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3月23日(水)
髪を切りに、となり町までてくてく。 この町内から出るのは、震災後はじめてのことだ。道行くひとの、いでたちがちょっと変わったような気がする。運動靴。リュックサック。そして誰もがいつものこの時期よりも厚着だ。
そういうわたしも、久しぶりにリュックサックを背負って歩いている。運動靴はいつものことだが。荷を背負うと両手があく。この手でできることには限りがあるけれど、何かしたい、手をあけておきたい気持ちが、わたしにも荷を背負わせたものらしい。
美容院の店内は静かで、静かだと思ったのは、蛍光灯をつけずに窓からのひかりだけで保たれているからだ。なるほど、過剰な灯りというのは、饒舌なものだったのだな。わたしの髪をひと月に一度心配してくれ、手入れしてくれる美容師のMさんは、「あの日から、暮らし方が変わりました。たとえば……」と、話す。
節電のため18時までの営業(これまでは21時)になったため、毎日夜は家で過していること。ふたり暮らしのお母さまが、それをよろこびながらも、「あなたに夕食をつくると、つい食べ過ぎて太ってしまった。こんな時期なのに」と話していること。計画停電に不便を感じるのは自分だけで、お母さまはその時間にはさっとブレーカーをおとし、なんということもなく過していること(昼間の停電時には、お父さまのお墓まで散歩だそうだ)。
「早く帰るかわり、お客さまの予約がこなせなくて、休みはないんです。それでも、こういう暮らし方もできたんだなあと思えます」
3月24日(木)
朝、着替えをして鏡の前に立つと、なんだかおかしい。白いブラウスの衿もとに、下着のシャツ(ババシャツ)が見えている。こんなところにババシャツにあらわれてもらっては、困るのだけどね。シャツの裾を引き下げたり、ブラウスの肩をつまんで引き上げたりするも、ババシャツは居座ったまま。「うしろ前なんじゃないの?」と、悪戦苦闘の背中に声がかかる。声の主は二女だった。そんなはずない、と思いながら、セーターを脱ぎ、ブラウスも脱ぐと……、「ほら、見事にうしろ前!」と、二女、笑う。
今朝のこの、なんでもないような失敗が、わたしに何かをおしえている。何かとは、はっきりわからないけれど、おぼえておこうと思った。
英文翻訳の授業へ。
新宿まで中央線に乗る。電車も空調が切ってあり、ちょっと薄暗い。中吊り広告が、ほとんど下がっていない。皆、厚着。ハイヒールの足も、見えない。
せんせいが、「落ちつかなく、大変な時期ですけれど、こういう時間をもてるしあわせに感謝したいですね」と云われる。……ほんとうに。
課題のなかで手こずらされた「could believe」。文章の前後の流れから、どう考えても「信じることができない」と訳したいところなのに、否定文になっていない……。
その正体が、明らかになる。この場合の「could」は、仮定法としての「could」だった。「you could believe」は、だから、信じようと思えば信じられる、信じられないとは云いきれない、というような意味になる。曖昧(あいまい)なようでありながら、その心情のニュアンスをかなり正確にあらわしているともいえる云いまわしも、わたしに、何かをおしえているようだ。これも、きょう受けとった合図。
新宿からの帰り道、Kさんといっしょになる。Kさんは足が不自由なので、いっしょのときには、なんとはなしに腕を組んで歩くかたちだ。いろいろの苦労を、やさしさと辛抱強さ、そしてそして教養とでくるんで——はね除けるのではなくて——生きているKさんの越幾斯(エキス)が、組んだ腕から伝わるような気がして、うれしい。はじめは、腕を組むのが照れくさかったが、いまでは自分から腕をとって組む。越幾斯ほしさに。
Kさんといえば、ホームに電車が来ていると、とにかく乗る。たとえそれがKさんの家の最寄り駅までは行かない電車であったとしても、とにかく。
「なるべく、家のそばまで帰ってしまっておきたいの」が口癖なのだった。いま、そのことばが冴え冴えとわたしの胸にも映るのだ。