存生記

存生記

2010年08月07日
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「トイストーリー3」を新宿で見る。1と2を見ておいたほうがいいと言われていたが、あいにく見る暇がなかった。たしかに見ておくとその場面にそのキャラクターがそんなことをするのはなぜなのかしっくりくるように出来ている。またトリビアの楽しみは、一つの虚構世界を強化し、より深く没入できるようにする。キャラクターへの親近感もわくだろう。だが前作を見ていなくても楽しめる。3から遡って見るのもありではないかと思う。

 大学生の男の子のオモチャとの別れを描きつつ、捨てられるオモチャたちが結束して苛酷な現実に立ち向かう様子が描かれている。男の子のオモチャというのがアメリカらしいというか、大人になるための通過儀礼としてフェティッシュなリビドーを社会的に昇華せよというメッセージが発せられる。つまり金儲けにならない、子供じみたことにかまけているなというわけである。したがって古いものを捨てられない観客ほどウルウルする映画だ。私も引っ越しのときに断腸の思いで多くの物を処分したのでラストシーンはじーんときた。

 生きてゆくにはこだわりや愛着のあるものを捨てたり、あきらめたりわりきったりしなければならない。そんな現実の厳しさはハッピーエンドのアニメーション映画で和らぎ、鑑賞にたえうるものになる。ある映画評論家のブログには、捨てられるオモチャは失業者の多いアメリカの現実を描いているというが、なるほどそういう見方も可能だろう。

個々のオモチャにはたいした取り柄はない。可愛らしいとか言葉を発するとかその程度のものだ。実際の人間も一つ取り柄があればマシなほうだ。だが厳しく人材としての価値を問われ、他の取り柄がないからと減点されたりする。そういうハードルをクリアーしても短期間で消費されて捨てられてしまうこともあるから、まったく人間もオモチャみたいな扱いを受けている。この映画でオモチャはゴミにならないと外に出られないという設定は意味深である。

オモチャたちは団結し協力しあう。すると個々の力を越えた運を呼び込んで現実は好転する。こういうところがいじらしく、また定番の展開でもあるが、オモチャというノスタルジックな設定で間接的に描かれるので大人の観客の無意識に訴える。これが実写映画でマルクス主義者がストライキする話だったらここまで伝わってこないだろう。

アニメーションの描写については非の打ち所がない。子供たちがオモチャに襲いかかる場面、ゴミ焼却場のサスペンス、ひとりひとりの表情のきめの細かい描写、最後のおまけのダンスのシーンまで、生身の身体の演技にひけをとらない。アニメに対するダンスや演劇といった舞台芸術の価値は、生身の人間がそれをやっているということ以外にないのではないかと思うほどである。逆に言うと3Dの迫力や刺激に一時的かもしれないが食傷して、読書のおもしろさも再認識するきっかけになるかもしれない。





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最終更新日  2010年08月07日 16時20分27秒


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