日本語はダメか2

日本語はダメか2

2011.06.14
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かかっていなかった)。
 感想を書こうと思ったが、気にかかっていることについて先ず整理しておきたい。

 あ、「かかっていなかった」は「上映されていなかった」と同意語。
「かかる」は、もともと「小屋がけをして芝居などを興行した」ことから。「小屋がかかる」「演舞場に若手歌舞伎がかかった」など。

「頼る」「世話になる」などの用法も。
「うつせみの世はうきものと知りにしをまた言の葉にかかる命よ」(源氏物語 夕顔)

 閑話休題。
<八百長問題>が何となく収まった、かのようだ。次の「本場所」の開催も決まった。
 だが、中国出身の関取・蒼国来などとの「訴訟」などが残っている。
 本当に「片付いた」と関係者は考えているのだろうか。
 どうも、「本音」は別の所にあるような気がしてならない。

 大相撲というものの根本にあるものは何か…それを飲み込まないでスモウを理解しようとするのは、ただただ着物を着て刀を差して「日本人だ」と名乗っているような空々しさに通じる…。
「文化と文明」というものをどれくらい考えているか、それによってスモウの<正体>への理解が深まるのではないか。

 これを端的に表現した言葉…司馬遼太郎の「アメリカ素描」の一節の言葉に凝縮されている。

「人間は群れてしか生存できない。その集団を支えているものが、文明と文化である。いずれも暮らしを秩序づけ、かつ安らげている。
 ここで、定義を設けておきたい。電話文明は「誰もが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、メール星通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。
 例えば青信号で人や車は進み、赤で停止する。この取り決めは世界に及ぼしうるし、げんに及んでもいる。普遍的という意味で言えば交通信号は手書きハート文明である。逆に文化とは、日本でいうと、婦人がふすまをあけるとき、両ひざをつき、両手であけるようなものである。立ってあけてもいいという合理主義はここでは成立しえない。不合理さこそ文化の発光物質なのである。同時に文化であるがために美しく感じられ、その美しさが来客に秩序についての安堵感をもたらす。ただし、スリランカの住宅にしょんぼりもちこむわけにはいかない。だからこそ文化であるといえる。…一部省略
 以上の事からいうとウィンクぽっそういう文化の蓄積とその共有が、自然とクニの形をとったのが、地上のほとんどの国の場合である。日本の場合、クールそのアンコという文化の上に、マンジュウの皮のように文明という法秩序がある。 … 以下省略」

 何にでも手を合わせることが出来る「イノリ」の心。
「八方美人」「二股膏薬」「日和見」「(傘の裏に書かれた)同行二人」「二人羽織」「牽強付会」「付和雷同」「優柔不断」「風見鶏」などなどは「融通無碍」という魔法のようなコトバの前で色あせる。
 大相撲を野球やアメフトやゴルフのようなスポーツと同じ観点からしか見られない、というのは、とても悲しく辛いことだ。「八百長」に触れる意見に含まれる白々しさや違和感。その騒々しさ。
 処罰だ処罰だと騒いだ報道の「単純明快さ」…。ホントに何か片付いたのか。  






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最終更新日  2011.06.14 07:39:41 コメントを書く


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