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山田維史 「ヴァン・ゴッホに変装した自画像」 1999年2月12日 紙に色鉛筆と油彩Tadami Yamada "A Self-Portrait Disguised as Van Gogh" Feb. 12, 1999Color-pencil and oil on paper
Jul 26, 2026
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山田維史 「笑う自画像」 1999年2月14日 紙に鉛筆、色鉛筆Tadami Yamada "Laughing Self-Portrait" Feb. 14, 1999. Pencil and color-pencil on paper
Jul 25, 2026
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昨年のことだが、大変人気があるという若い女性グループが歌うCDを頂戴した。TVの歌番組、特にアイドルと自称他称する若者たちの歌う番組を、私はほとんど観ない。別に嫌いなわけではない。私にはあまり好き嫌いがない。で、もらったCDのアイドルグループだが、私は知らなかった。 それはともかく、歌を聴いた途端に、メインで歌っている女性の日本語の発音が非常に汚らしいので、あきれてしまった。鼻濁音ができないのである。つまり、「ガ・ギ・グ・ゲ・ゴ」を鼻に抜いて発音できない。 文字で書きにくいけれど、「ンガ・ンギ・ング・ンゲ・ンゴ」と発音すると日本語がきれいに聞こえるのである。「日本語」は「にほん・ゴ」ではなく、「にほんンゴ」と発音するという具合だ。「外国語」は「ガいこくンゴ」である。 こんなことを書き始めたのは、じつは今夜、たまたまTVで「カラオケバトル」という番組を観ていたのだが、この番組で栄冠を獲得して来たという女性オペラ歌手が、やはり鼻濁音ができていなかったのだ。番組の主旨は、カラオケ機械の数字にあらわれる「歌唱力」を争うものだから、鼻濁音ができようができまいが関係はない。しかし、アイドル歌手とちがい、オペラ歌手が、しかもソプラノ歌手が鼻濁音ができないでは、これはだめでしょう。たしかに、鼻濁音になると声の張りが弱くなるかもしれない。が、もしも日本語でオペラのアリアを歌っている最中に、ことばの端々に「ガ・ギ・グ・ゲ・ゴ」とやっていては音が汚くなる。音楽的にはそれは「雑音」と言ってよかろう。 ずっと昔、名前を書くのは憚られるが、さる方が御結婚前に鼻濁音を習得される努力をされたと聞き及ぶ。美しい日本語で話さなければならない立場におられたからである。 ------大勢の前で表現しなければならないアイドルとかTVタレントが、鼻濁音ができないことに気がつかない、また周囲も気がつかないらしい現状を、どう考えれば良いのだろう。鼻濁音ばかりではない、いわゆるJ-Pops歌手たちの非常に多くが、女性も男性も、日本語の発音が汚い。気取りだろうか? そんなことを「格好いい」と思っているのだろうか? ことばの発音が汚いのは歌唱力とは別であろうが、歌手ともあろう者が、音に鈍感では、お話になるまい。それは「人気」とは別問題である。【後記】 上述の文章を音読した場合、たくさんの鼻濁音の箇所がある。 「昨年のことだンガ」 「人気ンガ」 「グループンガ」------挙げたらきりがない。要するに主格をつくる助詞「が」は、すべて鼻濁音で発音される。たいていの人は、無意識に正しく発音しているのである。
Jan 18, 2017
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山田維史 「落ちる」 2026年 ディジタルコラージュTadami Yamada "FALL" 2026, Digital Collage
Jul 23, 2026
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サッカーのW杯試合やその他の日本チームの対外戦において、日本の応援団が「オーオーオー」と声張りあげて歌う曲は、オペラ『アイーダ』のなかの行進曲のメロディである。これを応援曲とすべく創案した人が当然いるわけで、私も以前たしかテレビでだったと記憶するがその初めについて耳にしている。90分間の試合中に休みなしに「オーオー」と歌われるのは、サッカーファンとしてはどうも馴染めないのだが、しかし『アイーダ』をこんなふうに使用する発想には感心している。オペラ『アイーダ』を知らない人たちにもポピュラーな曲として忘れがたくしたのは、やはり功績というべきかもしれない。 ところで、映画『永遠のマリア・カラス』のなかでは、オペラのアリアや合唱曲がふんだんに使用されている。そして、私は、『カルメン』のなかの「トレアドル(闘牛士)の行進曲」が高らかに鳴りひびいたときに、ふいに私の母校・会津高等学校の『凱旋歌』を思い出したのだ。45年ぶりのことである。 その『凱旋歌』は、「トレアドル行進曲」のメロディを使い、歌詞をつけたものである。 強者等(つわもの ら) 強者 強者 強者 君が功はその胸に 輝けり 今ぞ 今ぞ 出で立つわれ等は 勝てり 勝利を告ぐる 閧(とき)の声 天下の粋(すい)ぞと 仰がれて 飯盛山の秋月高く 輝く選手のその功 フレー フレー フレ フレ フレー 会津高等学校・『凱旋歌』、ビゼー作曲・・・なぁんて、カッコウいいでしょう? そう思っているのは私だけかもしれませんが。 会津高等学校というのは旧制中学時代を含めると130年くらいの歴史があり、その旧制の校歌も残っているが、学校歌が私の時代で5つあった。たぶん現在も歌い継がれ、さらに新しい歌もできているであろう。校歌、学而会歌(一般の生徒会に当る)、第一応援歌、第二応援歌、そして凱旋歌。 『学而会歌』(1) 緋威(ひおどし)鎧う若武者が 春 紅(くれない)の花を浴び 黄金の甍 銀鞍(ぎんあん)に 右手を翳して 仰ぎけん (2,3番略) 『応援歌第一』(1) 秋秀麗の野を踏みて 重き使命の営みに 向うや若き一つ群 黒き瞳の輝きに 勝利の色の映ろいて 門出の曲に眉あがる (2,3番略) 『応援歌第二』(1) かの群小を凌駕して 美酒(うまざけ)酌みし幾度(いくたび)か 古き伝統(つたえ)の学舎(まなびや)は 今 一千の肩にあり あゝ貫かん 貫かん 栄(はえ)ある誉 我等また (2,3,4,5番略) イヤー、おぼえているもんだなー。それに、格調高い歌詞だ。 というわけで、映画『永遠のマリア・カラス』のなかの「トレアドル行進曲」を聞きながら、思いがけず45年前の高校生時代を思い出しながら、うかんでくる学校歌をくちずさんだのだった。
Apr 13, 2009
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ニューヨーク市の市長オフィスが、ゾーラン・マムダニ市長の次の演説動画を公開した。私はまったくマムダニ市長の主張に賛同する。この動画はAI生成ではない。YouTube NYC Mayor's Office ベンヤミン・ネタニヤフは戦争犯罪人である6月23日の国連人権理事会所属のパレスチナ領土に関する独立国際調査委員会の記者会見YouTube 国連がイスラエルによる対児童犯罪を詳細に報告
Jul 22, 2026
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山田維史 「青瓢箪の自画像」 1999年2月11日 紙に鉛筆、水彩Tadami Yamada "Self-Portrait as Green Gourd" Feb. 11, 1999. Pencil and watercolor on paper
Jul 27, 2026
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数年前にこのブログにカタカナで歌詞を書いた『釜山港へ帰れ(トラワヨブサンハンエ)』は、なぜか知らないが現在にいたるまで非常に多くの人がアクセスしていられる。チョー・ヨンピル氏が歌っていられるのを私が聴き取って書き留めた。韓国語の発音の難しさもあって、私が正しく聴き取っているかどうか心もとない。ブログに書くにあたって、日本でもヒットしたこの曲が、しかし原曲を編曲し、また、歌詞の真意とは異なることも示しておいた。 さてそんなことも踏まえて今日は韓国民謡『アリラン』の歌詞をカタカナで書いてみようと思う。日本でも多くの人が聞き覚えがあるだろう。NHKの歌番組でもキム・ヨンジャさんが韓国語でうたったり、日本語に訳してうたっていられた。島津亜矢さんとデュエットもされた。また西田佐知子さんもレコード録音されていた。 ところで韓国/朝鮮民謡として有名な『アリラン』だが、非常に多くのヴァリエーションがある。地方性というべき違いだが、京畿民謡としての古典的な形や京城アリラン、珍島アリラン、軍楽ヴァージョンやオーケストラヴァージョン、そして今や世界的な人気グループBTSが歌う『アリランスリスリ』など、おそらく数え切れない程の地方性がある民謡のようだ。もちろんそれぞれ曲調も違うしメロディーも少しずつ異なる。 そんなわけで、私は歌詞を紹介しようと言いつつも、どのヴァージョンがもっともオーソドックスなのか判断できないでいる。韓国語を知らずに私の耳だけをたよりにカタカナで書こうというのだから我ながらあきれる。しかし無謀承知でやってみるのも、あるいは将来への突破口になるかもしれない。 長々と前置きをした。それでは・・・ 韓国民謡『アリラン』 アリラン アリラン アラリヨ アリラン コゲロ ノモカンダ ナルリ ポリゴ カシヌン ニムン シンミド モッカソ パルピョン ナンダ アリラン アリラン アラリヨ アリラン コゲロ ノモカンダ チョンチョン ハヌレ チャンピョルド マンゴ ヒネー カースメン ヒマンド マンタ アリラン アリラン アラリヨ アリラン コゲロ ノモカンダ カージャ カージャ ホーソー カージャ ヘクサン トルニエエ ヘジョムロ カンダ【別ヴァージョンの歌詞。「白頭山」を遠望している】 アリラン アリラン アラリヨ アリラン コゲロ ノモカンダ ジョギ ジョサニ ペックトサ(白頭山)ニラジ * トンジ ソッタレド ッコマンピンダ 【*注】白頭山は「ペックトサン」と発音するが、つぎの「イラジ」と連音化して「ペックトサニラジ」と発音している。韓国語のパッチムと言う規則によるらしい。 A few years ago, I wrote the lyrica for "Return to Busan Port (Dorawayo Busanhange)" in Japanese kata-kana on this blog. And, I don't know why, the article is being accessed by a large number of people to this day. I listened to and wrote down Cho Ypng Pil singing. Due to the difficulty of pronouncing Korean for me, I'm not sure if I'm listening correctly. When I wrote it on my blog, I also showed that this song, which was a hit in Japan, but arranged the original song, was not what the lyrics really meant. With that in mind, today I'm going to write the lyrics of the Korean folk song "Arirang" in katakana. Many people in Japan would be familiar with it. In theNHK song program, Kim Young-ja sang in Korean ortranslated into Japanese. There was also a duet with AyaShimazu. Sachiko Nishida was also recorded on vinyl. By the way, "Arirang" is famous as a Korean folk song, but there are so many variations. It's a difference oflocality, but there are probably countless numbers suchas the classic form of Gyeonggi folk song, and SeoulArirang, Jindo Arirang, military band version, and alsoorchestra version, and now the world-famous groupBTS sings "Arirang sseurisseurirang". It seems to be a folk song with locality. Of course, eavh song has a different tone and the melody is slightly different. That's why I'm trying to introduce the lyrics, but I can't tell which version is the most orthodox. I'm amazed because I'm trying to write in katakana without knowing Korean. However, trying it recklessly may be a breakthoroug for the future. I made a long introduction. Then ... Korean folk song "Arirang" Arirang arirang arariyo Arirang gogaero neomo-eoganda Nareui beorigo gasineun nim-eun Sib rido mot gaseo balbyeong nanda Arirang arirang aarariyo Arirang gogaero neomo-eoganda Cheongcheonhaneul-en changbyeoldo manhgo Uine gaseum-en himangdo manhda Arirang arirang arariyo Arirang gogaero neomo-eoganda Karja karja horso karja Hexan tornier hjomuro kanda【*Lyric of another version. Looking at "Mt. Baekudu"from a distance】 Arirang arirang arariyo Arirang gogaero neomo-eoganda Jeogi jeo sani- Baegdusan(Mt.Baekdu)-ilaji Dongiseolddal-edo kkochman pindaTadami Yamada
Jun 11, 2021
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過日、2月21日に岡山の西大寺会陽(裸祭)で怪我人が出て、お三方が重体と報じられた。続報がないので不明だが、ご回復されることを祈ります。 日本全国各地にいわゆる裸祭と俗称される祭りは数多くある。五穀豊穣や商売繁盛、あるいは家内安全等を祈願するものであるが、いずれも長い歴史を有する。真に伝統的な祭りと言ってよい。 西大寺会陽に関しては民俗学に数多くの研究があるが、日本スポーツ人類学会が発行する『スポーツ人類学研究』第20号に発表された瀬戸邦弘氏の論文「西大寺会陽と宝木争奪戦 ー 「御福」を中心とする地域とその身体文化」は、身体論の方向から西大寺会陽を通して日本人の身体観を論じていて私は注目している。 西大寺会陽に参加する裸男は約10,000人にもなり、投げ入れられた宝木(しんぎ)を争うさまはまさに怒涛の渦となる。怪我人が出た場合のいわば神託の解釈のような説明もあることが上述の瀬戸邦弘氏の論文に示されている。愛知県国府宮の裸祭は選ばれて神男になる人は、この人のみが全裸になるのだが、体毛をすべて剃り落とす。これは揉み合いになって怪我することを避けるためもあろうが、私は、いわゆる「生まれ清まり」と同じような意味の「赤子」の象徴的表現ではないかと推測している。 さらに私は、五穀豊穣祈願祭はすべて深いところで性神信仰と結びついてい、大地母神・豊穣神としての女性敬慕に結んでいる、と考える。裸祭が男主体のように見えるが、西大寺会陽が女性が太鼓を打ち鳴らすことから開始されることで明らかなように、男の威勢を掻き立てている女性の存在があるのである。 秩父猪鼻熊野神社の「甘酒こぼし」も珍しい裸祭であるが、私はここにも五穀豊穣と子孫繁栄を祈願する性神信仰が男性象徴として様式化されていると推測する。 裸祭のほかには、私は大相撲が伝統的には稲作民族の性神信仰と結びついていると思う。現代スポーツとなっている大相撲はその伝統がきわめて見えにくくなっているが、横綱の土俵入りの形式にはまだ名残の影のように見える。「さがり(垂)」のついた「綱」は、注連縄(しめなわ)であり、農作にもっとも必要な降雨祈願を表している。すなわち綱は雲であり、垂は雷である。また、化粧回をヒョイと持ち上げる所作は男性器を豊穣神に披露する象徴である。 ・・・先日、我が女性首相が「相撲の土俵には女性はあがれない。それを怒っていた女性政治家もいたが、これは男女平等とかそういう話じゃない。大切に守られてきた日本の伝統の話だ」と発言した(朝日新聞、2026年1月31日)。女性首相はかつての女性議員の抗議への反論でもあったろうし、保守主義者への政治的な配慮だっただろう。私の言う「五穀豊穣祈願と深いところで結んだ伝統」に首相が思い致していたとは私は思わないが、大相撲がなぜ女性が土俵に上がることを拒否しているかといえば、土俵そのものが稔りをむすぶ大地(女性)だからである。女性軽侮の思想ではない。土俵の上で「四股を踏む」所作はその大地へのいわば呼びかけであり、拝礼である。準備運動などではないのである。現代スポーツと芸能的興行とが交雑した今となっては、おそらく当の大相撲関係者もその伝統形式の象徴性を探求したことはないのかもしれない。 ところで岩手県の各地(現在は8~!0箇所)で正月過ぎ頃の一週間ほどにおこなわれる蘇民祭も、代表的な裸祭である。なかでも黒石寺蘇民祭は有名であるが、祭りの担い手がいなくなり2024年2月を最後に伝統は消滅した。この祭りはかつては参加者の男性が全裸であったが、近年は締込みがむしろ普通になっているようだ。じつは非常に古くはむしろ全裸ではなかったようなのだ。 なぜ褌をとって全裸になったか、現在の水沢市の妙見山黒石寺の蘇民祭について『菅江真澄遊覧記』の「はしわの若葉」の巻に次のように経緯が書かれている。菅江が同地の人から聞いた話なのであろうが、めずらしい話なのでここに引用する。 〈正月八日の祭は、(略)一番鶏の鳴くころ、その長さ三、四尺ばかりの、科(しな)の木皮の二重布でつくった長い袋のなかに、三、四寸ほどの木に書いた蘇民将来の神符千枚以上も入れて、その袋には蝋を流し、また油をぬって神武神仙の御前にそなえる。山伏が法螺貝を吹き、経をよみ、加持祈祷をして、その長袋を群集の中へ投げてやると、左右の二方にわかれて、素裸で褌もつけず出てきた若者たちが、その袋をわが方に取ろう、こちらに奪おうと上を下へと押しあい、もみあう。この争いで、むかし、褌の前垂(さがり)が袋の端にからみ、それを力まかせに捻あい、ひきあううちに、陰嚢(ふぐり)が破れて死んだ人がでたので、それから褌というものをけっして身にまとわなくなったという。この蘇民将来の神符をとれうことのできた組のほうは、その年の田畑がよく実るといわれる。夜もしらじらと明けるころ、袋をつかみ破り、また奪いとり持って、雪を踏み散らして駆けだし、小川の氷をふみ破ってとびこんで、淵に身を潜めようとするのを捕えてひきとめるなど、世にも珍しい争いの祭である。〉(平凡社版第2巻 51p.) 参加者が全裸になる経緯とともに、この祭が本来「五穀豊穣」を祈願するものだったことが述べられている。なお菅江真澄の同署には、奥羽地方一帯には性神信仰の男根石像を祀った祠が数多く存在すると書かれている。菅江はそれらに出会うたびに礼拝している。また、天明大飢饉の悲惨な様子を聞き取りしてい、具体的に書いている。菅江の旅の道中にもそのときの行き倒れ餓死した人骨や、家畜その他の動物の骨が草むらに転がっていたという。人々の五穀豊穣祈願は切実だったのである。 私の蔵書に日本全国の性神信仰の写真と図を添えた大判の調査研究古書があるのだが、今ちょっと取り出せない。【後記】朝日新聞2月28日(朝刊)によれば、西大寺会陽で怪我を負い重体となっていた三人のうちお一人の意識が回復したそうだ。
Feb 26, 2026
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WBC (ワールド・ベースボール・クラッシック)の決勝戦。USA vs ベネズエラは日本時間18日 (現地時間17日) にマイアミでおこなわれ、2−3でベネズエラが優勝した。史上初の快挙となった。ベネズエラは無論のこと、チャンピオン・カップが南米大陸にもたらされることも史上初めてである。 日本でおこなわれた準々決勝戦で日本と対戦したベネズエラ。連覇を期待された日本チームは、激戦の末にアクーニャ Jr氏の逆転3塁ホームランで敗れた。私は日本人として残念ではあったが、ベネズエラの勝利を祝して胸中でベイコクには負けるなよ、と声援を送った。 しかし、そのときベネズエラがほんとうにUSAと決勝を戦うとは想っていなかった。USAチームが勝ち進んで行くとも想っていなかった。ただ何はどうあれ主権国家の大統領を拉致してその国を攻撃したギャングライクな大統領の鼻をあかしてやれ、と思っただけだ。 決勝戦でベネズエラが3-2となり、USAを残り二つのアウトで押さえ込めば勝利となったとき、外野手であったアクーニャ Jr.氏がフィールドで泣きだすのが目撃された。グラブで顔を隠すのだけれど、あふれでる涙を抑えきれない。守備の構えをするのだが、涙がとめどなくあふれる。そのたびに目頭をぬぐっていた。 ・・・ロナルド・アクーニャ jr.氏はUSAで活躍するNLBのスーパースターであるが、準々決勝の対日本戦で山本由伸投手からホームランを奪ったのは彼であった。日本の野球ファンの中には複雑な思いでアクーニャ Jr.氏のグラブに髭面をうずめる姿を見ていたかもしれない。そしてベネズエラ選手たちの胸中には、言葉のどんな意味でも「国を背負っている」という思いがあったのではないか、と私は思った。スポーツに政治は持ち込まないことは、当然の原則としなければならないと思う。しかしながら、ほとんど妄想とも言える自己の物語に固執して世界で暴走する狂ったナルシストとその隷従政府にベネズエラは自国の主権を侵されて、純粋スポーツ精神などと言ってはいられまい。それは政治の問題でもなければ、スポーツ・オンリーの問題でもなく、心理学の問題だからである。如何?
Mar 18, 2026
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きのう抄訳して掲載したチャールズ・ラムの詩 "The Old Familiar Faces (昔の親しい顔)” を全訳してみた。 The Old Familiar Faces by Charles LambI have had Playmates, I have had CompanionsIn my days of childhood, in my joyful school-days ;All, all are gone, the old familiar faces.I have been laughing, I have been carousing,Drinking late, sitting late, with my bosom cronies ;All, all are gone, the old familiar faces.I loved a Love once, fairest among women :Closed are her doors on me, I must not see her ---All, all are gone, the old familiar faces.I have a friend , a kinder friend has no man :Like an ingrate, I left my friend abruptly ;Left him, to muse on the old familiar faces.Ghost-like I paced round the haunts of my childhood,Earth seem'd a desert I was bound to traverse,Seeking to find the old familiar faces.Friend of my bosom, thou more than a brother,Why wert not thou born in my father's dwelling?So might we talk of the old familiar faces.How some they have died, and some they have left me,And some are taken from me ; all are departed;All, all are gone, the old familiar faces. 昔の親しい顔 チャールズ・ラム遊び友達がいた、仲良しがいた子供のころに、楽しい学校時代に;みんな、みんな居なくなった、昔の親しい顔笑いあった、ばか騒ぎもした遅くまで飲み、夜更かしして、心からの親友と共に;みんな、みんな居なくなった、昔の親しい顔かつて恋をした、とびっきりの美人に彼女の家の扉はとざされ、会うことも許されなかった---みんな、みんな居なくなった、昔の親しい顔友達がいた、親切この上ない男恩知らずのように、私は不意に去ってしまった;別れて、昔の親しい顔を懐かしんでいるのだ幽霊のように子供のころの遊び場を歩き回ったその場所は砂漠のよう、私はめぐり歩いた昔の親しい顔をさがしながら心の友よ、君は兄弟以上君はなぜ私の父の家に生まれなかったのだ?そうすれば昔の親しい顔のことを語りあえたのにある者は死に、ある者は私から去って行き、またある者は連れ去られ、行ってしまった;みんな、みんな居なくなった、昔の親しい顔 (訳:山田維史)
Oct 4, 2012
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春寒し風邪ひき猫のくしゃみかな 青穹 子らのこえ風花舞ってちりにけり 鳴かぬなり庭に鶯きたれども 門とざし暮れ残る春の寒さかな
Feb 16, 2010
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地方の事情は知らないが、私が住んでいる東京について言えば、もうずっと以前から行商人が住宅街を売り歩く姿は見かけなくなっている。昨日書いた竿竹売や、秋から冬にかけて焼芋屋が小型自動車でやって来るくらいのこと。あるいはここ2,3年前から、やはり小型自動車に一式を設備したメロン・パン売りがスーパーマーケット等の敷地の一画で商いしている。 時代とともに商品が変わり、その販売方法も変わるのは当然である。だから江戸の昔とは言わず、明治・大正・昭和とかわるにつれて、町に流れる売り声にはおおきな変化があったわけだ。 時代劇映画が製作されることは劇場用にしろテレビ用にしろ稀になったが、現代人がこれらの作品でみるそれぞれの時代の巷のようすは、行商の売り声を調べてみるかぎり、実際とはかなりかけ離れていると私は思う。日本映画史のなかで、江戸や明治のころの巷の売り声を活写した作品は、もしかしたら一作もないのではあるまいか。そのような時代劇によって、時代風俗の誤ったイメージをあたかも正しい知識であるかのように蓄えているかもしれない。 それでは日常的に巷に流れていた売り声はどんなものだったのか、私の蔵書から抜き書きしてみよう。 江戸時代の売り声は、おそらく昭和にまで引き継がれたものはないのではあるまいか。小野武雄編著『江戸の歳事風俗誌』には次のような行商とその売り声を散見する。 春先にまずやって来るのが、〈花売り〉である。「花ィ、花ィ」。 〈桜草売り〉も「エー桜草や桜草」とやって来る。 そして5月の端午の節句のころは最も市中がいろいろな売り声でかまびすしい、と『国史大辞典』にはある。売り声は不明だが、菖蒲売りが軒端に飾る菖蒲と蓬を売りにくる。〈筍売り〉が「筍や筍、そらまめやそらまめ」と。 七夕がちかづくと〈七夕の竹売り〉が「竹や竹」と。御盆のころ、6月末から7月初旬にかけては、〈盆提灯売り〉が「ちょうちんやァ、盆ぢょうちん、ちょうちんや、ちょうちん」、7月10日前後には〈灯籠売り〉が来る、8日9日には魂祭の迎火用の〈苧殻売り〉が「おがら、おがら、おがら」と。〈間瀬垣売り〉が「まこもや、まこもや、まこも。ませがきや、ませがき」と。〈竹売り〉も「たァけや、たァけや、たァけや」と。間瀬垣というのは杉の青葉を竹に編みつけて垣のように作り、苧殻(おがら)で飾ったもので、魂棚を囲う欄にもちいた。竹売りの竹は、魂棚の四方に立てて紐を張り巡らし、胡瓜や茄子をつるしたのである。 売り声は不明だが、5月中頃から7月末にかけては〈朝顔売り〉が、また〈きりぎりす売り〉がやって来た。 10月の大伝馬町の市は「べったら市」といわれ、べったら漬をうる店が立ち並んだ。売り声ではないが、この市では「べったら、べったら」と商家の小僧が走りまわっていたという。浅漬大根を買ってくるように使いに出された小僧たちが、手に持った麹粕のついたべったら漬が混雑した往来の人の衣服を汚さないように、「べったら、べったら」と叫んだのだった。小僧たちが通るのを若い娘や婦人たちは「きゃあきゃあ」言いながら道をあけたのである。 そうして年の暮、〈煤竹売り〉がくる。それから、〈厄払い〉が「御厄払いましょ、厄落し。御厄払いましょ、厄落し」と、声たからかに言いながら町から町を渡り歩いた。 お年玉に扇を贈る習慣があったようで、その扇をうる〈扇売り〉は元旦の風俗。なかなか渋い声で「おうぎ、おうぎ」と呼びあるいた。染め浴衣に白脚半、じんじん端折りをした色男が売り歩き、呼び止められれば地紙をいろいろ見せて、希望の品をその場で折上げて売った。じんじん端折りというのは、爺端折りとも書き、着物の後ろ裾をはしょって帯に挟み込んだもの。いわゆる尻っぱしょりのこと。もちろん上品な着方ではない。場合によっては褌がチラと見えるようなこともあったのだろう。 江戸の町にはそのほか数多の売り声があったのである。いま述べたなかに現代人に馴染みの〈焼芋屋〉が含まれていない。焼芋屋がなかったのか? いや、江戸時代にもそれはあった。が、行商ではなかったのだ。その理由は防火のためで、江戸の町はとかく火事が多かったので、火をつかう焼芋屋は大通りのみに店を出すことを許され、しかも芝口から筋違橋門までは一軒も出店を許されなかった。燃料は、藁はだめで、薪のみ。芋は川越のものを使用したので、江戸の焼芋はウマかったのだそうだ。 焼芋屋が流しで商売するようになったのは明治になってからである。明治の行商とその売り声については、明治32年から35年にかけて3巻本として上梓された平出鏗二郎(こうじろう)著『東京風俗志』に詳しい。 焼芋屋、羅宇嵌替(らうすげかえ)、花屋、煮豆売り、昆布売り、蒲鉾売り・・・。 (羅宇すげかえと言えば、昭和50年ころまでだったと記憶するが、浅草の仲見世の路地あたりで見かけたことがある。ラオ屋とも言った。ラオというのはラオスから渡来した黒斑竹を云い、キセルの火皿と吸い口をつなぐ竹管のことである。また、同じころ、同じ浅草でシン粉細工屋も見かけたのを思い出す。) 東京の朝は、朝餉の惣菜売りの呼声でにぎわった。先の煮豆売りのほかに、納豆売り、佃煮売り、漬物売り、煮染め屋、仕出し屋、肴屋、八百屋、七色唐辛子売り、鹽屋、蜆売り・・・等々。「声高らかに呼ばわりて振売さえしてありけば、三度の惣菜も坐(い)ながらに調え得べく云々」と『東京風俗志』は記す。 〈豆腐屋〉の売り歩きも登場するが、当時はラッパではなくて鐸(タク;柄のついた振鈴)を鳴らしていたようだ。鐸を鳴らして売りいたものは、他に〈富貴豆売り〉〈夜鷹蕎麦〉〈新聞号外売り〉があった。 以下に、売り声を列記してゆく。 〈鍋焼うどん〉「鍋焼うどん、蕎麦ウヤウー」 〈花売り〉「お花ァー五厘、切立て五厘」 〈氷売り〉「氷ッ、氷、函館名物、氷でござい」 〈延命薬売り〉「定斎(じょさい)でござい」・・・暑気払いの薬。薬籠の引手をカチカチ鳴らしながら。 〈苗売り〉「苗やい、苗やい、朝顔の苗やい、唐蜀黍の苗やい、胡瓜の苗やい、茄子の苗」 〈稗蒔売り〉「稗蒔や稗蒔や」 〈麻幹(おがら)売り〉「お迎いお迎い」・・・盆前の迎火用の苧殻売り。上記にも出。 〈門松売り〉「お宝お宝」 〈屑屋〉「くずいー、くずい」 〈掃除屋〉「おあい、おあい」・・・平出鏗二郎は「汚穢か?」と注を付している。 〈雪駄直し〉「でいでい」・・・この呼声は、まったく意味がわからない。 〈鼠取薬売り〉「いたずら者は居ないかな」・・・鼠が皿の物を舐めている絵、その下にねずみとり薬と染めた旗を立てて、薄気味悪げに呼んだ。この売り声を聞くと道で遊んでいた子供達はサッと逃げ隠れた。 〈薬売り〉「皹(ひび)、凍傷(しもやけ)、あかぎれの妙薬」・・・冬の夜に売り歩いた。 〈花梨糖売り〉「淡路島通う千鳥の恋の辻占、辻占なかのお茶菓子は花の便がちょいと出るよ、こうばしや、かりん糖」・・・これも夜の商売。 〈稲荷鮓屋〉 「お稲荷さん、お稲荷さん」・・・と、これも夜に。 〈麺包(パン)売り〉「亜細亜のパン、欧羅巴のパン、パン、パン、パンパン」・・・古いシルクハットに古びた洋服、つけ髭をつけて、腹にくくりつけた太鼓をたたきながら歩いた。 〈よかよか飴売り〉「よかよか飴屋さんにゃ、誰(たーれ)がなるよ。日本一の道楽者よ。そのまたおかかにゃ誰(たーれ)がなるよ。日本一のおてん婆が」・・・と、男が頭に飴桶をのせて太鼓をたたき、背後に女房が三味線をかき鳴らして子供あいてに飴やオコシを売り歩いた。平出鏗二郎はこの売り口上に対して、「己れを恥じずや、かく明らさまに謡うさま、また胆潰るるばかりにあきれられぬ。」と書いている。 よかよか飴売りは、たくさんいたのではなかろう。この夫婦だけだったかもしれない。身の恥をさらして物を売り歩くのは、大道芸といわず芸能本来の姿に通じるといえようか。 その大道芸については宮尾しげお・木村仙秀共著『江戸庶民街・芸風俗誌』に詳しい。また、昭和時代のそれについては俳優小澤昭一氏の数多の著作がある。同氏はヴィデオ版も出版してい、得難い貴重な資料となっている。 さて、こうして各書からザッと拾いだしただけでも、江戸や明治の町がいかにたくさんの行商人の売り声にあふれていたかがわかる。上述したように、これらの売り声は時代劇映画やテレビ・ドラマには徹底的に欠如しているものだ。いつかこのようなザワメキに満ちた巷を活写した時代劇映画が見られるだろうか。・・・だめだろうなー。 【下図は、『東京風俗志』から、上述の行商人の姿】 左上から、よかよか飴売り、定斎、苗売り、麺包(パン)売り。 中上段左から、かりん糖売り、夜鷹蕎麦、稗蒔売り。 中下段左から、花売り、富貴豆売り、蒲鉾売り、屑屋、鼠取薬売り。 下左から、雪駄直し(でいでい)、新聞売り、ラウ屋。
Apr 29, 2009
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20世紀初頭、イギリスの貴族の家で発見され、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」と似ている女性像が、レオナルドが描いた第2の「モナリザ」であるという鑑定結果を、スイスの財団「モナリザ基金」が発表した、と読売新聞(石黒穣記者)が報じている。 レオナルド・ダ・ヴィンチの作だと主張する「モナリザ」は世界に数点存在する。少なくとも私の目には、いずれも容貌に品位がない。もっとはっきり言えば「下品」な女性像で、所有者が如何に主張しようとも、ルーブル所蔵の真筆の「モナリザ」に遠くおよばない。 そのなかでこのたび「モナリザ基金」が発表した作品は、格段にましなもので、ルーブルの「モナリザ」の画像をディジタル処理したら、当該作品は、真筆の顔を11~12歳若返らせてピタリと一致した、と喜ぶのもむべなるかなの出来映えではある。 と、もってまわった言い方をしたが、私が読売新聞オン・ラインに掲載された画像を拡大して見たところ、幾つかの疑念が浮かんで来た。 まず、単純な疑問がひとつ。 ルーブルの「モナリザ」を11~12歳若返らせたものというが、仮に11,2年前のある女性の肖像だとすると、年をとってからの「モナリザ」と髪型も服装も同じなどということがあるだろうか? 右腕の衣服の袖の皺、左の袖の皺・・・それらは真筆「モナリザ」とまったく同じである。年齢がちがうのに、つまりモデルを座らせて10年の差があるのに、衣服の皺まで同じに描く必然性がどこにあるだろう? 年齢がへだたっても衣服そのものや皺が同一でなければならないとしたら、そこにレオナルドは重大な「意味」を感じていたはずだ。しかし、私にはその必然性も意味も推測さへできない。 ルーブル作品と本作品を、同時期にほとんど並べて描いたのだとしたら(年齢が若いか年をとっているかは、この際、措いておこう)、別の疑問が画面のなかに指摘できる。 疑問2。 背景に目を移そう。真筆「モナリザ」と当該作品との背景がおおきく異なることは誰の目にも明らかだ。朝日新聞夕刊によると、鑑定家は、背景は未完成で、別人の手になると言っている。 当該作品を詳しく見てゆこう。 画面左側、女性の肩の斜め上方にシミのように見える黒っぽい塊は、画像を拡大してみると、木々の茂みであることがわかる。その茂みはどうやら水面に反影しているようだ。・・・まあ、ここまではいい。しかし、ここに存在するらしい河か湖、もしくは後方にひろがっているのが海だとしたら、海岸に突き出た小さな岬を囲む海と、手前の山岳ないしは岡のような部分との関係性がおかしくはないか? 遠近感があいまいで、まるで湖水が山の上に浮かんでいるように見える。・・・ここに私の大きな疑念がある。つまり、水があるのは良い。なぜなら、真筆『モナリザ」もここに湖水がある。手前の荒涼とした峨峨たる風景の水を介して奥は、手前とは異なる木々の生い茂る潤んだ景色だ。まるで異なる水気を含んだ風景がモナリザの背後、遙かに存在する。レオナルドはどうもそのような景色に哲学的な意味を付与し、もしくは世界をそのように解釈していたふしがある。しかし、問題はそこからだ。彼があれほど研究し、絵画作品のなかで実現していた「空気遠近法」が、当該作品のなかではほとんど実現されていないということだ。もし空気遠近法が的確に実現されていたなら、木々の茂みが手前の山の上に浮かんで見えるような稚拙な失敗はおこらなかっただろう。たとえば、黒っぽい塊となっている木々の茂みが、青灰色のかすんだ塊であれば・・・。未完で、別人の手になると解釈するゆえんだろう。そして、そう言われてしまえばそれまでだ。残るは人物像だけを検討すればよい、とうことだろうが・・・ しかしもう少しそこに拘ると、第3の疑問がでてくる。 レオナルドの時代、たとえ背景にしろ、風景は「風景画」として確立していなかった。レオナルドがまさにそこに手をつけようとしていた。彼の有名なノートには風景のデッサンが散見する。そして、これは指摘しておいてもよかろうが、その風景は決して田園風景ではないし、平坦な海景でもない。レオナルドが意識してとらえた風景の先には、地平線ないし水平線で、いわば画面をすっぱり上下に分つような景色は存在しないのだ。 しかし、当該作品で目立つのは無造作に画面を横切るその地平線(水平線)だ。画面右の地平線上にかすかに山稜らしき凹凸が窺えるが、それとて空気遠近法を駆使した微妙な色彩の重なりがあるわけではない。 要するに風景のとらえかたが稚拙。ここでは風景の意義について、まるで一顧だにされていないようだ。 ちなみに哲学的に水平線に意識が向けられるようになったのは、たしかにレオナルドの時代からといえる。クリストファー・コロンブス(1451頃ー1506)などが活躍する大航海時代がその目を開いた。文学的に明確になるのはさらに100年後にカンパネッラが牢獄の中で『太陽の都』(1602)を執筆してからである。レオナルドが「モナリザ」を描きはじめたのは1503~5年頃だ。つまり風景画に水平線が登場するには早すぎる。別の見方をすると、当該作品がレオナルド以外の別人によって背景が描かれたとすると、むしろ私はそこに水平線を描いた画家として興味をひかれる。 水平線思想については、本ブログ左フリーページに掲載の私の『城と牢獄の論理構造』の「カンパネッラは水平をめざす」をご覧くだされば幸いである。 稚拙といえば、第4の疑問だ。 女性の両側に描かれている石の柱。このような柱が肖像画に描かれることはこの時代のひとつの特徴である(朝日新聞の写真は、なぜかこの両端をトリミングしてしまっている)。が、その柱の描写のなんとお粗末なことか。円柱というより、板をべったり貼付けたかのようだ。レオナルドの真筆にこのような無様な描写は存在しない。5年前に日本に貸与された「受胎告知」をご覧になったかたはお分かりになるだろうが、あの細部までゆるがせにしない描写へのこだわり。石の机の縁や角のまるみの付け方。石彫装飾の清々しささへ漂う美しさ。私はそれをレオナルドの幾何学的精神のなせるわざだと想っているが、絵のなかに物を存在させる、定着させる、そのためには細部に手抜きがあってはならない。そう、レオナルドの絵画作品はおしえるのだ。 第5の疑問は支持体の問題だ。 真筆「モナリザ」はパネルに油絵の具で描かれている。ところが当該作品は、どうやらキャンヴァスが支持体らしい。朝日新聞によると「米国の研究機関などによる鑑定の結果、キャンヴァスはルーブルのものとほぼ同時期の1500年前後の素材。」と報じている。この文章は少しあいまいで、「ルーブルのものとほぼ同時期」というのは「モナリザ」の支持体を指しているのではなく、執筆された時代というのであろう。つまり、当該作品の支持体であるキャンヴァスの製造年代はルーブルの「モナリザ」が執筆された年代とほぼ同じ1500年前後、というのが正確な意味であろう。支持体を問題にしているのだから、その点は明確にしなければならない。 レオナルドの油彩あるいはテンペラによる真筆作品は、「最後の晩餐」のような壁画以外は、オリジナルの状態はパネルないし木に描かれている。オリジナルの状態と言ったのは、たとえばエルミタージュが所蔵する「リッタの聖母」や「ブノアの聖母」は、それぞれパネルと木から現在はキャンヴァスに移しかえられている。それはオリジナルな状態では保存に適さなくなっていたからの処置である。 当該作品がオリジナルの状態であるかどうかも(もちろん精査したのであろうが)、議論されなければならないだろう。しかしオリジナルがキャンヴァスだとすると、レオナルド作品のなかで唯一のものということになるだろう。なぜ? ルーブルの「モナリザ」はレオナルドがその生涯の終わりまで手放さなかった唯一の作品といわれている。フランソワ1世に帯同されてフランスに移り住んだが、彼の死後、「モナリザ」はフランソワ1世が買い取った。 ならば、当該作品は、・・・未完のまま・・・なぜ、顧みられなかったのだろう。 レオナルドには、「東方三博士の礼拝」(ウフィッツィ美術館蔵)のように未完成の作品がたしかに存在する。そして、(私は実物を見ているのだが)「東方三博士の礼拝」はロウ・シエナで下描きが彩色されている。それは、新聞の画像からは判別しがたいものの、当該作品の(未完と主張されている)背景部分の色調に似ていなくもないけれども。 今回の「モナリザ基金」の発表に対して、読売新聞は次のように伝えている。すなはち、〈この発表に懐疑的な見方もあり、AFP通信によると、英オックスフォード大のマーティン・ケンプ名誉教授(美術史)は「繊細な細部の描写がモナリザと異なっている」と述べ、第2のモナリザは別の画家による模写だとの見方を示している。〉と。 私は研究者ではなく一介の絵描きにすぎないけれども、結論としてはマーティン・ケンプ名誉教授と同じである。【関連続報】毎日新聞 アイルワースのモナリザ:難しい鑑定 真贋以外にも価値 2012年10月06日 14時52分(最終更新 10月06日 15時34分)
Sep 28, 2012
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シェイクスピアの肖像画と認定され、日本の教科書などにも掲出されているものもあるが、いずれの絵もシェイクスピア本人を目の前にして描いたかどうかは不明で、したがって実際のところ私たちはこの偉大な劇作家にして詩人の本当の顔を知っているとは言いがたいのである。 映画「恋におちたシェイクスピア」を制作するにあたって、イメージ的な拠りどころとしたと言われる若い男の肖像画は、9年前、2005年10月にイギリス国立肖像美術館が、シェイクスピア本人の肖像画とは認めがたいと発表した。 また400年の長きにわたってアイルランドの司教のコレクションとしてその子孫であるコッブス家に代々伝えられて来た肖像画が、近年、シェイクスピア生誕地協会によってシェイクスピアの肖像画と認定された。同協会によれば、この肖像画はシェイクスピアの死の6年前、1610年に描かれ、存命中に描かれた肖像画として唯一現存するものだという。 さて、私は画家としての関心もあってシェイクスピアの肖像画を見てきたのだが、以下に上記の2点を含む全部で5点のシェイクスピアの肖像画といわれる絵、あるいはかつて言われたこともある絵を掲げてみる。 ★ジョン・テイラー作と推定される絵。1610年作(この年号が正しいなら、これも存命中の肖像となる。)、キャンヴァスに油彩。 ★コッブス家伝来の作者不明の肖像画。1610年作と推定。'Principum amicitias!' とラテン語の記銘は「王子たちの同盟」という意味で、Horace(ローマ名、クゥエンタス・ホラチウス・フラックス、65 BC–8 BC、ローマ時代の代表的叙情詩人)の'Ode'からの引用。 ★マーティン・ドロエスホウト作銅版画。1623年に出版されたいわゆる第一フォリオのタイトルページを飾っている。シェイクスピアの死から7年後である。 ★上のドロエスホウト銅版画が刊行されておよそ165年後の1787頃にドロエスホウトを模写して出版された銅版画。作者不明。 ★2005年、イギリス国立肖像美術館によってシェイクスピアとは認められないとされた肖像画。 絵の右上に1588、左上に24と書き込まれていて、かつてこれによってシェイクスピア24歳のときの肖像とされてきた。しかし同美術館によれば、この当時のシェイクスピアは双子の父親になったばかりで、しかもいまだ劇団にも入っていず、描かれているような豪華衣装を着られるような身分ではなかった。したがってこの肖像画の青年をシェイクスピアとは認めがたい、という。
Apr 26, 2014
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芸術作品はそれを観る人、読む人、聴く人によってそれぞれの解釈がある。作者の意図しないような解釈も出るであろうし、作者の意図をよろしく超える解釈が出ることもあるだろう。それらさまざまな解釈に対して、多くの作者は反論しない。それが芸術作品の本来的な宿命だからである。しかしながら、芸術作品の隠れた「謎」解きのような昨今の流行をどう考えたらよいだろう。そもそも作者だけが知り得る秘密を、「謎」として作品に潜在させることがあり得るだろうか。作者は常に何事なりとも意図して、不特定多数の観客(読者、聴衆)に伝えるために思考と技術の限りを尽くしている。それが「表現」ということだ。観客に伝わらない「謎」を作品に潜在させたとして、それに何の意味があるだろう。表現しない表現者など、自己撞着以外ではないだろう。作者の表現を見て取ることは、その観客の感覚や知に関わることなので、見てはいても何も見えない人もいるのではあるが・・・ さて、以上は前置きである。 1952年9月17日に初公開された松竹映画、美空ひばり主演『牛若丸』を先日70年ぶりに再観して、子どもの私が思いもしなかった一つの解釈が成り立つかもしれないことに気がついた。果たしてそのことが、映画制作者の意図したことだったかどうかは判らない。 製作・杉山茂樹、企画・福島通人、脚本・八住利雄、監督・大曾根辰夫。 企画者の福島通人は横浜国際劇場の支配人だったが、美空ひばりの才能を認めてマネージャーになった。美空ひばり映画のほとんどが福島通人の企画である。美空ひばり出演映画は全160本以上あるが、『牛若丸』以前にすでに31本の作品がある。(Wikipediaによる) 数多い ”ひばり映画” のなかで、『牛若丸』はほとんど話題にされなかったかもしれない。その理由がわからないでもない。 ”ひばり映画” の特徴は、ひとことで言えば、明るい華やかさである。大衆の嗜好を知り尽くして、恋あり歌あり、じめっとしないほどに涙あり、何より活力にあふれ、娯楽に徹している。しかしながら、『牛若丸』はいささか暗い。物語はフィクションであるが、史実に寄りかかっているので美空ひばり流の華やいだ娯楽に徹していない。それだけに、特異な作品と言えよう。 美空ひばりは牛若丸と桔梗という名の少女と、二役演じている。桔梗はフィクショナルな創造であるが、美空ひばりに二役演じさせる企画は、観客の反応を知っている企画製作力である。このフィクションの創造で映画が生きた。歴史書ないしは古典文学に依拠した映画において、一種の思想的対立を映画制作者がフィクショナルな人物を造形して制作者の立場を伝えるドラマ作法は、日本映画ではかなり珍しいかもしれない。 ちなみにご存知歌舞伎『勧進帳』は、義経と武蔵坊弁慶の安宅の関における物語である。この『勧進帳』と、同材の能『安宅』とを下敷きにして、黒澤明は1945年(昭和20年)に大河内傳次郎の弁慶で『虎の尾を踏む男達』を制作した。しかしGHQは、義経と弁慶の主従関係が民主主義に反するとして上映を許可しなかった。公開されたのは1952年4月26日(二日後の28日に占領終了)である。美空ひばりの『牛若丸』の公開年と同じ年、『牛若丸』より4ヶ月と9日早かった。私は後年、『虎の尾を踏む男達』を観た。 私の子ども心に深く刻まれ、いまだにあざやかに甦るのは、先日述べたとおり、牛若丸と桔梗が手をつないで鞍馬寺の山道を駆け登ってゆくシーンである。そしてこのシーンに、私は1952年という公開年の時局に鑑みてひとつの解釈を試みたくなるのである。 『牛若丸』の時代設定は、貴族政治から武士政治へと変わりつつあった1100年代後期。絶え間ない覇権争いと荘園(領土)獲得争いによって国中が荒廃していた。保元の乱が1156年。平治の乱が1159年。この戦で平清盛が藤原信頼と源義朝(牛若丸のちの源義経の父)を破った。翌1160年、源義朝は尾張の国で家人の長田忠致・景致親子の裏切りで落命し(史実。映画では言及無い)、源氏の衰退がはじまった。映画の物語はこの時点から始まる。源氏絶滅を狙う平清盛に、義朝の妻常磐御前は身を差し出し、代わりに幼児牛若丸の命乞いをした。牛若丸は、源氏から寝返って清盛に扈従した新田太郎吉光の監視下に鞍馬寺に預けられた。そして、母は死んだと聞かされたまま、いまや心ひそかに源氏再興を夢見る少年に成長した。自分の意志とは関わりなく出家修行させられる身に、友達は新田太郎吉光の娘桔梗だけである。 さて、私の記憶に刻まれたシーンは、先に述べたとおり、この寝返った裏切り者を父にもつ娘桔梗と牛若丸が、手をつないで山道を駆け登るのであるが・・・ 私は今、このシーンにこの映画が公開された当時の時局を重ねてみる。 戦後占領期(1945.9.2~1952.4.28) が終わってようやく5ヶ月になるところだった。7年間という長い占領に日本国民は、口にこそ出せなかったが、そろそろ飽きてきていた。9歳の美空ひばりがデビューしたのは、まさにその頃である。天才少女歌手はその活力ある歌声でみるまにスターダムにのしあがってゆく。 どっかり「君臨」していた占領軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、すでに1950年4月11日付けでトルーマン大統領によって解任されていた。マッカーサーは5日後にアメリカに帰国した。しかしその1年前、1949年2月、アメリカは日本の市場経済をふたたび活性化させるという目的で使節団を派遣してきた。その中に、独裁的に敏腕を揮うことで知られたジョセフ・ドッジがいた。彼は「経済の帝王」と称されていた。日本国民は二人の「君主」に統率されることになったのである。いや、国民にしてみれば三人だった。二人の君主の下に、その意向を実現すべく、国民に対して時に巧みに詭弁を操る吉田茂内閣の日本政府があった。 ジョセフ・ドッジの有無をいわせぬ方針は、「ドッジ・ライン」と言われた。子どもの私の耳にもその言葉は残った。ここに詳しくは述べないが、彼の日本経済についての根本的な考えは、消費を抑制し、安価で輸出を促進するということだ。そのために円の切り下げがされた。彼は独断で1ドル=360円に設定した。この為替レートは随分長い間、昭和40年代までつづいたように私は記憶している。 ドッジの企業合理化策と吉田首相が強力に押し進めるレッド・パージ(赤狩り)との併用によって、数万人の労働者が失業した。これにより労働運動が弱体化した。そして、戦前の奴隷労働にも似た労働条件下にあった人たちを、戦後に解放したはずの労働規準法の労働関連諸法が、ほとんど有名無実になった。公共事業や福祉や教育関連の予算はバッサリ削られた。 とはいえ、これで日本経済が上向きになったかというと、そうは行かなかった。国際状勢は日本の外側で大きく動いていたのだった。価格を下げたからといって輸出が伸びたわけでもない。 国民の心は日に日に不安に沈んで行った。国民は、政府上層部には終戦直前に国有財産である軍需物資を隠匿して私腹を肥やし、終戦直後にはそれらを闇市に流して私腹を肥やした人物が少なからず存在していることを知っていた。「裏切り者」が戦後政治の中枢で大手を振っていることを知っていた。 ところが1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。日本は思わぬ「特需景気」に湧いた。アメリカに要請されるかたちで軍事産業が復活した。いままで眠らされていた日本人の緻密な機械整備技術にアメリカは目をみはった。アメリカは日本の再軍備を求めた。30万兵を擁する軍隊をつくれという求めである。吉田茂首相はアメリカと日本国民に対して詭弁で説得し、「軍」という名称ではなく「警察予備隊」をつくることで両者をまるめこむことに成功した。「警察予備隊」は、30万兵とはいかないが、7万数千人を擁し、れっきとした兵器を備えた。新たらしい日本国憲法に明示された「平和主義」と「民主主義」は、これを主導してきたアメリカによって有形無実となり、食うに困らない、着るに困らない、寝る所に困らない・・・人間の幸せがそこにあるとすれば、いまや日本国民はまさに幸福を手にしたのだ。 そして、吉田茂首相の詭弁を用いる政治技術は、その後の政権を担う政治家に「遺産」として引き継がれることになる。 心ある人は気がついていた。「他人の苦しみによって我身の幸福はあるのだ」ということに。そして日本人はこのときから、心に捩じれをいだくようになるのだ、と。捩じれから生じて心に潜在する闇だ。押し込めようとすればするほど、限りない深さにもぐってしまう闇・・・ 『牛若丸』において、牛若丸と裏切り者を父にもつ娘桔梗が、手をつないで山道を駆ける姿に、私が上記のような思いを重ねるのは、制作者の意図するところではないかもしれない。しかしながら牛若丸と双子のようなフィクショナルな桔梗を創造した意図・・・それについては述べないでおくが・・・は、たんなる娯楽一辺倒に終始するものではあるまい。戦中戦後の自局が、平安時代末期の歴史的事実のフィクショナル化を通して、象徴的に形象化されていると、私は思うのだ。 黒澤明の『虎の尾を踏む男達』が同監督の初期作品として注目されるのは、その後の『蜘蛛巣城』の先取りとなる能の様式美を取り入れていることと、大俳優大河内傳二郎が主演し、また、これも後の『隠し砦の三悪人』の千秋実と藤原鎌足が演じた凸凹コンビ(喜八物の伝統による人物)の滑稽の先取りとなるエノケンこと榎本健一が滑稽役を演じたこと、そして何より巨匠監督の若き日の作品がGHQの検閲によって上映不許可になったことが挙げられよう。 その黒澤作品と登場人物をほぼ同じくし(片や少年時代、片や青年時代ではあるが)、公開も1952年で同じであるけれども『牛若丸』がほとんど語られることがなかったのは、大曽根辰夫監督にとっては残念だったかもしれない。美空ひばりがデビュー当初から「こましゃくれた子供。子供のクセに」と音楽関係者から蔑視され、その人気にもかかわらず出演映画は一段低い「大衆娯楽作品」とみられていたこと、しかもその "ひばり映画” の中でもいささか暗く、異質であったことが、語られることがなかった理由かもしれない。が、両作品を観た私の感想は、大曾根辰夫監督の『牛若丸』は、新田太郎吉光が敵に寝返った裏切りを、愛する娘の死によって目覚める、史実を離れて創作した物語の結構は、時局に照らして志操的(そして思想的)な象徴性の点で、黒澤明『虎の尾を踏む男達』より一層の深さがあると思う。 ・・・それもまた観客の解釈次第。黒澤明は自分の映画が解釈されることを嫌ったと思えるふしがある。上記の私感も、とりあえずは、観客の解釈は自由だということにしておこう。芸術的表現者はむろんのこと、そうでない人も、嵐の船出に関わりない言動などありえなかったのである。そして、大曾根辰夫監督『牛若丸』は、その時節に幼児だった私の最初の映画経験であり、その映像は70年後の現在まで記憶されたのである。
Jun 6, 2023
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旅まくら夢の契りや朝時雨 青穹(山田維史) 明日ありと旅の宿りの短かき夜 滝合いの白き飛沫(しぶき)に川蜻蛉 滝合いの落ち行くさきに夏野かな 葉柳の頬にふれくる川堤 かわいいネ子犬猫の子燕の子 ガザ 食べ物を運ぶ浮橋酷暑かな
Jun 10, 2024
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お盆はすんだが、思いがけないところから亡父が使用していたポケット・サイズの辞書が出てきた。昭和3年 (1928) 8月発行の「鑛業術語集」である。おそらく学生時代に使用したものであろう。幅8.7cmx縦15.2cm、厚さ1.0cm。文字通りポケット・サイズである。こんな本が遺っていたとは私はまったく気づかなかった。97年前のちょうど8月の発行と記されているから、まあ、お盆の季節に「いっちょう顔を出してみるか」と出てきたのかもしれない。アッハッハ。
Aug 18, 2025
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CNNが考古学の興味深い研究を報じている。題して「古代の陶器に描かれたデザイン、人類の数学的思考示す最古の証拠か」。紀元前6200年から紀元前5500年の間に北メソポタミアで栄えたハラフ文化のもとで作られた陶器に描かれた花文様は、人類の数学的思考を行った初期の事例かもしれないという。研究結果を発表したのはエルサレムのヘブライ大学の研究者たち。 発掘された陶器には食料作物は描かれていず、描かれた植物はその375すべての断片において花びらの数は4枚、8枚、16枚、32枚、64枚であることが確認された。これらの数字の使用は「幾何学的順序」を形成しており、対称性(シンメトリー)と反復に基づく数学的推論の一形態を示唆している。その倍数化の順序にしたがって円を分割すると区切られた単位は左右対称を形成していた。しかもこの数字の使用は数百キロの地域にわたり、偶然とは考えられない・・・と言うのが、研究論文の主旨である。 この説論に対してメソポタミア数学の研究を専門とするデンマーク・ロスキレ大学の名誉上級准教授イェンス・ホイロップ氏はCNNの取材に対して懐疑的反論を述べている。当時の人たちに対称性の感覚があったことは確かだが、円を美しく分割する行為に幾何級数的な思考はなく、単に円を半分にしているだけだ、と。 以上はCNNが伝えている内容である。 さて、私がこの記事に興味を惹かれたのは、私自身が「幾何学的感覚」に思考を左右される傾向があることを少年時代から自覚しており、また自覚がなかった小学生のころも、たとえば授業参観等で学校を訪れた母が「息子の絵はすぐに判る」と言っていたようだが、たしかに私の絵は記号的抽象化を幾何学的に構成したものだった。そんなことは私自身はまったく意識していなかったのだが、大勢の児童の絵のなかから母はすぐに私の絵を判別できたのだ。後年、この自ら幾何学的感覚と称している感覚は、このブログの左フリーページに掲載している詩「遊卵飛行」の文字列構成にもあらわれている。いわゆる字面(文字列のヴィジュアル)を、字数を同じくして凹凸となるように作っている。それは詩の底にあるテーマが「宇宙的生殖」の表現を意図しているからでもある。潜在主題を字面で表面化する。そこに精神の幾何学的嗜好(思考)がはたらく。そうしないではいられない感覚のベクトルである。 ・・・というわけで上記の考古学研究を興味深く読んだのだが、じつはこの考古学研究に数学者として反論したホイロップ准教授に、私は逆に疑問を抱くのだ。対称性に対する感覚がある人が、円を美しく分割してゆく行為は、数学思考ではないのだろうか? 「数学思考」と言語化された意識はなくても、倍数化をイメージ(図像)として実現する行為は、すでに数学思考であるとなぜ言えないのだろう? つまり、私が言いたいのは、数学思考はすべからく言語化されたものであるか? ということである。 次のような例はホイロップ氏はどのように御説明されるだろう。アンティーク家具の修復家の動画から、17世紀に英国でオーク材で製作されたチェストの文様である。文様は全体としても部分を見ても左右対称である。しかし大きな四重円の中央の花模様の花びらの数は11で、ここだけは対称性を失っているのである。・・・私は、こう考える。数学的思考で対称的に文様を施したのだが、円中央の花模様の彫刻はスペース分割が恣意的になったのだろう、と。つまりここに彫刻された花は、上記のハラフ文化の陶器の花模様を描いた思考とは全然ちがうということである。私はエルサレムのヘブライ大学の研究者たちの説論に賛同する。(画像はArie FunitureRestration の動画より )CNN「古代の陶器に描かれたデザイン、人類の数学的思考示す最古の証拠か」
Jan 17, 2026
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上野の国立西洋美術館で開幕した「版画家レンブラント」展を観てきた。 普段から健康検診をしてもらうたびに、主治医に「仕事を休んで少しで良いから運動をしてください」と言われている。私の活力がどこから来るか我ながらわからないが、老人は老人らしい健康管理が必要だということだろう。それは重々承知しているし、私は断然年寄りであることは自覚している。「でもねー、先生、長い長い年月をかけて絵描きの身体をつくりあげてきたんですから、そう簡単にお年寄りの生活サイクルには戻れないんですよ」「それはそうかもしれませんが、まあ、歩くだけでいいんですから」 というわけで、原稿執筆を休んで、朝から上野へでかけたのである。じつは秋に再開予定の美術講義でレンブラント作品に関連する話をしようと思っている。そこへこの展覧会情報が舞い込んできた。まさにセレンディピティである。 開館直後の時間だったこともあり、観客もまだ少なく、ゆっくりじっくり小さな版画を観た。私は過去に何度かレンブラントの版画の実物を観ているのだが、あらためてできるだけ目を近づけて細部を観察すると、やはりすごいねー。エッチングやドライポイントの彫りの深浅、腐食の度合いが、描く対象物(すなわちモデル)の物質表現と、対象が人間ならばその情感表現に、ズバリの程度の良さ。たとえば衣服の豊穣なビロード生地のいわゆる毛羽立ちなどが、銅板に対する針先の技術でみごとに作り出されている。レンブラントに影響を受けた他の作家の作品も展示されているが、表面的なできばえはともかも、表現のふかさにおいては到底レンブラントに及ばない。 私が新しい知見を得たことの一つに、レンブラントが画家をこころざす以前にライデン大学で学んでいたが、そのカリキュラムに古典古代の演劇があったということ。レンブラントが銅版画に本腰を入れて勉強しはじめた、その初期の自画像が、さまざまな顔の表情をつくって描いている。鏡を見ながらいろいろな表情をつくってみたのであろうが、展示説明で、演劇を学んだことが影響しているかもしれないと指摘していた。これはおもしろい指摘だ。【下は展覧会図録】
Jul 15, 2026
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