東方見雲録

東方見雲録

2025.04.03
XML
カテゴリ: まちづくり

身を捨てても武士が本領を守った理由
あえて答えるとすれば、一つに「本領の大切さ」を強調する方向があると思います。平安時代の昔から、武士の本質は「在地領主」であることに求められました。一生懸命の語源になったという「一所懸命」。これは一つの所に命を懸ける、と言ったことを意味します。それこそ本領の名を家の苗字として名乗り(伊豆北条の北条氏とか、三浦半島の三浦氏とかですね)、その土地を命がけで守ってきました。土地は「不動産」。いつまでも変わらない財産です。適切な労働を投下すれば、毎年、稔りをもたらしてくれる。いっぽうで自分のものも含めて、人間の生命は「動産」でした。限りがある。だから身を捨てても永遠の財産である本領を守るわけです。

本領から引きはがされるのは辛い
こうした武士の思いを前提に契約されたのが、主従の関係です。従者は主(あるじ)に命を捨てて奉仕する。主人はその代償として、従者の「家」の本領を安堵し、新たな「本領」となる土地を与える。武士たちは自身が討ち死にしても、不動産によって支えられた家が繁栄する限り、祖先として祀ってもらえる。そんな信念があるからこそ、武士は苛烈に戦えたのです。そして、こうした武士の本質を思えば、本領から引きはがされることは、たいへんに辛い。そもそも右も左も分からぬ土地で、具体的な「統治するもの―統治されるもの」の生産関係を構築するのも実に面倒なものですが、長年の本領、「父祖の地」から引き離されることは家康にとって、精神的にきつかったことでしょう。
引用サイト:本郷和人 なぜ「220万石」の秀吉が、関東「250万石」を家康に与えたのか?  こちら

関連サイト:【徳川家康の関東移封】栄転か?左遷か?天下取りの礎となった本拠地移転 こちら


封建制度の特徴は、天下人に絶対的権限があることだ。当時、大名の中では最も力をもっていた徳川家康でも、秀吉の命令一つで大名の地位を簡単に奪われたのである。城を立派にして秀吉ににらまれたらクビになっても当然の時代であった。

家臣の住む場所さえなかったその時点の江戸城下の範囲は、城の周囲と日比谷入江沿岸周辺に限られ、後に江戸の中心部となる現在の千代田区や中央区の一帯で宅地になる部分は案外に狭かった。こうした状況の江戸に入った家康の直属部隊にとって、宿営地の確保と飲料水、食料の確保は緊急の課題だった。

旧領地から東海道を下ってきた家臣たちの住宅問題も同じように深刻で、多くは近くの民家や寺院などを借りて妻子を住まわせたり、簡単な小屋程度の陣屋を建てて江戸城に通勤した。

また、重臣や城主クラスは、妻子を関東一帯の新知行地(ちぎょうち、家康から与えられた領地)に置き、自分たちは城の周辺に小屋をつくったり町屋をかりるなどして、勤務についていたのである。

家康の約130年前に江戸城を築城した太田道灌の武将としての地位は、封建領主ではなく精強な戦闘集団のオーナーに過ぎない。彼の軍隊の規模は、徳川軍団の有力部将配下の一部隊といったところだ。その本拠を徳川方の者が見れば、江戸城とその周辺は粗末な場末に見えたのは当然である。それほど道灌と家康の「規模」の差は大きかったのだ。




こちら

関連日記:2025.01.30の日記 風水都市 江戸   こちら
関連日記:2023.09.19の日記 江戸 水運   こちら
関連日記:2023.10.09の日記 江戸湊   こちら





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2025.04.03 13:33:37
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: