東方見雲録

東方見雲録

2024.01.12
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カテゴリ: 文化
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』、『大辞泉』、『大辞林』は、「八紘一宇」とは第二次世界大戦中、日本の中国・東南アジアへの侵略を正当化するスローガンとして用いられたと記す[5][6][7]。『日本書紀』には、大和橿原に都を定めた時の神武天皇の詔勅に「兼六合以開都,掩八紘而為宇」(六合〈くにのうち〉を兼ねて以て都を開き、八紘〈あめのした〉を掩いて宇〈いえ〉と為す)との記述があり、これをもとに田中智学が日本的な世界統一の原理として1903年(明治36年)に造語したとされる。

このように、『日本書紀』の記述は「八紘為宇(掩八紘而為宇)」であるが、1940年(昭和15年)8月に、第二次近衛内閣が基本国策要綱で大東亜新秩序を掲げた際、「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国(ちょうこく、建国の意)の大精神に基」づくと述べ、これが「八紘一宇」の文字が公式に使われた最初となった。近衛政権が「八紘一宇」という語を述べた西暦1940年は皇紀(神武紀元)2600年に当たり、「八紘一宇」は1940年の流行語になり、政治スローガンにもなった。1940年の近衛政権以来、教学刷新評議会の「国体観念をあきらかにする教育」を論ずる中などで頻繁に使用され、「大東亜共栄圏の建設、延いては世界万国を日本天皇の御稜威(みいづ)の下に統合し、おのおのの国をしてそのところを得しめようとする理想」を表明するものとして引用使用された。
引用サイト:Wikipedia情報   こちら
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『日本書紀』
上は乾霊(あまつかみ)の国を授けたまひし徳(みうつくしび)に答へ、下は皇孫(すめみま)の正(ただしきみち)を養ひたまひし心を弘めむ。然して後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩ひて宇(いえ)にせむこと(引用者註、漢文では掩八紘而為宇)、亦可からずや。観れば、夫(か)の畝傍山の東南の橿原の地は、蓋し国の墺区(もなかのくしら)か。治(みやこつく)るべし。
現代語訳を引けば、「上は天神の国をお授け下さった御徳に答え、下は皇孫の正義を育てられた心を弘めよう。その後国中を一つにして都を開き、天の下を掩いて一つの家とすることは、また良いことではないか。見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の真中である。ここに都を造るべきである」(宇治谷孟訳)となる。

わかりやすい現代語訳があるのに、あえて原文の書き下しを引いたのはなぜか。それは、八紘一宇という四字熟語がそのまま出ているわけではないということを知ってもらうためだ。
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世界人類を還元し整一する目安として忠孝を世界的に宣伝する、あらゆる片々道学を一蹴して、人類を忠孝化する使命が日本国民の天職である、その源頭は堂々たる人類一如の正観から発して光輝燦爛たる大文明である、これで行り遂げようといふ世界統一だ、故に之を「八紘一宇」と宣言されて、忠孝の拡充を予想されての結論が、世界は一つ家だといふ意義に帰する、所謂「忠孝の延長」である、忠孝を一人一家の道徳だと解して居るうちは、忠も孝も根本的意義を為さない、「根なし草」の水に浮べる風情である、忠孝を以て人生の根本義とするところに日本建国の性命はある。 (『日本国体の研究』)
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神武天皇が述べた「八紘を掩ひて宇にせむ」は、せいぜい東征ののちは平和的に日本を統治しようというていどの意味だったと考えられる。それがまさか、世界統一の話になろうとは。『日本書紀』の編者たちが知ったら驚くにちがいない。
引用サイト: こちら

田中智学  Wikipedia情報   こちら

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日本軍の航空基地に掲げられた「八紘一宇」の旗印。航空兵に対し「肇国の精神」実現のスローガンになっていた。

関連日記:2024.01.12の日記 神仏習合   こちら
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Last updated  2024.01.12 17:26:23
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