サイド自由欄

カレンダー
キーワードサーチ
「そなたは、世の中に完全なものなど、無いと思うてくれるか、わたしは、
今では、三斎どのの灯籠のことを思い出すたびに、早くも、完全をきらった
その心が、見事に思われるのじゃ、
ことごとくのものが揃う、手にはいる、などという完全な幸福は、どこに
もありはしないのだ、この世は、どこか欠けている、足りないものを
恨むまいぞ、われらは欠灯籠よりも欠けていることを知っていなければならぬ、
秀高、秀継家族(※1)も無事、会わずとても、ここに生きておることを喜び
くれまするよう、くれぐれそなたも自愛してたもれ、
豪どの
秀家」
『閉ざされた海——中納言秀家夫人の生涯』(中里恒子著/講談社文芸文庫)
わたしが出版社に勤めていた時代、あらゆる原稿が、多く万年筆や鉛筆による手書きだった。ファクスというのもなかったから、原稿はいただきに、うかがう。駆けだしの仕事と云えば、だから、原稿とりである。あれくらい緊張する仕事もなかった。
生きて動いている作家——この表現は失礼にあたるかもしれないが、まさしくそれが実感だった——の前で、当時携えていた礼節という礼節をかき集めてふるまい、原稿を押しいただくのが第一の緊張。原稿をしまった鞄を抱くようにしながらの帰路が第二の緊張。入稿は先輩の手によってされたが、初校(最初の校正刷り)の「読み合わせ」(※2)が第三の緊張であった。
中里恒子さんの小説の「読み合わせ」も幾度したか知れない。「読み合わせ」は2人1組の仕事だ。原稿と、刷り上がったゲラ(校正刷り、校正紙)とにちがいがないかどうか、読んで合わせてたしかめる、校正の第一関門だ。
——たとえば、冒頭のは、こう読み合わせる。
(かぎ) そなたは (てん) よのなかに (よとなかが漢字) かんぜんな(かんぜんが漢字) ものなど (てん) ないと (ないが漢字) おもうてくれるか (てん) わたしは (わたしは仮名)(てん) かんぜんをねごうたが (てん)
このように、原稿を読んでゆく、声にだして。もうひとりは、校正紙を見ている。
(てん)ばかり、やけに多い文章だと思った。ことに、話ことばをおさめた「 」のなかに(。)はひとつも存在せず、「 」のなかは必ず(、)でおわる。初めてそれに接したとき、先輩にそっとおしえられた。
「これが、中里恒子さんの原稿のかたちなのよ。作家の、この『型』は、どんな場合もそのままに。魂が宿ってるからね。さ、じゃ、読んで」
ふと、「、」の打ち方にも格調を感じさせる「中里恒子」の小説を読みたくてたまらないような気持ちになった。こういうのは、記憶のなかにしまわれた本のならびが、ある1冊を押しだしてよこす一種運命的なものだ。 しかも、あれかこれかということもなく、『中納言秀家夫人の生涯』がさしだされた。わたしがその名でおぼえていたこの本、もとは『閉ざされた海』という書名であったらしい(現在、全集には、『閉ざされた海』で収録されている)。主人公は、宇喜多秀家とその夫人豪姫、いや、島流しになる夫と残らなければならなかった妻の、海を隔てた絆であることを鑑(かんが)みれば、たしかにもとの書名のほうがしっくりする。
ここから数行、あらすじを書かせていただくが、それを邪魔と思う読者におかれては、目をつむっていただきたくお願いする。 前田利家の四女として生まれ、太閤秀吉の養女となった豪姫は、若き武将・宇喜多秀家に嫁ぐ。戦国の世の大名一家の結婚といえば、ほとんど政略的なもので、良人(おっと)はともかく妻にはほとんど選ぶ権利などない、非人間的なものが通例であったが、ふたりには同じ城中に暮らした幼な友だちという親しみがあった。幸せに満ちた十数年ののち、関ヶ原の戦いに破れ、秀家は孤島八丈島に流され、豪姫はひとり加賀の地にうつり住む……。
冒頭の引用は、久しぶりに秀家が奥方にあてた便り——年数度の御用船で行き来する——の一部である。
ここへ出てくる「欠灯籠(かけとうろう)」とは、千利休の秘蔵の灯籠のこと。天下一とも称されたこの灯籠を、太閤秀吉と細川三斎(※3)とに所望されたとき、利休は、わざと裏面を欠いて疵ものとし、秀吉の請いを逃れたのだった。自決の前に、利休はそれを三斎に贈ったが、三斎は自庭に据えてから、さらに、わらび手、灯口を欠いたという。三斎が、完全をきらって欠いたのだ。 ものがたりのなかの、この便りのくだりは忘れていたが、まことに心情あふれる話だ。この胸にたたみなおさなければならない話でもある。
「わざと欠く」には及ばない。多くを求めるこころをおさめるだけで、めあてをどこに据えるかを見直すだけで、足りるように思う。「東日本大震災」を経験したわたしたちは、完全なるものの儚さをよく知る存在になったからだ。
いつも思うことだが、読書にはどれほど救われるだろう。このたびのはまた、ありがたさの上に十重二十重の不思議がかぶさった。戦国の世のうたかたの栄華ののち、絶望、いや終焉とも思えるところから生きなおした宇喜多秀家の姿。長い歳月を加賀に埋もれて暮らすことになった豪姫——その後宇喜多秀家夫人へ、樹正院へと変わる——のこころに揺るぎなく在りつづけた、秀家とともに生きるという一途な思い。このふたつは、この時代をたいそう勇気づけるもののように思われて。
※1 宇喜多秀高、秀継
秀家の長男と次男。父とともに島に渡る。家臣、下男、乳母のほか、加賀
前田家の配慮で、侍医・村田道珍斎を伴い、一行13人。皆、島にて生涯
をおくる。
※2 読み合わせ
データ入稿が多くなったいま、「読み合わせ」の作業がどれほど行なわれ
ているか正確にはわからないが、おそらく稀少なものとなっているはずだ。
※3 細川三斎
(細川忠興/1563−1646)戦国武将として多くの主君に仕えながら、細川
氏を生き延びさせた。文化人でもあり、千利休に師事、『細川三斎茶書』 を
残している。夫人は、明智光秀の3女玉子(細川ガラシャ)。

八丈島に流された秀家一行は、
村人をたよって、山へゆく者、浜へゆく者、
畑仕事をする者と、それぞれの好みで仕事を分担した。
秀家は、菰(こも/むしろのこと)を編むのを得意とした。
島では、持てるものは分けあうのが自然のことで、
村人は、魚でも貝でも、山のものでも、
秀家に差しいれる。
読書しているわたしのもとにも、
岡山県瀬戸内市牛窓から山のものが届いた。
わらびと、小さな筍と。
友人のこの心づくし、
「もっとも人間的な幸福」だと感じる。