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…道理を学ぶ者。道理を理解している人がいる。そういった人は、それを自分のために使う。自分を研鑽するために使う。ビジネスに使う。コミュニケーションツールとして使う。その用途は様々だ。そこに、その人の人間性が表れる。とある事実に基づいた物語が面白かった。主人公は、道理を学んで理解に努めた人物だった。だが、人格者ではない。学んだ道理を商売に利用した。それで一気に成功者として脚光を浴びていた。その態度に賛否両論。崇める人がいる一方で毛嫌いする人もいた。とても両極端な評価。それが、物語を更に面白くする要素となった。たしかに一世を風靡した。しかし、長続きはしなかった。それでも、比較的穏やかな最期だったようだ。道理が分かれば、どのように立ち振る舞えば良いか自ずと分かるようになる。その理解した道理からどのような人生を歩むのか。この主人公のように強欲に生きるのか。それとも、分相応に無理のない生活を送るのか。それは個々の自由だ。他人に迷惑をかけなければ自由だ。ま、他人に危害や不利益をもたらすなら、因果応報で何かしらの形で返ってくるんだけどね。その身で報いを受けるだけ。それは、悪くも良くもそうなる。良い因果応報はなかなか来ない。よほどの人徳者で他人に施さない限りは良い報いは来ない。その反面、悪い報いはすぐ来る。憎しみは強いエネルギーとなるからね。施すよりも陥れる方が手軽に出来てしまう。それが、人間社会の怖いところだ。それでも、そこそこに人間と関わって生きていかなければならない。資本主義だからね。金や法律を通じて相互協力で社会は成り立っている。金さえあれば必要最低限の人間関係は築ける。正直、その程度の繋がりで俺は構わない。人間関係の素晴らしさよりも怖さの方が上回るからね。数の暴力はなかなかに恐ろしい攻撃力となる。社会露出は控えめに。有名人になんてなりたくない。心穏やかにマイペースに日々過ごしたい。物語の主人公みたいな生活は望んでいない。なるにしても、物語を客観的に眺める狂言回しの立場にとどめたい。物語を描かれるよりも、描く側になりたい。そのためにも、道理を学んで理解していこう。
2026.08.05
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「なんのために生きているのだろう」そんな、無意味な疑問をいだく度に、俺は自分自身に「死ぬために生きているんだよ」と解答している。 死ぬために生きている。そう思っておけば、死ぬまでに何をしたいか、ふと考えるようになる。ま、俺の場合、そこから足踏みしてしまうのだが。特にやりたいことがあるわけではない。熱中できることがあるわけでもない。ただ漠然と、漫然な不安を抱えて生きているだけだ。それでも、死ぬために生きているんだと思っておけば、いくらか不安が解消されるんだ。大したことはない。俺の人生は、他でもない俺のものだ。だからこそ、自由に生きればいい。…………………………………………………「死ぬために生きる」と考え続けていると、おのずと「どのように死にたいか」を考えるようになる。理想的な死に様を考えるようになる。俺の場合は、安らかに眠るように見守られながら、がいいな。平和に旅立つのが理想だ。なにか強い欲望があるわけではない。なにかに執着しているわけではない。無頓着なんだ。だが、眠るように死ねるのが理想だ。そこに行き着くために、俺は今、何をしなければならないか。終着点から逆算して考えるんだ。人生100年時代と言われている昨今、歳を重ねても"健康的"でありたい。安心して生きていきたい。穏やかに過ごしたい。大した願望じゃないんだ。それでも、その願望を叶えるために、頑張るときは頑張らなければならない。やるべきことをやり遂げて、信頼を得て、更に邁進する心掛けが大切だ。休むときは休んで、健康に気をつかうことを必要だ。バランスよく生きるんだ。理想的な最終地点を迎えるために。【"死の壁" by 養老孟司】死の壁(新潮新書)【電子書籍】[ 養老孟司 ]
2021.09.10
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…相手との関係性により、その人間関係は変わる。ざっくり言えば、一人称、二人称、三人称、の関係性だ。一人称は自分自身のこと。二人称は自分と相手。三人称は、自分と相手とは違うそれ以外の人々。ざっくりこんな感じの認識だ。それを少し言い方を変えてみる。自分、自分達、相手、相手達、の4つに分けてみる。自分は自分自身。自分達とは、自分とそれに近しい人々。相手は、近しくはないが利害が一致していたり親しかったり味方側の人。相手達は、関係性が薄いその他の人々。それぞれ関わり方が異なる。本来は、自分達には親しく、相手には敬意をもって適切な距離感を保ち、相手達には無難な対応に終始する。俺の場合、なんか逆だな。相手達には、一期一会かもしれないから遠慮なく出任せを話し、相手には適切な距離感をもって無難に対応し、自分達には特に慎重に丁寧に接する。自分達が味方同士と思い合っているとは限らない。何かしら関わりのある近しい関係だからこそ慎重に対応する。何かがあると簡単に離れられない関係性は場合によっては厄介になる。厄介事になる前に手を打つ。だから、自分達という関係を最も慎重に扱う。相手とはそこそこ距離感を保てるから無難な対応に終始する。長く関わることになる可能性もあるからある程度慎重に対処する。嫌なら離れて、親しくなっても距離感を大事にする。そして赤の他人に近しい相手達にはある程度自由でいいと思っている。顔と名前も一致するか微妙な関係だから、初対面でも馴れ馴れしくてもいいと思っている。相手の反応を見ながら自己提示していく。場合によってはグイグイいってもいい。それくらいやって漸く個人として認識される。関係性が薄い相手達とはそのくらいやっても問題ない。警戒心はお互いにもっている。得体が知れないからこそ警戒心をもつ。だからこそ、こちらから自己開示を開ける程度に出して警戒心を解く。それで相手が警戒心を少し解いて歩み寄るなら少し親しくする。それで警戒心を解かないならそれ以上は踏み込まない。案外、相手達に関わっている方が気が楽なのかもしれない。ま、だからといって無駄に人間関係を広げようとは思わないけどね。人間関係の枠組みは、自分達/相手/相手達の主に3つで、そこに自分がいる。当たり前だが改めて認識しよう。
2026.07.27
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