存生記
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今村仁司、『抗争する人間』、講談社選書メチエ、2005年。人間は抗争する存在であるという定めにある。いつからどのようにしてそうなったのか、これからどうすべきかが論じられている。近代において極端なまでに称賛されてきた「主体性」の概念を支える「自己尊厳」が他者を犠牲にするシステムに寄与しているのではないかを根本的に疑って見る必要があると筆者は言う。人間は、他者に優越したいという虚栄心があるがゆえに、平等を求めつつ、不平等も求めるという矛盾した現実を生きている。皆が平等になれば平和になるわけでもなく――そんなことは不可能だが――かえって競争は激化する。人間は欲望の束であるという観点から三つの欲望が導き出される。物質的な快を求める「身体的欲望」は、エコノミーによって制御される。他人との関係における「社会的欲望」はポリティックによって、聖なるものとの関係における「想像的欲望」は宗教制度によって制御される。身体的欲望は、例えば食欲などは食べ物で胃を膨らませば満たされるが、社会的欲望はいくら満たしても限度を知らない。議員になれば大臣になりたくなるというものだ。カローラを購入したら今度はフェラーリが欲しくなるかもしれない。フェラーリを所有することによって、他人との関係において優位に立ちたいのだ。「想像的欲望」は、宗教のみならず芸術も関与しているだろう。世俗化された個人主義的な世界においては、恋愛も想像的欲望を満たす装置として機能していると思われる。アイドルやスポーツ選手に熱狂するのも宗教的パトスが関わっているはずだ。人間は生まれ落ちて、親との関係を経て社会へ出て行く。そこでは虚栄心を持たなければ、しかも強く持たなければヒエラルキーの下位に甘んじる現実が待っている。社会的な尊敬を得られなければ、ブランド物のバッグの購入に走ったり、さまざまな方法で虚栄心を満たそうとする。イジメもいじめる側にたつことで他者への優越感を確保する行動だと言えよう。この本では、ある種の性悪説にのっとって、抗争する人間の世界観を展開している。歴史的には、贈与を基盤とする経済から交換を基盤とする経済への移行によって「抗争する人間」の度合いは強まった。有名なポトラッチの風習は、人間の攻撃性を蕩尽的な贈与によって攻撃性を減ずるためにあった。これが交換経済においては、贈与的な要素の残滓は認められるけれども、基本的には投資してより大きな利益をあてこむ企てのなかで経済行為がなされる。経済的にも、政治的にも、歴史的にも、人間は抗争せざるをえない運命を生きている。この欲望の抗争に歯止めをかけるのが倫理の役目であるが、本書では、非世俗的な能動的な無為を倫理の覚醒とするという禅の修行僧のような徳目が述べられている。倫理については別の書物のテーマとなるようだが、少なくとも本書で述べられているような倫理に覚醒する人は、一部の知識人か宗教家だけであろう。なぜ能動的な「無為」かといえば、コジェーヴの歴史の終焉理論を著者が下敷きにして今後の人類の社会の行く末を案じているからであろう。競争する動機である経済的・社会的不平等が歴史的に将来において解消されてしまったとき、人は無為におちこみ、倦怠に苦しむ。「動物化したポストモダン」というのはこういう事態を意識してのことであろうが、本書での退屈と倦怠を論じたくだりは興味深く読んだ。倦怠とは、死への憧憬であるというのはまさにそのとおりであろう。現実を変える意欲を失ったとき、倦怠がしのびよる。気晴らしで退屈をまぎらわせても、実存の根源にある倦怠からは目をそらすことができない。もっとも、そのような未来社会が完全に実現してはない日本においては、働くのに忙しい人、働くことで倦怠から逃れようとするかなりの数の人がいるのは事実である。住宅ローンの返済でも課長昇進でも子供の進学でもなんらかの目標をもって、頑張っている人からすれば、本書の予言的な部分にはついてゆけないかもしれない。定年退職したり、目的を失って倦怠に苦しんでいる人にとっては、なんとなく実感できることではあると思うが。世俗を生きることへの嫌悪や拒否という倦怠の感覚は、練炭自殺やリストラや昇進の鬱病の増加にも関係していると思われるだけに、重要なテーマである。抗争する人間たちの勝者も敗者も倦怠に取り憑かれることはありうるということだ。倦怠から逃れるためにワーカホリックになり、戦争を起こし、犯罪に走り、人間の営みは多忙を目指す。破壊衝動的な倦怠逃避を断ち切ることが倫理の課題となる。そこで先の「能動的無為」が登場するわけだが、私は贈与経済の主題をいまいちど考えてみることが突破口になると思う。交換経済の原則を変えることは難しいにしても、贈与経済の良さを取り戻さない限り、競争社会の弊害はこれからも問題になりつづけるだろう。すべてを金と等価交換できるシステムは便利ではあるが、人間の疎外化を促進させる。サービス競争と人員削減の徹底によって労働条件は非人間的なものとなる。そんな現実にあっては、「能動的無為」に覚醒するどころではない。国による贈与は公共事業への資金投入であったが、これを削減する路線が小泉政権において強まり、マスコミは批判しつつも公務員の無駄遣い糾弾キャンペーンをはることによって間接的に小泉政権を支えている。確かにムダすぎる公共事業もあって、これは問題にされるべきだが、そもそも公共事業には福祉の要素もある。ともあれ、国には贈与の経済は期待できそうにない。数百兆ともいわれる借金をよりにもよって今返そうというのだから、建設的な政策を実施してゆく体力はないと判断すべきだろう。小さな政府をスローガンにすることによって市場にすべてを委ねるとすれば、贈与の経済は、市場と国以外のところから立ち上げてゆくほかあるまい。最近話題のNGOもそうした危機意識から生まれてきたものだと思われる。ボランティアも重要であるが、雇用を奪いかねない負の側面もあって、分野によっては厄介な問題を孕んでいる。市場も国も抗争する人間たちであふれかえっている。テレビをつけてみるがいい。売りあげをのばすために、まるで軍隊であるかのような研修に励む人たち。郵政民営化反対をめぐる政争。大物に媚びを売って必死に笑いをとろうとするタレントたち。どこのチャンネルでも抗争する人間たちが倦怠を忘れさせるために忙しく立ち振る舞っている。抗争することが悪なのではない。ジラールのスケープゴート理論に見られるような犠牲者を攻撃性解消のために求めざるをえない人間存在、それを抑制する倫理が、贈与経済から交換経済への移行にともなって弱体化したことが問題なのだ。圧倒的な暴力を前にして人は震え上がり、沈黙する。沈黙したとき、すべての言葉は虚しく思われるだろう。村上龍のような小説だけがリアリティを持ち、倫理の可能性を云々すること自体が虚しく感じられるかもしれない。だが、個人の欲望、群衆の欲望、国家や組織の欲望に対峙し、言語化を試みない限り、イジメであれ戦争であれ、さまざまなレベルの暴力が猖獗を極める現実が変わることはないのだ。
2005年05月02日
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