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数学ってね、ぼくは大嫌いなんだけどね。(笑)問題を解いているときに、一生懸命考えていると、あるとき解けちゃったりするよね?あ!解けた・・・。で、それから証明を書くんだ。こうするとこうなるから、こうだろう・・・、だからこうなってこうだろう・・・。ほら解けた!なんてね。でも、実際にはそんなことやる前に解けてたりする。閃きってやつだよね?論証していくプロセスと、直感で分かるプロセスが違うんだ。勿論、解けたと思ってやってみたら、ダメだった・・・なんてこともよくあるけどね。(笑)これは脳が騙されてるんだね。解けた!っていう閃きがあって、論証する回路が一致している人、これはある種の天才かもしれないね。応援ヨロシク!
2004年10月12日
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夢の中ってね、頭の中ではいろんな情景が同時に進行しているんだ。でも、それを同時多発で説明できないよね?こうこうこういう夢なんだけど、って説明しなきゃならない。だから物語に変換するんだね。これは意識があるときでもそうで、結局、語るためには物語りにしなきゃならないからね。物語にするってことは、後から時系列に沿って付けてるってことなんだ。後から時間的順序をちゃんと付けてる。ってことは、もともと頭の中で物事が時間的順序に従って動いてる、なんていう証拠はないんだ。数学に例えると分かりやすいかもね。注目のBLOGはここでチェック!
2004年10月10日
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夢の話が以前出てたね。遅ればせながら、ぼくもちょっと考えてみたので書いてみるね。感心したのは、みんなよく夢のことを覚えてるなぁってこと。ぼくも夢は見ているはずなんだけど、起きたときにほとんど記憶がないんだ。そうとうリアルな寝言を言ってるらしいので、夢は確実に見てるはずなんだけど。(笑)ただ、養老さんの本を読んでいて、あぁそうだなぁ・・・と思ったことがあるんだ。こんな夢を見た、あんな夢を見たっていう人、とても多いよね?でも、それってほとんど信用できないって話。起きた瞬間からアレンジし始めちゃうからなんだ。ストーリーにした瞬間に、それは意識が作ってるからなんだね。そういう風に夢を見たっていう証拠は何もないんだ。臨死体験も夢も、みんな同じだね。明晰な意識が明晰でない意識を語っている。だから、本来そんなものは語れるはずがないんだ。語っているのは意識だよね。その意識が違っていたんだから、物語を作ってるんだ、自分で。人気BLOGランキング
2004年10月08日
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人気BLOGサーフはここでチェック!頭を使って仕事をする。頭を使って遊ぶ。これってけっこう他大変なことなんだ。いろんなことがマニュアル化されるのは、そういう理由からなんだよ。大抵の人たちは、流れ作業であまり考えずに物事を済ませたいと思ってる。マニュアルを作る側もそういう働きを持たせるんだ。失敗やミスを少なくするために、或いは問題解決やトラブル処理にもあまり時間を費やしたくないとか、流れ作業的に処理したい なんてね。でも、こういうマニュアル化は人から知恵を奪ってしまう。知識と知恵は違うからね。知恵や工夫のないところに、進化・成長はないんだ。停滞があるだけ。そういう意味で、安定=停滞 ともいえるんだ。考えること、頭を使うこと、これはチャレンジなんだ。変化を自ら求めるってことでもあるね。これは本当に苦痛を伴うことなんだ。特に訓練されてない、してない人には。そう、習慣にしてない、なっていない人にはね。
2004年10月06日
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注目のBLOGはここ!人間にとって、頭を使うことが一番のハード・ワークなんだ。このサークルのテーマでもある、なぜ?なんで?どうして?こういう問いかけを始終するのって、ある意味苦痛だよね。だから人は大人になるにつれて、自分を追及したり、小さな疑問に対して考えることをやめるんだ。いろんな理由をつけてね。大抵の人たちは「安定」を望むよね?でも、安定ってなに? にすぐさま答えられる人っているかな?ぼく流に言うなら、安定=自分の人生を安く定めること 頭を使わなくても済むように生きること。ものごとを深く追求したり探求したりしなくなることちょっと厳しいかな?高度成長時代の日本や世界の文明の進化は、安定を目指したはずだよね?でも、その安定が、本当に人に幸せをもたらしているのかな?ぼくにはとてもそう見えないんだけどね。
2004年10月05日
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嫌なら、ダメなら、転職すればいいし、フリーターでもいいし・・・。そういう感覚でいられる人達には、好きなこと=仕事 に直結しないんだ。むしろ好きなことは別に取っておいた方がいい。そう考えるのも自然なことなんだ。でも、もし自営業や経営者がそんなことを言うようだったら、その人はプロじゃない。(ただし、深く掘り下げるとそうじゃない場合もあるけどね)というより、本気で取り組んでない人だね。自営業や経営者が簡単に転職??おかしいよね?業種業態を簡単に変えてしまうようでも困るしね。ただね、好きなことをやっている人たちも、通過点、プロセスにおいては、嫌いなこと、嫌なことでも頑張れるし、耐え切れるんだ。矛盾してるように見えるかもしれないけど、そうじゃないんだよ。例えばね、プロ野球やJリーグの選手たち。みんな、ランニングやウェイト・トレーニング、やるよね?でも、そういうトレーニングが大好きだなんていう選手は多くないよね?それでもやるのは好きなこと、一番好きなことで食べていくためには必要なことだからできるんだよ。
2004年10月04日
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人気BLOGランキング例えばね、プロ野球選手にインタビューしたとしようね。「野球とゴルフ、どっちが好きですか?」10人に聞いて、10人が野球って答えるんじゃないかな?「本当はゴルフが好きだけど、とりあえず野球をやってるんだ・・・。」なんていう選手がいるかな?プロ野球選手の多くは確かにゴルフもやるよね?でもそれは、息抜きだったり付き合いだったりなんだ。野球よりゴルフが好きなら、ジャンボ尾崎のように、さっさとそっちをやってるはずだよね。プロ意識の強い人、独立心の強い人は好きなことを最優先する傾向が強いんだ。そう、想いが強い人はそういうチョイスをすることが多いんだ。そういう人達は、本気で好きでやれることじゃなかったら、やってられないよね?リスクも大きいことを知っているからね。
2004年10月02日
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人気BLOGはここでチェック!「好きなことは仕事にしない方がいい」この選択をしてる人は、概ねサラリーマンやOLだね。被雇用者、或いはそういう志向を持っている人達。こういう人達は、大抵「他人の意思」に従っている人で、自分自身で仕事を仕切れないし、会社の方針や上司の指示が最優先される環境にいるんだ。納得のいかないことでもやらなければならないことが大半だから、好きなことを仕事にしてしまうとストレスの塊りになっちゃう。自分では「この商品、この製品の方が好い!」と思っていても、そうじゃないものを取り扱うことが多い。趣味嗜好品なんかを扱う場合、特に顕著に表れるんだ。自分の価値観と合わないものでも、大した思い入れがなければ納得も行くかもしれない。でも、そうじゃないときは辛いよね?だから自然と、そういう答えを選んでる。「好きなことを仕事にすべし!」こっちを選んでる人たちは、自営や経営をしている人たちが多いね。或いはそういう志を持っている人達。好きなことをしたらいいし、自分で決めて仕切れる人たちだからね。そのことで失敗しても、自分で責任を取れる。誰にも気兼ねする必要がないんだ。だから自然とそういう答えが多くなるんだね。
2004年10月01日
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注目のBLOGはここ!沢山の人と会って話したりするとね、必ずこのことに目が行くんだ。この人は好きなことを仕事にしてるかどうか?ってね。まさに「遊び」にも通じるテーマだよね。大きく分けて、この問いには二つの答えが返ってくるんだ。1. 好きなことは仕事にしない方がいい2. 好きなことを仕事にすべしちゃんと観察するとね、この二つの答えの違いは、まさにその人の環境や価値観、どんなスタンスで生きているかが分かるんだ。いつもいうように、そのこと自体に善い悪いはないからね。そういう善悪とは無関係だよ。
2004年09月30日
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みんなは好きなことを先にする?それとも後にするかな?好きなことを仕事にする?それとも、好きなことは仕事にしない?単純な問いかけだけど、これも多くのことを教えてくれる問いなんだ。
2004年09月29日
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先日NHKで見た番組のダイジェストです。この教訓は、「何かを目指している人」、そして日々一生懸命生きている人、或いはどん底で喘いでいる人にも是非読んでもらえたらいいな。(^^)文章は、ぼくが主催しているMLのひとつの参加者のものなんだ。最大のピンチ、最大のリスクが最高のメリットに進化する「野生での事実」です。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ライオンはサバンナの中で群れをなして生活しています。一般的な群れは複数頭のオス・メスライオンと、その子供達。一定の均衡を持ちながらも群れ毎にテリトリーを持ち、生活しています。そんな中、メスライオンがたった一頭、その子供が五頭いる群れがありました。もともとこの群れには、メスライオンが二頭いて、テリトリーも持っていたのですが、ある日、一頭のメスライオンが急逝してしまった為、持っていたテリトリーを他の群れに奪われてしまいました。ライオンにとってテリトリーとは、乾いた喉を潤す水場、空腹を満たす狩場、厳しい暑さから身を守る木陰など、生きていく上でとても重要なものです。そこに侵入する輩は、たとえライオンに危害を加えるつもりがなくても、厳しい洗礼を受けます。時には相手を殺す事もあります。その対象はライオンであっても同じなのです。ある日突然、それを失ったメスライオンとその子供達。水場も木陰も狩場もほとんどない、サバンナの中を彷徨う事になったのです。自分の子供達を守る為、メスライオンは全てにおいて慎重にならざるを得ませんでした。行動は全て夜。水場は既に他の群れのテリトリーとなっている為、そのライオン達に気づかれないように夜の闇にまぎれて水場に行き、喉を潤すのです。それでもテリトリーのライオンに威嚇されれば、潤している途中であっても退散しなければなりません。狩りもそうです。ライオンの狩りの成功確率は20%と言われています。他のネコ科の動物(ヒョウ・トラなど)に比べれば大きな体を持つ分、足が遅く、狩りを失敗する事が多いそうです。それでもライオンが百獣の王として君臨できているのは、狩りを失敗してもすぐに狩りをする事ができる持久力、一度食事をすれば何日も生きることができる体、そして、一度に自分よりも大きな獲物を倒すことができるパワーを持っているからです。その狩りの確率も、テリトリーを持ち、複数のメスライオンが存在しているからこそできるものなのです。なぜならば、群れが持つテリトリーには水場があります。乾燥地帯のサバンナには、水場は限られた場所にしかありません。サバンナに生きている動物達はその水場に集まり喉を潤します。つまりテリトリーを持っていれば、獲物には困らないのです。また、狩りをしている最中、外敵から子供達を守る為、子供を別の場所で子守りするメスライオンが必要です。狩りにも集中出来ます。複数のメスライオンがいるという事はとても大切なのです。テリトリーも持たない、メスライオンが一頭しかいない群れにそのような狩りは無理です。獲物に自分を察知されないようにする為、昼間の狩りはできません。子供達を外敵から守る為には、子供達も一緒に狩り連れて行かねばなりません。でも、子供達はまだまだ未熟。メスライオンがじっと狩りのタイミングを見計らっていても、子供達は我慢しきれず飛び出し、狩りの邪魔をしてしまうのです。それでも生きていかねばならないメスライオンの群れ。。。とある日、メスライオンは空に舞うハゲタカを見つめ、舞い降りた場所に走り出しました。ハゲタカがいる場所には動物の死体があります。既にハゲタカが口をつけているその獲物を持ち帰り、食料としていたのです。別の日には、狩りの際にやっぱり我慢しきれず飛び出す子供達。でもメスライオンはじっとその様子を観察し、子供達に気づき逃げ出そうとする獲物を持ち構えて狩りを成功させたのです。そして、ライオンの群れにとって脅威なものがあります。それは群れに属さない放浪しているオスライオンです。「ライオンの子殺し」という話は有名ですよね。オスライオンはより多くの自分の子孫を残すため、メスを見つけると、そのメスの子供を全て殺し、自分の子孫を残そうとするのです。そこで群れのオスライオンが登場するわけです。群れのオスライオンの役割は、放浪しているオスライオンから群れを守る事。時には命をかけて群れを守ろうとします。もともとメスライオンが二頭いたのに、一頭が急逝してしまったのは、放浪しているオスライオンから群れを守る為でした。そんなメスライオンの群れに、放浪しているオスライオンが近づこうとしていました。子供達の危険を察知したメスライオンは、子供達を連れてそれまでいた場所から去って行きました。数ヵ月後、そのメスライオンと子供達は、驚くべき成長をしていました。数ヶ月前にはメスライオンの後ばかり歩き、狩りではメスライオンの足を引っ張ってばかりいた子供達。それがメスライオンの前を行くような勢いで自ら獲物を探しています。狩りも我慢する事を覚え、子供達だけでも成功するようになっていました。普通に群れの中で生きている子供のライオンよりも、あらゆる面において数倍早く成長していたのです。それは、テリトリーを追われ、群れのようで群れでないという厳しい中で生き延び、成長したライオン達の姿でした。まだテリトリーは持っていないメスライオンの群れですが、近い将来、自らの力でテリトリーを奪回するでしょう・・・。
2004年09月27日
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ここのBLOGで紹介されちゃったので、ってわけでもないけど、クソガキどもを糾弾するホームページと、まぁ似て非なるサイトで本当に出会った怖い話について。どちらも実際に起きた事件や犯罪を取り上げたサイトで、どちらもある意味2CHよりも有名?だよね。特にクソガキ・・・の方は、少年犯罪加害者の顔写真から本名、住所、電話番号にいたるまで公開しちゃってる、2CHでさえネタ元にするサイトなわけなんだ。ぼくもこのサイトはかなり前から知ってはいたよ。けれども、特段人に紹介したこともなく、ネタにしたこともなかったんだ。。(今、その禁断のリンゴを齧っちゃったけどね)告発系のサイトは珍しくもなく、どの国、どの民族もスキャンダルやゴシップは大好きですから、アクセスアップにはアダルト系と並んでもってこいのネタなわけ。特別そうした意識がなくても、間違いなく「釣れる」ネタなので、あちこちのサイトやBLOG、大型BBSなどでは、このテのサイトが取り上げられたりするわけなんだ。んで、また一応「事実に基づいた」とかサイト・オーナーなりの「正義感」による、人の感情に訴えかける主題なので、議論も白熱するんだよね。当然、TBやレスも自然と増えるんだよ。「事件モノはアクセスが増える」と吐露しているサイト・オーナーも少なくなくて、、実際そうなるよね。断っておくけど、それが善いとか悪いとかの問題じゃないんだ。人は自分の世界観に照らし合わせて考えたり行動するとき、間違っていることはひとつもないからね。んで、ぼくがこうしたサイトを観たときに、どんな感情を抱くかというと・・・。「あっそ、そうなんだ」なわけ。想像するのが簡単なのね。仮に自分が被害者だったら・・・。どんな手段を用いても、そいつをぶっ殺す!多くの被害者たちのように、ぼくは大人しく泣き寝入りなんて絶対にしない。自分の最愛の人が、理不尽に奪われたり傷つけられたら、黙って警察、検察に任せ、裁判で裁かれるのを待つ?まっぴらゴメンなんだ。ハイ、この時点でまさしくぼくも加害者の仲間入りだね。世界の法治国家が人を裁くとき、最高刑は「死刑」だよね?死刑を覚悟しさえすれば、人は何をしてもいいってことでもあるんだ。自爆テロが無敵なのは、そしてなくならないのは、そのためだよ。誰にも止められないし、、世界の平和主義者?が望むような改心もしなければ反省もしないんだよ、そういう人たちは。後悔なんてものとも無縁だよ、当然ね。なぜかって、簡単さ。「信念」、つまり信ずるところがまったく違うんだから。人は何から何かを守ろうとするとき、最悪に凶暴化する。どこまでも凶暴になれるし、鬼畜にでも悪魔にでもなれる。イギリスのある動物園には鏡が置いてあり、こういうコメントが書かれてるんだ。「世界で一番凶暴な動物」今のアメリカも北朝鮮もイラクもイスラエルも同じだね。それぞれの「正義」を貫き守るために、ああやって戦争をしてるのさ。罪のない人間が無事に済む戦争があるかって?あるわけないでしょ。この記事に結論はありません。落としどころもありません。それぞれの人が、それぞれに受け止めて感じることが結論だから。
2004年08月22日
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ほぼ一年放りっぱなしにしていたこのサイトだけど、もう暫くしたら少し復活するね。以前のように毎日・・・、っていうわけにはいかないと思うけど。(^_^;)何もしていないサイトにアクセスしてくれている皆さん、ありがとね。(^^)
2004年06月23日
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却って同質だと思えるものの方が、反発しあうってこともままあることだよね。まるで磁石の同極のように。でも人は磁石じゃないから、同極が反発し合うのとは違うね。行動や態度、姿勢、言葉や外見、そういったものの中に、自分自身とよく似た嫌な部分を見てしまう・・・・。すると、自分を肯定したい気持ち、感情が先ずは異質だっていう判断をするんだ。でも、よくよく考えたら自分と似た部分だった・・・。なんてこともよくあるよね。逆に、好ましい部分は異質であるにも関わらず、同質であるかのように受けとっちゃう。こう考えると「自分の都合 相手の都合」にも通じてくるよね。自分に都合の良いものは好ましく思うし、そうじゃないものは・・・。視点の違い、これはとても大切なことなんだ。
2003年10月24日
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全体は一部の集合。その一つ一つ、或いは一人一人が同質である必要はないんだ。むしろ異質なもの、異質な人の存在が自分自身を考えたり、進化・成長させる鏡のような存在なんだ。すべてが自分と同質であったら、何かを考える必要はないよね?そこには何の気づきも発見もないし、変化もない。喜怒哀楽なんていう、感情の動きもない。同質であるがゆえに、すべてが自分自身と同じだから、すべてを理解できるってことになる。理解できているものに疑問の余地はないからね。これではあらゆるものが創造性を持てなくなってしまうんだ。再創造することすらできないってことになる。明らかに生命の原理原則に反しちゃうんだ。異質なもの、異質な人に出会ったときの不安や恐れ、違和感や嫌悪感、或いは逆に新鮮さや輝き、楽しさや悦び、これはすべて感情から来るもの。その感情が好ましいものであっても、逆に嫌なものであってもそのこと自体に不自然さはないんだ。こういうときに役立つのが、かつて話題にした「感情のコントロール」
2003年10月23日
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どんな社会でも必ず起きる問題が、縦割りの人間関係についてじゃないかな。いわゆる縦社会、年功序列、先輩後輩なんていう関係。年齢や勤続年数なんかもそうだね。男と女、これもそうなんだ。多くの人たちが一番誤解しやすい部分が見え隠れする部分だよね。人間として、人としては対等だけど、それを同質だと考えてしまうところに落とし穴があるんだ。大抵の人たちは、心のどかで人は皆 対等=同質 って捉えちゃってる。でもこれは間違ってるんだ。もうひとつの落とし穴は、異質であることは自分とは無縁の人、他所の人、無関係な人っていう観念に囚われていることだね。宇宙の原理原則、森羅万象のそれは、異質の集合体だよね。同質なもものの方が少ないぐらい。男と女の違い、これが一番分かりやすいんじゃないかな?「話を聞かない男 地図の読めない女」この本は、男と女の脳の違いを書いた本だよね。互いに異質なものだっていう認識が持てれば、無用なトラブルは未然に防げる。思い煩うことも少なくて済む。そんな内容なんだ。このことは、どんな人間関係にも言えることなんだよ。
2003年10月22日
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PCの文字変換、これも典型的にバイアスをかけてるよね?使用頻度でバイアスがかかってる。コンピューターって、この文字が好きなんじゃないのぉ??なんてことあるよね?客観的に見える機械でも、明らかに主観的になってるんだ。人間が作ったものだから、自然とそうなるんだね。
2003年10月15日
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好きな食べ物を二つ、左右に置かれたら、どっちを取る?右利きの人は右を、左利きの人は左を取る?それはともかく、事前に脳が決めてるんだ。こんなことを考えると自分自身の見方が変わっちゃうよね?一目惚れは分かりやすいよね。「あばたもえくぼ」とはよく言ったもので、こういうときに人は表面的に理屈でこじつけるんだ。ぼくは(わたしは)この人のこういうところが好きになって、云々かんぬん・・・・。自分が決めたと思い込んでるよね?でも、実は今自分がとらえているところの自分以前の自分の方が、取り決めで、ピン!とどっちかに決めたわけなんだよ。ってことは、自分っていうものの概念が違っちゃうよね?好き嫌いの理由っていうのは、後付けの理屈なんだよ。
2003年10月14日
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バイアスっていうのは、偏りのことだよね?感情っていうのも、ある種そういう役目を持ってるんだ。というより、そういう機能をしてるんだ。どっちも好き出し、どっちでもいいや・・・じゃ困るんだ。逆に、どっちでもいいし、どうでもいいから先ず決めちゃえ!っていうのが感情なんだ。だから感情が理屈じゃないのは当たり前なんだよね。「バカの壁」の著者の養老さんによると、Y=AXのときのAだって説明してるね。Xが入力でYが出力だから、Aを大きく掛けておけば、入力が小さくても出力が大きく出るよね?それが「一目惚れ」の場合。A=一億とかにしておけば、Xに1入れても、Y=一億になっちゃう。即気に入った!っていう・・・。(笑)何が、どこが気に入ったの?って聞くと、わけのわからない無茶苦茶なことを言ったりね。ってことは、バイアスをかけてるってことなんだ。バイアスがかかってない計算装置、例えばPCもそうだけど、これは完全にニュートラルに計算をするんだ。ニュートラルな計算は、対称形の問題を出すと止まっちゃう。ひたすら動いてるんだけど、答えが出ないんだ。
2003年10月13日
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四足の動物にも右利き、左利きはあるらしいんだ。歩き出すとき、どっちから先に出すっていうのはね。そうじゃないと歩けなくなっちゃうんだ。考えて、「え~っと、、、どっちからだっけ??」(笑)でも、これってけっこう重要な問題だよね。普段、気にもしてないけど。価値判断の問題なんだけど、右か左かを決めておかないと、対称形は迷ってロックされちゃうんだ。だから何かを選択したり決断するときに、どっちがいいかっていう計算、つまり理屈でやっていると、答えが出ないことの方が多い。少なくとも急場には間に合わない。生き物は生きていて、進行形だからね。だから計算装置は、必ずどっちかにバランスをかけておくんだ。そうしないと、いつまでも計算していて答えが出ないんだよ。
2003年10月07日
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なんで利き手、利き足ってあるんだろね?答えは、それがないといざっていうときに困るから。(笑)いざっていうときにね、どっちが出るかっていうことをあらかじめ決めてるんだ。例えばね、もし何かあって逃げ出そうとするときに、足が両方一緒に出ちゃったらカエル飛びになっちゃうよね?だから何も考えないでいると、いつも出る足は決まってるんだ。無意識の領域でね。本来、夫婦の役割分担なんかもそうなんだ。そのつど、この問題は、亭主が決めるべきか、女房が決めるべきかって議論してたら大変だよね?晩御飯をいちいち家族会議で民主的に決めようなんてしないよね?(笑)人間は左右対称だから、両方同じに動かしてたら、行動様式が変わっちゃうんだ。でも、利き手、利き足がもしなかった場合の思考原理やそこから派生する行動様式がどうなってるか考えるのは面白いかもね。以前話題になった、「もし食欲がなかったら・・・」なんていう想像と似てるね。
2003年10月06日
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哲学には「腹の減ったロバ」っていう例え話があるのを知ってるかな?干草の山が二つあって、その前にロバが立っていると、ロバはどっちを食べていいかわからずに飢え死にしちゃう っていう話なんだ。以前トピにした「選択と決断」にも通じることなんだけどね。これってロバがバカなんじゃなくて、計算上の問題なんだ。両方の干草が、ほとんど同じ状態だとすると、どっちへ行っていいかっていう結論が出なくなっちゃうんだ。どっちが遠いか1cmも違わない。どっちが量が多いか1gも違わない。なんてことを行かないで測ってる。しょうがないから、どっちに行く道がデコボコしてるか、そんなことを調べてるうちに、腹が減って死んじゃう。「選択と決断」、「想いと考え」、「感情と理性」なんかにもリンクする話なので、これからまたいろいろ書いてみるね。
2003年10月04日
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こうやって考えていくと、第一印象だけじゃなくて、人の印象っていうのは、必ず他者に向けてのものだってことがよく分かるよね。先ず対象となる誰かに意識が行った後、それが自分自身のことに返ってくるんだ。「あの人はあんな格好をしてる、こんなもの着てる、持っている。」なんか派手だなぁ・・・地味だぁ・・・キレイだなぁ、汚いなぁ・・・さて、自分はどうだろう・・・。ってね。人に見せたい、見られたい意識がファンションなんだ。だから、何も評価の対象にもならない場面や場所でなら、そんなものを気にする人はいないんだ。ってことは、どんなにマイペースで自侭を通している人でも、その人が社会生活を営んでいる限り、外見を含めた「印象」っていうものには意識があるってことだね。
2003年10月01日
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少し前に、紳士服の青木のCMで、「初めてなんだから、格好から入ったっていいじゃないか」なんていうのがあったよね?ちょっと矛盾するかもしれないけど、何か新しいことを始めるときや、仕事なんかで新人のうちは、逆に高級品は役立つことも多いんだ。会社のユニフォームや背広は、いわば戦闘服。だから比較的地味だったり、チャーミングなものが選ばれ安いよね。ユニフォーム(制服)の場合は、社員が皆同じものを着るわけだから、会社の個性や印象付けの意味合いが強い。そういうこともあって、プライベートなファッションで個性を発揮しようとする人も多いのかもしれないね。自分自身の心の強さや、人としての強さが未熟なうちは、そういった着るものや身につけるものに多少拘っていいんだ。心理的な弱点をカバーする程度なら、大いに活用するといいね。でも、いつまでもそれに頼ると・・・。さっきの投稿みたいになっちゃうんだ。気をつけたい部分だね。
2003年09月28日
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ブランド品や車、そういったマテリアルが大好きな人って沢山いるよね?マニアックに凝ったりはしないけど、ぼくも嫌いじゃない。ただ、そういったモノに頼って心の弱い人間になってしまうと、ちょっと問題があるかもね。例えば、宝飾品を身につけて人と会う。すると、相手はその「モノ」に意識が行くんだ。「凄い時計ですね・・・。」「凄い車だね!」相手はそれを身につけている人じゃなくて、先ずはその「モノ」自体の評価と意識が先行するんだ。ここで勘違いする人がとても多いんだよ。自分自身が「モノ」によって強くなった気になる。本当はその人が所持している「モノ」が評価されているだけなのに、自分自身の評価とダブらせちゃうんだね。これが人の弱さを加速させちゃうんだ。
2003年09月26日
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人の第一印象って、生涯に一度しかないんだ。二度も三度も第一印象があるなんて人は、存在しないよね?人の第一印象の90%が視覚で決まるんだよ。だから外見は大事だね。ただ、服装も含めて、ぼくが優先順位を置いているのは「清潔感」なんだ。これは単に汚れや匂いとかっていう物理的なことだけじゃなくて、心理的な「清潔感」も含めてのこと。地味だから、派手だから・・・なんていうことは、ぼくは無視してるよ。
2003年09月25日
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次に内側。もし被害者だったら。ぼくは冷静にはいられないだろな。どんな手段、方法を使ってでも相手を許さないだろね。あんな風にマスコミにコメントなんてしないだろうし、出来ないと思うんだ。増してや、理性的に法的に・・・なんてことも無理だろね。少なくとも頭の中では、相手を何百回も殺してると思うんだ。自分の死を覚悟すれば、それを妨げられるものは何もないからね。死刑を承知で報復するかもしれない。ただ・・・・。彼がやったことと同じことをやったとして、ぼくは彼の手を放すことが出来るだろうか・・・・。あの高さから落ちたらどうなるか・・・ぐらいの想像力は持っているからね。そのとき彼が必死で命乞いをしたら・・・。もう一度加害者としての立場に戻って考えたとき、償いって何だろうね?マテリアルなものならいくらでも償える。でも、そうじゃないものに対して、何が償いになるんだろね。12歳の子供に、それが理解できるんだろうか?45歳になったぼくにも、?マークが沢山ついてしまう。みんなはどうかな?
2003年09月24日
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って、ここまでは客観的に観たぼく自身の外側。で、内側を書いてみるね。もし加害者だったら。動機? そんなものってハッキリとしたものなんかないだろね。衝動の爆発、大人になった今ならそんな表現もできるかもしれない。でも、12歳に戻ってみて考えたら、大人が使うような言葉でハッキリ動機を表現することなんて出来ないな。昨日あたりのニュースでは、「イタズラしたかった、誰でも良かった」なんてことを言ったらしいけど、それも鵜呑みにはできないよね。半分は本当かもしれない、半分はウソ、或いは自分でも分かってないのかもしれない。分かっていることは、「自分は大人と同じようには罰されない」ってことと、被害者への僅かな心の揺れかな。「○○ちゃんの、お父さんお母さん、ごめんなさい。」そうも言ったらしいけど、本当に後悔してるかっていうと、そうでもないような気がする。人のオモチャを取り上げて壊しちゃった・・・程度の認識かもしれない。だって、社会と断絶された場所で調査を受けていて、被害者の両親や関係者の怒りや憎しみが直接届くところにはいないんだから。ここでも外側と内側だね。
2003年09月17日
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法律や仕組み、システムでは、被害者も加害者も救うことなんかできないんだ。それらがきちんと整備されて機能したとしても、何らかの助けにはなるだろうけど、救いにはならない。罪を犯した事実は消えないし、死んだ人間が生き返るわけでもないからね。ここでも法の内側と外側が存在するってことだね。そして、心を救うことができるのは、心だけなんだ。確実にいえることは、子供たちは大人をよく観察してるってことじゃないかな?今の子供たちは、いろんな情報を手軽に手に入れられる。テレビやネット、電車の中や街のオーロラヴィジョン、いたるところで情報が流れていて、いつでもキャッチできる。意識的にも無意識的にもね。で、そこで起きてることは、大人たちの欺瞞と矛盾に満ちた言動と、凶悪で醜悪な犯罪や事件。これは大人たちが思っている以上に子供たちに影響してるし、浸透してるんだ。大人たちがズルイことをすれば、子供たちだってズルくなる。大人たちが法律の網を掻い潜って犯罪まがいのことをしてれば、子供達だって、その真似事ぐらいはするからね。子供社会と大人社会の内側と外側、今ほど断絶している時代はないのかもしれないんだ。
2003年09月16日
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以前、「子供のための哲学対話」の中からダイジェストしたトピでも取り上げたけど、少年犯罪を法律の括りにフォーカスしても解決には至らないと思うんだ。仮に、少年法なんていう括りがなくなって、すべての犯罪は大人と同様に罰せられるようになったとしても、解決なんかできないんだ。だって、すべて物事には、内側と外側があるからね。「善いこと 悪いこと」のテーマで取り上げたこともあったよね。犯罪の低年齢化、これは大人社会の反映だ、ってことも以前取り上げた。12歳、中学生ともなれば、何をしたら犯罪で罰せられるなんてことはみんな知ってる。仮に小学生だとしても、中学年ともなればそのぐらの認識と判断力は持ってるんだ。で、学校とっていう社会の枠組みの外側と内側で、彼らは巧みにその違いを使い分ける術も身についてる。こうなっちゃうと、法律は何らかのペナルティを与えて、罪を犯した人間を裁くだけの機能しかないんだ。長崎の事件にしても、両親のコメントに象徴されてるよね。「頭では少年法の存在を分かってるつもりですが・・・」のくだりだね。
2003年09月14日
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犯罪の低年齢化。これは神戸の事件以来クローズアップされてる社会問題だね。そして今、長崎、沖縄で相次いで悲惨な事件が起きた。社会は「少年法」の在り方や、なぜ子供たちがこうも残虐な事件を次々と起こすのか、戸惑い、悩んでいるね。正直、ぼくもショックだったよ。ニュースやワイド・ショーでは、識者や専門家たちを迎えてしたり顔で討論してるね。動機は何?なぜこんなことが?テレビや新聞を見ていると、日本中でそんなことが頻繁に起きているような錯覚を覚えるけど、実際はどうかな?身近でそんな問題や事件って、そんなにも起きているのかな?どうやら、内側と外側っていう視点で考えるといいのかもしれないね。「バカの壁」は、ここにも存在してるんだ。
2003年09月13日
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いずれにせよ、ぼくたちがどう感じていようと、どう生きていようと太陽はほぼ決まった時間に東から昇って西に沈む。野生の動物達、人間も、そして大自然も、「時」を感じるようにプログラムはされてるね。犬や猫は、その寿命が10年から15年、人間は70年から80年。セミは地上に出て飛ぶようになっると、一週間から10日。でも、彼らはその寿命っていう「時間」を、短いとか長いとかなんて意識してないだろね。人間はそれを意識することができるんだ。だからこそ、時間価値を上げる=充実した人生 なんていうんだ。農耕時代と近代、現代、田舎と都会で時間感覚のズレがあるのはそういう「意識」の部分だね。時間にエネルギーがあるかどうかは別にしても、この「意識」には間違いなくエネルギーが存在する。ってことは、意識の中にこそ時間は存在するんだ。
2003年09月12日
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ぼくは今までの人生の大半を、「源流」としての生き方をしてきたんだ。つまり主体的な生き方だね。多くの場合、場面で従属的だったり、受動的な生き方を選択してないから、時間に対する感覚やその使い方も能動的なものになってるんだ。例えば出勤時間なんてものも、ぼくにはほとんどの場合で無関係で、好きな時間に好きなように仕事をしてる。時間に支配されちゃうんじゃなくて、時間をコントロールするんだ。感情のコントロールやお金に対する考え方も同じだね。ただ、何かを自分の習慣にしようとしてるときは別なんだ。多少の苦痛は伴ったとしても、決まった場所、決まった時間、こういう負荷を自分にかけていく。こんなときでも、誰かに決めてもらうんじゃなくて、自分で決めるんだけどね。やらされてる・・・じゃなくて、自分で決めてやる。時間も含めて、すべての物事に対して自分の尺度、物差しを持つことは大切なことなんだ。ただし、常にそれを修正していく謙虚さは大事だけどね。
2003年09月11日
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時間に対する感覚の違い、これはまさしく存在するよね。>私、「生き急ぐ」って必ずしもマイナスイメージだけだと思わないんです。 吉野さんのこの一文にも象徴されてるけど、「生き急ぐ」っていう感覚も人によりけりなんだよ。自分でそう思ってる人もいるだろうし、誰かがそう見えてるだけかもしれない。思考スピードや行動スピードにも反映されるんだ。速読、速聴なんていうプログラムは未だに人気だよね?これも時間の使い方ってものを意識したプログラムやカリキュラムだね。メールを書いたり、読んだりするスピードもそうなんだ。奥田民夫の歌もそうだけど、仕事を何もせずに生きていける人は少ないわけで、そうなると期日や期限のない仕事はないから、「時間に追われる」っていう感覚は大抵の人が感じてるものだね。でも、これって克服できない問題じゃなさそうだね。
2003年09月10日
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そもそも「時間」っていうのは、人間が作り出した概念のひとつだよね。カレンダーや時計なんてものがなければ、人は時間なんてものを今ほど意識はしないはずなんだ。それでも太古の昔から、太陽や月の動き(地球の動き)を見ながら、「時間」を考えていた人たちは多いね。「時間」っていう概念は、概念そのものよりも、感覚としての「違い」も生み出したんだ。人によって、1分、1時間の感覚は違うよね。或いは「時間」の使い方や過ごし方。「時は金なり」、「Time is money」、日本だけじゃなく、こういう言葉は各国に存在してる。これは単にビジネス上でのみ使われる言葉じゃないんだ。Money FreeTime FreeLife Freeこんな言葉もあるけど、「Time Free」が一番リッチなんじゃないかな。同じ1時間を、どんな風に使うか、過ごすか。これはとても大事なことだね。自分一人で使う、過ごすときと、誰か相手が伴う場合とでは、「時間」そのものの感じ方、使い方、過ごし方は大きく違うしね。アインシュタインの登場以来、「時間」という概念、観念は、三次元の上の次元を指す。四次元目の概念としてクローズアップされたわけだけど、自分自身を物差しの基準値にした「時間」との付き合い方をしたいものだね。「時の間」と書いて時間。昨日と今日の間にあって、今日と明日の間にあるもの。すべては「今」ってことなんだ。誰かも書いていたけど、「今を生きる」っていう感覚はとても大切なんだ。すべては「今」起きている。
2003年09月09日
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このサークルやMLは、だからこそ参加者のスタンスや生き方、生き方の基になる考え方、観念、価値観が鮮明に出るよね。善悪や正義、間違っているとかいないとか、そういうことを含めて、すべては参加者一人一人の「今の姿」が浮き彫りになる。その人の意識のレベル、経験値までもがハッキリ映し出されるんだ。何かに対して、こう思う、こう感じる。そういったことが、その時々のその人たちの棲んでいる世界を如実に表すことになるんだ。そして他者とのコミュニケーションを通じて、或いはあらゆる知識や経験を通じて、物事には沢山の見方や捉え方、視点の違いで善悪や正義、常識なんてものが、まったく違った見え方になることを知るんだ。例えば、ひろさんはこう書いてる。「恋愛における愛と人間関係における愛と同じ次元で考えないほうがよいでしょうか?」まさしくひろさんの「今」を表してるよね?自分に疑問を投げかける形で締めくくられてるけど、明らかなのは、ひろさん自身の中では、恋愛と人間関係における愛は、一致しない・・・そういう「今」なんだ。これが自分は何者であるか、どうあろうとしているか、っていうことなんだ。当然のことだけど、いつも言っているように、だからひろさんが善いとか悪いとかとは無関係だよ。
2003年09月08日
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自分に自信がない人、何か問題提起があったとき、それに対する自分の考えや意見に確信がないとき、人は二人称や三人称を多く使うんだ。或いは、不特定の誰かに未確認、不確かな情報を流すときもそうだね。男って・・・、女って・・・こうこうなんじゃないかな・・・?彼が、彼女が、誰かが、何かがこういっていた、書いてた・・・。決して自分は、私は、ぼくは・・・ とは言わないし書かない。ぼくは、私は・・・と一人称を使うってことは、そこに責任が伴うからなんだ。でも、これこそが自分は何者であるか、どうあろうとしているか、今現在どんな自分か、過去どんな自分だったかを如実に表すんだよ。無意識にこうしたことをしている人が多いんだけど、これをコントロールする、できる人たちは、つまりは「感情をコントロール」してる人なんだよ。意図して意識して言葉を使うし、目的も鮮明だってことなんだ。不安定な生活や精神、心の人たちは、反応的な言葉をよく使うし、優柔不断で、なるべく自分が責任を取らないで済む表現を多用するね。だから断定的な言葉や表現は、極力抑えられた言葉使いになるんだ。逆に、主体的で充実した生活や人生の中にいる人たちは、客観的な説明以外では一人称を多用するし、割と断定的な表現が多いんだ。そう、つまりこういう人達は自分の言うこと、することに責任を持つ、或いは持とうとする意志をハッキリ出すんだ。何かに疑問を感じたときも、先ずは自分で徹底的に調べるんだ。それでも分からないときに、初めて他者を頼る。いきなり最初から他者を頼ることは稀で、そんなときは大抵疑問の出発点で、皆目見当がつかないときだけなんだ。コミュニケーションを通じて、疑問解決への糸口を見つけることが目的であって、誰かに問題を解決してもらうことが目的じゃないんだ。
2003年09月05日
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そうやって出来たコミュニティでは、「主役である自分」が、何をメッセージするかが次のミッションになるんだ。通常、管理人とかオーナーって言われる人は、そのコミュニティのカラーやルールを決める人だから、当然他の参加者の人よりも投稿や発言は多くなる。特にはじめの内はね。そう、ここでも自分が何をメッセージするかが大事なことなんだ。ネットは、ここでも大事なことを教えてくれてる。自分が作ったコミュニティも、クローズドで身内や仲間だけの参加者なら別だけど、OPENなところであれば、どんな参加者が入ってくるか分からない。匿名性も強い空間だから、相手を慮ろうにも、初期の時点では不可能なんだ。ここがひとつのポイントだね。こうして、自分が何かを投げかけることから、コミュニケーションが始まっていく。そして、やっぱり自分が、或いは他者がどんな言葉を使ってるかを観察することが、「今」の自分を如実に表すってことの意味を知ることになるんだよ。
2003年09月04日
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さて、コミュニティを作ったら、それをPRするよね? さっきも書いたように、そこにサイトやコミュニティを作って 設置しても、誰かに知ってもらわなければ誰も訪れはしないよね。 そこで検索エンジンに登録したり、身近な人たちにその存在を 知らせるっていうプロセスが始まるんだ。 誰かや何かの支援、協力を求めることもあるよね。 つまり、「自分自身が何かしらのアクションを起こさない限り、 協力者も現れない」ってことだね。 より自分自身の目的やスタンス、表現したいこと、求めているもの、 そういった様々なことをハッキリと鮮明にしないと、協力者が現れても それを説明し切れない。 人間関係においても、何においても、この時点でつまずいてる人が 沢山いるんだよ。
2003年09月03日
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先ずは、サイトやコミュニティを作る。どんなタイトルにするか、どんな内容にするか、何を表現したいのか、つまり、目的と意図がそこに込められる。当然、どんな人たちと何を分かち合いたいのか、共感を持ちたいのかっていう、ターゲットも決まってくるんだ。自分で作らない人でも、誰かのコミュニティには訪れるよね?ここをROM禁止にしてることとも繋がるけど、誰かのサイトやコミュニティを訪問したところで、そこをROMしているだけなら、何も起きない。少なくとも「コミュニケーション」を前提にしているならね。(単なる情報収集や興味本位のROMなら話は別。)BBSに書き込んだり、メール交換したりすることで、コミュニケーション、つまり関係性が始まるんだ。そういう意味で、ネットは分かりやすいってことなんだよ。自分の存在を明らかにして、自分が何者であるかを告げて、何を目的にしているかをハッキリする必要がある。ハッキリしなくてもいいけど、するとそこにはハッキリしない人たちが集まることになるんだ。鮮明にすればするほど、それに共感した人たちが集まるんだ。勿論、批判的な人も集まるだろうけど、それも興味・関心を持っているという意味でなら同じことなんだ。
2003年09月02日
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その人が使ってる言葉やメッセージは、その人の「今」の位置を 如実に表すんだ。 こういうサークルやML、普段の会話をちゃんと観察していると、 それが面白いように分かるんだよ。 「人間関係って何?」にも繋がることだけど、つまり言葉やメッセージ って、相手がどう受け取るかってことはあまり重要じゃないんだ。 自分がどういう言葉を使って、どういうメッセージを発信するかが 大事なんだ。 こういうサークルやMLは、それが凄く分かりやすいんだ。 サイトもそうだよね。 サイトやサークル、MLに代表されるコミュニティは、ポツンと そこにあっても誰にも知られることはないよね? 作るプロセス、順序を考えると、とても分かりやすいんだ。
2003年08月29日
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パートナーになった二人は、一足す一は二より大きくなると期待したのに、二より小さくなってしまったことに気づく。一人でいたときよりも、自分が小さくなったと感じる。能力も小さくなれば、わくわくするような興奮も減り、魅力的でなくなり、喜びも満足も減ったと思う。それは彼らが小さくなったからだ。人間関係を築くため --- そして維持するため --- に、自分の大半を捨ててしまったからである。ほんとうの人間関係は、決してそんなものではない。だが、あなたが考えるよりずっと多くの人たちが、そういう人間関係を経験している。「神との対話」より
2003年08月27日
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第一に、彼らは相手を信じない。自分をあやつろうとしているのだ、何かをねらっているのだと考える(ほんとうに自分を愛してくれるはずがあるだろうか?そんなはずはない。きっと間違いを犯しているのだ。何か期待しているのだろう!いったい何が欲しいのだ?そう考える)。彼らは、ほんとうに自分を愛しているのだろうかと、くよくよと考える。そして、相手を信じられないので、愛情を証明しろと迫り始める。相手は愛していることを証明しなければならなくなる。そのために、ほんとうの自分とは違うふるまいをしなければならなくなるかもしれない。第二に、ようやく愛されていると信じたとしても、たちまち、いつまで愛してくれるだろうかと心配しはじめる。そこで、愛情をつなぎとめておくために、ほんとうの自分とは違うふるまいをしはじめる。こうして、人間関係のなかで二人とも自分を失ってしまう。自分自身を発見することを期待して人間関係を結んだのに、かえって自分を見失ってしまう。人間関係のなかで自分を失うこと ---- 人間関係が苦いものになる理由の大半がここにある。
2003年08月26日
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それはまた随分過激な教えですが・・・・よくよく考えれば、過激ではない。自分を愛していなければ、相手を愛することはできない。多くの人たちは、相手への愛情を通じて自分への愛情を求めるという過ちを犯している。もちろん、自分がそうしていると気づいていない。意識的ないとなみではない。精神の仲で、精神の深いところで起こっているだけだ。潜在意識で起こっていることだ。人は、考える ---- 「正しく相手を愛することさえできれば、相手は私を愛してくれるだろう。そうしたら、わたしは愛される人間になり、自分を愛することができる」と。これを裏返せば、愛してくれる他者がいないから自分を憎んでいる人が多い、ということだ。これは病 --- ほんとうの「愛の病」だ。この病にかかると、実は愛されているのに、それはどうでもよくなる。どんなにおおぜいのひとが愛を告白してくれても、満たされない。
2003年08月25日
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人間関係では、それぞれが自分のことを考えるべきだ。自分は何者か、何をするか、何をもっているか。自分は何を欲し、要求し、与えているか。自分は何を求め、創造し、経験しているか。そう考えれば、すべての人間関係はすばらしいものとなり、その目的に --- そして関係を結んでいる人間にとっても ---大いに役に立つだろう。人間関係では、それぞれが他者について心を煩わせるのではなく、ただただ自分について心をくだくべきだ。これは奇妙な教えに聞こえるかもしれない。あなたがたは、最も気高い人間関係では相手のことだけを考えるものだと聞かされてきたからだ。ところが、ほんとうはあなたがたが相手にばかり気持ちを向けること---- 相手にとらわれること ---- が、失敗の原因である。相手は何者か? 相手は何をしているか? 相手は何をもっているか?相手は何を言っているか? 相手は何を欲しているか?何を要求しているか? 何を考えているか? 期待しているか?計画しているか? は、相手が何者で、何をし、何をもち、何を言い、何を欲し、何を要求しているかはどうでもいいことを知っている。相手が何を考え、期待し、計画しているかはどうでもいい。大事なのは、その関係の中であなたが何者であるかだけである。最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ。
2003年08月24日
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あなたがたのほとんどは、人間関係を結び始める年頃には期待と、あふれる性的エネルギーと、大きく開かれた心と、性急ではあるにしても喜びに満ちた魂を持っている。それが40歳から60歳になるころ、(多くはこれよりも早く)、壮大な夢をあきらめ、高い希望を棚上げし、ごく低い予想に甘んじるか、まったく期待しなくなる。問題は、非常に根本的でシンプルで、しかも悲劇的な誤解にある。あなたの壮大な夢、気高い思い、そしてやさしい希望は、愛する自分ではなく愛する他者にかかわるものだという誤解だ。人間関係の試練は、相手があなたの思いにどこまで応えてくれるか、自分が相手の思いにどこまで応えられるかにある、と思い込む誤解だ。しかし、真の試練とは、あなたがあなた自身への思いにどこまで応えられるか、ということなのだ。人間関係が神聖なのは、最も気高い自分をとらえて実現する経験ができる、つまり自分を創造する最大の機会 --- を与えてくれるからだ。逆に、相手の最も気高い部分をとらえて経験する、つまり他者との経験のための最大の機会だと考えると、失敗する。
2003年08月23日
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相手はやがて、自分自身を救うために(そして関係を救うために)、 真の自分を取り戻そうとし、ほんとうの自分らしくふるまうようになる。 そうなると、あなたは相手が「すっかり変わってしまった」と言う。 人生に特別な相手が現れて自分が満たされたと感じる、というのは 非常にロマンティックだ。 だが、人間関係の目的は、相手に満たしてもらうことではなく、 「完全な自分」--- つまりほんとうの自分という存在をまるごと--- 分かち合う相手を持つことだ。 ここに、すべての人間関係のパラドックスがある。 ほんとうの自分を十分に経験するためなら、特別の相手を必要としない ・・・・ところが、他者がいなければあなたは何者でもない。 これが人間の経験の謎でもあり、驚異でもあり、いらだちのたねでもあり、 喜びでもある。 このパラドックスのなかで意味のある生き方をするためには、 深い理解とおきな意志が必要だ。 これができる人間は非常に少ない。
2003年08月22日
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人間関係の目的って何だろうね?「神との対話」から抜粋してみるね。人間関係の目的は、自分自身のどの部分を「明らかに」したいかを決定することであって、相手のどんな部分を把握し、つかまえておきたいかを決めることではない。人間関係の目的はひとつしかない。----- それは、人生のすべてに言えることだ。目的は、ほんとうの自分は何者であるかを決め、ほんとうの自分になること、それである。特別な誰かに出会うまでは、自分は「何者でもない」と思うのは、とても夢があるが、真実ではない。それどころか、そう考えると、相手にほんとうの自分とは違うあらゆることを強いるという、信じがたい圧力をかけてしまう。「あなたを失望させたくない」ばかりに、相手はほんとうの自分らしくない努力をし、自分らしくない行動をしようとして、やがてはそれに耐えられなくなる。相手は、あなたの期待を満たせなくなる。割り当てられた役割を演じられなくなる。そこで、恨みが生じる、怒りが湧き起こる。
2003年08月21日
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自分と世界との関わりの形って、皆が一様なわけじゃないよね?例えば、近頃は「SM」が流行っていたりする。「SM嗜好」なんていうと、まわりから変態扱いされちゃったり、異常だってみなされちゃったりする。マゾヒスティックな嗜好を持つ女性は、まるで痛みを快感に変化させることのできる特殊な人間みたいに思われちゃったりね。でも、そういう人って本当に特殊なのかな?「O嬢の物語」の主人公は、まさにそんな感じだね。本当は、心理的な快感の方が、むしろ強いんだ。だって、そういう人達も別の方法を選ぶことだって可能だからね。自分が世界のものであることを願っていて、SMはそのひとつの方法でしかない。目的は世界との和解で、世界との強い結合なんだ。SMっていう肉体的な方法をとってるけど、快感を欲しているのは精神なんだ。これって通常のセックスで悦びを感じてる人と同じ姿勢だよね?でも、人間はセックスだけにのみ世界との結合の快感を得るわけじゃない。仕事や祈り、奉仕や博愛、いろんなことで快感を得る。人間が年齢と経験を重ねるにしたがって、そのことを深く知り、快感のためのセックスを必要としなくなる。これは当然のことかもしれないね。
2003年08月20日
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セックスの快楽って、閉ざされた個人的なものなのかな?違うよね。世界との関わり合いがそこに表現されてるんだ。なんか大げさに感じるかもしれないけど、たとえ恋人と二人であっても、それは世界なんだよ。自分の外にあって自分に対するものが世界だから、その代表って意味で、恋人は自分の目の前にいるんだ。だから、恋人と別れたときなんか、すべてのものが意味を失ったように思えるし、世界のいっさいが自分から遠ざかったように感じるんだ。失恋の絶望は、世界に対する絶望なんだよ。恋人と上手くいってる間は、自分を取り巻く世界とも上手くいってるように感じるんだ。恋をすると世界がバラ色に見える・・・のはこのためだね。快感の秘密って、ここにあるんだ。今のありのままの自分が認められていること、それどころか、自分が世界から大切なものだとされていること、自分の言動が恋人という世界に受け入れられて、十分な反応が返ってくる、そういうことが快感なんだ。そういうものが、セックスに凝縮されて、強い快感になるんだね。
2003年08月19日
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