東方見雲録

東方見雲録

2025.01.24
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カテゴリ: 郷土
黒田セリの由来

黒田セリの黒田とは、江戸期の黒田村の地名による。明治 39 年刊の「法吉名勝案内」には「昔、大字黒田、未次の平地は宍道湖より続く一帯の沼沢にして、これに繁茂する野生の芹夛かりしを取りて栽培せしに始まり其期源凡そ今を距ること 170 余年以前に在り」と記されている。さかのぼると、松江藩第 5 代藩主松平宜維の時代であり、宜維は有用植物の奨励をはかり、「宜維の助言により、野生種のセリを改良栽培し今日も黒田セリとして有名である。」(角川日本地名大辞典) とある。

宝歴年間に著わされた「雲陽大数録」には、各地の名産として、薦津芹、岡本牛房、大井芹などとあり、薦津芹が黒田芹のことと云われている。島根県立農事試験場臨時要報第 14 号には「小林金太郎、森 善太郎両氏の祖先卒先して栽培を試みたり、然れども当時、他の農家は冬季厳寒の候水田に入りて採収するは生命を短縮するもの、として久しく両家の他栽培するものなかりしと云う」とあるように藩政時代には、限られた栽培面積であり、藩主や家臣の食用で一般には、栽培、食用とも明治維新以降に広まったものとされている。

藩政時代のセリ栽培は、連綿と続いたであろう品種改良の努力の他、収穫作業は「冬季厳寒の候水田に...」とあるように、素手素足での採取であり、地区内にある大井戸から水を桶に汲み、膝までつかる、湯桶に腕を入れて暖をとるということがなされたが、草鞋、手足に甲掛、更に足には爪掛 (ワラ製の足袋) へと進み、明治初期には木製の田靴 (長靴) が考案され、明治末期頃には空の肥桶も利用された。
大正初期にはセリ田靴 (ブリキ製)、湯沸し桶が登場して、収穫作業は格段に楽になったようである。ゴム製の長靴は昭和 6 年頃より使用され始め、田舟の一端に湯沸桶をのせセリを獲っては湯で暖をとる、ということが近年まで続いた。
引用サイト: こちら


江戸時代には黒田村と呼ばれていたこの地域一帯は当時広い湿地帯で、野生のせりがたくさん自生していました。当時のお殿様による有用植物の生産奨励を受けて、その野生せりが改良されて黒田せりが生まれたそうです。明治時代以降に盛んに栽培されるようになり、昭和の時代には野菜売りのおばちゃん達が松江市内を回って売り歩いたり、少し前までは関西方面にも出荷されたりしたという、地域自慢の野菜です。アクが少なく香りが強い黒田せりには、北大路魯山人*から「日本一」の折り紙を付けられたというエピソードも残っています。
引用サイト: こちら


松江市黒田町の野津宏三さん(85)は、地区で江戸時代から続く伝統野菜「黒田セリ」を20㌃で栽培する傍ら、次世代につなぐため栽培農家の育成に力を注いでいる。黒田セリは、かつて沼地だった地区で群生していた野生のセリを改良したもの。冬場の野菜として栽培され、「セリ田」での収穫風景は冬の風物詩だった。「昔、冬場の青い野菜といえばセリだった。香りが良く、おでんや鍋の食材としてもよく使われ、市外や県外へ出荷していた」と野津さん。 


引用サイト: こちら

松江の冬の味覚「黒田セリ」  動画   こちら





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Last updated  2025.05.28 22:40:40
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