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『人 ニ ハ 1 一』 この意味↑、分かりますか? 友人の大阪案内人のプリントの入ったTシャツ(ヨレヨレでしたが・・) 大笹 吉五郎の墓石と詩碑人 ニハ|(芯棒=辛抱)一読み方は「人には芯棒(辛抱)が一番」昨日、京橋(大阪)のフールドワークに行ってきました。 大阪商人の大笹吉五郎の墓が京橋駅の京街道筋入口付近にありました。大正時代の証券相場師で、世界大恐慌のため、全ての財を亡くしたましたが、唯一、子孫に残したのがこの家訓だと伝えられています。「人には(芯棒)辛抱が一番」と掛け合わせています。辛抱の「辛」の字は一本足を両手で均衝をとり重荷を頭に乗せてジッと辛抱の姿です。土中から芽を出す為、熱と力と意気を持てば「幸」(しあわせ)の字だとも。「人ニハ1一」を組み合わせると「金」お金になります。「あなたは何の為に働いているのですか」と問われ、「お金の為」と答え、「乞食だ」と叱られた人がいました。 若いときは誰でも、そう思いがちです。 人の為に辛抱して働けば後からお金が回ってくるという心境になれたら 大阪商人の第1関門のハードルを越えたといえます。 人という字は、倒れかかった二人がお互いに支え合っている姿。 人間の本質を究めて「真の大阪商人」を目指したいと常に思っています。 私が師と仰ぐ商売の大先輩に若い頃「船場小学校に入学は出来るが、中々卒業できないぞ。」と言われた言葉は今も心に沁みてます。 父が亡くなる直前「自分の為に生きるな。人の為に生きろ!」,「人に泣かされても人を泣かすな」の言葉を肝に銘じつつ生きていますが、近頃は、「親を勝る子は無なし」の諺に「なるほどな~」と、納得する毎日です。
2007.05.27
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『風の島~済州』 柳銀珪(Ryu Eunkyu) ソウルから汽車に乗って木浦に着き、そこから船で済州島に渡った。そのとき私は20 才で、大学で写真を学んでいた。済州の港の検問はやけに厳しくて、「遠いところにやって来た」という実感がわいてきた。今から25年前の済州島は、韓国人の新婚旅行先として人気を集めはじめたところで、海辺の風光地では観光客を目当てにした開発が行われていた。しかし私の関心は、人々の暮らしの方にあった。島の人々は、海辺から少し離れた村に住んでいた。そういう村はまだ、観光開発とは無縁の素朴な場所だった。島の人々は、私が聞いてもわからない言葉で互いに話をしていたが、私には標準語で話しかけてくれた。私は一人で村人の家に何日も民泊するうちに、済州島の人々のあたたかさに触れ、どんどんこの島が好きになっていった。2 年の間に数度、私は済州島に渡った。観光地には行く気がしなくて、ただ村の人々の暮らしを撮り、村から見える風景を撮った。済州島には、いつも風が吹いている。強い風に吹かれながら、人々は暮らしを営んできた。華やかに変貌をとげた今の済州島に吹く風は、25 年前と同じだろうか。なつかしい写真を整理しながら、私は島の人々や風景を思い出している。この写真の中に吹いていた風を、心に感じながら……。※柳銀珪写真展 『風の島~済州(チェジュ)』ギャラリー渡来大阪市生野区桃谷4-5-15 班家食工房2階10:00~18:00(休館日なし)TEL:06-6718-1100※柳銀珪写真展 『変わるものと変わらないもの~青鶴洞(チョンハクドン)』6 月3 日~6 月9 日ビジュアルアーツギャラリー大阪市北区曽根崎新地2-5-23TEL:06-6341-4407※シンポジウム写真の国際交流を考える「東アジアの写真~韓国・中国~」講演:柳銀珪6 月3 日(日)14:00~16:30ビジュアルアーツ専門学校 新館3 階 アーツホー
2007.05.26
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5月24日は、お釈迦さまの誕生日でした。『お釈迦様の来られた日』と言って、韓国では祭日です。 韓国に仏教が伝来してから1600余年。仏教徒が専らを称えて来た節日が陰暦8日(4月 8日)でした。今でも、韓国では=チョパリル=『初八日』と呼んで盛大な行事を行います。お寺や家中に火を燈し、蓮の花の提灯を飾り、家内安全、泰平を祈願するのは、今も昔も変わらぬ習慣です。家から遠く離れた山寺は初七日夜に明かりを燈し、都市近郊のお寺では陰暦8日の夜に燈をつけます。昔は提燈行列をするのが 4月陰暦8日を祝う行事とされていました。朝鮮半島で、新羅と高麗に根付いた仏教は”国教”として国全体の文化、因習として定着しました。そんな意味もあっって4月の陰暦8日は仏教の節目でもあります。李朝鮮時代、儒教が国教となり、山の中に寺院が追いやられ、為政者によって迫害されますが、多くの庶民の手助けによって400年以上の間、細々と、仏教と寺院は守られてきました。こんな”ねじれ現象”が今日の様に変則的な釈迦誕生日になってしまった由縁でもあります。現に、近年、祭日となったといえ、多くの仏教国ですら釈迦の誕生日が統一してないことを受け、韓国でもこの日の名称が公式的に決まったことがありません。”4月初八日、 釈迦生誕日、仏誕節、 仏誕日、釈迦誕生節(釈誕節)、尊降誕節”などと未だに混乱してるのが実情です。釈迦誕生は、その時、龍が天から飛来して、香湯をそそいだという故事に基づくものですが、本来は旧暦で行われるものですが、日本では近年は新暦で、又は、それに近い日曜日に行われることが多くなってきています。これは余談ですが、韓国で法定祝日となっったのは、クリスチャンが急速に社会全体に増え、クリスマスが法定祝日となっていることから、一つの宗教だけを特別扱いしないための配慮であったといわれています。今年も、「釈迦誕生日」に、648人の囚人が恩赦により仮釈放されるほど韓国では大切な日でもあります。記事 2007/05/24 Updatedソウル中心部にある曹渓寺など、全国各地のお寺では、釈迦の誕生を祝う法要が行われました。盧武鉉大統領は釈迦誕生日に合わせて国民にメッセージを送り、「韓国の歴史の中で、仏教は国難を克服し、国の発展に大きく寄与してきた。これからも先進韓国を作り上げるため力を合わせよう」と呼びかけました。また、北韓の仏教の総本山とされる平壌市の広法寺でも、釈迦の誕生を祝う法要が行われ、曹渓寺と広法寺では、南北の仏教界が共同で採択した祈願文が朗読されました。一方、ソウルの城北区にある慶国寺では、仏教のほか、キリスト教などほかの宗教の合唱団も参加して、釈迦の誕生を祝うイベントが繰り広げられました。 「釈迦誕生日」を迎え、23日午前10時模範受刑者648人が特別仮釈放される。法務部は収容生活がまじめで、出所後再犯の可能性がないことが認められる受刑者たちを仮釈放対象として選定したと明らかにした。今回の仮釈放対象者には、毎月定期仮釈放に含まれない10年以上の長期受刑者48人と、収容生活が困難であることが判断される高齢者と患者など老弱受刑者74人が含まれた。『仏教関係HPからの抜粋』この3つの日を「三仏忌」といい、具体的には次の3つです 4月 8日 釈尊降誕会(ごうたんえ=誕生の日)12月 8日 釈尊成道会(じょうどうえ=悟りを開いた日) 2月15日 釈尊涅槃会(ねはんえ=入滅された日)ところが、この日付で降誕会の行事を行う国は日本・韓国・朝鮮・中国など大乗仏教の国の一部であります。これは、例えば釈尊降誕の日を、『ブッダチャリタ(Buddhacarita)』(=『仏所行讃』)の「4月8日」をそのまま太陽暦に当てはめてしまっていてこの月日したとか、その程度の理由だと思われます。ちなみに、ヴェサック月(太陽暦の5月付近)を元に降誕会を ヴェサック月の第8日成道会を ヴェサック月の満月の日涅槃会を ヴェサック月の満月の日とする資料もあり、スリランカなどの上座部仏教国のように、ヴェサック月の旧暦15日(満月の日)に三仏忌(降誕・成道・涅槃会)を一度に行ったりする国もあります。そこで、各国の祝祭日を元に、釈尊降誕の日がいつなのかを調べてみました。ヴェサック月の日付は太陽暦に直すと毎年変化しますのでご了承ください。昨年の月日を基にしています。タイ 6月2日 仏誕節 Wisakha Bucha Day バングラデシュ 5月3日 仏誕祭 Buddha Purnima (月齢により変わる) 香港 5月26日 仏誕 The Buddha's Birthday インド 5月4日 釈迦誕生日 Buddha Pournima インドネシア 6月3日 釈迦記念日 Libur Hari Raya Waisak 韓国 5月26日 釈迦誕生日 Budda's Birthday マレーシア 5月3日 釈迦誕生日 Wesak Day スリランカ 5月4日 5月5日 ヴェサック満月祭 Vesak Full Moon Poya Day ヴェサック第二日 Day Following Vesak Full
2007.05.25
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「パッチギ!LOVE&PEACE」(パッチギ2)が封切り! 仕掛け人、シネカノンの李鳳雨氏とは・・ その佐藤栄作首相がノーベル平和賞を受賞したのが1974年10月。ノーベル平和賞について興ざめし、平和の二文字に絶望した時でもありました。 『パッチギ! LOVE&PEACE』にはこの日の新聞が出てきます。そしてこの映画が始まります。【映画】『パッチギ! LOVE&PEACE』 http://www.walkerplus.com/tokyo/latestmovie/report/report4880.html【挿入曲=イムジン河の記事】 http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/trackback/1466000/42722034この映画を配給したのがシネカノンで、その代表が在日の李鳳宇氏です。昨年の1月にソウルの明洞に日本映画を上映する映画館をオープンされましたが、そこで「上映したい日本映画はどんなものですか」という質問に、「日本人というのがどういうものかをわかってもらえるような映画を上映したいと思います。」と答えてました。配給会社シネカノン代表の李鳳雨さんは、「映画が好きでたくさん作りたいなら、監督よりもプロデューサーになるべき」という言葉のとおり、初プロデュース作の『月はどっちに出ている』(1992年)=在日監督、崔洋一(チェ・ヤンイル)監督、以降、精力的に製作を続けています。自ら作品の原案を練ることも当たり前、の映画プロデューサーです。去年の『パッチギ!』に続き、今年は『フラガール』も大成功。配給では、最初の作品となったK・キエシロフスキーの『アマチュア』以来、これまで国内外150本以上もの作品を扱ってきたそうです。また、韓国と日本の映画交流の立役者であることも忘れてはいけません。現在は渋谷、有楽町、神戸、ソウルに直営映画館を持ち、興行主としても頼もしい存在です。巧みな話術で、もう、ほんとに引き込まれてしまいます・・・面白おかしく語った先には「これって映画になるでしょ?」という思惑が。こんなに面白く語られたら、スポンサーも気持ちよく出資できるってものでしょう。私の好きな韓国映画を日本に紹介してくれたのも、シネカノンでです。林権澤監督の作品、『太白山脈』、『風の丘を超えて─西便制』、『祝祭』、『春香伝』。これらの作品がすべて小説を原作にしています。ニック・パークの「ウォレスとグルミット」やエドワード・ヤンの「麻将(邦題:カップルズ)」を日本に紹介したのもシネカノンです。ちなみに吉祥寺の「諸国空想料理店 KuuKuu」跡地にオープンした「韓国百菜食堂 minari(みな李)」は、シネカノンの経営だそうです。(東京在住の方、知って増すか?)日本観客100万人突破という驚異的な記録を立てた「シュリ」。その裏にはシネカノンの果敢な広報戦略でシュリ神話を作り上げた結果とも言えるでしょう。「輸入当時には50万人ほどだと予想した」と話し始めたイ・ボンウ氏は「封切られる前の8カ月間徹底的に準備をしたのが功を奏した」と分析。「日本人の中で、既存の韓国映画ファンは40代の知識人層。それより多くの年令層の関心を集めるのが第一の課題だった。韓国映画はレベルが低い、アートムービーしかないという日本人の偏見も障害物だった。広告料だけで3億円を使った。大冒険だった。”韓国映画といって見下すな。こんな映画もあるぞ”」という基本的なコンセプトで大々的な物量攻勢を浴びせ、その結果今まで映画館の収入総額が14億円。その後ビデオの版権2億円が追加されテレビ版権もけっこう得られたとのことです。しかしシュリの成果はこれだけではないとも言われています。 シュリ以降、今、日本には韓流ブームが起きました。映画だけでなく韓国文化全般に対して関心が高くなったのも周知の事実です。。日本の配給業者の態度も180度変わり、韓国映画なら無条件で契約するという映画館の社長もいたほどです。韓流がれ去ったと言われ、韓国内でも邦画の入場者が37%も減ったといわれる中、このパッチギが韓国内で人気なのも何か皮肉な現象だといえるかもしれません。氏は「パッチギ」の舞台となった、京都の朝鮮高校出身で、自身の経験を交えた作品とも言えます。映画の中での加茂川は当時、向こう岸は日本人の暮らす街。そしてこちら側は在日が暮らす「バラック小屋」の集落。それをそのまま表現したかったと話してました。(私とは友人を通しての知人)映画の中で、棺桶が家に入らない時、木づちで入り口を壊す場面は、「幼い頃、筋ジスで亡くなった一回り上の兄の葬儀の時、父が泣きながら壊した情景」だったそうです。「人物をできる限りあぶりだす事で、その時代背景が浮かび上がると思います。私は映画の中で、お涙頂戴!と言う映画は作りたくありません。笑いの中から、自然と出てくる悲哀の涙、それを観客に訴えたいんです。」その言葉の中には私が話す、「在日を見れば日本が見える。」の言葉がそのままリアルに表現されてると思います。回の二部作品も「亡くなった兄の病気を治そうと全国の病院を走り回った家族の思い出」だそうです。皆さんも是非、この映画に足を運んでください。そして、まだ、一部の作品を見てない方は、是非、レンタルビデオで鑑賞してみてください。http://www.youtube.com/watch?v=Ab5v8gDs6ec 井筒監督 政治思想を辛口に語る。書籍紹介 映画『パッチギ! LOVE&PEACE』のすべてがわかるサブテキスト。 書籍名 : 愛、平和、パッチギ! 著者名 : 井筒和幸/著 李鳳宇/著 出版社名: 講談社 発行年月: 2007年5月 価格(税込): 1,600円 目次 第1章 HISTORY2つの李家の物語(李鳳宇)歴史なしには平和も未来も語れない(井筒和幸)第2章 TALK(姜尚中×李鳳宇対談)済州島で、日本で考えた東アジアと僕たちのこと(加藤和彦×井筒和幸対談)『イムジン河』から『あの素晴しい愛をもう一度』へ第3章 MAKING撮影日記「今日も明日も編集室」(井筒和幸)プロデューサー日記「今日までそして明日から」(李鳳宇)
2007.05.24
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安倍ー岸 信介、麻生ー吉田 茂=つまりは、孫より祖父が犯罪的である。 安倍、麻生の祖父は改憲論者 『祖父の血』(佐高 信) (1)『現在および将来の日本の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能であります。米国の好意により、日本は大量の食糧を輸入しており、その一部を在日朝鮮人を養うために使用しております。このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。』 (2)『大多数の朝鮮人は、日本経済の復興にまったく貢献しておりません。』 (3)『さらに悪いことには、朝鮮人の中で犯罪分子が大きな部分を占めております。彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。彼らの多くは共産主義者並びにそのシンパで、最も悪辣な種類の政治犯罪を犯す傾向が強く、常時7000名以上が獄中にいるという状態であります。』 この3項目は石原慎太郎の発言ではない。敗戦まもない1949年に、時の首相、吉田茂がGHQ最高司令官のマッカーサー宛てに出した、在日韓国・朝鮮人の母国送還を求める書簡である。『朝日新聞』論説主幹の若宮啓文が『和解とナショナリズム』(朝日新聞社)に書くように「驚くような差別と偏見に満ちた書簡」であり、さすがにGHQも受け入れなかった。 そもそも吉田が朝鮮に対する植民地支配について何の疑問も持っていなかったことを、若宮は次のエピソードで示す。 韓国の駐日大使を経て外相になった金東祚は、日韓条約締結の翌年に吉田と会い、吉田から、「奉天総領事のころ、しばしば朝鮮を訪れたが、朝鮮総督府がいかに善政を施しているか、総督の口からいろいろと話を聞いていた。なのに韓国はなぜこれほど日本を嫌い、反日だ反日だというのか」と言われる。 金は即座に、「アメリカの占領下で苦労した吉田さんとも思えない言葉だ」 と切り返したが、吉田はピンとこない様子だったという。 現外相、麻生太郎の『創氏改名は「朝鮮の人が望んだ」』という発言は、この祖父の血をまっすぐに受け継いでいる。政敵、石橋湛山の公職追放に関わった吉田は、まっとうなリベラルとは言えない。岸信介の孫の安倍晋三も問題だが、つまりは孫より祖父が犯罪的なのである。。 週刊金曜日 ウソ発見誌より
2007.05.23
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互いを認め合う!夫婦って・・・。5月21日は 『夫婦の日』 韓国では5月21日は『夫婦の日』です。21日は、ふたつ(2)が一つ(1)になるという深い意味を込めた日とも言われています。韓国で家族の月とされる5月子供の日5月5日、父母の日5月8日、先生の日5月11日、成年の日(成人式)5月の第3月曜日、そして1995年に制定されたのが夫婦の日です。夫婦の日の始まりは、1981年アメリカで始まりました。“'世界結婚記念日”を韓国式に変えたものです。韓国内で1995年からキリスト教を中心に記念である制定運動が展開され、その目的は夫婦関係の絆を再認識させ,睦まじい家庭を掘り起こすのにあるといわれています。言い換えれば夫婦の日は核家族時代の家庭の核心である夫婦が睦まじければ青少年問題、高齢化問題など各種社会問題を解決することができるという考えで出発した法定記念日です。しかし、祝日ではありません。結婚した夫婦は良かれ悪かれ次のような七つの峠を越えなければならないとされています。第一峠(幻想の峠)新婚から 3年頃かかって過ぎる峠で,いろいろの難しさを夢うつつに笑って泣きながら越える 涙峠第二峠(妥協の峠)結婚後 3-7年の間にお互いに現われた短所に対して妥協する心で、危ない倦怠期を越える 生汗峠弟三峠(闘いの峠)結婚後 5-10年の間、本当の相手を知った次に互いが自分と闘って相手を包容する、めまいがする ビモング峠第四峠(決断の峠)結婚後 10-15年が経ち、相手の長所、短所を現実で認めて補助し合い、それを繰り返する むなしいタイヤ峠第五峠(別に峠)結婚後 15-20年後に生ずる病気で一緒に暮しながら精神的に家庭内離婚の様に、別々に自分の生を諦めながら越えるアリラン峠第六峠(筒である峠)今まであった全てのものをお互いに覆って新しい気持で献身と責任を持って相手のために残った人生を捧げながら暮す 下り坂峠第七峠(自由の峠)結婚後、20年が経ったって現われる完熟の段階。努力しなくても互いが気付き理解して幸せを分かち合う 天堂峠★この運動を韓国で起こしたのはバラを抱えた牧師として有名なキリスト教の牧師グォン ジェド氏です。牧師は10年前子供の日に、TVに出演した子供が 別居中の両親について、「私の願いはパパとママが一緒の家で暮らす事です。」と言うシーンに衝撃を受けて夫婦愛キャンペーンを決心したといわれています。牧師は愛情表現が下手で、ぎこちない夫婦に対して、21日の夫婦の日に、バラの花をプレゼントすることから始めて見なさいと勧めています。ご主人は妻に情熱の意味で赤いローズを,妻はご主人に愛と尊重の意味を兼ねてローズピンクのバラをプレゼントして恋愛時代の暖かい心を思い出して下さい呼びかけています。牧師が提案するもう一つの方法は連れ合いに送る手紙です。『去年開催された “夫婦キャンプ”で手紙を書いて朗読する時間があったが皆、感動して涙した。』と話しています。『誤解を招く即興的な言葉を百並べるより、自分の心情をたんたんと綴った短い手紙一枚のほうが夫婦の間に積もり積もった高い壁を崩してくれる。』とはなしてます。クリスチャンが多いソウルの教会では、“夫婦で歩く大会”に始まりに“夫婦フォークダンス”、“私の主人・妻の3分間スピーチ”、“夫婦で愛の告白”、“夫婦で愛のカード送りあい”など夫婦が参加するイベントが目白押しです。いかにも韓国らしい“情”の社会が映し出されたニュースでしたので、書いてみました。自分自身に置き換え、反省したり、考えさせられた記事でした。
2007.05.21
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http://search.daum.net/cgi-bin/nsp/search.cgi?nil_profile=g&nil_Search=sugtop&sw=tot&q=5.18+%B9%CE%C1%D6%C8%AD+%BF%EE%B5%BF1961年5月16日、 軍事クーデターを通して権力を掌握した朴正煕軍事独裁政権は己の権力を正当化するために経済成長に邁進し、幾たびの民主化運動に対し”反共”を旗印に、何度となくスパイ事件を捏造し、強権弾圧で国内世論を押さえていました。そんな中での低賃金政策は経済成長のための必須条件。維新憲法と緊急措置は民主化運動勢力を圧殺して政権を維持づるための手段でした。それにもかかわらず、民主化運動は耐えることなく、全国的に広がっていました。そして、その力の政権は遂に限界に到逹し、朴正煕軍事独裁政権は 1979年 10月 26日朴正煕大統領自身の腹心である金載圭中央情報部長の銃弾によって幕を閉じました。しかし朴正煕政権の時代から軍部内で自身の勢力を蓄えてきた全斗換を主軸にした新軍部は、民主化過程の過渡期に乗じて自分たちの集権シナリオを準備して、どんどん政権中枢に上り詰めて行きました。12月12日、軍事反乱によって権力を掌握した後,当時噴出していた全国民の民主化熱望を抑えるためには民主化運動勢力と野党の力抑え込むのにあらゆる謀略を練ります。そのターゲットになったのが全羅道=光州だったのです。民主化運動が活発に展開されて来た所で野党の力が最も強く、大衆の絶対的支持を受けていた金大中(キム・デジュン)の政治的故郷がここ、全羅道光州だったのも大きな要因のひとつです。 全羅道光州は1970年代朴正煕軍え事独裁時代から、その”身代わり”りだったとされるぐらいに、政敵である金大中の政治的地盤であるのと、韓国社会の地域対立の象徴的な差別構造から、国内的には徹底的に疏外され、経済では立ち後れていました。しかし全羅道地方は国と民族の将来のために命を賭けて闘って来た民主闘士の故郷でもありました。最新鋭の機甲部隊を投入して無差別殺戮を行った全斗換新軍部勢力の虐殺蛮行に対して一歩も退かないで市民全体が一丸となって抵抗した歴史の事実は精神的側面、社会経済的な側面からみても、ごく当たり前の出来事だったかもしれません。結果として、軍の鎮圧によって5・18民衆抗争は学生、市民の多くの犠牲をもたらしましたが、その後の、韓国における1987年の民主化に大きな影響を与えたのは周知の事実です。ちなみに、当時、政府の転覆を狙ったとして、このデモの首謀者としてでっち上げられ、裁判で死刑宣告を受けた金大中氏は国外退去を引き換えに刑の免除を受け、後日、政権のトップである大統領になったのは「奇跡の大統領」としてあまりのも有名です。そして、その後の良心的な民主運動家や市民運動によって殺戮魔『全斗換一党』を歴史の審判台に立てることでこの5月18日を光州民主化抗争といして、正当性を韓国のみならず、全世界に知らしめた記念すべき日となりました。
2007.05.18
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たった1時間半の距離を走るのに『100年/半』かかった。 京義線で南側列車がトラソン駅を出発し、北に向かう途中、軍事境界線の通門を開けて走る歴史的な瞬間 今日、朝鮮半島の南北を隔ててる38度線の軍事境界線を56年ぶりに鉄路が結ばれました。記念すべき56年ぶりの往来です。日本のニュースでも流れていますが、韓国のニュースでは、『たった1時間半の距離を走るのに100年/半』がかかった、と皮肉って報じてました。しかし一方、年老いた北から越南してきた人々(韓国では失郷民といい全人口の10分の1に相当します。)を思えば、喜んでばかりはいられません。 韓国政府内の支持姿勢に対する甘さに国民の批判もあり、たった1回の試験運行の為に、 8000万ドル相当の軽工業資材物資と米を北朝鮮に援助(上納?)しなければならない.あまりにも大きい試験運行費用だとも思えます。 イムジン河を渡る統一列車 http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/42722034.html ここまでして北朝鮮を助けなければならないか?助けてもらう北朝鮮は横柄な態度に終始し、援助する側の韓国は回りの事情を察して事の成功だけに奔走する始末。あまりにも荒唐な取引関係だと言えるかも知れません。・・・と思うのは私だけでしょうか? 朝鮮戦争前夜の冬の京義線それでも、朝鮮戦争から56年ぶりに結ばれた鉄路を使って大量の人と物資、文化が行き来する日が来ることを願いつつ、「平和への第一歩」が歩みだした事実を素直に喜ぼうと思います。
2007.05.17
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「夢にも思わなかった」 紫綬褒章のつかこうへいさん・・・ 劇作家、つかこうへい氏が17年前に書いた「娘に語る祖国」の本を私は大切にしています。当時、同じ立場で「自分は娘に何を語れるのか?」と、この本を前にして自問自答したのを思い出します。本の中では歴史認識において私とは立場の違いも感じましたが、最後の部分で「人間の業というか、こういう難しい問題は、自分の娘に語るようなやさしい口調で、一つひとつ説いていかなければ伝えられない。人は、人をうらむために生まれてきたのではない。歴史は優しい穏やかな目で見るべきではないか」とある部分に私なりに共感を覚えました。しかし,2作目の「娘に語る祖国『娘に語る祖国 「満州駅伝」─従軍慰安婦編』(光文社,97年3月刊)の「従軍慰安婦問題でパパが誤解していたこと」という部分にると,「実はね,パパはいろんな人に取材をしたんだけど,従軍慰安婦の人たちは必ずしも悲惨じゃなかったんだ」そして、「パパは作家として,国としての歴史的事実よりも,一人の人間の小さな事実,その時 のその人の心の動きに興味があるのです。・・・と、ここまでくれば???違うんじゃないか?と嫌悪感すら感じました。今回の受賞を素直に喜ぶべきなのか?それとも右翼と言われる埼玉県の上田知事すら引用するこの2作目の内容が”本来の演劇での受賞と同時にマイナス要因にならなかった”と色眼鏡で見てしまうのは私だけでしょうか?カミングアウトした在日が、一歩でもお前に進む事が大切だと思い記事にしてみました。つかこうへい氏のHPにはこんなコメントが載せられている。つかこうへい 紫綬褒章受賞『私は韓国人であり、日本に国籍がございません。このような大切な褒章を受けるということは思ったこともございませんでした。私の両親は、もう二人とも亡くなりましたが、戦時中、日本に参りました。生きていれば、この栄誉をきっと喜んでくれたと思います。本当にありがとうございました。』 つかこうへいつかこうへい=本名:金峰雄(キムボンウン)春の褒章西日本新聞「韓国人の励みになれば」、「夢にも思わなかった」 紫綬褒章のつかこうへいさん談 紫綬褒章を受章した劇作家で演出家のつかこうへいさん(59)は在日韓国人。「日本の戸籍がないので、夢にも思わなかった。両親は亡くなっていますが、生きていたらきっと、喜んでくれたでしょう」としみじみと喜びをかみしめた。 大学在学中に演劇活動を始め、「熱海殺人事件」や後に小説版が直木賞を受賞した「蒲田行進曲」などを次々と発表。1970-80年代、若い世代の圧倒的な支持を集めた。 一方で俳優や劇作家、演出家の育成にも力を注いだ。94年に「北区つかこうへい劇団」を旗揚げし、小西真奈美さんや黒木メイサさんら人気俳優を輩出。「いろいろな役者を育ててきたことも評価されたと思います」 夏に各地で上演する「売春捜査官」は、娘が父である総理大臣を弾劾する物語。「権力と闘う姿勢はこれまで通り変わりません。弱者の目線で、ものづくりを続けていきたい」 2007年04月28日身を削って芝居で闘うhttp://ch-k.kyodo.co.jp/17kyodo/backnumber/backnumber2001/job/job03.html4月25日の演劇批評です。【演劇】北区つかこうへい劇団 ★北区つかこうへい劇団「売買捜査官~女子アナ残酷物語」 (北とぴあ・つつじホール@王子)木村伝兵衛部長刑事は東京警視庁でただ一人の女性捜査官として事件を解決してきた。そして今回の「容疑者大山金太郎が幼なじみで女子アナに憧れる山口アイ子を痴情の果てに絞殺した」一見単純な「熱海殺人事件」にはなぜか巨悪がちらつく。長崎県の原子力発電所に勤めていた大山金太郎は被爆していたのだ。何故なのか?禿げた上にホモセクシャルであることに悩む部下・万平の制止を振り切り、部長は敢然と真相に切り込む。そして国家権力に一歩もひかず立ち向かっていく部長の元に赴任してきたのは元恋人の熊田留吉。二人は長い時を経て誤解を解き、思いを通じ合わせる。しかし熊田に課せられた本当の任務は・・・そして大山金太郎の殺意の真相は、売春の元締めをすることでしか日本で生きる場所を見つけることの出来なかった在日朝鮮人・李大全と、六本木ヒルズの住人と合コンをする女子アナに憧れる女の悲痛な叫びがあった。はたして部長の戦いはどのような結末を迎えるのか!?桃組を観劇。若手公演だったけど、当初は「若手ふるい落とし公演」と冠がついていた公演で、劇団の方針が「ダメなら即クビ」だから、皆、フルパワーで熱演していましたね。滝のようにしたたり落ちる汗、久々に観たな・・・作品も2006年版に手を加えており、観やすくなっていたし・・・これで千円。かなりお得な公演です。つかこうへい=本名:金峰雄:直木賞作家。 1948年4月24日生まれ。福岡県嘉麻市(旧嘉穂町)出身。A型。慶應義塾大学文学部中退。在学中から作品を発表。在日韓国人であり、金峰雄という本名を持つ。 ■受賞作18回岸田国士戯曲賞(昭和47年)「熱海殺人事件」 第14回ゴールデンアロー賞演劇賞(昭和51年) 第28回キネマ旬報賞脚本賞(昭和57年)『蒲田行進曲』《脚本》 第6回日本アカデミー賞最優秀脚本賞(昭和57年)『蒲田行進曲』《脚本》 第42回読売文学賞戯曲賞(平成2年)『飛竜伝'90』《戯曲》
2007.04.30
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今こそ、1948年(昭和23年)4月24日、阪神教育闘争を思い起こす。 長い文ですが時間がありましたらお読みください。決して、過去の出来事を賞賛したり、評価しようとするものではありません。今、この時だからこそ、一人でも多くの人に”教育”について、そして、在日の人々が何故民族教育に対してこれ程までに拘りを持つのか。それが決して思想信条では無い部分を知ってもらい、これから先を考えたくてアップしてみました。1945年8月15日の解放(終戦)後、南にはアメリカ軍が進駐し軍政が布かれます。又、北にはソ連が入りで38度線が引かれました。南が今の韓国。左右の対決、例えば先日の4.3にアップした済州島の4・3事件等が方々で起こり、在日が帰るに帰れない状況が生まれきました。4・3事件は、済州島ので20万の人口で3万とも8万とも言われる島民が犠牲になりました。済州島だけでなく麗水・順天等々で1945年解放直後から、1950年、いわゆる朝鮮戦争が始まるまで、それは、めまぐるしく情勢が変化します。それでも帰国しようとした時、、マッカーサーの率いる当時の占領軍は、朝鮮人が持って帰る荷物は30貫、そして所持金は1000円(当時の金額ですが、)、ともかく1000円しか許可しなかったのが事実です。その連合軍の命令は1945年~47年まで継続されます。日本へ来て、苦心に苦心を重ねてね築き上げた財産を持って帰れない状況が続きました。生活の土台が故郷に無く、日本に来ていた1世の中には大正時代から暮らし、それ以外でも、徴兵や徴用,動員で日本に来た人たちは、生活の土台が故郷にもないわけです。そんな中、帰ることを前提としながら、ともかく、「われわれの子女に朝鮮の民族の魂を宿らせよう。」そう思いつつも戦前は許されず、皆、日本学校に通わせました。戦後になって「民族の歴史、特に言葉を教えなければならない。」そういう思いが爆発し、雨後の筍のように学校ができ始めます。1945年~47年と、戦後3年の間に、国語講習所という名前でスタート。後日、正規の学校となって行きます。統計によると1948年の時代には朝鮮学校が初等学校566校、生徒数53,000人。中等学校7校、生徒数3,300人。青年学校が33校、生徒数1,800人、これだけの学校が日本全土に出来ました。初等学校566校、そのうちでも大阪だけで66校に達しました。(この中には韓国系の建国学校もあり、このデモにも参加し、閉鎖反対運動を反対繰り広げました。) 【GHQと日本政府による弾圧と4.24阪神教育闘争】 しかし、G・H・Qと日本政府は「朝鮮語で民族教育をすること、民主主義的民族教育はいけない。」と通告してきます。韓国は軍政が布かれているから、朝鮮人は独立した国民とは認めない、こういう図式です。政府は、戦前の同化政策を継続使用とし、そんな状況下。1948年には、「朝鮮学校」という存在そのものが、「天敵」として見えてきます。朝鮮戦争を前にして、朝鮮学校閉鎖命令を、最初に山□県の学校から公布されます。(吉田内閣、何とも皮肉な?)そして、神戸・1948年4月12日になると、大阪、「大阪の66校のうちの17校は、設備が不備である。」と言う理由。「朝鮮学校はいらない、日本学校で学びなさい。」と、閉鎖命令が出ます。在日が自分の言葉を取り返し、真のアイデンティーを探そうと大阪在住の12万の朝鮮人が立ち上がりました。神戸や岡山でも。朝鮮の学校のある所は全ての規模に膨れ上がります。神戸では四月一五日、在日代表たちが県知事と交渉する約束をしていたにもかかわらず、突然拒絶されたため、抗議の座り込みしていたところ、全員が逮捕された。続いて二三日には民族学校の閉鎖が強制執行されます。24日、同胞たちは兵庫県庁前で約一万人の集会を開き、県知事と交渉した結果、学校閉鎖の撤回など5項目が合意されます。同時に、警察に15日に逮捕された人々を釈放させる約束も取り付けました。集会参加者たちは要求を勝ち取った感激を味わいながら、帰路に着きますが、同日深夜、神戸軍政司令部は突如非常事態宣言を発し、合意文書の無効を宣言するとともに、3日間で1,732名を無差別逮捕しました。大阪でも、4月23日、15,000名の在日同胞が、大阪市庁(現、大阪府庁)前に集まり、「閉鎖命令を撤回せよ!」と要求します。その時は、赤間文三が大阪府の知事でしたが、逃げてしまい、副知事が交渉を持ちます。その場で副知事は「朝鮮語で民族教育をすることが、治安に悪い。だから、朝鮮学校は閉鎖しなければならない。」まさに信じがたい論理で説明がなされます。本質的には同化政策を繰り返す意図です。今もその意図は変わらず、「朝鮮学校は閉鎖し、みんな、日本の学校で勉強しろ!」の不条理が続いています。(これが世にいわわれる阪神教育闘争の由縁です。)これに抗議し、民族教育を支援する市民や父母が逮捕され、留置場に入れられ、翌24日には、それに抗議し、再び、15,000名の群集が、前日逮捕された人たちの留置場に分かれて釈放を要求して抗議のデモを行いました。これに恐れをなした占領軍の神戸司令官、アイケルバーガーが24日、非常事態宣言を出し戒厳令が布告されます。そして、戦車、装甲車を出動させ弾圧を始めます。しかし”民族教育を守る闘い”に全大阪の在日同胞たちが結集し、その数45,000人が大阪市庁(現府庁)前の、大阪城公園に結集し、大阪支庁を取り囲んみます。警察も占領軍の指示によって8,000名が出動し、45,000名の市民とと対峙すました。 【少年、金太一君、警察の発砲で射殺】整然と隊列を組むデモ隊は、手に武器を持たず、スクラムを組んで整然と隊列を組んでいました。府庁の3階まで座り込みをしていましたが、官憲が武力で鎮圧しようとしたため、一旦退去しようとしますが、警察は「5分以内に退去せよ!」と、それは挑発でしかありませんでした。45,000人が解散するにはそれ相応の時間を要しました。その最中、消防車のホースでデモ隊を蹴散らし、混乱に一層拍車をかけ、まして、私服を着た挑発分子が紛れこんで。時を見計らい、「デモ隊が暴れてる!」ということで、銃をデモ隊に発砲し始めました。 そして、少年、金太一(写真、1948年4月27日、大阪赤十字病院で撮影。この40分後に死去と葬儀)という16才の少年が後頭部を撃たれ亡くなりました。この時、警察の弾圧で3000人ぐらいが逮捕されたと記されて。犠牲者は、金 太一(キム・テイル)少年が射殺され、神戸のパク・チュボム先生は捕まって獄中で死にました。そして重軽傷者数百名、裁判を受けて33人が追放になりました。勿論、占領軍による軍事裁判です。この時、デモに参加した動員数は延べで120,000人といわれてます。その後も、市内のデモ・集会は、全て禁止。そして、この崇高な民族教育を守ろうとした闘争を、日本政府は「破防法」として位置づけ、以降、朝鮮総連を「破防法指定団体」とし、日本政府からすれば、この時の朝連(総連の前身)のイメージをそのまま今日まで引っ張っているのは事実です。 【大阪市との民族教育に関わる覚書】1949年10月19日、正式に朝鮮学校閉鎖命令が出て、警察隊が朝鮮学校に押しかけ、ガラスを割ったり戸を潰し突入してきますが、父母や子供たちは一緒に抱き合って学校を死んでも守るんだと闘いますが、結局、閉鎖の赤紙を貼られ、ついに朝鮮学校は閉鎖されます。 しかし、この最中に大阪市と覚書と言う形で協定を結びました。その後も交渉は続き、1948年5月3日に文部大臣と、朝鮮連盟(朝鮮総連の前身前身)との間で次のような覚書が交わされます。・閉鎖後は、付近の日本学校に所属させ、朝鮮人教育の自主性を生かす。・朝連が推薦する教員を認める。・国語・社会・地理・歴史・音楽などは、朝連教科書編纂委員会で作成されたものを使用する。・認可手続き過程では、日本学校と全く同じように行う。」この覚書が、今日、現在日本学校の中にある「民族教室」の基礎となっています。しかし、4・24の阪神教育闘争は、結局、学校閉鎖ということで幕を閉じるわけです。戦後、子どもたちが自分の国の言葉、国語を知らなかったので、出発(帰国の)までに片言でもしゃべれるようにしてやらなければならない。このような在日の願いがかなって、朝鮮の子どもたちに朝鮮語を教える講習会ができました。民家の空室や工場、そして倉庫の片隅などを作り替えて教室にしまし。そこに自分たちの作った机や椅子、黒板が持ち込まれました。若者たちがこしらえたガリ版刷りのプリントで授業が始まり、いわば寺子屋ができあがったわけです。その頃、日本の学校は全て荒れ果てて、青空教室で授業が続けられるという混乱振りのせいもあり、朝鮮の子どもたちは、ほとんどが学校に行けなかった現状でした。だから子どもたちは喜んで朝鮮語の講習会へやってきました。こういうバラックみたいな学校で勉強すると「朝鮮学校、ボロ学校」そういうように言われたらいしいです。それでも、学校で勉強し、民族性守ったのもつかの間、ついに66校あった学校が全て閉鎖されました。ただ一つ、大阪市内の西今里公立朝鮮中学校だけが(現本庄中学校向かい)、その分校としてありました。今は、中大阪朝鮮中級学校となっています。その西今里朝鮮中級学校でも日本の先生がほとんどでした。講師で朝鮮人の先生が数人。その頃になれば日本の先生が授業してたと当時を振り返ってお年寄りが話されています。故金太一のオモニの話「あの子はかわいそうな子です。6つのとき父を失い、勉強も他人様のようにさせられませんでした。学校といえば、小学校4年で中退して、7人の家族を養うために工場で働き、行商に出歩いたり、辛いことばかりでした。26日の朝、(4月26日ですね、4・24というのは非常事態宣言布告の日ですから、その後も25、26、と闘争が続いたんですよね)その日は、『人民大会には行かない』とわたしたちを安心させておいて、自分たち、友達同士では『学校を守るために参加しなくてはならん』と言って出かけたんですよ。」【朝鮮学校前を素通りして、日本の学校へ】生野区には、在日韓国・朝鮮人が75%在籍しているという学校があります。その学校では在日の子供たちが大多数を占めています。学校名は御幸森小学校(みゆきもり)です。コリアンタウンがある近くにある学校です。その子達は富士山は習っても、白頭山は知らないんです。ウリマルを全然知らんない、それこそ、日本人でもない、韓国・朝鮮人でもない子が、この大阪にいっぱいます。http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007042600046&genre=K1&area=K1F
2007.04.24
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今日は4.19民主革命=サイルグ)1960年に韓国で起こった李政権打倒の日です。 4.19民主革命(サイルグ)韓国は戦後、朝鮮戦争を経験し、そして建国の父と言われた李承晩政権の、不正、腐敗選挙を国民自らの力で打倒した歴史を持っています。そして常にその先頭には学生がいました。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』にはこう記載されていました。四月革命とは、1960年4月に起きた民衆デモにより当時第四代韓国大統領の座にあった李承晩が下野した事件。最も大規模なデモが発生した日が4月19日であったことから、4.19革命、4.19(サイルグ)とも言う。目次 [非表示]1 四月革命にまで至る経過 2 1960年の大統領選 3 馬山暴動と4月19日の蜂起 4 註 [編集] 四月革命にまで至る経過1960年3月に行われた大統領選挙の焦点は当時既にかなりの高齢(85歳)であった李承晩の後継問題にあった。1956年の選挙では、与党民主党の大統領候補・申翼煕が遊説中急逝し大統領は与党の李承晩候補が棚ボタ勝利となったものの、副大統領選挙については弔い票などを集め約20万票差で野党・民主党の張勉候補に奪われ、政権内に与野党が共存するねじれ現象がおきた。そのため李承晩は自由党の政権継続を確固たるものとすべく、大統領権限の強化と張勉副大統領への干渉・進歩党事件など民衆運動の弾圧を行い、独裁色を強めた。[編集] 1960年の大統領選1960年3月15日に予定されていた大統領選挙では、李承晩大統領は側近の李起鵬[1]を副大統領候補に擁して選挙戦に臨んだ。一方で野党・民主党も趙炳玉と張勉を正副大統領に擁して選挙戦を戦ったが、大統領選中に趙炳玉が死去[2]、李承晩の4選は半ば確実となった。しかし、副大統領には張が優勢なまま選挙戦が進み、前回大統領選同様に与野党で正副大統領を分け合う事態が再来し兼ねなかった。このため政府・与党は官僚機構や御用組織・暴力団まで動員して全力を尽くし不正選挙を行い、李起鵬を当選させるまでこぎつけた[3]。[編集] 馬山暴動と4月19日の蜂起3月15日の選挙当日、慶尚南道馬山(マサン)で、学生と市民が大統領選の無効を主張して暴動を起こした。この暴動は鎮圧されるものの、4月11日に暴動に参加して行方不明になっていた学生が変死体で発見され[4]、反政府機運が高まった。4月19日に至り全国各地で数十万人もの学生や市民が李承晩退陣を要求して示威行動に出る事態となり、これに対し李政権はソウル・釜山・大邱・光州で戒厳令を布告、デモ隊への発砲で死者183人・負傷者6,259人を出す事態になった。それでも事態は収拾することなく4月24日には李起鵬が当選辞退を表明し事態を乗り切ろうとするものの、翌4月25日に全国27大学の教授400余名が連名で辞職要求のデモ隊に加わり李承晩・李起鵬の自宅を包囲。4月26日には李大統領が辞任を表明、後事を許政首相に託してハワイへと亡命した。李起鵬は一家心中[5]という悲惨な結果となった。この革命の後、許内閣による過渡政権を経て、同年6月15日に議院内閣制を採った第二共和国憲法の成立を見る。
2007.04.19
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長崎市長暗殺犯が在日朝鮮人で本名「白正哲」という情報はデマ・・・・・ 長崎市長を銃撃した城尾哲彌の本名が白正哲というのは完全なガセである事が判明しました。☆朝鮮人「日米同時銃撃事件」一考 (「博士の独り言」。なおこのブログは日本屈指の人気ブログであり、影響力がきわめて強い)http://grandbee.iza.ne.jp/blog/entry/154426/http://tinyurl.com/3yhyj3伊藤一長・長崎市長が17日夕刻に銃撃を受け、18日未明に亡くなった事件で、報じられた犯人の指定暴力団山口組系水心会会長代行、城尾哲弥容疑者(59)の本名は「白正哲」であることが判明。読者より情報をいただき、通信社筋に確認したところ、確認が得られたので小稿に報告する。一方、米国・バージニア工科大で、米犯罪史上最も多い32名(米時間17日現在)の犠牲者を出した銃撃事件が報じられたが、凶行に及び、現場で自殺した犯人は、韓国人で同大学の寮に住むチョ・スンフィ容疑者(23)であった。まさに、悲惨な両事件は、朝鮮系による「日米同時銃撃事件」であった。「やはり」と思われる方もおられるに違いない。無防備、無抵抗な者を銃撃する。後ろからフイ撃ちする。身体の中でもっとも無防備な顔面を狙う。これらは、朝鮮人の犯罪の特徴である。要注意のご参考まで!日本の尊厳と名誉を守り、国民の手で日本を取り戻しましょう!〔コメント欄より〕来訪者の問い ↓「さきほど、NHKのニュース9を視聴しながら、長崎の銃撃テロの犯人が在日との情報があるが調べているのか?と、コールセンターに問いあわせをしてみました。担当の男性に応対が引き継がれましたが、現在までそのような情報は知らないとのことでした。はっきりした場合、正確な情報を元にした報道をお願いしたい、と伝えました。ブログ主の返答 ↓「一般人相手のコールセンターのレベルでは、視聴者の声を受ける、聞くレベルです。また、個人情報保護法の問題もあり、情報が開示されない場合もあります。深いところは教えてくれないでしょう。当該情報は取材者レベルによるものですが、あくまでも情報開示の責任は通信社ではなく(故に、通信社名はここに記さず)、筆者に置いての情報として上記に開示しました。以上が、あらましです。」●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○☆城尾哲彌の本名は白正哲なのか、長崎県警に電凸してみたよ(解決不能)http://d.hatena.ne.jp/hagakurekakugo/20070419/p2http://tinyurl.com/ysxg5q全く信用出来ないので、長崎県警に電凸しました。(略)最初は女性の方が出られました。女性:はい、県警です。hagakure:すいません、長崎県警の方でしょうか?女性:はいhagakure:えーと長崎市長が撃たれた件についての報道で、お聞きしたいことがあるのですがよろしいでしょうか?女性:なんでしょうか?hagakure:報道では犯人の名前が山口組系水心会の「城尾哲彌」となっているんですが、一部インターネット上では犯人は実は在日朝鮮人の方で本名が「白正哲」というそうなんですが、これは事実なんでしょうか?女性:少々お待ち下さい。hagakure:はい。ここで、年配の男性に代わる。男性:もしもし?hagakure:はい。男性:お電話代わりましたけど。hagakure:あ、はい。長崎市長を銃撃した犯人の名前なんですけど、報道では「城尾哲彌」となってますが、インターネットでは実は犯人は在日朝鮮人の方で、本名が「白正哲」という情報が流れているんですが、これは本当でしょうか?男性:えっと、犯人の名前?hagakure:はい。男性:ウチは哲彌っち聞いとるけどね。hagakure:え?哲彌ということは本名は「城尾哲彌」で間違い無いと言う事ですか?男性:そうやね。hagakure:では国籍も日本人ということですよね。男性:そういう風に聞いてるよ。hagakure:分かりました。ありがとうございます。お忙しい所、お手間を取らせて申し訳ありませんでした。失礼します。男性:はーい、どうも。と言う事で、長崎市長を銃撃した城尾哲彌の本名が白正哲というのは完全なガセである事が判明しました。-- はなゆー 転載元:Peace_Communityーはなゆ さんより
2007.04.19
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何故に「韓国・朝鮮人」を卑しめたいのか? 「土井たか子氏は在日朝鮮人である」と示唆した出版社が提訴された。この次の記事、そして、この記事、以前揚げたhttp://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/41178367.html といい、100年前と何ら変わらない日本社会。その典型といえる石原都知事の言動。何故に事ある毎に、「朝鮮人=悪者」とレッテルを貼りたがる世論醸成に「マスコミ」までもが口を閉ざしてしまう今日この頃です。2年前の韓国映画「シルミド」で、韓国大統領暗殺を企てた北からの武装軍団の実態はk「韓国軍であった。」と解明され、韓国でも歴史の洗い直しが完了したにもかかわらず、4月に入って日本のTVで「シルミドのあった地区が観光スポットとして脚光を浴びるようになった。」と言うニュースでは相変わらず「大統領の暗殺を企てた北の武装軍団」と言うように二十数件前の反共宣伝のニュースと同じ「無知」なニュースが垂れ流されています。「又、意図的な北パッシング?。嫌韓報道?」と首を傾げたくなります。netでの捏造、悪口雑言はレベル以下の人々だと理解はしています。しかし、この社会がいつの間にか、この蔑視、、偏見を見過ごしてる事に恐怖を覚えます。以下は peace_community はなゆうさんjからの記事転載土井 たか子氏は在日朝鮮人である」と示唆した出版社が提訴された。月刊誌「WiLL」http://web-will.jp/ が社民党元党首の土井たか子氏http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BA%95%E3%81%9F%E3%81%8B%E5%AD%90が朝鮮半島出身であるかのような記事を掲載したことに対し、土井氏は、事実に反し、信用や名誉などを毀損(きそん)されたとして、発行元と代表者らを相手取り、全国紙への謝罪広告の掲載と損害金1万円を求める訴えを起こした。☆「朝鮮半島出身は捏造」 土井たか子氏、出版社側提訴 (朝日新聞)http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200704180057.htmlhttp://www.asyura2.com/07/hihyo5/msg/343.html訴状によると、同誌は06年5月号に掲載した論文「拉致実行犯辛光洙(シン・グァンス)釈放を嘆願した"社民党名誉党首"」の中で、「土井氏は知る人ぞ知ることではあるが、本名『李高順』、半島出身とされる」などと言及した。∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞★なお、ネット上では社民党の福島みずほ党首http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%91%9E%E7%A9%82についても「在日朝鮮人であり、その本名は"趙春花"である」との情報が、独り歩きして、いつのまにか定着している。日本屈指の人気ブログであり、きわめて強い影響力を誇る「博士の独り言」はhttp://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-221.htmlhttp://tinyurl.com/2fuvr3「筆者記: なりすまし(注:生粋の日本人に成りすました在日朝鮮人という意味であろう)のメディア人、文化人、政治家の言動にはおぞましいものがある。上記の他に、朴三寿(筑紫哲也)、社民党の李高順(土井たかこ)、趙春花(福島瑞穂)等々。実に紛らわしい。反日活動においては、通名ではなく、本名を名乗るべきである。」と明言している。その他にも、たとえば以下のブログ群はそう信じきって記述をしている。 ↓http://tinyurl.com/32eusvこれに乗っかり、TVで工作する朴三寿(通名=筑紫哲也)と、国会で工作する趙春花(通名=福島みずほ)に、我々日本人は決して二度と騙されてはいけない。http://tinyurl.com/2f4h6w土井たか子→李高順(帰化前の本名)北朝鮮に親族多数福島瑞穂(→趙 春花、帰化前の本名:中核派)辻元清美(帰化人、赤軍派)http://tinyurl.com/25h6th土井たか子こと李高順が帰化したのは、1958年10月26日福島瑞穂こと趙春花が帰化したのは、1986年2月15日
2007.04.18
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この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/47408248.html 国家と国歌 fwapyさんの国歌に関する記事にコメントしてから、ずっともやもやしていて、どうにも落ち着かないのです。間もなく長女の卒業式があり、都立高校の卒業式ですから、国旗が講堂の中央に高々と掲げられ、その国旗に向かって敬礼することを否が応でも求められ(学校長に敬礼をすると国旗が後ろにあるので)、その上で起立して国歌を歌うことになります。どうしても仕事の都合で参列できませんが、出れば、この状況に不快感をもちつつも、国歌を歌うでしょう。これまでもそうしてきたようにです。それは国旗国歌法で制定されたからではなくて、私が子供の頃から国旗であり、国歌だと信じてきたものだからです。その国旗と国歌に私は敬意をもっていたい。それは自分のいるこの国への敬意です。この敬意とは何かを毎年この時期に私の中で考えてきました。試されてきたと言ってもよいでしょう。ひどい国だと思います。その思いはますます強くなっています。人権侵害国家とは日本のことです。どこをどう切り取っても、まともではありません。でも、その国に生きています。国歌を歌うことは国旗を国旗として見つめること以上に、法律制定以後ははっきりとした踏み絵に変わってしまいました。立つこと、そして歌うという行為が誰の目にも映るからです。私の問題ではなくなってしまった。どうしてこんな踏み絵を踏ませるような真似を国家がするようになってしまったのでしょう。国旗に敬礼しない、起立しない、国歌を歌わない人々を処罰するというところまできてしまった。最高裁判決のでた事例は私の住んでいる街のできごとでした。どうしても伴奏できないと考える人はいるでしょう。それは職業の問題以上のもっと高次の人間としての判断でしょう。この歌わない自由を確保できない人々を歌う自由を求める人々(あるいは歌わないことをあえて選択する理由をもたない人々)が、結果的にその無知故に苦しめているということなのでしょうか。国旗と同様に国歌もまた血塗られたものだという理由で、これらのものを拒否する自由を私は奪っているつもりはありません。仮にその理由に承伏できなくてもです。またその理由を想像できないほどに無知であってもです。沖縄本島出身の私の友人は決して歌いません。「歌えませんよね」と私の横で座っている。そんなことを私に説明する必要は無いのです。どうして、みんながそんな理由をわざわざ説明しなければならないような状況になってしまったのでしょう。私も歌う理由を説明しなければいけないのでしょうか。沖縄戦の本当を私は知りません。様々な断片的な情報をつなぎ合わせて想像するだけです。私の横に今度は在日の方が並びました。歌ったことがない、その状況に思いを巡らしています。歌わないその姿勢にどうして歌わないのですかと説明を求める必要はないでしょう。在日だからですとお答えになるでしょうか。そんな簡単なことではないのでしょう。私が本当に知っている数少ない在日の人々。中学校時代に転校してきた口数の少ない同級生、担任が朝鮮人と言っては苦しめて、直ぐに転校してしまいました。通名を名乗っていて、在日の存在を初めて知ったとき、そして初めて教師を呪ったとき。休みがちになり、届け物に何度か家を訪ねたけれど、何も話さなかった。その小さな家に驚きました。彼はどんな思いで、国歌をきいていたのでしょう。大学時代の同級生、何も知らないことが罪なのだと怒っていた。差別する側と差別される側、この二分論の中で、差別される側でないものは差別する側だと吐き捨てた、そんな暴力的な言い方があるものかと感じたことを思い出します。彼はどんな思いで、国歌をきいていたのでしょう。長女が生まれて保健婦さんのお世話になりました。バイオリニスト、チョンキョンファは民族の誇りですといった笑い顔を忘れない。市役所の中で管理職になることを求めて戦い、裁判で敗れたことが地方紙面に載ったのは随分と昔のことです。彼女はどんな思いで、国歌をきいていたのでしょう。みな、今の私と同じ年回りになっています。その思いを今、fwapyさんから聞かせてもらっているように感じています。
2007.03.05
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この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/47297560.html 君が代を歌った事がない私 starさんが [再掲]君が代を歌えない私と冬ソナhttp://blogs.yahoo.co.jp/starstory60/28871022.html のブログがありますが、私はそれを見て、↑【君が代を歌った事がない私】を思い出しました。ひょっとして、私の人生で、小学校の低学年は覚えてませんが、モノ心ついた頃から、声を出して歌った記憶はありません。ーーーーーーーーーー転載ーーーーーーーーーーhttp://easyform.net/bn/Fx.exe?Parm=ns0108!NSKiji(Aさんの書き込み)2007.2.27の判決「君が代伴奏裁判」の最高裁判決が出ましたね。こちらは地裁・高裁・最高裁と全て訴えが却下されつづけました。 来月に迫った卒業式に私たちはどう備えるべきでしょうか?もうひとつ日本で生れた9歳の女の子(父親は日本人だが認知せず、母がフィリピン国籍)の日本国籍請求にたいして、高裁は地裁判決を却下して国籍を認めない判決を出しました。人権などよりももっと大事な価値をお持ちなのは、政治家様や官僚様だけでなく司法官(判事)様も同じ穴の狢様のようです。(Kさんの書き込み)Aさん・・・日本てへんな国だね。★「君が代伴奏裁判」の最高裁判決が出ましたね。★「日本で生れた9歳の女の子」(日本国籍NO!)それに★「人権」を尊重しすぎるとメタボリックに・・・大臣発言★「イラン人娘を残して家族帰国」★「クラスター爆弾禁止」国際条約に、日本不賛同昨日、今日のニュースを見ていて、「日本はもう駄目だ!」と呟いてしまいました。 >来月に迫った卒業式に私たちはどう備えるべきでしょうか? うーん?♪君(ちゃん)が用は?千代兄(ちゃん)に八千代(姉ちゃん)に、 佐々玲(と言う名の)医師の胃は音鳴りて,苔の蒸す間で(苔がいっぱいで部屋中ムンムンしてるんだ)♪ こんな風に聞こえるけったいな歌を歌わないと処罰される国って何?世界中何処へ行っても歌わなければ罰せられてしまう歌なんて一曲も無い筈だよ。罰せられてでも歌いたくなる様な歌が国家だと好いけれど。
2007.03.04
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日本の堤岩里虐殺隠ぺいを立証する朝鮮軍司令官の日記発見 日本の堤岩里虐殺隠ぺいを立証する朝鮮軍司令官の日記発見 中央日報1919年3.1独立運動後の4月15日、日本憲兵が京畿道華城(キョンギド・ファソン)堤岩里(ジェアムリ)住民28人を集団虐殺した事件を軍首脳部が徹底的に操作・隠ぺいした事実が、当時韓半島に駐屯した日本軍最高指揮官である朝鮮軍司令官の日記で確認された。 当時司令官だった宇都宮太郎大将(1861-1922)は堤岩里虐殺直後の18日付の日記で、「幹部との会議で(住民が)抵抗したため殺りくしたものとし、(日本軍の)虐殺・放火などは認めないことに決め、夜12時に散会した」と記録したと、朝日新聞が28日報じた。 宇都宮は日記に「堤岩里で日本軍が約30人余の住民を教会に閉じ込めて虐殺・放火した」とし「事実を事実として処分すれば簡単だが、虐殺・放火を自認することになり、帝国(日本)の立場は甚しく不利益になる」と記した。 19日付の日記には、虐殺事件に関与した日本軍中尉に対し「鎮圧方法に適当でない点があり、30日間の重謹慎を命ずることに決心した」と書かれている。 問題の中尉に30日間の謹慎処分が下されたと、同紙は明らかにした。 宇都宮は独立運動が始まると、日本政府の武断統治(軍隊や警察などの武力による強圧統治)を批判し、「朝鮮人の怨嗟動揺は自然」と日記で指摘した。 また3.1運動は「キリスト教徒、民族宗教の天道教徒、学生らが主導し、外国人宣教師が後援して蜂起したもので、根が深い」と評価した。しかし抵抗が次第に激しくなると、宇都宮は「もはや姑息な鎮圧手段では到底効果を上げることはできない」とし、朝鮮総督に軍動員の承認を受けて鎮圧に乗り出したと、同紙は伝えた。 その後、宇都宮は”文化政治”(親日派育成・利用政策)導入を主張し、朝鮮人の民族運動家、宗教指導者らと会い、懐柔作業を繰り広げたことが分かった。 翌年5月には日本陸軍大臣に書簡を送り「今後は朝鮮に日本式の‘府県制’や自治を認める‘自治植民地’を作らなければならない」と提案した事実も明らかになった。 滋賀県立大の姜徳相(カン・ドクサン)名誉教授(朝鮮近・現代史)は「3.1独立運動当時の代表的な流血鎮圧である堤岩里事件の隠ぺい過程と民族運動家に対する日本の懐柔工作記録が明らかになったのは初めて」とし「従来の研究で確認されていない部分を埋める近代史の1級史料だ」と評価した。 宇都宮の日記は孫が保管していたもので、来月以降に岩波書店から刊行される予定だ。 東京=金玄基(キム・ヒョンギ)特派員 luckyman@joongang.co.kr
2007.03.02
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今日は 3・1節=サミルジョル 祖国の独立を願って… 今日 3月1日、韓国では祭日にあたります。3・1節=サミルチョル)は、1919年3月1日、日本の植民地支配に抵抗して、市民たちが韓国独立を願って行った「3・1独立運動」をたたえた祝日です。1949年に祝日に制定され、現在は韓国の4大祝日のひとつにもなっています。★4大祝日:3・1節/制憲節=憲法記念日(7月17日)/光復節=解放記念日(8月15日)/開天節=建国記念日(10月3日) 当時、民衆の間で歌われた歌がります。踏みにじられた民族の哀しい運命を花にたとえ歌とした、「ポンソンファ(鳳仙花)」という歌曲です。日本でも加藤時子が1970年代後半に訳詞で歌ってヒットしたした歌です。怨みや憎しみでない「恨」に染められたその旋律は、聞く人の胸を打つ。この歌は、当時の民心を率直に表しているといえるます。表だって批判できない植民地統治とそれに対する民衆の抵抗を軒の下に咲くホウセンカの花に託した歌で、今も歌い継がれる名曲です。http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/11/14/20051114000011.htmlhttp://tab.search.daum.net/dsa/search?w=musictab&m=track_song_more&q=%BA%C0%BC%B1%C8%AD%20%C0%BD%BE%C7%20%B3%EB%B7%A1%20%B5%E8%B1%E2&page=2&lpp=10&SortType=3 2P目の一番下が歌曲、一番上が歌謡曲です。1P目の笛の音は心の染みます。是非時間があれば聞いてみて、当時の民衆の思いに心を巡らせて見てくだされば幸いです。♪鳳仙花♪♪垣根の下に立つ 鳳仙花よ おまえの姿が みすぼらしく もの哀しい 長く長い夏の日に 美しい花になる時 可愛い 乙女達が おまえを 喜び迎え たわむれたろう いつの間にか 夏は去り 秋風が そよそよと吹き 美しい花房を 無惨にも 冒したから 花は散り 萎れてしまった おまえの姿が みすぼらしく もの哀しい 北風と冷たい風雪に おまえの姿かたちが無くなってしまっても 平和な夢を見る おまえの魂は むかしながらのゆえに 麗らかな春の風に 生まれ変わることを 願ってやまない _________________________________________三・一独立運動とは 1910年、「日韓併合」により、世界地図から「韓国」の文字が消えていった。 それから10年たった1919年3月1日、市民たちは日本の支配に抵抗し、全世界に朝鮮民族の自主独立を宣言し、平和デモを開始した。まず、正午にパゴダ公園(現在のタプコル公園)で独立宣言書が読まれ、一斉にデモが始まっていった。 武器を持たず、人々はただ「大韓民国独立万歳!」と叫んだ。そこにはあらゆる階層の人達がいた。大学生、女子高生、主婦、そして6歳にも満たない少年が父親と一緒に…。密かに作っておいた太極旗をその手に振りかざし、デモは全国に広がっていったのである。一方、独立運動に恐れを抱いた日本は武力行使をもって、すさまじいまでの弾圧を行なっていった。日本軍の弾圧により、多くの人が無差別に殺害された。この運動で命を落とした人数は7509名と記録されている。 参加者 死者 負傷者 朴殷植調べ 203万人 7509人 15961人 朝鮮総督府発表 106万人 553人 1409人 憲兵・警察官 8人 158人 韓国のジャンヌ・ダルク 柳寛順(ユ・グァンスン) 3.1運動は、この人抜きでは語れないというほど象徴的な人物、柳寛順。彼女は3.1運動が始まると在学していた梨花学堂でデモを行い、学校が休校になると故郷の天安(チョナン)に戻り万歳運動を指揮した。この時日本憲兵の発砲により父母が死亡、自身は西大門刑務所に移され、獄死した。17歳の若さだった。1962年に建国勲章を与えられている。 現在でも、3.1運動の発祥地となったタプコル公園では、運動の様子を描いたレリーフ、運動の中心になった人々の銅像や記念碑などを見ることができる。また、柳寛順をはじめとする独立運動家が投獄された西大門刑務所も歴史館として一般公開されている。 【参考資料】三・一独立運動 1919年3月1日を期して始められた朝鮮近代史上最大の反日独立運動。南・北朝鮮では今日でもこの日を記念日として重視している。第1次世界大戦以後、民族運動や革命運動が世界的な高まりを示したが、朝鮮でも独立を達成しようとする動きが一段と活発になった。1918年秋、中国東北部、シベリア方面に移住していた朝鮮人は、ロシアの革命派に協力して日本のシベリア出兵軍と戦っていた。同じころ、アメリカや上海で活動していた安昌浩、呂運亨、金奎植らのグループは、パリ講和会議に朝鮮人代表を派遣し、朝鮮独立の必要性を国際世論に訴えるため奔走していた。さらに、朝鮮内では天道教、キリスト教、学校の教師・学生の間でそれぞれ独自に独立運動計画が練られていた。初め別々に進められていたこれらの運動は、1919年に入ると相互に連絡がつけられた。1月22日に死去した前国王高宗は日本のさしがねで毒殺されたという禾がとびかい、2月8日には在日留学生が東京で独立宣言書を発表するにおよんで、独立運動促進の気運が急速に盛り上がった。最終的な運動方針は2月の末になって決められた。(1)ソウルのパゴダ公園で独立を宣言し、朝鮮全土で独立宣言書を配布すること、(2)日本政府および貴族院・衆議院あてに朝鮮併合は無意味であり即刻独立を認めるべきであるという通告文を送り、アメリカ大統領ウィルソンと講和会議各国委員には朝鮮独立を支援するよう請願書を送ること、がその要点であった。独立宣言書は崔南善が起草し、これに天道教の孫秉熙(そんへいき)、キリスト教の李昇薫、仏教の韓竜雲など計33名の〈民族代表〉が署名した。ひそかに印刷された2万1000枚の独立宣言書が宗教者や学生たちによって全国に運ばれた(各地ではこれを元にした別の宣言書が作成されたこともあった)。こうした大がかりな準備が〈水も漏らさぬ〉と豪語した日本の官憲の眼をぬすんで成功裡に進められた。 3月1日、運動はまずソウル、平壌、大邱、開城などの主要都市で始められた。ソウルではパゴダ公園に集まった学生たちが正午の鐘を合図に行動を開始した。彼らは独立宣言書の朗読を終えると太極旗(大韓帝国時代の国旗)をうちふり〈独立万歳〉を高唱しながら街頭に出た。これはたちまち数万の群衆が参加する大規模なデモとなった。それ以後各地の運動は大衆の集まりやすい市のたつ日に合わせて行われ、3月中ごろからは朝鮮全土が反日独立運動のるつぼと化した。わけても農村部の運動が激しかった。1918年に終了した朝鮮土地調査事業によって、朝鮮の農村は日本人地主や親日的な地主たちが支配するところとなった。また、大戦中に日本の工業の成長を支えるために綿花や桑苗の作付強制がなされ、朝鮮米が大量に持ち出された。農民たちが面事務所(村役場)を襲い、土地台帳や作物の供出簿を焼きすてたのはそのためであった。ところが、日本の支配層はこの運動を徹底的に弾圧した。憲兵・警察のほかに正規軍をも投入した鎮圧作戦によって、水原の堤岩里事件(4月15日29名虐殺、近辺の死者は1000名を越した)、天安事件(4月1日並川市場でデモ隊20名射殺、〈朝鮮のジャンヌ・ダルク〉柳寛順が逮捕され獄死)、定州事件(3月8日デモ隊、市民120名余を無差別殺戮、民族代表李昇薫らの家宅破壊さる)などが相ついで引き起こされた。 この運動は多くの犠牲者を出して終わったが、その影響は大きかった。世界大戦の戦勝国に対する闘いとして、同年のインドの非暴力運動(4月)や中国の五・四運動(5月)の先がけとなり、また、日本の植民地支配者には深刻な打撃を与えた。学校教師が帯剣して授業することや憲兵警察制度は廃止せざるをえなくなった。制限つきではあったが、朝鮮人は集会・結社の自由や言論の自由をかち取った(翌年《東亜日報》《朝鮮日報》などが発刊)。朝鮮総督の長谷川好道は更迭されて斎藤実が第3代総督となった。斎藤は、非妥協的民族主義者を除外して自治派などの妥協的民族主義者をとりこむという朝鮮民族の分断を策して〈文化政治〉を唱えたが、三・一運動を経験した朝鮮人はさまざまな組織を作って頑強にこれと闘った。労働運動、農民、女性、青年などの運動や衡平運動(朝鮮の部落解放運動)などの大衆運動は、三・一運動をその出発点として本格的に展開されることになった。国外では4月10日、多くの独立運動家たちが集まって、上海で大韓民国臨時政府が組織された。それは亡命政府ではあれ、朝鮮最初の共和政体の登場を意味するものであった。なお、柳宗悦などごく一部の日本知識人は三・一運動の本質を理解したが、多くはアメリカ人宣教師の扇動による暴動とみるなど無理解であった。(馬渕 貞利)平凡社大百科より
2007.03.01
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台湾の2.28事件に寄せて 以前から台湾の友人と話しながら考えていましたが、朝鮮戦争前夜の、済州4.3事件と今日記念日の台湾での2.28事件が色んな面で類似点があると思っています。2.28事件出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6--- 白色テロ --- 白色テロとは、毛沢東の共産党による「赤色テロ」に対して、蒋介石の国民党によるテロを指す。第二次大戦後、毛沢東に追われた蒋介石軍200万人以上が台湾に流入。この、いわゆる「外省人」たちは、傍若無人な振る舞いを繰り返した。 これに対し、ついに1947年2月28日、「本省人」たちの怒りが爆発。台湾全土にまたがる衝突に発展し、蒋介石はこれを武力により鎮圧した。これが228事件と言われるもので、1万とも2万ともいわれる犠牲者が出た。当時、「本省人」の人口は約450万人であったから、殺された人が2万人とすると、約0.5%。現在の日本で同じ比率だと約50万人。それ程大きな大弾圧事件であった。 228事件後も、「外省人」率いる国民党は徹底した政治的迫害「白色テロ」を続け、事件後に布かれた戒厳令は38年間も継続した。この「白色テロ」を通じて、特に親日の知識階級は徹底して抹殺された。台湾の人々はこのような苦難と悲しみを乗り越えて今日の繁栄を築いてきた。 また、かっての親日派の指導層は殆ど抹殺されてしまったにも拘わらず、多くの方々は親日の感情を抱かれている。この方々に日本政府は何をもって報いるというのか。台湾の声より、 投稿【2.28事件に寄せて】 近藤 明理 先日の東京マラソンのとき、台湾選手を応援するために飯田橋の沿道に立った。そのとき、三万人という数を実感した。幅広い道路を埋め尽くして、人々が続々と走りぬけるのに一時間二十分ほどかかった。 二二八事件のとき、それと同じだけの罪もない台湾人を蒋介石軍は情け容赦なく惨殺したのだ。その残虐さは想像を超えている。 わたしの伯父、王育霖も突然、連行されたまま帰ってこなかった。検察官として中国人の汚職を取り締まったのが殺された理由だったと推察されている。台湾の将来を担って立つべき気概と実力のある青年達の層が台湾からごっそり無くなったのだ。 二二八事件は決して忘れてはならない事件である。なぜなら、その事件の原因も結果もいまだに解決していないからだ。 六十年前、異民族の支配からの脱却を願い、自らの自治を求めた台湾人の願いは、李登輝、陳水扁という台湾出身の総統を民主的に選出したことで半分は達せられたが、いまだに当時の中華民国憲法の下にある。新しい台湾の憲法を作らなければ、台湾人の国とは言えない。 さらに、「中国と統一したい」と考えているような政治家を選ぶ民衆がいまだにいるということは、二二八事件とその後の長期間の政府によるテロや言論統制の結果が台湾にまだ残っていることを示している。台湾はまだ中華民国の呪縛の中にある。台湾という「国のあり方」を考えるためにも、二二八事件は決して忘れてはならないと思う。国民新聞140962 「先住民族、本省人、外省人」文化、民族性に優劣はない フリー記者・山田智美 「君は先住民族なのだから、本当の台湾人だね」 と、最近、台湾へ移り住んで来たオーストラリア人に尋ねられたタイヤル族の友は、少しとまどっていたが「僕達は原住民で、台湾人というのは平地人のことです」と答えた。 オーストラリア人は意外そうな表情を見せた。彼の解釈では、原住民はさしずめネイティブ・タイワニーズ、平地人はハン・タイワニーズとでも分けられるのだろうと想像していたからだ。 原住民にとって「台湾人」といったら平地に住むbinびん(門+虫)南系の本省人を指す。日本統治時代、日本人がbin南系の平地人のことを台湾人(客家人を含むこともある)、客家はっか系の平地人のことを客家人、原住民のことを高砂族と区別して呼んでいたことの名残りでもある。俗に台湾語というのはbin南語を指す。 日本で一般的に知られている事情は、本省人と外省人との政治的な対立という構図だが、こちらで生活していると、台湾における対立の構図はもっと深いことが分かる。対立という言葉が強すぎるならば、無関心から来る互いへの無理解と偏見という言葉に置き換えられる。【Page 補足】 --- 本省人と外省人 --- 本省人とは、中華民国政府の移転以前から台湾に住んでいた人々。 台湾人口の80%~90%。外省人とは、中華民国政府が台湾に移転してから台湾に移住してきた国民党関係者や資本家などで、政治・経済などを独占してきた。台湾人口の10%から20%。原住民は平地人のことをあまり信用していない。自分達を騙しバカにしていると思っている。アミ族やブヌン族等は平地人のことを「パイラン」と呼ぶ。パイランとは台湾語で「悪い人間」という意味である。平地人は原住民のことを台湾語で「ホワナー」(蕃人の意味)と呼び、民度の後れた人達だと思っている。原住民は酒好き、というのも良くないイメージをもたらしている。 bin南系と客家系の本省人の間にも溝がある。客家系は圧倒的多数のbin南系に良い土地をとられて山間に追われ、苦しい開墾の歴史を辿ってきた。bin南系からはその質素勤勉の生活態度を「ケチ」と蔑まれてきた。 こうした対立は残念ながら、未だに続いている。お互い面と向かって表に出すことはないが、観念やイメージの中に根強くある。果たして民族性の優劣とは存在するものだろうか。それぞれが別々の祖先の歴史を持ち、独特の文化を持っているだけである。 台東に住む原住民、プユマ族の村で地元の友人とバイクを走らせていた。友人はある小さな商店でバイクを停め、「外省人~、買い物に来たわよ」と大声で店の中に声をかけた。面と向かって外省人なんて言うなんてと驚いたが、タブーを自然なこととして受け入れている大らかさがそこにあった。 外省人も第二世代、三世代となり、本省人との混血も進んでいる。白色テロで肉親が犠牲になったある本省人の家では、子供は絶対に外省人とは結婚させないと決めていたが、今では外省人の嫁や婿が家族の一員になっている。 台湾の人々はタブーの中に生きている。そのタブーを、対立ではなく共存というかたちで生きていって欲しいと願う。
2007.02.28
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ユダヤ人の生活規範:「タルムード」の教え ユダヤ人の生活規範:「タルムード」の教え janjan-blogより転載教育改革はユダヤ「タルムード」の教えを手本に 教育基本法改正案が先の臨時国会で可決・成立し、ノーベル賞学者の野依氏を座長とした教育再生会議などは今後、果たしていじめや学力低下問題などに有効な手立てを見出せるのだろうか。 ところでユダヤ人は世界人口の0.25%だが、ノーベル賞受賞者700人のうちユダヤ人はなんと20%を占めている。(日本人は世界人口の2%で受賞者は0.2% / なお【ユダヤ人とは、ユダヤ教を信仰する者(宗教集団)、もしくはユダヤ人を親にもつ者(民族集団)という2つの捉え方がある。中世以前は前者の捉え方がなされていたが、19世紀の国民国家出現以降は後者の捉え方が優勢である】(ウィキペディア)) また旧くは、キリストやマルクス、ハイネ、アインシュタイン、オッペンハイマー、チャプリン、近年ではキッシンジャー、スピルバーグなど独創的人材を多数輩出してきた。なぜユダヤ人はこのように優秀なのか。実はユダヤ人の生活規範「タルムード」の教えに、その秘密が隠されていると言われている。それは次の様なものだ。 1)笑いなさい、 2)他人とは違うものを発見せよ、 3)権威を憎み、権威になるべからず、 4)逆境こそチャンスと考えよ、 5)カネより時間を大切にせよ、 6)まずは元手がいらないことから始める、 7)相手の話は自分の話の2倍聞け、 8)生涯にわたって学び続けよ 9)カネは奪われるが知識は奪われない、 10)知識より知恵を重視せよ。 このようにユダヤ人は2000年前から教育を重視し「異教徒の迫害を受けても金は盗られるが教育は生きている限り誰も奪えない」と考えている。子供の頃からこんな躾がされているユダヤ人が優秀なのはナットクだ。日本の政治家や役所、教育者らもユダヤ人のように「人を育てるのに何が重要か」といった、本質に迫る教育を検討して欲しいものだ。 (妹尾晶夫)
2007.02.26
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世界の街角から MYCOMより第3回ソウルでのある会合 =河内孝 2007/2/26= ソウルの街をさっそうと歩く女性達は、訪れる度に美しくなる。もともと日本人よりスタイルが良い。加えてファッションとお化粧には惜しまずに投資する。この数年はそれに、「ブランド志向」が加わった。ただこのところのウオン高、円安でレートは1円70ウオン台。私達は長い間、1円100ウオンに慣れていたから財布が三割がた薄くなった感じだ。これは日本人旅行者にとって有難くない。そのソウルで昨年暮れ面白い会合を持った。「一週間後に中国共産党の幹部が休暇でソウルに行く。ついては是非、韓国野党ハンナラ党の幹部を紹介して欲しい」と言う話が飛び込んできたのだ。「野党の外交責任者」という注文に関心を引かれた。中国も支持率が10%以下に落ち込んだノムヒョン政権の状態を見て、今年暮れの大統領選挙をにらみ政権交代の可能性を感じているのだろう。そのときどのような変化が韓国外交政策に起こるのか、を瀬踏みしたいのだろう、と思った。旧友に頼み、ハンナラ党党首のパククネさん(朴元大統領の令嬢)の側近の一人を紹介してもらった。偶然ながら、我々の会合の二日後、パククネ党首が北京を訪れる予定であることは、ソウルに入ってから知った。お互い都合の良いタイミングだったようで感謝されたのは、面映かった。零下4度に冷え込みキムチチゲが旨くなる一夜、会合の場所は、ぐっとくだけた「全羅道郷土料理屋」を選んだ。毎日新聞が提携している朝鮮日報幹部が良く使うソウル市内の「高級居酒屋」で、上海出身の幹部は焼肉より海鮮料理を好むと思ったからだ。こういう時にいつも思い知らされるのだが、中国人も韓国人も、「個人的な意見」と断りつつも率直に思いもたけをぶちまける。日本人は、えてして、「そちら様のご意見は?」とやってしまう。これでは相手が、「なんだ、お前は自分の考えはないのか」と馬鹿にして自分の言い分を長々と開陳するのを聞かされる羽目となる。同様に、欧米を含めて日本からの賓客に会った外国指導者がいつも漏らす不満の一つは、「役人の書いた作文を長々と読むなら役人と話した方がよい。時間の無駄になる」という点だ。のっけから焼酎をがぶがぶやったこの席では、そんな心配は全くなかった。ハンナラ党の幹部がこう口火を切った。「中国が(北朝鮮が崩壊して)資本主義国と国境を接する事態を避けたいという気持ちは分かる。だから我々が政権を取ったら、仮に金正日体制が崩壊しても共産主義北朝鮮と平和共存する。見通しうる将来まで共産主義北朝鮮の存在を認める」。率直な発言に中国共産党幹部は、驚きを隠せないようだった。しかしこの段階では本音を見せない。「北朝鮮は独立国であり、われわれの友好国である。国の将来について内政干渉するつもりはない」。私は意地悪くこう言った。「私から見れば今の状態は中国にとって決して悪くないのではないか。北を説得できるのは中国だけだ。6カ国協議のお座敷を提供できるのも中国だけだ。"核実験を怒っている"などと伝えられているが本当はまんざらでもないのでは」。これには共産党幹部が本音で反発した。「我々が持っている北への影響力がさほど強くないことを認めるのは、あまり嬉しくはないのだ。状況をもて遊ぶなどとんでもないことだ」。そして興味深いエピソードを紹介してくれた。一昨年、金正日が中国政府の勧めで上海を訪れたとき、北朝鮮側は、「100%の安全保障」を求めたと言うのだ。あまりくどいので、「中国に滞在する限り120%の安全を保証する。しかし我々の領域外のことは責任を持てない」と答えたらやっと来た、と笑った。彼はその先のことは言わなかったが同席した全員が中国の帰途、特別列車が北朝鮮内に入った直後、なぞの大爆発事故があったことを知っていた。彼は、このエピソードを紹介することで何が言いたかったのだろうか。推理(1) 金正日と軍部の関係が必ずしも良くない(あんな火薬量を調達して爆破させられるのは軍しかない)ことを示唆した。推理(2) 中国もいつでも「事故を起こすぐらいのことは出来る」ことを示唆した。本音は見えない。しかし、私はこの話を聞いた瞬間、満州事件の遠因となったとなった日本軍部による列車爆破、張作霖事件を思い出した。彼らは少なくともあの当時と同じような緊張感のなかで様々な駆け引きを続けているのだ。ひるがえって日本。拉致問題の非人道性を訴えるのは当然だ。しかし、これが進まないと核も何も話し合わない、という安倍政権のスタンスは、こうしたしたたかな連中には通じないだろうな、と思った。ちなみに韓国の友人のアドバイスは、「三方一両損」だった。米国は、「ならず者扱い」を控え話し合いに入る(入ったようだ)。韓国は北に過剰な期待を持たせる太陽政策を改める。そして日本は、拉致問題の解決を主張しながらも核問題などについも話しあう姿勢を見せる。これは、今の世論の雰囲気では不可能だろうか。
2007.02.26
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東アジア2000年の歴史地図 日本・韓国・北朝鮮・中国の関係を考える上で、ある程度の歴史の知識があれば、今起こっている問題がわかりやすくなることがあります。 東アジア2000年の歴史地図のソフトがあります。日本・中国・朝鮮半島にどのような国があったのかが一目で判る便利なソフトです。このソフトのおもしろいところは、国の盛衰がアニメで表示されるところです。時代によって国が広くなったり狭くなったりする様子がわかります。 Vectorで無料配布されています。 歴史地図2000 2.0http://www.vector.co.jp/soft/win95/edu/se372457.html たとえば、韓国と中国の間で問題となっている「高句麗問題」がなぜ起こるのかが、このソフトでわかるのでないでしょうか。日本の弥生時代に存在した高句麗は現在の中国・北朝鮮・韓国にまたがる国家であったことが、このソフトでわかります。
2007.02.25
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韓国映画の輸出が急減した。 韓流映画、海外で「寒流」 中央日報 2007/01/19 2005年7599万ドルだった韓国映画の海外輸出規模は昨年2451万ドルで、およそ68%も減った。前年度の3分の1にも達していない。 映画振興委員会(以下映振委)が18日、こうした内容の「2006年韓国映画産業決算」資料を発表した。これによると昨年の韓国映画輸出本数は208作品。2005年の202作品に比べ大きな違いはない。 問題は輸出単価だった。1編当たりの輸出価格が2005年は37万6000ドルだが、昨年は11万7000ドルに落ち込んだ。タイを除いたすべての国で輸出額が減った。特に日本への輸出が82.2%の減少率を記録した。これはこれまで日本で公開された韓国映画が続々興行に失敗しており、ある低度予測されたことだ。 映振委は「韓流スターたちのチケットパワーに対する期待感とこれによる高価輸出、両国取引の慣行の違いから発生する対立、公開規模と上映方法の合理性などがこれまで公に挙論されてきた問題」と指摘している。 一方、国内市場で韓国映画のシェアは上がった。ソウル地域基準で60.3%に達した。映振委が統計を出し始めた1999年以来、最高値だ。韓国映画制作本数も大きく増えた。2006年に作られた韓国映画は計110本。前年より26.4%も増えた。このうち108本が公開された。これら映画の1本当たりの制作費は40.2億ウォン。このうち制作費10億ウォン未満の低予算映画を除いた商業映画(83編)の平均制作費は51.1億ウォンと集計された。2005年の48.8億ウォンより4.7%(2.3億ウォン)増加している。 李后男(イ・フナム)記者
2007.02.24
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日本の戦争責任資料センター 御中 AML ml転載 上田知事の歴史認識を問う県民連絡会 石垣敏夫 日本軍「慰安婦」問題に関する声明 日本の戦争責任資料センター jwrc@mua.biglobe.ne.jp 03-3204-7477(発信 楠)日本の戦争責任資料センター事務局です。 日本の戦争責任資料センター(荒井信一・茨城大学名誉教授ら)は23日、 日本軍「慰安婦」問題に関して、今日の研究水準と歴史的な事実を踏まえて 問題の解決に資する行動をとるよう呼びかけた声明を発表しました。 日本軍「慰安婦」問題については、米国下院や韓国国会で日本政府に公式 謝罪を求める決議案が提出され、審議が行なわれている最中で、日本の国会 においても質疑が交わされ、日本政府および与党関係者による米国議会へ働 きかけがなされています。 日本軍「慰安婦」問題に関する声明 現在、アメリカ議会下院において、日本軍「慰安婦」問題に関する決議案 (H.Res.121)の審議が行なわれている。これに関連し日本国内で、麻生太郎外務大臣をはじめ政府・自民党の関係者から、日本軍「慰安婦」問題に関する基本的な事実を否認しようとする発言が続いている。また、これまで日本政府が、1ヵ月当たり6万ドルもの巨費でロビイストを雇い、日本軍「慰安婦」決議をめぐるアメリカ議会の審議に影響を与えようとしてきた事実なども、各種報道機関によって伝えられてきた。 こうした事態を放置しておくと、歴史的事実が歪曲されるだけでなく、日本社会の国際的な信用を大きく失墜させることになりかねない。決議案の提案議員たちが強調するのも、決議の採択が日米関係の強固な結びつきをそこなうどころか、むしろ日本軍「慰安婦」決議による「慰安婦」問題の解決促進が、東アジアの平和にとってよい影響をおよぼすだろうという期待である。 上記のような日本政府・与党の動きを憂慮し、私たちは、すでに明らかになっている以下の事実を改めて確認し、日本政府および関係者が適切な行動をとるよう要請する。1,日本軍「慰安婦」制度に関する旧陸海軍や政府関係資料は、すでに数多く開示されている。これら資料によればこの制度は、旧日本陸海軍が自らの必要のために創設したものであり、慰安所の開設、建物の提供、使用規則・料金などを軍が決定・施行し、運営においても軍が監督・統制した。個々の「慰安婦」について、軍はその状況をよく把握していた。2,「従軍慰安婦」という言葉が当時なかったという理由で、「慰安婦」の存在自体を否定しようとする議論がなされている。しかし当時の軍の文書においても慰安婦」「軍慰安所従業婦」「軍慰安所」などの言葉が使われていた。従って、日本軍部隊のために設置された慰安所に拘束された女性を、「従軍慰安婦」あるいは日本軍「慰安婦」という言葉で表すことは、「慰安婦」という用語自体のもつ問題性を別にすれば、何ら問題ではない。3,日本軍「慰安婦」とされた女性たちのうち、当時日本の植民地であった朝鮮・台湾の女性たちは、売買され、だまされたりなどして国外へ連れていかれ、慰安所で本人の意思に反して使役された。これは、人身売買や誘拐罪、また当時の刑法でも国外誘拐罪・国外移送罪と呼ばれる犯罪に該当した。その実行は、主として植民地の総督府または軍の選定した業者などが直接行なったが、占領地で慰安所を設置した軍も、人身売買や誘拐などの事実を知っていたと考えられる。4,日本軍「慰安婦」とされた女性たちのうち、中国・東南アジア・太平洋地域の女性たち(インドネシアで抑留されたオランダ人女性を含む)は、人身売買だけでなく、地域の有力者から人身御供として提供され、あるいは日本軍や日本軍支配下の官憲によって拉致されて慰安所に入れられるケースもあり、本人の意思に反して強制使役された。慰安所を設置した占領地の軍が、これらの事実を知らなかったとは考えられない。5,日本軍「慰安婦」とされた女性たちの中には、相当高い比率で未成年の少女たちがいた。未成年の少女の場合、慰安所での使役は強制でなく本人の自由意志による、と主張することは、当時日本が加盟していた婦人・児童の売買禁止に関する国際諸条約に照らしても、困難である。6,戦前の日本にあった公娼制度が、人身売買と自由拘束を内容とする性奴隷制であったことは、研究上広く認識されている。公娼とされた女性たちに居住の自由はなかった。廃業の自由と外出の自由は法令上認められていたが、その事実は当人に知らされず、また行使しようとしても妨害を受けた。裁判を起すことができた場合も、前借金を返さなければならないという判決を受けて廃業できず、その苦界から脱出することができなかった。7,日本軍「慰安婦」制度は、居住の自由はもちろん、廃業の自由や外出の自由すら女性たちに認めておらず、慰安所での使役を拒否する自由をまったく認めていなかった。故郷から遠く離れた占領地に連れて行かれたケースでは、交通路はすべて軍が管理しており、逃亡することは不可能だった。公娼制度を事実上の性奴隷制度とすれば、日本軍「慰安婦」制度は、より徹底した、露骨な性奴隷制度であった。8,被害女性たちへの「強制」の問題を、官憲による暴力的「拉致」のみに限定し、強制はなかったという主張もみられるが、これは人身売買や「だまし」による国外誘拐罪、国外移送罪など刑法上の犯罪を不問に付し、業者の行為や女性たちの移送が軍あるいは警察の統制下にあったという事実を見ようとしない、視野狭窄の議論である。なお、慰安所でのいたましい生活の中で、自殺に追い込まれたり、心中を強要されたり、病気に罹患したり、戦火に巻き込まれるなどして死亡した女性たちが少なくなかったことも指摘しておきたい。9,日本政府は、日本軍「慰安婦」問題についてすでに謝罪していると弁明している。たしかに「アジア女性基金」を受け取る元「慰安婦」の方々に、その時々の総理大臣が署名し、「心からおわびと反省の気持ちを申し上げます」と記した手紙が渡された。しかし、この手紙は、法的責任と賠償責任を否認した上で、「道義的な責任」しか認めていない。日本政府の用語法で「道義的な責任」とは、法的責任への否認を暗に含んだ軽い責任を意味する。いったん「内閣総理大臣の手紙」を受け取ったのち、表面的な謝罪にすぎないことに気づき、元「慰安婦」が日本大使館に手紙を突き返した事例も報告されている。10,上記「内閣総理大臣の手紙」は、「おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝える」とも記している。しかし、かつて中学校歴史教科書のすべてに記載されていた日本軍「慰安婦」の記述は、現行の教科書からすべてなくなった。当時の文部科学大臣はこれをみて、教科書から「慰安婦」の記述が「減ってきたのは本当によかった」と述べた。また安倍晋三首相をはじめ現在の政府・自民党の要職についている少なくない政治家が、当時、歴史教科書から日本軍「慰安婦」の記述を削除させ、あるいはそうした記述のある教科書を学校で使わないようにさせる活動をおこなってきたことは周知の事実である。日本政府は、「内閣総理大臣の手紙」で表明した約束さえ履行していないのである。 私たちは、上記の事項が正しく認識され、日本軍「慰安婦」問題が根本的に解決されることを強く願うものである。 2007年2月23日日本の戦争責任資料センター 共同代表 荒井信一(茨城大学名誉教授) 吉見義明(中央大学教授) 藍谷邦雄(弁護士) 川田文子(文筆家) 事務局長 上杉 聰(関西大学講師) 編集長 吉田 裕(一橋大学教授) 研究事務局長 林 博史(関東学院大学教授) <転載をお願いします>
2007.02.24
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判決! 2・23京都地裁 在日韓国・朝鮮人高齢者年金訴訟判決 (続報) http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46807292.html 不当判決!! 2・23京都地裁 在日韓国・朝鮮人高齢者年金訴訟判決 (続報) 本日午前10時、京都地方裁判所101大法廷で在日無年金高齢者裁判の判決言渡しがありました。弁護団は30分の時間枠を要請していましたが、結果は「原告らの請求をいずれも棄却する 訴訟費用は原告らの負担とする 」 という主文のみのまさしく「秒殺」の判決でした。傍聴席が満席となり裁判所の門前で待機していましたが、すぐに「不当判決」の垂れ幕を掲げた事務局メンバーが出てきました。正直いって一切期待していなかったつもりでしたが、悔しさと情けなさに涙が出てきました。戦前・戦中と「日本人」として義務を課しておいて、戦後は「日本人」ではないと一方的に放り出し、さんざん辛酸をなめさせて補償もせず、人並みの老後を保障もせず、死ぬまで働けというのか。今目の前にある現実を救済する術はいくらでもあるだろうにと。判決後の報告集会で80歳~87歳の原告は、命のある限りとことん戦い抜くと口々におっしゃいました。本当に命をかけた闘いであり時間との競争です。早速明日から控訴に向けた準備にはいります。多くのみなさんのお力添えをお願いします。判決全文はA4版42ページに及び、アップには時間がかかりますのでご了承ください。判決の内容を事務局メンバーがまとめたものを以下に貼り付けます。(転送・転載可)山下寛裁判長・衣斐瑞穂裁判官・脇村真治裁判官には「判決要旨」もご準備いただけませんでした。在日韓国・朝鮮人高齢者の年金訴訟第一審(京都地裁)判決要旨 2007年2月23日 京都地方裁判所第2民事部原告らの請求をいずれも棄却する訴訟費用は原告らの負担とする■ 国際人権規約に違反していないA規約は、自動執行力は持たない。裁判規範性もない。 ・・・平成元年3月2日最高裁判決 「政治的責任の宣明にすぎない」B規約は、自動執行力はある。裁判規範性もある。国籍も26条の「他の地位」にあたるから、国籍を理由とする差別は許されない。 ただし、差異を全てなくして全て同じに扱うことを求めているのではなく、異なる扱いも一定の限度で許容している。 そして、社会保障制度については 立法府に裁量権がある。 外国人については、社会保障の責任はまず、その者らの本国にある。 だから、『限られた財源の下で福祉的給付を行なうに際し、在留外国人に比して日本国民を優先的に取り扱うことを立法府の裁量の範囲内として許容していると解される』(『』は原文通り) 在日韓国・朝鮮人の歴史的経緯・ 社会保障は社会構成員に対して実施されるべき面はあるが、それがすぐに在留外国人も日本国民と同一の社会保障を受ける権利を有していることにはならない。・ 在日韓国・朝鮮人が本国から何の救済も受けていないとしても、それがすぐに日本が在日韓国・朝鮮人に対して日本国民と同一の社会保障を与える法的義務があるという根拠にならない。・ 在日韓国・朝鮮人が日本国籍を喪失したこと自体が無効とは言えないから、日本国民と同一の社会保障を与える法的義務があるという根拠にならない。・ また、税金を払っているとしても、そのことが日本国民と同一の社会保障を与える法的義務にはならない。・ 昭和60年改正まで国民年金から除外され、任意加入もできなかったとしても、それがすぐに日本国民と同一の社会保障を与える根拠にはならない。 経過措置を作るか作らないかは裁量の範囲内。・ 国籍条項は国際人権規約、憲法に違反していないから、それを是正する必要はない。・ 難民条約批准にあわせた改正であり、在日外国人に経過措置を作らなかったとしても、立法裁量からの逸脱ではない。・ 『在留外国人に比して日本国民を優先的に取り扱うことは締約国の裁量事項』だから、日本国民には経過措置を作り、在日外国人には経過措置を作らないのも、同じ裁量の範囲内。 故に国際人権規約には違反しない。■ 憲法に違反しない憲法の基本的人権の保障は、日本国民だけではなく、在留外国人にも及ぶもの。それは14条(平等原則)も同じ。ただし、14条は「絶対的平等」ではなく、『合理的理由のない差別を禁止する趣旨のもの』であり、合理的根拠に基づく区別は許される。国民年金は一部国庫負担であるから、立法府が広範な裁量権をもっている。外国人の社会保障の責任はまずその本国にあるから、『その限られた財源の下で福祉的給付を行なうにあたり、日本国民を在留外国人より優先的に扱うことも許される』故に外国人を除外したことは憲法に違反しない。経過措置を作らなかったことも同じ理由で違反にならない。■ 国際慣習法に違反しない世界人権宣言は国連の考えを表明したものに過ぎず、法的拘束力を持つものではない。故に国籍条項が国際人権宣言に違反すると言えない。■ 国家賠償法に違反しない国籍条項も、経過措置を作らなかったことも、国際人権規約にも憲法にも違反していないから、立法不作為にもならない。在日韓国・朝鮮人高齢者の年金訴訟を支える会京都市南区東九条北松ノ木町12NPO法人 京都コリアン生活センター エルファ内TEL 075-693-2550 FAX 075-693-2555http://zainichi-nenkin.hp.infoseek.co.jp/
2007.02.23
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まったけ日記227ー日韓両国の都合で絶滅した『ニホンアシカ』ー ニホンアシカは、日本沿岸で繁殖する唯一のアシカ科動物であり、アザラシやトド、オットセイのように冬に回遊してくるのではなく年間を通じて生息していた。 太平洋側では九州沿岸から北海道やクリル列島、カムチャートカ半島まで、日本海(=東海、以下は日本海とする)側では韓半島沿岸から南サハリンまで生息し、特に日本海側に多かった。日本列島沿岸や周辺の島々で繁殖、特に伊豆諸島や日本海の竹島(=韓国名・独島、以下は竹島とする)が主要な繁殖地であった。かつては日本全国に分布しその痕跡は、アシカ島や岩、根(又はトド)等という地名として残っており、三浦半島や伊豆半島、御前崎にも地名が見える。 伊豆諸島の新島郷土館にはアシカを捕獲する鉄製の銛(モリ)が残されている。 【絶滅の経過】 少なくとも1900年ごろまでは、東京湾や相模湾沿岸にも姿を現していたと考えられるが、それ以後は、急速に衰退した。 なお、ニホンアシカは現在、環境省のレッドリストでは絶滅危惧IA類となっている。 これは、現在においてニホンアシカの生存が確認されているということではなく、最終目撃例から50年が経過していないことによる。ニホンアシカ絶滅への道【太平洋沿岸のニホンアシカ】 1720年頃から以降、冬の滞在期間中に浦賀奉行所(現 神奈川県横須賀市)の役人によるニホンアシカ狩りが約100年以上に渡って行われたが、捕獲量は不明である。 明治以降は、漁業技術の発達によってニホンアシカが網を破るなどの被害が出始めてから駆除が始められた。 明治中期頃から、既にニホンアシカを東京湾周辺で見られなくなり、1909年の記録にでは、既にアシカの住んでいる形跡がなくなった。 明治後期には、銚子以南から伊豆諸島までは絶滅した。【竹島のニホンアシカ】 日本海の竹島にも多数のニホンアシカが生息していたが、1900年頃より本格的なニホンアシカ猟が始まった。1940年代までに約16,500頭のアシカが捕獲されたという記録が残っている。 1950年代中期までは、近隣の韓国漁民によって毎年10頭ほどのニホンアシカを食用や油をとるために捕獲されていた。 1958年には、最後の繁殖地となる竹島周辺に200から500頭が生存すると報告されたが、その竹島が最後の繁殖地となり、1972年まで繁殖が確認されている。1975年に竹島で見られたのが最後の目撃例となる。 以後、生息の情報は得られておらず、竹島のニホンアシカの絶滅はほぼ確実と思われる。 竹島を実効支配してきた大韓民国によって保護がとられなかったことが最終的原因として絶滅につながったものと考えられる。 衰退・絶滅の原因は前述の通り、鯨の様に魚を捕食する為に駆除された事と乱獲が日本各地に生息していた個体群を絶滅に追いやり、竹島にのみ棲息している事が明らかになった時点においても、特別な保護政策が取られるどころか乱獲が続いて激減していたところに、更に竹島周辺の韓国軍や米軍の演習による環境破壊が影響していると思われる。 1895年ごろから、竹島では隠岐諸島の漁民によって、皮と脂を採るために、アシカが捕えられていた。このアシカ猟は、1900年代初頭から本格的に行われるようになり、平均して年に1,300から400頭が獲られた。その後、個体数の減少とともに捕獲数も減少し、1935年ごろには年間20から50頭まで落ち込んだことから、やがてアシカ猟は行われなくなった。ただし、小さな規模では、1958年まで捕獲が行われていたという。【出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』】竹島のニホンアシカは日本人が乱獲し、韓国政府が保護政策を行わなかった!近代日韓両国のニンゲンの都合で絶滅させられたのだ! 但し、ニホンアシカは、ニホンオオカミと同様に未だに生存説が消えない。 理由は韓半島北部や千島列島やロシア領カムチャツカやサハリン島南部など生存している可能性が高い地域の詳しい調査をしていないからである。再発見を祈念してやまない。今日の独り言 北朝鮮でアムールトラが再発見されたとのこと w(☆o◎)w 参考サイトhttp://www.biodic.go.jp/rdb_fts/rdb_fts_frm.htmlhttp://www.geocities.jp/zetumetu2005/soro-nihonasika.htmお時間がありましたら…。まったけ日記58ー絶滅危惧種・その名も「キョウトゴキブリ」ーhttp://blogs.yahoo.co.jp/f4_ttm/2480620.htmlまったけ日記136―メダカ再発見 in 亀岡ー http://blogs.yahoo.co.jp/f4_ttm/18942584.htmlまったけ日記142ーアユモドキを知っていますか? http://blogs.yahoo.co.jp/f4_ttm/19543782.htmlまったけ日記150ーアユモドキの棲む水田生態系の調査ーhttp://blogs.yahoo.co.jp/f4_ttm/20743611.htmlまったけ日記151ーオニバスの花が咲く池ーhttp://blogs.yahoo.co.jp/f4_ttm/20810725.htmlまったけ日記162ー京都府レッドデータブック「キョウトゴキブリ」ーhttp://blogs.yahoo.co.jp/f4_ttm/21618958.htmlまったけ日記226ーホオジロザメの天敵は人間!ー http://blogs.yahoo.co.jp/f4_ttm/28266349.html京都亀岡国際秘宝館・本館 http://www.geocities.jp/f4_ttm/index.html 転載元: 『京都亀岡国際秘宝館』館長のまったけ日記
2007.02.22
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キンチを考えた朝鮮半島。キムチを世界ブランドにした日本 キムチは、主原料である塩漬白菜に様々な薬味(粉唐辛子、にんにく、しょうが、ねぎ、大根など)を混合して漬け込み、製品の保存性と熟成度を確保するため低温で乳酸を生成させ発酵させた製品です。 人類は農耕生活を始めたときから主食となった穀物の栄養バランスを補うため、ビタミンとミネラルが豊富な野菜を食べるようになりましたが、野菜の生産が難しい寒い冬にも利用できる塩蔵という貯蔵方法が自然発生的に開発されました。韓国には7世紀から塩蔵に始まる、長いキムチの歴史があります。 【Korean Traditional KIMCHI写真連載】
2007.02.21
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英国人から見た韓国 「文化になじむのは苦労したが……」 自己中心主義が少ない生き方 英国人から見た韓国 「文化になじむのは苦労したが……」 こういう光景は、韓国ではよく見かける(写真はイメージ、ロイター) 私が英国にいたころ、地理上で想像できるのは、東はロシアまで。バイカル湖のすぐ手前で止まっていた。中国は物語に出てくる場所で、韓国と言えば地図で見つけられないほどだった。なので、ソウルで暮らすことになるとはまったく思っていなかった。私にとって外国旅行と言えば、イタリアやフランス、スペインに行くことであり、世界の反対側にではなかった。 2005年8月に韓国へ到着したとき、私は観光客の中でも、特に「やる気のない」訪問者の1人だったかもしれない。しかし、私には来なくてはならない理由があった。それは私のパートナーが韓国人だからだ。本当はパリやマドリードに行きたかったが、ボーイフレンドに会わないなんて、考えられないことだったのだ。 当初の予定では1年間の滞在で、それ以上は長くならないはずだった。しかし、ボーイフレンドの故郷が好きになってしまい、もっと長くいたくなった(こういうケースはよくあることだが)。 個人的なもしくは仕事などの理由で外国に住むようになった場合、その文化そのものへの興味、あるいは「旅行したい気持ち」が盛り上がってやってきた場合に比べて、適応がやや難しいのではないだろうか。 私は韓国の歴史や韓国語に興味を持ってソウルにやってきた、若い米国人たちが書いたブログを読んだ。同じ思いを持つことができなかった。その代わり、強いホームシックになってしまった。雨と泥にまみれた、英国の田舎道について考えてばかりいた。 英国にいたころ、私は「韓国の生活に絶対に適応できないよ。韓国での暮らしはあなたには異質すぎる」と言われていた。私もそう思ったが、かつては奇妙で受け入れられないと思ったことが、今では心地よく、なじみあるものに思える。個人主義でプライバシーが重要視される英国と比べて、韓国ではグループとしての幸せがはるかに大きな重要性を持つ。 韓国では、結婚式や葬式、自分の子供たちの誕生パーティーに職場の全同僚を呼ぶことは、ごく当たり前のことだ。韓国の結婚式では、花嫁や花婿の上司が、カップルが誓いを立てる直前、短いスピーチをするのが珍しくはない。英国人からすると、非常に奇妙な習慣に思える。 ランチタイムになると、職場の同僚たちは一緒に昼ごはんを食べる。全員が同じもの食べ、同じものを飲む。仕事が終わったら、グループとしての連帯感を維持するために、週に1~2回、食事や飲みに出掛ける。「韓国では、同僚は友人や隣人のようなものだよ」とボーイフレンドの同僚が教えてくれた。 私はこうした習慣を、かつては奇妙で窒息しそうだと感じたものだ。英国でも同僚同士で付き合いはする。実際、多くの人が工場や会社で結婚相手を見つけたり、友人になったりする。しかし、英国は韓国のような儒教を中心とする国ではないし、仕事仲間を家族に近い存在として扱う考え方はない。 2006年、私がオーマイニュースで働きだしたとき、このような「韓国式」のやり方が、私の心配事だった。幸いにも、思いやりのある上司が米国のスタッフのように家で勤務することを許可してくれ、文化の違いを気にしないで仕事をすることができた。 私は、ボーイフレンドが働く会社に、自分のコンピューターを頻繁に持っていき、そこで働く。これができるのも、同僚に対して韓国人が英国人よりも打ち解けた態度で接するからだ。もし英国で、誰かが韓国人のガールフレンドを職場に連れてきたら、同僚たちはとても変な表情をして、厳しいコメントが出るだろう。私は、ボーイフレンドの職場で、人がどのように意思疎通をするのかを見て、韓国の会社生活の良い面を次第に認識するようになった。 韓国では、職場では誰も「孤独」を感じることはない。1人でいることを感じることはできると思うが、それは決して「孤独」ではない。結婚式や子供の誕生パーティーが開かれるたびに、会社の同僚たちがゲストとして参加し、パーティーはにぎやかで、幸せな場となる。 英国では働く仲間同士が、ときとして互いをよく知らないこともあり、親族を亡くした場合などこれを隠すので、さまざまな感情障害が起きる。韓国では、同僚たちが葬式に参加するので、隠すのは難しい。 私は、同僚たちに対する忠誠心や団結力を高めるために、週に2回飲みに出掛ける必要はないと思う。でも、ボーイフレンドの会社の同僚たちを見ると、これが本当に役立っていることが理解できる。 私は韓国に「閉ざされた心」でやってきた。共同体主義よりも個人主義が優れている、と確信していた。この国は、私がここで説明した以上のたくさんの生き方があることを教えてくれた。グループの幸福に価値を置くことには、大きくプラスに作用すること、自己中心主義を少なくした生き方などを学んだ。 私はもうすぐ30歳。個人の空間やプライバシーを大切にする英国人の考え方や、何を食べるかくらいは自分で決めるが、譲歩もできると思っている。クレア・ジョージ 2007-02-16 (オーマイニュース英語版から〔2月1日掲載〕)
2007.02.20
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明日は旧正月=少し、旧暦の話を 旧暦の1ケ月は29日または30日新月から次の新月までの月の満ち欠け周期は約29.5日。このため旧暦の1ヶ月には29日の月(小の月)と30日の月(大の月)があり、両者がおおむね交互に並びます。 旧暦も通常のカレンダー(グレゴリオ暦)同様、12ヶ月で1年を数えますが、29.5日×12ヶ月=354日となり、旧暦の1年は太陽の動きをもとにした実際の1年(365日)より11日だけ短くなってしまいます。 このままでは何年か経過すると月と季節が大きくズレてしまうため、旧暦では19年に7度(ほぼ3年に1度)、閏月(うるうづき)を加えて1年を13ヶ月とすることで、その誤差を調整しています。ちなみに2006年には閏月があり(7月と8月の間に閏7月が加えられた)、1年は13ヶ月となっています。 2007年の旧暦1月1日(旧正月)は通常のカレンダー(グレゴリオ暦)の2007年2月18日にあたります。そして新月を迎えるたびに月が替わり、12回の新月を経たあとのグレゴリオ暦2008年2月7日が翌年の旧暦1月1日となります。 二十四節気と雑節旧暦の1年は太陽暦の1年と比べて11日ほど短いため、旧暦の日付と実際の季節との間にはズレが生じてしまいます。そこで季節をより正確に知るために設けられたのが、二十四節気です。二十四節気は1年365日を24等分した約15日ごとの各日に名前を与えたもので、時期ごとの自然現象が表されています。春分や秋分、夏至、冬至などがこれにあたります。また二十四節気のほか、季節の移り変わりをより的確に知るために設けられたのが、土用や節分、彼岸などの雑節です。 二十四節気、雑節のそれぞれの意味とグレゴリオ暦による日付との対応は以下のとおりです春 立春(りっしゅん) 2月4日頃。春の気配が初めて感じられる日。雨水(うすい) 2月19日頃。雪が雨にかわり、雪解けがはじまる日。啓蟄(けいちつ) 3月6日頃。冬眠していた虫が穴を出て動き出す時期。春分(しゅんぶん) 3月21日頃。昼と夜の長さが同じになる日。清明(せいめい) 4月5日頃。花が咲き万物が清く朗らかに見える時期。穀雨(こくう) 4月20日頃。春の雨が穀物を潤す時期。夏 立夏(りっか) 5月6日頃。夏がはじまる日。小満(しょうまん) 5月21日頃。万物が成長して一定の大きさに育つ時期。芒種(ぼうしゅ) 6月6日頃。稲や麦など穂の出る穀物の種を蒔く時期。夏至(げし) 6月21日頃。昼が1年で最も長い日。小暑(しょうしょ) 7月7日頃。暑さがだんだんと強くなっていく時期。大暑(たいしょ) 7月23日頃。暑さが最も厳しくなる時期。秋 立秋(りっしゅう) 8月8日頃。秋に入る日。処暑(しょしょ) 8月23日頃。暑さが終わる時期。白露(はくろ) 9月8日頃。大気が冷え、草花に露が白く降りる時期。秋分(しゅうぶん) 9月23日頃。昼の長さと夜の長さが同じになる日。寒露(かんろ) 10月8日頃。草木に降りる露が冷たく感じられる時期。霜降(そうこう) 10月23日頃。霜が降りはじめる時期。冬 立冬(りっとう) 11月7日頃。冬のはじまり。小雪(しょうせつ) 11月22日。小雪がちらつきはじめる時期。大雪(たいせつ) 12月7日頃。雪が本格的に降り積もる時期。冬至(とうじ) 12月22日頃。昼が1年で最も短い日。小寒(しょうかん) 1月5日頃。寒の入り。寒さのはじまる時期。大寒(だいかん) 1月20日頃。寒さが最も厳しくなる時期。雑節 土用(どよう) 立春・立夏・立秋・立冬前の18日間。節分(せつぶん) 立春の前日。彼岸(ひがん) 春分・秋分の3日前。八十八夜(はちじゅうはちや) 立春から数えて88日目。入梅(にゅうばい) 梅雨に入る頃。半夏生(はんげしょう) 夏至から11日目。半夏(ハンゲ)という植物の生える頃。二百十日(にひゃくとおか) 立春から数えて210日目。台風に備える頃。
2007.02.19
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新年快楽:恭喜發財!
2007.02.18
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アメリカのアジア支配と沖縄 沖縄県のアメリカ海兵隊キャンプ・シュワブ近くの海で 日本初!ジュゴンとウミガメの2ショット 2/12http://www.news24.jp/77273.html米兵 県民に銃口向ける 琉球朝日放送 07年02月13日 (火曜日)13日午前、宜野座村でアメリカ海兵隊の水陸両用車が訓練中に故障し、救援を待つアメリカ兵が国道を走る一般車両に向けて銃を構えるという異常な事態がありました。故障のため、入り江付近に立ち往生する形になったのはキャンプシュワブに所属する水陸両用車。川の上流にある演習場に向かう途中に動けなくなったと見られ、道路脇の歩道や芝生を占領した兵士たちは水陸両用車を守るような格好で一斉に銃を構えました。県民に恐怖を与えていると記者が投げかけたところ、海兵隊員の一人は「理解はしている」とだけ答え、銃を一般道に向けて構える理由については答えませんでした。水陸両用車は結局午後4時過ぎに牽引される形で現場から撤去されましたが、国道脇の茂みにアメリカ兵が隠れ、銃口を県民が運転する車に向けるという事態は、占領意識をあらわにしたあるまじき行為といえます。長いスパンでこの様な訓練や実績が積み重ねられ、朝鮮半島の米軍撤退のスケジュールなの中、沖縄がアジアの前線基地、指令本部になっている実情をマスコミは断片的に伝えようとしてるんでしょうか?同盟軍として、その国の国民を守るべきアメリカ軍が韓国においても、市民に銃口を向ける、走行車両で市民をひき殺す、交際中の女性を惨殺する等々の事件は後を断ちません。ソウルの繁華街で「ヤンキーゴーホーム!」を叫び、ヨンサンからピョンテックへの基地移転反対は日に日にその勢いを増しています。ピョンテックや沖縄が決して他人事では無いんだと思う記事でした。 アメリカのアジア支配と沖縄 2001年6月5日 田中 宇 下地島(しもじしま)は、沖縄本島から南西へ約300キロ離れた宮古島の近くにある。1979年、この島にユニークな空港が作られた。ジェット旅客機を操縦するパイロットたちが訓練を受けるための空港である。当時、飛行機の旅が一般化し始めてたが、ジェット機のパイロットが訓練できる空港が日本国内になく、訓練はアメリカで行われていた。下地島空港は、そうした状況を改善するために作られた。 下地島は、隣の伊良部島とほぼ地続きの状態で、このふたつの島は、砂浜やダイビングに適したサンゴ礁、亜熱帯のジャングルなどに恵まれている。しかし、観光客がこの島を訪れるには、飛行機ではなく宮古島からの船を使うしかない。下地島空港を発着するのは訓練機だけで、定期便の旅客機が飛んでいないからだ。1994年までは定期便が飛んでいたが、利用客が少ないため廃止されてしまった。下地島空港は、航空関係者専用の地味な存在であった。(下地島空港の概況) ▼重要報告書に登場した「シモジシマ」 その下地島空港が今、アメリカのアジア支配強化の渦の中に巻き込まれ始めている。ことの始まりは今年4月28日、突如として米軍の軍用機とヘリコプターの部隊が空港に飛来したことだった。ヘリ部隊は、沖縄の普天間基地を飛び立ち、フィリピンとの合同軍事演習に向かう途中、給油のために下地島空港に着陸した。(琉球新報の記事)(沖縄タイムスの記事) アメリカとフィリピンの合同軍事演習は昨年も行われている。昨年は、下地島から150キロほど離れた石垣島に、演習に向かう途中の米軍ヘリ部隊が給油のために立ち寄っている。沖縄県は、緊急時以外に米軍機が県内の民間空港を使わないよう要請しており、それを無視した着陸には、昨年も今年も地元から怒りの声があがった。しかし、米軍は自分たちに対する沖縄の人々からの反発の強まりに配慮して、今回の着陸については沖縄県に対して初めて事前通告した(これまでは直前に空港管制塔に通告するだけの強行着陸だった)。 去年から始まった年中行事にも思える米軍ヘリ部隊の着陸であったが、実はもっと深い意味があることがやがて分かった。5月15日、アメリカ国防総省系のシンクタンク「ランド研究所」が発表した報告書「アメリカとアジア」の中に「シモジシマ」の名前が登場したからだった。 (共同通信の記事) (報告書の英語の原文) 報告書を書いた中心人物は、その後ブッシュ大統領の軍事顧問(国家安全保障会議メンバー)としてホワイトハウス入りしており、この報告書はアメリカ政府の政策決定のたたき台として使われていることがうかがえる。 この報告書では、北朝鮮の脅威が減る可能性がある一方、アジアでの支配力を強めた中国が台湾を攻撃する可能性が増えていると指摘し、中国が台湾を攻めた場合の米軍の反撃をより効果的なものにするため、台湾海峡に近い場所に米軍の前線基地(forward operation locations)を新設することを提案している。フィリピンやベトナムに米軍機が離発着できる基地を新設することに加え、「米軍機が下地島をはじめとする琉球列島の各空港を軍事利用できるようにする」という提案が盛り込まれていた。 (報告書では台湾海峡有事のほか、インドネシアやパキスタンが内戦に陥った場合に米軍が軍事介入できるよう、東南アジアや南アジアの米空軍拠点を強化することも盛り込まれている) ▼台湾有事に備えた前線基地になる沖縄西部 琉球列島には、すでに沖縄本島に普天間や嘉手納という米軍の飛行場がある。それなのに新たに下地島などの民間空港を軍事基地として使おうとする背景には、下地島や石垣島といった沖縄県西部(先島諸島)は、沖縄本島に比べてずっと台湾に近いという地理的な事情がある。 台湾北部から先島諸島まで400キロ前後だが、沖縄本島まではその倍ぐらいの距離がある。中国空軍機が台湾を侵略した場合、米軍機がなるべく早く反撃するには、沖縄本島より先島諸島から出撃した方が効果があるというわけだ。しかもジャンボ機の離着陸訓練用に作られた下地島の空港は、この地域では唯一3000メートルの滑走路を持っている(他の空港は1500メートル以下)。輸送機を含む軍用機の離着陸には都合がいい。 報告書では、沖縄で基地に反対する感情が高まっていることをふまえ、先島諸島に前線基地を作るのと引き替えに沖縄本島に駐留している海兵隊を縮小するという方法もある、と具体的な提案までしている。 ランド研究所が報告書を発表した2日後、フィリピンでの合同軍事演習に参加したヘリ部隊が沖縄本島に戻る途中、再び下地島空港に飛来して給油した。最初の着陸のとき、下地島の関係者は「なぜここを使うのか分からない」と困惑したが、2度目の着陸のときは、もはやアメリカ側の意図は明らかだった。(琉球新報の記事) さらにその5日後には、沖縄にいるアメリカの総領事が下地島空港を視察し、地元の伊良部町を訪問している。(宮古毎日新聞の記事) 総領事は、米軍の計画と自分の視察とはたまたま時期が重なっただけで関係ないと強調したが、それを信じるにはタイミングが絶妙すぎる。むしろ、米軍機の飛来を受け、ランド研究所の報告書を読んだ後で、地域の人々がどの程度米軍に反対しているか視察したとみるのが妥当だろう。 ▼自衛隊誘致との微妙な関係 もうひとつ、タイミングが絶妙すぎたことがある。空港がある伊良部町では、2年ほど前から空港に自衛隊の訓練基地を誘致する計画を進めてきたのだが、米軍が飛来するほんの10日前に、伊良部町議会が臨時議会を召集し、満場一致で誘致を決議したことである。これは、民間機用の訓練飛行場である下地島空港を自衛隊にも使ってもらうことで、地元に入るお金を増やそうとする計画だ。(琉球新報の記事)(宮古毎日新聞の記事) この計画は、町長らが2年も前から根回ししてきた案件だった。それなのに臨時議会を開いて急いで決めねばならなかったところに、アメリカの動きに合わせたのではないか、との疑念が湧く。 また、地元自治体が誘致し、自衛隊がそれを「前向きに検討する」という形式が貫かれているが、この地域が中国や台湾の領海に接している国境地帯であることから考えると、むしろこの計画は、地元より自衛隊の方が強く希望しているはずのものだ。基地反対の動きをかわすため、地元自治体からの要請を受けて自衛隊が動くかたちにしたのではないかとも思われる。 ▼中国包囲網の一部としての沖縄 アメリカと中国の関係が悪化したのは今年に入ってからのことだが、実はアメリカは2年ほど前から、中国に対する軍事包囲網を作り始めている。1990年に冷戦が終わった後、米軍が東アジアに駐留している必要性が低くなり、たとえばフィリピンでは大きな米軍基地が相次いでフィリピン側に返還され、基地が閉鎖された。1999年に入って北朝鮮とアメリカとの交渉が進んだときは、沖縄の米軍基地も縮小すべきだという意見が日米双方で増えた。 この軍縮の動きを止めたのが、アメリカの政界でわき上がってきた中国脅威論だった。「中国がアジアでの支配力を強化し、アメリカを追い出そうとしている」という見方である。この考え方に基づき、たとえば1995年以来やめていたフィリピンとアメリカの合同軍事演習が昨年から再開されている。 とはいえ、日米関係を含めたアメリカの東アジア軍事戦略については、曖昧な点が多い。「中国とアメリカの対立が深まった原因は米中どちらにあるのか」「日本政府はアメリカの軍事戦略に対してどの程度ついていくつもりがあるのか」といったことだ。 下地島空港がある伊良部町では「自衛隊は歓迎しても米軍は絶対反対だ」という世論らしい(宮古毎日新聞の記事)。しかし、アメリカが「それなら自衛隊が中国の攻撃から台湾を守れるよう、日本の憲法を変えてくれ」と日本に言ってきて、日本政府がそれに答えたとしたらどうなるか。 さらには「中国は日本など周辺諸国にとって脅威である」という見方そのものが、事実とは微妙に食い違う、アメリカ側で描かれた視点だとしたら、アメリカの戦略に乗ることが日本にとって「安全保障」になるのか。それとも、逆に自ら日本を危険な状態に陥れる「安全放棄」になるのか。
2007.02.17
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「韓国の東海岸(日本海)江原道(38度線付近)の東江川のヨンウオル(寧月)の風景」 これから、チョッとユニークな風景画像をご紹介しますこれは川面のある湖畔の風景ですが、一年にたった一日だけ、太陽光線のある特定の角度であたった時だけに写る風景ですチョッと首を左側に傾けて見てみてください何か特別なシーンが見えましたか?では更に画像を縦にしてみます...信じがたい不思議な光景...現象です... 転載元: ドバイで商売 -Personal version この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46913344.html
2007.02.16
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サッカーJリーグ 柏レイソルズFW 李が日本国籍取得、五輪の秘密兵器 この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46748683.html 柏キャンプでシュート練習をする李忠成(撮影・為田聡史) 柏FW李が日本国籍取得、五輪秘密兵器 スポニチ2007/02/10北京五輪出場を目指す、サッカーのU-22(22歳以下)日本代表に「秘密兵器」が誕生した。在日韓国人4世の柏FW李忠成(21)が9日、日本国籍を取得した。ルーツとなる韓国で代表を目指す道もあったが、生まれ育った日本で夢に向かって進むことを決断。昨年9月22日の申請から約5カ月を経て、認可された。この日の同代表の北京五輪2次予選メンバーには選出されなかったが、追加招集される見通しだ。新しい力を加えて反町ジャパンが、五輪切符をつかむ。 待ちに待った吉報に、安堵(あんど)感でいっぱいになった。柏の鹿児島合宿に参加中の李は、午前練習後にチーム広報から、日本国籍取得の認可が下りたことを告げられた。当初、見込んでいた1月末をすぎても連絡がなく、気をもんでいた。「ホッとした。延び延びになって2月は気持ちを切り替えていた。その矢先の出来事だった」と、ほおを緩めた。李「僕は日本生まれの日本育ち。これから生きていく上で、日本の社会で骨をうずめるための決断です。」 この結論に至るまで、悩みに悩み抜いた。東京ユース時代、同世代のMF梶山が日本、呉章銀が韓国代表に招集される中、国籍が決まらない状況に苦しんだ。在日韓国人として韓国代表への夢もあった。04年にアジアユースを控えたU-19韓国代表候補に選出。だがルーツの国でありながら言葉が通じないジレンマに陥り、ホームシックにもかかった。W杯ドイツ大会に出場したFW朴主永ともプレーし「力の差は感じなかった」と手応えがありながら最終的には落選した。 悔しさを抱いて乗った帰りの飛行機で父鉄泰さんに思いを告げた。「やっぱり日本がいい」。昨年7月に鉄泰さんが渡韓。韓国代表コーチで影響力のある洪明甫氏に関係者を通じプレーを収めたビデオを渡し、日本国籍取得の意向を伝えた。だが反応はなく、9月に国籍取得申請に踏み切った。 正確な左足シュート、182センチの長身を生かしたポストプレー、そしてDFの裏を突くスピード。昨年はJ2で31試合8得点の成績を残し、反町監督が視察した7月神戸戦でも得点を挙げ、高評価を決定づけた。晴れて日本人になったこの日、くしくもU-22代表の発表があったが、現段階で招集されなかった。だが協会関係者によれば、18日からの熊本合宿中の追加招集に備えることを、李サイドに伝えている。「代表は特別なもので目標」と話す李が、日本代表の一員になる日は近い。 変わりゆく運命に対する覚悟がある。韓国メディアの中には日韓の歴史的背景から批判的な報道もある。「韓国も僕にとって大事な国。でも覚悟の上です。理解してもらいたいというより、これからどう頑張るかで人の道を示せばいい」。新たな人生の船出の日に、名前も変わった。「イ・チュンソン」から「り・ただなり」へ。日本人・李が日本サッカーのために戦う。【広重竜太郎】[2007年2月10日8時41分 紙面から]fwapyのコメント:民族や国籍と言う狭間で苦悩する在日です。しかし、着実に本名で、コリアンージャパニズとして社会の表舞台で活躍する在日の若者が増えてるのは間違いありません。先日アップしましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/44210442.html 日本ハムの森本 ヒチョリに続くホンワカする記事でした。・・・
2007.02.15
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この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46807292.html 【ご案内】2・23京都地裁 在日韓国・朝鮮人高齢者年金訴訟判決在日韓国・朝鮮人高齢者の年金訴訟を支える会来る2月23日(金)午後10時より京都地裁第101法廷において在日韓国・朝鮮人高齢者の年金訴訟の判決言い渡しが行われます。一人でも多くのみなさんのご参加をお待ちしています。以下支える会のビラから貼り付けました(転送歓迎) 在日韓国・朝鮮人高齢者の年金訴訟 2/23判決へ!「これまでこんなに一生懸命働き続けてきたのですから、人並みの老後を送りたいのです。」(Aさん)「まわりにはたくさんの同胞がいます。私と同じぐらいの年齢になっても、年金を受けられないので、お風呂に行くのにも子どもからお金をもらって通っているというような人たちです。」(Bさん)「今、一世のオモニ、アボジたちがたくさん苦しんでいます。そういうような人にも助けてやってください。」(Cさん)「日本でずっと働いてきて、税金もずっと納めてきたのに、今でも年金ももらえないので、この年でも仕事をしています」(Dさん)「私が差別を受け、苦労したことはなん何の証拠もありません。私がしゃべることを信じてもらうしかありません。」(Eさん) この、オモニたちの訴えを、日本の裁判所はちゃんと受け止めてくれるのだろうか?同じ在日無年金障害者たちの訴えを、京都地裁は、大阪高裁は「外国人より自国民優先」「司法の関知するところではない」と、無情にもしりぞけてきた。 大阪で闘っている在日無年金高齢者たちの訴えも、大阪地裁、大阪高裁と突き放されてきた。無年金障害者たちへの救済法からも在日無年金障害者は閉め出され、在日無年金高齢者たちは最初から除外されている。この救済法に在日無年金者も含めてほしいという請願を昨年約4万名の賛同署名と共に国会へ提出したが、審議すらされなかった。 なぜ何故ここまで拒絶されねばならないのだろう? 在日韓国・朝鮮人の多くは、かつての日本の植民地支配のために、本国で生活できなくなってやむを得ず日本に渡ってきた人々と、その子孫である。日本の敗戦後も、もはや帰れる場を持たず、そのまま日本でずっと働きつづけてきた。 それこそ身を粉にして働きつづけ、税金も納め、約百万人と言われる在日韓国・朝鮮人たちは日本社会の一員として貢献してきた。それなのに、年金はなく、70歳、80歳になっても生きるために働きつづけている人々がいる。働きつづけ、身体を壊し、在日無年金高齢者たちは次々と亡くなられている。 この人々に年金を保障してほしい、人並みの老後をおくれるようにしてほしい・・・という訴えが、何故ここまで拒絶されねばならないのだろう? 在日無年金問題は、実は矛盾だらけである。 「在日外国人」のなか中でアメリカ人だけは年金制度への加入が認められてきた. 同じ在日外国人高齢者・障害者でも、年齢によって年金をもらえるもの者、もらえないもの者が分けられてしまっている。そして、日本で長年苦労してきた人々がもらえないのに、一方では日本に来たばかりの外国人はもらっている。更に一方では、保険料どころか税金すらはら払ってきていない日本人が、「日本人」であるというだけで年金を保障されている。在日無年金外国人は、例え日本に帰化して「日本人」になったとしても、それでもなお年金はもらえないのである。在日無年金高齢者・障害者に対してなお年金保障を拒絶する理由などはどこにもないのである。 国連も日本政府に対して、「在日無年金問題の早期解決」を勧告した。韓国政府も、ずっと日本政府に対して「早期解決」を要請してきている。何よりも日本の中から多くの人々が(日本人も含め)数十年にわたって「解決」を求めてきている。 私たちも、韓国を訪問し韓国政府にも訴え、そして、今年も決してあきらめずに請願署名を集めている。また今年は福岡でも同じ在日無年金高齢者たちの訴訟が提訴される予定である。 こうした中で、京都地裁は、在日無年金高齢者たちの血を吐くような思いの訴えに対して、はたしてどのような判決を示すのであろう?差別判決を決して許さないためにも、2月23日午前10時、京都地裁第101号法廷へ!在日韓国・朝鮮人高齢者の年金訴訟を支える会 京都市南区東九条北松ノ木町12 NPO法人京都コリアン生活センター・エルファ内TEL 075―693―2550 FAX 075―693―2555
2007.02.15
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北朝鮮だけが「憎むべき敵」か? この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46944303.html この国の北朝鮮バッシングは病的だとも思える。 もちろん、北朝鮮の独裁政治体制は問題だし、経済状況も最悪だ。拉致問題の解決も急がれるべきだろう。 拉致事件の犠牲者やその遺族の方にとって、その(限りなく犯人と思われる)容疑者である北朝鮮当局が「憎むべき敵」であることは論を待たない。彼らが自らの立場や感情を公の場で発露するのは問題ないし、むしろ必要だろう。 しかし、例えば、自動車の欠陥のために起きた事故の犠牲者やその遺族にとって、その自動車を製造したメーカーは「憎むべき敵」だ。また、国が安全と認めた薬品をつかったところHIVに感染したしまった人々にとって、厚生労働省は「憎むべき敵」となるだろう。その構図は拉致問題と変わるところがない。 どうして、マスコミは北朝鮮についてだけ、拉致被害者の感情を自分のことのように同情・共感するように国民に強いるのだろうか? どうして、マスコミは欠陥自動車を作った企業や国民の安全を守らない官庁を国民共通の「憎むべき敵」として象徴しないのだろう? どうして、拉致問題とは何の関係もない在日コリアンは北朝鮮がらみで様々な嫌がらせを受けるのに、加害企業や国家公務員の家族に対しては、それが起こらないのだろう? 転載元: とだ たくみのブログ
2007.02.14
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この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46813918.html 大阪・長居公園のテント強制撤去にパリで抗議行動 パリ中心部にある大阪市パリ事務所の窓から横断幕を掲げるフランスの市民団体メンバー=12日(共同)大阪・長居公園のテント強制撤去にパリで抗議行動 サンケイ新聞 (2007/02/13)先日UPした事件の関連記事がありました。http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46585018.html 大阪市の長居公園でホームレスのテントが強制撤去されたことに抗議するため、パリの市民団体メンバーやパリ在住の日本人ら約20人が12日、大阪市パリ事務所を訪れ、同事務所の一室を一時占拠。窓から「大阪の野宿者と連帯を」と記した横断幕を掲げるなどの示威行動を行った。 フランスでは最近、ホームレスの住宅確保が重要な社会テーマとして関心を集めている。 示威行動の参加者らは「野宿者の排除を二度と行わないでください」と日本語とフランス語で書かれた抗議文を同事務所に渡した。同事務所は抗議文を大阪市に送ると約束したが「企業誘致が事務所の役割」などとして話し合いには応じず、地元警察が退去を求めた。 参加者の1人で、自らもホームレス経験があるアルジェリア人の男性(36)は「日本のような偉大な国にたくさんのホームレスが(社会から)置き去りにされているのは奇妙だ」と話した。(共同)驚く大阪市関係者 「まさかパリで抗議行動が起きるとは」。大阪市東住吉区の長居公園でホームレスのテントが強制撤去されてから1週間。3連休最後の12日夜、一報を聞いた大阪市の関係者は一様に驚きの声を上げた。 パリ事務所を所管する市経済局幹部の自宅に連絡が入ったのは、同日午後9時すぎ。「20人ぐらいが事務所を占拠している。間もなく退去しそうだ」と現地から連絡を受けた。事務所は経済局から派遣された職員2人と現地スタッフ2人が勤務。「詳しいことは分からない。情報収集しているところだ」といら立ちを隠さない。 大阪市は今月5日、長居公園のホームレスのテントや小屋を行政代執行法に基づき強制撤去した。公園を管轄する市ゆとりとみどり振興局の幹部は「パリで抗議行動が起こるなんて意外だ。驚いている。あす今後の対応を協議する」と話した。
2007.02.13
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慰安婦:米下院聴聞会で韓国人とオランダ人女性が証言へ http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46806610.html 2007/02/09 朝鮮日報/朝鮮日報JNS 米国下院で今月15日に開催される日本軍従軍慰安婦をめぐる聴聞会に、元従軍慰安婦の白人女性が元従軍慰安婦の韓国人女性二人とともに証人として出席する。米議会で従軍慰安婦の聴聞会が開催されるのは今回が初めてで、これは、最近日系3世のマイク・ホンダ議員が提出した従軍慰安婦関連の決議案に基づく内容の一環という。今回の聴聞会は、下院外交委員会傘下のアジア太平洋小委員会が主催する。 同聴聞会に出席するオランダ人のヤン・ルフ・オヘルネ(85)さんは、太平洋戦争当時インドネシアのジャワ島に住んでいたが、日本軍によって家族とともに従軍慰安婦として連行された。当時19歳だったオヘルネさんは、日本軍からさまざまな恥辱を受け、何度も暴行に遭いながらも生き残り、戦後は慰安婦だったという事実を隠して結婚した。 オヘルネさんが初めて過去について語ったのは、1992年に日本の東京で開かれた国際戦争犯罪聴聞会のときだった。理由は、従軍慰安婦の韓国人女性がテレビを通じて懸命に訴えている姿を見て勇気を得たからだという。 白人女性として初めて従軍慰安婦問題を告発したオヘルネさんはそれ以降、『50年間の沈黙』という本を書いたほか、世界各国で開かれた従軍慰安婦関連の聴聞会や告発行事などを通じて日本の過去の行為を暴露し、反省と謝罪を求めてきた。 今回の聴聞会では、韓国人の元慰安婦イ・ヨンスさん、キム・グンジャさんとともに、決議案を提出したホンダ議員、ワシントン従軍慰安婦対策協議会のソ・オクチャ会長、アジア政策ポイントのミンディ・コトゥラー所長らも証言台に立つ。 米議会には従軍慰安婦関連の決議案がすでに何度も提出されており、昨年は下院常任委で可決されたものの、これを阻止しようとする日本のロビー活動により本会議での採決が霧散していた。 ところが、今回は、従軍慰安婦問題に積極的な民主党のナンシー・ペロシ氏が下院議長を務めるほか、アジア太平洋小委のエニ・ファレオマベング委員長の支持も得ているため、これまでとは違って可決される可能性が高いとの見方が強まっている。 これに対し日本は、同決議案の可決を阻むために元下院議長を交渉役として雇うなど、大々的なロビー活動を展開しているという。ワシントン=許容範(ホ・ヨンボム)特派員
2007.02.12
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合言葉は《ノー!ハプサ/合祀は嫌》 共に進もう!共生のアジアへ 修正 削除 移動 合言葉はノー!ハプサ!共に進もう!共生のアジアへ [AML 11987]より転載2月26日に韓国人遺族が靖国神社に対し、「合祀取消」訴訟を提訴します!=== 提訴行動、報告集会&「ノー!ハプサ」結成の集いへの参加をお願いします! ===昨年8月15日に靖国神社参拝を強行した小泉前首相は、韓国・中国などアジアからの批判に対して「心の問題だ」と言い放ちました。しかし、戦時中は日本軍人として最前線に動員され命を落としながら、戦後は「外国人」としてすべての援護事業から排除される一方、侵略者と一緒に靖国神社に勝手に合祀されている韓国人遺族の引き裂かれた「心の問題」はどうなるのでしょう。これを無視し、踏みにじることが許されるのでしょう。「合祀したのは靖国神社」「国の靖国神社への情報提供は通常の照会事務」と切り捨てた東京地裁。ドキュメンタリー映画「あんにょん・サヨナラ」の主人公でもある李煕子(イ・ヒジャ)さんをはじめとした在韓軍人軍属裁判原告を中心に遺族らは新たに原告団を作り、靖国神社に対して霊璽簿からの犠牲者の氏名の削除等、合祀の取消を求めて、2月26日に東京地裁に提訴します。靖国神社の合祀問題は日本のゆがんだ戦後処理の象徴であり、日本人自身の問題です。私たちは「ノー!ハプサ」(ハプサは合祀の韓国語読み)を日韓共通の合言葉に、「支援」ではなく、ともに進み、この問題を解決したいと思います。韓国人遺族とともに2月26日の提訴行動を取り組みましょう。そして、報告集会&「ノー!ハプサ」結成の集いに参加してください。:26日当日のスケジュール1時 東京地方裁判所前集合 デモンストレーション後に提訴4時 記者会見(司法記者クラブ)6時 報告集会&「ノー!ハプサ」結成の集い 豊島区民センター・音楽室 ◆サルプリ ◆提訴報告(弁護団) ◆原告の訴え ◆「ノー!ハプサ」結成宣言 参加費:1000円(学生500円)☆スタッフ募集中です!韓国語翻訳、通訳、イベント企画、 ホームページ作成、宣伝など手伝って!☆裁判提訴のためのカンパをお願いします! 郵便振替口座 00270-3-133157 ノー!ハプサ「ノー!ハプサ」結成準備会連絡先:090-9204-7607(山本) 090-2466-5184(矢野) e-mail:nohapsa@yahoo.co.jp 在韓軍人軍属裁判を支援する会 古川 雅基メール:gun2@r9.dion.ne.jpGUNGUNのHP:http://www.gun-gun.jpあんにょん・サヨナラHP:http://www.annyongsayonara.net/ブログ:http://plaza.rakuten.co.jp/annyongsayonara/
2007.02.11
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【要請】許すな!制裁・在日コリアンへの人権侵害 http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46752386.html 3・1朝鮮独立運動88周年 今こそ対話で平和の実現を!3・3集会=許すな!制裁・在日コリアンへの人権侵害=小泉政権を引き継いだ安倍新政権は、公然と任期内の改憲を掲げ、昨年末には教育基本法改悪、防衛省昇格と自衛隊の海外派遣を本来任務とする法律を通過させました。また一歩「戦争のできる国」への道が強まりました。これらの動きは、世界的規模の米軍再編や米ブッシュ政権によるイラク侵略戦争への無条件支持と追随、そして対北朝鮮強硬策、在日コリアンへの弾圧や人権侵害と表裏一体です。北朝鮮の核実験発表で、安倍政権はここぞとばかりに好戦的態度を示し独自制裁まで強行しています。朝鮮半島の非核化と平和の鍵は、半世紀以上にも及ぶ米朝間の停戦(準戦時状態)を終わらせ、対話により米朝・日朝国交樹立を実現していく以外に道はありません。安倍政権の下でいまどういう事態が進行しているのか、これに対していま平和実現への課題とは-ともに考え、東北アジアの平和のために声を挙げよう。 日時 3月3日(土)午後6時開場/午後6時半開会 場所 文京区民センター(3A)[地下鉄三田線・大江戸線「春日」下車すぐ、丸の内線「後楽園」下車3分【講演】東北アジア情勢と平和実現への課題 武藤一羊さん(ピープルズプラン研究所) 在日コリアンへの人権侵害・弾圧実態 人権団体から(要請中) 【報告】NHK番組改ざん問題裁判控訴審判決について 西野瑠美子さん(VAWW-NETジャパン) 平和・国際教育で中学教諭を不当解雇-都教委との闘い 増田都子さん(不当解雇と闘う当該者) 都による土地取り上げに抗する枝川朝鮮学校の闘い 支援団体から(要請中) 大統領選を控えた韓国の動向について 宋世一さん(在日韓国民主統一連合)ほか 韓国民衆歌謡 ノレの会 【参加費(資料代込)700円】 主催 「3・1」集会実行委員会 連絡先 日韓民衆連帯全国ネットワーク(03-5684-0194) 基地はいらない!女たちの全国ネット(03-5670-4837) 「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW-NETジャパン)(03-3818-5903) 新しい反安保行動をつくる実行委員会5(03-5275-5989) 許すな!憲法改悪・市民連絡会(03-3221-4668) 在日韓国民主統一連合(03-3862-6881) 北朝鮮人道支援ネットワーク(ハンク・ネット)(090-1398-6807)(郵便送付先 東京都文京区小石川1-1-10-105 日韓ネット気付) 転載元: ロシア・CIS・チェチェン
2007.02.10
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〔日韓で歴史副読本〕 教員ら10年かけ製作、来月出版 http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46694693.html 中日新聞2007/02/09【ソウル=福田要】日本と韓国の歴史認識の溝を埋めようと、両国の歴史研究者や教員が10年がかりで製作した高校生向けの副読本が3月1日、日韓で同時出版される。先史から現代までを網羅した交流史を共通の教材とする試みは前例がなく注目を集めそうだ。 出版されるのは「日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史」。東京学芸大とソウル市立大の研究者を中心に36人が執筆を分担したが、すべての内容について徹底的に討論して修正を重ね、共通の歴史認識に基づく一つの文章に練り上げた。両論併記も、あえて避けた。 例えば、豊臣秀吉の朝鮮出兵について、韓国側から「責任を秀吉一人に負わせるのは疑問」との指摘が出て、名称は「日本の朝鮮侵略」に。 1910年の日韓併合については、それまでの経過を詳述。合法、非合法の評価は避けた。また、戦前の朝鮮半島での日本人を加害者、侵略者という視点だけで描かず、貴重な建造物の保護を主張した民芸運動の柳宗悦らの活躍も紹介。韓国の歴史教科書で触れる機会が少なかった在日韓国人や市民運動にもページをさいた。一般書籍としても市販される。 企画当初から製作に携わるソウル市立大の鄭在貞(チョン・ジェジョン)教授(55)は「これまでの両国教科書とは違う内容になった。2つの国が事実に基づいて一緒に歴史を語り、書くことができるという実例を、嫌韓論や反日論を唱える人々に示したい」と話している。
2007.02.09
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東京の在日朝鮮人留学生らが起草/3.1運動に影響 独立宣言を起草した留学生と2.8独立宣言書2.8独立宣言とは、1919年2月8日、東京の在日朝鮮人留学生たちによってなされた朝鮮独立宣言のことです。 宣言書には、日本の朝鮮植民地支配の不当性と民族自決の要求が掲げられており、もし日本がこの要求に応じないならば、わが民族は日本に対して永遠の血戦を宣言するという堅い決意が表明されていました。 言論活動に限定されていた留学生運動が直接的な独立運動へと発展した契機は、米大統領ウィルソンの民族自決14ヵ条原則の発表と、これに刺激を受けた在米同胞代表が独立を提訴するためパリ平和会議に派遣されることになったという記事でした。 これに素早く反応した学生たちは19年1月6日、新年雄弁大会の場で、今が独立運動を進める適当な時機であると判断して「朝鮮青年独立団」を結成、独立宣言大会の準備にかかります。独立宣言書を早稲田大学学生だった李光洙が起草し、独立団の委員であった宋継白が宣言書を携えて朝鮮本土に伝え、運動資金を集めてきます。この資金を使って「独立宣言書」と「民族大会召集請願書」が印刷されます。 2月8日午前、独立団の委員たちはこれらの印刷物を国会議員、各大臣、各国大使、公使に郵送します。午後には東京神田のYMCA会館においておよそ400人の男女留学生が集まり、大会が開催されました。開催が宣言され学生たちの演説の後、白寛洙が独立宣言書を感動のあまり声を震わせながら読み上げました。すると参加者は激しい興奮に包まれ、会場には拍手と「大韓独立万歳」の喚声が鳴り響きました。しかしこの大会は、その場を監視していた警官の弾圧にあい、多くの学生が検挙され幕を閉じます。 2・8独立宣言は本国の学生や民衆に大きな刺激を与え、その直後に起こった3・1独立運動に大きな影響を及ぼしました。
2007.02.08
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「大阪市・長居公園行政代執行に対する研究者声明」への賛同のお願い あーねさんのところで、「大阪市・長居公園行政代執行に対する研究者声明」への賛同のお願い(とりわけ研究者の皆様方へ)が掲載されてます。賛同される方はhttp://akubi.tdiary.net/20070126.html私たち若手研究者は、このたび執り行われようとしている長居公園テント村に対する強制撤去に対し、以下のような声明文を提案いたしました。私たちといたしましては、野宿問題にかかわっておられる研究者の方々のみならず、さまざまな研究分野でご活躍され、この問題に関心を寄せておられる方々にもご賛同をいただければと願っております。賛同していただける方は、以下の手続きで賛同の旨、送信していただければ幸いです。なにとぞよろしくお願い申し上げます。ウェブサイトから[わたしも賛同する]*なお、声明書はお書きいただいた賛同書とともになんらかのかたちで大阪市に提出し、またウェブやビラ、マスメディアなど、機会がありましたらさまざまな媒体に公表していく予定です。その際にはご記入いただいたお名前・所属等・メッセージが公表される可能性がありますが(メールアドレスは決して公表いたしません)、この点、何卒ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。 転載元: 英文 ダウジング翻訳のメモ
2007.02.04
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http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46484292.html ↑yahooで色んな意見を頂いてます。もし、時間がありましたら、覗いてみてください。そして、yahooに出来ましたらコメントを頂けたら・・・・。在日として、そして、一市民として・・・・一昨日の【べっけん】の”とってもあいごー”さんからの転載記事についてのコメントを書いて見ました。誤解があってはいけないんで、一応、前置きしておきます。決してこの場で、反北、総連パッシングをする気はありません。一人の、在日として、在日の人権や権利を声高に訴えたい!、その反面、北からの脱北の支援をすると言う、自分の中では”人権”と言う、ひとつのキーワードが成り立ってはいますが、自分自身の中で起こっている、「よじれ」現象。”在日”として考えたら結果として自分自身が空に唾を吐いてるかもしれません。 在日韓国・朝鮮人は、日本の植民地支配という歴史』的な経緯によって日本で暮らすようになりました。80年以上の長きに渡り、この社会で色々な差別の中にあっても、人間としての尊厳と、民族としての誇りを守り、必死の思いで生き続けてきました。行政の不条理や社会的差別を受けながらも、なお在日韓国・朝鮮人として国際政治や南北政府の動向に翻弄されながらも、人としての”誇り”だけをなくすまいと歯を食いしばって生きてきました。日本社会の中にあって、「在日」の存在そのものが、多民族、多文化共生の社会の大きな力になると信じ、日本社会が差別のない平和な社会になる事を願って生きてきました。 それは、決して歴史への”恨=ハン”だけではありません。又、日本社会に対して植民地支配の歴史を語り続ける事によって、その事実を真摯に反省し、それを元に、同じ市民として共に暮らせる社会を築こうと常に働きかけてきました。それは「歴史の反省」こそが、差別のない平和な社会づくりに繋がると信じてきたからです。戦後、レッドパージによる朝鮮連盟解散を受けて、その主流が朝鮮総連、そして、その左翼思想に反旗を翻して出来た民団組織、個々には色んな問題を抱えてはいても、当時の軍事独裁国家である韓国政府を支持できない6割以上の在日がこの”在日朝鮮人”の基本的な権利と財産を守るのが主たる目的とした組織の傘下に集まったのも、しごく当然の成り行きだったと思います。そして、その傘下組織の在日の多くが朝鮮総連の組織に加入し、在日として、この社会の逆風の中、生きてきたと思います。一方で北朝鮮の広報機関となってしまった組織が、まじめな大部分の在日の知らない所で変貌を遂げながら、北の政権の御用機関と化してしまった所に問題の根の深さがあると思います。北朝鮮政府が「拉致疑惑」を一貫して否定し、むしろ、「拉致疑惑」は日本側の完全な”でっち上げ”とまで言い張ってきました。又、朝鮮総連も”でっち上げ”と声を大にして主張してきたのも事実です。結果的に、この両者は社会を欺いてきたことになり、その責任は重大です。一方、在日社会の多くも、日本社会と同じく”拉致問題”には、ほとんど関心を示してこなかったのも否めません。それ以上に、問題は、北朝鮮(政府)が拉致事件を「不正常な関係にある中で生じたこと」を理由に軽視し、朝鮮国営通信に至っては日本の植民地支配の事例を上げながら拉致事件を正当化する宣伝まで行っていた事実です。 また、在日社会の中でも、植民地支配を引き合いに出して拉致事件を論じる人がいます。植民地支配の歴史研鑽は、それを語り継ぎながら、今の市民社会を明日に向かって豊かにするために用いるものであって、北朝鮮の蛮行を隠蔽するために引き合いに出すものではないはずです。今の日本社会では、こうした言動や態度が「開き直り」としか理解されないことを悟るべきです。 そして、同じように北朝鮮(政府が)”開き直り”の論拠を、日本の「過去の清算」に置いている点でしょう。彼等は「日本は過去の植民地支配を反省したというが、”責任者処罰、謝罪、真相解明、国家賠償”など、全て曖昧にしてきた」と事あるごとに声高に言い放って来ました。今回の拉致事件で、北朝鮮側も、これを真似て、「真相解明」などを曖昧にしようとしているのはあきらかです。 しかし、植民地支配の辛酸な過去の被害を受けてきた民族だからこそ、拉致事件は誠実に「謝罪と真相解明」をし、そして国家賠償をするのは当然の事です。拉致事件の「完全解決」で、未来に禍根を残さぬようするのが、北の政権と、それに組織として裏で手を貸した総連そのものが厳しく断罪されるべきだと思います。 北朝鮮による「拉致事件」が白日の下にさらされた今日、在日社会がこのまま沈黙を続けることが許されるのでしょうか?私はこの機に乗じて、捜査当局による人権を無視した「別件」での過剰なまでの”総連パッシング”には当然、抗議し憤りを覚えます。それより、私が危惧するのは一、聞こえてこない”総連組織”による日本社会への謝罪と反省。二、その犯罪を知らなかった、黙認してた、その暴走を結果として許してしまったであろう、傘下組織の人々の中央に対する抗議の声のひ弱さ。三、”総連パッシングは”結果として”在日パッシング”であるとわかりながらも、動けないで黙認を続け、”人権侵害”のコメントすら出せない民団四、内政干渉?の批判が怖いのか、「在日の人権に対して留意されたし」と暗に、プレッシャーすら、かけられない韓国政府私を含めて、今一度、在日が、自分自身を見直し、今、何が出来るのか、何をしなければならないのかを自問自答する、大切な時期ではないかかと思っています。韓流ブームは、決して嫌韓の流れを遮ることは出来なかったし、日本の世論が、今までの様に”在日社会”を応援したり同情してはくれません。ともすれば、その長い間の同情こそが、今回の事件を引き起こし、収集のつかない、反省の無い組織にしてしまったのかも知れません。無条件に”北”を支持し、総連を支持してきたであろう、左翼や労働運動の団体も、今こそ、自分たちの反省を含め、愛すればこそ”総連批判”をすべきではないでしょうか?北の楽園と、宣伝して帰らせた、日本の政府、日赤、そして報道、マスコミ各社は、今、北パッシングに躍起となっていますが、彼らは、自己批判をしたのでしょうか?今になって、「”拉致”は国家犯罪だ。」とわめいていますが、20年前から、民団や被害者家族はその事実を語っています。その時期、日本政府や自民党、野党までもが、そして日本社会そのものが、この事件そのものに感心を示さず、耳を傾けようともしなかったのも事実です。他者を批判する前に、各人が己の非を恥じ、自己批判し、素直に詫びる謙虚な気持ちから新しい出発が、そして、市民の太い連帯が又、出来あがり、それが強い塊となって、捜査当局の不当な人権侵害に抗議する世論となるであろうと思っています。そして、人権侵害を声高に唱える日本政府は、「別件=べっけん」逮捕の繰り返しをし、果たして「人権」を語る事が出来る程、在日外国人としてこの地に生活している人々の「人権」守っていると言えるのでしょうか?そしてその行為を放置している、マスコミは、北の人権侵害、総連パッシングの報道に明け暮れ、足元で起きている人権侵害が見えてるのでしょうか?しかし、私たち在日が、第一に抗議するべきは、長年、多くの犠牲の上に培ってきた在日社会の存在そのものを卑しめ、変質してしまった”総連”そのものでしょう。この”拉致”と言う問題が人権問題であるからこそ、この1世紀近く戦って来た”人権”問題がすべて水の泡に化してしまったと言う現実は大きな歴史の汚点であることに間違いはありません。今こそ、本国志向ではない、”在日”の為の組織に衣替えしないと、その存続に明日は無いでしょう。今、日本社会の世論の動向を見ながら行われてる、国家権力による「何をしてもスルー!」の、「別件」捜査が繰り返されてる現状を組織存続の危機では無く、在日社会そのものの存亡にかかわってると言う認識を皆が持つべきでしょう。日本の世論を敵に回した在日社会が反省せず、過去と同じスタンスで”被害者意識”で居続ける限り、心ある、在日は今以上に風化の一途を辿るでしょう。ここで、日本社会に対して目に見える形での、努力、変化を見せつけない限り、文化活動や市民運動すら、在日の社会活動そのものが、戦前の様な”肩身の狭い”行動の制約を受けかねないかもしれません。最後に、現在の北朝鮮の指導者達は、果たして、日本の過去を糾弾し、日朝国交回復を論ずる資格なんかあるんでしょうか?・・・拉致事件被害者、家族の”悲痛な叫び”は、まさに植民地時代にわが民族が上げた”悲痛な叫び”であり、その痛みは在日韓国・朝鮮人が一番よく知ってるはずです。以下の発言は、数少ない総連組織から出された謝罪のコメントです。「金正日総書記が拉致事件を認めたことにより、これまでの報道、論調そのものが過ち、誤報であったことが明らかになった。「読者に迷惑を与えたことを率直に反省している・・・いくら祖国の報道を信じ、それに依拠してきたとはいえ、先入観に基づいて展開した編集部独自の検証記事などはジャーナリストとしてあるまじき行為だった」(朝鮮新報:朝鮮総連の機関紙) 「拉致問題が事実であったことは私たちにとって青天の霹靂であり、大きな衝撃を受けざるを得ませんでした。すべての総連の職員と在日同胞もこの予想だにしなかった現実に直面し、言葉を失っています・・・私たちは今、この厳しい事実を前にして言い表せない悩みと痛みを抱きながら『拉致問題はありえない』と明言してきたことに深い自責の念を禁じえません・・・ 総連組織をよりどころに生活してこられたすべての同胞のみなさまに甚大なる衝撃と苦しみを与えたことに対し、朝鮮総連愛知県本部常任委員会として心からのおわびを申し上げます。かさねて、朝鮮総連の活動を理解し、支持してくださった親愛なる日本のご友人のみなさまと、拉致の被害に遭われた方やその家族のご心痛に思いをはせるとき、申し上げる言葉もありません。また、亡くなられたと発表された方やその家族・・・心より深い哀悼の意を表する次第であります」(朝鮮総連愛知県本部常任委員会)「在日韓国・朝鮮人の中にも、植民地支配を引き合いに出して、拉致事件を論じる人があるが、憂慮すべきことだ。被植民地支配の歴史は、未来を豊かにするために用いるものであって、北朝鮮の蛮行を隠蔽するために用いるものではない」(在日コリアンのある市民団体声明)
2007.02.02
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〔べっけん〕http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46471001.html 長期的なビジョンを持てない為政者は、結局わが国を糞まみれの国にしてしまいます。「車庫とばし」とかいう罪は、これだけ大掛かりな捜査の大義名分になりえるのでしょうか?デモンストレーション or 役人のアリバイ工作?捜査当局、就中その責任者はおしっこを漏らすぐらビビって、(自分が責任を追い切れないことが)怖くて怖くて仕方なくて常軌を欠いているでしょう。権力にある人間は、いとも簡単に獣の命になり下がります。人間を手段化して、組織を維持しようとするおぞましさに気づきません。(他に厳しく自分には常に寛容、いや、自己保身のために平気で犠牲者をつくる!)幼いこどもたちの心情など、彼らの眼中にはないのでしょう。権力に追従するマスコミは彼らと同じ穴に棲むインキンタムシです。未来を担う目に「汚い国」を演出して平気で正義ぶる。偽善者たちの所業は万死に値します。実名消します(全然必要ない!)「車庫飛ばし」容疑で朝鮮総連支部委員長ら2人逮捕2007年01月28日19時58分 排ガス規制を逃れるため、ディーゼル車の「使用の本拠地」を偽って登録したとして、大阪府警警備部は28日、金属商店経営の■■■■(本名■■■■63)=大阪市■■■■■■■■■=と、知人で在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)大津支部委員長の■■■(■■■■■■■)(68)=大津市■■■=の両容疑者を電磁的公正証書原本不実記録などの疑いで逮捕した。府警は同日、同支部など関係先5カ所を家宅捜索した。 調べでは、■■容疑者は昨年8月、自動車窒素酸化物・粒子状物質削減法(NOx・PM法)の排ガス基準を満たさない業務用トラックの使用本拠地を、大阪市内から規制地域外の大津市内の■容疑者宅と偽り、滋賀運輸支局に登録した疑い。 トラックは大津市の滋賀朝鮮初級学校を運営する滋賀朝鮮学園の敷地内の駐車場を保管場所としていたが、実際には生野区内の■■容疑者宅に置いていた。■容疑者は「(■■容疑者に)頼まれた」と容疑を大筋で認めているという。 同学校には、同日朝から府警の捜査員が家宅捜索に入った。保護者ら約100人が学校近くで抗議活動をし、一時騒然となった。■■■(■■■■■■)校長(51)は「(駐車場を)どう使っていたかは詳しく知らない。だが、教育の場に入ってくることが許されていいのか。配慮がない」と話した。asahi.com排ガス規制逃れ、朝鮮総連大津支部委員長ら2人逮捕 排ガス規制を逃れるため、トラックの使用本拠地を虚偽登録したとして、大阪府警外事課と生野署は28日、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)大津支部委員長・■■■(■■■■■■■)容疑者(68)(大津市■■■)ら2人を電磁的公正証書原本不実記録・同供用の疑いで逮捕し、同支部など関係先5か所を捜索した。 このほか逮捕されたのは、韓国籍の商店経営・■■■(■■■■■■■■)容疑者(63)(大阪市生野区)。 調べでは、■容疑者は、NOx・PM法の排ガス基準を満たさないトラックを大阪市生野区の自分の店で使っていたのに、昨年8月、「使用本拠地」が■容疑者の自宅にあるように装い、滋賀運輸支局に虚偽の登録をした疑い。(2007年1月28日17時22分 読売新聞)総連支部委員長ら2人逮捕 排ガス規制逃れ、虚偽登録 大阪府警外事課などは28日、排ガス規制を逃れるためトラックを使う場所を偽ったとして、電磁的公正証書原本不実記録容疑などで大津市昭和町、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)大津支部委員長■■■(68)と大阪市生野区■■■、くず鉄商■■■(63)の両容疑者を逮捕、大津支部や大津市の滋賀朝鮮学園を家宅捜索した。 調べでは、両容疑者は大阪市が自動車窒素酸化物(NOX)・粒子状物質(PM)法規制区域に入り、金容疑者の仕事用3トントラックが使えなくなったため、昨年8月、使用本拠地を全容疑者の自宅、車庫を同学園駐車場に移したと偽り、滋賀運輸支局に登録した疑い。 ■容疑者は実際には自宅兼職場にトラックを止め、大阪府内を中心に営業に使っていたらしい。■容疑者は容疑を認め、「■容疑者に頼まれてやった」と供述しているといい、府警は2人の関係や学園側の関与を調べている。(共同)(2007年01月28日 19時51分) 転載元: ■とってもあいごー●
2007.02.02
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済州特別自治道 韓半島の南にある済州島を、香港やマカオのような国際自由都市にすることを目指した済州特別自治道の制度が今年7月から実施される。済州島の独立とか1国2制度の導入ともいわれる、この画期的な制度を見てみたい。済州島を香港のようにする構想は、2003年2月の盧武鉉大統領就任とともに実現への検討が始められた。そして去年7月、国際自由都市にすることの是非を問う住民投票が行われ、賛成多数で承認された。これにもとづいて今年2月9日、「済州特別自治道特別法」が国会で成立し、昨年7月1日から実施されている。この法律によって、これまで広域自治体の一つである道だった済州道は、「特別自治道」という初めての自治体となり、外交、国防、司法を除く、ほとんどの権限を政府から委譲され高度な自治を行えるようになる。では具体的にどのようになるのか。まず350の事務が国から委譲されるとともに、道議会では国による各種の規制を緩和したり廃止したりする条例を制定できるように立法権が強化される。また済州島内での国税と地方税すべてを道で使えるほか、新たな税を作ったり、地方債の発行も自由にできるようになる。これまでの4つの基礎自治体は廃止される。これまでの済州市と北済州郡が一つになって済州市に、西帰浦(ソギポ)市と南済州郡が西帰浦市になるが、この二つは自治体ではなく行政単位で、市長は道知事が任命する。住民は道知事、道議会議員の選挙のほか、よそでは行われていない教育監や教育委員の選挙も行う。またリコール制度も導入され住民は道知事などをリコール投票で辞めさせることができる。公務員には外国人も採用され、民間企業で行われている成果年俸制が導入される。また自治体警察制度も韓国で初めて導入され、国の警察ではなく道警察が発足する。出入国管理も道が行い、将来はビザなし、関税なし、規制なしの実現を目指す。将来、英語が公用語になる。こうして規制をはずした済州道が生きるための大きな産業は3つ、観光、医療、教育。外国の病院や学校の進出も歓迎される。すでにアメリカのジョージ・ワシントン大学とロシアのモスクワ大学から打診が入っているという。このようなことが進められると、済州島は韓国であって、韓国ではないような特別の観光地、国際自由都市になる。今回の特別自治道制の実施で、済州島が新しい香港になるのは、そう遠いことではなさそうだ。
2007.01.31
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【予告】ネットカフェ難民 「ネットカフェ難民-漂流する貧困者たち」http://www.ntv.co.jp/document/29日(月)0時50分~1時20分(日曜深夜)の日本テレビNNNドキュメント’07で、「ネットカフェ難民~漂流する貧困者たち」が放送される。よくブログをやってる時間帯なので、ここに「メモ」しておけば、見逃さないだろう(^^;社会のあちこちで目に付く格差の広がり。生活困窮者を支援するNPOや生活保護ケースワーカーの間で最近話題になっているのが“現住所・ネットカフェ”という若者たちだ。「完全個室・宿泊可」と書かれたネットカフェ。東京だけでなく、大阪、仙台、札幌、北九州などにも孤独な宿泊者は存在する。ネットカフェといってもリクライニングシートがついた優雅なものではない。狭い部屋で堅いイスにひと晩中座ったまま何ヶ月も眠る。バイトを転々として食いつなぎ、健康や将来の不安を抱えながら希望が見つからない若者たち。その実態を追う。 【注意】画像は番組とは関係ありません(^^; 転載元: ロシア・CIS・チェチェン
2007.01.30
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■韓国フィールド・ワーク(3)~元「慰安婦」の証言を聞いて~ 以下の報告文は、~日本軍「慰安婦」歴史館にて~という記事の続きになります。まずは↓の記事を順にお読みいただければと思います。■韓国フィールド・ワーク(1)~「ナヌムの家」を訪ねて~http://blogs.yahoo.co.jp/olivia_elton_john_denver_70s/44542792.html ■韓国フィールド・ワーク(2)~日本軍「慰安婦」歴史館にて~http://blogs.yahoo.co.jp/olivia_elton_john_denver_70s/44601992.html <補足事項>この記事では、日本軍「慰安婦」が存在したのは事実か否か、何万人存在したのかといった論争を取り扱うわけではありません。あくまでも、一学生の私が、「ナヌムの家」を訪れ、ハルモニたちと対話をしたという経験を報告することが目的です。その点をご理解いただければ幸いです。~(2)のつづき~「ナヌムの家」にある日本軍「慰安婦」歴史館を見学したあと、私たちはハルモニの証言を聞くことになりました。※「ナヌムの家」で暮らすハルモニの多くは、絵を描いて暮らしています。なぜなら、彼女たちは学校で教育を受けることができなかったので、(元「慰安婦」の就学率は8%程度)未だにハングルを使えないからです。つまり、絵を描くという行為が、ハルモニたちにとって、大切な告白の手段であるわけです。私たちは、ブン・ピルギさん(81歳)の体験談を聞くことができました。 (歴史研究員の村山一平さんが、通訳&解説をおこなってくれました。)>ブン・プルギさんの略歴故郷は韓国の慶尚道で、15歳のときに強制連行された。1992年から証言活動を始め、ドイツやアメリカ等でも証言をされている。◎ブン・ピルギさんの証言 ※メモ書きのため、箇条書きをお許し下さい。以下は、ブン・ハルモニの証言です。◇釜山に居た私は、15のとき、強制連行されました。釜山から汽車に乗せられ、ソウル、北朝鮮を通って、満州まで連れて行かれました。もちろん、このときは、連れて来られた場所がどこなのかもわからず、このまま故郷に帰ることができないかもしれないと、涙が出てきました。◇吉林省の慰安所では、女性の泣き声が幾たびも聞こえてきました。初めての夜、私は軍人に、どのようにやれば良いのか、方法を聞きました。◇2人の軍人が来れば、2枚というように、相手した分だけの紙が増えていきます。この紙が多い女性は、軍人からの評価が高く、逆に少ないと、叩かれました。※ブンハルモニの話は続いた。落ち着いた様子で、静かな口調で話していた。(でもどことなく悲しげな目だったのが、今でも忘れられない)◇私は、戦争はどうしても防がないといけないと思います。なぜって? 男は戦争によって連れて行かれるし、女も私のように・・・・・。戦争があって無事に済んだ人はいないのです。国がたとえ美化しても・・・。◇日本の学生には、よく深く聞いてほしい。戦争は絶対にしない方が良い。戦争によっていいことはひとつもない。私たちは戦争をしてくれと頼んだわけではなかった。植民地にされていたので、仕方なく戦争に巻き込まれた。戦争のため朝鮮総督府から作物を奪われ、たくさんの苦労をしました。◇慰安所では、軍人に、ペチカ(ストーブ)で熱せられた棒で、わきの下を突かれました。わきの下には今もそのときの火傷の痕が残っています。日本人は残酷なことをした。朝鮮人を滅ぼそうとした。◇慰安所の中には、故郷の知人がいたけれど、何も話せませんでした。知人だったけれども、お互い知らないふりをしていました。話そうとしても、恥ずかしくて話しができなかったのです。◇小泉首相は、私たちを殴って、首相を辞めていきました。日本人の性格は変なのではないかと思いました。私たちをスパイ扱いする日本政府には、ひどいという思いしか残りません。もちろん、あなた方のような一般市民には、ひどいという思いはありませんよ。◇日本政府はなぜ謝らないのですか?しっかり清算すべきだと思います。私たちはまだ解放されていないのですから。安倍首相には、心を広くもった上で、対処してほしいと心から願っています。※ブンハルモニの証言は以上でした。81歳とご高齢だということもあり、あまり長く話せないということです。そして何より、当時の辛く重い過去を思い出し、それを大勢の前で話すことは、相当な気力と体力を要するということでした。こうやって証言するという行為は、まさに身を削ることなんだと痛感しました。◎学生とハルモニとの対話※今回はハルモニと直接対話する機会をいただけました。>学生Q,男の人が怖くて、人を愛せなくなったりしませんか?>ハルモニA,私は、慰安所から逃げ出して、歩いて帰って来ました。今でも、男性が3人くらい集まって話しているだけでも恐怖を覚えます。慰安所のことを思い出すから・・・。慰安所のことは、92年までずっと隠してきました。頭の隅に追いやって・・・。それでも、どんなに忘れようとしても、忘れられないのです。>学生Q,まだ何も言えずに苦しんでいる元「慰安婦」の人たちのことを、どう思いますか?>ハルモニA,言えない人たちはたくさんいると思う。私は、テレビで告白している人を見たとき、少しだけ気が楽になった。けれども日本政府には、早く謝罪してほしい。日本政府は、私たちのことを早く死んでほしいと思っている。心に釘がある。私たちの悲しい気持ちは、いったい、だれがわかってくれるのだろうか。>学生Q、ナヌムの家での生活はどうですか?ナヌム=分かち合いという意味ですが、何を分かち合えましたか?>ハルモニA,生活に関しては、テレビを見たりして、ずっと中にいます。クルマがないと外に出られないし、仕事をしていないので、つまらないです。けれども、学生が来るといつも楽しいです。マッコリなどを飲みたいですね。>学生Q,慰安婦の存在を知らない日本の若者も多いのですが、それに対してどう思われますか?>ハルモニA,歴史をもっと教えた方が良いと思う。けれども政府は教えたがらないと思うけど・・・。>歴史研究員の村山さん→ブン・ハルモニは、92年に証言をして以来、ずっと一人でアパートで暮らしていました。日本軍に有毒な注射を打たれたせいで、子どもを産めない体になっています。アパートで一人暮らしをしているときは、昼に話した証言を、夜になって思い出して、一人で寝れなくなったそうです。そして、夢の中で慰安所のことを思い出して、何度も金縛りにあったそうです。それが原因で体調を崩され、ナヌムの家に来ることになりました。<転載される方へ>転載は基本的に自由です。転載の際は、ひと言コメントいただけると幸いです。こちらの記事は、下の記事の続きとなっておりますので、転載される際は、順番にご注意ください。■韓国フィールド・ワーク(1)~「ナヌムの家」を訪ねて~http://blogs.yahoo.co.jp/olivia_elton_john_denver_70s/44542792.html ■韓国フィールド・ワーク(2)~日本軍「慰安婦」歴史館にて~http://blogs.yahoo.co.jp/olivia_elton_john_denver_70s/44601992.html
2007.01.29
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コリア国際学園ー国籍も国境も超え一日も早い設立を! 毎日新聞 夕刊2007/01/27より
2007.01.28
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韓国フィールド・ワーク(2)~日本軍「慰安婦」歴史館にて~ 以下の報告文は、~「ナヌムの家」を訪ねて~という記事の続きになります。まずは↓の記事をお読みいただければと思います。http://blogs.yahoo.co.jp/olivia_elton_john_denver_70s/44542792.html <補足事項>この記事では、日本軍「慰安婦」が存在したのは事実か否か、何万人存在したのかといった論争を取り扱うわけではありません。あくまでも、一学生の私が、「ナヌムの家」を訪れ、ハルモニたちと対話をしたという経験を報告することが目的です。その点をご理解いただければ幸いです。~(1)のつづき~ビデオを見終わった私たちは、歴史研究員の村上さんの案内で、「ナヌムの家」にある日本軍「慰安婦」歴史館を見学しました。◎日本軍「慰安婦」の存在はどのようにして明らかになったのか?1991年8月14日、金学順(キム・ハクスン)ハルモニが、韓国で初めて、元「慰安婦」であると証言したことにより、慰安婦の存在が明らかになりました。(それまでは、元「慰安婦」たちは、戦後50年近くもの間、性奴隷の事実を、親戚や友人にすら隠して暮らしてきたのです。)これをきっかけに、元「慰安婦」のハルモニたち(といっても一部ですが)は、証言を始めました。そして、水曜デモと呼ばれる集会で、日本政府に謝罪と補償を求めていくことになります。※なお、「ナヌムの家」のハルモニたちの間では、「従軍慰安婦」という呼び名も、「性奴隷」という用語も、決して使用されません。ハルモニたちの多くは、「強制的に連れて行かれた」と証言しています。従軍カメラマンや従軍記者のように、自発的に軍に従ったのではないハルモニたちに対して、「従軍慰安婦」と私たちが呼ぶ行為は、はたして適切なのでしょうか。ハルモニたちの視点に立てば、問題のある行為でしょう。さらに、国連などで使用されている「性奴隷(Sexual Slave)」という用語も、日本軍「慰安婦」の本質をよく表している言葉ではありますが、ハルモニたちからすれば、「奴隷」という言葉は、非常に屈辱的な言葉なので、「ナヌムの家」では使われていないそうです。◎ハルモニたちはどのようにして「慰安婦」にされたのか?※下記は、歴史研究員の村上さんの案内のメモ書きを、文章化したものです。1930年代、日中戦争下の日本軍は、抗日勢力の掃討作戦(三光作戦)を展開します。この作戦では、食糧や物資は現地調達(視点を変えれば略奪行為)され、その結果、日本軍による強姦事件が多発しました。そこで軍部は、(1)強姦事件を防ぐ、(2)反日感情を抑える、(3)性病を防ぐ といった理由から慰安所の建設に乗り出します。(なお、当時の日本では、性売買は合法化されており、慰安婦は日本国内にも多数いました。もちろん日本人の慰安婦も多数存在したわけです。これは当時の日本で、貧しい女性に対する性的搾取が、当然のように行なわれていたということでもあります。)しかしながら、戦線の慰安所には、朝鮮人女性が多く連れて行かれています。それはいったいどうしてなのでしょうか? 朝鮮人女性が多く連行されたのには、以下のような背景があったと分析されています。1,朝鮮は日本の植民地であるため。<男性は労働力、女性は性奴隷としての役割を強いられた。>2,日本軍にとって、戦線の慰安所に日本人慰安婦を派遣することは不都合だから。<国や故郷の女・子どもを守るために戦っている(と思わされている)軍人たちにとって、日本人女性が「慰安婦」として目の前に現われることは、士気や戦争の正当性を弱める行為になってしまうから。>3,日本帝国主義の収奪政策のため、植民地の朝鮮では、生活困窮者が増加したため。<生活困窮者の増加とともに、借金の変わりに若い女性が多く売られるようになった。これにより民間仲介業者の増加をもたらし、「慰安婦」の供給に拍車をかけることになる。>◎慰安婦はどこまで連行されたのか?(日本国内から東ティモールまで)日本軍「慰安婦」歴史館には、大きな地図パネルがあります。そこには、日本軍「慰安所」が存在した地点が印されていました。その分布図には、日本国内、沖縄、台湾、中国(ハルピンから海南島まで)、タイ、ミャンマー、マレーシア、インドネシア、フィリピン、そしてパプア・ニューギニアや東ティモールまで日本軍「慰安所」が存在していたと示されていました。特に、沖縄や中国内陸部には慰安所が集中しています。日本軍の敗走により、慰安婦は現地に置き去りにされたケースも多々あります。さらに軍による慰安所のみならず、企業によって運営された慰安所も存在し、日本軍の文書によると、こうした慰安所は、「軍人倶楽部」「軍人娯楽所」と呼ばれ、さらには「衛生的公衆便所」と呼ばれることもあったそうです。朝鮮人慰安婦は、日本軍の兵士から「鮮ピー」(差別語)と呼ばれ、同じ慰安婦でも、日本人女性とは区別され、さらに過酷な差別を受けたそうです。◎「慰安所」はどのように運営されたのか? 慰安所の運営形態には、軍直営慰安所と軍指定慰安所があります。中でも軍指定慰安所には、軍が作った慰安所のみならず、民間売春施設を指定して経営は民間にまかせ、監督と統制は軍が行なう慰安所もあります。※近年ではよく、日本軍は、軍として慰安所を運営したわけではないし、民間業者が勝手にやったことであるので、日本政府には一切責任はないという論調を見かけますが、その根拠として、軍指定慰安所を取り上げている場合が多いのです。◎「慰安所」での慰安婦女性たちの生活は? それでは実際、慰安婦女性たちにとって「慰安所」での生活はどのようなものだったのでしょうか? そして、軍人たちは、どのように「慰安所」を利用していたのでしょうか?歴史館の中には、「突撃一番」と名付けられたコンドームが展示されています【写真2番目】日本軍兵士はコンドームをサックと呼び、この「突撃一番」と呼ばれるサックが多く使われたそうです。さらに、性病の蔓延に敏感だった軍部は、慰安婦女性に対し、性病検査を頻繁に行い、検査後には「可」「不可」などのように成績を付けた名札を、慰安所の部屋の入り口に貼り付けたそうです。(高官軍人が、できるだけ清潔な女性を選べるようにするための目安として)【写真3番目】のような部屋で、慰安婦女性たちは、一日に多いときは40人から50人の兵士の相手をしたそうです。ハルモニの証言によれば、初潮を迎えていない若い女性などは、ベッドの傍に置いてある たらい に血をふき取って捨てていたそうです。度重なるレイプによって、下半身が動かなくなったり、妊娠をしたことにより、中絶手術を無理やり受けさせられた女性も数多くいたようです。さらに、思うように性行為をできなくなった女性には、刀で指を切られたり、中には殺されてしまった人もいたそうです。金福童(キム・ポクトン)ハルモニは、一日中、兵士の相手をさせられ、足を開いたままで閉じられなくなり、カエルのような姿になっていたと証言しています。このような過酷な状況に置かれた日本軍「慰安婦」は、20代の女性のみならず、ぼくよりも若い、14歳から19歳という10代の少女も多かったのです。■次回は、実際にハルモニと対話をしたときの、聞き取りメモを掲載する予定です。■事実関係については、以下の資料を参考にしました。<参考文献>ナヌムの家歴史館後援会-編 『ナヌムの家歴史館ハンドブック』 柏書房 2002年 URL: http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46321153.html 転載元: ★風の旅人ブログ~息ある限り、希望を抱く~
2007.01.27
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新大久保駅、転落事故から、今日で 李秀賢さん救助死から6年 自己犠牲の心息子から学ぶ李秀賢さん救助死から6年 母・給食ボランティア 父・学生支援 「日韓の懸け橋」支えに1月25日17時7分配信 西日本新聞 【釜山25日藤崎真二】東京都新宿区のJR新大久保駅で2001年1月、ホームから転落した人を救おうとした韓国人留学生李秀賢(イ・スヒョン)さん=当時(26)=が亡くなって26日で6年。尊い犠牲を忘れまいという共感の輪は切れることなく、なお悲しみが癒えない両親の新たな力になっている。27日には日韓合作映画も公開される。「日韓の懸け橋」を目指した秀賢さんの遺志を胸に、両親はボランティア活動や学生支援に汗を流す。 韓国・釜山市内のマンション。「スヒョンイアボジ(秀賢の父さん)」「スヒョンイオモニ(秀賢の母さん)」。父・李盛大(イソンデ)さん(67)と母・辛潤賛(シンユンチャン)さん(57)は今もこう呼び合う。思い出が詰まった1室には、日韓両国などからの手紙約2000通のファイル、大好きだった自転車雑誌などが並ぶ。盛大さんはパソコンの前に座り、秀賢さん自作のホームページ(HP)を開いた。今もメールが寄せられるという。 「事故の後、HPがあるのを知りました。最初見たときは、いっぱい泣いてしまって最後まで読めなかった。読み終えたのはだいぶ後になってからです」。潤賛さんは何度も涙をぬぐった。 「息子が受けた大きな愛を周囲の人に分けたい」と、潤賛さんは毎週月曜、同市内の公園でお年寄りへの給食ボランティアを続けている。事故後に建立された追慕碑に花を手向けるため毎日公園に通っていたころ、偶然見かけた活動だった。早朝の買い出し、調理など苦労は絶えないが、息子への思いが活動を支えてきたという。 事故後、秀賢さんの命を犠牲にした行動は感動を呼び、多くの見舞金が寄せられた。盛大さんの寄付金で秀賢さんの母校には奨学基金が、日本には外国人就学生向けの支援基金「エルエスエイチアジア奨学会」(東京)が創設され、これまで281人を助けた。 「秀賢の分も、残った人には頑張ってほしい」。奨学金に込めた思いを語る盛大さんらの心の中には、秀賢さんが若いまま生き続ける。街で見かける若者の笑顔が重なり「見るのがつらくて下を向いて歩くこともある」。 潤賛さんは言う。「後悔があるとすれば、強い人間になってほしいと、あまりほめて上げなかったこと。もう少しほめて上げれば良かった」 2人は、東京で行われる慰霊祭に参列するため25日、日本に向かった。出発前、「息子に会えるような気がする」と盛大さん。潤賛さんも「いつも温かく迎えられ、日本に行くと元気をもらえます」と話した。 26日には映画「あなたを忘れない」の試写会に行く。日本での生活など秀賢さんの半生を描いた作品。「映画が、日韓両国民お互いの理解につながってくれたら」。2人は声をそろえた。=2007/01/25付 西日本新聞夕刊=
2007.01.26
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もし私が嫌韓なら (2)連続で、面白くないでしょうが、ついに連続編を書いておきます。メール等で、対峙する立場の何人かが、resを下さったんで・・・。やっと嫌韓の熱が冷めたら、今度は「在日問題」って形になってきたみたいなんで一応・・・。昨年の10月に浅い認識の著書「嫌韓論」を出した、山野車輪の新作が出ました。前にも触れましたが彼は大人漫画を書いて、もう飯が食えないから故郷に帰ろうと思ってた矢先に「ゴーマン」を見て模索したのが「ヒット」したとされています。今回の新作”在日の地図 ~大韓棄民国物語 ”も、出版元である。文化者社や海王社のサイトを見てもこのマンガのことが載っていません。ちなみに海王社も晋遊社同様、アダルトコミック関係の出版社です。すなわち、それだけ嫌韓本が商売になるということだったんでしょう。「韓国人につけるクスリ」という本も続編が出ていますが、嫌韓本というのはそれだけ美味しい商売なんでしょう。しかし、この新刊はアマゾンランキングで、発刊当時でも、140位、今や、2,106位です。本来、在日に関心の無かった社会が、政府やマスコミ誘導の報道にも嫌気がさしてきたんでしょう。嫌韓流ブームが過ぎ去ったというより完全に一ジャンルとして定着したので話題性もないんでしょうね。著者=山野車輪の本が事実無根の内容で無根出に乏しく、読者を馬鹿にした嘘の連続か、一部分を抜粋して見ます。山野車輪は韓国語が全く分かっていないにもかかわらず、知ったかぶりをしています。たとえば同音異義語の例として、「そうかん」という発音の単語を挙げていますが、これをハングルで書くと「壮観」=チャングァン「創刊」=チャングァン(激音)「送還」=ソンファン「総監」=チョングァン(激音)「相関」=サングァンとなります。ごらんのように、全く違います。もちろん韓国語には同音異義語はあります。しかし、ハングルは大抵、一文字が漢字語の音声に合わせて作ってあるのが普通です。山野車輪はこんな初歩の基本も知りません。韓国語は日本語と真似たものという偏見でだけで書いているのは明らかです。それは、「ハングルはひらがなのようなもの」という認識にも現れています。日本語の文章をわざとひらがなで書いたりしていますが、これは例によって「マンガ嫌韓流」のコピーです。例えば、「漢字を廃止し全てをハングルで書くってことは日本語で例えると全てをひらがなで書くことと似たようなものだからな」という文章が出てきます。・・・・韓国語削除・・・・(rakutenは韓国語が出ないんだ(泣;)yahooなら出るのにな~)ご覧の通り、全く違います。韓国語の文章の場合、一単語ごとに一マス空ける(分かち書き)するのがのが普通です。また、今の文章には漢字語は4つしか出てきません。次に・・・・・・韓国語削除・・・・・・(A.二つの国の関係が良くなるでしょうか?)(B.独島(竹島)がある限り良くならないでしょう。)つまり、韓国語にはもともと、漢字語でない単語や表現がたくさんあるわけです。全部が日本語と同じわけではありません。山野車輪は、「ハングルは音でしか判断できない」といいますが、語学というものが全く分かっていません。「聞いて理解する」「話すことで意思を伝える」というのは語学の基本です。そもそも、日本語と韓国語は音が違います。たとえば、日本語は基本音節は、ひらがな50音ですが、韓国語の場合、母音は21個、子音は19あり、反切表といってハングルの基本音節は400あります。そして、一般に使われているハングル文字は1,180個あるといわれています。さらに、日本語の場合、子音で終わる言葉は英語で言うと“n”しかありませんが、韓国語の場合、“n”“ng”“l”“m”“k”など色々あります。つまり、日本の"ひらがな"文字とは全く違うのです。どっちが優れているという問題ではありません。次にハングルの特徴です。ハングルは基本的に左側が子音、右側が母音という構造ですが、下にも子音が来て一文字で3つの音を表現できるというものがあります。たとえば人の名字の"キム=金"は、英語では→kimですが、ハングルでは“韓国語=キム"と一文字で表現します。同様に朴=パクは英語では→parkですがハングルでは“韓国語=パク”一文字です。見ての通り、ハングルは漢字語にも一応対応しており、それ自体に意味はあります。ちなみに、一漢字語に対応したハングルは基本的に一つですが金だけは、例外的に金は(キム)と(クム)の二つがありますが、どちらも金という意味です。ちなみに、韓国語の教科書を読むと、こんな笑い話が載っていました。小学生の子供がお父さんに対して、「なぜ、金行といわずに銀行というのか?」というものです。ちなみに、銀行は“ウネン”といいますが、金行は“クメン”といいます。つまり、元の漢字語の意味が分からなければ、こんな変な質問は出てくるわけがないのです。(ややっこしいかな?)「マンガ嫌韓流」は、韓国語が分からない人間に対してしか通用しない子供騙しです。 韓国ではまったく漢字を使ってないかのような書き方ををしています。さらに、ハングルだけで文章を書くと、ほとんど意味が分からないかのようなことも書いています。ご存知だと思いますが、韓国でも漢字は使いますし、ハングルとのへいよう混在書物は至る所にまり増すし、駅名はハングル、漢字、英語併記です。こんな、一夜漬けの、馬鹿馬鹿しい本、「在日論」にしても、著者が、1度、もしくは2度、おのぼりさんでkorean-townに来て、見て、後は、本からのネタでしかありません。100年以上に及ぶ、在日歴史がいとも簡単に、この様な形で、書かれてるのが実態でしょう。 又、彼の本の中に「朝鮮学校の”チマチョゴリ引き裂き事件”は朝鮮総連の自作自演」と書いてあります。それを元ネタに、それが真実のごとく、実際に見たかの様にnet上で書ききまくる嫌韓の人々、中身の無い、がさネタとも言える内容に対しても、「よくまとまった本だ」と評価するnet右翼はどんな見識をもってるのか不思議ででなりませんません。私が、この場でバトルや個々の揚げ足取りの問題を語って、政治研鑽をしたくないのは、こんな部分です。そんな事に、時間と神経を費やして、勝ち負けに一喜一憂する気はさらさらありません。そこらを理解してくださって、ピントはずれな、コメントや下記逃げをしないで、下さればと願ってるんですがね。net右翼の可愛い諸君!こんな本で、わかった振りして、カキコするよりかは、他の方法で攻撃しないと・・・。でも、別に関心は無いけどね、
2007.01.25
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