おそらく、ブルース・リーが『不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)』に最初に触れたのは、鈴木大拙の『禅と日本文化(Zen and Japanese Culture)』の英語版であろうと思われます。 ≪千手観音とて、手が千御入り候はば、弓を取る手に心が止まらば、九百九十九の手は皆用に立ち申す間敷、一所に心を止めぬにより、手が皆用に立つなり。観音とて、身一つに千の手が何しに可レ有候、不動智が開け候へば、身に手が千有りても皆用に立つと云ふ事を、人に示さんが為めに作りたる容にて候。假令一本の木に向ふて其の内の赤き葉一つ見て居れば、残りの葉は見えぬなり。葉ひとつに目をかけづして、一本の木に何心もなく打ち向ひ候へば、数多の葉残らず目に見え候。葉一つに心をとられ候はば、残りの葉は見えず、一つに心を止めぬば、百千の葉みな見え申し候。是を得心したる人は、即ち千手千眼の観音にて候。然るを一向の凡夫は、唯一筋に、身一つに千の眼が何しにあるらん、虚言よと破り讒る也。今少し能く知れば、凡夫の信ずるにても破るにてもなく、道理の上にて尊信し、佛法はよく一物にして其理を顴す事にて候。諸道ともに斯様のものにて候。神道は別して其道と見及び候。有の儘に思ふも凡夫、又打破れな猶悪し、其内に道理有る事にて候。此道彼道さま/\〃に候へども、極所は落着候。扨初心の地より修行して不動智の位に至れば、立帰て住地の初心の位へ落つべき子細御入り候。貴殿の兵法にて可レ申候。初心は身に持つ太刀の構も何も知らぬものなれば、身に心の止まる事もなし、人が打ち候へば、つひ取合ふばかりにて、何の心もなし。然る處にさま/\〃の事を習ひ、身に持つ太刀の取様、心の置所、いろ/\の事を教へぬれば、色々の處に心が止まり、人を打たんとすれば、兎や角して殊の外不自由なる事、日を重ね年月をかさね稽古をするに従ひ、彼は身の構も太刀の取様も、皆心のなくなりて、唯最初の何もしらず習はぬ時の心の様になる也、是れ初と終と同じやうなる心持にて、一から十までかぞへまはせば、一と十と隣になり申し候。調子なども、一の初の低き一をかぞへて上無と申す高き調子へ行き候へば、一の下と一の上とは隣りに候・・・ (原註)この事は私に百足の話を思い出させる。百足が、どうしてそんなにたくさんの脚を、一時にそろえて動かすことができるのか、と尋ねられた時、その問いが百足を「止め」て、それについて考えさせた。この「止る」ことを考えることが、脚の間に大混乱を起して、めいめい勝手に動こうとした。百足はそれで命を失った。荘子の渾沌の話も、これにかんして、はなはだ興味があろう。≫(鈴木大拙著・北川桃雄訳『禅と日本文化』「第四章 禅と剣道」より)