おじん0523のヒロ散歩

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2019.08.20
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カテゴリ: 海外旅行
​​​​ロシア側防御要塞跡から、水師営会見所へ。

6/25(火) 11:00
ロシア要塞の「士兵宿舎」
中へ入れないように柵がしてあった


士兵宿舎には、200名の兵士が常駐していた


電話室


11:01
上からは頑丈な要塞「指揮部」


石碑は「指揮部」、中国語、英語、ロシア語、日本語、韓国語で表示





伙房(キッチン)、包札所


この石碑は


堡塁大門(堡塁正門)


11:07
東鶏冠山北堡塁
中国人も記念写真


11:08
駐車場へ戻りバスへ乗車


11:13
東鶏冠山北堡塁を下り水師営会見所へ


11:30

日露両軍首脳が会見した場所。
水師営という地名は、1715年(清の康熙54年)に康熙帝がこの地に設けた軍の駐屯地の
名前からきている


会見所へ入る。
203高地の陥落を受けてロシア側から停戦の申し入れがあり、1905年1月5日、乃木



現存の建物は当時の資料を参考にして忠実に再建されたものである


日露首脳の記念写真はここで撮影されたと


建物の中には日露戦争時に実際に使われていた品物が展示されている。
何故かこの施設の維持費とかで、この品物をお土産として販売していた。懐中時計、
ネックレス等があった。中国人は購入しないと。
ツアー仲間のおばさんが寄付として購入、領収証をもらっていた


屋根は茅葺で、以降は撮影禁止のため古い写真のみを撮影した。会見のテーブルがあ
り座って説明を受ける。ほとんどがお土産の説明だったが


水師営会見所旧址


1905年1月5日 乃木希典同斯特塞尓在水師営会見所


12月18日 日軍攻占東鶏冠山北堡塁


日俄戦争前的旅順口全景
湾内にはロシア軍の船か


沙俄軍艦在旅順港内


このあと、外の土産物店へ入るがここも何故か撮影禁止。
室内には「禁止拍照」の文字が → 撮影禁止

12:05
このあと水師営の敷地内にあるレストランへ


店に入るとメニューが
一皿の値段か?、28~98元(490~1,700円)


鮮魚も並べられていたが、以前に比べるときれいになっている


野菜もこのような姿で店先に、食の安全を表現しているのか


店内に入るが昼前でお客さんは少なかった


昼食は「旅順料理」が出たが、何品あるのか。
またトウモロコシの春餅もでると、炒飯も山盛りで


白いのが春餅か


12:51
食事を終え


12:52
今回の大連観光の運転手。
フロントに阪急交通社『歴史を感じる! 中国東北7名所大周遊』


13:01
車窓からのコキアか?


13:06
前回(2012年)来た時も「二〇三高地」を訪れているが、うろ覚えのある道であった


二〇三櫻花园 2㎞


13:09
203景区の駐車場へ到着
チケット売り場等きれいに整備されていた


カート乗車代は一人10元


カート乗車のチケットだが、春はきれいに桜が咲くようだ


13:18
この広場までカートで上り、左側から歩いて最後の坂を上る


広場にあった説明板。
この辺りには日露の戦死者の霊をいやすために、20,000本以上の桜が植えられ、春の
4/下旬~5/初旬には桜が満開になると


日露戦争の遺跡 ーーー 二〇三高地
二〇三高地は日露戦争の時に日露両軍が争奪し合っていた旅順西部戦線における主な
戦場である。旧日本軍が、1904年9月19日からロシア軍周り陣地を奪い取った後、
二〇三高地に向って総攻撃を行い始め、66日間続いて12月5日にその高地を攻め落と
した。当該戦役の中に旧日本軍は万人以上、ロシア軍は5,000人以上死傷した


旧日本軍が二〇三高地を奪い取った後、すぐここに重砲観測所を設け、重砲を指揮し
ながら旅順口を砲撃した。その結果、港にあるロシア軍艦は砲撃され、ほとんど全部
沈没した。
戦後、・・・・(中略)・・・・10.3m高さの「爾霊山」記念タワーを作り上げ、日本
の国民を している。  流石中国の看板だ!


13:19
最後の坂を上るがきつい


13:26
坂を上り尾根に上がり
道案内   ← 重砲観測所   → 爾霊山記念塔  ↓乃木保典戦死之所 


13:26
尓灵山塔(爾霊山記念塔)


この坂を上り、尓灵山塔(爾霊山記念塔)へ


市級文物保護単位『二〇三高地』


省級文物保護単位『旅順口日俄戦争遺址ーー二〇三高地ーー』


13:28
爾霊山記念塔(尓灵山塔)


203高地の紹介
203高地は1904年の日露戦争の主要戦場の一つである。日露両軍はこの高地を争奪す
るため、激しい強い争いをし、結果、ロシア軍側では死傷者は5,000名余り、日本軍
側では死傷者は10,000名余りに達した。戦後、日本第三軍司令官である乃木希典は、
戦争で命をなくした兵士たちを記念するため、砲弾の破片でこの高さ10.3mの砲弾状
の慰霊塔を建て、爾霊山という三文字を揮毫した。今は、この爾霊三はすでに日本軍
国主義に対する 対外侵略の罪の証拠と恥の柱となった
この説明板は中国人が翻訳したのか???



                           中国・東北の旅ー続く​​​​





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最終更新日  2019.08.20 03:00:06
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