ファピーの風の花

ファピーの風の花

2007.03.01
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今日は 3・1節=サミルジョル

祖国の独立を願って… 今日 3月1日、韓国では祭日にあたります。

3・1節=サミルチョル)は、1919年3月1日、日本の植民地支配に抵抗して、市民たちが韓国独立を願って行った「3・1独立運動」をたたえた祝日です。1949年に祝日に制定され、現在は韓国の4大祝日のひとつにもなっています。


★4大祝日:3・1節/制憲節=憲法記念日(7月17日)/光復節=解放記念日(8月15日)/開天節=建国記念日(10月3日)


当時、民衆の間で歌われた歌がります。踏みにじられた民族の哀しい運命を花にたとえ歌とした、「ポンソンファ(鳳仙花)」という歌曲です。日本でも加藤時子が1970年代後半に訳詞で歌ってヒットしたした歌です。怨みや憎しみでない「恨」に染められたその旋律は、聞く人の胸を打つ。この歌は、当時の民心を率直に表しているといえるます。表だって批判できない植民地統治とそれに対する民衆の抵抗を軒の下に咲くホウセンカの花に託した歌で、今も歌い継がれる名曲です。


http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/11/14/20051114000011.html
http://tab.search.daum.net/dsa/search?w=musictab&m=track_song_more&q=%BA%C0%BC%B1%C8%AD%20%C0%BD%BE%C7%20%B3%EB%B7%A1%20%B5%E8%B1%E2&page=2&lpp=10&SortType=3 2P目の一番下が歌曲、一番上が歌謡曲です。1P目の笛の音は心の染みます。是非時間があれば聞いてみて、当時の民衆の思いに心を巡らせて見てくだされば幸いです。


♪鳳仙花♪

♪垣根の下に立つ 鳳仙花よ おまえの姿が みすぼらしく もの哀しい
長く長い夏の日に 美しい花になる時 可愛い 乙女達が


いつの間にか 夏は去り 秋風が そよそよと吹き 美しい花房を
無惨にも 冒したから 花は散り 萎れてしまった
おまえの姿が みすぼらしく もの哀しい

北風と冷たい風雪に おまえの姿かたちが無くなってしまっても
平和な夢を見る おまえの魂は むかしながらのゆえに
麗らかな春の風に 生まれ変わることを 願ってやまない

_________________________________________三・一独立運動とは

1910年、「日韓併合」により、世界地図から「韓国」の文字が消えていった。 それから10年たった1919年3月1日、市民たちは日本の支配に抵抗し、全世界に朝鮮民族の自主独立を宣言し、平和デモを開始した。まず、正午にパゴダ公園(現在のタプコル公園)で独立宣言書が読まれ、一斉にデモが始まっていった。
武器を持たず、人々はただ「大韓民国独立万歳!」と叫んだ。そこにはあらゆる階層の人達がいた。大学生、女子高生、主婦、そして6歳にも満たない少年が父親と一緒に…。
密かに作っておいた太極旗をその手に振りかざし、デモは全国に広がっていったのである。


一方、独立運動に恐れを抱いた日本は武力行使をもって、すさまじいまでの弾圧を行なっていった。日本軍の弾圧により、多くの人が無差別に殺害された。この運動で命を落とした人数は7509名と記録されている。

         参加者    死者    負傷者

朝鮮総督府発表 106万人  553人  1409人
憲兵・警察官           8人   158人


韓国のジャンヌ・ダルク 柳寛順(ユ・グァンスン)


3.1運動は、この人抜きでは語れないというほど象徴的な人物、柳寛順。彼女は3.1運動が始まると在学していた梨花学堂でデモを行い、学校が休校になると故郷の天安(チョナン)に戻り万歳運動を指揮した。この時日本憲兵の発砲により父母が死亡、自身は西大門刑務所に移され、獄死した。17歳の若さだった。1962年に建国勲章を与えられている。



現在でも、3.1運動の発祥地となったタプコル公園では、運動の様子を描いたレリーフ、運動の中心になった人々の銅像や記念碑などを見ることができる。また、柳寛順をはじめとする独立運動家が投獄された西大門刑務所も歴史館として一般公開されている。




 3月1日、運動はまずソウル、平壌、大邱、開城などの主要都市で始められた。ソウルではパゴダ公園に集まった学生たちが正午の鐘を合図に行動を開始した。彼らは独立宣言書の朗読を終えると太極旗(大韓帝国時代の国旗)をうちふり〈独立万歳〉を高唱しながら街頭に出た。これはたちまち数万の群衆が参加する大規模なデモとなった。それ以後各地の運動は大衆の集まりやすい市のたつ日に合わせて行われ、3月中ごろからは朝鮮全土が反日独立運動のるつぼと化した。わけても農村部の運動が激しかった。1918年に終了した朝鮮土地調査事業によって、朝鮮の農村は日本人地主や親日的な地主たちが支配するところとなった。また、大戦中に日本の工業の成長を支えるために綿花や桑苗の作付強制がなされ、朝鮮米が大量に持ち出された。農民たちが面事務所(村役場)を襲い、土地台帳や作物の供出簿を焼きすてたのはそのためであった。ところが、日本の支配層はこの運動を徹底的に弾圧した。憲兵・警察のほかに正規軍をも投入した鎮圧作戦によって、水原の堤岩里事件(4月15日29名虐殺、近辺の死者は1000名を越した)、天安事件(4月1日並川市場でデモ隊20名射殺、〈朝鮮のジャンヌ・ダルク〉柳寛順が逮捕され獄死)、定州事件(3月8日デモ隊、市民120名余を無差別殺戮、民族代表李昇薫らの家宅破壊さる)などが相ついで引き起こされた。
 この運動は多くの犠牲者を出して終わったが、その影響は大きかった。世界大戦の戦勝国に対する闘いとして、同年のインドの非暴力運動(4月)や中国の五・四運動(5月)の先がけとなり、また、日本の植民地支配者には深刻な打撃を与えた。学校教師が帯剣して授業することや憲兵警察制度は廃止せざるをえなくなった。制限つきではあったが、朝鮮人は集会・結社の自由や言論の自由をかち取った(翌年《東亜日報》《朝鮮日報》などが発刊)。朝鮮総督の長谷川好道は更迭されて斎藤実が第3代総督となった。斎藤は、非妥協的民族主義者を除外して自治派などの妥協的民族主義者をとりこむという朝鮮民族の分断を策して〈文化政治〉を唱えたが、三・一運動を経験した朝鮮人はさまざまな組織を作って頑強にこれと闘った。労働運動、農民、女性、青年などの運動や衡平運動(朝鮮の部落解放運動)などの大衆運動は、三・一運動をその出発点として本格的に展開されることになった。国外では4月10日、多くの独立運動家たちが集まって、上海で大韓民国臨時政府が組織された。それは亡命政府ではあれ、朝鮮最初の共和政体の登場を意味するものであった。なお、柳宗悦などごく一部の日本知識人は三・一運動の本質を理解したが、多くはアメリカ人宣教師の扇動による暴動とみるなど無理解であった。(馬渕 貞利)平凡社大百科より









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Last updated  2007.03.05 17:31:14
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