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http://kamaishisgc.blog.fc2.com/blog-entry-485.html釜石でのボランティア活動が取り上げられた!嬉しいね!!↓へー!と思ったら、ポチッと押してください。ご迷惑にはなりません^^人気ブログランキングへ↓こちらもポチッと押してもらえませんか!?記事を書く意欲がわいてきます!にほんブログ村携帯電話の方はこちらの二つをクリックして頂ければランキングに一票はいります!にほんブログ村人気ブログランキングへ
2013年08月04日
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「震災後、生きる力が必要だと痛感した人たちがたくさんいるんだよ。」夜のミーティング、キャンプファイヤーの炎越しに生徒たちに語りかけた。キャンプ実習2日目最後の夜。春のキャンプ実習は2泊3日だから2日目にしてもう最終の夜。東日本大震災の悲惨さと、震災後17日経過した3月28日の釜石の様子を彼らに話した。彼らの瞳に炎が映り、その視線はこちらに集中していた。語り続けなければいけない。そして、何かできる大人になってほしい。確か、あの時も生徒に言った。「募金や支援物資は大人に任せろ!お前たちは、こんな災害に耐えられるだけの力をそして、被災した人たちを救えるような大人になるような努力をしろ!」同じことを話し続ける。↓ランキングに参加しています。あなたのポチがランキングへの1票になります!!ポチッとして、ランキングが上がれば、執筆意欲につながります!!!にほんブログ村↓携帯電話の方は、こちらをポチッとお願いします!執筆意欲になりますから!!ブログランキング にほんブログ村↓なるほどねぇ、、と思った方はポチッとお願いします!ランキングに参加しています!!にほんブログ村
2013年06月04日
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釜石と言えば、私の記憶に鮮烈に残る”白竜”のホルモン焼き。このブログでも度々紹介している。震災後も釜石入りしたあの日、真っ先に白龍さんの扉を叩いた。その後も数回釜石に立ち寄るたびに訪れていたが、一時期店主のお父さんが体を壊したとの話を聞いて心配していた。言葉に覇気がなく、弱気な発言をするお父さんが心配で仕方なかった。大きいとはいえないお店は、七輪でホルモンを焼く昔ながらのスタイル。品数は多からず、厳選されたホルモンはしっかりと下処理をされており、タレや薬味など、お父さんの几帳面な仕事ぶりが想像できる素晴らしいホルモン。白衣をパリッと着こなして、怖い顔をしてはいるが、、私たちが店に入ると「お!先生!また来てくれましたねぇ。」と優しい笑顔を浮かべてくれる。その店が、今も尚、、健在!!!私の親友が釜石に行って確認した。電話もくれた。よかった!!絶対に近々釜石に行く!!震災はまだ終わっていない。↓ランキングに登録しています。携帯電話の方はこちらこクリックお願いします。ブログランキング ブログ村↓できれば、ポチっとお願いします!!にほんブログ村にほんブログ村
2013年05月02日
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卒業生のお母さんからのプレゼント。おのくんというらしい。復興支援のために作られたぬいぐるみと聞いた。かわいい!!ふわふわ具合にご満悦。↓おのくん、娘、どちらかが可愛いと思った方!ポチッとお願いします。↓ランキングに登録しています。携帯電話の方はこちらこクリックお願いします。ブログランキング ブログ村↓できれば、ポチっとお願いします!!にほんブログ村にほんブログ村
2013年04月28日
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今、黙祷を終えてPCに向かった。あの日も卒業式の翌日で休日だった。送り出した興奮冷めらやぬ昼過ぎに震災。あの日、、ことの重大さを思い知る前に、部活のことを考えてブログを書いた。http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201103110000/そして、メディアによって徐々に理解ができてきた。http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201103120000/眠れぬ日を過ごした後は、http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201103130000/東京という離れた場所で好き勝手なことを言う年配者に腹立たしく思った。部員が育ち、お世話になった東北を思い出した。http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201103180000/何ができるか悩み、ようやくできることが明確になった。http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201103220000/呼びかけに多くの厚意が集まった。http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201103250001/そして、3月27日。意を決して仲間と一緒に釜石に向かった。みんなからの善意と厚意の荷物と募金を満載の車で。http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201103270000/釜石での出来事をすべてレポートにしてアップした。そうしたら、この記事が現地で安全にしているという親戚への安否確認につながった。http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201103300000/数回にわたり、現地のレポートをアップした。しかし、見るもの全てが無残であり、衝撃だった。それを伝えることも使命だと思った。http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201103300001/http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201103300002/http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201103300003/http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201103300004/アップ可能な画像量を超え、文章だけでも書き続けようと思った。http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201103310000/http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201103310001/http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201103310002/http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201103310003/http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201104010000/http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201104010001/http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201104010002/http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201104020000/http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/backnumber/201104/http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201104040000/2回目の物資は融資の物流業者さんの力が加わった。手作り弁当を受け取ってくれた運転手さんは笑顔で「責任を持ってお届けします!」と言った。あれから2年。この間、ボランティア作業に部員と一緒に行った。http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201108030000/http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201108040000/部員たちが育てられた、釜石の多目的グランドは仮設住宅が建ち並んでいた。http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/diary/201108040001/現在、被災地はあまり変わっておらず、先の見えない閉塞感が漂っている。何とかしなければいけない。震災は終わったのではない。まだ、その最中であり、一過性の思いではいけない。さぁ、何ができるのか。↓ランキングに登録しています。携帯電話の方はこちらこクリックお願いします。ブログランキング ブログ村↓執筆意欲につながります。できれば、ポチッとお願いします。にほんブログ村
2013年03月11日
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合宿の合間に釜石見学ツアーを行った。現地でのボランティア作業も依頼された大切なツアーだ。40名という定員でメンバーをセレクトして、大型バスで早朝出発。目にした光景は、合宿前半の疲れを吹き飛ばすインパクトを与えた。ツアーから戻ってきた彼ら彼女らは口々に震災の悲惨さと、我々のあり方を話していた。選抜メンバーの選考は顧問全員で行い、感じて欲しい部員や記憶して他者に話せる部員を選んだ。ただ、残念なのは感じて欲しい部員やマネージャーを行かせたが、どうも感じていない部員もいたことだ。多くの人が亡くなった大惨事を目の当たりにしても、、、嗚呼、難しい。そういった感受性を培うのは本当に難しく、自ずと幼少期の生育暦を考えてしまった。ともかく、復興は終わってはいない。そして、この復興動作は子ども達に本当に必要な事を教えてくれる。気がつけ部員達よ!自分たちが世界の中心じゃないって事を!にほんブログ村
2012年08月06日
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広いグランドを使用した。時間帯は18時~21時。この遅い時間帯は、我々顧問にとってもドキドキする時間だ。21時から田無駅や柳沢駅、自転車で帰宅するのだが、帰りが不安な部員もたくさんいる。グループ分けして、順番にグランドから出す。正直言って、練習よりも気を遣う瞬間だ。それでも、グランドがいい!!広いグランドを走らせたい!!ボールを一生懸命追いかけるスペースは何物にもかえがたい!!しかし、この日は本当はスクワット後の筋肉痛の予定だった。何故なら前日に遅刻者がいて、そのペナルティーでスクワットをするはずだった。「せっかくグランドが予約できているんだから、、、そうだ!明日全員遅刻せずに来るという約束でスクワットは先送りにしないか!?」という私の問いに、全員が了解した。そして、遅刻者はいなかった。だから、、、楽しい!!辛い練習も清清しい!疲れたって、次の練習が楽しみだ!練習前に集合して私から話した。「久しぶりの向台グランドだな。一年ぶりかい?さて、どうして一年ぶりなんだろう。それも証明点灯はもっと以前だぜ。さぁ!なーんでだ!?(お金!時間!技量が乏しい!など意見は出た)答えは、、震災後照明設備が使用できなかったからだよ。電力不足が心配されて、このグランドの照明が使用禁止になったんだ。気がついているか?まだ震災は終わってはいないんだよ。そんな中で、苦労できる環境に感謝しよう。そして、今も尚、被災地で格闘している方々がいらっしゃることを再認識しよう。さぁ!頑張ろう!」全員神妙に聞き入っていた。にほんブログ村
2012年07月14日
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2012年06月19日
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震災は多くのものを飲み込んだ。震災によって日本人のあり方を考えた。ただ、震災は終わっていない。被災者は仮設住宅に今も住んでいて、瓦礫の山はそびえ立っていた。港は壊れたままであり、資産を失った方々の途方に暮れる生活もあるという。終わってはいない。まだ、始まったばかりだ。釜石から、鵜住居、山田を抜けて、宮古まで移動してみた。目にするもの全てが、震災直後の夏と同じ風景に見えてしまった。まだ、できることはあるはず。現地の人が言っていた。「見に来るだけでもいいから、見てくれ。」と。にほんブログ村
2012年06月18日
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「いらっしゃいませ~!!」入店と同時に元気な声に圧倒された。おじさんは元気にラーメン作り。もちろん手際は昔のまま。思えば、遠征のたびに深夜ラーメンを食べに行った。釜石ラーメン「こんとき」さん。釜石商工の阿部先生に連れられて、夜な夜なラーメンを食べる。あっさりとした魚系だし汁は透明で黄金のような輝き。細縮れ麺は、労働者のために早く茹であがるから採用したそうだ。メンマとチャーシュー、海苔も入って500円。懐かしい味だ。震災で店ごと流されたのは、津波の一報が入った段階で知っていた。何故なら、津波が押し流す町並みは見慣れた釜石の町だったから、想像がついた。当然多くの皆さんの安否が気になり、居てもたってもいられずに釜石に向かったのが、昨年の3月27日。その後は募金活動や支援物資を集める活動を行ったが、やはり「こんとき」のおじさんが気になってた。すると、東京ラーメンフェアでテレビ画面に出てきたのが、おじさん!!なんとも元気に、ラーメンで町の復興を!と叫んでいた。画面を見ながら嬉しくなって、すぐに阿部先生に連絡をしたのが夏だったかな。そして、今回釜石に来て昼ご飯は「こんとき」に来た。「お!どこから来たの!見た顔だねぇ!!」とおじさん。「毎年来ていた、東京のラグビー部の、、、」と私が言うと、「おお!!そうかい!!そうかい!!」と満面の笑み。最後は「ありがとうございました~!また来てくださいね~!」勇気をもらった。復興に向けて、プレハブ店舗で頑張るおじさん。そうだ、復興には気力が必要であり、復興には資金も必要であり、復興には心も必要なんだ。人は生きるためには金さえあれば良いわけではない。自分の作ったらメールを、美味しい!と食べてくれる、その笑顔が生きる糧にもなる。震災は、終わってはいない。復興は、これからだ。被災地から離れている我々も知る必要がある。「こんとき」のおじさんの元気のよさと対称的な出来事もあったが、それは次回書こう。ちなみに、、「こんとき」の名前の由来を阿部先生に聞いたことがあるが、わからないとのことだった。今回、壁にある店主の名前を見たら、、「こんの、ときお、、」なるほど。だから、「こんとき」分かりやすい。最後に、今回は大変お世話になった釜石工業ラグビー部の大御大先生の見舞いで急遽電車に飛び乗った。故に、多くの関係者の方々とお会いしないまま土地に訪れ、あとにしてしまった。不義理をして申し訳ありません^^;にほんブログ村
2012年06月17日
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釜石商工の校長先生からお手紙が届いた。読んでいて、その頃のことを思い出し何故だか涙が出てきた。そして、丁寧に感謝の手紙を頂いて恐縮した。そうだ、、あの衝撃。そして、人の心が動き、人が集った。(↓その頃の記事をご覧ください)http://plaza.rakuten.co.jp/onebig10/backnumber/201103/まだ、震災は終わっていない。復興はまだ始まったばかりだ。これからも微力ながら応援していく。
2011年11月29日
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釜石の及川先生からメールが来た。泥の中から生還したグッズがあるとのこと。以前に及川先生に贈った10周年のTシャツやヤッケ!そして、チームバック!!あの瓦礫の中から見つかったとすると、奇跡的な生還。そして、探し当ててくれた先生も凄い。少しずつだけど、、復興へ!!頑張ろう!日本!!
2011年04月16日
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学校にはがきが届いた。差出人は、岩手県釜石市、、、え?氏名は全く存じ上げない方であった。内容を要約すると、「被災して何も持たずに家を飛び出し、着の身着のままでした。困っていたところ、釜石商工の阿部先生から紹介を受けて、衣類や雑貨を手に入れました。聞けば、それらは東京の学校からの支援物資だと聞き、お礼の手紙を書きました。ラグビーでの交流から支援をしてくださって本当にありがとうございます。」という内容だった。またまた涙が出てきた。最近涙腺が、、、嬉しい。そして、やはりピンポイントでの支援は大切である。勘違いされないように再度書くが、赤十字やユニセフなどの王道支援を大前提として、各々がゆかりのある土地に対して、行政の規則や規制がかからない責任のある人に対してその方が判断して自由になる物資や資金を送ることも大切だと思う。はがきのことは部員達にも話した。部員の保護者が主体となって持ち寄った物資。そして仕分け作業を手伝った部員もいる。トラックに積み込み作業をしたのも部員だ。携わっただけに実感が湧いてくる。今までお世話になって感謝する機会はあったとしても、お世話をして感謝される側になったことが少ない部員達。内容を読み上げると、心なしか胸を張って堂々と立っているように見えた。うんうん。これがいい。人様のために努力をすることも人として大切なスキルである。自分の為が多すぎてはいけない。
2011年04月15日
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ないより、この笑顔が嬉しい。それが全てを教えてくれる。よかった。そして、、みんなの力の結集で笑顔になった。感謝と安堵と自負と責任。これからも釜石を応援し続ける!!
2011年04月13日
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余震が続く。被災地はさぞ不安な時間を過ごしているに違いない。東京で揺れを感じると、すぐに釜石の被災地を思い出すようになった。その釜石へ支援物資の第2弾が今日出発した。今回は、支援物資として、トップナッチツーリストが調達してきた副食の、鶏肉炒めの真空パック。そして、まぐろ昆布。明太鰯を多数。そして、寄せられた衣類等々。それらを学校で積み込んで、次の場所に向かうトラック。次の場所は、、、義援金で買い込んだ新品自転車30台!!防犯登録も釜石商工にして、籠つきでライトつきの立派な自転車。この自転車が大活躍することを祈っている。さて、ここで一段落として、残金の義援金は釜石商工の阿部先生に送るとする。協力頂いた皆さん!大感謝です!本当にありがとうございました。
2011年04月12日
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フェイスブックを通じてあるサイトを紹介された。不用意に開いたら、涙がこぼれ出た。中にはこんな文章が書かれていた。国連からのコメント「日本は今まで世界中に援助をしてきた援助大国だ。今回は国連が全力で日本を援助する。」イスラエル人にヘブライ語で声を掛けられた。困っていたら知り合いのパレスチナ人が通りすがり、通訳してくれた。「日本は大丈夫か?僕は深く祈るから」と言ってくれた。パレスチナ人とイスラエル人が握手をしてる笑顔に包まれた。涙が出たhttp://prayforjapan.jp/message/泣けてくる。そして、がんばろう。
2011年04月06日
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昨日の午前中に積み込みをした支援物資が、現地に到着したという連絡があった。これらの物資が本当に必要としている人々の手に渡れば嬉しい。さて、第二便は自転車だ!!
2011年04月05日
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春休み中に物資を募集したところ、大多数の物資が届いた。そして義援金も寄せられた。これによって、レトルト食品やマスク、自転車などの購入が可能になった。そして、今日はその第一便が出発。ドライバーは、材井さん。丸刈りの若者は体つきが普通じゃない。そして、耳を見ると餃子、、、柔道やラグビーもやっていたという。彼が被災地釜石の、釜石商工までピンポイント輸送してくれる。非常に気持ちの良い青年だった。ラグビー部のみならず、多くの方の支援物資が届けられた。遠方、他校のチームからも物資が寄せられた。その物資の整理のために多くのお母さん方やOB、OGが手伝いに訪れた。何が必要か熟慮して、仕分けして、少しでも困った人の手に直接届くように。さぁ、この物資が役に立つのだろうか。いや、役に立って欲しい。がんばれ!釜石!がんばろう!釜石!
2011年04月04日
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昭和一桁生まれの父親から良く聞かされた。空襲の状況。焼け野原の東京。そしてその混乱と復興。またその話かぁ、、と聞いていたが、今思い出せばその重みを感じずにいられない。ほとんどの都市や町が破壊された大戦から、日本は復興した。基となるのは人々の心。島国の結束。そこから比較するのは難しいが、壊滅的被害は部分的なものであり、活動している都市が多くある。その点は違う。いずれにしても、その当時の日本人の心意気が必要なのは無論。さて、、あるのだろうか。昨今の日本人からそれらを感じることは非常に希だ。今こそ、大和魂。侍スピリットが必要なのだと感じる。
2011年04月02日
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多くの方々からの義援金が続々と集まり、物資を購入し始めた。しかし、東京においても大口の購入は難しい。そんな時にありがたいのは業務スーパー。いつも部活の昼食PJで使用する都内の某業務スーパーは、私の素性も知った店員さん達がいつもサービスをしてくれる。そこに立ち寄り、、、今日は、・使い捨てのマスク×10000枚 かなり埃っぽく現地では必需品だそうだ・レトルトカレーパック×180食 白米はあるが副食に困っているとのこと・インスタント味噌汁×800食 お湯は作れるそうなので、ご飯のお供としてを購入。私の車は、あっという間に箱だらけ。多くの方々から集まった義援金が、現地で本当に必要なものを購入できた。次の現地からのリクエストは、、、自転車!これは防犯登録や新車の価格など頭を悩ませたが、そんな時には人脈を、、、なんと、新品自転車を大量にそれも販売価格の1/3ほどで売ってくれる人を見つけた。ああ!凄く嬉しい。そして、素晴らしい人のつながり!!さて、何台寄贈できるだろう。ガソリン流通がままならず、車を失った土地に20、、30、、50台は送りたい。みなさんの5000円の義援金が、自転車となる。
2011年04月02日
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ある人が言った。「あまりの惨状。あまり見たくないものだ、、」そうかもしれない。でも、現実がそこにあるんだ。親戚がここにいて、故郷がここの人もいる。私たちの国で起こっている事実。目を向ける事は必要だと思う。今日は格安の自転車とレトルト食品探し。4日に荷物を捕りに来る4t車。できるならば、そこを物資で一杯にしたいから。
2011年04月02日
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募集した支援物資が続々と集まってきた。在学生との家庭から。遠方からは九州から。志を理解して、託してくれた物資もある。物資は、教え子の会社関連で被災地に何回も物資を届けたことがあるドライバーさんが、現地ピンポイントで運んでくれることを約束してくれた。トラックは4t車。学校に送られてきた物資は非常に多く、仕分けするために集まってくれた保護者にとって、嬉しい悲鳴となった。それにしても嬉しいことだ。賛同してくれる人々。そして、一日を潰してお手伝いに来てくれるお母さん達。私と来たら、御礼も言えずに翌日の昼食PJの買い出しに行ってしまった。この場を借りて、、、ありがとうございました!!そして、、明日からも物資が集まります。お時間があったら、またお願いします。って、、すみません。尚、支援物資はまだまだ募集中です。1、スエット、ヤッケ、トレーナー2、副食になり得る食材例:缶詰、インスタント・レトルトのおかず3、その他新品の下着、紙おむつ、乾電池、水ペットボトルティッシュやトイレットペーパー 使い捨てマスクあれば宜しくお願いします。
2011年04月01日
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多くの違和感と衝撃、そして、地域の理解。土地の流通や自衛隊や他県警の必死な努力。多くのことが頭の中で整理されていく。・復興には十年単位の時間がかかるだろう。 当然、市区町村単位ではなく、県だけでなく、国の支援が絶対必要・仕事と収入に対しての早急な対策が必要。 当然行政は既に考えていることだろうが、私個人として直感したのは、 「瓦礫の撤去などを公共事業として臨時の会社設立。収入源とする。」 と考えたが、きっともっと素晴らしいアイディアが出るだろう。・精神的な安定が必要 被害が大きい土地はもちろんだが、被害が少ない町も精神的な疲弊は大きい。 仮設住宅と同時進行で、過疎地の開発や県営住宅の建設。また、他県への 移住計画は必要。そして、被災した方々が安心できるようなプラン。 例えば、内陸や他県のホテルでの無料移動・宿泊・くつろぎ。そして上記のような机上の愚策ではなく、本格的には、、○支援物資の分配 かなりの物量はあるが、送られてくるものの中には捨てるようなものもあるという。 そして、その物資の仕分けや分配が上手くいっていない。→責任と信頼のある人が独断で物資仕分けをして直接被災者に届くルートが必要。※私たちは釜石商工の阿部先生に物資を直送し、ラグビー部員がボランティアとして 直接被災した方々へ届けてくれることを提案し、先方と約束をした。○顔がわかる人への義援金 行政が行っている義援金や各テレビ局などが行っている義援金も大切。 それらは日本赤十字や公的事業に使用され復興に直接的な影響を与えるだろう。 しかし、現地では当座をしのぐための小さな資金が必要になっており、 それがあれば本当に必要なものが購入できる可能性が増える。(灯油などは別で手に入らない)→全項目同様に信頼と責任のある人が周囲の方々と話し合い、本当に困った人に分配する。※私たちは釜石商工の阿部先生に相談したところ、先生から在校生や部員などを中心に 困った人たちへ有意義な義援金の使用を約束してくれた。(現金、物資購入は任せた) よって、我々が集めた義援金は顔のわかる人へ直接振り込むことを提案している。と考えをまとめた。ちなみに、阿部先生の人柄は保証できる。今回も3月末に釜石で本校の合宿を予定していたが、震災。震災後の初連絡での第一声は、、「せんせい。今回、合宿の受け入れができなくなってしまって、本当に申し訳ありません。」だった。何とも人柄を感じずにはいられない。ともあれ、私たちを育ててくれたこの町に何らかの恩返しがしたい。今回の釜石リポートの最後として、お読み頂いた方々には是非ご理解頂きたい。・記事の全ては我々の主観であり、ご批判や反論もあろうかと思いますがご容赦ください。・被災した場所でたくさんの写真を撮影しました。家主の皆さんや車の持ち主の方々 本当に申し訳ありません。被災地を正確に伝えるために撮影しました。 尚、我々も非常に緊張し疲労しており、互いに励ますため、鼓舞するために笑顔の 写真などもありますが、どうかご容赦ください。・被災した場所は、この他にも宮古や大船渡、陸前高田等々多くの地域があり、 場所によっては火災もあり、場所によっては原発被害もある被災地があります。 その中でも私はお世話になった釜石にクローズアップしました。 どうかその旨ご理解ください。そして、他の被災地の復興も心から祈っております。がんばれ!釜石!がんばれ!東北!いや、がんばろうみんなで!!お読みになって「顔が見える義援金」にご賛同頂ける方は、下記の口座へご協力をお願いします。もちろん、信じてくださる方だけで結構です。そして、災害全体の義援金は是非とも政府のやっているものや日本赤十字、ユニセフなどにどうぞ!ゆうちょ銀行 取扱店番号 00695(関前支店) 口座番号 00100-0-607094口座名 「武蔵野東ラグビー部後援会」多摩信用金庫 武蔵野支店 普通預金店番号 053 口座番号 0103940武蔵野東ラグビー部OB会 会計 松丸力
2011年04月01日
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この地を離れる前に、寄っておきたい場所があった。それは釜石駅と多目的グランド。JR釜石駅は、我々が毎年訪れる夏合宿の中でも思い出が深い場所である。この地から合宿参加するゲストを迎えに行く場所であり、この地から何らかの事情で去っていくゲストや部員を送り出す場所でもある。そこには感動や涙もあった。そんな思いがあり駅を訪れたが、、駅は当然の如く閉鎖。その代わりバスでの輸送振り替えが行われていた。ここで我々は気になった。周囲に白い粉が舞って咳が出る。塩水が上がってきて水分が蒸発して塩が残ったのか、住民の方々はマスクをしていた。独特の臭いと煙る風。異様な雰囲気だった。そして、次は多目的グランド。ここは我々が合宿中に練習場所にしていた場所だ。町中に突然現れる公園のようなグランド。昔々はこの公園のようなグランドで、外国チームを呼んで試合をしたという碑が立っている。ここには訪れた日の午後から仮設住宅が建つらしい。この災害時だから玉遊びどころではない。早く仮設住宅が建つのを心から望んだ。しかし反面心の中に複雑な気持ちも浮き上がった。すると同行した辰野さんが言った。「エイチポール(ラグビーのゴール)は残して欲しいな、、」深く頷いた。もし問題がないのなら残して欲しい。そして、いつの日か再びラグビー場になって欲しい。それは同時に釜石が復興されることを示している。ともかく、避難所というプライバシーが保たれない、精神的に深い安心ができない場所から仮設住宅にステップアップしてもらいたいという願いが強かった。公園の横にベンチがあり、そこに腰掛けて缶コーヒーを飲みながら”被災地の苦悩”という題名の新聞を読み入る老人の姿が印象的だった。ここを見て、我々は釜石を後にした。それぞれの思いを胸に、、、
2011年04月01日
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津波は東北沿岸の町に大きな打撃を与えた。釜石もその一つである。そして、その特徴的な津波の影響を下の地図で示してみた。非常にお粗末な画像だが、津波は青い色の矢印。港をのみ込み、海辺にあった漁師町と製鉄所の施設をのみ込んだ。湾内の低地部分はその影響が直撃し、青い屋根の製鉄所施設の一階部分を貫通して只越町一帯には強い力の津波が押し寄せた。そして、川を逆流して(水色の矢印)その一帯の地域も押し潰された。境目となったのは赤いライン。釜石の駅の右側と右斜め上は被害にあったが、高低差があることから、この境界線でくっきりと被害の状況が別れている。よって、鈴子町、千鳥町には大きな被害は出ず、その奥にある町は全くと言って良いほど津波被害は出ていない。これが、被災地でありながらも非常に不思議な状況を作ったのだ。赤いラインから東側では通常生活。西側が被災生活。被災した方々は着の身着のままで逃げだし、財産のほとんどを失った。故に、普通に開店している店で買い物もままならない。当然、親戚や知り合いを頼って西側に住居を移した人もいるというし、倒壊した町の整備に西側の住民も参加しているという。しかし、会社を失い収入源が断たれた人も大勢いる。被害を受けた市中心部にはホテルや公共施設、漁業関係会社、商店街があった。よって、繁華街が打撃をくらい、ベッドタウンが残ったと言っても大げさではない状況なのだ。いかにライフラインがあって大型店が営業していても、収入が断たれた住民は辛い。同じ釜石市内でボランティアをするのではなく、それを公共事業などにして仕事として賃金が発生するのであれば、救われると感じた。ともかく、、何かしたいと思いながら、何もできない我々がいた。
2011年04月01日
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昼近くなり、トイレの使用と食事を考えた。しかし、港町のあった町を抜けると、そこに小学校があり被災者の避難所があったので、その様子を見てから行くことにした。避難所の水道は自衛隊が持ってきている水の袋から給水されているようで、歯を磨いている老人がいた。支援物資は山積みになっていて、入り口に番をしている人が座っていた。中を覗くと様々な物資が届けられているようだ。それにしても数が多い。そして、そこに更に物資が輸送されてくる。そこで聞いた話を思い出した。「物資は送られてくるけど、整理されていないものは段ボールのまま放置なんだ。整理する人手が足らなくてね。それにボロボロで避難生活している人も嫌がるような衣類が多いのと、サイズ限定の服なんて困るよねぇ。下着や靴下は新品じゃなければ自分ので我慢する人もいるから、それだけは新品を送ってもらった方がいいね。それと、米は来るけど副食がないんだよ。避難所生活の楽しみは食事だけだからね。運良く電気が通じても、みんなで大型テレビ。ラジオ。他に何もない。」物資を送るのも難しいと痛感。避難所の入り口には、伝言板のように張り紙がされていた。「釜石商工生徒へ 22日終了式あり 登校できる生徒は登校せよ」印象的だった。しかし、その後、瓦礫の山と化した町を通り抜けて、川の橋を渡って駅前を西に向かった。距離にして100mほど離れた場所。そう、我々が来た道である。「え?何も変わっていないじゃないか?」と感じていた数時間前に通過した道。そして、白竜で奥さんから「この先からは、どうか気をつけて。」と言われた場所を通過すると、時間経過によって、経験によって、更なる違和感を感じることになった。まず、ファミリーレストランが開店している。郵便局も営業している。ホームセンターも。大型量販店の駐車場は自衛隊と警察の待機場所だが、薬王堂という医療品や薬品のスーパーも開店している。ガソリンスタンドも非常車両優先だが営業はしている。同じ釜石である。そうか、川が境目なんだ。と理解し始めた。空から見ると分かりづらいが、低い地域と高い地域を分ける川を境目にして、(明日にはもっとわかりやすい地図を載せる。楽天ブログの写真アップ上限のようなので)電力供給や水道供給が違うルートになっているらしい。だから、ファミレスでは通常メニューで食事ができ、この日は昼間からビールを飲んでいる女性陣もいた。物資もお金さえあれば、購入できる。我々のような一般車両が行き来できるのだから、仕入れもできている。だから営業もできているのだろう。そうか、、支援物資は振り分けが困難で様々ものが物資倉庫で混在している。家を流された人々は、財産そのものが無くなり、物品や食料購入ができない。被災地そばでも、家を流されていない人は現金やカードがあり通常生活をしている。被災者には不謹慎な話だが、我々は食事をしながら確信を深めていった。・物資は必要なものだけをしっかり仕分けして送る。・送る物資も適切に分配できる人に送る。・義援金は復興資金は政府に任せて、当座をしのぐ資金を適切に分配できる人に送る。これなんだ。もしかしたら、他の地域でも同様の事象なのかも知れない。
2011年03月31日
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港近くの町に出て、違和感を感じる光景が様々飛び込んできた。別の記事でも書いたが、人間は自分の記憶や理解が及ばない状況になると目を背けて更には瞬間的に違和感を感じる機能がある。凄惨な事故や知らない生物、理解しがたい状況や形状のそれらを見るときに顔を顰(しか)めるのはそれだ。私はこの日、何度となく違和感を感じた。形状をとどめない巨大建造物は、まるで針金工作でつくったジオラマを壊すかの如く。そして、本来海の中にあるべき船底が陸地に上がり、見事と行っても良いようにバランスをとって立っている船。壊れた民家に目を向ければ、そこで思い出の品を探すのか復興に向けてなのか、瓦礫を手に持って自宅を整理する老人の姿があった。さすがにカメラを向けることははばかられたが挨拶を交わすこともできなかった。表情がない老人から心の声が聞こえた気がする。「何から手を付けて良いか、、でも、ここしかない、、少しでもここにいた証が、、」昔大学の講義で聴いた覚えがある。「人は死を恐れる。それは生に対する執着や痛みを伴う恐怖だけではなく、生きている知人との別れの辛さだけでもない。死の恐怖とは、今まで生きてきた自分の足跡が消えて亡くなることに対しての恐怖も非常に強い。」そんなフレーズを思い出しながら、ふと周囲を見ると朝方から時間が経過したせいか、多くの地元住民が同じ行動をしていた。そう、住む場所だけでなく、着の身着のまま出てきたために、お金も、カードも通帳も何もないのだ。何もない状態で、更に住む家もないのだ。ようやくその臨場感が状況理解に加速を付けた。確かに、今この瞬間に全ての土地家屋も含めた全財産が無くなったら、どうするだろう。等と考えていると、次のショッキングな光景が目に入ってきた。このランドセルの主は無事なのだろうか、、、無事であって欲しい。生と死。そして、生だったとしてもその後の希望がもてないまま時間が経過する。光と影が交錯するのではなく、闇と漆黒の交錯。涙が出てくる情景。この地域の人々は昼間はこうやって家のあった場所の整理。夜になると避難所へ帰るという。復興支援と口にするが、東京にいてテレビから流れる映像だけでは実感できない。いや、復興支援と口にすることすらおこがましい惨状。計画停電に愚痴を言い、不安を煽って買い占めする。テレビを見ながら評論家気取りになっている場合ではない。各地の復興とは長い長い時間がかかるものであり、その間、人々の希望を繋ぐことが私たちが考えることなのではないだろうかと思った。が、全てを理解すると更に分かったことがある。
2011年03月31日
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及川先生に道案内をしてもらって、被災地を歩いた。(及川先生は、本校が釜石合宿が始まったきっかけ(ブログ参照)を作り、成功に導いてくれた人。地元の歯医者さん。及川先生は本校ラグビー部が創部した直後に釜石シーウェーブスをきっかけに私が知り合い、釜石という土地が、武蔵野東ラグビー部を受け入れる立役者になってくれた人。どんなに忙しくてもグランドに来ては写真を撮り、八幡平まで来ることもしばしば。そして歯科検診をしてくれたり、チームのレギュラーにはマウスガードを作ってくれる。それもスペシャルカラーリングとネームとエンブレムまで入れてくれるほど。練習の合間に歯科医院で歯型を取る際には、練習に支障を来さないようにと、練習直後の汗と泥まみれの部員を、綺麗な診察室にビニールシートを全面に敷いて受け入れてくれた。そして、医院のモニターには本校部員の合宿の様子がスライドショーで流れている。また、東京での三送会。大会ではチームが2つ勝てば早朝に釜石を出て試合の応援にも来てくれた。合宿では部員に苦言、叱咤もしてくる本当の愛情を持った先生。)鼻をつく臭いは更に強くなり、道があった場所だけが急場をしのぐかのように瓦礫が撤去されていた。歩きながら先生は、その場所その場所の方々の安否を教えてくれたが、助かった人よりも亡くなってしまった人の方が多かった気がする。隣の方は、震災直後に挨拶を交わして以降姿が見えず、数日後に向かいの家にある瓦礫の下から発見されたそうだ。確かに見覚えのある店が(先生の歯科医院から路地を曲がって数軒先にあったラーメン店)建物ごと流されて、歯科医院の先に流され大破しているほどで、町の配置を崩す津波の威力を物語っていた。先生は今、隣にあるご実家と思われる場所の3階に住んでいるそうだ。1階は濁流が流れたのか、ガラスもドアも大破して、2階も床の部分は泥に覆われていた。2階の奥には震災の直前に亡くなった御尊父の祭壇があった。当然、水道が来ていないので水は汲みに行き、便所は小さいのはトイレに流し、大は紙おむつにするそうだ。車一杯に積んだ支援物資の一部を差し上げて、先生に託す為に集めた有志からの義援金を手渡し。3階でお茶でもと言われて御邪魔した。しかし、その3階から見た景色で更に驚いた。祭になると人々がごった返したメインストリートは瓦礫の山。そして、高い場所から眺めると1階部分、2階部分、3階部分と、まるでグラデーションのように、線が入って破壊度が違っている。そう、3階部分以上はまるで無傷なのだ。お茶を頂いた後、更に被災地を回るため再開を誓ってお別れをしたが、先生の握手は固く力強かった。数分前に「患者の電子カルテがハードディスクに入ったまま5000件分水の底に、、」と涙を浮かべていた先生の言葉。そして、「復興するったって、どうすればいいのか、、」「この土地にまた住めるようになるのか、、」というポツリポツリと出てくる言葉や、「瓦礫を少し動かすと、ご遺体が出てくるんですよ。誰か分からないものが多いけど、、」そんな言葉が思い出された。言葉が頭の中を巡ったまま固く握手をして、必ず再び訪れることを先生と自分に誓った。市街地を後にして、車で山を越えると釜石商工という学校がある。ここは、本来であれば今の時期に合宿予定していた学校。学校の一角には合宿施設があり寝泊まりでき風呂の施設も完備されている。少し高台にあった学校は無傷。また、新校舎に建て替えた直後ということで、耐震構造がしっかりしていたらしい。そこへラグビーグッズを届けることも今回の目的の一つだった。駐車場に車が入ると、すぐに阿部先生が出迎えてくれた。まずは無事を喜び再開の握手。元シーウェーブスの選手だった阿部先生。とても固く力強い握手だった。そして、目からは大粒の涙がこぼれていた。「まさか、本当に来るなんて、、」言葉を詰まらせる阿部先生。今回は、我がチームの物資だけでなく、ラグビー用品店のセプター、スズキスポーツからスパイク十数足、ソックス40本、ジャージやトレーナー、ボールは50個。そして、東京だけでなく、三重県の四日市農芸、大分文理大学の厚意も運んできた。荷下ろしした後に、来週は古ジャージやカバン、生徒や卒業生の普段着、靴なども送ることを告げた。聞けば、部員の家も半分ほど流されてしまったそうだ。流された家からは、着の身着のまま逃げたので、ほぼ全ての日用品を失ったとのこと。しかし地域によっては全く違う状況、、、? ? ?不思議な感覚がようやく自分で理解でき始めた。震災被害のみならず津波の大打撃は、高低差と地域差を生んでいた。その後、我々は町を回りそれを痛感し理解し、今何が必要か見えてきた。
2011年03月31日
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撮影したVTR。
2011年03月30日
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高速道路から釜石道。運転するのは、オジキ。助手席にはトップナッチ。私は後部座席。知る町並みが見えてきて胸がドキドキと鼓動した。一軒一軒、見覚えがある建物を損壊がないか確認するように見入った。昔食事でお世話になったカリナ、、無事。旧釜石南高校(現釜石高校)も無事の様子。市街地に近くなり、駅へ向かう。いつものように、左手ガスタンクには「ようこそ釜石へ」の文字。そして、右手には新日鉄の建物。屋根には「鉄とさなか、ラグビーの町釜石」の文字も健在。駅の手前、スタッフがお世話になった”白竜”というホルモン焼きのお店に立ち寄った。午前6:30。非常に早い時間だったが店の玄関を叩いた。この店は、亡くなった私の父よりも少し年上のご主人が頑固店主。そして、奥さまも同世代、80歳近い老夫婦で店を営業していた。娘さんはなんと、昔々、武蔵野市に嫁いだという。震災後、電話も通じず及川先生や阿部先生に聞いても安否確認ができなかったので、心配していた。店のドアから中を覗くと、いつもと変わりない様子。そして、座敷には上着が置かれていた。グラスやボトルが置かれている場所も変化がない。数分後、、奥さんが歩いて出てきた。「はい?」「あの、、いつも夏にお世話になる、、東京のラグビー部の、、」と話していると、奥さんは、「お父さん!!!先生が来たよ~!!!ほら!東京の先生がぁ!!」と店の奥に声をかけた。すると、頑固親父が満面の笑みで出てきてくれた。「おぉぉぉ!!先生!!!」握手をしたらお互い涙があふれてきた。全員が安堵の表情で握手を繰り返す。午前7時前。奥さんが、「来月から、店の営業しますから!」と心強いことを聞かせてくれた。よかった。「じゃぁ、この後、釜石商工に行くので、失礼します。」と、私が言うと奥さんが言った。「この先からは、どうか気をつけて。」その時には気にしなかったのだが、その数分後にその言葉の意味を痛感し、言葉を失うことになった。
2011年03月30日
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格好つけたい訳ではない。危険な状態が好きなわけでもない。ただ、「口では何とでも言える」と口癖のように生徒に言ってきた。行動する時間がある。行動する体力がある。判断する経験もある。(と、、これは信じ込んでいるだけ、、)そして、集まった物資や義援金もある。加えて、輸送手段は模索中。そして何よりも、一緒に行ってくれる仲間がいる。ここまで揃っていて、「現地が心配だ」「今こそ、、」「一人じゃない」「お世話になった、、」と口先だけが嫌だった。そして、、東京という温々とした場所で、部分的な計画停電如きでブーブー言っている輩と一緒にはなりたくなかった。米軍基地や火葬場、ゴミ処理場と同様、必ずお世話になる施設なのに地元誘致を嫌い、他方の人々の不安と引き替えに裕福な暮らしをしていた我々。専門知識も知らず、文句も言わず、今日も薄く政治家を選択し、有事の際になると後付けで文句を言い、過剰反応だけをするのは嫌だった。現地に行ったとしても、何の役にも立たないし、物資もわずか。でも、それを感じ取って伝えることはできると思った。取捨選択をして政府から規制が加えられるメディアの取材ではなく、一人の人間として、口先ではなく労力と危険性と心で行動する。そうだよね。思っていてもできないことはある。恐いことも。でも、口では何とでも言えるって言っていた以上、やった。正直、、恐かった。
2011年03月29日
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