JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.11.24
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カテゴリ: JINさんの農園
旧東海道方向に向かって進むと、 ここにも「青物町」の旧地名碑 があった。









青物町商店街 」を進む。



左折して進むと右手にあったのが「 小田原本町郵便局 」。
小田原市本町2丁目11−14。



引き返して 「青物町」交差点へ



高梨町 」碑。



たかなしちょう 」。



「東海道から北へ向かう甲州道の起点に当たり、古くから商家、旅籠(はたご)が並んでいた。
町の中央南寄りには下(しも)の問屋場(人足や馬による輸送の取継ぎ所)が置かれ、
中宿町の上(かみ)の問屋場と十日交代で勤めていた。」
別の説明では
この町は、藩主稲葉氏の「永代日記」、承応3年(1654)の記事に初めて町名が見られます。
「新編相模国風土記稿」(1841年)をみると、町内に「鎌倉屋敷」という小町があり、小田原
北条氏時代(北条早雲、氏絅、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495 ~ 1590年) )からの大商人
鎌倉屋の持地があったためと伝えているので、古くから商家や旅篭がならんでいたようです。
町の中央寄りには、「下の問屋場(人足や馬による輸送の取り次き所)」があり、中宿町の
「上の問屋場」と10日交代で勤めていました。
なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は58軒でした。



右手の道路脇に案内板が立っていた。



下の問屋場跡 」。



下の問屋場跡
宿の主要な機能は、公用の旅行者や物資の輸送、通信、これに伴う休憩や宿泊施設の提供でした。
その中心的な機能を担う施設が問屋場で、定められた量の人足や伝馬を備えていました。
小田原宿では、高梨町の下の問屋場のほか、中宿町に上の問屋場が置かれていました。




「海へと続くトンネル」の手前左にあった石碑。



「川崎長太郎 小屋跡」碑
昭和13年に37歳ではじめた小田原万年町の海岸近くにあった実家の物置小屋での生活は、
以後20年にもおよび、川崎長太郎は私小説作家の権化となったのだった。また戦後21年頃から
色町・抹香町に通うようになり、いわゆる抹香町ものといわれる男女のしがらみの葛藤を描いて

昭和42年、66歳のとき、軽い脳出血に倒れ、以後は右半身不随となった。だが筆力は衰えず、
〈人生の随〉を描いた。昭和60年11月6日、肺炎のため入院先の小田原市立病院で死去する。



「​ 川崎長太郎 小屋跡 👈️リンク
川崎長太郎は、明治三十四年此処 千戸小路の魚商太三郎の長男として生まれた。
大正十一年上京 ”赤と黒”の創刊に参加 のち徳田秋声に師事して「無題」「余熱」などを
書いた。
昭和十三年小田原に帰り海沿いのトタン小屋に起伏「裸木」「父島」「抹香町」など私小説
ひと筋を貫いた。
昭和六十年十一月六日歿 
文学碑は 市内早川観音真福寺境内にある。
平成四年十一月
川崎長太郎文学碑を建てる会」



「屋根もぐるりもトタン一式の、吹き降りの日には寝ている顔に、雨水のかかるような
物置小屋に暮らし、いまだにビール箱を机代わりに、読んだり書いたりしている
川崎長太郎 「抹香町」より」。



振り返って。
西湘バイパスのない昔は、本当の海辺に建っていたことが判るのであった。



「小屋跡」の碑の先にある 海に続くトンネル



「小屋跡」の碑の先にあるトンネルをズーム。
相模湾の波の姿が。



西湘バイパスの下のトンネル の中を歩く。



御幸ノ浜 」に出る。



真鶴半島



真鶴半島・三ツ石 」をズームして。



打ち寄せる波を追う。





大磯の海岸方向 を見る。
高麗山公園 (湘南平)の鉄塔も見えた。



赤い「 荒久の灯台 」その後ろに「 西湘バイパス 」。



御幸ノ浜 」から戻り「 かまぼこ通り 」を西に進む。



鰹節、削り節の老舗「 籠常商店 」。



「​ かつおぶし博物館 籠常商店 ​」👈️リンク。



旧東海道まで戻る。
「8月15日の小田原空襲」案内板 と「 小田原宿 脇本陣古清水旅館 2F資料館



小田原宿 脇本陣古清水旅館 2F資料館 」。



8月15日の小田原空襲
1945(昭和20)年8月15日、まさに敗戦当日、深夜1時か2時頃、小田原市はアメリカ軍の
戦略爆撃機B29一機による焼夷弾空襲を受けました。
小田原空襲の直前には、埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市が空襲を受けており、その二都市を
攻撃した編隊の内の一機が、マリアナ諸島の米軍基地へ帰還する途中に小田原を空襲したものと
考えられます。アメリカ軍のその日の作戦任務報告書には、小田原空襲の記録は一切なく、
計画されたものではありませんでした。
しかしながら、アメリカ軍の日本都市空襲の候補地が記された「180都市の表」の96番目に
小田原が挙げられており、本格的な小田原市街地への焼夷弾空襲がなされ、壊滅的な被害を
受けた可能性がありました。
8月15日の小田原空襲で被災し炎上した地区は、現在の浜町一・三丁目、本町二・三丁目に
またがり国道1号線をはさんで国際通りの両側にあたります。
被災した古清水旅館には、小田原空襲を伝える写真が保存されています。建物がすっかり
焼け落ちた古清水旅館の後方に焼き尽くされた小田原の町並が映っています。当時の館主、
清水専吉郎氏が写真屋を呼んで撮影したものです。
今から62年前にあった小田原空襲を記した説明板を、被災した古清水旅館の敷地に設置する
ことで、戦争の愚かさや悲惨さ、平和の尊さを少しでも語りつぐことができればと思います。
2007(平成19)年8月15日
      戦時下の小田原地方を記録する会
      古清水旅館 館主 清水伊十良」



被災した古清水旅館 の写真。



被災地図



その先に「 宮前町 」の「旧町名」碑があった。



みやのまえちょう 」。



「小田原北条氏時代には上町・下町に分かれていたと伝えられている。町の中央に城主専用の
入口、浜手門口高札場(幕府の法令などを掲示する場所)があり、江戸時代末期、町内には
本陣一、脇本陣二、旅籠(はたご)が二十三軒あって、本町とともに宿場町の中心であった。」
別の説明では
この町は、「北条氏康朱印状」(1566年)に初めて町名が見られます。この頃、この町は「上
町」、「下町」に分かれていたと伝えられていますが、その区分けは明らかではありません。
江戸時代には、東海道に面した町の西側に城主専用の出人り口である「浜手門」と「高札場
(こうさつば:幕府の法令などを掲示する揚所のこと)」があり、同時代末期、町内には、本陣
(ほんじん:街道の宿揚に置かれた大名、公家、蟇府役人などのための旅館) 1軒(大清水)、
脇本沖(わきほんじん:本陣の予備にあてられた街道の宿舎で、本陣にあきのない時に大名などが
利用した旅館) 2軒、旅篭が23軒ほどあって、隣の本町とともに小田原宿の中心でありました。
なお、天保初期( 1830年代)、町内の戸数は42軒でした。



                                  ・・・もどる・・・





                 ・・・つづく・・・








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Last updated  2024.11.24 04:47:58
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