東方見雲録

東方見雲録

2024.01.12
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カテゴリ: 文化
神仏分離の思想の醸成(国学や水戸学等)

平田篤胤

日本本来の文化についてや日本の宗教についてを研究する動きが江戸時代に広がります。
本居宣長に代表される国学と言うものです。
本居宣長の弟子の平田篤胤はさらに日本に古来からある神道の姿を求め研究を重ねます。
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平田は儒教・仏教をまじえない日本固有の古代の神の道を説く復古神道を提唱しました。

神々の子孫である天皇を絶対の存在とし、その天皇が率いる日本が他の国や文明より優れていると主張しました。

この考えは幕末の志士たちに強い影響を与え、幕末の尊王攘夷運動や明治時代初期の宗教政策にも大きな影響を与えました。

神仏分離令とは|神仏分離の目的や廃仏毀釈等への影響をわかりやすく解説


津和野藩の藩主亀井茲監、福羽美静らが主導となって、 神仏分離令
その目的は以下のものであったと考えられます。

祭政一致・国家神道の確立
国家をまとめる宗教の体系化、国家を精神的に一つにまとめる(神仏判然令の数日前に布告されたものにも見られる)
徳川の時代の否定
徳川幕府の時代に人民の管理をする役所のような働きをしていた寺院からの支配権の奪取や、思想的な改革
明治政府が動き出したときは、西欧列強に負けないように、国をまとめ上げる為に行ったと考えられています。

大教宣布の詔
これは国家神道を確立するための法律です。
明治政府は神仏分離を進めるために、神祇官と言う神道の宣教師達による神道の国民への教化を推し進めます。

今も残る大教宣布の詔の名残
建国記念日(2月11日)  【当時は紀元節】初代天皇の神武天皇じんむてんのうが即位した日
文化の日(11月3日)   【当時は天長節】明治天皇の誕生日

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神仏分離令に端を発し、その他にも神道を中心とした国造りを行おうとした明治政府でしたが、結果は失敗に終わります。

失敗に終わっただけでなく、日本の寺社にあった莫大な量の貴重な文化財がほんの数年で失われました。
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廃仏毀釈の運動を受けて仏教は強く反省を迫られました。


ヨーロッパにも留学した島地は信教の自由を訴えます。

また、所属していた浄土真宗の改革も推進しました。
彼の運動は明治政府による大教宣布(神道国教化政策)を挫折させ、仏教に力を取り戻させました。
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明治政府によって国教とされた神道のことを 国家神道 または神社神道とよびます。

神仏分離令で神と仏が明確に分離された後、多くの神社は国の管理下に置かれ、天皇家の祖先神とされる伊勢新宮を頂点に全国各地の神社がランク付けされました。

この国家神道は日本が第二次世界大戦に敗北するまで続きました。
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破壊された寺院や仏像の保護
1878年、東京大学から招かれた美術研究家がアメリカ人のフェノロサでした。
彼は寺院や仏像が破壊されている現状にショックを受けます。
現在、海外に流出している日本美術品の多くはこの時期に外国商人に売却されたものです。
フェノロサは事あるごとに日本人に対して、日本文化のすばらしさや日本美術の魅力を説きました。

彼の同志となった岡倉天心とともに日本画家の指導・育成に力を尽くしました。
参考サイト: こちら こちら こちら
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神社の合祀
江戸幕府が政権を明治政府に返還し、明治政府は天皇の元首とした国家体制の形成を目指します。

その一環として明治政府は神社を「国家の宗祀」として位置づけ、神道の社会的地位を確立しようと考えました。

日露戦争後の地方改良運動が神社合祀を進めた
日本は明治37年(1904)2月から明治38年(1905年)9月にかけて日露戦争を経験します。一年半以上にも及ぶこの戦争で日本という国はたいへんに疲弊していました。

終戦直後には「地方事務ニ関スル注意参考事項」として町村に関する地方改良事業が示されます。

その内容には部落統合財産の確立の障害となる神社の統廃合や地方の祭礼や休日の廃止による労働効率化があります。

神社合祀政策を正当化するために挙げられた理由は主に3つ
神社合祀政策の目的

経済論
これは神社の数が減れば住民の負担が軽くなるとするものです。
神社を廃止し1つの神社に集めることで、住民の支出も抑えられるのではないかと考えるのが経済論です。

敬神論
神社を廃止し1つの神社に集めることで、神社設備が充実し崇敬者の神社に対する畏敬の念も増すのではないかと考えるのが敬神論です。

神社中心説
神社を廃止し1つの神社に集めることで、同一氏子地域が広がるため広範囲の住民が融和して団結が強くなると考えるのが神社中心論で、神社合祀により強固な住民自治が確立すると主張されました。
このような考え方が論じられた理由として、当時の政府官僚は東京帝国大学法学部の出身者が多く、そのような人々はドイツに留学することが多くあったことが挙げられます。ドイツでは教会を中心としたまちづくりが行われており、これを理想として日本に持ち込んだ時に教会の役割を担わせたのが神社だったのです。

引用サイト: こちら
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合祀反対運動
氏子・崇敬者の側としては、反対集会を開くこともあったが、主として大きな運動もできず、合祀によって廃された神社の祭神が祟りを起こしたなどと語る形でしか不満を示すことはできなかった。

とはいうものの、この合祀政策は、博物学者・民俗学者で粘菌の研究で知られる南方熊楠ら知識人が言論によって強い反対を示した。南方は、合祀によって①敬神思想を弱める、②民の和融を妨げる、③地方を衰微する、④民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する、⑤愛国心を損なう、⑥土地の治安と利益に大害がある、⑦史跡と古伝を滅却する、⑧天然風景と天然記念物を亡滅すると批判した。こうした反対運動によって次第に収束して、帝国議会での答弁などを通して、1910年(明治43年)以降には急激な合祀は一応収まった。しかし、時既に遅く、この合祀政策が残した爪跡は大きく、多数の祭礼習俗が消えてしまい、宗教的信仰心に損傷を与える結果となった[要出典]。
引用サイト: こちら





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Last updated  2024.01.12 07:00:10
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