東方見雲録

東方見雲録

2022.08.31
XML
カテゴリ: 土木



水害の原因は自然の力だけではない。それを指摘したのが江戸時代後期の越後・新発田藩の地理学者、小泉蒼軒(そうけん)(1797~1873年)だ。当時の越後平野は村上、長岡、新発田など諸藩が持つ領地が入り乱れる「小藩割拠」の状態だった。領地ごとにばらばらに行われている治水や乱開発が原因としたのだ。

 新潟県立歴史博物館の学芸員、田辺幹さんによると、蒼軒は1842年に記した治水論「蒲原郡水害の記」で、村や郷ごとに土地を囲う堤を作ったり、蛇行する川の河川敷を開発して流れを変えたりした結果、川幅が狭くなり、水害が起きていると指摘。「水が本来持つ性質や流れ方」などを意味する「水道の実理」に反した川の利用を批判した。

 統一的な治水策を求めた蒼軒は2年後に記した「大河津堀割損益略」で分水路の必要性を説いた。分水路に関する地元の請願は江戸時代中期が始まりとされているが、蒼軒の提唱がその後の流れを作ったともされる。
(略)
分水路を求める声はやむことなく、その行方は紆余(うよ)曲折する。新潟県議などを務め、分水路実現に尽力した田沢実入(みのり)(1852~1928年)は、1881年に発表した「信濃川治水論」で「(分水路が)一、二の洋人の為めに一朝にして蹂躙(じゅうりん)せられるを憤慨」などと外国人技師を厳しく批判。翌年には請願活動のための組織「信濃川分水会社」(後に信濃川治水会社)を設立する。

実入は内務省職員として分水路工事に関わり、採石工事の主任などを務めた。分水路の完成を見届けるように、通水翌年の1923年、内務省を辞している。
(略)
大熊名誉教授は「分水路は越後平野の豊かな実りや文化を生み出した」と評価するが、その後、全国で進められた大型ダムや生態系を壊すコンクリート護岸などの治水事業は、開発が行き過ぎたと警告する。頻発する豪雨災害で治水のあり方が改めて問われる現代。自然の摂理に反した川の利用を批判した蒼軒や、土木技術を地道に吸収した実入の姿から、学ぶべき事は多い。(抜粋)

引用サイト:毎日新聞 こちら





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2023.04.15 19:17:09
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: