。あずきの色をさらにほのかに薄めたようなその色、つるりとした感触の中に闇と光をともに封じ込めたような形状、闇から湧きだしたような清水がその周囲を浸している。小さなかたまりを口に入れると、砂糖の甘さというよりも、むしろ水そのものの甘さが口中に広がる。まるでこの菓子の本体は「水」そのものであり、羊羹はその引き立て役にすぎないもののようにも思えてくる。

主客の逆転。主従の転倒。

今、目の前にある庭の主役は実は室内の闇ではなかったか。その暗がりは外光に徐々に浸蝕され、座敷の奥のあたりにわずかに残っているにすぎない。しかし、その闇は水羊羹を浸す甘やかな清水となって、室内を浸し、その上に白砂やツツジの像をひっそりと浮かべているのだ。

もうひとつ気づいたことがある。

たとえば龍安寺の石庭。団体の観光客がひっきりなしに行き交う、あの庭。あそこにいると、何かやりきれない思いにとらわれる。何かが無残に損なわれている感触がある。その庭はある高みを具現しているけれども、どこかに脆弱さがある。この庭は俗物の喧噪には耐えられないのだ。それが痛々しさを引き起こす。



しかし、いま私の眼前にある詩仙堂の庭は俗塵にまみれてもこわれない。そこなわれない。

観光客が入ってきて、ひとしきり大声で感想が述べられたとしても、それはいつまでも続かない。徐々にその声は小さくなっていく。静かに庭を眺める一人、あるいは二人の姿のほうが優位になってくる。沈黙に耐えきれなくなった客たちは、「ほな、お庭でも見てこようかな」、そういって向こう側の庭園に降りていく。そして、室内にはいつのまにか静けさが戻る。

龍安寺の庭が俗物を排除しようとし、それに失敗して傷ついているのに対し、詩仙堂の庭ははじめから何ものをも排除しようとはしない。そして傷つくこともない。

この勁さはどこからくるのだろう。

龍安寺の庭の背後に見える白壁と直線。詩仙堂の背後にある静かな闇と緑色の曲線。

白と直線。黒と曲線。この対比のなかに両者の違いはある。

白と直線のもたらす排除。黒と曲線のもたらす寛容。

自然のなかに直線は存在しない。人体のどこを見ても直線はない。すべてはやわらかくたわんだ曲線だ。おそらく美は直線ではとらえられない。美は曲線のなかにこそあるのだ。

そして、詩仙堂の闇。それはけっして無制限、無節操な受容ではない。ふところ深くあらゆるものを包み込みながら、けっしてそれらに流されることなく、むしろそれらを教導する。教え、導く。

いったいどこへ?それは「闇のなかへ」である。

その闇は俗を捨て、排除するのではなく、むしろ俗に向かい、その中へ鋭く踏みこむ。そして、一閃の真実をつかみとる。

この庭にはそういう気配が濃厚にただよっている。

季節柄、若葉に照らし出された詩仙の間は少しだけ居心地が悪そうだ。

寡黙なツツジの小山も若々しいモミジの新緑の光を浴びて、もぞもぞとお尻のあたりを動かしているようだ。

そして、その姿を座敷の奥のやわらかな闇がふんわりと包み込む。

闇は何ものをも排除しない。

闇は何ものにも傷つけられない。

むしろその傷を癒す場所こそが闇である。

闇は何ものをも所有せず、また何ものにも所有されない。

雲間から春の陽射しの降り注ぐ詩仙堂の庭を眺めながら、その光の照り返しを浴び、私はほのかな闇の中に座して、闇についてとりとめのないものおもいにふけるのであった。





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Last updated  2008.04.22 20:43:35
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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