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2017.06.05
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異物を異物と認識したうえでの受け容れではなく、境界を曖昧にしたまま同化していく受け容れ。

「ポスト多文化主義教育が描く宗教」
「観光客の哲学」

「受け容れるか、否か」「寛容であるか、否か」を求めることが排外主義につながる。
それを曖昧なままにしておくことが、東洋的寛容ではないか。

「観光客の哲学」は、寛容であるかどうかを真剣に考える。「観光客の哲学」は、境界を揺るがそうと考える。
だが、それは「揺るがさなければならないほどの強固な境界」を作り出すことになりはしないか。
本当に、そんな境界などあるのか。

寛容を主張する人々が、壊そうとする境界,揺るがそうとする境界,それは蜃気楼のように消してしまうことは不可能なのか。


資本主義,社会主義,共産主義といった社会的ideologyが希薄になることで、帰属する宗教社会が色濃くなっているのではないか。
全てを曖昧にしてしまえる社会こそが、平和な社会ではないのか。

観光客の哲学では、家族を真剣に考えるべきだという。
だが、日本人にとっての家族を真剣に考えると、そこには「イエ」というものが現れる。
「家柄」「家風」「結婚は個人の婚姻ではなく家と家の繋がり」
そこを真剣に考えると、家のルーツとなり、自分の帰属すべきコミュニティをはっきりと自覚させることになる。
それよりも、曖昧模糊なidentityのままで生きていける人生観こそが、世界にとって最も必要なのではないか。


どうやら「自分は日本国に属する日本人であり、日本人社会の価値観というものに強い影響を受けている」ような気がする。
「自分の家は代々において神道なので、我が家は神道に属している」らしい。
さらに言えば…
「日本はどうも天皇家を国体とする立憲君主国家っぽぃけど、実際にどうなのかは理解していない」



ありとあらゆるものに神と精霊の存在を感じているが、それを信仰だとか宗教だとかと結びつけない。

緩やかな共同体のなかで、緩やかに異物を同化させ、自らも変容していく。
異民族も異教徒も異文化も、異物として認識せずに消化していく。
これからのNeo-Globalizmの理想ではないか。





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最終更新日  2017.06.05 23:55:46
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