おそらくは、風水を基調とした陰陽五行の呪術に基づく〔天海〕の綿密な仕掛けにより、江戸のほぼ真北に鎮座する「日光東照宮」に、〔家康〕を「北極星」に見立てた「東照大権現(家康の神号)」を主祭神として祀ることで、『不死の道』とのクロスポイントでもある日光の地から江戸城を中心とする関八州を守護しようとしたのであろう。
次に残る三つ目の ”霊的ライン”は、
画像下方に示した「久能山東照宮」より真西の京都方面に至る東西軸(黄色の軸線)であり、これを『太陽の道』という。
この『太陽の道』と称される線上には、〔家康〕の埋葬地である「久能山東照宮」を東端として、そのすぐ西方には〔家康〕が少年期を過ごし晩年には大御所政治の舞台となった「駿府城」、そして〔家康〕の生誕地である三河の「岡崎城」が並んでおり、まさしく〔家康〕の生涯を象徴する軸線となっている。
そこで上記の「
東照宮」を巡る三つの”霊的ライン”の全体を俯瞰し、〔天海〕の構想した”〔家康〕の神格化”へ向けた繋がりを簡易明瞭に解説すれば・・・
「生」をうけ、「岡崎」から『太陽の道』を通って「駿府」へ・・・「御霊」となり、「久能山」から『不死の道』を通って「日光」へ・・・「神」になり、「日光」から『北辰の道』を通って「江戸」を鎮護する・・・という捉え方になるようである。
ところで、江戸時代の初期に〔家康〕の側近として活躍した〔天海〕と、戦国武将の「明智光秀」(以降は〔光秀〕と表記)が”同一人物”であるとする説…《 天海=明智光秀説
》…をご存知であろうか。
実は私の心中では、既に30年以上前から〔天海〕と〔光秀〕のただならぬ関係性を感じてきたわけだが…両者は”同一人物”ではないか…と想定し文章化するのは今回が初めてとなる。
加えてここで、冒頭地図で”黄色の軸線”であらわした『太陽の道』の、その東西軸の西方に示した「丹波 亀山城」に注目していただきたい。
この「亀山城」が〔光秀〕の居城であったことを踏まえて、改めてこの『太陽の道』を見ていると、〔光秀=天海〕と〔家康〕の両者に、”特別に深い関係”があったと感じられてくるのである。
もしかすると〔光秀=天海〕の意識は、常に「亀山城」の天守閣から、この「東照宮」を巡る 《三つの を、江戸を中心に関東を守り、ひいては日本全土を護る『防衛ライン』と視ていたのではあるまいか・・・。
(つづく)
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