ペット喜怒哀楽

ポストコロニアリズム

ポストコロニアリズム
書名 : ポストコロニアリズム
著者 : 本橋哲也
出版社: 岩波新書 \777

感想 : 2005.7.9二つ目日記に掲載

面白かった文書:
* ヨーロッパ語最初の文法書がスペイン語だったとは! ネブリハによる「カスティリャ語文法」1492.8.18

* 支配者にとって、文法とは、国内と国外の臣民が話す言語を植民地化する道具となる。
なぁるほど。他言語の人間に教えるには文法からね。今の外国語学習の一つの方法。 正しい表現、つまり優れた言語、だから優れた文明、だから学ばせる、すごい論理だぁ。でも日本もやったしなぁ。文法書はたしかに植民地主義に役立った。そしてスペイン語の文法書が一番先にできたってところが、大航海時代のトルデシリャス条約の...

* カリベ(食人種?) テレザに出てきたあの画家の名前?
  カーニバリズムは、他者を一方的に野蛮化して否定する論理。
  イギリスはアイルランド人をman eaterと呼んで、おとしめた。

* ファノンにとって、心の解放と社会の革命とは同一平面上の課題だった。

* 暴力とは常に相互的なものである。すなはち他者から自分に向けられるものであると同時に、解放のために他者に対して自分が公使するものとなる。被占領者にとって暴力は、銃と爆弾による破壊であるとともに、新たな身体と心とまなざしを獲得する手段でもあるのだ。たしかに現在の「平和」な日本に生きる私達にとって、「あらゆる暴力に反対」というのはやさしい。しかしそうした言い方には次のような二つの疑問を感じる方もいるのではないだろうか。ひとつは自分達のその「平和」がだれか他の人々の苦しみや戦争による犠牲で成り立っているのではないかという疑い。もう一つは、「あらゆる暴力に反対する」という姿勢が、植民地支配に代表される圧倒的な暴力を容認し、社会的な差別や抑圧を温存させてしまう結果になるのではないか、という疑問である。こうした問いに対してファノンならば、おそらくこう答えたのではないだろうか。自己の解放は他者の解放なしにはあり得ない。少なくとも植民地解放闘争においては、弱者の暴力だけが相互の解放をもたらす手段であると。むろんそこからいったん植民地からの解放が成し遂げられた後で、軍隊や兵器をどのようにして箒し、暴力の連鎖を断つのかという重大な問題が生じるだろう。20世紀のほとんどの植民地解放闘争がこの混んだ意に前に躓き、政治的に独立した国家権力が今度は暴力を自国の民衆の抑圧のために用いてきた。ファノンの暴力論の舎弟はこの問題にまで届いていただろうか? 少なくともここで言えることは、彼があくまで暴力を大衆の精神的解放の手段として考えていたことだ。

* 「新たな全的人間」とは何か。それは筋肉と頭脳が分離せず、刻々と変化する日常の闘争的現実の中で、他者の搾取を拒否しながら自民族の建設に従事する労働者にして知識人のことだ。また、民族文化の独自性に信頼を置くことで、インターナショナルな共生を目指す人間のことである。近代ヨーロッパは、その人間主義を自分達にだけ適用して、他者に対する差別を構造化してきた。ファノンは、そのような植民地主義的差別にもとづく偽のヒューマニズムを拒絶して、新たな人間主義を立ち上げようとする。



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