全10件 (10件中 1-10件目)
1
長田塾裁判の論点は原告(訴えている少年)の承知もなく、暴力的になかば無理やり長田塾の寮に連れて行かれたということ。原告の承知もなく、実名、素顔でテレビ放送されたため、プライバシーの侵害。と、いうところにあるようです。これに対して、長田塾サイドとしては、「親権者である親の承認と契約をしているゆえ、なんら問題なし」という反論であろうかと思います。親権者(親もしくは保護者)というのは、法的に圧倒的な子どもへの支配権を持っていて、次のようにあります。第820条「親権を行う者は、子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う」 (監護とは子供を育てその子が成人するまで子ども育て教育し財産や利益を管理することができるということ) 第822条「親権を行う者は、必要な範囲内で自らその子を懲戒し、又は家庭裁判所の許可を得て、これを懲戒場に入れることができる……」(懲戒とは文字通り“懲らしめたり戒めたり”すること)親は、子どもに対してかようなごとくの権利を有しているのですから、その親が長田塾のような機関と契約し、依頼した場合、それは合法となるのではないかとも言えそうです。参照;子どもを所有しているのは誰だ!? これらに対し、『子どもの権利条約』というのがあり子どもの権利条約37条 第37条 締約国は、次のことを確保する。 1.. いかなる児童も、拷問又は他の残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い若しくは刑罰を受けないこと。死刑又は釈放の可能性がない終身刑は、18歳未満の者が行った犯罪について科さないこと。 1.. いかなる児童も、不法に又は恣意的にその自由を奪われないこと。児童の逮捕、抑留又は拘禁は、法律に従って行うものとし、最後の解決手段として最も短い適当な期間のみ用いること。2.. 自由を奪われたすべての児童は、人道的に、人間の固有の尊厳を尊重して、かつ、その年齢の者の必要を考慮した方法で取り扱われること。特に、自由を奪われたすべての児童は、成人とは分離されないことがその最善の利益であると認められない限り成人とは分離されるものとし、例外的な事情がある場合を除くほか、通信及び訪問を通じてその家族との接触を維持する権利を有すること。3.. 自由を奪われたすべての児童は、弁護人その他適当な援助を行う者と速やかに接触する権利を有し、裁判所その他の権限のある、独立の、かつ、公平な当局においてその自由の剥奪の合法性を争い並びにこれについての決定を速やかに受ける権利を有すること。というものもあり、裁判ははたして、どうなるかは、いまのところ不明であるといえるのではないかと考えます。わたしとしましては、やはり、長田氏の暴力的なやりかた。子どもの承認なしでの連行。親に居場所を教えない。マスコミの報道のあり方。心理的に弱っている親に付けこむやり方子どもへ、騙まし討ちのような対応の仕方。つまり子どもへ人権・プライバシーの侵害が、問題となるように思えます。子どもが、不登校・ひきこもりになった場合、親は焦り、自信をなくし、誰かにすがろう、たよろうとしてしまうことが、ときにあります。そしてそのような心理になった親御さんが、長田塾のようなところへ、依頼をしたくなるというのも、わかるような気がします。しかし、子どもは家畜ではないわけですし、子どもの心を尊重するという姿勢も必要とも思います。何にせよ、この裁判は、まだはじまったばかりであり、これからいろいろな事柄が見えてくるのでしょう。願わくば、親も子も、傷つくことなく進んで行くことを望みます。そして、不登校やひきこもりになろうが、なるまいが、もっとよい対処法、解決策が、世に知られていくようになって欲しいものです。最後に、これまで書いたことは、原告側の主張を中心に述べたもので、ある意味一方的なものです。読者の皆さまには、冷静に、多面的に考えていただければと思います。
2005年11月28日
コメント(7)
さて、長田塾の裁判によって、いろいろと考えさせられることが、多くあります。今回はそれらについて述べてみたいとおもいます。今回の裁判が起こる以前から、長田塾には、いろいろな反対意見がありました。しかし、それは以前、前々回のブログに書いたように「長田百合子がキライだ。だから長田塾はよくない」という、ただの感情論が多く、これは説得力もなく、お話しならない。この発想は、「『不登校・ひきこもり・ニート』は、ダメ人間だ。だから、ヤツラは殴って引っ張り出して、働かすか、学校へ連れて行けばいいんだ!」と、いう話しとまったく同じということです。それよりもまず、なぜ長田塾は、何度も繰り返し、テレビに取り上げられているのかを考えたい。テレビは数百万の人が観るメディアで、どの番組でも視聴率争いをしています。長田塾が何度も、テレビに取り上げられているというのは、単にテレビプロデューサーが、長田塾のやり方を気にいっているからというより、視聴者からの反響が多いからと思っていいでしょうね。つまり、視聴者は、長田塾を好意的に観ている可能性が高い。「不登校やひきこもりなんか、親や教師が甘やかしているんだから、殴って連れていって、厳しく教育すればいいんだ」という考え方が、視聴者の潜在意識にあるのではないかと推理できます。実際には、この考え方は大間違いなんですが、一般の人はそれが間違いであるとは知らない。多くの人はこうも思っているものです。「最近の先生は大変だ。なんといっても、バカな生徒をちょっと叩いただけで、ニュースになっちゃうくらいなんだから」本来なら、生徒に暴力を振るわないといけないような、指導力のなさを嘆くべきなのに、一般のイメージは上記のようなものが実に多いのですよ。これが、学校ではなく、一般の会社だったらどうですかね?相手が17歳でも、上司は気に入らないから、いうことを聞かないからと、部下をバンバン殴りますかね?普通なら、その程度の指導力しかない上司は、逆に笑われたり、指導力を問われるどころか、人間性を疑われるんじゃないですか?人を殴るというのは、傷害罪なんですから。おそらく、中卒で働き出した人で、上司に殴られたと言う人は少ないと思うんです。高校時代や大学時代のアルバイトのとき、上司に殴られたと言う人もあまりいないと思う。ところが、学校や親に、「あんなもの殴ってやればいいんだよ」という人は、学校の教師や親に、その異常な特権を与えようとでもしているんですかね?人権という言葉がなかった、江戸時代では親も、学問の師匠も、ほとんど子どもを殴るということがなかったといいます。それを目撃した幕末・明治初期に来日した欧米の人は、驚きの目で見て「なんという優しい民族だ」と、感嘆しているくらいです。欧米では、子どもを家畜のように鞭で叩くというのが、当たり前で、日本で子どもを叩いて教えるというのは、明治以降に西洋的教育法が輸入されてからと言われています。江戸期、子どもを殴らないから悪かったという話をわたしは聞いたことがない。江戸期の藩校などで、生徒が教師に暴力を振るうという事件を聞いたことがありません。藩校には、武士の子どもが来ますが、彼らは毎日、脇差を携帯して学校に行きます。しかし彼らが、キレてケンカのときに斬り合いをしたとか、誰かを斬り殺したという話しも聞いたことがない。いかに現在の教育界が指導力を失っているのかが、見えてくるような気がします。殴って教えるという、暴力支配による教育は、決していい結果を生みません。少年犯罪を犯す人のほとんどが、子どものときに親からの虐待、暴力にあっているといいます。このことを見てもわかるように、暴力による教育は、暴力的な若者を育てるといってもいいかと思います。次に、長田塾のような機関に依頼をする親の心理を考えてみたい。長田塾と契約したのは、親なんですけど、わたしは親を責めるつもりはまったくないのです。大きく分けて、不登校・ひきこもりの親はふたつに分けられるんです。我が子が学校に行かなくなって、焦ってしまったり、困ると感じるタイプ。我が子が、学校に行かなくなっても、それを受け入れるタイプ。不登校問題で、悩んだり、事態がどんどん悪化していくタイプは、圧倒的に前者が多いと感じられます。「我が子が学校に行かなくなって、焦ってしまったり、困ると感じるタイプ」の親は、「子どもは学校に行くのが当たり前」という固定観念に縛られてしまっており、その他の方法論や応用が考えられえない人と言ってもいいでしょう。そのため子どもを怒鳴り子どもをなだめ子ども脅し時には、暴力を振るってでも、学校に連れて行こうとします。そうされた子どもは、自分にも学校に行けない・行きたくない事情があるわけで、その理由も親に言いにくいことも多いのです。理由は学校でのイジメや暴力だったり、しますが、こういったことは親に打ち明けにくいのですよ。そういった理由を知らない親は、あるいは。「イジメなんかに負けるな!」と、気軽に言ってしまえる鈍感な親は、子どもを理解できないでいるため、ますます、子どもを追い詰めることになります。そのため、まずます萎縮し、親を不信の目で見るようになります。子どもの“居場所”というのは、主に家庭と学校となりますが、そういった子どもには、家庭にも、学校にも居場所がなくなるという状態にならざるを得ない。居場所というのは、自分が安全でいられる場所のことですから、家庭にも学校にも自分が安全でいられる場所がないとすると、家の外にそういったところがある子どもは、家にも学校にも寄り付かなくなる。当たり前です。家も学校もその子にとって、安全な場所ではないのですから。家の外に居場所ばない子どもは、自分の部屋に閉じこもらずを得ない。これも我が身を守るための行為といっていいでしょう。そのため、ますます事態は悪化し、家庭内暴力もはじまるかも知れません。そして、子どもを追い詰めていた親は、逆に子どもから追い詰められるようになります。こういったとき、長田塾のように、「2時間でひきこもりを直す」という人がいた場合、つい、その言葉に頼ってしまったとしても、それを間違いと責めることはできないでしょう。つづく
2005年11月26日
コメント(6)
さて、長田塾裁判のあらましについて、この前の講演会で多田弁護士がおっしゃられたことと、不登校新聞の記事を元に、まとまてみたいと思います。事件は、いまから4年前にさかのぼります。原告である少年は、高校一年のときに『不登校・ひきこもり』になります。当時15歳。父親は2年前に亡くなっており、家族は母親と祖母の3人であったとのことです。そして困った母親は、長田塾に依頼をします。長田塾は、依頼を受ける条件のひとつにNHK取取材班同行と撮影を求め、その条件を呑まないと、少年を迎えにいかないということであったそうです。母親はそれを了解します。当日、長田百合子氏をはじめ、塾のスタッフ、取材班、親戚の人や近所の人が、少年が逃げ出さないように家の周囲を固めたとのことです。その数、総勢13人。そして、一つ問題点として、長田塾は母親に子どもにその日、迎えにいくことを一切知られないように指示したとのこと。つまり少年は、当日そのときまで、自分が長田塾に連れて行かれるということを一切知らされず、いきなり長田百合子氏、塾スタッフ、テレビ局の取材班に、部屋に押し入られるということになります。このとき、長田氏は、テレビでよく報道されるがごとく、母親を責め、少年に対しても怒声をあげたとのことです。また、母親に対して、「少年を殴れ!」と言ったりしたとのこと。さらに長田氏は、少年に対し「アンタは何をしたいのか?」と聞き、少年が「働きたい」と答えると、そのまま近所の新聞販売店、ガソリンスタンドに同行させ、働かせてもらえるかどうかを面接させたとのことです。そういったお店は当然、断ります。そりぁあそうでありましょう。アポイントも取らず、周囲を13人の大人がぞろぞろと付いてまわり、さらにテレビのカメラまでいるのですから。断られた少年に対して、長田氏は「そらみろ、働けないだろう」といったようなことを言い。さらに塾スタッフが、少年の目の前で缶コーヒーの空き缶を握り潰し、「力ずくで連れていくか、自分で歩いていくか?」と、威嚇したとのこと。その後、少年は長田塾へ行く事を承諾します。多田弁護士によると、「これは拉致であり、犯罪である」とのことです。拉致とは、刑法31条「逮捕、監禁」、33条の「略取、誘拐」のことですね。カンタンに解説しますと、「逮捕」とは、紐や手錠などで相手の自由を奪うこと。「監禁」は、部屋に閉じ込めるなどして自由の拘束。「略取」とは、暴力、脅迫を使って連れて行くこと。「誘拐」とは、うまく言いくるめて連れて行くこととなります。この場合は、略取・誘拐に当たるかと思われます。ちなみに、長田塾サイドは、「このとき、約6時間かけて少年を説得し、同意を得た」と、言っているそうです。多田弁護士の弁では、これも長時間に渡る居座りと、押し売り商法と同様であり、違法であるとのことです。その後、少年は2度長田塾の寮から脱走を試みますが、連れ戻されています。2度目のときは、長田塾から母親の元に連絡があり、「家に鍵をかけて、絶対家に入れるな」との指示があったとのことです。家に戻った少年は、母親に「長田塾との契約をやめてほしい」と頼み、母親も一度は納得はするのでございますが、結局は長田塾に戻すことになったそうです。このときも、長田氏は母親に、「子どもを殴れ」と言われ、そのときはじめて長田氏に対して不信感を持ったとのことです。このときまで、少年は長田塾で体罰等の暴力は受けていなかったそうですが、このとき、スタッフに正座をさせられ、殴られたとのことでした。さらに、なぜかこのときNHKの取材班も同席しており、そのNHKスタッフからも殴られたとのことです。2度の脱走に失敗した少年は、脱走をあきらめてしまい、そのとき、少年のあきらめの笑顔を、NHKはカメラにおさめ、「少年に笑顔が戻った」と、放送したそうな。その後、少年は塾からアパートにて一人暮らしをするように言われるのですが、なんとそのアパート代は母親が出し、そして少年がどこにいるのかも、母親が聞いても知らされることはなかったといいます。そのアパートでの一人暮らしは、所持金も一切なく、塾スタッフに監視された軟禁状態であったそうです。我が子の行方を教えてもらえない母親は、長田塾に不信感を抱き、ようやく弁護士に相談します。相談を受けた弁護士は、少年問題にくわしい多田弁護士を紹介し、母親の代理人として、長田塾に交渉。ようやく少年は自宅に帰ることができたというものです。母親は、その後、長田塾と解約。ただ、自宅に帰ったといっても、少年を引き出すときの大騒動と、少年が塾に入れられている間に、NHKがその場面の放送をしており、少年は周囲の目が気になったといいます。また、自分を長田塾の寮へ連行させた母親にも、怒りや恨みの感情が沸き、苦しみ、母親もまた、後悔と反省に悩んでいるそうです。少年はその後、本当の一人暮らしを始め、アルバイトで自活をしており、本年、成人し、多田弁護士は、母親の代理人から、本人の代理人になったとのことです。少年は、他の子どもが同様の被害を受けることを繰り返したくないという思いから、提訴をする決心をしたといいます。さて、これが今回の裁判のあらましです。これらの事から、実にいろいろなことがうかがえます。我が子の『不登校・ひきこもり』から追い詰められる親の心理。その弱った心理状態を、さらに責める“救済者”を称する人。それに便乗するマスコミの行動。それを是認する多くの人々の心理などなど。なお、今回述べたことは、原告側からの意見であり、長田塾側からの意見は、入っていません。これは、マスコミ報道をみるわたしたちが、注意をしなければならないことなんですけど、双方の意見を多角的・多面的にみないと、本当のところに近づくことはできません。このことを充分に注意しつつ、次回にこれらの事柄からうかがえる問題点を考えてみたいと思います。つづく
2005年11月25日
コメント(17)
11月23日、つまり昨日なんですが、東京渋谷にて、不登校新聞社主催の『子どもを“暴力”から守るために』という講演会、およびシンポジウムに出席してまいりました。講演は、多田元(ただ・はじめ)弁護士による『長田塾裁判』についてのもので、長田塾というのは、ひきこもりの人や親を、怒鳴りつけて入塾させ、ひきこもりをやめさせるという塾でして、よくテレビ等に取り上げられる塾でございます。今年、この元塾生(当時19歳)が、長田塾と塾長である長田百合子氏に対して、裁判を起したのでございます。この塾には、いろいろな批判がございまして、裁判が起こったときに、わたしが思ったのは、『誰が、いつ、なんの理由で裁判を起したのか?』ということでございます。このことについて、この件について論じている人に聞いてみたところ、誰も正確な答えを言ってくれない。(笑)軽くネットで調べてみても、長田塾や長田百合子氏に対して、ヒステリックに批判しているのみで、ただの感情論にしかすぎない。ほとんどの人が、テレビに出てくる長田百合子氏に対して「気に入らない」「嫌いだ」という理由で、長田塾を叩いておったのでございます。つまり、 長田百合子が嫌いだ。だから訴えられて当然だ。長田塾のやり方はよくない。だからやってしまえ! という論法といってもいいでしょう。この論法というのは、 『不登校・ひきこもり・ニート』は、気にいらない!だからそんなヤツらはやってしまえ!! という論法と同一であり、あまり信用にたるものではございません。『不登校・ひきこもり・ニート』に関係している人こそ、こういった論法を避けるべきであるにも関わらず、率先してやってしまっている感もあったのでございます。わたしとしましては、ただ感情的に非難するということはしたくもなく、前後の事情や、情報が欲しいなあと思っておったところ、不登校新聞さんから、このブログにトラックバックがあり、多田弁護士の講演があるということで、出かけていったのでございます。実のところ、わたしは、この長田塾裁判に関して、幾つかの疑問を持っておりました。まず、訴えた原告は、19歳の人は未成年、少年である。と、すれば、親権は親、もしくは保護者にあるはずである。長田塾に頼んだのが、親であるとしたら、親の承認の元、長田塾に入塾したはずであり、長田塾がよほどの犯罪的行為をしないかぎり、子どもが弁護士を雇って、訴えるというのは、あまりないはずである。訴えるとしたら、長田塾だけでなく、自分をそういった目に合わした親も訴えるのではないか?この少年は、ひきこもり状態から引き出されるときに、テレビに放映されており、プライバシーの侵害という問題もある。だとしたらテレビ局等も、訴えの対象になるのではないか?弁護士はなぜ、この事件に関わるようになったのか?少年が直接、弁護士に相談したのか?それとも、市民団体と称する“圧力団体”の、パフォーマンス、宣伝材料等のために、この裁判を起した可能性もある。ただのパフォーマンスであるとしたら、裁判に勝つ可能性は低く、いたずらに傷つくのは少年となりはしないか?等々のことがあり、それなら担当している弁護士である多田氏の講演を聞くと、ある程度わかるのではないかと思ったのでございます。そして、これらの疑問の数々は、多田弁護士の講演にて、ほぼなくなり、また、わたしが知らなかった新たなる事柄も知ることができたのでございます。では、そのお話しは次回にいたしたいと思います。続く
2005年11月24日
コメント(7)
11月26日、オレはマイクを睨みつけていた。そう、今日はこの映画のナレーションをとるのだ。そしてなにを思ったのか、この映画のナレーションをオレ自らやることにしてしまったのである。バカ、巨椋修(おぐらおさむ)のバカッ!知っている人は知っているが、オレはカツゼツがよろしくないのだ。長州小力よりもよろしくないのである。マイクの横には、撮影カントクのアベが、いまにも噴出しそうな笑みを堪えている。「まて」と、オレはいった。「腕立て伏せをする。運動をすることによって、声の伸びがよくなるとミュージシャンから聞いたことがあるのだ」オレは一気に50回ほど、腕立てをやった。アベが聞いた。「緊張はおさまりましたか?」「うむ。もとより緊張などしておらんが、運動のせいで 胸がドキドキしてきた」 アベはケケケと笑ったあと「ではいきますよ、3、2、1……」キューサインを出す。「こ、こんちわ、こにょ映画のカントクをにゃるオグラオサムで、ででで……」「カットッ!」アベが、悪魔のような笑みを浮かべながらいった。「まったく ダメ だなあ、またかんでますよ。もう同じところで10回はとり直しをしているんだから」くっ、くくっ、これまでダメ出しをしてきたアベに復讐をされているのである。さらに何回挑戦しても、失敗は続く。オレは精も根も尽き果て、オレは半分泣きそうになりながらいった。「ア……、アベさん、お、お酒をください」「なんですと! お酒に逃避するつもりですか!」 「い……、いえ、お酒を飲めば、きっとカツゼツも良くなってうまくいくと思うんです。 ボクは、お酒をチョコっと飲めば、指の震えもピタリと止まるタイプです」 「それじゃ、アルチューじゃないっすか!甘えてないで、さっさと仕事する!」「ひ~」 「そもそも、その関西なまりはなんとかなりませんか?」キョークンがひとつある。あまり人を追い詰めてはならないということだ。ネズミでも猫に追い詰められると噛み付くのである。「ええい! キキキ、キミだってドーホグなまりではないか! だいたい吾輩のみが喋って、キミが喋らんというのは、いかがなものか? このままでは全国一千万のアベ女性ファンがガッカリするぞ!」「ぼくに女性ファンなどいませんよ」(思いっきり笑いながら)「ああ、そうでしたね、アンタここしばらく、一度も女からフラれたことなんかないもんね」 「それは、ボクがしばらく女の子とつきあったことがないという皮肉ですか!」(怒) 「いいか、ナレーションと思うからイカンのだ。キミが質問をする。吾輩が答えるという会話調でやるとナチュラルに喋れると思うんだ」アベは見事にオレの計略に乗った。「わかりましたよ。やりぁあいいんでしょ、やりゃあ。いきますよ、3、2、1……お、おおおオギュラ監督……」「カットや!」そんなこんなで、ナレーション取りはなかなかに進まなかったのである。しまいには、「かまわん! 噛もうがドモろうが、このままでいくのだ!」と、あきらめてしまったのである。よって、この映画が完成しご覧になった方々には、お聞き苦しいところもあるかも知れませんが、お許しいただきたいのでございます。そしてナレーションどりは、まだ完成していないのでありました。吾輩の苦難は続くのあります……。
2005年11月23日
コメント(6)
いま、不登校・ひきこもり・ニートを考える自主映画(仮題)『大丈夫』を撮影しており、後、わたしがカメラに語るシーンを残すのみとなっているんですが、もし、『不登校・ひきこもり・ニート』についての質問。『不登校・ひきこもり・ニート』について、語ってほしいこと。『不登校・ひきこもり・ニート』についての疑問。『不登校・ひきこもり・ニート』について言いたいこと。などがございましたら、コメントに一言いただければと思います。お答えできるかどうかは、確約できませんが、参考にさせてくただきたく思います。よろしくお願いいたします。
2005年11月18日
コメント(13)
少年の凶悪犯罪がマスコミで取り上げられるたびに、取り沙汰される論議。「もっと少年を厳しく罰するべきではないのか!?」という事について、今回は語りたいと思います。少年の凶悪犯罪増えているかどうかは以前に書いた、『少年の凶悪犯罪は増えているか?』をご覧いただくとして、今回は、少年法を厳罰化するかどうかということですね。さてさて、我が国日本の刑罰というのは、先進国にしてはそれほど厳しくないことで知られています。唯一厳しいのは、死刑制度があるくらいでしてね。ヤクザや、再犯を繰り返すような人でない限り、相当な犯罪をやっても“執行猶予”で釈放されます。お金持ちであれば、保釈金や示談金を積むことによって、実刑をまぬがれることも可能。刑期だってある程度まで、縮めることも可能。でも、慰謝料や示談金を積んでも、なかなか許してくれないのが、少年法。大人だったら、示談金でなんとかなるかも知れないのに、少年だと少年院に送られてしまうことが多いんです。なぜか?刑務所は懲役というくらいですから、“懲らしめるため”にあるのに対して少年院というのは、刑務所ではなく“矯正施設”だからです。つまり、少年院というのは、教育のためのものなんですね。だから、なかなかお金でかんべんしてくれないんです。(なんとかしてくれる場合も、ないではないみたいですが……)他にも、児童自立支援施設というのもありますね。昔は、『教護院』と言われ、非行をする少年、非行行為をするおそれがある少年を保護教育する施設です。確か、長崎の小学生で同級生を殺してしまった少女とかも、この施設に入院したはずです。この児童自立支援施設は、学校の機能も含まれていて学校教育を受けることができます。もっとも、最近では、児童自立支援施設への入院児童が減ってきて、公設民営化の話しも出てきているそうです。入所してい少年から話しを聞いたことがありますが、なかなか管理が厳しくて大変とのことでした。問題のある施設もないではない。その一方、少年院や児童自立支援施設に行くことで、はじめて三度三度の食事をするようになったという少年もいる。そういった施設で読み書きを覚えたという少年や、施設の職員・教育者と触れ合うことで、人を信用するということを覚えたという少年もいます。また、親がまともな養育ができない場合や、虐待を受けた児童が送られてくる場合もあります。児童自立支援施設というのは、そういった少年の、保護・教育の施設ということですね。おっと話しがそれた。少年法の厳罰化についてでした。まず、わたしは厳罰化には反対なのですよ。少年が罪を犯したら、厳罰によってそれを抑制するというのは、悪い事をする子どもに対して、殴りつけてそれを抑制するのと考え方で、非常に短絡的なのです。これは、体罰にもいえることですが、恫喝と暴力による人間支配となります。わたしは、そういった体罰にも反対なのですよ。さてさて、前述したように大人なら執行猶予がつく犯罪でも、少年は施設に送られ、保護・教育を受けることになっています。厳罰化するよりも、この保護・教育に重点を置いてほしいと思います。例えば、少年院から出た場合、保護観察という市民ボランティアが、少年を見守るというシステムがありますが、残念ながら、保護監察をする人(保護司という)が、かなり不足しているらしい。厳罰化よりも、そういった面においての強化が必要なのではないかと思います。また、少年院、児童自立支援施設は、矯正・保護・教育が目的なのですから、厳罰化よりも、そちらの方に力を入れてほしいですね。 ただし、万引きにせよ傷害にせよ、罪を犯せば罰せられるのは当然だと思います。最近よく言われているように、加害者は保護され、被害者はやられっぱなしであるというのも事実です。少年に殺されてしまった親の気持ちはたまったものじゃないでしょう。輪姦された少女の親に対して、支援者と称する人が「この子たちに罪はないんです。悪いのは社会や環境です」などと訴えている姿を見ると、あんぐりと口が開いてしまいます。多分、“支援者”と称する人は、自分の娘や息子が、二度と立ち直れないようなダメージを受けたり、殺されたりした場合でも、そういえる人たちなのでしょう。犯罪というのは、“他人に悪影響を与える行為”ですから、実際には被害者本人だけではなく、その周囲の人も被害を受けるということになります。よって、法律は、少年法にせよ被害者感情や保証・保障を考慮に入れたものじゃないとならないと考えます。よって、それを取り扱う人は、私情や感情に左右されることなく、厳格に裁く必要があると思います。それは“厳罰化”ではなく、一生をかけて罪をあがなっていくというものであってほしいと思います。被害者感情から言えば、「加害者を殺してもあきたらない」という思いがあります。一番カンタンなのは“被害者家族に復讐の権利を与える”ということになるんでしょうけど、それだと西部劇や時代劇の仇討ちものになってしまう。わたし自身、愛する者を傷つけられたら、そうするかも知れないという感情があります。そうさせないためと、社会の秩序を守るために法律はあるわけで、そこは充分に考えないといけないところです。また、社会としては、少年に犯罪を犯させないようにする教育と環境を作る必要があるでしょう。これは少年に対する教育だけではなく、大人や親の教育が一番大切なのかもしれません。少年犯罪というのは、大人社会の鏡であるとも思うからです。
2005年11月15日
コメント(7)
タリウムという薬品で、母親を死の淵まで追いやった少女。同級生の少女にストーカー行為をし、惨殺してしまった少年が、マスコミをにぎわしていますね。似たような問題と関わってきたわたしにとって、こういった事件は、特にビックリするような感覚はなく、「あ、表に出ちゃう事件になっちゃったのね」という感覚でとらえてしまいます。まあ、カンタンにいうと、殺人にまでならない事件であれば、それほどめずらしくないということですな。殺人未遂レベルであれば、ちょくちょく耳にしたりもします。未遂レベルであれば、メッタにマスコミも動かないし、家族、学校、病院なども事件を、内々でおさめて、表に出ないようにする。家族であれば、「身内の“恥”をさらしたくない」という心理が働きますし、学校であれば「加害者、被害者、両者の将来のために、事を穏便にすませましょう」となる。いじめ自殺なんていうのは、そのほとんどが、そういった理由で隠蔽される。病院としても、「みなさんがそうおっしゃるなら……」となって、事件が表沙汰にならないだけでね。また、殺人まで至った場合でも、それほど騒がれないことも多いんです。例えば、日本では年間に100人前後の少年が殺人事件を起しているのですが、多くの人は、その10分の1も知らないと思うのですよ。報道されても、一回報道されてそれっきりだから、すぐに忘れちゃう。今回の事件はよくわかりませんが、実際、少し調べてみると、殺人を犯した少年が気の毒で仕方のない生育歴だったり、ある種の病気だったり、殺された相手に非があるとしか思えないような事件も、結構ありますね。つまりね、予防は可能だっていうことです。また、少年による凶悪事件は、この数十年で激減しているのも事実です。不良行為がおさまらない少年や、家庭環境が悪い少年の生活指導をする施設である、『教護院』などは、入所する人員が少なくなって、維持が難しくなってきているくらいです。そういった意味では、戦後教育は、一応の成功を見ていると言っていい。しかし、いま、社会環境、家庭環境の変化もあってイビツな面が出てきていているんでしょうね。わたしは、人間にもっとも重要なのは、信頼とか信用、誠意、愛情だと思っているのですが、そういったところから、いま一度考え直した方がいいように思いますね。
2005年11月14日
コメント(14)
2007年、いわゆる団塊の世代が、いっせいに定年を迎え、企業は人員不足に悩むようになり、失業者は減り、若者の雇用も大幅に増えるという意見があります。それに付随して、ニート・フリーター問題も、改善されているであろうという人もいますね。わたしも“ある程度”までは改善されると思う。“ある程度”は、求職に成功するでしょうし、フリーターから正社員になる人も増えてくると思います。ただ……だからニート・フリーター・ひきこもりが、劇的に少なくなるとは考えにくいんです。フリーターに関しては、正社員になりたいが、そういう企業が少ないため、なかなか正社員になれないという人もいます。そういう人にとっては、チャンス到来となるでしょうね。しかし、他のフリーターやニート、ひきこもりの中には、職があるから働くかというと、そうとも思えないんですよ。元々、人って職があっても、働きたくないとか、正社員になっても、なるべくサボりたいなんて考えているものでね。(笑)それに、不況、不況と言われた時代にも、求人はありましたし、バイトがなかったわけじゃないんです。バイトはあった。仕事はあったのですが、働けない。働いても続かない。働くために、面接を受ける試験を受けるという気になれない。その勇気がない。と、いった人も多くいるということです。だから、そういった人は、仕事がある。だから就職をする。という行為に出るとは限らない。いっとき就職しても、仕事が長続きするとは限らない。本人も、働きたい、働かなきゃいけないと思いつつ、行動に出ることができないという人が、ほとんどのような気もするのです。これは、不登校問題もそうで、学校には行きたいと思っている。だけど、行けないという児童生徒が多くいるというのと同じだと思うのですよ。求人が増えたから、仕事に就くとか、そういった問題じゃなくて、もっと他に根本的な問題がある。それは何か?働くという意欲であり、その意欲を行動に移す勇気や行動力であり、働きたいという姿勢の問題であったりします。もっと言えば、“やる気”の問題でもあるかも知れません。または、対人恐怖といった、人間関係能力の低さがあることでしょう。まずこれを改善していくか、あるいは、少しずつ訓練していく必要にあるでしょうな。かといって、不登校児童生徒に対するように、ニート・フリーターに対して 保健室出社 で、出社をしたからって、働いているわけではないので、出社扱いにしてくれるわけじゃないし。(笑)それに、団塊の世代が定年を迎えても、フリーターになったり、起業したり、再就職したりして、働きつづける人も多いだろうしねえ。だから根本的、ニートやひきこもり個々の、問題を解決しない限り、団塊の世代が、どんどん引退していくからって、ニートやひきこもりが、急に働き出すなんてことは、期待をしない方がいいでしょうね。
2005年11月13日
コメント(9)
明橋大二という精神科医がいます。わたしが以前監督した映画『不登校の真実』にも出演してくださった方でもあります。明橋先生は、富山県の方なんですが、昨夜上京ということで、前作の映画や、富山とゆかりのある人を集めて、宴をやることとなったのであります。おもしろい宴でありましたな。明橋先生が、精神科・心療内科医であり、難しいといわれている思春期外来や、ボーダーライン(境界型人格障害)にくわしいということで、普通あまり聞けない話し、裏話なんかを聞かせていただきました。明橋先生が、『夜回り先生』で有名な水谷修さんと話したとき、水谷さんから「薬物依存の蔓延には、安易に精神薬を出す、医療側にも問題があるのではないか」と言われたなどということえを、おっしゃっていましたが、確かに一面ではそういったこともあるのでしょうね。無責任な精神科医がいるもの事実でしょう。とにかく、いま精神科・神経科・心療内科を訪れる人が多い。本来なら30分40分かけて話しを聞くべきところが、他の患者さんが大勢待っているために、5分10分くらいにせざるを得ない。結果、「では、このお薬を……」で、話しを打ち切るしかない。精神科医は、カウンセリングをするのが仕事ではなく、薬を渡すの仕事になってしまっている現状がある。とは、明橋先生もおっしゃっていましたな。しかし、精神薬依存に関しては、医師を責めるのは、いささか酷というものでもありますね。精神薬依存になるには、患者が用法・用量を守っていれば、そうそうなるものではない。薬物依存になるには、患者が複数の病院に行き、大量の精神薬を服用することによって、依存症になることが多いんです。これは、お酒も一緒で、“用法・用量”を守って飲んでいれば、二日酔いや悪酔いにならず、アルコール依存症になることはないというのと同じなんですね。では、患者が悪いと決めつけるのもかわいそうな気がします。彼らは、オーバードープ(薬の大量服用)をせざるを得ないような、心理状態にあり、不安その他からの解放のために、ついつい安易に精神薬に頼ってしまう。本来ならば、患者が不安や不安定な心理状態にならないような、環境やサポートがあればいいのですが、なかなかそうもいかない。つまり、不安にさせる人間関係・環境等 本人の資質 ↓そこで病院へ行き、薬をもらう ↓薬で、多少の安定を得るが、人間関係や環境は変わらない ↓また、薬への耐性もできてくる ↓より多くの薬を服用して、安定を得ようとする ↓そこでいくつかの病院から大量の薬を得ようとする ↓医師としても、忙しくカウンセリングをする時間がない。 ↓そこで薬を出して様子をみましょうとなる。 ↓患者は、薬物依存になっていくと、なんとも困った悪循環が、そこにあったりします。ですから、患者本人は、薬は正しく服用する。周囲の人は、環境を良くする。医師は、もっとよく患者の話しを聞き、薬の使用についても注意を促すという努力が必要ということでしょうか。他にも、いろいろな事柄を明橋先生から聞くことができたのは、よかったですね。とはいえ、難しい話しばかりをしていたと言うワケではなく、ほとんどが、爆笑、爆笑、大爆笑の連続の宴でありました。そうそう、明橋先生が。「お母さん支援も大切だけど、お父さん支援も大切です。これからやっていきたい」とおっしゃっていましたなあ。確かに、お父さんは家庭のことをお母さんに押し付けっぱなしで、家庭に居場所がなく、何をやっていいのかわからなかったり、突然、家族から見捨てられてしまうこともありますね。お父さんも大変なんだなあと思ったりしましたねえ。
2005年11月12日
コメント(10)
全10件 (10件中 1-10件目)
1