ジョージ・ガーシュインは本名ジェイコブ・ゲルショビッツ。( George Gershwin 、 1898 年 9 月 26 日 - 1937 年 7 月 11 日)父はロシアからのユダヤ移民でニューヨークじゃ皮なめしだった。ガーシュインはブルックリン、イーストサイドの貧民街に住んでいた。画家のベン・シャーンもリトワニアカウナスからの移民でイーストサイドに住んでいた。ユージン . メニューヒンもイーストサイドだった。私の母は少年時代のメニューヒンのコンサート聴きにいったことを自慢してた。
ユージン.メニューヒン
20世紀最高の天才たちの圧倒的多数が旧ソ連圏のユダヤ村出身者だという。
その後天才の宝庫がニューヨークに移動していった。
どの人も超正統派ユダヤ人だった。ボブデイラン
俳優のカーク・ダグラスの両親もロシアで起きたポグロムを生きるか死ぬかで逃れてきたユダヤ人農奴だった。
カークの父は屑屋さんだった。カークは父親の手押し車の後押しをして育った。東欧のユダヤ人は父の皮なめしを手伝いながら育ったって人だらけである。あるいはイデッシュ新聞売りながら育った。
東欧の超正統派ユダヤ人は極貧から叩き上げ、すでに富裕層になってたドイツユダヤ人と合わなかった。
カーク・ダグラスはリズ・テイラーの3番目の夫マイケルトッドと仲良しだった。マイケルはポーランドユダヤ人でカークもマイケルもお互い極貧層出身だったので気が合った。
ガーシュインが初めてクラシック音楽に触れたのは小学生のときに聴いたドヴォルザークの「ユーモレスク」だという。父親は、ジョージが 12 歳の時、兄に音楽を学ばせようとピアノを買ってやったが、文学者肌の兄はピアノを弾かず、ジョージがピアノを弾きだした。
1919 年の歌曲「スワニー」で、人気歌手アル・ジョルソンに気に入られて彼が繰り返し歌ったことからヒットし、人気ソングライターとなる。
『スワニー』の誕生と成功
1919 年、21歳の時『スワニー』を作曲。作曲は極めて迅速に行われ、 30 分足らずで完成したと言う。
1920 年代以降は、作詞家となった兄アイラ・ガーシュウィンと組んで、レビューやミュージカル向けに多くのポピュラー・ソングを送り出した。ガーシュウィン兄弟によって作られ、後年までスタンダード・ナンバーとして歌われている歌曲は『私の彼氏( The Man I Love )』『バット・ノット・フォー・ミー』『アイ・ガット・リズム』などをはじめ、おびただしい数に上る。
クラシックにも取り組み、 1924 年『ラプソディ・イン・ブルー』( Rhapsody in Blue )は世界的に評価された。
1937 年 7 月 9 日に脳腫瘍のため 38 歳没。
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