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2017.09.07
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通勤途中の道で、拡張工事が続いている。
場所によっては、地主の家を削っているけれど、道路が出来上がれば交通量が増えて、騒音や振動が凄くなるんだろう。
他人からみれば「あんなに土地があるんだからちょっとくらい」って話になっちゃうんだろうけど、年を取ったら辛くなるんだろうなぁ。

子供の頃に、土地に関してはいろんな話を聞いた。

広い田んぼがあったけれど、別に他人に貸さなくても食べるのには困っていなかった。
貸すつもりは無かったけれど、「どうしても貸してくれ」っていうから貸してた。
「ただで借りるのも悪いから」って収穫があれば、少し置いて行った。
それが、戦後にGHQが「小作人から搾り取ることは許さない。土地は実際に耕していた人間のものにする」って農地改革をしたら、全て小作人に盗られた。
まぁ、戦後にはよくある話。


まぁ、明治-大正にはよくある話。

更に町役場-市役所を造るのに、便利な場所が良いから寄付してくれって言われたけれど、そのときは「代わりの土地」を要求した。
市は金銭で解決しようとしたけれど、「カネなんか貰えば、そこらじゅうから『カネ貸してくれ』っていうのが出てくる。土地のほうが良い」って代替地を貰った。
そしたら、「学校を造ろう」って話になったときに、「あそこは元々、学校を建てる予定の土地だった」とか言い出して、また『地元の教育のために寄付してくれ』って言われた。
今度も、「じゃあ代わりの土地を…」って話になったけれど、提案されたのは道も通ってないような辺鄙なところだった。
「あんなところ貰っても、行く方法が無いだろう。だったら市(町)で道路を作ってくれ」って言って、道路を造らせた(道路っていうか、獣道もどきのあぜ道)。
ここまでは自分が生まれる前の話。

その後、人口が少しづつ増えて、村⇒町⇒市となった。
それにつれて、市が造ったあぜ道も舗装されて、軽自動車が1台くらい通れるようになった。
そしたら、少しづつ家が建ち始めて、「道路が狭い」「その土地を削って、道路を拡張しろ」「カネは無いから無料でよこせ」ってなった。
市は「土地を買うカネは出せないけれど、無料で土地を寄付してくれたら舗装などの工事費は市が出す」とか言い出した。

「土地をただでよこせば、あとは市がやってくれるんだから良いじゃないか(←何が良いんだ?」とか詰め寄られて、軽自動車1台から普通自動車1台くらい(幅4-6m)の道路になった。
その際に、「無料で要求するのはこれで最後にする」って念書を市に書かせた。
最初は、土木課の課長の個人印で書類を書いてよこしたが、「市長の印鑑と市の書類にしないと受け取らないし、土地も渡さない」って、公文書で書かせた。
その後も、周りの地主が分譲したくて「道路を拡張しよう」って持ちかけるけど、断ってる。
そこの周囲に住んでるひとは、「なんでここは道路が広がらないの?」って不満を言ってるけれど…。


現在からみれば、「なんでこんな土地に執着してたの?高い時に売れば良かったのに…」とか言うような土地でも、先祖代々の土地なら守っていくのが当たり前だったんだよねぇ。




【坊主は寺から外に出ろ】
https://news.goo.ne.jp/article/chuplus/region/chuplus-CK2xxx-xxx-xxxxx94.html
海外では、フリーフケアに宗教が関わっていることが多い。
それはカネ儲けとか信者獲得とかではなく(まぁ、皆無ではないだろうけど)、「哀しみを癒すのが自分たちの務め」という『当たり前の行為』だからだ。
坊主がいくら御堂に籠って、死んだ檀家のために朝に夕にお経を唱えてくれたって、遺族は癒されないんじゃないだろうか?
昔は、檀家が「お寺で朝に晩に、供養のための経を読んでくれている」っていうことが癒しだったのかもしれない。
命日なんかに家に坊主が訪れて、お経を唱えてくれるのが供養であり癒しだったのかもしれない。
坊主が家にきて、故人の想い出を語ったり、「お子さんもみんな立派になって、頑張りましたよね」「家も財産もしっかり残してくれて、思い残すことは無かったでしょう」とか言えば、それがグリーフケアだったのかもしれない。

でも、今はそうじゃない。
天寿を全うした人以外にも供養や癒しが必要なのに、日本の坊主は向き合おうとしてないんじゃないか。

仏教でも、子を亡くした母親へのグリーフケアの話がある。
【死者を一度も出さなかった家で取れた護摩を用意すれば、私の愛する子は生き返るのですね】

ひとは誰でも、愛するひとを亡くしたことがあり、亡くすという未来が待っている。
仏道は、そこで達観するでもなく、諦念するでもなく、突き放すでもなく、寄り添うという形での癒しを模索するべきじゃないか。
まずは、僧侶としてでなく、グリーフケアに関わってみたらどうだろう。
仏教学校でもボランティアとして、積極的に学生に関わらせたらどうだろうか。
悟りも開かずに達観するのは間違ってるゼ。





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最終更新日  2017.09.07 12:23:11
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