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中秋の名月照らす泥の顔 青穹(山田維史) 中秋の月あかあかと三途橋 名月やあら名月やまた来る日 名月や地を這う虫も宴かな山田維史 「生命根源の血に重なる自画像」 1998年8月3日 紙にボールペン、水彩Tadami Yamada "Self-Portrait Superimposed upon the Bloodーthe Source of Life" Aug. 3, 1998. Ballpoint pen and watercolor on paper
Sep 25, 2026
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昨日の日記で私は、夏の盛の自分の制作姿がバミューダショーツの裸で、それを称して「ピカソの真似じゃないが」と書いた。そのあとで、ピカソについて想いめぐらすうちに、以前から気になっていたことを少しばかり書いておきたくなった。 ピカソはその数万点にのぼる厖大な作品を、尽きることなかった旺盛な創作欲でほとんど日記のように作りつづけた。事実、ピカソの作品の多くは制作年月日が明記されているのである。油彩の場合は、観客に見える画面にはPicassoと署名されているだけのこともあるが、その裏側のキャンバス支持体(木枠)にはちゃんと年期が記入されている。 何がこのようにピカソを創作へ駆り立て、駆り立てつづけさせたのかは、人間研究としても興味がわく。しかし、このピカソにしてパタリと筆が止った時期があった。『ゲルニカ』(1937)が制作される2年前のことである。1935年。「私の生涯で最悪のとき」とピカソは言っている。 女性関係がはげしかったピカソだったが、原因はその女性関係にあった。 ピカソは1918年にオルガと結婚し、長男ポールをもうけた。が、1927年、17歳の少女マリー=テレーズに出会い、二人は秘密の恋愛関係に入った。そして1935年、問題のその年、愛人マリー=テレーズが妊娠し、それを知った妻オルガは息子を連れて家を出た。夏のことで、その後、離婚訴訟が起されてこじれにこじれる。マリー=テレーズは10月の初めに長女マイアを出産した。 ピカソにとってマリー=テレーズは制作においても重要な存在であった。しかし、それは彼が妻オルガと暮らしている限りにおいてであった。オルガはピカソの作品において「歯のある膣」として表現されている。つまり男根を食いちぎられるのではないかという潜在的恐怖を男に与えるいわば「猛女」である。それに対してマリー=テレーズはピカソという男の「夢」であった。マリー=テレーズは彼の作品のなかで明るく優しい色彩につつまれた女として表現されている。ピカソが片やオルガとの苦悩の暮らしがあってはじめて心やすらげる場所としてのマリー=テレーズの存在である。 ところがオルガが別居し、事実上そばにいなくなると、ピカソの心情は変化していった。甘い家庭を営むマリー=テレーズに飽き足らなくなっていったのであろう。マリー=テレーズが出産してそのわずか3ヶ月後、詩人ポール・エリュアールの紹介で、彼は写真家ドラ・マールと出会う。彼女はシュルレアリストたちと親交があった知的な女性だった。 オルガとマリー=テレーズの間で板挟みになって苦悩していたピカソは、上に述べたようにほとんど絵筆をとることがなかった。それが知的なドラ・マールと出会ったことで、再び創作意欲が萌はじめる。『ゲルニカ』制作にむかうエネルギーだった。今日、私たちが、『ゲルニカ』制作の過程のほぼ一部始終をしることができるのは、ドラ・マールの撮影した写真があるからである。彼女は、ただひとり、ピカソのアトリエでその過程を見、撮影を許されたのである。 余談ながら、ドラ・マールをピカソに紹介した詩人ポール・エリュアール(1895-1952)について、すこし。 ブルトンやアラゴンとともにシュルレアリスム運動において指導的役割をはたし、また、現代フランス詩の最大の詩人のひとりと評価されている。それはそれとして、この詩人、ちょっと奇妙なところがある。ピカソにドラ・マールを紹介したとき、彼は彼女と「関係」があったかどうかは知らないが、女を人に紹介する「癖」があったかもしれない。じつはダリの妻ガラは、ポール・エリュアールの妻だったのだ。自分の妻を若きダリに紹介して、その結果、略奪されてしまったのである。 さて、ピカソが絵筆をとらなかった時期、彼はいったい何をしていたのだろうか。 詩を書いていたのである。詩人ピカソを知るひとは、ピカソの絵画を良く知る人でもそんなに多くはないかもしれない。しかしアンドレ・ブルトンは、「ピカソは文章家でもある」と言っている。 ピカソの詩は、句読点のない言葉のうねりで、暴力的でさえあるエネルギーがほとばしる。説明するより一二を訳してお目にかけよう。 万一、俺が外出でもしてみろ狼どもが俺の手を食いちぎりにやって来るまるで俺の部屋が俺の外側にあるかのように俺のほかの収入は消し飛んでしまう世界は粉々にぶっ壊れた 子供たちの泣き声女たちの泣き声鳥たちの泣き声花々の泣き声木と石の泣き声嗅覚の泣き声そいつらが煙のようなそいつら自身に爪を立て泣いている喉笛を噛み大鍋でぐつぐつ煮立て鳥たちに雨を降らせ骨の髄まで食いつくし綿を噛む歯をへし折り太陽はその皿を拭い去り株式取引所や銀行は岩に穿たれた足跡のなかに隠れる 聖餐台の布のうえの小麦の祭り墓太巻き葉巻(お偉方)の臭気に満ちた地球に小便をぶっかける愉快な肖像画あるいは抽き出し(上流階級)のどでかい聖遺物箱のガラス窓を塗りつぶす新鮮な卵白の蝋をしたたらせる黒幕支配下のボール遊び 【注】言葉の意味の二重性が指摘できるのではないかと思うものを()の中に記した。しかしあくまでも私・山田の解釈である。 これらの詩は1935年4月18日(当時、ピカソ54歳)に始まり、1959年の夏ころまで書きつづけられた。シュルレアリスムの詩として注目されている一方、1934年に描かれた絵画作品とも関連つけられている。 しかし私が注目するのは、シュルレアリスム運動が概して「無意識の探究」であったとすれば、ピカソの詩はそこから大きくはずれていたと言えるだろう。ピカソが自分の詩について1948年にルイ・パロ(Louis Parrot)に語った次の言葉がそれを証している。 「私が詩を書きはじめたとき、私は言葉のパレットを自分自身に用意したかったのです。あたかも様々な色を配するように。これらすべての言葉は、重さを計られ、濾過され、価値を判断されました。私はこれらの多くの言葉を無意識の自然発生的な表現にゆだねたのではありません。馬鹿げているかもしれませんが、意志によって言葉を駆り立てられると考えていたのです。」 この言明は、私の考えではピカソのあらゆる作品に言えることである。あの一見奔放な作品が、古典の引用であったりその意味の伝統につらなろうとする意志の表現であったり、また古典に対する視点の変換であったり、・・・きわめて意識的でまた抑制のきいた知的表現なのだということだ。たとえば「遠近法」が科学ではなく哲学であり思想であるということ、したがって時代によって「遠近法」そのものが変遷してきたことを思うだけで、キュビスムの底にあるヨーロッパ思想史に対する読み直しの意志が理解できるのである。「重さを計られ、濾過され、価値を判断され」ているのだということを、私は思い知るのである。 ピカソの詩はもっと分析的に研究してみる必要があろう、と私は考えている。
Jul 16, 2008
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午前中にパリにおける国際アートフェアのための作品を出荷。 その後は終日、韓国展のための作品制作。この作業はまだまだ1ヶ月つづく。 ここ数年、毎年のように韓国で作品を発表してきた。小品ながら韓国の画廊が購入してくれもし、注目してくれている観客もいる。アメリカでの展覧会にまで韓国から観に来てくれているとは、プロモーターからの報告だ。 韓国語を勉強しようと思いながら、なかなか身を入れられない。難しい言葉だ。実は制作をしながら、チョー・ヨンピルさんが歌う韓国語の「釜山港へ帰れ(돌아와요 부산항에 ; トラワヨ・プサンハン・エ)」を聴いている。発音がなかなか難しいが、どうやら1番2番共に憶えた。 YouTube で韓国のカラオケ(노래방 : ノラエバン)を探し、歌えるまでになった。歌えるまでになったけれど、文法を知らず単語さへ逐語訳で意味を知って、チョー・ヨンピルさんの映像の口に合せて丸呑み込みで記憶に叩き込んだだけなので、ときどき、1番の途中と2番の途中が入れ替わったりする。つまり詞の内容を言葉の正しい理解で憶えていない証拠である。要するにゴロで憶えているというか、口回しで憶えているだけなのである。 そして、こんなところで、老化を認識している。記憶するまでに時間がかかりすぎるくらいかかるのだ。日本語で憶えるのとはちがい、言葉からイメージを導き出せないからで、自分の発音に具体性がない。いうなれば、流れている霧や雲をつかまえて記憶しようとしているようなもの。 でも、制作の手をときどき休めて作品をながめながら、「コッピーヌン・トンベックソーメ・ボーミ・ワッ・カォーンマン」と、口ずさんでいるのである。
Sep 10, 2017
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テレビ東京の番組『美の巨人たち』が、会津若松市飯盛山山腹にある奇想の建築、円通三匝堂(さんそうどう)、通称栄螺堂(さざえどう)をとりあげていた。番組自体はつまらないものだったが、私は中学・高校時代にこの地に住んでこの栄螺堂に親しんだ。TV映像で見ると昔とは周囲の環境が変わっていて、個人の所有物件なのでいたしかたないとしても、残念なことではある。 このブログを始めてすぐの2005年8月24日に、私は栄螺堂について書いている。その記事を以下に再掲することにする。 また私の別ブログ「山田維史の青空日記・遊卵画廊」の2025年7月4日に英文 ”About the Japanese Meaning of the Double Helix (二重螺旋の日本的意味)" を掲載している。 「山田維史の青空日記・遊卵画廊」 会津若松市の北東に小高い岡のような飯盛山がある。戊辰戦争のとき白虎隊の少年達が悲惨な自刃をした場所である。御存知のかたもあるだろう。 この山の中腹に正宗禅寺円通三匝堂(さんそうどう)、通称栄螺堂(さざえどう)という大変めずらしい建築がある。寛政8年(1796)の建立である。ある種の建築空間に敏感に反応し、あまつさえ性的昂揚感さえおぼえる私だ。この栄螺堂こそ私の眷恋(けんれん)の建築のひとつなのである。 外観は六角堂なのであるが、内部はまるでDNAのように二重螺旋のスロープが4層を貫いている。高さは約16m。唐破風の正面から入ると、右回りにスロープが螺旋状にのぼり、頂上で橋を渡ると、下りのスロープがこんどは左回りに螺旋を描きつつ正面とは正反対にある背面出口に通じている。 まさにDNA遺伝子の二重螺旋構造そっくり。のぼる人と降りる人が顔を会わせることはない。本来、このスロープにそって計33体の観音像がまつられていて、上下一巡すると西国観音札所を巡礼したことになるという、江戸時代の庶民のための簡易巡礼道だった。 このような〈栄螺堂〉は葛飾北斎の「富嶽三十六景五百らかん寺さざゐどう」や、江戸名所図絵「五百羅漢寺三匝堂」にも描かれ、頂上の見晴らし台から遠く富士山を望み見る江戸の人々のすがたをしのぶことができる。現存するこの形式の仏堂は関東に3棟、そしてこの会津飯盛山の1棟だけである。しかし塔の形は飯盛山のものだけで、仏堂建築としてはきわめて特異なものである。 私としては、この特異な建築構造の発想の源を知ることに関心が向う。建築学的研究の嚆矢は日本大学理工学部建築史研究室の小林文次教授であろう。私の収集した資料のなかにこの御堂の実測図があるが、それは小林研究室が1965年8月に制作したものである。 はたして日本人のオリジナルな発想であるか、それともヨーロッパあたりの渡来であるか。 秋田藩主で画家でもあった佐竹曙山が残したスケッチ帳に二重螺旋の図があり、日本における初期西洋画についての研究者はこのスケッチを洋書からの写しと考えて来た。小林教授はこのもとの書物を1670年にロンドンで出版されたジョゼフ・モクソン(1627―1700)の著書『実用透視画法』の第35図であることを発見した。そして佐竹曙山が1785年に没していることをふまえて、飯盛山の栄螺堂が建立された1796年以前に、二重螺旋構造の建築図は日本の一部の人には知られていたと発表した。しかし小林教授は慎重に、曙山のスケッチと栄螺堂を結ぶ直接的史料は発見されていないと述べている。 二重螺旋階段といえば、私は、レオナルド・ダ・ヴィンチの発想になるというフランソワ1世のためのシャンボール城の中央階段を思い出す。つい最近(註;この記事を書いた2005年)、NHK・TVがレオナルドをめぐる番組でこの中央階段の映像を見せていた。残念ながらその天才的発想と同じ発想になる建築が、会津若松市に現存することまでは気が回らなかったようだ。 何もかもぶっこわしてしまった会津若松だが、どうかこの建築は建築史上重要なものであることを忘れないでほしいものだ。世界に誇れる建築でありますぞ。そしてもとはと言えば実用に発するものながら、なんと幻想味にあふれていることか。なんだかそのあたりに、実用と非実用とのうまい組み合わせの哲学が発見できるのではないだろうか。私はいまそんな思いに深くとらわれているのだ。
Feb 27, 2016
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昼前、昨夜思い出した八総鉱山小学校時代の5、6年時に担任だった孝男先生に電話した。84歳におなりとのことだったが、お声は元気そうだった。当時のことは良く憶えておいでで、同級生の消息もお聞かせくださった。 電話を切ってから、その話しに出た同級生のトモユキ君にも電話してみた。八総鉱山小学校の同級生で私が連絡先を知ってい、ここ10年間年賀状をやりとりしているただ一人の級友だ。 電話の呼び出し音がしばらくつづいたが留守のようなので切った。すると直後に私の電話が鳴って、出ると、トモユキ君だった。 彼は、孝男先生には10年前以前に直接会ったことがあるそうで、その頃は中学の同級会にも出席していたそうだ。実はトモユキ君と私は中学は別々なのだが、トモユキ君の中学の同級生は私の八総鉱山小学校以前の小学校すなわち荒海小学校の同級生なのである。トモユキ君が私の消息を知らせてくれたそうで、最近はトモユキ君の中学校の同級会からも私に知らせがとどく。残念ながら出席の機会を逸しているが、こちらも年賀状でのやりとりが復活した。幹事長を務めるアズマ君の現在の住まいのあたりを、---9歳の私はしばしばスクールバスを待ちきれずにおよそ3里(約12キロ)の道を歩いて帰ったものだが---通ったことを思い出す。 このブログには何度も書くが、今年70歳になった私だが、トモユキ君も、もちろん同年。聞けば1ヶ月違いの生れだとか。行政から後期高齢者の知らせが届き、「いよいよジイさんの仲間入りかと思った」と彼は笑った。 私はすでに早くから自らジイさんを名のっているが、---う〜ん、本音はどうなのだろう---一種の記号かな? そして、時に隠れ蓑かな? 先日の民生委員研修会で私はその内容の無意味なことをずけずけ言い、人の時間をムダに使わせないでくれと切り捨てた。他の民生委員は私の「怒り」と思い、そのような発言をあるまじき事と呆れもしたかもしれない。つまり、私は自分の死をみつめながら仕事をしているので、愚にもつかないことに時間を盗られるのを峻烈に拒否するのである。それは自らの老人を強く意識しているからである。しかしまた、老人と言えないようなまったく枯渇しないエネルギーが湧出し、そのギャップ、いうならば精神的肉体的な内部摩擦を感じてもいる。 ともかく、トモユキ君は元気、私も元気。声を聞いて安心した。 ところで昨日書いた6年生のときの「七夕音楽祭」の写真を掲載しよう。 トモユキ君、憶えていますか? 鮮明ではありませんが、後列中央にトモユキ君がいます。向かって左隣にイケノ君、ヤマノ君。向かって右端にサトル君。その前の列の右端はワダ君。左側のハーモニカは、ホシ君やサワムラ君、ヨシムラ君。リコーダーを吹いているのはモリ君、私、ヤマネ君、キタダ君の姿がわかります。---みんな元気かな?
Jul 8, 2015
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明日から5日間、連日、会議やら何やらがつづく。作品制作は休業である。 ところで、今夜の夕食にカレーを作った。私のカレーはたくさんのスパイスを使うのだが、先日作った柿ジャムを加えてみた。マンゴーチャツネの代用である。これが意外にうまくいった。ジャムをたくさん作ったので、パンに塗るだけでは芸がない。他に使いどころをないものかと思ったのだ。 ちなみに私のカレーは、市販のルーとチキンカレーの場合はチキンコンソメのべース(ビーフカレーの場合はビーフコンソメ)に、ガーリック、ホワイトペッパー、チリペッパー、ヒハツ、ターメリック、ガラムマサラ、コリアンダー、カルダモン、オレガノ、フェネルグリーク、タイム、クローブ、そして抽出したコーヒーを加える。市販のルーはいずれのメーカーの味も私には浅く感じるので、全く別なものにしてしまうのである。もちろん各スパイスの量は私の長年の経験による。そして、今日はここにマンゴーチャツネの代わりに柿ジャムを投入した。 ついでながら、私のカレーは家人にも好評であることを付け加えておこう。(オッホン!) 亡父母にも好評だったので、今夜の仏飯はカレーを供えた。 Meetings and other things will continue everyday for five days from tomorrow. Painting pro-duction is closed. Well, I made curry for dinner tonight. My curry uses a lot of spices, but I added the persimmon jam I made the other day. It is a substitute for mango chutney. This worked surprisingly well. I made a lot of jam, so just applying it to bread is not a trick. I wondered if there was any other use. By the way, my curry is a chcken consommebase (beef consomme for beef curry) for com-mercial roux, and include garlic, whitepepper, chilipepper, long pepper, turmeric, coriander, garam masala, cardamon, oregano, fenugreek, thyme, cloves, and extracted coffee. Commercially available roux tastes shallowto me from any manufacturer, so I make itcompletely different. Of course, the amountof each spice depends on my many years ofexperience. And today, I put persimmon jamhere instead of mang chutney. Incidentally, let me add that my curry is alsopopular with my family. (Hem!) It was well received by the late parents, sotonight's Buddhist meal was served with curry.Tadami Yamada
Oct 25, 2020
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土曜日。天気晴朗なれども---仕事場にこもって制作。先日書いたとおり、小さい小さいものを1,500個描くという、まあ単調といえばこれほど単調なこともない作業をつづけている。 それで音楽でも聴きながらと思い、手を止めなくてもよいように、音は悪いがYouTubeで探してみた。すると、なんと、懐かしい故山岡優子先生の録音がみつかった! どうやらラジオ放送を個人録音したもののようだが、雑音もない。---お亡くなりになってから、ただ1曲NHKアーカイヴからCD化したもの以外は私の手元に録音が残っていなかった。八代秋雄「ピアノ・ソナタ(1961年改訂版)」の57年前の初演録音である。YouTubeのショパンはいつの録音だろう。懐かしいやらなにやら、胸が熱くなった。 ----いや、胸が熱くなったのは懐かしさもあるが、それだけではない。私は72歳のいままで、内外の沢山の名ピアニストの演奏を生で聴いてきた。しかしピアノ演奏のその音が、私の体内で発熱するのは山岡優子先生の演奏のみであった。これはまことに不思議なことで、バイオリズムが合うというのか、とにかく音が私の血流をおだやかにし、春の陽をあびているかのようにホワ〜っと身体を温めるのである。 「山田さんは耳が肥えていらっしゃるから---」と、社交辞令と知りつつも山岡先生のお言葉は嬉しかった。 演奏姿勢がお美しかった。ピシッとしていらっしゃった。それでいて強弱自在な流麗なピアニズム。あのふっくらしたお優しい御手から、どうしてあんな強い音が出てくるのだろうと、讃嘆したものだった。 きょう見つけた録音は個人録音らしいので、もしかすると後日削除されてしまうかもしれない。山岡優子先生は生の演奏を聴かせることを信条としていられたのか、レコード録音が市販されていない。このYouTubeの演奏が、NHKアーカイヴのCDとともに誰でもが聴けるただ二つの録音かもしれない。どうぞ削除されませんように。https://www.youtube.com/watch?v=92vgwc17PYE
Apr 28, 2018
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明け方近く、私はまだ眠りの中にいたが、耳には雨音が聞こえていた。夢とも現ともつかない頭に不意に歌がうかび、頭の中で歌っていた。 「フォージングダウン シソーシャライ フォージングダウン シソーシギン フォージングダウン シソーシャライ フォージングダウン シソーシギン ヘイシキズンバ ズンバ ズンバ ヘイシキズンバ ズンバジ ヘイシキズンバ ズンバ ズンバ ヘイシキズンバ ズンバジ ウイヤ ハッ! ウイヤ ハッ! ウイヤ ウイヤ ウイヤ ハーッ!」 私は目を覚ました。そして我ながら驚いた。夢うつつに頭の中で歌っていたこの歌は、私が八総鉱山小学校6年生の夏、猪苗代湖畔の長浜旅館を宿舎にした湖畔学校で、夕食後の余興で歌ったことを思い出したのだ。男女数人ずつのグループに分かれ、私のグループは高橋先生にこの歌をおしえてもらった。どこかの小民族の雨乞いの歌。高橋先生はボーイスカウトだったとかで、ボーイスカウト愛唱歌らしかった。私たち4,5人はたった一度きりの練習で覚えてしまった。みんなが私を酋長に指名した。簡単に段取りを決め、寝床のシーツを体に巻きつけ、・・・ああ、セリフも思い出した。 酋長「ビントゥタンレー サッショウニカ!」 一同「ロンテニカー ロンテニカ」 酋長「ビントゥタンレー サッショウレイ!」 一同「ロンテニカー ロンテニカ」 そして上記の歌を歌い踊った。 思い出した歌詞が正しいかどうか心もとない。なにしろ67年前の予行演習なしのただ一度きりの余興だった。夢うつつに聞こえる雨音が、この67年前の「雨乞いの歌」を思い出させたのであろうか。雨乞いどころではない、もういいかげん梅雨が明けてもよさそうなものだが。
Jul 21, 2024
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私が日劇ミュージックホールの最後のファンのひとりだったと書いたが、日劇ダンシングチーム(NDT)にも記憶するダンサーはいる。当時、西川純代さんは大御所的存在だったし、立川真利さんや鹿島とも子さんがトップダンサーだった。男性では、いまやマツケン・サンバの生みの親として人気があるらしい真島茂樹さんは、たしか茂夫という名前で、やはりトップダンサーだった。 このブログをご覧の若い方々は御存知ないかもしれないが、オヒョイこと藤村俊二氏や白石冬美さんもNDTの出身である。NDTのメンバーのなかでは大先輩格になるのではないかと思うが、山口滋氏については、私は三島由紀夫の戯曲『アラビアンナイト』の出演者として拝見している。日生劇場での公演だった。北大路欣也が主演した。現在新派を背負って立つ、2代目水谷八重子氏がまだ水谷良枝として助演していたが、彼女もたしか日劇のレビュー出身ではなかったか。 日劇レビューのテーマソングのようになっている『ビギンザビギン』は、越路吹雪のショーで歌われたのが最初だそうだが、越路吹雪は私のただ一人のスターだ。日生劇場のリサイタルやミュージカルで彼女のナマの歌声を聴いている。 越路吹雪のリサイタルのチケットは、発売初日に完売となったというのは、決して誇張された伝説ではない。私が学生の身でチケットを入手できたのは、なんと、越路さんのマネージャーだった岩谷時子氏の招待客用の取り置きを、つてを介して譲ってもらったのである。もちろん最上の席であった。 学生の分際で、私はこの日は、日生劇場内のレストラン『アクトレス』に幕あいの時間を予約し、上等なワインとフランス料理のデイナーをとることにしていた。仕立てたばかりのピーコックブルーのスーツを着たりして。 日劇レビューは見ていないのに、松竹歌劇団(SKD)のレビューは見ている。浅草国際劇場がその本拠地だった。私はSKDの大看板だった川路竜子や春日野八千代を実際に見ているのだから、われながら天晴れと言いたい。ふたりのキリリとした容姿のみならず、圧倒的な舞踊はいまでも目蓋によみがえる。 SKDの呼び物のひとつに屋台崩しというのがあった。時代劇のなかで貴人の邸宅などが炎上し、舞台に組まれたセットがガラガラと崩れるスペクタクル・シーンである。私はすこしばかり演劇の舞台裏を知っているが、このようなセットの仕掛けが如何に大変かを思い、圧倒されたものだ。 またもうひとつの呼び物はラインダンスで、そのチームはアトミック・ガールズと称した。30人ほどのダンサーが一列にならび互いの腕をからませて、「アトミック・ガールズ!」と合唱する。その迫力たるや、ゾクゾクとさせれるほどで、次には高々と脚をあげるのだったから、私はもうそれだけで嬉しくなった。 パリにはシャンゼリゼ通りのリドやフォンテーヌ街のレフィーユドゥヴなど、有名なキャバレーがあって、質の高い大人のレビューを見ることができる。どうせなら少し張り込んでシャンパンをもってこさせて、美しいフルートグラスを傾けながら、お色気たっぷりのレビューを楽しむわけだ。しかし、東京では日劇レビューもSKDも消えていまや4半世紀になる。子供っぽいディスコティクはあっても、すぐれた技術力で圧倒するかつてのレビューのようなショーを見せるところはなくなってしまった。私がそれを楽しんだのは、大人になってからではなく、まだ少年気を残していたころだったのだから、妙なもんだ。「大人」がいなくなったのかもしれないな。つまり、私たちの世代が大人になりきれなかったということか。 ウ~ン、吐いたつもりの唾が自分にふりかかってきたぞ。
Feb 16, 2006
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過日さる映画関係者と酒を酌み交わしながら談笑し、話がキャスティングの苦労話になった。そして、武士の体つきは、実際はどんな格好をしていたのだろうという。日頃から武術の鍛練をしていれば、筋骨は引き締まって逞しかったであろう。剣術なら、肩や腕は相当発達していたにちがいない。それでは下半身はどうであろう。 そこで私は、マラソンランナーの脚がヒントになりはすまいかと思った。現在のように移動手段として車があったわけではない。どこへ行くにもほとんどの場合、脚を使った。江戸から京・大阪へ、あるいは長崎へ。日本国中を徒歩で旅したのだ。健脚という以上のものだったのではあるまいか。 私の家がある所はいわゆる新撰組の里である。土方歳三の生家はそれほど遠くない。昔の言い方だと武州多摩郡石田村(現・東京都日野市石田)。近藤勇の生家も近いとは言えないが遠くもない。土方歳三は剣術の稽古のため、早朝に家を出発して、途中、高幡不動尊境内の山中で一度稽古をしてから甲州街道を歩いて、現在の新宿区市ヶ谷甲良町の天然理心流剣術近藤道場に通った。近藤勇が道場主の養子になっていたからである。その距離、片道およそ27km。毎日通ったのではないだろうが、現代の我々の脚など到底およびではない。彼の身長は5尺5寸(約165cm)だったという記録があるから、現代人男性にくらべると小柄である。また、同じ頃の坂本龍馬の旅の足跡をさぐってみると、どうしてそんなことが可能だったのだろうと思うほど、短期間に江戸・京・大阪・長州(山口県)・熊本等々をめまぐるしく往来している。私がとりあえずは健脚・強脚というしかない彼らの脚を想い、マラソンランナーを連想したとしても、現代ならこれよりほかの人は思いつかないのだ。 幕末期のこれらの人物は写真ものこっているけれど、その写真から裸体を知ることはできない。 日本の美術史には裸体像の項目がない。裸体像がまったくないかというとそうではない。鎌倉室町時代の絵草紙には、庶民風俗のなかに、裸を晒しているすがたが見られる。あるいは江戸時代の浮世絵春画(枕絵)に。しかしそれらはリアリズムの目で観察され描写された裸体ではない。いうならば裸体という概念で抽象化された裸体である。 浮世絵春画はポルノグラフィーであるから当然裸体像が主体になるのだが、それはいわば性戯の技術論であって、恋愛の精神性にはほとんど関心を示さず、モデルの個性に目をむけられているのでもない。 私は常々不思議に思っていることのひとつは、葛飾北斎などが女性器の構造を解剖学的に精細に描写したり、歌磨などが、あまりに巨大なので西洋人を瞠目させた男性器のリアルといってよい描写をしているにもかかわらず、なぜ肉体の全体的な美には意識がおよばなかったのかということだ。 このことに気がついたのはずいぶん昔だが、それ以来、さまざまな書物でさぐってきたが、ついぞ言及に出会わなかった。ところが海外には、その日本的特徴に気がついている人がいた。マルグリット・ユルスナルが『三島あるいは空虚のヴィジョン』のなかで次のように書いている。 「日本美術はエロティックな版画においてさえ、西欧におけるような裸体の讃美というものをついぞ知らなかったのだ。」 それでは、エロティックな春画のなかの日本人の肉体はどのように表現されているのだろう。 歌磨が描く性戯のさなかの男の背中は、西洋裸体画では明確に描出されている背骨さえ示されず、鍛練された様子もシェイプアップされた様子もない。それは躰の輪郭だけを描いた一つの抽象で、はみでた脇毛だけが奇妙に具象的だ。あるいは、北斎や國芳に代表されるアクメ(オルガスムス)にある女の吊り上がった目、ひっくり返った眼球、硬直して内側に曲げられた足の指。 これらは確かに裸体の讃美としての表現ではなく、男女性器の末端的関係を暗示するものだ。究極の目的がそこにあるところの、いわゆるポルノグラフィーである。しかも使用済みティッシュペイパーの散乱を描くなどは、西欧のポルノグラフィーにはまったく見られない表現だ。つまり、おどろくべきことに、春画は達成された性交回数や時間の経過を表現するという特徴をそなえているのである。私が先に「技術論」と言ったのは、そういうことだ。裸体美はまったく問題外なのである。 日本においては古来、農耕神(豊饒神)との関係から性器崇拝を含む男性の肉体を神聖視する伝統があった。今日なお各地に残る裸祭に見られるとおりである。しかしそのことが古代ギリシアのようにある美的規範にのっとって肉体を鍛練し、形成するということとはつながらなかった。裸祭に参集する肉体は、日常性を露にした農夫の肉体であり、漁夫の肉体であり。商人の肉体であった。ここで神聖視された男性の裸体は、西欧の裸体美とはまったく異質のものである。 先日私が古書店で購入したビゴーの『日本素描集』(清水勲編、岩波文庫)には、かなりの点数で日本人の裸像が載っている。入浴風景であったり、温泉場の混浴風景である。フランス人のビゴーには素裸で、しかも男女が一緒に温泉につかる風景は衝撃的だったにちがいない。 ジョルジュ・ビゴー(1860-1927)は浮世絵に魅せられて明治15年(1882)に来日、日本婦人と結婚し(離日時に離婚している)、1899年に帰国するまで17年間滞在し、日本人が目をむけなかったさまざまな風俗に取材した数多くの風刺画を描いた。 ビゴーの目には体毛のない日本人の裸体が美しく映ったのかもしれない。しかし、彼の目が西欧のリアリズムに培われていることは、春画ではないけれど、「不倫の喜び」というタイトルのまさに床入り寸前の男女ふたりは、モデルの個性が醜くもはっきり表現されているのである。 彼は自分のアトリエで日本の着物をきて、日本人女性をモデルに裸体画を制作することもあったらしい。西欧と違い、当時の日本には美術のためのヌードモデルという職業はなかったので、ビゴーが特別に懇請してモデルになってもらったのだろう。彼女はおそらく、裸なんかを描くヘンな外国人と思ったことだろう。裸体に関する文化的な意識の違いを、ビゴーは明確に意識していて、ヌードを描く自分自身を戯画的に描いている作品もある。 ビゴーは、明治28年、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品された黒田清輝の『朝妝(ちょうしょう)』と題された絵画をめぐるスキャンダル事件の風刺画も描いている。その黒田の絵は、鏡に向って長い黒髪を梳く、全裸の日本女性の全身立像だった。日本の公衆の前に発表された初めての裸婦像である。 黒田清輝(1866-1924)は、法律の勉強をするためにフランスへ行ったのだが、帰国したときには画家になっていた。フランスの美術アカデミーで熱心に裸体画を勉強して西洋美術における裸体画の重要性を認識し、日本美術のなかに新しい一歩を築こうとしたのだった。私の手許には彼がフランス滞在中に描いた『裸婦』というタイトルのフランス人女性像の複製がある。リアリズムの目で丹念に描きみずみずしい裸婦像となっている。とはいえそれは上半身だけで、下半身の処理には相当苦労したらしい様子がうかがわれ、なんとなくまとまりが悪い。----このことは私にはとても興味深いことに思われるのだが、自国の文化のなかに裸体を讃美する伝統がないということは、いざ実際のモデルに対しても、どのように捉えどのように処理してよいか当惑するだけなのだろう。どうも個人の意識だけの問題ではなそうなのだ。 しかし、黒田の『朝妝』スキャンダル事件から12年後の明治40年、日本美術の裸体像は、ひとつの傑作をもつことになる。第1回文展に出品された新海竹太郎の石膏像『ゆあみ』がそれである。明治の女の全身裸体像。新海竹太郎は古代ギリシャ彫刻や、それを模倣した古代ローマ彫刻を研究したらしい。『ゆあみ』もあきらかにカピトリーノ美術館の『ヴィーナス』をヒントにしていることが窺える。しかしながら、それはまぎれもない日本女性の裸体である。日本人の裸体が美として誕生したのだ。 ところで冒頭に述べた武士の肉体、もしくは概して日本人の肉体のリアルな様子について、私は『ビゴー日本素描集』のなかで編者の清水勲氏が意外なことを書いているのを知った。 幕末に日本にやってきたペリー提督の著書『日本遠征記』のなかに、ハイネが描いた絵が挿入されている。その絵に日本人の裸体像があり、それによると男女ともにみな裸体が若々しく、女は豊満で、男は筋肉隆々なのだという。ハイネはそうした日本人の裸体の美しさにいたく感動したらしいのである。さらにもうひとつ資料があり、同じく幕末に来日したスイス人エメェ・アンベールの『絵で見る日本』に、クレポンという画家が「江戸の風呂屋」という挿画を描いていて、それは非常にリアルな日本人の裸体画像なのだそうだ。 どうやら浮世絵春画に見られるのっぺりした日本人の裸体像は、西欧人のリアルリズムで描いた絵によって、印象を訂正されそうである。日本人の裸体の美を発見したのは西欧文化というのは早計だろうか。⚫️ 本稿の英訳を別ブログに参考画像をつけて掲載しました。(2025年7月8日)山田維史の青空日記・遊卵画廊
Apr 5, 2006
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映画『ゴジラ』(1954年、東宝)で、特撮用のゴジラの着ぐるみを造形作家のデザインに基づいて制作した開米栄三(かいまいえいぞう)氏が亡くなられた(4月24日)。享年90。 私は公開年から1年後に『ゴジラ』を観ている。2作目の『ゴジラの逆襲』も観た。10歳の映画経験を懐かしく思い出しながら、開米栄三氏の御逝去を追悼します。 ちなみに、この着ぐるみに入りゴジラを演じたのは故中村春雄氏。中村氏は2017年8月に亡くなった。画面に顔が現われないスーツアクターとして、しかしゴジラ俳優として世界中のゴジラ映画ファンに知られている。 御両人のご冥福を祈ります。 In the movie "Godzila" (1954, Toho), Mr. Eizo Kaimai,who made Godzila costume for special effects based on the design of the modeling attist, died (April 24).90 years old. I watched "Godzila" one year after the re;ease year.I also Watched the second film "Godzila's Counter-attack". In my memory of the 10-year-old movie ex-perience, I mourn the death of Mr. Eizo Kaimai. By the way, it was the late Mr. Haruo Nakamura whoplayed Godzila in this costume. Nakamura died in August 2017. It is known by Godzila movie fans all over the world as a suit actor whose face does not appear on the screen, but as the Godzila actor.R.I.P for the two men.Tadami Yamada
May 4, 2020
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誰でも知っている政治家某氏の政治手法をわかりやすく解析すれば次のようになる。 ▼ 嘘から始める → その嘘を大きくする → 法的な権力や裁判所を使って、法で強制しようとする → それが失敗すると、先の嘘をさらに不快げに塗り重ねてゆく → 暴力に発展する → それによって不正をしやすくする(ここまで来るとすでに社会は麻痺状態になっているか、迎合する者が出てきてカルト(cult)化し、不正の根元の排除が非常に難しい。迎合は、一般庶民が問題なのではなく、現代においてはむしろ巨大資産を有する寡頭テクノロジストであることが重要なのである。巨大資産家にとって、寡頭政治体制、独裁政治体制は、非常に都合が良いのである。金で操りやすいからである。なお、「嘘」は意識的なものもあるが、無知なことも多い。また病的な自己愛・自己執着による他人への無関心と無頓着の場合もある。)山田維史 「嘘嘘嘘-暴力」 ポスター 2026年Tadami Yamada "LIE-LIE-LIE-FORCE" Poster 2026.
Sep 24, 2026
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強い雨をともなった台風25号。被害にあった方々や地方には、お気の毒なことだった。私のところは雨こそ激しかったが、今朝は、そんなことがまるでなかったかのように朝日がのぼり、雲のあいだにすっきりした青空がのぞいた。久しぶりに洗濯物を干した家庭も見受ける。 私の血圧管理帳の日付の上にちょいとメモしている天候を見ても、この9月は晴の日がほとんどない。めずらしい月間天候なのではないだろうか。 昨日、しばらくぶりに大学時代からの旧友S夫妻にメールを差し上げたら、そのお返事に、雨の中をジムに行ったとあった。なんとも感心するやら、その元気さを羨ましく思うやら。私も、もちろん元気で、毎日のように半日は仕事場で執筆しているのだが、知人が元気でいるのはこの歳(81歳)になると嬉しいものである。 いやね、若い頃には気づかなかったが、この頃では、知人に連絡しようにも一歩手前で何となく躊躇するのですよ。歳をとったら交際を控えたほうがいいという人がいるけれど、そして私の周囲にもそのように実行している人が少なくないのだが、・・・私はその考えには賛成しない。少なくとも、私の方からはね。相手がそう言う考えなら、別です。私は、まあ自分の性格で、ピタッと未練なく断絶するほうだ。 身構えに台風それて朝日さす 青穹(山田維史)
Sep 22, 2026
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独裁者の歌私は独裁者貴方は独裁者おお私は独裁者あの方は独裁者あの方も独裁者おおあの方も独裁者我らは独裁者世界の独裁者おお我らの世界独裁者はいつも仲良し独裁者は気があうぜさあ肩を組みましょう国民なんて馬鹿者だ国民は独裁者の飯の種国民なんて糞食らえ国民なんて嘘で丸めろ国民なんて銃で脅せ国民なんて戦場に送れ反抗したら殺してしまえ国民は蛆のように湧く国民なんか気にかけるな独裁者、独裁者、独裁者私は独裁者この世はすべて私のもの私だけがこの世に幸せ幸せは不幸者がいてこそ口笛吹いてランララン独裁者は歌うランララン銃をぶっ放せランララン物みな奪ってランララン私は独裁者貴方は独裁者おお私は独裁者あの方は独裁者あの方も独裁者おおあの方も独裁者我らは独裁者世界の独裁者おお我らの世界 (作:山田維史)The Dictator's SongI am a dictatorYou are a dictatorOh, I am a dictatorHe is a dictatorHe, too, is a dictatorOh, he, too, is a dictatorWe are dictatorsDictators of the worldOh, our worldDictators always get alongDictators are kindred spiritsCome, let us link armsThe people are foolsThe people dictator's meal To hell with the peopleFool the people with liesThreaten them with gunsSend to the battlefieldKill anyone who resists.To hell with the people.They born up like maggots.Dictator, dictator, dictatorI am a dictatorThis world belongs to meI alone happy in this worldHappy because of the wretchedWhistling a tune, *la-la-la*The dictator sings, *la-la-la*Fire the guns, *la-la-la*Plunder everything, *la-la-la*I am a dictatorYou are a dictatorOh, I am a dictatorHe is a dictatorHe, too, is a dictatorOh, he, too, is a dictatorWe are dictatorsDictators of the worldOh, our world (by Tadami Yamada)
Sep 26, 2026
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秋雨長雨台風 罪なくも憎まれて雨雨の秋 青穹(山田維史) いい加減にしろ! 罪深く秋草踏みつけ男哉山田維史 「雨滴と自画像」 1998年8月3日 紙に鉛筆と水彩Tadami Yamada "Self-Portrait with Rain Drops" Aug. 3, 1998. Pencil and watercolor on paper
Sep 23, 2026
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英詩における押韻については、自分の勉強のためにこのブログに何度か断片的に書いてきた。しかし古典英詩の規則については、あまりにも複雑で、いきおい解説も専門的にならざるをえないので、書かずにきた。 ところがとても興味深い詩をみつけた。わずか10行の詩なので日本語に翻訳してお目にかけることは容易だが、その詩の意味するところを知るには、やはり古典的英詩のリズム(韻律)について予備知識が必要である。 みつけた詩は、18世紀から19世紀半ばにかけてのイギリスで、当代きっての思想家にして詩人サミュエル・テイラー・コウルリジ(Samuel Taylor Coleridge; 1772-1834)が書いたもの。英詩におけるリズム型そのものを説明しているのだが、つまり、「いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府」などと記憶するあのようなものだ。とはいえ私がひどく面白がり舌を巻くのは、それが単なる説明ではなく、一行一行の詩が、説明しているリズム型になっているばかりか、全部で10行のその詩そのものもまた見事な押韻詩になっているのである。 私は、様式がさらなる様式のなかに入れ子のように組み込まれていたり、一つの隠喩がさらなる事態の隠喩となって空間拡張してゆくような、いわば知的なゲーム性をそなえた事が大好きだ。そんなわけで、このコウルリジの詩にいたく感心してしまった。 それでは、そのコウルリジの原詩をお見せし、その後に日本語に翻訳し、さらにその後に英詩におけるリズム型について述べることにしよう。 by ColeridgeTrochee trips from long to short;From long to long in solemn sortSlow Spondee stalks; strong foot! yet ill ableEver to come up with dactyl trisyllabe,Iambics march from short to long ---With a leap and a bound the swift Anapests throng;One syllable long, with one short at each side,Amphibrachys hastes with a stately atride; ---First and last being long, middle short, AmphimacerStrikes his thundering hoofs like a proud high-bred racer.トロキーは旅する長から短へ。荘重な性格なので長から長へゆっくりゆっくりスポンディーは堂々と歩む; 強い脚! 病気でもやれる。いつか三音節ダクタルを創り出すイアンビクスは行進する短から長へ---。一足飛びに敏捷なアナペストたちが押しかける一つの音節は長く、その両側にはひとつづつ短く。アムフィブラチスは急ぐ堂々と大胆に---最初と最後は長く、真中は短く。アムフィメイサーはその雷鳴とどろく蹄を打鳴らす、誇り高い純潔種の競争馬のように。 日本人のわれわれには、単語本来のアクセントの強弱とその組み合わせによって、句としてどのような性格をもつようになるかは、なかなか理解しがたいものである。コウルリジのこの詩は、英詩における歩格の意味をおしえているわけだ。 さて、古典的英詩は二つの構成要素から成り立っている。一つはMeter(メター:韻律、歩格)で、二つはPattern(パターン:詩型)である。 【Meter】 メターについては以前このブログの2006年6月4日の日記で説明したことがある。詩のメター(韻律、歩格)は、詩脚(foot)のもつリズムと詩脚の数によって決定される。そしてリズムは音の強弱に基づく。ただし古典においては音の長短に基づいている。 歩格については先のブログを参照していただくとして、ここではリズムの型とそのリズムが単位となる詩行(verse)について述べる。コウルリジの詩のなかにその名称が出て来ているので、その順番に列記してみよう。 リズムの型 ---trochaic (強弱格、 古典;長短格) ---spondee (強強格、 古典;長長格) ---dactylic (強弱弱格、 古典;長短短格) ---iambic (弱強格、 古典;短長格) ---anapestic (弱弱強格、 古典;短短長格) ---amphibrachys (弱強弱格、 古典;短長短格) ---amphimacer (強弱強格、 古典;長短長格) 以上のリズム単位が詩行(verse)に幾つあるかによって、次のような名称が与えられている。 詩行 ---monometer (1歩格) ---dimeter (2歩格) ---trimeter (3歩格) ---tetrameter (4歩格) ---pentameter (5歩格) ---hexameter (6歩格) ---heptameter (7歩格) ---octameter (8歩格) ---nonometer (9歩格) そして、英詩は通常、上のリズム型と詩行との分類を組み合わせて成り立っていて、iambic pentameter (弱強(ないし短長)5歩格)とか、dactylic hexameter (強弱弱(長短短)6歩格)のように言う。 コウルリジの詩の言葉の強弱を見てみよう。便宜上【強】[弱]で記述する。申すまでもないが、強弱とは単語のなかの母音のアクセントである。【強】の部分を強く発音し、[弱]の部分は弱く発音する。それによって読みにリズムが出て来る。T【ro】[chee] t【ri】ps f[ro]m 【lo】ng [to]【sho】rtF[ro]m 【lo】ng [to]【lo】ng [i]n 【so】[le]mn 【so】rtS【lo】[w] S【po】n[dee] s【ta】lks; St【ro】ng 【foo】t! 【ye】t 【i】ll 【a】[b]le(4行目以下、略)【Pattern】 次にもう一つの要素、Pattern(詩型)について述べる。詩型とは押韻のパターンと上述した歩格のパターンの組み合わせである。音楽の作曲基本法に、たとえばaa'bb'のようなパターンがあるけれど、それに似たような押韻のパターンと考えればよい。それによって詩型に名称があたえられている。 ◆Couplet; カプレット(二行連句)---押韻;aa ◆Quatrain; クァトレイン(四行連詩)---押韻;abab ◆Heroic couplet; ヒロイック・カプレット(英雄詩体二行連句)---押韻;aa、bb、cc---(連続する二行ずつが押韻する5歩格の対句詩型) ◆Rhyme royal; リム・ローヤル(帝王韻詩)---押韻;ababbcc(この順に押韻する弱強5歩格の7行詩) ◆Sonnet; ソネット---14行(13行の場合もある)弱強5歩格であるが、特に最初の8行をoctave(オクティヴ)、最後の6行をsestet(セステト)といい、この形式が厳密に保持されなければならない。ソネットはさらに押韻形式によって、◆Petrarchan sonnet; ペトラルカン・ソネット(あるいはイタリアン・ソネット---押韻;abbaabba cdecde. と、◆Shakespearean sonnet; シェイクスピアリアン・ソネット---押韻;abab cdcd efef gg. とがある。ソネットが英詩において最も魅力的といわれるのは、この厳密な形式の美しさによる。 このほかに、英詩にはフランス詩を源とする、やはり厳密な次の詩型がある。 ◆Ballade; バラード---8行句3節と4行のenvoyと呼ばれる連から成り、各節とenvoyはみな同一リフレイン(繰り返し文句)で終わる。 ◆Villanelle; ヴィラネル(田園詩)---19行2韻体。 ◆Rondeau; ロンドー---2韻10行あるいは13行から成り、詩の最初の語が2度リフレインする。 現在、日本のポピュラーソングのなかでバラードという言葉はしばしば使われる。あるいは、「バラードが好きだ」とか「バラードを歌う」などと言う。この「バラード」が、元はといえば上述のようにきわめて厳密な詩型なのである。 ところで英詩の韻には男性韻とよばれるもの、女性韻とよばれるものがあるので、ついでに述べておく。 男性韻(Masculine rhyme)というのは、詩の行末の単語の最終音節にアクセントがあることをいう。そのような韻をふむ単語の例をあげれば、 complain---comp【la】in、 dislain---dis【la】in 女性韻(Feminine rhyme)というのは、アクセントのない音節で終わる二重韻。もしくは三重韻。 notion---【no】tion、 motion---【mo】tion fortunate---【fo】rtu-nate、 importunate---im【po】rtu-nate 以上、古典的英詩の理解のための私の覚書である。
Dec 26, 2008
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ことしは巳年である。すなわち蛇の年。・・・そこで、絵画にあらわれた蛇を見てみることにする。ヨーロッパ美術史には、蛇に関する主題がいくつかある。大雑把ながら次に実例をあげてゆこう。『旧訳聖書』に〈青銅の蛇〉が登場する。モーゼに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、途中で苦しみに耐えかねて不満を爆発させる。すると神は炎の蛇を投げ込み、蛇は民に噛み付き多くの死者が出る。モーゼが祈ると神は「青銅の蛇をつくり旗竿に掲げよ。噛まれた者は、その青銅の蛇を仰げば生き返る」と仰せられた。モーゼはそのとうりにし、民は死から救われた。 以後「青銅の蛇」はユダヤ王国で崇敬されたが、ヒゼキヤ王(紀元前715-同687)の時代に破壊されたとされる。ミケランジェロ(1475-1564, イタリア)『青銅の蛇;システイナ礼拝堂天井画』1511年。ヴァチカン。 しかし蛇はキリスト教のなかに生き残り、癒しと贖罪の象徴としてイエスの象徴(予型)となり、また脱皮を繰り返すことから復活の象徴となった。この蛇の象徴はキリスト教正教会の主教の杖(権杖)に具現している。アンドレ・ブルトン(1896-1966, フランス)『教会の卵(蛇)』フォト・モンタジュー、1932年。 中央奥に司祭帽をかぶった顔、その前に女が挑発的な姿態を誇示して、あたかも捧げ物のごとく横たわっている。女がよりかかっているのは主教の権杖である。 「純潔な魂を持った処女は、キリストの婚約者となることができる」と言ったのは、4世紀の聖メトディクス。この言葉を支えているのは、女性は色欲の誘惑によって悪徳を具現し、信仰否認の手先として悪魔に近い存在である、という信念だ。教会にとって女性は「魔女の卵」だった。 ブルトンは、LE SERPENT(蛇)と副題を書いている。蛇は誘惑者であるが、このフランス語は悪魔と同義だ。彼はこの作品で、エロティシズムとは、禁止と侵犯との親密な関係により保証されていることを示す。そして先述のように蛇は主教の権杖に再象徴化されている。 衆知のように蛇はアダムとイブの堕落の象徴。アダムとイヴが人間として「死ぬべき運命」を背負ったため、蛇は死の腐敗の象徴ともなっている。「死ぬべき運命」の対極に「イエスの復活」がある。これがキリスト教の構図。 蛇が男根象徴でもあることは言うまでもなかろう。アルブレヒト・デューラー(1471-1528, ドイツ)『堕落』 木版、1511年。マサッチオ(1401-1428, イタリア)『誘惑』 フレスコ、1426-27年。 サンタ・マリア・デル・カルミネ、ブランカッチ教会。フローレンス。 アダムとイヴを描いた15,16世紀の絵画では、人頭の蛇として描かれているものが多い。作者不明『罪により此の世に死が来る』 上記のようにアダムとイヴが「死すべき運命」であることを表わす、新約聖書ロマ書第5章12節の記述に依拠した図。作者不詳『最後の審判』モザイク壁画、12~13世紀。サンタ・アッサンタ大聖堂。イタリア。 煉獄の火で焼かれている場面。右下には蛇に食い荒らされる頭蓋骨。ツヴォルのラムとして知られる版画家の作『生の無常のアレゴリー』銅版画に手彩色、1480-90年頃。 墓の中で腐敗してゆく肉体。屍体の口に蛇がもぐりこんでいる。ゴシック様式のアーチの中に、十戒を記した銘板を持つモーゼ。 こうして蛇は、キリスト教において清濁あわせもつ象徴となっているが、それとは別に古代ヘレニズム文化圏では、自らの尾を呑み込む蛇ウロボロスが、自己完結と世界の完全性の象徴となり、それを基盤としてやがてヘルメス学・プラトン主義の発展とともに中世以後は、錬金術の象徴学のなかで「宇宙」の象徴ともなってゆく。錬金術の哲学である「相反するものの一致」として、あらゆる対立概念の解消がウロボロスによって象徴的に表現されるのである。死と再生、破壊と想像、男と女、陰と陽、永劫回帰、不老不死、宇宙の根源・・・等々。『ウロボロス』図『蛇がまきついた宇宙卵』 "OVHIS et OVUM, MUNDANUM" の插絵。 さて一方で、蛇にまつわる主題として「クレオパトラの死」がある。クレオパトラは蛇に乳房を咬ませて自殺したとされる。画家たちがこの主題に関心を示すのは、歴史的な関心からではない。エロティックな想像がはたらくからだ。ドメニコ・ブルサソルチ(1516-1567, イタリア)ギド・レニ(1575-1642, イタリア) 最後に謎の肖像画を掲げよう。イタリア、ルネッサンス時代の実在した女性の肖像である。シモネッタ・ヴェスプッチ(1453頃-1476)は、「麗しのシモネッタ」と呼ばれていた。ジェノア出身で、フロレンスのマルコ・ヴェスプッチの妻だった。夫のマルコは探検家にして地図製作者のアメリゴ・ヴェスプッチの遠従兄である。 彼女はたいへんな美人で、ボッティチェリの『ヴィーナス誕生』は彼女の面影を写しているとボッティチェリ自身が(まことしやかに)主張している。それはともかく、ここに掲げる肖像画に、作者のコジモはどういうわけか彼女の首に蛇をまきつけて描いている。シモネッタが死んだとき画家はまだ14,5歳。実際に彼女をみかけたことがあるかどうか。その頃彼女はフィレンツェの宮廷でジュリアーノとロレンツォのメディチ兄弟の胸を焦がし、結果、ジュリアーノの愛人になったと言われる。後の大画家コジモも、足許に寄れる状況ではなかったはず。だとすると、この肖像は・・・ 謎はみなさんでお解きいただくことにいたしましょう。ピエロ・ディ・コジモ(1462-1521, イタリア)『シモネッタ・ヴェスプッチの肖像』 パネルに油彩、1480年頃作。
Jan 3, 2013
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ベートーヴェン第9交響曲「合唱」の最初の完全レコーディングをYouTubeで聴いた。 1923年の録音である。ベートーヴェンが第9を完成したのが1824年なので、99年後に初めてレコード盤として発売されたわけだ。ちなみにトーマス・エジソン(i847-1931)が蠟管蓄音器を発明したのが1877年である。 YouTubeにこの録音をアップロードした人はおそらく音楽関係者あるいは研究者ではないかと私は推測する。というのは、このレコードについてのデータに遺漏がないからだ。つまり私のような単なる音楽好きにとっても記録が明確になり、こうして安心して引用記事が書けるのである。しかもそのレコード盤の画像を掲載しているので、そのレーベル画像から、私はさらに確認のための資料を探索できた。 指揮者ブルノ・ザイドラーヴィンクラー(Bruno Seidler-Winkler;1880-1960)についてウィキペディア英語版に当たってみると、次の記述があった。すなわち、「In 1923, when he left Deutsche Grammophon, the first complete recording of the 9th Symphony by Beethoven.(1923年、彼はドイツ・グラマフォンを去るにあたり、ベートヴェンの第9交響曲の最初のレコーディングをした)」 まさにYouTubeにアップロードされた録音が、ウィキペディアが記述しているレコード盤である。レコード盤画像のレーベルはシャルプラト・グラマフォン(SCHALLPLATTE“GRAMMOPHON“;グラマフォンレコード)、そしてDEUTSCH(ドイツ)の文字も読める。 以下にYouTubeのこのページのURLを掲載するが、ついでに演奏者情報も書いておく。指揮者;ブルノ・ザイドラーヴィンクラー(Bruno Seidler- Winkler)ソプラノ;エテル・ハンザ(Ethel Hansa)アルト;エレノーラ・シュロザウア(Eleanor Schlosshauer)テノール;オイゲーン・トランスキー(Eugen Transky)バス;アルベルト・フィッシャー(Albert Fischer)合唱;ベルリン国立楽団合唱団(Berlin Stautskapelle)演奏;新交響楽団(Neues Symphonie-Orchester)1923年 ベルリンに於いて録音ベートーヴェン「合唱」最初のレコード I listened to the first complete recording of Beethoven's 9th Symphony "Chorus" on YouTube. Recorded in 1923. Beethoven completed the 9th in 1824, so it was first released as a disk 99 years later.By the way, Thomas Edison (1847-1931) invented the phonograph in 1877. I presume that the person who uploaded this record-ing to YouTube is probably a music concerned or re-searcher. That's because the data about this record is complete. In other words, even for a mere music lover like me, the record's identification becames clear, and in this way I can write a quated article with confidence. Moreover, since the image of the disk is posted, I was able to search for further confirmation materials from the label image. About the conductor Bruno Seidler-Winkler (1880-1960), when I hit the English version of Wikipedia, therewas the following description. That is, "In 1923, whenhe left Deutsche Grammophon, the first complete recording of the 9th Symphony by Beethoven." The recording uploaded to You Tube is exactly the disk described by Wikipedia. THe label of the disk image can read the characters of SCHALLPLATTE "GRAMMOPHONE" and DEUTSCH (Germany). The URL of this @age on YouTube is posted below, but the performer information is also written. Conductor; Bruno Seidler-Winkler Soprano; Ethel Hansa Alyo+ Eleanor Scholosshauer Tenor; Eugen Transky Bass; Albert Fischer Chorus; Berlin Stautskapelle Performance; Neues Symphonie-Orchester Recorded in Berlin in 1923Tadami Yamada
Jan 23, 2021
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きょうの朝日新聞朝刊に天声人語士が「香り」をめぐって書いていられる。コロナウィルス禍で閉じこもりがちなときにインドネシア産の線香を焚いた、と。「ああ、私も同じことをしていた」と私は思った。天声人語士は、つづけて本間洋子氏の著書『香道の文化史』を紹介している。 香道、あるいは香りの文化に関する本は、近年のアロマ・セラピーなどの流行の影響もあるのか、ひところに比べると多いように思う。 私の書棚にも一冊の稀覯本がある。 杉本文太郎著『香道』。昭和5年(1930)に雄山閣より刊行された。その後、太平洋戦争を挟んで長らく絶版になっていたが、昭和44年に限定300部が再刊行され、さらに昭和47年(1972)にやはり限定300部が再々刊行された。私が所蔵するのは再々刊行された300部のうちの一冊である。 再刊本ではあるが、版型体裁は元のままである。昭和5年版に昭和44年版に付加された志野流家元・蜂谷宗由氏の序文と御家流家元三条西堯山氏の序文が収載されている。香道二流の家元が序文を寄せるだけあって、本書の内容は香道について微に入り細を穿つもので、後学のために挙げた著者が参考にした書籍もまた綿密である。すなわち、宮内省図書寮所蔵書26、内閣文庫所蔵本17、大学図書館所蔵本5、帝国図書館所蔵本21。そのすべてが貴重な古写本である。無論、書名を列記し、分冊の場合はその旨と冊数を書いている。さらに著者は「再び参考書籍に就いて」を草し、八方手を尽くしたが実物書を見ることができなかった古書籍について、後に朗報を得て所蔵者の好意によって30数日間の読解研究をし、それによって香道全般について著者として満足できる本ができたとある。 私は本書によって「源氏香」の種類と、そのそれぞれの香木の組み合わせを知ることができた。「源氏香」はそれぞれ算木の組み合わせのような記号で表されており、その意味を知らなければ「源氏香」を知ることにはならない。ということは、日本文化のなかの「香合わせ」の、いわば奥行きを知ることにもならない。その感覚の鋭さを偲ぶこともできない。その源氏香を含めて組香とその仕方226通りの詳細。これを嗅ぎ分ける「遊び」。それが香道である。函に巻かれた帯に「香道入門」とあるが、香道の奥の院の扉を開けることだと承知する。いわゆる一般的な概説書ではない。 本書について詳しく述べる余裕はないが、せめても外装の画像だけでも掲載しておこう。杉本文太郎『香道』 昭和47年限定300部 雄山閣刊銀刷絹目紙貼り函題字および装画金版金箔捺し布装。A5判本文404頁このスキャン画像では白っぽく反射しているが、実物は金箔である。
Jul 22, 2024
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三が日が過ぎた。早い早い、今年も残り362日だ。ハハハハ。 三が日オリオン天に輝けり 青穹(山田維史) 疾く来たり疾く去りゆくや去年今年
Jan 4, 2025
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米国のドキュメンタリー映画作家フレデリック・ワイズマン氏が逝去された。享年96。 私は2019年6月に、現在はない神田神保町の岩波ホールで「エクス・リブス ニューヨーク公共図書館」を観た。すばらしいドキュメンタリー映画だった。フレデリック・ワイズマン氏はこの映画を撮影するために12週間、この図書館で過ごした。私はこの映画によってニューヨーク公共図書館の活動を知り、敬服した。このブログの2019年6月5日の日記にその鑑賞について書いている。 私は昔、ニューヨーク公共図書館に実際に行ったことがある。当時で6,000万冊を所蔵していた。ワイズマン氏の映画の中で図書館員が言っている。この図書館は単なる書庫ではない。「民主技の柱」という理念をゆるぎない信念として行動している、と。この確固とした信念をもって図書館スタッフのみならず民間支援者は幅広い活動をしていることを、ワイズマン氏はあますところなく映像として記録していた。映画作家として思い込みなどひとつもない。まさにドキュメンタリー作家として徹底的に「見る人」であることを、私は感じたのである。3時間25分の長尺なのだが、その緊密な構成にも驚く。 フレデリック・ワイズマン氏のご逝去を悼みます。
Feb 18, 2026
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山田維史 「核戦争警告ポスター準備絵」 2013年 ディジタルコラージュTadami Yamada "Preparatry illustration for NUCLEARWAR WARNING Poster" 2013, Digital collage
May 18, 2026
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6月に入った。もう6月かと思いながら、夏日のような暑さに汗を拭き拭きデスクに向かっている。 先日、隣家の夫人が「紫陽花が咲いていますね」と、我が家の玄関先の紫陽花を指差された。「貧しい咲き方です」と私は言った。紫陽花に対しては随分ひどい言い方だったが、じつはこのとき私は妙なことに気づいていた。この紫陽花は神代植物園由来の「ガクアジサイ」。他の紫陽花のように大きな饅頭のように花(じつは紫陽花の花と言っているのは「萼」なのだが)が咲くのではなく、花がまるで額縁のように一列に円周を縁取る。・・・それで、私が気がついたことというのは、花が毎日一つづつ時計回りに咲いているのである。隣家の夫人がご覧になったとき、まだ半周目くらいだったのだ。 この時計周りの咲き方がこの植物の特性であるか否かを、私は確信をもって述べることはできない。日当たりなどのせいで、たまたま時計回りに咲き出したのかもしれない。・・・私は、「ふ〜ん!?」といった調子で見ていたのである。 さて、私に「貧しい」と言われた紫陽花が、すっかりガクアジサイの「本来」の姿に咲いた。紫陽花は水を大変吸う。日差しの強い暑い日がつづくと朝夕の灌水が欠かせない。夕方の水やりをしたついでに撮影した。2026年6月1日 撮影 ドクダミ(十薬)ドクダミも白い花と見えるのは萼である。その十字の中央に蕊のように立っているのが花穂である。ごくごく小さな黄色い花が密集して塔のように立っている。小さな素描山田維史 「紫陽花」 1991年 紙に鉛筆Tadami Yamada "Hydrangea" 1991, Pencil on paper
Jun 1, 2026
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長雨で日照不足なので農作物が心配だ。日照不足の影響を受けやすい作物は多い。トマト、人参、大根、じゃがいも、胡瓜、茄子、キャベツ、レタス、ピーマン、ほうれんそう、小松菜、白菜、水菜等々。要するに特別な野菜類では全然なく、どの家庭でも日常的に使われているものである。家庭ばかりではない。レストランや飲食店でも同じである。 私は自分で毎日三食を、まあ、わりとちゃんと料理しているので、店頭の野菜売り場が現在どんな状況にあるかを知っているつもりだ。この9月のような降雨状況は、洪水被害や土砂災害への影響だけではないのである。洪水被害や土砂災害は、「防災」の意識や行政によってある程度は制御できる部分もあろうが、深い経験と知識によって自然に寄り添いながら統御している農業は、「防災」が可能であるとは私には思えない。農業従事者でない私は農業の最も深いところは知らないので、一般的な感覚で物を言っているが、さて、長雨の日照不足対策はあるのだろうか? 長雨や秋のみのりを押し流し 青穹(山田維史)山田維史 「手の中の手 ー 私の手シリーズ No.3」 2001年 ディジタル・コラージュTadami Yamada "Hand in Hand ー My Hand series No.3" 2001. Digital collage
Sep 20, 2026
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