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「英国王のスピーチ」を新宿で観る。吃音に悩む王子がオーストラリア出身の言語聴覚士と出会って克服し、第二次世界大戦が勃発したとき、ジョージ六世となって国民を鼓舞する演説を成功させる。要約すればそれだけの話なのだが、最後まで見させる作りになっている。イギリスや日本の皇室にとりたてて興味がなくても、理想のリーダーという主題やスピーチの重要性は、時節柄、日本国の総理と比較せずにはいられない。とはいえ、ジョージ六世にはカリスマ性があるわけではなく、映画では自分の悩みに真摯に向き合う愚直で不器用な人間として描かれている。 父との確執や窮屈な環境に由来する心身のこわばりを解こうと中年の言語聴覚士が奮闘する。吃音の克服も上手なスピーチも、リラックスすることが鍵になる。音楽や罵詈雑言を意識的に取り入れた独特の療法は、怪しさ満点で、そんなものに振り回される国王の七転八倒が見所となる。放送禁止用語を連発する場面などは、日本の皇室ではおよそ想像がつかない。ちなみに昭和天皇のラジオ演説を国民が初めて聴いたのは、敗戦のときの玉音放送だったといわれている。 吃音障害があるからドラマになっているが、もともとラジオ放送のマイクの前で用意された原稿を読むだけの話。どこまで自分の言葉で語っているのか、現状を理解しているのかはよくわからない。映画では個人的な悩みに振り回されている部分が強いように感じた。 選挙が近いのか、駅前で候補者が通り過ぎる人たちに「こんにちは。お帰りなさいませ。よろしくお願いします」を連呼していた。あまり気分のいいものではない。平身低頭いがいのメッセージが読みとれないからだ。しかしこれが一番効率的なのだろう。駅前の演説なんて誰もききやしない。ワンフレーズで情に訴えることが票につながるのだろう。
2011年04月04日
地震が起きたとき、池袋のカフェの地下のフロアでパソコンを操作していた。ニュージーランドの地震の映像が目に浮かび、嫌な予感がした。好運にもビルは持ちこたえた。隣の席のおじさんが「こういう時はトイレに隠れるといいんだよ。頑丈だから」と話しかけてきた。建築関係の人だろうか。とはいえトイレには逃げたくない。一階に上がるとすでに店内はもぬけのカラだ。店員も客を誘導する余裕はなかったとみえる。路上には所在なげなたくさんの人が立ちつくしている。ここから長い一日が始まる。このときはまさか帰宅するのにこんなに苦労するとは思わなかった。別のカフェに入り、ケーキセットをたのむ。死ぬ前にうまいものを食べておこうというわけでもないが、こんなときにはケチる気分にはならない。電車が動き出しても混んでいるだろうから、時間をつぶそうと思い、パソコンを取り出して翻訳を続ける。店内はすでに電車が止まって帰れなくなった人が困っていた。ケータイは通じないが、店内には固定電話があるので列ができていた。この店もそうだが、どこも地震のせいで早めに切り上げたいようだ。カフェを出てから、ネットカフェにも行ってみたが臨時休業でどうにもならない。自然とあちこち歩き回るはめになった。バスやタクシーの乗り場は、長蛇の列で並ぶ気になれない。人の流れに押されるので、立ち止まって考えることができず、気が付くとずいぶんと歩いていた。体力を消耗するばかりなので、ファミレスに逃げ込む。階段には列ができていたが名前を記入して辛抱強く待つ。ここに朝五時までいることができた。というか、そうするより方法がなかった。ビジネスホテルも怪しげなラブホテルも満室だった。立大に避難する手もあったが、寒かったら困るのでファミレスを選択した。とにかく寒さがつらいのだ。喫煙席しか空いておらず煙草の煙に耐える。なぜか周囲はほとんど女性だった。隣のマダム二人組は、腹がすわっていて東京大空襲のときの思い出話に花を咲かせている。親に連れられて日比谷公園に逃げたそうである。しゃべっていると落ち着くのか、二人は朝まで話し続けていた。午前三時近くになると、寝ようとする人も増えてくる。隣の女子大生は椅子に横たわって完全に寝る体制である。ところが三人組のおばちゃんの笑い声が強烈で、ときどき「うっせんだーよ」「静かにしろよ」と寝言のようにうめいている。地下鉄が動き出したのはありがたいが、地下鉄だけで帰れるわけではない。閉店だというので外に出るしかなく、地下鉄を乗り継いで家の近くの駅に移動する。朝六時に着くと、電車は七時過ぎに出る予定だというので、寒いホームでぶるぶる震えながら一時間待つ。タクシーはつかまらない。ファミレスもネットカフェも閉まっている。寒いところで待つしかなく、電車はいっこうに復旧する気配がない。構内の定食屋でたぬきソバを食べて暖をとりながら寒さをしのぐ。構内のコンビニで使い捨てカイロを探したがなかった。朝九時近くになってようやく電車が出発した。すでに構内のモニターでテレビのニュースを流していて、今回の地震がいかに大災害であるかはわかっていた。超徐行運転で進む車窓からはいつもの景色が見えた。小学校の校庭では子供達が遊んでいて、民家のベランダでは布団を干している人がいる。帰宅すると、仙台在住の知人から葉書が届いていた。妙な偶然だが、大丈夫だろうか。
2011年03月12日
「ヒア・アフター」を新宿で観る。冒頭の津波のシーンに息をのむ。自然の猛威にはなすすべもない。逃げようもない。ニュージーランドの大地震の映像を見た後だけになおさら感じる。生存は偶然に左右される。スペクタクルはここだけで、あとは死後の世界をキーワードに女性キャスター、子供、元霊能者の工場労働者の三つの別々のストーリーが平行して進んでいく。 死後の世界もスペクタクルにしない。暗闇に死者の映像がゆらめいているだけで、天国だか地獄だかも判然としない。どうやら快適な場所らしいのだが、このへんのストイックな演出がいかにもイーストウッドという感じで抑制がきいている。そんなにいいところだったら、苦しみの絶えない現世にとどまる意味とは何なのか考えさせられる。三人が知り合うきっかけがグーグルだけでなく書物というのも悪くない。ディケンズが象徴的な例として描かれているが、文学の共同体も精神の問題に対処するには必要だ。デカルトの誤読から始まった科学や経済偏重の心身二元論の価値観が浸透することによって、精神という魂の問題はすっかり隅に追いやられた。ある種の文学がダメ人間を好んで描くのも、世俗化された社会生活からこぼれ落ちそうになることで、魂の問題について考えさせるからであろう。社会生活という名の経済活動に邁進していれば、安定した枠からはずれないですむ。そうなると死後の問題は鬱病の徴候のようなものでしかないのかもしれない。死後の世界を本にしようとして失脚した女性キャスターは、自分の経験した未知なる体験にとまどい、その意味を共有できるような深いコミュニケーションを求めて本を書く。こういう経験はおそらく伝えようとせずにはいられないのだろう。マット・デイモン演じる霊能者が彼女に接近してゆくくだりについては、恋愛映画的なご都合主義ととらえるか、客観的偶然のような好運と捉えるか賛否がわかれるところだ。死後の世界を云々するよりも、まずは現世に救いや希望がなければならぬという監督の意志の現れのようにも感じられる。霊能者もニュースキャスターも、さまざまな悩みを抱える現代人にとって情緒安定装置になる点で有用である。映画もまた然りだが、ただし観客を揺さぶって情動を喚起しなければならない。この映画は死後の世界をわかりやすく描いて安定させるのではなく、魂の存在はあるのかないのかさりげなく考えさせながら、世俗化した現代人に厄介な問いを突きつける。人間の身体は経済原理によって機械化されたが、その機械を動かす精神はいまだ暗黒大陸のままだからだ。もっとも脳科学の説明ですべて納得できる人にとってはこの映画は退屈かもしれない。機械が停止するまで走り続けるか、動物のように快と不快の世界にとどまっていればいい。この映画は、クリント・イーストウッドという巨匠が、幸か不幸か目覚めてしまった人たちに捧げた贈り物である。
2011年02月24日
「息もできない」を新宿で。韓国版「その男、凶暴につき」という趣。といってもヤクザではなくチンピラの暴力だ。派手なドンパチもカーチェイスもない。家族や部下、借金漬けの人たちをひたすら殴る蹴る。借金取りとしては実に有能な取り立て屋なので社長に重宝されている。この人にこれ以上むいている仕事はないのではないか。だが部下まで殴るのはあきらかに過剰だ。この昇華しきれない鬱屈は父親への憎しみが関係している。ところかまわず爆発するので、あとでツケを払わされることになる。男は似たような境遇の女子高生と知り合い、通帳をつくりケータイの契約をすることで、少しはまともな社会生活をおくるようになってゆく。だが自らの過剰が災いして報いを受けることになる。主人公を演じる役者が屈折した荒くれ者を好演していて、話の内容とぴったり合っている。日本の映画やドラマだと主役に抜擢されないような容姿の俳優だ。憎しみや暴力の連鎖をえんえんと描く濃さも珍しいかもしれない。悪循環は親子だけでなく職場でも転移してゆく。現実には日本の新聞にも似たような暴力事件は日常的に報じられているが、映画にするとなるといろいろと難しい。テレビで宣伝しやすいようなキャスティングで、現実逃避できて感動できる映画が優先される。それはそれで社会的な過剰が作り出す負の連鎖なのだろうが。
2011年02月10日
「キック・アス」を新宿で観る。正義の味方を夢見る若者を、漫画的誇張をまじえたすさまじい暴力描写を交えながら痛快無比に描いている。デフォルメすることでようやく娯楽になりうるようなギリギリの線を狙っている感じで、こうした描写は、それが暗示する風刺的な毒舌もそうだが、アメコミ映画ならではという感じがする。謎の幼女がもうひとりの「スーパーヒーロー」として登場するのだが、これが「セーラー服と機関銃」や「スケバン刑事」どころではない活躍っぷりで、子供と大人がここまで真剣勝負の殺し合いをするのかと驚かされた。子供も親もクレイジーなのが笑える。世も末だと嘆くと同時に、奇想天外な設定だからこそファンタジーとして笑うことができる。 映画マニアも銃器マニアも納得のかっこいい演出もリズミカルな展開に拍車をかける。ネットで購入する新兵器もおもしろいが、バズーカの使い方も絶妙だ。精神分析的な見方をすれば、バズーカというファルスを使いこなすことで若者は大人になるというのだろうが、そのような収まりのよい終わり方で、「目には目を」の凄惨な暴力にカタルシスをもたらす。 この映画でもアメリカ自体が体現してきたように正義は力であり、力こそ正義であったわけだが、力の正義で悪を撲滅することはできない。スーパーヒーローたちは学園生活という日常に回帰するが、悪は復権のときを虎視眈々と狙っている。キャスティングがはまっていることもあって、続編もありえるような終わり方ともいえる。 ネットをきっかけに世論が沸騰する様子や、偶像は求めるが誰も自分は矢面には立ちたくないというエゴイズムもしっかり描かれていて、正義の味方は孤独で割の合わない仕事だということが暗示される。この映画を見た人が「伊達直人」を始めたのではないかという感想をネットで読んだが、力にはよらない正義のささやかな実践なのだろう。
2011年02月02日
渋谷で「ソウル・キッチン」を見る。ワールドカップのドイツ代表もそうだが、ドイツ映画界の若い才能が台頭してきた印象だ。さびれたレストランを建て直すというと「王様のレストラン」を思い出すが、その手の話にまとまらずに主人公が右往左往する展開が最後まで飽きさせない。ゴキゲンなソウル・ミュージックがテンポよい展開に拍車をかける。70年代の黒人映画のノリがハンブルクを舞台にした移民の物語にはまっている。黒人のように差別される人たちが惹きつけられ頼りにするものは今も音楽であり、音楽が体現するソウルなのだろう。料理がうまいだけではダメだということだ。日本のファミレスではまるで客を追い出しにかかるように耳障りなBGMが流れているが、ソウル・キッチンでは音楽も料理も対等にサービスされる。カラオケのように密室で身内だけが盛り上がるのでもない。レストラン経営は、料理と音楽を充実させるだけではダメだというのもこの映画の見所だ。資金にものをいわせて乗っ取りにかかる勢力とも渡り合わなければならない。家賃を滞納している役立たずの爺さんが思わぬ活躍をするところがおもしろい。出ている役者の面構えもいい。気の強そうなウエイトレスもそうだが、しぶとく生きている人たちの顔をしている。前科者の兄貴も憎めないし、風のように去ってゆく天才シェフも強烈な印象を残す。こういう異能の人が店を救ってしまうとわかりやすい他力本願の話になってしまうが、そうはならないところがこの映画の持ち味だろう。エンディングのクレジットもスタイリッシュにデザインされていて、最後まで手を抜かずかっこよく撮られている。
2011年01月25日
「カティンの森」をDVDで見る。ソ連がポーランド将校たちをカティンの森で虐殺した事件を描いている。虐殺は、ポーランド軍への壊滅的な打撃を与えるためだったのか、捕虜として連行する手間を省くためだったのかはわからない。ポーランド軍に破れた赤軍の恨みをスターリンがはらそうとしたという説もあるようだ。いずれにせよ国内の大粛清を考えれば、当時のソ連がやりかねない大量殺人である。ソ連に滞在していた日本人の共産党員まで粛清されたらしい。 映画では、銃殺される前に将校たちは首に縄をかけられ後ろ手で縛られる。これがおそらく「ロシア結び」なのだろう。カティンの森の事件はナチスドイツとソ連がそれぞれ相手の蛮行だと決めつけたが、これがソ連側の仕業だとする証拠になったときく。 最近、A・J・P・テイラーの『第二次世界大戦の起源』(吉田輝夫訳、講談社学術文庫、2011年)を読んだばかりだったので、この映画は興味深く見られた。この本では、ヒトラーが神経戦を得意として実体以上に軍事力を大きく思わせる外交戦術で次々に領土を拡げていく様子が論じられている。ところがポーランドの思わぬ強硬姿勢に難渋し、ついには軍事侵攻に踏み切り、ヒトラー自身予想だにしていなかった第二次世界大戦へと拡大してゆく。強気なポーランドの背景にはイギリスとの同盟が関係していただろうが、実際には英仏軍は約束どおりの援助は行わず、独ソがしめしあわせて侵攻によってポーランドは分割される。 当時のポーランド軍については、騎兵がドイツの戦車軍団に突撃して潰走したという従来のイメージを覆す説が定説になっている。ポーランドには強気にでるだけの理由があった。英仏が自分は犠牲を払わずに利益をあげようとする態度がヨーロッパ各国の不信感を増幅させ戦力均衡を揺るがし、ドイツにつけ込む隙ができたのは事実だが、連合国でポーランドはそれなりの軍事力を保持していた。イギリスに逃れたパイロットたちはイギリス空軍の作戦に参加し、有名な「バトル・オブ・ブリテン」で多くのドイツの戦闘機を撃ち落としたという。とはいえ結果的にそれが過信となって、独ソとの緊張を緩和する外交を怠った。 データを見ると、ポーランド軍は旧式の装備にも関わらずドイツ軍にかなりの物的損害を与えている。ポーランド軍は侮れないという情報がソ連にも伝わっていたのか知らないが、結果としてカティンの森のような惨殺事件が起きた。ポーランドがダンツィヒを諦めていたらカティンの森の事件は起きなかったのかどうか。それはわからない。いずれ独ソは激突する運命にあったようにも思われる。そうなれば結局、ポーランドの悲劇は避けようがなかっただろう。
2011年01月23日
「ノルウェイの森」を新宿で観る。ケータイもパソコンもない時代だからか、やけに古風でゆったりとした映画に仕上がっている。まったりした男女の情景から聞こえてくる鳥のさえずりや雨音が余韻に残る静かな映画である。監督が小津の映画をリスペクトしてそうな、折り目正しい「日本映画」にみえる。昭和の鬱陶しい生活臭を感じさせない若者たちが恋人に手紙を書き、寮や実家の固定電話で連絡を取り合う。LPレコードに岩波文庫に学生運動。原作小説はベストセラーになったので、当時なんとなく読んだのだが、21世紀の今、学生運動のシーンなど見ていると、こういう雰囲気の小説だったのかと思い返す。正月から自殺者が三人も出る話など見たい人は少ないのか、比較的空いていたので、なおさらゆったりできた。茫洋としたマツケン演じる主人公も田舎から出てきた木訥な青年風で妙に和む。ミドリ役の女優も可憐で妖艶な魅力がある。小説と違和感があるのは菊池凛子の演じるナオコぐらいだ。本来なら彼女が性と死と狂気の渦に主人公を巻き込む役回りだが、怖いばかりで引き込まれない。自殺した親友の恋人だったという過去はあるにせよ、主人公がそこまでこだわる存在には映らないのだ。この主人公にはあまりガツガツとしたところがない。女たちに何かを頼まれれば「もちろん」と答えて応じるあたりが、アッシーやメッシーと揶揄されたバブル時代の便利な男たちのようだ。学生運動に熱狂できない彼にとっては、恋愛が蜃気楼のように魅惑的にみえたのだろう。ただこちらにはそんなに魅惑的なものには見えなかった。これは映画のせいなのか、私が年をとったせいなのかはわからない。その両方かもしれない。
2011年01月02日
「トロン レガシー」を新宿で観る。前作「トロン」はCGが革命的だというので大いに話題になったものだった。今回は3Dも物足りないくらいで、もはやそういう段階に映画が突き進んでいることを感じさせる内容だ。走行する、飛翔する、闘うといった3Dがはえるシーンもちょっとやそっとではもう驚かない。むしろ前作と似たようなコンセプトの仮想世界は懐かしさすらおぼえる。このブログのサイトのように現実世界は広告まみれであってもおかしくないが、このトロンのヴァーチャルな世界は、シンプル極まりない美意識に貫かれており、どこか「沈鬱な」とでも言うべき暗さには、昔のビデオゲームの飾り気のなさに相通じるものがある。 前作の主人公が父親になり、息子が幽閉されている父親を助け出そうとする。この父親と対立する悪役がおもしろい。父親の若かりし頃の風貌をCGにして別の役者の身体に合成して作っている。若返りもCGで自然に作れるようになった。妙にくっきりした没個性の若々しい美男美女たちが画面に溢れる世界は、すでにCGを使わずとも日常的にテレビで実現しているが、これからは成長した生身のキャラクターも時間を逆回転するかのように若返りする。 すでにネット世界でソーシャル・ネットワークが張り巡らされ、現実世界と連動しながら世の中は動いている。タレントの「つぶやき」で大騒ぎになったりする。トロンの描いていた仮想世界は、もはや「未来感」が感じられない。コンピューター・プログラムによって発生したかのように我々は生まれ、行動し、ゲームをさせられ、選別される。とにもかくにも「トロン」の主人公は悪夢のような仮想世界から帰還し──しかも美女が一緒についてくる──朝日を眺めて再出発を決意する。なんともお気軽な身分なわけだが、だからこそ娯楽としてはちょうどいいのだろう。
2010年12月24日
里見蘭、『さよなら、ベイビー』、新潮社、2010年。ひきこもりの青年が誰の子とも知れぬ赤ん坊を抱え込む。両親とも死別し、いよいよ追いつめられ現実と対峙するはめになる。親戚や民生委員のお姉さんたちの協力を仰ぎながら、立ち直るきっかけをつかむのだが、赤ん坊の両親を捜すうちに自分の出生にも秘密があることを知る……。物質的には快適なひきこもりの空間に侵入してきた赤ん坊の存在がおもしろい。ひきこもりの治療法に赤ん坊の世話をするのは、社会に出て行くきっかけになるのではと思わせるほどマッチしている。盲目的な生命の欲動は不気味であると同時に世界を明るくもする。有無をいわさぬ現実へと青年を結びつける触媒にもなる。可愛いだけではすまない社会的現実もしっかり描かれている。不妊治療や特別養子制度が一例だ。まただからこそ主人公は赤ん坊の世話を通じて成長することができた。赤ん坊とカラオケボックスに行って、デリケートな鼓膜を考慮して「上を向いて歩こう」を選曲するなんて誰にでもできることではない。ひきこもりにもいろいろあるのだろうが、今の世の中でひきこもりならずとも立ち直ることが難しいとすれば、ひきこもった人が再び社会に適応することは至難の業である。この小説では、そうした困難な状況を打開しうる一つのモデルを提示している。もちろん小説ならではの好運なケースなのかもしれない。彼が仕事をみつけてやっていける保証はどこにもないし、そもそも解決法を指南するための本でもない。心を閉ざした人間が心を開く過程を小説という形式によって多面的に描くことが主眼だろう。一直線に進まない凝ったストーリー構成は、ミステリーのサスペンスをかもしだすと同時に、複数の人たちが織りなす錯綜する現実を丁寧に描こうとする作者の意図が感じられる。ある意味でひきこもりも赤ん坊のようなものだが、対決したら本物の赤ん坊にはかなわない。なぜかなわないのかといえば、良心の呼び声のようなものがまだ彼にはあるからだろう。生死や自殺未遂のようなシリアスなテーマを扱いながらもこの小説がどこかユーモラスで爽やかな余韻を残すのはそのためだ。主人公がひねくれていないタイプのひきこもりだったのが幸いしたのかもしれない。
2010年11月30日
「13人の刺客」を六本木で見る。新宿のピカデリーが満席で入れず六本木ヒルズ内の映画館に移動したのだが、空いていて助かった。 オリジナルも見ていないので、誰が誰なのかを把握するのはけっこう難しいが、個々の人物をどうのこうの描こうとしている映画ではない。「斬って斬って斬りまくれっ!」と役所広司が絶叫する台詞に象徴されるような痛快無比のチャンバラ映画で、カンフー映画のようなアクションをたっぷりと堪能できる。 とはいえ陰惨で血なまぐさい映画であり、両手両足を切り落とされた女のようなグロテスクな場面もある。武士道じたいが息苦しいほどの縦社会なので、男同士の鬱陶しいやりとりが続く。そこで伊勢谷友介の「山の民」が陽気な野人を演じて「7人の侍」の菊千代のように風通しをよくする。サムライの無骨な真面目さを笑い飛ばす。原作がどうなっているのか知らないが、ゾンビのように甦らせる点からしても重要な役回りになっているのは間違いない。彼だけが常識や武士道でがんじがらめになった侍たちを俯瞰するユーモアがある。世間に適応せずとも山の中で生きていけるので悲壮感が漂わない。 俯瞰した目で眺めているのは、ユーモアはないにせよ、稲垣吾郎演じるお殿様も同様だ。殿様が「山の民」の台詞に感心する場面があるが、外から眺める余裕があるからなのだろう。 「7人の侍」のように農民の勝利が暗示されることもなく、下僕は下僕としてこき使われ、破滅してゆく。刺客だけは自分の意志で破滅の美学を実践し、屈辱や無念の死を免れる。伊原剛志が出ているせいもあるが、「硫黄島からの手紙」の玉砕とだぶるところもある。だがこの時代には火炎放射器や機関銃もないので、刀と刀の勝負でけりがつく。テクノロジーによって虫けらのように消去されるのではなく、死力を尽くした人間同士のドラマのなかで絶命する。要人暗殺という使命の遂行よりも、世の中のシステム自体に体当たりでぶつかって散っていくことが目的であるかのように死んでゆく。 死ねば物事は解決する。少なくとも当事者にとっては。生き残った侍が途方に暮れたように廃墟のなかをとぼとぼ歩いて妻の待つ家に帰っていく。妻は喜ぶだろうが、侍は憂鬱な日々に耐えなければならないだろう。暴君を倒してもかわりばえしない世の中と対峙していかなければならないからだ。
2010年10月20日
「ミックマック」の悪役は、軍需産業だというところがいかにもフランス的だ。ところが検索してみると世界の軍需産業のベストテンにもフランスの企業は入っていない。米英がほぼ独占している。さすがに二十位以内となるとフランスから二社がランクインしている。お客さんは政府で、独占契約のために競争原理が他の商品のようには貫徹されないこともあり、スキャンダルも起こりやすい。この映画でも社長たちが契約を結ぼうと血眼になっていた。 軍需産業は兵器だけではなく食品や衣料も含まれる。近代戦は最先端の技術がぶつかりあう総力戦なので兵器の優劣で勝敗が決するわけではない。どこでどう戦争とつながっているかわからない。いつのまにか軍需産業で働いているかもしれない。戦争と関係ない産業は有用性が低いとして仕分けされる世の中になるかもしれない。すでに経済競争という次元ではそれが現実になっている。 この映画でコテンパンなめにあう社長たちのせいで会社の株価も暴落するのだが、いずれ他社がその地位におさまるか、別の社長が就任して軍需産業自体は存続してゆくのだろう。そういう力がものをいうやりきれない現実があるので、この映画のように悪役同士を競わせて自滅させるという「用心棒」のようなエンターテイメントはこれからも撮られることだろう。
2010年09月18日
「ミックマック」を恵比寿で見る。恵比寿のビール祭りということで、入り口で缶ビールを配るサービスがあった。レンタルビデオ店で働く主人公バジルは、発砲事件に巻き込まれて弾丸が頭に残り、職も住むところも失う。浮浪者たちの怪しげな修理工場で一緒に暮らして働きながら、軍需産業の社長たちに復讐しようとする。父親は地雷事故で亡くなっていたのだった。「目には目を」の復讐劇にならず、いたずらで復讐しようとするところが「アメリ」の監督らしい。ハイテクの武器の時代に手作りのガジェットや各々の特技(それ自体では現代社会では無駄な特技)、チームワークで対抗する。時代に取り残されていったものを活用するというところが、古き良きフランスの郷愁をかきたて、ミシェル・ゴンドリーの映画にもみられるようなバカバカしさを演出する。地下の不思議な共同体という話はリュック・ベッソンの「サブウェイ」もそうだったが、「ミックマック」のほうが勧善懲悪でわかりやすい。 レンタルビデオ屋で働いていただけの主人公が特殊部隊のような身のこなしなのはなぜだと突っ込みを入れるのは野暮だろう。マイケル・ムーアの突撃取材のように、巨悪に一撃を加えてスカッとさせる娯楽映画として見ればいい。You Tubeが最新の兵器に匹敵する武器になりうることもわかる。
2010年09月18日
「ヒックとドラゴン」を新宿で見る。3Dアニメで見栄えのする飛ぶシーンはさすがの迫力。急速に進歩した分野ではないか。これ以上何をどうするのだというくらい見事である。技術的には進歩でも想像力的には退化だという意見もあるかもしれないが、臨場感があるのは事実。原作は児童文学だそうだが、活字もアニメもそれぞれはりあうことなく別のものとして生き延びていけばいい。 バイキングの少年ヒックがドラゴンと親しくなるにつれて、ドラゴンを倒す訓練に励む日々に疑問を抱く。若者が自分の世界を拡げて高揚させてくれる乗り物(=相棒)に憧れるのはいつの時代も変わらない。アニメのモビルスーツもそういうものだ。とはいえ最近の若者はバイクに乗らなくなっているそうだから、こういう衝動をどう手なずけているのか、そもそもなくなってしまったのか。ケータイがむしろそういう身体感覚の延長や拡大として機能しているのかもしれない。死という生の限界と戯れるバイクとは違って、ケータイではそういう身体感覚は得られないが。 父親たちのマッチョで戦闘的な価値観は、子供たちの共生の価値観の前に反省を迫られる。バイキングというと戦闘集団のイメージがあるだけに象徴的だ。ヒックの孤独な戦いによって、大人たちの競争原理に盲目的に従うだけが人生ではないことを他の人たちも知ることになる。とはいえ、ヒックはドラゴンと結局戦うはめになり、それなりの代償を払うことになる。最初から共生で皆がうまくまとまるようなおとぎ話になってはいない。「やむをえず」巻き込まれるというところに観客は共感する。魔物と対決して乗り越えるところにカタルシスをおぼえる。最終的に非力な少年が知恵をしぼりながら仲間の協力で大きな成果を達成し、父とも和解を果たす。かくして清々しい余韻とともに映画は終わる。
2010年09月09日
「幸せはシャンソニア劇場から」をDVDで見る。原題は「Faubourg 36」とそっけない。邦題からすると、古き良きパリを描いたハッピーエンドの人情メロドラマを想像するし、そういう映画にも仕上がっているが、なかなか厳しい作品である。陰惨な暴力の場面もある。なにせ隣国のドイツではヒトラー劇場で盛り上がっていたわけである。フランスにもファシズムが隆盛し、諍いが絶えなかった。思想上もそうだし、経済的にも逼迫していたので金銭のトラブルも多かった。どいつもこいつも拳銃を持っている。劇場のスタッフが金庫番になって順番で泊まり込んで見張っている。そんなことからも1936年のパリの厳しさをよく伝えている作品である。赤軍兵士だったという劇場の若者がいる。年齢からしてスペイン内戦に共和国軍側で志願したのだろうか。彼の恋敵はファシズムの組織を支援しているオジサマだ。彼らがとりあうことになる美貌の天才歌手の登場で劇場は復活する。だがそれもつかの間、彼女はラジオでスターにのしあがっていく。この時代はなんといってもラジオだ。ラジオばかり聴いて隠居している爺さんが出てくるが、彼の意外な才能もラジオで歌声を聞いたのをきっかけに劇場の復活に貢献する。 ストライキの場面、レオン・ブルムの人民戦線、ユダヤ人差別など当時の情勢を伝える場面がじっくり描かれているので、娯楽作品としては長尺な印象だ。歌姫をめぐる三角関係以外にも、歌姫と生き別れになった父親との関係、妻と離婚した男と幼い息子の関係もからみあって群像劇になっているので長くなるのだろう。ファシズムの集会では余興で物真似芸人が出てきて、劇場で司会の歌姫がコマーシャルをやってみせるのは、当時の状況を再現しているのだろうか。 ミュージックホールでの音楽やスペクタクルのシーンが明るく楽しく陽気なムードに溢れている。当時の客たちもそういう空気に触れたくて足を運んだのだろう。
2010年09月06日
国会図書館に行って来た。永田町で下りるとさすがに警官が多い。路上に立ったままなんて、この暑いのに大変だろう。入館すると、人はけっこういるがなにぶん広いのでソファーで居眠りしている人たちもいる。涼しいし、マンガから何から何でもそろっている。閲覧も無料である。これが近所の図書館だと混んでいて座れないこともあるが、これだけ広いとどこかには座れる。検索もコピーもパソコンで申し込むのだが、係員が何人も待機しているので手取り足取り教えてくれる。こんなにサービスの良い図書館は世界でも珍しいのではないか。厄介なのは街宣の騒音だ。民主党政権打倒を叫ぶがなり声が響いてくる。図書館の近くでは街宣活動を禁じる法律はできないものか。国会議員も迷惑だろうに。あるいは図書館を完全に防音にするほかない。何時間も同じような演説をやるエネルギーには呆れる。これも仕事なのだろう。がなってればどこからかお小遣いがもらえるのかもしれない。図書館近くのタリーズに入ったが、なぜか空いている。人口密度はあまり高くない界隈なのか。涼むのにはちょうどいい。ぼーっと四十分ほど長居していたら店員がアイスコーヒーの容器をさげにきたので家路についた。やはり図書館とは違って資本主義の原理はそれなりに世知辛い。
2010年09月03日
「アエリータ」(1924)をビデオで見る。アレクセイ・トルストイ原作小説の映画化。『戦争と平和』のレフ・トルストイと似ているのでまぎらわしい。技師が妻の浮気を疑って射殺し、ロケットで火星に脱出する。火星には女王アエリータを戴く文明社会が栄えている。そのままパリコレに出られそうな近未来ファッションがみどころだ。「アエリータ」に出てくるロシア・アヴァンギャルドの美学を活用した火星人の服装や建築は、映画史やファッション史でも言及される。ただ主人公が火星に出発するのは、一時間近くたってからで、映画としておもしろいのは80分のうち最後の20分である。主人公とアエリータのラブストーリーのくだりもある。地球人のようにキスをしない火星人のアエリータは興味津々だ。ただ、地球のシーンもそれまでは当時のロシア人の生活や街並みが描かれているので歴史的資料として興味深い。孤児院のシーンなどは革命から内戦に至る激動の傷跡を感じさせる。 火星では地下の労働者たちはすっかり奴隷のようである。三分の一は冷凍保存にするぞなどと恫喝されている。しかし、自由に目覚めた労働者たちによる革命が起きる。ここからはすっかりプロパガンダ映画の展開で、ハッピーエンドで終わる。夫が地球に戻り罪を悔いて自首しようとすると、実は妻を撃った弾がはずれて妻は死んでいないことが判明する。夫が謝罪し妻も許して仲直りする展開には唖然とさせられる。革命まもない古い時代の映画ということで許せるけれども。 その頃、日本映画は活動写真から映画という呼び名が庶民にも浸透したようだ。1923年の関東大震災で東京の撮影所は壊滅し、それどころではなかっただろう。この頃の邦画のラインアップをみていると、この時代に「アエリータ」のような長編SF映画を作っているというのはたいしたものだと思う。
2010年08月25日
「トイストーリー3」を新宿で見る。1と2を見ておいたほうがいいと言われていたが、あいにく見る暇がなかった。たしかに見ておくとその場面にそのキャラクターがそんなことをするのはなぜなのかしっくりくるように出来ている。またトリビアの楽しみは、一つの虚構世界を強化し、より深く没入できるようにする。キャラクターへの親近感もわくだろう。だが前作を見ていなくても楽しめる。3から遡って見るのもありではないかと思う。 大学生の男の子のオモチャとの別れを描きつつ、捨てられるオモチャたちが結束して苛酷な現実に立ち向かう様子が描かれている。男の子のオモチャというのがアメリカらしいというか、大人になるための通過儀礼としてフェティッシュなリビドーを社会的に昇華せよというメッセージが発せられる。つまり金儲けにならない、子供じみたことにかまけているなというわけである。したがって古いものを捨てられない観客ほどウルウルする映画だ。私も引っ越しのときに断腸の思いで多くの物を処分したのでラストシーンはじーんときた。 生きてゆくにはこだわりや愛着のあるものを捨てたり、あきらめたりわりきったりしなければならない。そんな現実の厳しさはハッピーエンドのアニメーション映画で和らぎ、鑑賞にたえうるものになる。ある映画評論家のブログには、捨てられるオモチャは失業者の多いアメリカの現実を描いているというが、なるほどそういう見方も可能だろう。個々のオモチャにはたいした取り柄はない。可愛らしいとか言葉を発するとかその程度のものだ。実際の人間も一つ取り柄があればマシなほうだ。だが厳しく人材としての価値を問われ、他の取り柄がないからと減点されたりする。そういうハードルをクリアーしても短期間で消費されて捨てられてしまうこともあるから、まったく人間もオモチャみたいな扱いを受けている。この映画でオモチャはゴミにならないと外に出られないという設定は意味深である。オモチャたちは団結し協力しあう。すると個々の力を越えた運を呼び込んで現実は好転する。こういうところがいじらしく、また定番の展開でもあるが、オモチャというノスタルジックな設定で間接的に描かれるので大人の観客の無意識に訴える。これが実写映画でマルクス主義者がストライキする話だったらここまで伝わってこないだろう。アニメーションの描写については非の打ち所がない。子供たちがオモチャに襲いかかる場面、ゴミ焼却場のサスペンス、ひとりひとりの表情のきめの細かい描写、最後のおまけのダンスのシーンまで、生身の身体の演技にひけをとらない。アニメに対するダンスや演劇といった舞台芸術の価値は、生身の人間がそれをやっているということ以外にないのではないかと思うほどである。逆に言うと3Dの迫力や刺激に一時的かもしれないが食傷して、読書のおもしろさも再認識するきっかけになるかもしれない。
2010年08月07日
「ハングオーバー」を渋谷で見る。ラスベガスの独身パーティで浮かれ騒いだ男たち。結婚式を控えた男が仲間たちと独身最後の夜を満喫したのはいいが、気が付くととんでもないことになっている。部屋には結婚式に出席すべき新郎の姿はなく、かわりに虎や赤ん坊がいる。マイク・タイソンがやってきてぶん殴られたりする。ストリッパーと婚約したことになっている男もいる。赤ん坊はストリッパーの子供のようだ。とにかく酒とドラッグで記憶が飛んで何がなんだかわからない。 そういう設定のコメディである。それなりに楽しく見られるが、笑いは文化によってかなり違うということを改めて感じる。それもまた映画を見るおもしろさではある。例えば、二日酔いの男たちが警官に連行され、犯人役に仕立てられ、子供たちにスタンガンで撃たせる場面は日本人には嗜虐的すぎる。実際には警察というのはそれくらい暴力的な存在なわけだが。また赤ん坊にオ○ニーの真似をさせるようなシーンというのも、日本では笑いの壺にはなりえないだろう。ちょっとやりすぎじゃないの?とひいてしまう。見方を変えれば、アメリカには悪趣味なコメディというジャンルのもとに自由奔放な映像表現ができる土壌があるともいえる。それにありえないくらいハメをはずすなら、それくらい常識や既成概念からかけ離れていなければおかしい。男同士のハチャメチャで子供じみた空騒ぎは、日本でも工藤官九郎のドラマでもお馴染みだ。だが「木更津キャッツアイ」や「池袋ウエストゲートパーク」は若者たちの話である。通過儀礼のような青春の輝きである。「ハングオーバー」の男たちはもっと年齢が高い。だからよけいにバカバカしくておもしろい。悲哀も感じさせる。社会的には成功した歯科医の夫婦も徹底的にコケにされている。ジャック・ブラックに似た太っちょの彼にコケにされるシーンは秀逸だ。裏を返せば、これだけハメをはずさないとやってられないくらいアメリカ社会が窮屈だということだ。日本でも節約や仕分けといった言葉に象徴されるようにますます経済的合理性によって人が動くようになっている。酔狂の二文字は何処に行ってしまったのか。駅のホームで酔いつぶれているくたびれたサラリーマンには、酔狂の自由を満喫したようにはみえない。かけ声にあわせて一気飲みを強制する学生のコンパもしかり。たしかにワールドカップは熱狂させた。世界の何処でも共通の現象だ。だがそれ以外の方法でこの熱狂を味わうのは、個人や仲間の想像力や才覚が要求される。これはけっこう面倒くさいし、生活に余裕がないとそこまで遊びに情熱的にはなれない。まあそれだけ貧しくなったのかもしれない。賭博だ大麻だ淫行だ何かと糾弾されるようになった。その結果、酒も飲まないのに二日酔いのような気分で労働にいそしみ倹約に励まなければならなくなった。将来的にはこの種の映画はまったく笑えず理解できない人が増えていくのだろうか。それとも不可欠な娯楽になるのか。わからない。
2010年07月09日
「アウトレイジ」を池袋で見る。ヤクザ版バトルロワイヤルというべきか。オシム前監督は「日本のサッカー選手には殺し屋の本能が欠けている」とコメントした。この映画では逆に殺し屋の本能だらけの男たちがサバイバルを繰り広げる。サッカーとは違って、やったらやり返されるという暴力の連鎖が描かれる。暴力で決着のつく生存競争はわかりやすい。時には痛快でもある。ヤクザ映画が廃れないのは殺しの美学が単純で一貫しているからだ。観客はストーリーも結末もだいたいわかっている。そこで監督や脚本家は殺し合いや心理戦をどう見せるかに知恵をしぼる。誰が生き延びるのか、それとも全員死ぬのか。物語のドラマツルギーからして、派手に暴力をふるった者がそれ相応の報いを受けるとすれば、生き残るのはコイツかアイツかと観客は予想して楽しむ。緊張感が続く画面のなかで、北野武はテレビでは放送できないサディスティックな笑いを散りばめ、歯科医院やラーメン屋や大使館がその舞台となる。通常のヤクザ映画では、観客は感情移入する主人公が我慢に我慢を重ねて最後に復讐を果たす場面でカタルシスを得る。だがこの映画ではそういう華々しいカタルシスはなく、現実社会のリアリズムのままに主人公と仲間たちはシステムにこき使われて捨てられ、憤慨しながらも滅ぼされる。この苦さや痛さの後味をどう捉えるかによってこの映画の評価は変わるだろう。「これからの時代は金よりも出世だよ」という小日向文世演じる警察関係者の台詞が印象的だったが、これからのヤクザ映画は表の権力と裏社会のこうした利権の奪い合いや馴れ合いを21世紀の現実に即してどう描くかが問われることだろう。高倉健が北野映画の出演を熱望しているらしいが、実現すればどういう「健さん」が描かれるか興味津々だ。シリアスの権化のような高倉健を撮るとなれば、たけしのことだから笑いをからめたくなるにちがいない。
2010年06月20日
「プレシャス」を日比谷で見る。黒人の貧困家庭の中学生が父親にレイプされて妊娠した子供を出産する。しかも二人。一人はダウン症である。それでも彼女は教師や仲間に恵まれ逞しく生きてゆく。 マライヤ・キャリーやレニー・クラヴィッツが出演しているとはいえ、あまりにも典型的な不幸話なのでストーリーの要約だけみたら見に行く気は失せる。映画館で見る映画は半分ぐらいは付き合いで見るので、そういうきっかけがなければ見なかっただろう。 金八先生のアメリカ版の話なのだが、違うのはプレシャスの人間離れした存在感だろう。失礼な言い方になるが、ほとんどオラウータンである。日本人でも太った女性はいるが、外国人ほど太った人はあまりいない。スーザン・ボイルもそうだが、プレシャスには美人にはない強烈な吸引力がある。腕っ節もつよく暴力的だし、食い逃げはするし、あまり行儀はよろしくないが、ステレオタイプな妄想で苦しい現実から逃れようとするあたりは健気ではある。 とはいえ、貧困や暴力に苦しむ女の子が聖人のような教師に出会って救われるという教訓話のようで、アメリカ人の贖罪のための映画のようである。虐げられた者たちの呪詛をよく聴けという監督の社会へのまっすぐな批判が強すぎた。個人的にはメルヴィン・ヴァン・ピーブルズの傑作「スウィート・スウィート・バック」のような無軌道な主人公が活躍するパワフルな映画が見たかったのだが、そのあたりは食い逃げの場面に限られていた。
2010年06月01日
「アリス・イン・ワンダーランド」の3D字幕版を新宿で見る。成長したアリスが不思議の国の体験にどう決着をつけるのか。そういう問題設定なので、荒唐無稽なワンダーランドは卒業すべき記憶の国に過ぎない。ジャンヌ・ダルクのように勇ましく敵と戦って帰還してみると周りの男連中がいかにも頼りない。外資系企業で経験をつんだカツマー状態のアリスは、金儲けの上手なおじさまと意気投合する。中国という新天地目指して仕事に打ち込むキャリア・ウーマンのアリスの誕生である。 というわけでこれは小説のほうに軍配をあげたい。3Dを生かすためのアクションシーンもヒロイック・ファンタジー仕立ての展開も新鮮味に欠けるように感じた。巨費を投じて大スターをキャスティングした段階でおそらく制約が多すぎるのだろう。二時間でできるだけ多くの人を楽しませようとしてそつのない展開に走るのである。 成長や成熟というテーマは、若い人には共感できるかもしれないが、こちらにしてみれば退屈な話。幻想的でナンセンスなフィクションは、常識や道徳などものともしない話であってもらいたい。物わかりがいいだけの成長や成熟が世界にどんな帰結をもたらしたのかは説明するまでもないだろう。もっともストーリーなどたいして重要ではないのかもしれない。原作との違いや目配りを楽しみ、お気に入りのキャラクターが見つかればそれなりに満足するのかもしれない。
2010年05月20日
「第九地区」を新宿で見る。エイリアンの一団が南アフリカに漂着する。上空では彼らの宇宙船が浮かんでいる。トム・クルーズの「宇宙戦争」のようだが、こっちのエイリアンはすこぶる人間的だ。高い文明を築きながらもだらしがない。好物の「猫缶」目当てにすっかり堕落し、貧民化している。皆で連帯して圧制者の人類を倒す知恵はない。それぞれが孤立し分断されているところも現代的である。そのなかでも優秀なエイリアンの親子が地下でこつこつと地球脱出のための研究に励んでいる。エイリアンを人間的に描くために親子愛はちょうどいい。 エイリアンを管理する男が主人公。要領の良さだけがとりえの軽薄な男だが、中間管理職の悲哀を感じさせる役回りだ。謎の液体を浴びたためにエイリアンに変身するはめになり、人類を敵にまわしてしまう。逃げ回っていたが、ついに片手がエイリアンに変貌したこの男は、仲間のエイリアンのために戦うことになる。 人間ではなく「エビ」と呼ばれるエイリアンにすることで、話が寓話的におもしろくなり、かなりグロテスクな戦闘シーンの娯楽性も高まる。エイリアンが開発した強力な兵器はエイリアンしか使えない仕掛けになっている。ナイジェリア人というリアルな設定のギャングのボスが、エイリアンの武器に魅せられ、裏の権力者として暗躍する。 あまりにも現代の怪談になっているので笑えないが、楽しめるコメディに仕上がっている。三日後に復活したイエスのように、宇宙船で帰還したエイリアンの「クリストファー」は三年後に地球に降臨するのだろうか。それともコロンブスのような侵略者として現れるのか。B級映画のポップな感覚でSF的想像力を刺激する現代の寓話になっている。
2010年04月29日
何日か前に新宿で「シャーロック・ホームズ」を観た。アクションシーン満載のホームズという新たな解釈は吉と出るか凶と出るか。アクションは既視感があって切れ味はなかった。アクションまで推理してしまうというわざと既視感を出すシーンもあったが、そこまで超人だと興ざめする。これが「アイアンマン」だったら違和感がないのかもしれないが。ストーリーも「古畑任三郎」に負けている。三谷幸喜は古畑とロバート・ダウニーJRのホームズが推理を競うような映画でも作ればいい。原作の世界に親しんでいるホームズのファンなら違うのだろう。このキャラクターがこんな風に解釈されていると比較するおもしろさがあるからだ。ロンドンの街が再現されてその世界に浸れるだけでも楽しいはずだ。あるいはこの映画を観て小説に手をのばす人もいるだろう。この映画のノベライズは出るのだろうか。映画の特性を生かしているだけに作家はそうとう苦労すると思う。「シャーロック・ホームズ」という人類の世界遺産を映画化して名前負けしてしまったような作品であった。
2010年04月12日
「インビクタス 負けざる者達」を渋谷で見る。ネルソン・マンデラ大統領が白人中心のラグビーチームを励まして、ワールドカップ優勝を達成する様子が描かれている。スポーツによって皆が団結するという話というと学園ドラマの定番で、ラグビーはその象徴的なスポーツだった。とはいえ「スクール・ウォーズ」のような熱血教師のドラマはあまり好きではなかった。部活動と関係のない型破りな教師を中村雅俊が演じた「ゆうひがおかの総理大臣」のほうが好きだった。 サッカーや野球は好きだが、ラグビーは興味がないのでテレビでも見る気はしない。それでもこの映画には引きこまれたのは、ひとつにはマンデラのカリスマ性と彼を演じるモーガン・フリーマンの魅力である。揺るぎない信念、老獪な根回し、臨機応変な対応、この三つを高圧的にならずにさりげなく実行する。リーダーシップは発揮するが、ラグビーに関しては主将を信頼し、アドバイザーに徹する。アメと鞭ではなく、詩を書いた紙片にすべてを託す。 アパルトヘイトで悪名高い南アフリカという特殊な国が舞台なので、祖国に尽くすという愛国心の発露がアレルギーなく見られる。クリント・イーストウッドは例によって説明を排して、映画ならではの語りで話を進める。その進め方が実にスムーズで、(多少の障害はあっても)好運に恵まれて物事がうまくゆく感覚を映像で体感させてくれる。こんなことは現実の人生ではなかなかないが、スポーツの世界ではそんな奇跡がありうる。しかし奇跡という瞬間的な僥倖は映像にした途端に逃れ去ってしまうようなものなので、スポーツ映画は現実のスポーツにはかなわないことがほとんどだ。 カリスマ大統領、有能なスタッフ、聡明な主将とタフな選手たちがワールドカップ開催のタイミングにうまく化学反応を起こして実力以上の結果を出すことができた。こんなことはそうあるものではない。だからこそ南アフリカの観客はあれほど歓喜し熱狂したのだ。
2010年04月02日
書いてアップしようとしたら「公序・良俗に反する」ということでアップできなかった。表現を変えて何度か試したらようやくアップできた。さっそくこの法律は効力をもちはじめているようだ。
2010年03月15日
東京都が18歳未満の青少年の「ある行為」を描写した漫画やアニメの販売やレンタルを規制する条例の改正案を都議会に提出。どうやってその絵が18歳未満だと判断するのだろう。担当者や会議の「常識的判断」で決まるのか。言語と違ってイメージには否定形がない。それ自体、曖昧なものだ。一方で、法律の運用というのも曖昧なもので、その曖昧さが権力の源になっている。情報を開示しないでいつでも行使できますよ、という構えだけで抑止効果があるとふんでいるのだろう。実際、こういう法律ができるだけで業界の自主規制が起こることは、フランスのコミック・コードの影響にも表れている。法律はいちどできてしまうと改正や撤廃は容易ではない。「もうちょっと表現の自由があってもいいんじゃないか」という意見に耳を貸して改正することは少ない。管理する側にすれば手に入れた権限の縮小を意味する。東京都のやっていることはよくわからん。秋葉原を拠点に日本のマンガ・アニメを世界に発信するのではなかったか。そこで「青少年の健全な育成」によろしくないものは除外したいのだとすれば、そんな「いいとこどり」は娯楽や芸術にはありえない。このような「東京都的」な管理によってもたらされる無味乾燥で窮屈な生活に飽き飽きした人が、虚構に生の滋味や醍醐味を取り戻そうとしていることがわかっていない。 「非実在・・・」という奇怪な法律用語の定義も含めて、もっと議論が尽くされるべきである。東京都の関係部署とそこで働く人たちは、せっせと業務に邁進しているだけなのかもしれないが、それがまさに官僚機構の怖さである。……もしかしたらこれは少子化対策か? 愚かしい。世の中にはマンガやアニメが嫌いな人もいる。管理することが三度の飯より好きな人もいる。厄介なものだ。
2010年03月15日
「ハートロッカー」を新宿で観る。アカデミー賞効果もあってか混んでいた。外国の戦争映画が混むというのは珍しい。しかもシリアスな戦争映画だ。アメリカ軍の爆弾処理班がイラクで苦闘する話である。観た人は、不安定なクローズアップやざらざらした質感の映像を浴びて、いつ爆発するかわからない緊張が続くのでへとへとになったはずだ。ホラー映画でいつ背中から脅かされるかわからないようなサスペンスがあるが、ホラーと違って現実に基づいた話であり、化け物を退治して解決というほどおめでたくはない。 なにしろ爆弾処理班だ。主人公がバッタバッタと敵をなぎたおすことはない。第二次世界大戦だったら囚人で編成される懲罰部隊がやらされるような危険な作業に励むだけである。主人公が暴力をふるうのは、酔っぱらって仲間と殴り合いをするときだけである。他のメンバーの神経がぼろぼろになっていっても、主人公だけは無の境地で作業にいそしむ。アメリカの戦争映画では珍しい設定だ。 イラク戦争のニュースというのは、反戦・厭戦ムードを高めないようにするためかテレビで目にする機会は少ない。元横綱をモンゴルまで追い回したりといったどうでもいいニュースが流れている。この映画がアカデミー賞を獲るほどの作品なのかは疑問に思うところもあるが、当事者アメリカならではの社会的な文脈が大きく関わっているのだろう。ハイテク兵器の開発は盛んだが、この戦争の現場はまるで第一次世界大戦のようだ。爆発で人体は跡形もなく吹っ飛び、鉄兜にへばりついた髪の毛だけが形見となるのだ。
2010年03月12日
「アバター」を新宿ピカデリーで見る。お宝を手に入れるために異星人とどう交渉するか、あるいは叩きつぶすか。軍人と科学者とビジネスマンがそれぞれ頑張った結果、悲惨な事態に至る。今回の悪役は、ナチスでも共産主義でもイスラム過激主義でもなく宇宙人でもなく、海兵隊が象徴する地球人である。エコロジーにとって最大の敵は人間だということは誰もが勘づいている。車椅子の若者がアバターという化身を使って異星人とリンクする。異星人の共同体に溶け込むべく、異文化や掟を学ぶ。そういったフィールドワークのなかで、ラブストーリーもあれば、迫力ある戦闘シーンもあって長尺を感じさせないほど退屈しない。飛翔や疾走の場面は、映画館ならではの臨場感を体感させてくれる。横溢する生命力が最新の技術で描き出されている。悪役の「ターミネーター大佐」も憎らしいまでにタフだ。最初に宣伝でみたとき、異星人のヴィジュアルにかなり違和感があったが、これは必要な違和感だった。異質なものは当然のごとく違和感や齟齬を伴うからである。特殊な触手でしかるべき手続きをふめば相互理解できてしまう。素朴なまでに簡単なことなのだが、海兵隊と異星人の衝突は避けられなくなる。それにしてもアメリカ軍よりも強い野生動物がいて良かった。ご都合主義といえばそうかもしれないが、そうでもしないと後味の悪い映画になる。いくら肉体が強靱でも弓矢で機関銃や重火器に対決して勝てるわけがない。リンクするためには眠らなければならないという設定もおもしろく寓意に飛んでいる。世俗の理性的な思考の袋小路から脱却するには、夢想に頼らなければならないようだ。
2010年02月22日
2月17日(水)にこの映画「500日のサマー」を見たのだった。さてどこで見たのか。花粉症の症状と薬でぼうっとして記憶がおぼろげである。ちょっと前のことも覚えていなかったりする。そうだ、有楽町のシャンテだった。よくあるボーイ・ミーツ・ガールの映画。テレ東の深夜にやってそうなポップな感じがいい。作品のクオリティはともかく屈託のない世界に遊ばせてくれる。建築家志望の若者はデザインの会社で働いている。そこでサマーという名の女の子に一目惚れする。ジョンやポールではなくリンゴスターが好きだったり、放送禁止用語を絶叫したり、ちょっと変わったところのある女性。要するにふりまわされる情けない男のラブストーリーなのだが、こっちはサマーにそこまでの魅力を感じないのでいまいち入り込めない。そんなにこだわる必要はない、諦めろ、次いけよと励ましたくなるのだが、ようやく最後になって「次にいく」。悲劇は2度目からは喜劇になるといったのはマルクスだったか。喜劇を演じさせられている自分のおかしさやペーソスを客観視できれば、そこにユーモアが生まれる。子供っぽい青年が大人の男になるにはこのユーモアが必要なのだ。
2010年02月17日
「キャピタリズム マネーは踊る」を新宿で観る。キャラの立ったマイケル・ムーア監督じゃなければ、こういう硬派のドキュメンタリー映画の公開は厳しいだろう。アメリカ人の社会主義アレルギーなど日本人には理解しづらいところもあるからだ。ルーズベルト大統領の演説もまっとうすぎてピンとこないかもしれない。日本が成功例として評価されているのも違和感がある。 パイロットの給料の安さ、大企業が社員に生命保険をかけていた不気味さ、「ゴールドマンサックス内閣」の内実にはぞっとさせられる。とはいえ「アメリカ型資本主義の病理」にも食傷していて、マイケル・ムーアのパフォーマンスも既視感がある。もはや笑えない現実なのだろう。マイケル・ムーア自体が消費されてしまったということもある。これで映画制作は中断して執筆に向かうらしいが、賢明な判断だ。机に向かううちにまた違ったゲリラ的なパフォーマンスを思いつくかもしれない。 現実は「悪い金持ち」を叩けばすむほど単純ではない。映画でも街でおいしいアイスクリーム屋があるとその店に客が集中するというたとえ話がでてくる。我々ひとりひとりの欲望がキャピタリズムを増長させてしまう。職場で「カイゼン」に励むと社内外の競争がエスカレートする。安く良質の商品やサービスを享受できるのでこのこと自体を批判するのは難しい。 多くの人にとっては、そもそも批判する余裕もなく、金をどこかで稼いでこなければならない。映画内ではキリスト教と労働組合という二つの団結の形が示されていたが、あまり説得力を感じなかった。おそらくマルクスが生きていた時代から進歩していないのだろう。
2010年02月03日
「イングロリアス・バスターズ」を恵比寿で見る。ブラット・ピット率いるアメリカの特殊部隊は、インディアンのようにナチスの頭皮を剥ぐ残虐集団。とことんアホっぽく野蛮に描かれている。「テッド・ウィリアムズ」や「フェンウェイパーク」といった固有名をわめきながらバットで殴殺する米兵などアメリカの戯画の最たるものだ。それに対してドイツ、イギリス、フランスは、会話にせよ飲食にせよ映画の趣味にせよ「文化的」に描かれている。復讐のやり方も凝りに凝っている(例によってというべきか、イタリアはコミックリリーフ的な役回りだ)。 ユダヤハンターのドイツ人大佐と追われるユダヤ人美女のキャスティングが見事にはまっているので、長尺でも退屈しない。大佐は、ヒトラーやゲッベルスよりも厄介な悪を体現している。主義主張に縛られることもなく我欲だけの悪党だ。呆れるほど語学も達者で万事において臨機応変に行動する。洗練された悪が最後に「野蛮人」とどう対決するかも見物である。リアリズムにこだわった作品でもないので、史実と異なる展開は読めず緊張感がある。 映画を見て帰ろうとしたら、ホームで人身事故があった。非常ベルが鳴り響き、電車のドアが開かず、中の乗客は閉じこめられている。「目撃された方は…」というアナウンスが聞こえてきた。目の前の電車のどこかの車両と線路に誰かが挟まれてぐしゃぐしゃになっているのかと思うと気分が悪くなった。映画館の外も血なまぐさいことを再認識した日だった。
2010年01月21日
「木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン 東洋と西洋のまなざし」を写真美術館で見る。すでに有名な写真ばかりで既視感がある。背後でおじさんが美術館の職員に「これはどこが決定的なんですか」と一枚一枚尋ねている。職員は粘り強く説明している。声が小さいので説明は聞き取れない。「そんなことは御自分で考えてください」と言いたくなるが、職員の立場からはそれは言えない。カルティエ=ブレッソンなら「この瞬間美が君にはわからないのか」と問いつめたかもしれない。 わかる人はわかる。わからない人にはわからない。写真とは、美とはそういうものである。だがそういう紋切り型を持ち出して思考停止してしまうのはよくないのかもしれない。イメージは説明できる部分は言葉にしようと努めるべきなのかもしれぬ。「この構図がなんとも・・・でして」「この人物の表情がじつに・・・でして」と答えたとする。それでも納得せずに「どうしてこの構図が決定的なのですか」と重ねて質問されたとする。そうなると、「決定的」という問題について徹底的に考えなければならないということになるだろう。一緒にコンタクトシートも展示されていたが、なぜこの一枚が選ばれたのかという写真の芸術性の根幹に関わる問題に抵触することになるだろう。 「木村とカルティエ=ブレッソンはどういった仲だったのですか」「両者の違いは何ですか」という質問ならば、職員は労せずに答えられたかもしれない。素人の素朴な質問ほど玄人泣かせなものはないというが、まさにそんな決定的瞬間を目撃したのだった。 そのまま地下に降りて「躍動するイメージ。 石田尚志とアブストラクト・アニメーションの源流」を見る。アニメの発生から、抽象絵画と抽象アニメまで概観できる。カンディンスキーが特にそうだが、五感を統合するような宗教的な感覚を希求するうちに抽象へと流れ着く過程というのは美術史ではよく知られているが、アニメとの関係というのはあまり知られていなかったのではないか。ただし、アニメではフォルムと音の戯れを単に実験的に追求しただけの作品もあるだろうから、どこまで美術史の文脈を適用していていいのかという問題はある。映像作家によって形而上学的な関心も変わってくるだろう。またアニメーションをメディアアートとして美術史に組み込むには、アニメ史にメディアアートをどこまで取りいれていいのかという問題にも関わってくる。石田尚志の作品は、大きなスクリーンを使った作品が印象深い。映写機が写し出す映像というメタな視点を使いながら、海を背景に有機的なパターンの増殖と矩形のリピートが入り混じって、摩訶不思議なイメージを作り出してゆく。図録に記されたエピソードにあったが、なんでも「気合い」という言葉が大好きだそうで、「気合い」の英訳を戯れに尋ねたところ「永劫回帰」という言葉が返ってきたそうである。「気合いダ!気合いダ!」が口癖の元プロレスラーがいるが、それとは違った意味で永劫回帰というニーチェの概念に「気合い」の精神的な意味合いを感じ取ったのだろう。かとおもえば、バッハのフーガをアニメにした作品もあった。楽譜という記号的な抽象をアニメというフォルムの抽象に翻訳するのだ。こういうクラシックの「ミュージックビデオ」は見ても聞いても楽しいものだ。
2010年01月20日
「ディア・ドクター」のDVD。自殺や失踪といった事件が起きると、人は動機や理由を探し当てようとする。結局、新聞やテレビで多用されるような「心の闇」といった便利な言葉で納得し、忘れていく。僻地の医者が失踪してもたいした記事にはならないだろうが、この映画では医者の心中にゆっくりと接近する。まずは日常が丁寧に観察される。鶴瓶演じる医師は、芸人としての彼のキャラクターと二重写しになることで、陽気でタフな好人物として描かれる。それだけに「心の闇」がますます謎めいてみえる。偽だろうが本物だろうが、医師のような存在を土地の人々は求めている。赴任してきた若い研修医も模範的な人物を求めている。期待にそわないと判明すれば、陰口をたたかれたりボロクソにけなされる(命を預けた相手が詐欺師とわかれば怒るのは当然だが)。期待に応えるかぎり、先生先生と頼りにされる。そんな状況下で鶴瓶演じる医師は、介護を続け最期をみとるという医師と聖職者を兼ねたような役回りを来る日も来る日もこなしている。この偽医者は、善人でもなければ悪人でもない。偽なのだから善人であるはずがないが、かといって悪に徹するほどワルではない。なんだかしらないうちにそういう状況に陥ってしまったのである。この「なんだかしらないうちに」というのが、世の中で働くリアリティに通じるものがある。医師が一人で部屋にいるときには、山のように積み上げられた本や資料と格闘している。これも本当らしい医師に見せるための演技なのか、それとも付け焼き刃で必死に勉強しているのか。あるいは、こんな形で「心の闇」と対峙しているのか。ファンタジーともいえるようなラストで、八千草薫が見せる驚いた顔がいい。一歩間違えばホラーになるようなシーンで、和やかな気分にさせるのは八千草薫と鶴瓶のおかげだろう。赤の他人が最期まで親身になって接してくれることへの嬉しい驚きが表されている。
2010年01月19日
「レスラー」のDVD。盛りの過ぎたレスラーが心臓発作で引退を余儀なくされる。近所の子供とテレビゲームをしたり、ほったらかしにしていた娘と和解しようとしたり、年増のストリッパーを口説いたりする。生き急いだツケを払わされて右往左往している感じだ。特に流血しまくりのプロレスシーンと同じくらい、主人公がスーパーの総菜屋で働く場面が痛い。明らかに雇用のミスマッチである。プロレスシーンより痛いシーンかもしれない。そういえば、心臓発作を気遣うストリッパーに「外の現実のほうが痛い」と主人公がぼやく場面があった。総菜屋の客や上司に比べてプロレスの客やスタッフは暖かい。「アンヴィル」ではプロモーターと喧嘩するくだりもあったが、この映画では人気が衰えて年をとっても、これまでの付き合いの蓄積があってか和気藹々としている。プロレスにはフィクションの要素もあることは小学生でも知っていることかもしれない。だが、フィクションのなかに現れる真実については気づかなかったりする。カール・ドライヤー監督のジャンヌ・ダルクの拷問シーンは、本当に痛めつけていたなんて裏話を聞いたことがある。観客は迫真の演技だと思ってリアルな表現を目にしているわけだ。ヒッチコックの映画もヒッチコックの性格を知れば知るほど、女優の演技に釘付けになる。プロレスファンもきっとそうしたリアルで濃密な瞬間が噴出するときをいまかいまかと待ち受けているのだろう。ラストの宙に舞う決死の必殺技に見入る観客は、レスラーの人生が瞬間的に凝縮され啓示される神々しい場面を期待している。会場には同じように体を張る仕事に身を削ってきた例のストリッパーの彼女もいる。まさにここという場所と時に人生のピリオドを打つことは実に難しいことだが、この映画では戦いの神が最後に微笑んだ(と理解したい)。
2010年01月17日
ラッパ屋第35回公演「世界の秘密と田中」を紀伊國屋ホールで見る。大画面テレビのイメージに慣れてしまっている自分としては、後ろの席だったのでじゃっかん不安があったがすぐに消し飛んだ。舞台の役者の迫力はすごい。たちまち引きこまれた。設定の切り替えもスムーズかつ意表を突いており、舞台ならではの妙味をかもしだしていた。仲の良いアパートの住民たちのやりとりを見せながら、親の介護と自分の人生というシリアスなテーマを取り上げる。40歳を前にしたときのアイデンティティ・クライシス。40歳に限らない。いい年をした母親であれ、恬淡とした老いた芸術家であれ、ひょんなことから世間の枠からはずれてゆく。個性的で、どこか子供っぽい人たちがハチャメチャだったりしんみりさせたりするやりとりを室内で繰り広げる。予想外の設定で笑いを散りばめながら、最後は気持ちよく大団円を迎える。脚本を担当した鈴木聡は、黒い小さなノートをいつも持ち歩き、「世界の秘密に触れた気がするフレーズ」を見つけると書きとめたそうだ。劇中では含蓄のあるフレーズがいくつも乱れ飛んでいたが、きっと何冊もたまったノートから引用され、磨かれていったのだろう。テレビも映画も親も先生も友達も「予告編」ばかり語る、というようなくだりは印象に残っている。結果としてミスキャストになるような期待感ばかり煽られ、肝心要のことは示されることはない。「世界の秘密」は、簡単に教えてもらえるようなものではないのだ。そのことは、教えてもらおうと相談しにいって、あとで手痛いしっぺがえしをくらうことになる主人公がまさに体現している。こうやって感想を言葉にすると抹香臭くなるが、芝居自体は理屈を吹き飛ばすようなカーニバル的な楽しさと賑わいと活力に満ちていた。
2010年01月14日
「ワン・デイ・イン・ヨーロッパ」のDVD。ロシア、トルコ、スペイン、ドイツを舞台に旅行者のトラブルを描く。4都市は、トルコとスペインのチームの決勝戦のテレビ中継によって結ばれる。ガラタサライのハカンシュクルとか懐かしい名前が出てくる。確かにあの頃のガラタサライは強かった。現在のヨーロッパのサッカーの勢力地図はよくわからないが。ヨーロッパでサッカーがどういう存在なのかよくわかる映画だ。旅行者は、テレビに釘付けの人々によって切り離される。警官もテレビに熱中して盗難届を発行してくれない。サッカーはテレビを通じて人々を集団化する。そこには言語も関係ない。日常では、ヨーロッパで意外に英語が通じない様子がリアルに描かれる。ドイツとスペインの合作映画のようだが、世界は英語だけではないことを示そうとしている。仕事中にテレビを見ている警官は、場末の中華料理屋のオヤジのようで牧歌的だ。スペインで観光地の監視カメラが、女性の体ばかり映して機能しないのも人間的だ。牧歌的で人間的というのは、不便で厄介だということでもある。またそうでなければ物語は進展しない。作品としては、サッカーで4話を結んでも雑然とした印象が残る。まさにその雑然とした感じがヨーロッパなのだと言われればその通りかもしれないが。
2010年01月13日
「アウシュビッツ行最終列車」をDVDで見る。タイトル通りアウシュビッツ行きの列車に乗せられたユダヤ人たちのドラマ。回想シーン以外は息苦しい密室劇が続く。人でいっぱいの車両には、バケツ一杯の水、便器用のバケツがあるだけだ。水をどう分けるか、入手するか。しまいには母親は自分の尿を飲んで赤ん坊に授乳する。座して死を待つより脱走を企てる者がいる。見つかれば全員殺されるので反対する者がいる。多数決を提案するものがいて、そんな時間はないと反対する者がいる。生存と自由をめぐる集団の混迷状態は、今の日本にも通じるものがある。子供に希望が託されるラストも既視感がある。 やはり暗い戦争映画はドイツに限ると思うほど、気が狂う者、自殺する者と阿鼻叫喚の地獄絵図である。良心のあるドイツ人もいれば、息子が戦死して虚無的になっている機関士もいて、単純な善悪二元論に落とし込まない終戦間際の雰囲気が出ている。 日本の「満員電車」ほど満員ではないのが意外だった。ろくに座れないほど立ったままの状態で移動させられたという西部戦線を列車で移動したアメリカ兵の話を聞いたことがあるが、この映画の護送列車はそれほど混んでいない。実際には車両ごとに混雑状況は違ったのだろう。 床を必死に削って叩く身振りにすべてが集約されている。目的地に着くまでに穴を開けなければならない。現代のモダンな列車に閉じこめられたら、手持ちの道具ではとても床に穴など開けられそうにない。現代でも「働けば自由になれるArbeit Macht Frei」のかどうかという問いかけは続いている。
2010年01月10日
元日、新聞でも読もうかと近所のモスバーガーに行く。子供連れで賑わっているなかでお婆さんが編み物をしている。その隣の席しかなかったのでそこに座る。ピカピカの店内でお婆さんの居心地は悪そうだが、自宅はもっと居づらいのだろう。「珈琲ですか」とこちらに話しかけてくる。「寒いですからねえ」と返事をする。その後、編み物をしながら、独り言とも話しかけてるともとれるような言葉を発している。「編み物難しそうですね」と声をかけるとそんなことないですよと堰を切ったように喋りだす。お婆さんが落ち着ける店というのは、どうもこの街には少なそうだ。喫茶店も昔ながらの高い店が多い。というか安くなりすぎたのか。 シェーバーの刃を買いにいったら、どの量販店にも在庫がない。取り寄せになるという。毎日使うものを使えずに待つのも嫌なので新しく買うことにした。店員を捕まえて質問するが要領を得ないのでとっとと選んで購入する。店員が去ってしまったからだろうか、近くにいた女性がこっちに話しかけてきた。「ソレ、イイデスカ?」とたどたどしい日本語なのでおそらく中国人だろう。「いいと思いますよ」と返事をする。「ワタシ、コレガイイトオモウ」と指さしたのは、フィリップスのシェーバー。とはいえ、こっちもシェーバーについて詳しいわけではない。やたらと種類があり、値段もさまざまでデザインも多彩だ。「オトウサンノ プレゼント」だそうである。とりあえずどれを買ってもハズレはないこと、多少値段が高くても充電時間が短いほうが使い勝手がいいことを伝える。どれだけ日本語が通じたかわからないが、男が買うときも迷うくらいだから女性が買うときはなおさらだろう。モスバーガーのお婆さんとビックカメラの中国人。今の社会を象徴するような出来事だった。
2010年01月08日
「バッタ君、町へ行く」(1941)を有楽町で見る。フライシャー兄弟といえばベティ・ブープ、ポパイのアニメやスーパーマンが知られている。ヒットを飛ばせなかった「バッタ君」は今では傑作として評価されており、ジブリの後援もあって公開されたのだろう。 国の支援を受けずにアニメを制作する苦労話はよく聞くが、フライシャー兄弟も例外ではなかった。「バッタ君」でもお金にまつわる苦労がストーリーから滲み出ている。バッタ君たちが楽園の地に引っ越せるかどうかは、小切手が人間の手に届くかどうかで決まる。まるで金策に追われる中小企業の社長のような境遇である。 こうしたマネーにまつわる苦労は、第一次大戦後から資本主義大国として覇権を握るアメリカの影の部分を表している。高層ビルに自動車にジャズ。このアニメでも典型的に描かれているアメリカ的なアイテムは、そのまま非人間的なシステムを表している。人間も非人間的に描かれ、しまいには虫ケラのように描かれる。俯瞰することでとりあえず安心したいという観客の気持ちを代弁するようなラストになっている。 古いアニメならではというか、音楽とダンスの楽しい部分も随所にある。アメリカ文化の強みである。感電シーンなどは、カートゥーンの狂気がおもしろく描かれている。封筒に閉じこめられたまま闘うアイディアもおもしろい。 日本の軍令部がこのアニメを見てその価値を見極められたら、アメリカに戦争を仕掛けるべきではないと判断すべきだっただろう。だが日本もドイツもアニメ大国アメリカに追いつこうと資金を投入し、結果的に戦争へと突入した。数値化できない文化を生み出す国力を侮った結果どうなったかは、歴史書に書かれている通りである。
2009年12月25日
「母なる証明――Mother」を新宿で観る。殺人事件の犯人にされた息子の無実を晴らすべく奮闘する母親を描いた韓国映画。母親が子供に注ぐ愛情というのは、無条件で肯定すべきものというのは間違った考えではあるのだが、この映画を観ていると少なくとも半分まではそんな感じで感情移入させる。息子がバカっぽい性格だけにしっかり者の母親に頑張ってもらいたいと思わせる。こういう母と子の絆を描いた話はよくあるので退屈なわけだが、そこは一癖も二癖もある監督のようで、途中であっと言わせる展開にもっていく。この話、どうやって着地するんだというところまで話を逸脱させてゆく。いつのまにか親子の情愛物語が下手なホラー映画よりもよっぽど怖い話になっている。その怖さは、マザコンをグロテスクに描いたデビット・リンチ的な怖さではなく、母の愛の狂気というものが社会でかなりの部分で肯定されているという不気味さによるものかもしれない。今日もテレビで母親がアル中の息子を殺した事件の判決のニュースが報じられていたが、裁判員はかなり同情的な意見を述べたという。判決には執行猶予がついた。それが社会というものなのだ。この映画はそうした盲点を突いている。ホームレスみたいな廃品回収のおじさんから米を受け取って空き家で売春する女子高生が出てくる。彼女のケータイや母親の鍼の道具箱、ゴルフクラブやゴルフボールといった小道具も印象的に使われている。大きな石で殴殺された女子高生の死体はなぜ屋上にあったのかといった謎を散りばめながら物語は核心へと入っていく。おそらくテレビの韓流ドラマでは描かれないような危ない話であった。
2009年12月17日
「カールじいさんの空飛ぶ家」を新宿で観る。少し画面が暗く感じるが3Dならではのシーンも用意されているので楽しめた。風船でふわりと舞い上がる家、その家を引っ張って探検を続けるという荒唐無稽さ。空飛ぶ家と飛行船の空中戦。じいさん同士の対決も子供や動物のように生き生きとしている。憧れの探検家が偏屈になってしまい、闘うはめになるというのも辛辣というか教訓的というか。妻との日々を回想するシーンはテンポ良く叙情的で、全体を通して流れる音楽もしみじみと響く。原題はUPだそうだが、妻を亡くして鬱々していたじいさんが快活に上向いてゆく。しまいには空を飛んでしまう。現実に子供や動物との共生介護を取りいれる施設があるときくが、その点でも示唆に富んだ映画である。家やモノを抱え込むカールじいさんが、あるときモノを捨てることで窮地を切り抜けるシーンなどは、引っ越しに明け暮れたばかりの自分としても共感した。思い切ってモノは処分しても残すべき記憶は残してゆく。ジュースの蓋が子供の頃の思い出の品として象徴的に描かれている。たかがジュースの蓋だが、冒険を共にした少年へと受け継がれることで、国家が授与するどんな勲章よりも誇らしくみえる。「クリスマスキャロル」もそうだが、じいさんを主人公にすえて老いをアニメで見事に描いている。賢者へと枯れてゆく老人ではなく、子供帰りするじいさんの冒険物語だ。子供のできない妻と彼女の死というシリアスな設定も、うがった見方をするならば、冒険へと旅立つには、じいさんはいったん一人になる必要があったのかもしれない。それだけだと行方不明になってしまった日本の風船おじさんになってしまうが、この映画では、子供や動物といった仲間を得ることで、回想や郷愁に閉じられていた爺さんの心も開かれてゆく。色鮮やかな風船や東洋系の肥満児として描かれている子供といい、作り手のこだわりを感じさせるアニメだった。
2009年12月11日
「クリスマスキャロル」を新宿で観る。3Dメガネで観るアニメ。冒頭から浮游感や疾走感が凄い。ジェットコースターのような映画という表現があるが、文字通りの遊園地感覚である。これからホラー映画や戦争映画でも本格的に活用されるかもしれないが、心臓の弱い人は要注意だ。それくらいの迫力がある。アニメというジャンルの地殻変動に立ち会っている感じだ。 偏屈な爺さんをリアルな画風で主人公にするというのも、興行収入が重視される映画では、日本ではちょっと考えられない。アニメ的にぼかすのではなく、逆に実写と見分けがつかないような老醜が生々しく描かれる。クローズアップのみならず、3Dを生かした角度のショットが多用され、過剰なほどの映像的な刺激を発散している。これがもし日本人のキャラクターだったらさらに生々しかっただろう。 老いという陰鬱で宿命的な状況にあって、そこからいかに晴れやかで生き生きとした感覚を取り戻すか。例によって、世の中は金だという感じもなくはないのだが、それを逆手にとった話になっている。3人の聖霊を中心としたメリハリのきいたキャラ設定にストーリー。よくできたアニメに仕上がっている。
2009年11月21日
今月いっぱいで引っ越すのでその準備に追われている。今日はあの一角を攻めようという感じで、戦闘状態である。ハンマーで叩いて組み立て式の本棚を分解する。撤収も大変だ。今日までに大きなダンボール箱19個つめたところである。足りないので業者に追加発注する。清掃業者の人に申し訳ないくらい山ほどゴミが出る。必要なもの、何となく捨てられないものとふるいにかけていくと、捨ててもいいものはけっこうあるものだ。持っていてもきちんと収納して閲覧できないと、持っているだけでほとんど意味がないものもある。記憶で意識化できないモノなど存在しないのと同じである。民主党の事業仕分けが話題になっているが、仕分けというのは荒っぽい。パッパパッパと決断していかないと先に進めない。引っ越しの仕分けで「改革」は達成されるのか。何かしら改善されたのか。それども移動に時間にエネルギーを消耗して失ったものの方が大きいのか。引っ越し準備で仕事のペースは明らかに落ちている。手続きも面倒だ。電話局とプロバイダーが連動しているので、電話を解約し、メールアドレスを残すように手続きしてもらう。メールアドレスを維持するだけで月300円ちょっと払うのもシャクだ。簡単にアドレスを変えられない、変えたくないこちらの足元を見られている。五時で役所が終わるので、転出届を出しに行く。隣の窓口では年金問題でずっと話し合っている女性がいる。引っ越しを何度もするか、あるいは仕事を変えていくと年金記録の書類をちゃんと保管するのは大変だろう。こんなことばかりしていると、モノという存在の意味、モノに埋もれて生活することの必然性について嫌でも考えさせられる。どこまで捨てられるのかというのは、けっこうスリリングな過去の清算である。これからどうするかということも迫られる。そんなことが「パッパパッパ」の間に決定されていく。重要事項には、即座に決定すべきことと熟慮断行すべきものと二つあるが、とりあえず引っ越しに関しては、無造作なまでにスピーディに決めなければならない。それにしても収納スペースが限られているというのは、脳内の思考の制限にも関わることだということも再認識する。手帳というのが電子手帳も含めて時間の活用ツールだとすれば、収納というのは空間の活用術であり、どちらも情報やリソースの活用という点において連関している。だが手帳と違って収納のほうは、最初から限界がある。とにかく黙々と撤収を続けるだけだ。
2009年11月16日
「アンヴィル 夢を諦めきれない男たち」を吉祥寺で見る。売れないロックバンドが30年活動つづけて皆おっさんになってしまった。それでもロックしているというドキュメンタリー。80年代のハードロックやヘヴィメタルのバンドの映像が流れる。知っているバンドばかりだ。十代の頃、よく聴いた。そのなかにアンヴィルがいたとは知らなかった。少なくともレコードを買ったことはなかった。それから何十年もたつ間、彼らはアルバイトで食いつなぎながらヨーロッパをツアーし、アルバムを制作し続けた。売れなくてもそれなりの家に住み、家族に囲まれ、人間的な生活をしているのは、さすがカナダというべきか。日本だったらもっと悲惨だろう。ヨーロッパのオーディエンスはマッチョな男たちが多い。連中が集まる地下の酒場みたいなところで演奏している。ギャラの支払いでもめるあたりが生々しい。日本のライヴ映像も流れるが、小ぎれいな観客が多い。体臭が臭ってきそうなまがまがしさはない。日本では肉食系は矢沢永吉のコンサートに行くのだろうか。ヤザワが60歳を越えてもロックするのとアンヴィルのような活動歴の長さだけが取り柄のようなバンドが続ける意味はおのずと異なる。なにしろアルバムを制作する費用もなかなか捻出できないのだ。継続は力なり。一つのことを10年頑張っていれば、一目おかれるようになるというが、彼らは30年間、ドキュメンタリー映画になるほど、ロックし続けた。情けないほど客も入らず、メジャーレーベルの売り込みも却下されたが、今回は自分たちのストーリーや私生活もカメラにさらして知名度を高め、音楽に付加価値をつけた。映画がヒットして、最近はミシェル・ゴンドリーの新作映画にも出ているようだし、状況はよくなったようだ。それほど音楽がガンガン流れる映画ではないので、彼らの音楽の魅力というのはよくわからない。少なくともあまりうまいとは思えなかった。だが喜怒哀楽の激しいボーカルに愛嬌があって憎めない。彼のキャラクターのおかげで、このドキュメンタリーは成功している。久しぶりに出演した日本のロックフェスティバルで大観衆を前に演奏して晴れやかに終わる。この手の音楽を聴きに集まる日本の若者がこんなにたくさんいるというのは嬉しいものだ。観客を熱狂させるために、貧乏を余儀なくされたおっさんたちが力一杯演奏している。帰国したらまたバイト生活に戻っていく。「糞みたいな仕事」に耐えられるのは、音楽があるからだ。うだつの上がらないおっさんは、音楽の神によって元気に生かされている。性懲りもなくいっちょやったろかと何か企んでいる。夢なんて月並みな言葉で未来をイメージしてしまうから、目先の安全に飛びついて、目指していたものは蜃気楼となって消え去るのだろう。
2009年11月12日
「ロング・エンゲージメント」のDVD。「アメリ」の監督、女優、スタッフで固めている。第一次世界大戦の婚約者の行方を追うヒロインを描く。とはいえ、そこからさまざまな人物のエピソードに枝分かれしてゆくので、話を追うのは大変かもしれない。台詞も多い。しかも軍服を着た男たちの顔を見分けるのは難しい。フランス人ならばお馴染みの俳優なので造作もないのかもしれないが。 そういうわけで、ラブストーリーと謎解きに加え、軍人たちに復讐する女性まで登場する。復讐シーンもなかなか凝っている。流暢なフランス語を話すジョディ・フォスターも出てきた。内容盛りだくさんで咀嚼するのが難しい。それだけのテーマなのでやむをえない面もある。第一次世界大戦のフランスの被害はハンパなものではない。描こうとすればいろんな人物を取り上げたくなる。行方不明の兵士を探すことは、記憶を掘り起こす作業でもある。ハッピーエンドは国民的トラウマの癒しにもなるだろう。キューブリックの「突撃」もそうだったが、フランス軍内部の陰惨な粛清がここでも描かれる。 ジャン=ピエール・ジュネ監督の音声解説がおもしろい。ドイツ兵は類型的にならないようにあえて優しい顔つきの人を選んだ話、どこまでがCGなのか、どの名作を参照してとったショットなのか、コルシカが好きだから原作のマルセイユ出身の兵士をコルシカ人に設定を変えたら酷評された話……次々に明かされていく。二時間以上ずっと喋り続けるのも大して苦ではないようだ。それだけ一つ一つのシーンに思いが込められ、エピソードもあるのだろう。 時代が時代だけに古色が周到に施され、セピア色の映画に仕上がっている。役者たちの迫真の演技にも引きこまれる。でも何かが足りない。脚本だろうか。原作の小説の映画化にあたってはけっこうエピソードを刈り込んだようだが。
2009年10月25日
「バルトの楽園」のDVD。第一次世界大戦の青島攻略で日本軍の捕虜になったドイツ兵と地元民らの交流を描く。松平健やブルーノ・ガンツといった存在感のある俳優を配して安定感がある。板東という俘虜収容所がでてくるので決まったのか、板東英二の軍人役もご愛敬だ。4700人のドイツ人捕虜が日本国内12箇所の収容所に送られたというが、収容所ごとの待遇の格差もよくわかる。 戦争映画というと陰鬱なものが多いので実に爽やかな後味の映画に仕上がっている。明治維新の後の会津人差別の描写はくどいと感じたが、そこも描きたいテーマなのだろう。 第一次世界大戦を描いた邦画は少ないように思う。日本は青島のみならず地中海にも出兵して連合軍の護衛にあたり、死傷者も出しているのだが。そのときの「国際貢献」によって国際社会でのプレゼンスを高めたのだった。この映画ではバームクーヘンのようなドイツの洋菓子や模型や工芸品を作って地元民に売ったり、収容所内で新聞を発行していたことも描かれている。ハイライトはなんといっても、国内初というベートーベンの第九の演奏だ。このエピソードがなければ史実に基づいているといっても締まらない話になっていただろう。
2009年10月25日
「カイジ」を新宿で観る。原作はマンガというメディアが得意とする奇想天外な逸脱ぶりをうまく利用していて、読者はぐいぐい引きこまれていく。気が付けば何十巻も読み耽ってしまう。そういう話を映画化してもあれこれ不満はでてくるに違いないが、うるさ型の客も取り込んでこそヒットする。 競争と協調、どちらが効率的かという議論があるが、ジャンケン勝負の回ではまさにその問題がシビアに問われる。協調に不可欠な信頼を利用して騙そうとする者。それに対抗するにはどうしたらいいのか。集団心理の綾がジャンケンを通じて描かれる。 高層ビルをつなぐ鉄骨を渡るシーンはいささか長すぎて、見ているほうもけっこう疲れる。鉄骨のうえで演技が続いてハラハラさせる趣向になっている。ギャンブルもここまで強制されると戦争と変わらない。使い捨てされる兵隊のように次々に命を落としていく。その様子を上層部の人間たちはじっと観察して楽しんでいる。 「皇帝」「市民」「奴隷」のカードゲームでは、カイジと利根川という悪玉との一騎打ちになる。ジャンケンもカードで似たようなルールだったので冗長に感じるところもあったが、役者の熱演で退屈はしない。まさに血で血を洗う真剣勝負なのだが、映画で表現するにはこれくらいシンプルなゲームがいいのかもしれない。麻雀のほうが遙かに複雑でおもしろいと思うが、そうなるとルールを知らない観客にはわからなくなる。このゲームで何も失うものがない「奴隷」こそ「皇帝」を倒せるという設定も意味深だ。しかも「奴隷」は「市民」を倒せない。もっとも現実はそんなに単純ではなく、誰が敵か味方かもはっきりとはわからず、見えないシステムのなかでもがくばかりなのだが、だからこそ明快なギャンブルと運の不可思議さは人を魅惑してやまない。なぜ相手に勝てたのかという謎解きのパートも用意されており、知力の勝負として解決されるカタルシスもある。 大金を手にしない限り、あるいは命がけの過酷な賭けに勝たない限りは自由にはなれないという殺伐とした世界観を背景にしているが、そういう世界がリアルに感じられるほど現実は「カイジ」的な方に推移している。ギャンブルにエロスや充実を感じても一時の自由でしかないが、自由とは本来そういうものなのかもしれない。
2009年10月22日
「亡国のイージス」のDVD。某国の工作員と一部の自衛隊の連中がイージス艦を乗っ取る。しかも米軍が開発した化学兵器を盗み出し、日本政府を相手に大立ち回りを演じる。それなりに楽しく見られる。イージス艦内部のサスペンスやアクションもある。国防だとか愛国心だとか問題提起もなされている。物足りなさもある。寺尾聡が反乱軍のリーダーを演じているが、人間的な部分に引きずられるキャラクターということもあって、人物に魅力がない。自分の子供がどうのこうのという私情が憂国の志と入り混じっていて――そこが心理的葛藤なのかもしれないが――軍人として不甲斐なさ過ぎて緊張感がない。決起したわりには、部下たちも迷いがあってすぐに統制が乱れてしまう。中井貴一のような冷徹なキャラで固め、誰が反乱軍なのかがもっとわからないような展開に引っ張っていく手もあったのではと感じた。女性の工作員が入り込んでいるのもエンターテイメントとはいえ、鼻白む。しかもなんだかよくわからない死に方をする。原作を読めということか。全体的に憂国談義の台詞が前面に出ているが、この後におよんでそんな場面で議論や説得をしてもしようがないだろうと思う。役者の熱演もあってそういうところが感動的な場面として演出されているのだろう。当時防衛大臣だった石破茂の「英断」によって自衛隊の協力が実現したそうだが、プロパガンダの効果はあったのだろうか。「サハラ戦車隊」(1943)のDVD。「亡国のイージス」は自衛隊の協力だったが、この映画はアメリカ陸軍が協力している。ハンフリー・ボガートが軍曹役で主演。第二次大戦のアフリカ戦線。一台の戦車が砂漠を走る。イギリス人、スーダン人と出会って戦車に乗せて、イタリア人やドイツ人を捕虜にして彼らも戦車に乗せていく。貴重な水も乏しいというのに、捕虜を律儀に連れて行くのだ。捕虜を砂漠に置き去りにする冷酷な役をハンフリー・ボガートが演じたら、アメリカ人の観客もひいてしまうのだろう。水という資源をめぐる攻防はそのまま第二次大戦の縮図だ。水が豊富にあるようにみせかけてドイツ軍をおびき寄せる決死の作戦が山場として描かれる。敵が自分たちよりも圧倒的多数でも、機関銃があれば戦えるということがわかる。さいわい敵は歩兵中心なのだった。作られた時代というのもあるが、例によってドイツ人は戯画的に悪く描かれている。それに比べてイタリア人はかなり「人間的」に描かれている。雄弁にメッセージを発する役に設定されている。「サハラ戦車隊」という邦題だが原題は「サハラ」のみだ。「戦車隊」というと戦車が何台も連なっているように思うが、実際は一台の戦車に多くの兵士や捕虜が乗り込んでドラマを繰り広げる。砂漠で水を現地調達というのは厳しい。水の取り合いで殺し合う姿が戦争の虚しさをかもしだしている。
2009年10月21日
「Uボート ディレクターズカット」のDVD。「Uボート」は二回ほど見た記憶があるが、ディレクターズカットだったかどうかは定かではない。おそらくディレクターズカットではなかったのだろう。今回けっこう新鮮に見ることができた。 司令部と現場のコントラストが凄い。激戦を生き延びた士官たちが渡航地のパーティに招かれたときの場面では、場違いな雰囲気が戯画の域に達している。潜水艦の生活はパーティ的な華やかさの対極にある。映画は臭いまで伝わってこないが、この映画からは潜水艦生活の悪臭に満ちた生活が伝わってくる。息苦しく緊張に満ちた生活で、音楽などの娯楽がどんな風に楽しまれていたのかもよく描かれている。よく言われることだが音楽に国境はなく、好きな曲に国籍は関係がない。 ニヒルな艦長のキャプテンシーにはつくづく感心する。『白鯨』の船長のようなデモーニッシュな情熱に突き動かされるときもあり、単なる優秀な軍人ではない。だがこのニヒルな構えがファシズムのシステムを潤滑に機能させたのかと思うと、これでいいのかという問題は残るが、現場としてはやりようがなかったのだろう。自殺的な作戦を命令されながらも、知恵と勇気を振り絞って生き延びてみせる。そのことで「システム」に一矢報いたと満足したのであろう。一矢報いたあとには過酷な現実が待ち受けていたわけだが。
2009年10月19日
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