RIKIにっき

RIKIにっき

2006.01.17
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カテゴリ: ノンジャンル
 今日のニュースはホリエモン、小嶋社長、そして宮崎被告のことで終わってしまいそうだ。
 でも、誰が何をしようと、私にとってのトップニュースは、『阪神淡路大震災から11年』である。
 亡くなられた方々に心の中で手を合わせつつ、この先書き進めようと思う。


 11年前の「あの日」、午前5時46分。
 私は兵庫県西宮市と尼崎市の境目近くにある、大学病院の9F病棟に入院中だった。

 まだ暗い冬の明け方、夢うつつの中、遠くから、

ごぉぉぉぉぉ…

 山鳴りのような音が、近づいてくるのがわかった。


 ベッドの下に避難しようとしても、動けない。
 ベッドの頭の部分の、柵みたいになってるところにしがみつくのがやっと。

 私の病室は6人部屋。私のベッドは病室の入り口から入ってすぐ左にあり、また6人みんなの荷物が入った、背の高いロッカーが、病室の入り口のすぐ左横の壁に沿うように、つまり、私のベッドの真横にあった。

 「あかん、倒れてくる!!」

 その恐怖におびえながら、柵にしがみついていると、揺れがようやく止まった。

 ロッカーが倒れてこなかったこと、そして中の荷物が飛び出してこなかったことにほっとしつつ、恐る恐る起き上がってみると、病室には非常用だったんだろう、かすかな明かりがついていた。

 病室を見回すと…、一言で言えば、『グチャグチャ』。
 ベッドの横にある床頭台(しょうとうだい)という、荷物入れ兼食事用テーブルや車椅子、杖など、ほぼ全員の分が倒れ、他の患者さんの床頭台に飾られていた花瓶も割れて、床が水浸しになっていた。

 余震におびえながら、夜が明け、外が少し明るくなるのを待って、患者仲間の女の子とともにナースステーションのほうに行ってみる。

 廊下にあった緑の公衆電話は、廊下に落っこちていて、使い物にならない。

 そしてステーションの中では、ろうそくで明かりをともしているような状態だった。

 「非常用電源があるはずの大学病院で、こんなことになってるなんて…」

 私が「本当に、これはヤバイ」と実感したのは、そのろうそくの明かりを見た時である。

 ベンチが置いてあることから、普段は患者の溜まり場となっているエレベーターホール。 

 病院のすぐ側を走る阪神電車。しかししばらく見ていても、一本も走らない。
 空を見ても、いつもなら伊丹空港を離発着しているはずの飛行機が、一機も飛ばない。
 救急車のサイレンも、消防車のサイレンも聞こえない、異様に静かな外。
 遠くに黒い煙が一本、上っていく・・・。

 なすすべもなく病室に戻り、できる限りの病室の片付けを手伝ってから、今度は、病室の窓から外を見た。
 阪神高速の武庫川ICが、遠くに見える。
 私は、驚いた。
 何台かの車がICから高速に乗った…はずなのに、それらの車が逆走して、ICから出てきたのだ!

 「危なぁー、よう事故らんなぁ~(^_^;)」

 この時点で停電のため、ラジオなども聞けず、何の情報も持っていなかった私。
 阪神高速がそのすぐ先で崩れ、バスが宙吊り状態になっていた、だからみんな逆走して、高速を下りた…ということなど、知る由もなかった。。。


 本当に大変だったのは、その後だった。

 家族との連絡が取れない。

 まともに電話できる公衆電話が、1Fのロビーにしかない。
 余震の恐怖の中、階段を使って9Fから1Fにこわごわ下りて、電話。
 かけてもかけても、ダンナや自分の親のいる京都、そして義父母のいる新潟でさえもつながらない。
 午後になってようやく、新潟にいるダンナの親族と電話がつながって、ダンナや私の親兄弟の無事を確認するまでの間、何とも心細かったこと!

 「帰宅できる人は帰宅するように」と、病院側から言われた。
 体は幸いにも手術前なので元気だったが、「阪神電車が走ってない」とのことで、自宅のあった京都まで、帰れるあてもない。。
 病院から出された食事は、ツナ缶などの缶詰などで、温かいものはない。
 このまま、帰宅できなければ一体、どうなるんやろう……??


 地震の次の日、幸いにも病院の最寄り駅まで阪神電車が走ってくれたため、私は帰宅できた。
 迎えに来てくれたダンナと二人で、大荷物を持って電車に乗る。
 大阪に出ると前日の地震がウソのよう、いつも通りのにぎやかな大阪で、ボロボロになった西宮とは大違いだった。
 あまりの状況の違いに、涙がにじんだ…。


 すっかり長くなってしまったが、あれから、もう11年。
 何も見なくてもこんな長文が書けるぐらい、あの日のことは鮮明に覚えている。

 私は助かった、でも私がたまたまいたところのすぐ近くの街々では、神戸を筆頭に、6千人を超す方々が亡くなっている。
 その違いは、一体なんだったんだろう。
 自分が死んでいても、何の不思議もなかったはずなのに、何で自分は生きて今、「おかん」をやれているのだろう。。。?

 出るはずのない答えを探す、11年目の「1・17」である。。  





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最終更新日  2006.01.17 16:52:33
コメント(10) | コメントを書く


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Re:11年前の、「あの日」。(01/17)  
hitomib4  さん
もう11年になるのですね、当時私は高校生でしたが、地元は地震が少ないので初めて震度4を経験し、しかも高校も休校になりました。

RIKIさんは入院中に大変な経験をされましたね。ご無事でなによりです。
そして亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りいたします。

きっとお茶目な息子さんと出会うために、RIKIさんのすごいパワーが発揮されたのでは?なんだか深いものを感じます。 (2006.01.17 16:50:50)

Re[1]:11年前の、「あの日」。(01/17)  
NsRIKI  さん
hitomib4さん、こんばんは。。
>もう11年になるのですね、当時私は高校生でしたが、地元は地震が少ないので初めて震度4を経験し、しかも高校も休校になりました。
 そうか、そちらも当然揺れましたよね。。
 私も、この震災以前に震度3より揺れた地震って体験なかったから、めっちゃ驚きましたよ。。

>RIKIさんは入院中に大変な経験をされましたね。ご無事でなによりです。
 ありがとうございます、でもほんと、どうして生きてたんでしょうねぇ…。

>そして亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りいたします。
 …ですね。

>きっとお茶目な息子さんと出会うために、RIKIさんのすごいパワーが発揮されたのでは?なんだか深いものを感じます。
 そうですね…。
 とにかく、運が良かった。それしか表現のし様がない気がします。。
(2006.01.17 19:48:31)

あの日。  
確かに皆の記憶に残る日だよね・・・
ラッキーだったって言えばそれは震災にあわなかったヒトの事。不幸にも…というのは震災に遭遇してしまったヒトの事。 どこで振り分けられるのかは分からないけど。。 普通に生きていくことの難しさありがたさが身にしみますね…。 頑張ろうね。 (2006.01.17 22:16:45)

Re:あの日。(01/17)  
NsRIKI  さん
はあるんちゃんさん、こんばんは。
>どこで振り分けられるのかは分からないけど。。
 本当にどこでわかれたのだろう…と思います。

 話がそれますが…。
 震災の数週間後、同じ病院の外来を受診し、入院していた病棟に立ち寄った時には、同室だった患者仲間のお姉さまが、ガンで亡くなっていました。
 震災がなければ、「仲間」としてもう少し、お話できていたはずでした。

 私の「はずだった」、は『患者仲間』レベルのことだけど、犠牲になった6千5百人弱の方々のご家族からすれば、親が、子が、etc…、家族が生きていた「はずだった」わけで、その重さが胸に来ます。

>普通に生きていくことの難しさありがたさが身にしみますね…。 頑張ろうね。
 「普通」が一番難しいです。
 ライフラインが普通にあって、暖房効いてて暖かくって…そのありがたさを思い出す、大事な日です。。 (2006.01.17 22:42:50)

Re:11年前の、「あの日」。(01/17)  
KENT_COM  さん
僕は…
何かできたはずなのに…
何もしなかった… (2006.01.17 23:36:45)

Re[1]:11年前の、「あの日」。(01/17)  
NsRIKI  さん
KENT_COMさん、こんばんは。
>僕は…
>何かできたはずなのに…
>何もしなかった…
 そうでしょうか。。
 今日のKENT_COMさんのブログを拝見しました、その場で何かができなくても、ブログに震災のことを書いて、「表現し続ける」ことで、震災の風化を防ぐ一助を担われているように思いましたが。。 (2006.01.17 23:50:52)

そうだったよねぇ  
麻夏 さん
あの時、「病院にいるんだから何かあれば、ニュースになるはず」と、ニュースをみていたことを思い出します。
京都にいた私でさえ、震災の日の朝のことは、よく覚えていますよ。
助かった人々は皆、「運」だと言われるようですね。ホント、今、命があることに感謝しなくては... と思うよね。 (2006.01.18 23:53:59)

Re:11年前の、「あの日」。(01/17)  
kunkun0516  さん
俺も未だに忘れられません。住んでた場所が大阪でも尼崎よりの海沿いだったこともありかなりのゆれと恐怖でした。
>大阪に出ると前日の地震がウソのよう、いつも通りのにぎやかな大阪で、ボロボロになった西宮とは大違いだった。
そうでもないですよ。もちろんそういったいつも通りの場所もあったかもしらんけど、みんな親戚とかが神戸方面に住んでたりで、見た目ほど平静ではなかったのです。こんなコメントを書いてほんとに申し訳ないです。でも神戸や西宮ほどじゃないにしろ大阪でもかなりの被害があったことを分かっていただきたいのです。
お互いに震災を一生忘れないでしょうね。そして一生忘れてはいけない事にしたいですね。 (2006.01.19 01:07:43)

Re:そうだったよねぇ(01/17)  
NsRIKI  さん
麻夏さん、こんにちは。。
>あの時、「病院にいるんだから何かあれば、ニュースになるはず」と、ニュースをみていたことを思い出します。
 そうやったねぇ、心配してくれてたんよね。。
 ありがとうね。

>京都にいた私でさえ、震災の日の朝のことは、よく覚えていますよ。
 あれは…なかなか、忘れようとしても忘れられないでしょう。。
 麻夏ちゃんと同じく京都にいたダンナも、よく覚えてたようです。

>助かった人々は皆、「運」だと言われるようですね。ホント、今、命があることに感謝しなくては... と思うよね。
 どういうワケで自分の命があるのか…。
 やはり無駄にしたらあかんですね。。
(2006.01.19 15:38:09)

Re[1]:11年前の、「あの日」。(01/17)  
NsRIKI  さん
kunkun0516さん、こんにちは。。
>俺も未だに忘れられません。住んでた場所が大阪でも尼崎よりの海沿いだったこともありかなりのゆれと恐怖でした。
 そっかぁ、尼崎の近くやと、揺れたんやろうねぇ…と思う。ましてや海沿いやと、震源地の淡路島にも近いんやもんね。。

>そうでもないですよ。見た目ほど平静ではなかったのです。
 そうかぁ、そうなんや。。
 あの時は、私は阪神梅田→地下鉄御堂筋線→京阪淀屋橋…と、ただひたすら素通りしてたし、とりあえず大きな被害がなさげに見えてたんでそう書いたんですが、事実誤認だった…、申し訳ないです。

>こんなコメントを書いてほんとに申し訳ないです。でも神戸や西宮ほどじゃないにしろ大阪でもかなりの被害があったことを分かっていただきたいのです。
 いえいえ。
 そう言えば、当時ダンナが勤めていた、大阪にあった会社も、オフィスの中がグチャグチャになってた…というのを聞いたこと、今、ここに書き込んでいて思い出しました。
 関西圏みんな、何かしらショックやったんよね、あの地震は。。

>お互いに震災を一生忘れないでしょうね。そして一生忘れてはいけない事にしたいですね。
 そう思います。
 息子にも、神戸・東遊園地の追悼式典のニュースを見せて、「かあ(さん)も、死んでたかもしれん、そしたら、あんたは生まれてへんなぁ…」という話はしました。
 もう少し大きくなれば、新潟県中越地震を学ぶはず(今の地元の地震なので、社会科ででも学ぶらしい)なんで、それと関連して話をしたいと思ってます。
 風化させたらアカンことやと思ってるから。。。
(2006.01.19 15:52:29)

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